ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:空想と現実

 
  焼き切れる楽山
 
 『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著
 2021年11月28日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、どんどん支離滅裂になってゆくようです。しかも、病識がありません。その点、統合失調主に似ていますが、楽山は、そういう病気ではないのです。効く薬がない体質的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病気です。
 
シェリー・ケーガンは、人気の大学の哲学の先生だそうです(ネットより)。その人の、死とは何か、という本を読んで、楽山は、何を思ったか、結局、アニメの話をして、現実とフィクションを混同して結びとしているようです。
 
*魂の存在について
タイトルにひかれて本書を開いてみた。著者の言葉によれば本書の前半は魂は存在するのか? 死んだらどうなるのか? などについて、後半は死をどのように理解するかについて記したというが、日本語版では前半部分はほぼ省略されているとのことである。自分は前半のテーマにこそ興味があったのでこれは残念。
 
このように、書かなくていいことも、無駄に文字を費やして書いてきます。元々、死とは何かについて、考えてなどいないと思います。死ぬ前を知っていても、死んだ後が分からない人間には、考えても、結論の出ないことだからです。楽山も、一歩も進めないのでしょう。
 
でも、日本語版でも著者の魂についての考えは明らかにされているのは有り難い。著者は「非物質的な魂の存在を立証しようと試みるさまざまな主張」について、次のような結論に行き着いたという。
私の見る限り、それらを念入りに検討することはたしかに価値がある(魂という概念はけっして馬鹿げたものではないし、軽はずみに退けるべきではないから)。とはいえ、そうした主張は魂の存在を信じるのにふさわしい理由を提供することに成功していないのだ。
(『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳、文響社、2018年、p.27)
 」
理屈で考えれば、これは当然の結論であるように思う。
 
「魂」という言葉は、意味の広い、一方では、漠然とした言葉ですが、楽山にとっては、超常ホラーでの意味しか考えていないことが、今まで、明らかになってきました。その狭い概念把握だけで、「理屈で」「当然の結論」と評価してしまうところに自己満悦の訂正不能が表れているのです。
 
*「私」という存在
著者は、「私」の存続についても言及している。
けっきょく私が望んでいるのは、将来も存在し続けるということだけではなく、将来の私が、今の私がもっているものととてもよく似た人格を持っているということでもあるからだ。私はその人に、私のようであってもらいたい!
(同上、p.33)
 」
これも自分には興味あるテーマで、以前あれこれ考えたことがあった。
 
「あれこれ」を書けない楽山です。忘れたのでしょうか。今は、全体に、楽山が何かを考えているとは思えない経過です。
 
現在の自分は幼児期の自分のことはほとんど忘却しており、その頃の自分とは別人となっている、
 
「忘却し」たのに「別人」だと分かるのでしょうか。記憶の曖昧さを、忘却という言葉で表してしまう楽山の、文弱ぶりで、言論と表現についての理解の、浅さ、いい加減さが表れています。なのに、勉強もせず、学習効果もなく、執拗に書いて、自己満に浸ろうとする楽山です。
 
このことからみると仮に魂は永遠であったとしても、現在の自分と比べれば千年後の自分はまったくの別人となっていることだろう、魂は永遠でも自分は永遠でないなら、そこには一体何の意味があるのだろう?
 
急に話が「永遠」に飛んでいます。さらに「千年後の自分」?!だそうです。楽山の詭弁は、辻褄も合わせ損なっています。「魂は永遠でも自分は永遠でないなら」・・何も受け取っていない証拠でしょう。なのに「何の意味があるのだろう?」と批判でしょうか。滅裂です。
 
魂の永遠性など現在の自分にはどうでもいいことになるのではないだろうか? それとも現在の自分と千年後の自分はまったくの別人となっていても、そこにわずかでも連続性が認められればそれで自分は霊と同様に永遠だと満足すべきなのだろうか? などなど。
 
「自分には・・ないだろうか?」・・自分のことを、誰に、なぜ聞いているのでしょうか。そして、現在と千年後を比較しているつもりでしょうか、「連続性が認められれば」・・どうやって確認するのでしょう。「永遠だと満足すべきなのだろうか」・・滅裂は、滅裂の結論を生んでゆきます。
 
*トチロー
また著者は「私」は人格であるなら、将来その人格をアップロードできるようになったら、それも「私」と言えるかどうかについても論じている。これはキャプテンハーロックのアルカディア号と一体となったトチローはトチローと言えるかどうかという問題と通じるところがある。
 
トチローは、検索するとアニメに出てくる架空の人物ということで、娯楽と学問や宗教を、区別できず、思考において混同してしまう楽山の崩れ方です。楽山の知性・感性が、いかに、いい加減かが分かるでしょう。それにしても、唐突に、テーマの次元が変わってゆきます。
 
