ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:節操

 
  信仰の節操
 
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12555648217.html
 加筆して再録
 おもに偽牧師シャロームshalom 自称ヨシュア、などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
  悔い改めは、神が与える。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、卑怯な罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰自慢、芝居的な讃美。信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア・マグダラマリヤ型)
  嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。
  キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない。
  キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない。
  キリスト信仰は呪術ではない。
 
● 頻りに讃美と感謝を繰り返し、さらに、自らの悲劇を語り、命をかけるなど大仰なことを言う。
  (自称マグダラマリア型、あるいは、魔女型)
 
 
● 情欲の聖句の「女」を「他人の妻」と書き換えて、キリストの言葉を、不倫はいけませんね・・という、安い道徳におとしめて、人間の根源と、救いの根源を、骨抜きにしてしまうのは、神に対する大罪であります。
● 神を「恐れる」を「畏れる」と書き換えて、神に対しては、恐れるのではなく畏(かしこ)まればいいのですよ・・ということにして、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
  (新共同訳の訳者たちによる聖書の曲解とキリスト教形骸化の過ちあるいは悪魔的な企み)
 
 
 
  《キリスト者も注意・警戒するべき言動》
 
 
「神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛」について、どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
 
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、ずっと神が愛してくれるというのは、妄想です。それは、陶酔感から罪の自覚を失って、神を侮り、むしろ、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
「ほめたたえよ」という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者やその傾向のある人は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
信仰についての発言を、大きく勘違いした的外れは、背教の暴言に等しいのです。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫神経症の症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、カルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それが敬虔であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえのキリストの共感と愛なのであり、それゆえの神の愛と寛容があり、それが、人を生かす赦しと救いなのです。聖書の教条ではなく、聖書の心を学ぶことが大切です。
 
不完全で罪深い自分を、神が憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への、人間が出来る唯一の捧げものが祈りであることを忘れないでください。人の行いなど、信仰の義において何の根拠にもならず、ただ、正直な祈りだけが必要十分なのです。
 
多くの信仰の恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~試練として、与えられているのです。悲しみは反省と忍耐のために与えられるでしょう。揺るがない信仰とは、思い込みの確信ではなく、共感であり、それが忍耐強い信仰を生み出してゆくのです。
 
正直に祈ることが悔い改めであります。悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。悔い改めは、信仰者の人生において、しばしば、必要です。洗礼を受けたから安心とか大丈夫とかではなく、洗礼を受けたから、祈りと悔い改めの信仰生活が始まるのです。
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。いつでも、正直に祈ることが出来ますし、神は、それを待っておられると思います。それが、神の寛容であり、永遠に変わることのない愛であります。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。ゆえに、悔い改めの祈りの機会は、それぞれの人の全人生にわたって与えられています。それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、いつでも、いつまでも、人には言えないことでも、正直な告白と願いを祈り、それを聞いてくださる御方がいるということです。願いの成就は、神に任されており、そこに、信仰者の使命と忍耐があります。その上で出来ることをするのが信仰者の人生です。
 
 
信仰の節操と偽善

信仰の節操と偽善
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2023年01月06日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
こういう意見が出るほどに、自分が手を合わせてる神様に無頓着な宗教観は実に面白い。
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」とはよく言ったものだ。
引用ツイート
島田裕巳@2版出来『宗教対立がわかると「世界史」がかわる』晶文社
伊勢神宮のアマテラスは弟スサノオの前に軍装で現れたし、八幡神は武士が崇めた戦の神。神道と戦というのは深く結びついているので、どの神社に行っても、境内に神明社や八幡社があれば、軍神に参拝したことになる。
 」
午後8:10 · 2023年1月5日
 
「面白い」は嘲笑いでしょう。「神様に無頓着な宗教観」とはよく言ったものです。楽山は、神について知っているつもりなのでしょうか。楽山のように、幼稚な辻褄で神を否定し、人を傷つけてゆく慢心は、知識不足だけでなく、訂正不能の自己愛性からの病的な悪意の偏執です。
 
