ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:福音伝道

 
  人間に分かる宗教(キリスト教について)
 
 
「神の前に何を捧げられるというのか。」
「感謝と讃美を。それだけを。」
「いつから、神を褒めるような理解者となったというのか。」
「神の前に恥ずかしくない言葉を。」
「神の前に恥ずかしくないほど罪のない汝がどこにいるというのか。」
「では、どういう祈りが相応しいのでしょう。」
「ただただ、正直であろうと努めること。それ以外に何があるだろう。」
 
 
百人のキリスト者、クリスチャンがいれば百種類のキリスト教があるというのが、人の世なのでしょう。キリスト者とはキリストの教えを守る者ではありません。守ろうと努める人であり、守れないことを心の底から最もよく知る人のことだと思います。
 
そうでなければどうして罪を知りえましょう。どうして救いを知りえましょう。キリスト者はキリスト者たりえないことを知ることによって初めてキリスト者たりうるのだと思います。非力ゆえに不可能が身にしみて、ようやく、人は、神の存在に気づくのです。
 
イエスキリストは神であり神の子として信じています。そして神は聖書により、またその人個人の人生において人を癒し慰め励まし導かれます。そのことを否定しようとは思いません。個人的に否定できないからです。
 
ではいったい人は何者なのでしょう。感じることも考えることも人の自由です。しかし神の導きを知りうるものではありません。聖なるもの、例えば神の導き・聖霊・神のお告げ・預言などは、人があれはそうである、あるいはそうであったと決められるものではない。
 
喜怒哀楽・思想・行為がいかに信仰に始まるものであっても、それらはすべて不完全な人間としてのものであることを弁えるかぎりにおいて、人に許されている自由であります。そういう人生を過ごせるように、祈りの信仰があります。
 
いかなる修道も信仰生活も伝道も、人が聖なるものに近づくためにあるのではなく、また人が聖なるものとして高められるためにあるのでもなく、信仰は、ただ、人間が人間であり、人間として成長するためであります。
 
何よりも神の前に正直であることが必要です。疑いをもったならば、それを正直に告白し祈るべきです。背教の念をいだいたならば、それをいだいたと正直に告白するべきです。神などいないと言いたくなったら、そう言いたいわけを正直に告白するべきです。
 
キリスト者はそのために祈りという、温もりと潤いに満ちた時と所が、情緒的で人間的な手段が、与えられています。すべてを見抜かれる神の前に、人もまた何事も隠さず告白する権利を与えられており、またその義務を知るべきである。
 
嘘のない、飾らない祈りを、好み、人にそれだけを求め、待っておられ、聞いておられるのは神であります。隠す必要がなく、正直に、伝え、祈り願う同伴を得ること、それが信仰であります。
 
真実を祈り求めることと、奇跡を探して見つけようとすることとは違います。後者はすでに神のわざが人間の目の届くところに人間の手の届くところに人間の知恵の及ぶところにあるという思い上がりです。
 
さらにそれを見たあるいは得たと思い込むことは、かえって目に見えない奇跡をそこなうことになるでしょう。そしてそのようなところに悪魔は好んで隠れ住もうとするのです。
 
魔術を捨てるべきです。悪魔に住みかを与えてはなりません。神秘の思い込みから離れるべきです。日常を疎かにして聖なる答えを探してはいけません。聖なる答えを口に出来ると思ってはいけません。聖なるものを自らに擬するのをやめるべきです。それらは神の持ち物です。
 
人間は生きている限りどこまで行っても、どれだけ修道しても、人間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが人間の誇り、キリスト者の誇りであり、救われる民である証しなのです。
 
 
御前(みまえ)に

御前(みまえ)に
 
 
(2021年10月30日、再録+)
 
 
 
  欠落の矛盾
 
茶色に変色し
いびつに変形して
またひとつ
脳細胞が死ぬ準備を始めている
脳が最も豊かな
神経細胞を有していた間に
それらすべてを使ったことがあったのだろうか
脳細胞の死によって
精神機能に欠落があっても
気づかずに過ごしている
脳の欠落が
欠落した脳に分かるだろうか
残された神経のネットワークが
補ってくれるのだけが頼りだと
探し始めている
細胞はともかく
どこか欠けたところ
こころこころと
堂々めぐりしている
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
 