結局、アニメの話にしかなりません。ここで、アニメの話しているのに何言ってるの?とでも言いたいのでしょうか。フィクションとリアル混同は、楽山が、キリスト信仰を否定した時の筆致と似たようなもので、罠をかけて遊ぶ人だということになります。哲学もアニメも、いっしょの楽山です。
 
人を愚弄した者は、愚かだという結論になるのです。遊んだつもりで、遊ぶことしか出来なくなった人というレッテルを自分に貼ってゆく楽山です。哲学も、哲学者も、アニメも、いっしょにオモチャにして、侮辱してゆく自己愛の、身の程知らずの、路地裏のお遊戯模様です。
 
個人的な感覚ではオリジナルこそが「私」であって、コピーはコピーでしかないように思えるが、オリジナルは長い期間に変化して行き、ちがった存在になってゆくだろうことを思えば、コピーの方がかえって正しく「私」であるようにも思えてくるからややこしい。
 
コピーは云々・・と、自分のコピーを知っているのでしょうか。楽山には、アニメ、フィクション、空想と現実が混乱しているようです。こういう人が、哲学者を引用して、真面目ぶった記事を書いてくるのです。楽山は、小学生にも負けそうな、成長できなかった、貧弱な異常者です。
 
こういう現実化する可能性の低い仮定の問題はいくら考えても仕方がないことではあるが、「私」とは何かを考えるための思考材料としてはなかなかにおもしろい。
 
現実化ではなく、フィクション・創作であって、現実ではないのです。楽山が、今後、いかなる学問用語を引用しても、「おもしろい」などと言っても、畢竟(ひっきょう)、このレベルだということを知ってほしいです。決して、相手にしてはいけません。
 
*この先どうなる?
本書はまだ第1講しか読んでいないのではあるが、この先はさらにいろいろと考えさせられそうで楽しみである。ひさしぶりのアタリ本かもしれぬ。これからちょっとずつ読みすすめるつもり。
 
「この先どうなる?」が心配されるのは、楽山のほうなのです。死の問題ではなく、楽山の混乱なのです。哲学ではなく、アニメでもなく、楽山の、軽くない、傍迷惑な、体質的精神障害の問題なのです。3年前から、いや、ずっと前から、問題は、そこだけなのです。
 
 
混乱、焼き切れてゆくもの

混乱、焼き切れてゆくもの
 
 
(2021年11月29日)
 
 
 
  人が飛ぶとき
 
秒速何メートルの風で
時速何キロの風で
人は飛びますか
鳥や虫は
風がなくても飛びます
人が飛ぶためには
何が必要でしょうか
途轍(とてつ)もない強風?
何のことはない飛行機の切符
ワンウェイ・ティキッ
崖(がけ)っぷち
そろえた履き物に込める悲しい怒気?
それとも眠りに落ちて夢に飛ぶ?
人が飛びたいと思うのは
位置を失うか
位置が嫌で
嫌で嫌で
きりきりと突き上げ
抉(えぐ)るような痛みのときに
すでに最後の一線に向かって
飛び始めていることに
人がまるで気付かないとき
 
 
  管と道
 
一時的ならまだしも
長期にわたって
あるいは死に臨んで
あらゆる管を突っ込まれ
管だらけになってまで長らえることを
望まない人は少なくないだろう
もともと管だらけなのだ
管もしくは道
血管・リンパ管
気管・気道
消化管・尿管と尿道
外分泌は管を通って管へ
内分泌は直接血管へ
さまざまな道筋
道と管
細い道を通らなければならない
細い管が大切だ
太い管には管を挿入できる
それで命が助かることもある
しかし管を挿入できない細い管
毛細血管
そこでの営みが生命に直結している
毛細血管に管を突っ込むことは出来ない
あまりにも細く
絡み合っているから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
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  楽山の子供だまし2
 
 宗教とアニメは同じもの?
 2020年07月25日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の本音がむき出しになっています。宗教も、ゆえに信仰も、アニメとしてしか考えられない楽山です。これでは、楽山が、救われないのは当然ですし、この無知と無恥によって、楽山は、反宗教、反キリストとなっている証拠となり、有害であります。これが楽山の正体なのです。
 
前記事の後半においては、つい宗教とアニメを並べて書いてしまったのではあるが、改めて考えてみれば両者はすごく似たところがある。
とりあえず両者の共通点を挙げてみると、こうなる。
世界観…宗教も、アニメ(漫画)も、それぞれ独特の世界観を持っている。その世界観では、現実にはあり得ないことが実現可能とされることも多い。
 