楽山は、笑うことと怒り憎むことはあっても、「涙こぼるる」ように悲しむ情感を持ちません。だから共感性もなく、神について物を扱うような安易な辻褄で知ったかぶりをします。楽山は、思い上がりの醜態から崩れてゆく人格を表し、慢心して良心のないインテリ気取りの末路にいるのです。
 
 
 
  悪い顔
 
また顔が悪くなった
と鏡の前で気づくか気にするか
また顔が悪くなった
という
顔が悪くなる瞬間というのは
何か嫌なことや
好(よ)過ぎることがあって
あるいは何もなくて
皮膚が乾くのだろうか
変色するのだろうか
顔の肉が強張(こわば)るのだろうか
弛(たる)むのだろうか
特に目や口の辺りの
しかし若(も)しも逆に
年齢相応ですが
少し顔が好くなりました
なんてことが
ないだろうけれど
仮にあるとしたら
身の毛も弥立(よだ)つ
を通り越して
人間は疾(と)うに死んだのに
人体だけ死に損なって
残ってしまったような
顔のどこかに責任が持てるだろうか
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見て、薄っぺらな感想しか書けない楽山です。楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、無視して反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、「ストーキングというより、因果応報」となってゆく自己中の必然です。
 
楽山は、他者を批判しますが、その批判が、不思議なくらい、楽山に当てはまってしまいます。それに、書いてくることも、大方、雑言の類で、何か生きるヒントになるようなことなど、一度も書いたことはないのです。書けば書くほど、楽山の言が、楽山を責めることになるブーメランです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山関連の罪と偽善: 無反省で謝罪しない。世辞か、嘘と詭弁。自己中。非を認めない。無責任で、弁明できない。理路も情感も未発達。笑いと怒りと憎しみだけで、しんみり悲しむ情がない。不祥事を人のせいにする。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)。
 
楽山の因業は、改まることがありません。いつも、楽山の通念的な言葉が表すのは、そういうことしか書けない楽山の体質的異常の証拠になってゆきます。反省せず、責任を負わないでいると、結局、同じようなことしか書けない無学習のもたらす貧相な悲喜劇だけを表すことになってゆきます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
   知るべきこと3
 
 
旧約から、神と人の関係、という信仰の節操を学び
新約から、キリストの共感、という信仰の愛を学ぶ
 
旧約聖書から
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神のあり方を表す言葉を受け取ることは
それを理解することではなく
(人間に理解できることではない)
神と人の決定的な違いを
創造主と被造物の決定的な違いを
あくまで人の側において学ぶことである。
 
神に対しては
人のいかなる自信も自慢も通用しない。
人のいかなる知性も感性も
そして、いかなる偉業と呼ばれるものも通用しない。
神に対して人が捧げて届くのは
正直のみである。
 
それ以外は通用しないことを学ぶ。
これを信仰の節操と呼ぶ。
 
新約聖書から
救い主イエス・キリストの神性を学ぶことは
それを理解することではなく
(人間に物や肉体の奇跡は理解できない)
またそれが自分に起こると信じることでもなく
(自分に神の行為を結び付けるのは人の傲慢である)
神性が人間性の低みに身をおろした
ということを
あくまで人の側において
人間性に相応しい理解をすることである。
 
すなわち
キリストの洞察力と共感力を知り
またキリストの同伴の恵みを知ることは
信仰の愛を知ることである。
 
信仰の愛を支えとして
信仰の節操を弁えながら
耐え忍んで生きるのがキリスト者の道である。
 
 
 
神は、聖書より、全知全能、絶対完全、永遠不変、と心得るべき御方です。
人は、直観的に、また、聖書より、全知でもなく全能でもなく、絶対でもなく完全でもなく、永遠でもなく不変でもない存在、と心得るべき存在です。
 
神の意志と行為を決めつけて
奇跡による救いを信じるのは
神への冒涜であり偶像崇拝である。
 
信仰は、唯一、
神と人の違いを弁える節操において
厳しいと知るべきである。
 
神は友達ではない。
神は優しいおじさんでもお爺さんでもない。
偉い御方にとどまる存在ではない。
 
絶対の正義に人間は耐えられない。
ということは
神はご自身のような正しさを人に求めてはいない。
 
神を信じるという信仰は
同時に
神の前に偽りが通用しない
ということを学ぶことである。
 
つまりそれが
神を恐れるということ。
 
神は
その初めから終わりまで
在って在る者であり
人知を超えた理由とあり方で
創造主であり万物を統べる御方である。
 
 (出エジプト記、口語訳)
3:13
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
3:14
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
 (出エジプト3:13-14、旧約聖書)
 