 
楽山日記のコメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
「 
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 」
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。誰でもあることみたいに、一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
 
 
 
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  善悪2
 
 
何が正しくて
何が間違っているかなど
善悪の厳密な結論は
 
風さえも支配されるところの
神ならば分かるでしょうが
 
風を追うような私たちに
分かるはずはないのです。
 
 (伝道の書、口語訳)1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
 (伝道の書1:17、旧約聖書)
 
私たちは、ただ、懸命に考え、判断して、実行し、反省して
それを神様に正直に捧げる祈りの時を知っているだけなのです。
 
正しいか間違っているか
すなわち正邪というのは
風を追えない私たち人間にとって
判断に過ぎないのであって
そこに、信仰があるから云々とか、神の御心は云々とか
私たちが言葉を並べてみても不完全で
高が知れていると弁えるべきでしょう。
 
私たち信仰者が
何を人に伝えられるかと言えば
福音伝道と言いますから
聖書を読み神の寛容さのもとで
キリストの慈愛の同伴によって
祈ることで反省し成長する道を与えられたことに他なりません。
 
与えられていることは
否(いな)みようもないことですから
その通り、与えられたと言うしかありません。
それが福音なのです。
 
しかしながら
聖書の話や信仰の恵みについて
神がどうであるとかいったことは
私たちも多くを知らないのであって
この地上では分からないこととして
求道者と共有を目指すべきであって
 
まちがっても
知らない者に教えるという態度になってはいけません。
 
共感と共有だけが
人としての立場を弁えて目指せる目標であります。
 
つまり
福音伝道は
自他という人が主語であります。
 
人に共感の可能性を伝えるのであります。
神の導きと言えば、どのように?
神とはと言えば、どういう存在?
キリストはと言えば、どのように同伴?
という難題になりますが
 
自分という人間が
束縛された心から解放されたという話なら
信仰について話が出来るでしょう。
 
受けたことを伝える
この立場を守るならば
たとえ邪悪なカルトが
完全ではないことを罵(ののし)ってきたとしても
知らないことは知らないと言えるでしょうし
受けたことは受けたと言えるでしょう。
 
良心を持たないカルトは
実に思い上がっていて哀れむように見せかけて
軽蔑や嘲笑いを向けてくるでしょう。
そんなとき
"主を誇る" などと言ってもカルトには通じないでしょう。
カルトに何を言っても無駄です。
 
ただ信仰において気づいたこと
すなわち
神という絶対者を仰ぎ
キリストという救い主を好きになり
キリストの同伴を祈り願って
その大いなる存在に比べて
低く弱く小さくあることの幸いを知ったことを語るなら
その自覚が多くの束縛からの解放だったことを
改めて自らも知ることになるでしょう。
 
つまり余計な負けず嫌いや自尊過大がなければ
然(しか)りは然り、否(いな)は否と言えるでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:37
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
 (マタイ5:37、新約聖書)
 
そういうことをカルトは全く理解できないが
 
へりくだって真実を求める求道者の中には
共感が芽生えることがあるかもしれません。
 
そうやって自分もキリスト者になったことを
新たに自覚する機会にもなるのです。
 
そのようにして
信仰者と求道者双方に
恵みは続き
学習は続き
成長は続き
福音は宣べ伝えられてゆくのです。
 
善悪および正邪は人にとって
その時の良心の判断に過ぎません。
良心に基づいて行動しますが絶対ではありません。
 
しかし
神の前に努めて正直であることは
人間に出来る唯一の "神を愛すること" であり
神に救われる条件なのです。
 
ゆえに
正直な祈りに努めることは
神に対して
人間が出来る "唯一の正しいと言えること" なのです。
 
正直な祈り以上の良きものを
人が神に捧げることは出来ないのです。
 
決定的な優先順位を
人にとって曖昧な善悪や正邪ではなく
正直な祈りに置くのがキリスト者であります。
 
 
光と陰

光と陰
 
 
(2020年05月7日)
(2021年05月12日、再録+)
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びのほうを
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
(90年代か)
古い作については、どこに何度アップしたか覚えていないので、投稿が、繰り返しになるかもしれません。聖書を、少しは真面目に読んだ私という人間の言葉に過ぎません。失礼。
 
 
 
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