世界観は、実際の世界を表すとは限らない、ということが、楽山には分からないのです。理想であったり、その反対であったり、希望であったり、というような世界を、真に受けるのが宗教と信仰だと思っている、そうでないと気の済まない楽山の、驚くような幼稚さです。
 
共通点と楽山は言っていますが、同じ思考で考えてよいことではありません。アニメは娯楽であり、宗教と信仰、さらに思想は、リアルをどう生きるかなのです。アニメレベルの楽山の知能には、アニメのように与えられているのだとしても、私たちは違うはずです。
 
物語…どちらも独特の世界観を持つように、独特の物語も持っている。
 
独特の物語と独特の世界観を仮想して想像するのがアニメでしょう。宗教は違うという当たり前のことが、楽山には分からず、楽山には、宗教は嘘、と言うことと同値なのです。常識も何も弁えずに、空想レベルの世界観で人生を語りだすと、自己の空想から自己中心になる必然です。
 
物語の虚構性とか、作者が伝えたいテーマとかいったものを考える正常な知性と感性がないために起こるところの、未熟~退行であり、楽山が、いい年した大人だなんて、到底、思えません。その楽山が、背伸びして、本を読んだとばかり、嘘と詭弁を、ずっと垂れ流してきたのです。
 
楽山こそ、想像~空想の世界の物語と、現実の世界とを、分離できてないところの、"自他未分化" の特徴的なパーソナリティです。人に何かを教えるよりも、小学校に入ったら?・・という次元の話です。楽山は、道徳と節操が育っていないために、先ず、常識的な判断力がないのです。
 
人物…主人公(教祖)、援助者(神や天使)、脇役(弟子)、悪役(悪霊、悪魔)などが設定されている。
 
この登場人物の類似によって、やすやすと、アニメや童話を、宗教や信仰と同じように扱えると思い込む、という、楽山の救いがたいほど、浅はかな虚構の妄想的曲解の人生観であります。
 
こういう子供だましにもならないような思考に至ってしまうのは、無反省、訂正不能、そして、自信の超過剰、という自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)NPDの特徴なのでしょう。これからも、増悪して、最後には、混乱して日常生活も困難な支離滅裂になるだろうと思われます。
 
こういう楽山と、同根のような通過点として、シャロームのような妄想信条と自己絶対の偽善者の、滅裂な豪語の世界があり、偽宗教の幻想世界があるのです。まるで、病気の進行のステージを見ているようです。この二人は同一人物という可能性があります。
 
目的…世界を救うだとか、正義を実現するというような目的がある。大雑把に言えば、願望充足ということ。
 
世界を救うアニメの物語と、人間を救う宗教と信仰を、同一視してしまう未熟性は、楽山本人が、霊が分かるっぽい自分を信じ込んだ時点にさかのぼるのでしょう。アニメには、暗示される道徳に似たものがあります。だから、小学生も、楽山も、夢中になるのです。
 
つまり、子供の時、既に、空想の世界があり、それを空想と認識できないために、何の根拠もなく、何の力もなく、おとぎ話を、宗教と、信仰と、思想と、大人になるまで、信じ込んで、のぼせ上がっている楽山の病の根の深さが表れています。
 
決して、楽山を、まともだと思わないように、決して、楽山に、関わらないように、決して、楽山に、近づかないようにしてください。思考も情緒も異常です。
 
修復…設定(教義)のほころびを修復しようとするファン(神学者や信者)が存在する。
その他
 
アニメでは修復されることが多いですが、創作物だから自由にできるわけです。現実では修復されない場合があります。まさに、その実例が、これを書いている楽山その人だと、楽山自らが証明しているのです。対応の設定が滅茶苦茶です。これで、よく公表できるものだと思います。
 
楽山は、現実の人生も、修復すればよいとでも思っているのでしょうか。それが、全然できていない今の自分を見ていないからでしょう。空想のルールに嵌って何も見えなくなっている、それが、楽山だと思います。
 
思うに、人は無目的、無意味には耐えられない生物だ。「一切は無意味である」というような考え方を受け入れることが出来るのは、ごく一部に限られる。
 
フィクションという捏造された目的や意味には、リアルで違和感があるのが正常です。楽山は、自分の捏造した、霊が分かるっぽい自意識のために、リアルを、アニメのように感じて、リアルに感じられないのだろうと思います。とても異様な感じ方になっています。
 
無常というものを考え、認めて、真実を追求している人々は、いっぱいいるでしょう。そういう人々は、例えば聖書の、風を追うようなものだ、ということを理解します。楽山は、それを認めずに、我こそは意味があると見せかけながら、リアルに虚しいだけの風を追い、悪臭を送風しています。
 