キリストは権威ある仲保者である。
神と人の間をとりなす御方である。
ゆえに人間に共感し
その苦しみを負われた御方であり
命を惜しまぬ愛を
罪深い人間のために捧げた御方である。
 
贖罪の教理を知っても
キリストの愛を知らなければ信仰ではない。
 
キリストの共感に答えて
キリストに共感するのが信仰である。
つまり
キリストの愛に答えて
キリストを愛するのが信仰である。
 
贖罪の教理によって
いつも赦されるから無罪であるかのように振る舞うのは
神への直接の背きである。
 
信仰は
いつも喜びだけを与えるわけではない。
信仰は
むしろ悲しみを通して成長するために与えられている。
 
いつも喜んでいるように振る舞うのは
迫害が迫る時代と違って
現代においては、大方、嘘であり
神の前に嘘は通用しない。
 
そのようなあり方は
祈りの体裁だけを整えることであり
それによって信仰は少しも整うことはない。
 
信仰は
神の言葉だからと
聖書の文言だけにこだわることではない。
それは教条主義に陥る。
 
信仰は
聖書を興味本位に読むことではない。
黙示されていることを知ろうとするのは
信仰ではなく興味に過ぎない。
 
聖書は暗号の謎解きのために書かれてはいない。
信仰が難しい謎解きを必要とするなら
いったい誰が救われると言うのか。
 
聖書は人間のために
信仰を伝えるためにのみ書かれている。
 
信仰者を信仰にとどめるのは
キリストの愛に答える信仰者の愛であり
それゆえ人が道を外れても
神の全能もキリストの愛も滅びることはないのだから
正直に告白して赦される道は
神の側から断ち切られることはない。
 
偽善者と背教者は
悔いることがないゆえに救われないのであって
 
神が人を見捨てることはないのである。
 
神の愛は節操のみにおいて
この上なく厳しく
キリストのもとに帰る恵みにおいては
この上なく寛容である。
 
 
寛容な神の前に、私たちは、讃美よりも、正直な祈りをするべきです。
 
讃美している気分に依存したり陶酔したり、あるいは、讃美しなければという強迫性で、讃美するべきではありません。
 
讃美すればするほど信仰が深くなるということはありません。讃美に実感がこもっていなければ、その罪をも、神は全て見抜かれるのです。
 
神への恐れをもって、主イエスキリストの御名を通して、祈るのですから、正直であることだけを必要かつ十分な条件とするべきです。
 
 
 
シャローム:
批判している途上で、「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という、キリスト信仰とは正反対の信条をあらわにした。これ以後、反キリストと見なしている。
世辞と侮辱を、同じコメントに書いて、不自然さを覚えない不感不応の、偽善者であり、サイコパスと見なしている。
 
易坊:
シャロームとともに、私の、当時のヤフーブログを荒らして、50~100コメ超の遣り取りを強いてきたカルト的荒らし。サイコパスとしか思えない。
 
楽山:
楽山は、無宗教を気取りながら、ときに、反キリストの記事を書き、キリスト教をおとしめてくる。また、一方では、キリスト教的な文言を書いてきたりもするので、主張が一定しないが、唯物論や進化論を用いて、神信仰を否定するのは、やはり、反キリストとしか思えない。
 
楽山の、訂正不能、自己愛性の人格障害、学習不能、無反省、などによって、サイコパスと見なしている。楽山は、自己中カルトのアドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていた。それは、楽山の自己中カルトとして、今も、様々な詭弁を弄して、続いている。
 
シャローム、楽山、易坊については、一人による成りすましの疑いもある。
 
 
自称マグダラと自称ヨシュア:
 
この二人は、最近、ご無沙汰である。ヨシュアは、戒めを守って完全になれるのです、などと豪語して、私が批判していると、しばしば、私の個人情報を出してきて、発狂するかのように、私のことを、ダメ人間、精神病などと罵り、罵詈雑言を並べた。
 