「無意味には耐えられない生物だ」と断定しながら、「ごく一部に限られる」と認める発言を加える、という、この理路の破綻に惑わされないためには、楽山を、いっさい、信用も信頼もしないことが必要になってきます。「ごく一部」の中には、楽山が本尊として居るという幻想でしょう。
 
だから人は自分はどういう流れの中で、どういう目的を持ち、どういう世界で生き、その後どこに行くのかということに興味を持たないではいられず、それがために神話が生れ、宗教が生まれたのだろう。
 
知性と感性が、一方は、アニメとして結実し、一方で、現実を見る者は、宗教と信仰を進めるのです。アニメはエンタ、信仰はリアルです。求めるものが違えば、創造力や思考力を向ける方向が別になるということです。どうして、宗教とアニメは同じもの?になるのでしょう。
 
楽山だけが、想像力も思考力もなくて、にもかかわらず、どちらも知っていると言いたい欲望から、方向性の違いをわきまえず、おのれが宗教も信仰も理解できない欠格者だから、・・アニメといっしょや・・とばかり、安易に同一視して、宗教と信仰をおとしめたいだけだと思います。
 
宗教を、アニメと同じ方向性で見ている時点で、楽山は、アウトなのです。
 
視野が狭くて狭くて、同じ世界に見てしまっているのです。空想と現実が未分化なのでしょう。子供のまま、成長がないのは、反省せず、学習せず、成長して来なかったからなのです。
 
そして今なお、新しい物語(神話、宗教、主義、思想、歴史観、アニメ、漫画、映画、小説…など)が作り続けられている。この点において、宗教やアニメはもちろん、すべての物語は同根なのだろう。
 
楽山は、宗教とアニメを同根だと言っています。その根拠は、共通のテーマがあるから・・というわけです。しかし、リアルと娯楽、という決定的な違いを、楽山は無視しているのです。この在り方は、殆ど、精神症状です。
 
以上より、アニメなどの物語と、現実が、同根みたいな言い分は、妄想なので、到底、受け入れられません。宗教は、ましてや、個人の生き方の問題に深くかかわる信仰は、物語では済まされません。楽山が、いかに、宗教を軽く見ているかが分かります。
 
アニメで、現実に人は死んだりしません。宗教では、多くの人が死んだ歴史があります。宗教は、人を救うが、間違えば人が死ぬ、という、その重さを楽山は、考えてもみないようです。
 
ゆえに、楽山は、軽々しく、持ち前であるところの、のぼせ浮かれ頭で、アニメと同じ次元で考え、宗教の真実を、趣味のアニメと同等に、気楽なものに貶めようとしているのです。反宗教全開ですが、言っている楽山は、自分の霊を信じ込んで破滅に向かう妄想の自分教の信者~教祖なのです。
 
こういう考え方は、熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが、そういう人であっても自分が信じている宗教以外については、アニメなどの物語とそう変わらないという見解には強いて反対はしないだろうし、そうだとすれば自分の信じている宗教も、異教徒から見たらアニメなどの物語と変わらないとみなされるだろうことは推測できるはずだ。
 
「熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが」・・この台詞を、楽山は、免罪符のように、しばしば使ってきます。宗教信者だけでなく、楽山は、もはや、無遠慮で執拗な、公共の害毒となっているとしか言えません。
 
自分が信じている宗教についてさえ、分からないことがあります。分からないと答えてよいのです。それが出来ない人や、それを赦さない人によって、間違えば、空想化し、カルト化してゆくのが、宗教です。
 
楽山は、何ごとにつけ、分からないという保留が全然できない人であります。だから、大方、嘘と妄想と詭弁の世界から、書物を悪用しながら、あざ笑いと悪口だけを、それこそ、訂正不能の体質から、宗教、特に、キリスト教に向けてきたのです。
 
この記事で、楽山は、宗教をアニメの趣味に貶めていますが、それだけではなく、そのアニメ趣味では済まされないところの、霊が分かるっぽい体験と自覚によって、自家製の霊能者妄想を信じ込んで訂正不能の個人カルトになってきたのです。
 
よく読めば、楽山の言は、何の説得力もない、ヤジか荒らしのレベルではありますが、楽山の丁寧語には、だましの作為が入っているので、十分、警戒してほしいと思います。
 
ようは、どのような宗教であれ、ある程度の距離をおいて観察し、判断すれば、一つの物語にすぎないということである。宗教という物語の中にどっぷりつかっている場合は分かり難いかもしれないが、これが現実である。
 
どのような宗教であれ、距離を置いて見ている限りは、知らない世界という謙虚な態度を持つべきであり、それが常識なのです。ここで、また、アニメというフィクションと、現実を生きるための宗教を混同して、宗教を軽く見ているのは、楽山の、根深い反宗教と反キリストからなのでしょう。
 
楽山には、常識~良識~良心が欠けているので、愚かな妄想まじりの詭弁を、のぼせ上がって、いつまでも続けています。恥を知らずであり、反省をしなくなると、こうなる、という典型です。
 
ちなみに宗教とアニメは物語という点では同じだと考えれば、近年の宗教離れの原因については、人の物語に対する欲求は、アニメなどによって満たされているので、わざわざ宗教を信じる必要性はなくなったためだと考えることができるかもしれない。
 
アニメを見れば、満たされて、宗教不要と言っています。趣味で生きることは出来ません。楽山は、どこまで退行するのでしょう。本当に、虚構と現実が区別できないようです。アニメは、ときに教訓を与えるが、それは、昔話的なシンプルな教訓です。宗教・信仰は、今の現実に必要なのです。
 
このような者は、いかなる宗教においても失格ですが、常識においても失格と言わざるを得ません。だんだん、本性の暴力的断定が増えています。はっきり言って、楽山の、もう一つの特徴であるネトウヨよりも、分かりにくいぶん、悪質です。
 
また新興宗教のなかには、ずいぶん漫画的なものもあるが、これにはアニメを超える良質な物語を提供できない宗教が、アニメに近付くことで生き残ろうとしているという解釈もできるだろう。
 
たとえ話以上に、アニメを真似する宗教と信仰があるなら、それは、子供だましでしょう。ここでの詭弁は、カルトと、宗教を、一緒にしている点です。こういう、隙間に仕込むのが、楽山の詭弁のやり方です。シャロームに劣らず、楽山の凶暴なところが、どんどん、明らかになってきます。
 
宗教とアニメを同列に考えることは素っ頓狂のようではあるが、これによって宗教がより理解しやすくなるということはあるのだ。
 
楽山の話は、素っ頓狂というより、未熟で邪悪で卑怯な、髭の生えた狡い駄々っ子の話です。やり口が卑しく、理路がでたらめで、情緒がないために共感が成り立たず、説得力は皆無なので、嘘や刷り込みや印象操作などの詭弁を使うしかないのでしょう。あきれた愚かさです。
 
吠えてる分だけ、真実追求の邪魔をしている自分に気づかないから、自己愛性人格障害も、やはり進行するのだろうと思います。どこまでも、有益、誠実、正直、真実というところから、はてしなく遠ざかる楽山であります。良心というものが少しでもある人は、こういう記事は書かないでしょう。
 
 
 ここで、何回目か分からないけど、
 「心の理論」という発達心理学の話の記事を引用しておきます。
 楽山の著しい曲解と妄想の個人史的な起源のようです。
 
  親戚に笑われた話 (仏様の気持ちは分からない?)
  楽山日記(LD) 2019年03月30日
  私の批判記事「心の理論」
  
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
 
楽山は、自閉症だったのでしょうか。
ブログタイトルには(LD)と書いていますが、サーバーの livedoor のことのようだが、学習障害 Learning Disability と言っても、当てはまると思います。
 
引用元から、まず、マクシ課題というのが書かれています。
 
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 」
 
「誤信念を理解すること」というのは、誤信念を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
霊感とは何の関係もありません。しかし、ここが、楽山の、霊が分かるっぽい出発点なのです。楽山は、「心の理論」を、勝手に間違って解釈して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの妄想的曲解であります。
 
「心の理論」の延長線上に、霊感のような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な無理解+曲解です。楽山は、最初に述べた「心の理論」を、心理学として全く理解しないまま、妄想に結びつけています。やっぱり、思い出すたびに、楽山は狂っているのではないかと思います。
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
スピリチュアルとは何の関係もありません。専門家でなくても分かります。心理学~発達心理学の、学問の話です。楽山は、こういう、ひどい曲解をする人です。しかも、いつまでも、妄想的に、わがままが通用すると思い続ける人のようです。
 
楽山は、霊能者どころではなく、ふつうの心がないために、理路の理解も、共感も出来ない人なのです。こういう人が、傲慢だけ持ってしまうと、とても危険です。楽山は、その実例です。決して、肯定的に関わってはいけない病質者です。
 
 
良い言葉、プラスの言葉、やさしい言葉、丁寧な言葉を、使ったほうがよいと思っている人は多いかもしれませんが、そこに、つけいってくる偽善者がいます。楽山は、自己愛性人格障害者であり、丁寧語を使ってインテリを気取る変質者なのです。
 
 
子供だましのお兄ちゃんが、だましに来たよ

子供だましのお兄ちゃんが、だましに来たよ
 
 
(2020年07月26日、同日一部修正)
(2021年09月25日、再録+若干加筆)
 