自称マグダラも、同様に、批判すると、別人のように、攻撃的になるが、プププ、ケロッ、などと、奇妙な台詞を吐きながら罵る。俗的な意味で、ヒステリックである。
この二人についても、一人の成りすましを疑っている。
 
 
アドラー心理学:
 
私は、カルトだと思うので、アドラー教と呼んでいる。気に入らないことは無視しましょう、あるいは、私の課題ではありませんと無視することを、誘い文句として勧めているので、"日本人アホ化計画" を企てているカルトだろうかと思ってとして批判しています。楽山は、その宣伝をしていました。
 
"無視" がもたらすものは、学習がないために、成長しなくなることで、恐らく、人の気持ちの分からない、知性と感性が鈍麻した、ぼうっとした鈍い人格に帰結するのだろうと思います。
 
以上の者たちは、私が死んだ後も、生き続ける者たちです、巻き込まれることのないように気を付けてください。
 
 
個人の人生の最終的な闘いと、人類の歴史の最終的な闘いは、人の世界の現象としては、恐らく、普通の良心と、サイコパスとの闘いになるでしょう。人類の敵は、国家でも民族でもなく、サイコパスです。
 
 
信仰の節操とは 神と人の違いを弁えること

信仰の節操とは
神と人の違いを弁えること
 
 
(2020年)
(2022年07月17日、再録+加筆)
 
 
 
  行く今
 
在るといえば在り
過ぎるといえば過ぎる
今が行く
私の狭い視野の前を
あらゆる笑顔と泣き顔の前を
乾いた挨拶のような会話の前を
唾を飛ばして弁明する形相の前を
唾液を垂らして反芻する牧場の牛の前を
忘れられた崖の途中で風に揺れる草の前を
風の砂浜の砂の一粒の前を
潮風の中の見えない水滴の前を
深海の底を這う魚の退化した眼の前を
光届かない宇宙の一点を
そして全ての
前を後ろを中を外を
今が行く
何もかも古くし
新しくすることなど構いもせずに
何もかも滅ぼし
産み出すことなど考えもせずに
今が行く
 
 
  雑事快感

バイクの鼓動を感じながらの
楽しい数時間のライディングは
山の変わりやすい空模様を見ながら
雨雲から逃げまわっている
 
パンとチーズと水だけの日が続けば
幕の内弁当と缶ジュースだけでも
この上ないような御馳走だ
冷蔵庫の中を食料で満たせば
知性をどこかに置いて
烏滸(おこ)がましくも雑食は
幸福に似た満腹を
食べる前から感じている
 
いずれ失せてゆくものに
豊かさや心地よさを求める習癖を
身につけてしまうのは
意味を求めてしまうことを
ときにタブーとしながらも
いずれ失せてゆく意味の身を
なぞろうとする裏切りの
日常的雑事模様眺めの逃避行だ
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
  気分
 
いつから厭(いや)になった
世捨て人の気分でも
この世のお世話になって生きている
世俗を離れた気分でも
俗は欲と一緒についてまわる
いつから嫌(いや)になった
勝つことができなくなって
自分自身にさえ負けてばかりだから
惜しみなく勝ちは譲る気分でも
勝ち負けそのものが分からなくなった
いつから柔(やわ)になった
善し悪しも弁(わきま)えず
まさに今そういう気分
いつから今になった
ずっと気分だよ
今以外に何かあったか
 
 
  弱気の塊
 
弱気の固まり?
弱気は固くなれないから
弱気の垂れ・流れ
垂れ流しの趣(おもむ)くままに
川を下る
 
下る傾向は持っている
くよくよと辿(たど)ることはあっても
決して上ることはない
石を積む子供らはいるか
積んで崩れた石だけで
子供らのいない河原はあるか
コロイドでもヘドロでも
海へ出て拡散して
海の塩になれるだろうか
 
時間の量子と波動のように
弁別も理解もできない川下へ
樹木は動かず
枝は揺れず
草は靡(なび)かず
波は風を呼ばない
波は寄せるが
水は水としての形を持たない
その水よりも弱く
在って在り続けよ
水は命を育(はぐく)み
ときに命を奪う
一滴の水にさえ
寿命は勝てないのだ
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。
これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