 
 
  腐った暇
 
暇(ひま)は腐るほどあって
大方腐らせているが
食いたいときに食う
寝たいときに寝る
好きにすればいい
 
好きにすればいい
何を好きにすればいい
何がしたい
何をすれば夢中になれる
一途(いちず)に 直向(ひたむ)きに
何をするために生まれ生きている
何をしないために生まれ生きている
 
ひとつの夢が叶い
そして破れて久しく
何故生まれてきたのか
父と母が交尾したからだ
以外の答を見つけるために
凍り付きそうな
暇も楽も食いちぎって
思い切り腐らせて
 
楽といえば
楽だ
しかし腐った暇は必ずしも
楽ではない
 
さらに身に凍(し)みるのは
楽 と
楽しい は
全く別だということ
 
 
(90~2000年代か)
 
楽だけを貪っている者を批判しています。
 
 
 
 taka のツイッターですが
 恐らく楽山なのでしょう
 
takaさんがリツイート
(引用元は省略)
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」というような、負わされている者の救けにならず、負わせている者の罪悪感を緩和し、更なる荷を押し付けさせかね無い言葉はなんとかならないものだろうか、、
午後7:52 · 2021年9月22日
 」
 
上のような「神は」を主語にした言葉は、神について保証するかのような内容になっていて、言った人は何も保証できないのだから、一般には、無責任発言ということになります。信仰者同士なら、背負ってゆくしかないだろう、生きてゆくしかないだろう、という意味にはなるでしょう。
 
神を主語にして何かを断定することは思い上がりという印象を免れず、重荷についての何らかの援助や共感をもって言うのとは違って、救いの聖句からの教義という動機だけですから、実感のない教条主義に近いので、慎むべきことです。分からないことは、分からない箱に入れておきます。
 
この引用をしている taka 恐らく、楽山は、負わされている人への共感の出来ない人で、真剣に考えるなどということが出来ない、情感というものを持たない、自己愛性人格障害であり、キリスト教をおとしめるのに都合がよいから引用しているだけだと思います。
 
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」・・これは、むしろ、何からの出口はあるからという意味として、信仰者が、自分で心得るべき言葉でしょう。安心や保証ではなく、生き続けるための、一種の激励の意味でしょうが、語弊があるので、私は、言わないようにしています。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)10:13
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
 (1コリント10:13、新約聖書)
 
最終的に、殉教して、逃れる先は天国、ということになれば、現代では、伝道としては、なかなか、使いづらい聖句ではあるのです。迫害という切羽詰まった時代の状況では、使えたのかな・・くらいに思っています。はっきりと分からないことは、分からない箱に入れて保留しておきます。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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  楽山の混乱
 
 『夢判断、そして恐怖体験へ』を見た。
 2021年09月02日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
(ネットより)
「夢判断、そして恐怖体験へ」
大川隆法の企画による長編映画で、心理カウンセラーとアシスタントの女子大生が、人々の見る不思議な夢や心霊現象から、隠された真相を解き明かしていく姿を描く。
 
楽山の記事は、ほとんど、小学生の感想文です。どういう映画だろうと思ったら、ホラー、心霊の、しかもORの企画だそうです。楽山のホラー趣味、霊能者気取りが表れています。楽山は、本当に、アンチHSなのでしょうか。
 
*メモ
『夢判断、そして恐怖体験へ』を見てきたので、感想をメモしておきたい。
予告編…『83歳のやさしいスパイ』という新作は面白そう。観たい。
予告編…宇宙の法のエロヒム編。エル・カンターレ色が濃厚そうだ。昔々ある銀河での出来事という風な普通のSFにした方が面白くなりそうなのだが、HS教団からしたら伝道のためにはエル・カンターレ色を濃くしないわけにはいかないのだろうな。
フード、洋服、日本刀という組み合わせには違和感があるが、これは日本刀でなくてサーベルかな? いややっぱり日本刀? よくわからん。
 
「面白そう。観たい」「普通のSFにした方が面白くなりそう」・・興味本位だと分かります。しかし、HSの伝道だと言っています。つまり、カルト批判と、ホラー趣味が、ごちゃ混ぜになっている楽山の精神世界を表しています。宗教を、趣味で語る楽山です。
 
「サーベルかな? いややっぱり日本刀?」・・楽山が、隠しながら人に向ける物、そして、いつか、向けられるものの、表れている形象。
 
殺陣は相当に練習したのだろうな。
新選組には大勢で切り込むイメージがあるけれども、一人で誰かの屋敷に入って暗殺をしたりもしたのだろうか。しかも隊服を着て。
もともとのHS教義は、人は生まれ変わりの際に性別は変わらない、変えてはいけないという教えだった。女性は女性として輪廻転生を繰り返し、女性霊として進化してゆくものである、もし女性が男性のようになろうとするなら、これまで女性霊として相当の進化を遂げていたとしても、男性霊たちの一番最後から再スタートすることになる云々と。大川隆法はこういう話を熱く語っていたものだったが、生まれ変わりの際に性別が変わるのはよくあることなら、当時の説法は一体何だったんだろう。
 
ホラー趣味に引っ掛けて、カルト批判が出来るでしょうか。映画の出来がどうこうと言って、宗教観になるでしょうか。そして、生まれ変わりの話です。楽山にとっては、宗教は超常ホラーと同じ扱いになっています。小学校レベルの空想、それが楽山の言説のベースです。
 
そのレベルで、キリスト教や神を否定してくるのですから、どれほど身の程知らずなのでしょう。楽山は、いかなる真実追求の言論の場に、リアルでもネットでも、いてはならないことを、自ら証明しています。自己愛性人格障害は、ここまで、分別がなく、恥も知らないということです。
 
ぶっちゃけ、当時の大川隆法は、「男は仕事、女は家庭」という性別による固定的役割分担を当然と考えていたものの、女性幹部登用が増えてきたので、それにともない考えを変えただけなんだろう、たぶん。
小さい頃はいろいろなものが見えた…これはちょっと分かる。
「あっ、金縛りだ! 来る! どうしよう!」というのはリアル。これも分かる。
 
楽山は、子供ではないと思います。おっさんでしょうか。何が見えて、何を感じてきたか、楽山の成育歴に、大人への成長の要素は無かったのかもしれません。未熟過ぎると思います。楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDが、趣味と現実を、空想と現実を、混同しています。
 
カウンセリングを受けた経験はないので確かなことは分からぬが、
 
楽山には、生涯にわたるカウンセリングが必要だと思います。それでも、自己愛性パーソナリティ障害NPDには効く薬がないので、治癒は望めませんが、誰かが、見続ける必要があるでしょう。あとは、強制力の是非になります。
 
カウンセリングを終えた人と、これからの人とを同時に部屋の中に入れるということはあるのだろうか? しかもカウンセリングを終えた人はそのまま居残り、センセのお手伝いをはじめるという…。HS映画の人と人との出会いのエピソードはいつも無理矢理な感じがあるけど、今回もそうだ。でもそこが面白い。
 
無理やりなのが面白い、と言っています。映画の感想なのか、HSの話なのか、ずっと混同されていて、区別されていないようです。楽山の言こそ、無理やりです。楽山は、大事なことの見分け・区別がつかない人なのです。書けば、体質は表れるということです。
 
同じ夢を何度も見るというのは分かる。自分にもそういう夢はいくつかある。夢を見ながら、「ああ、またここか」と思ったりして。
夢解釈に前世を持ち出すなら言いたい放題だ。どんなややこしい夢も、「それは前世の業です」で済ませられるなら楽ちんだ。
『心霊喫茶「エクストラ」の秘密』と同じ短編連作っぽい形式で通すようだ。話の区切りで黒画面にタイトルが出るところは、『呪怨』っぽい。
 
ホラー映画の話です。夢解釈に、前世、呪怨など、ホラーの話です。ホラー映画は、宗教ではなく、専ら、エンタとして作られます。それを利用して勧誘するカルトがあるのかどうかは知りませんが、誘導として、これは、まさに、楽山のフィールドワークというより "チャイルドプレイ" なのです。
 
楽山の考える宗教は、超常現象や呪いと一体化しているのでしょう。空想と現実が区別されない楽山が、まさに、現実のホラーです。もう一度言いますが、楽山は、子供ではありません。また、楽山は、これで、宗教や政治思想を語ってきたのです。一度アフガンに行ったら?レベル・・。
 
『シックス・センス』的な展開は、心霊ドラマではもはや定番だけど、やっぱり面白い。
エル・カンターレファイト炸裂。すごい効き目だ。
金縛り対策…個人的には、金縛り対策として色々試してみたことがあるけれども、一番効いたのはラジオをつけっぱなしで寝ることだった。音があると眠りが浅くなると目が覚めるので、熟睡と覚醒の間のうとうと状態の時間が減り、金縛りに遭う機会も減るんだろうと思う。
霊を呼ぶシーンは、大川隆法のそれよりリアル。
心霊写真を怖がられ、消されたから祟るって…祟られた人からしたら大迷惑だろうけど、傍から見てるとこの身勝手さはちょっとかわいい(笑)。
神社PR…顔は怖いが面白い霊だ。いや神様なんかな?
このエピソードを見てると、神社の境内で、神像のもげた首を転がして遊んでる子供を注意した大人が、祟られた話を思い出す。神様からしたら、せっかく子供と遊んでたのを邪魔した大人が憎たらしかったのだそうだ。
女子高生三人組は最強だな。神様や幽霊のことは、やたらと怖がったりしないで、明るく楽しくしてるのが一番いいのかもしれないな。
子供の霊はかわいそう。泣けてくる。一人ぼっちでウン十年もいたわけではなくてよかった。
こんな子供の霊に、「行かないでー」「遊んでー」とか言われたら、断るのに苦労しそう。
死んだことに気づいてない人に、すでに死んでることを納得させるのはほぼ無理だろな。だからこそ、生きているうちに、霊的真実を知っておく必要があるという理屈は分からなくもない。
 
うれしそうに夢中でホラーのストーリーを語る楽山です。こういうことが好きなのでしょう。「霊的真実を知っておく必要があるという理屈は分からなくもない」・・楽山は、アンチではないと思います。発育不全の幼稚な、ただの超常趣味のおっさんです。
 
映画の中で映画を見てる。こういう入れ子構造みたいな展開はすきだ。
冒頭の声は、伏線だったんだな。ようやく気づいたよ。
一気に年取ってる。時間を飛ばし過ぎのようにも思えるが、もしかしたら、これみんな昔のことを夢にみてたということか。
幽霊に心霊教育しとる。子供は素直だろうから成仏も早いだろうと思ったら、やっぱりそうなったか。この子だけでなく、他の子も同じように成仏したと思いたい。
120分は長い。やはり90分くらいが丁度いい。
この映画は事実に基づいて制作されていますって…。最近この言葉を入れるフィクション映画が多い気がする。
最後のEDの歌はいい。声もきれい。
 
一気に、超常趣味を語りまくる楽山です。「時間を飛ばし過ぎ」「幽霊に心霊教育」「子供は素直だろうから成仏も早い」・・こういう超常話がホラー映画の感想にとどまっていないところこそ、現実の混乱した精神が与える楽山のホラーなのです。
 
*まとめ
最後にまとめを書くと、本作はエル・カンターレファイトの場面や、大川隆法が出てくる場面は別とすれば、コメディ要素を含んだB級ホラーとしてはけっこう楽しめた。
主人公は好演していたし、いい人の雰囲気もあって好感をもってみることができた。先生役も清潔感のあるクールな雰囲気をずっと保っていてよかった。恨まれ男のおどおどした演技もうまかった。この人はちょっと福士蒼汰に似てるかも…。子役もよかった。演技に引き込まれて泣かされてしまった。この他の俳優陣も総じて演技は安定していた。脚本の台詞は、これまでの「幸福の科学」の映画と比べると、言い回しがこなれて自然になっていたので、これが俳優の演技がよく思えた一因になってるのではないかと思う。
 
前にもあった映画評論家気取りですが、宣伝用のHSの映画を、褒めまくっています。楽山は、決して、アンチHSではないです。以前から、ずっと、壊れて崩れてきたのです。つまり、楽山は、自分なら、ORより、もっとうまくできるのに・・と思っているのでしょう。
 
 
空想と現実

空想と現実
 
 
(2021年09月04日)
 
 
 
  ウソの歌
 
季節の歌は美しい
でも私の国に季節はない
ないものを歌えばウソになる
 
日常の歌はほほ笑ましい
ときに気づかなかった切り口に
はっとさせてもくれる
でも私の国に日常はない
ないものを歌えばウソになる
 
少しは肩の荷を下ろしたらどうだ
好きで背負っているわけではない
それに私の肩に荷と呼べるものはない
私は私を背負うことさえできないでいる
 
では私の国で何が歌える
何も歌えないところで
何が歌えるかを歌っている
だからしばしばウソになる
ウソの国を歌っている
だから季節だって日常だって
癒しだって絶望だって
大真面目に歌ってやる
 
 
  ありがとう
 
誰も読まない詩を綴り
誰も理解しない文章を書き
誰も聞かない歌を詠み
誰にも伝わらないもどかしさだけで
誰にも伝えられない痛々しさだけで
何を暗示したかったのだろう
 
寝起きの顔のまま
泥濘(ぬかるみ)の足取りで
伝わらないものか
伝わるものか
の足取りで 四角いポストに入れた
少し奥まで手を突っ込んで入れた
 
正直なつもりの
過ちを束ねて
この町の
ただ一度の一瞥にありがとう
 
そして帰ってゆく
自分の周りに
自分で作った格子窓から見るために
遠い国を
遠い国を
さようなら
 
  四九八九、きゃんせる町、こどく市、もろはの県、ウソの国
 
(昔々の・・)
 
 
 
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