ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:精神病質

 
  病質者対策2
 
 
凶悪カルト・サイコパス・病質者とは、具体的には、言うまでもなく、3年批判している楽山と、10年批判してきたシャロームshalom のような自己愛性人格障害者のことです。罪悪感がなく、いつも、社交の世辞であしらいながら、実際はバカにして、心で笑い、舐めている人です。
 
罪悪感がないために罪の意識がなく、悔いるという高等感情もなく、反省もせず、他者に優っているという慢心だけで、いつも自分が正しくて、まともだという捏造の立ち位置から、実際には、ねじ曲がった理屈と、平気で嘘を吐く習性をもって、壊れた理路の迷惑物質を投げてくるのが、楽山です。
 
恐らく、一生、治らないのでしょう。ということは、話し合う余地がないということです。つまり、楽山と話し合おうなどと思ってはいけない。楽山から何も受け取ってはいけない。楽山の言うことを何かの参考にしてもいけない。楽山の投げかける言は、楽山の仕掛ける罠(わな)です。
 
最初から、楽山は、惑わすために、あるいは、優越感と自己顕示欲のために、言い逃れのために、書いているだけだということを意識して、関わってきたら、追い返すか、逃げるしかないのです。世辞コメントなど書くと、楽山の思うつぼです。
 
他には、批判する気のある人の場合、楽山の書いていることの、卑怯な言い換えや、作為的な言葉と理路の選択や、常識に見せかけた一面的な視野狭窄の言を、決して真に受けることなく、一つ一つ指摘して、資料として警鐘とすることだけが、楽山という自己愛性人格障害者に対して出来ることだと思います。
 
楽山は不治の病と言ってもいいような欠損した人格ですから、はっきり言って、人間だと思ってはいけません。和解の余地を残してはいけません。今まで楽山が書いてきたことから、楽山には良心がありません。思いやり、共感、羞恥心がありません。平気で嘘を吐きます。
 
楽山は、人のために役に立つヒントになることを書こうなどとは、毛ほども思っていません。ただただ、インテリ気取りで、客観を装い、煙に巻くような婉曲的な言い方で言い逃れを向けてくるだけです。楽山の文章に主旨はありません。企みだけがあります。真面目に見せかけているのです。
 
ゆえに、楽山の文章を読むときには、症例を見ている、場合によっては、症状を記録するという姿勢が必要で、先ず、楽山の主旨を読み取ろうとすることだけはやめないと、病原からの疲労の罠に嵌ります。楽山に、主旨はありません。否定を書いて、肯定を書いて、責任を負いません。
 
批判においては、楽山の文章から、言い逃れの詭弁の細工や、意味の違う方向への言い換えで、ごまかしてくるところを、できるだけ見逃さず、指摘し、批判し、資料とするためだけに記録することに専念するべきであります。楽山を出禁にしてください。批判するなら記事に書くことです。
 
共感性のない楽山との、分かち合いや交流は、決してありえないことなのです。楽山について書く場合は、そのことを最初に弁えることが、自己愛性人格障害の害毒から身を守る唯一の方法であります。出入り禁止として、批判記事を書き、楽山の無法を知らせるやり方しかありません。
 
そして、それが、自己愛性人格障害者、病的ナルシスト、精神病質サイコパスに出会ったときの、心構えでもあります。楽山は、まともな人間ではありません。ふつうに付き合ってはいけない、資料にするしかないヒトなのです。そういう非人間は、多くはないが、いるということです。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教に、いちゃもんをつけて、神を否定してきましたが、その責任を負わず、批判にも答えず、スルーすると言って無視する卑怯者であることに加えて、宗教を否定しても、それに代わる救いや助けになるものを、何一つ提示する洞察力も共感力もない人です。
 
この自己顕示欲と自己愛だけで出来ている楽山のような病質者だけは、決して信頼しないでほしいです。中身の無さを、丁寧語で体裁を整えて、中庸芝居でで中立の人物を装う、これが、楽山の生き方・書き方・筆致なのです。
 
ちょっと注意して読めば、楽山が、誰でも言いそうなことを書いたから誰でも共感してもらえるじゃろ、という予定調和を書いているに過ぎないことが分かります。真実の追求とは、かけ離れた狙いで、ありきたりのことを並べて、好意を装うペテン師だからです。
 
 
楽山のキーワードとしては、無反省・無理解・無責任・無神経・嘘吐き・詭弁・偽善者、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、病的ナルシスト・罪悪感と良心の欠如・自己中心、高等感情鈍麻、反キリスト・反宗教、などを使っています。
 
 
悪は笑い、善は悲しむ、それが、この世です。ゆえに、悲哀が、最も高等な感情は、悲哀です。ゆえに、今悲しむ者は幸いなり(マタイ5:4)。
 
良心は、地上の悲しみを知っています。悪魔性は、地上の悲しみを知らず、感じず、笑いと快楽を求め、うまくいかないと怒り、怨念を燃やします。
 
笑いと怒りは感じても、悲しみを感じられない人格があります。それが、反社会性を内在する自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、精神病質サイコパスなのです。だから、いい気になるだけで、実際には、謙虚さが皆無なのです。
 
 
評価もなしに木に登るのか

評価もなしに木に登るのか
 
 
(2021年04月25日)
(2022年05月03日、再録+加筆)
 
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
 
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです

人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  潰瘍
 
手遅れの落花に目盛りを誤り
紙コップにビール注がれ
潰瘍の胃袋炭酸の重みに耐えず
発酵の流れ歯石のうちに語る
葉桜の下疝痛に舞え
充血の嘔吐の結膜
石鹸の剥離を繰り返し
乱脈の破砕の終末
タイル張りの手首を引き
酔い痴れて薄墨の彗星を探し
とても希薄な泡沫に帰すと
 
 
  はね
 
しずく はらい
あめの ぬくみ はねて
かえろう いまいちど
ひざかりの つみくさの
のはらの ゆめ まどろみ
あしたの つゆに あずけて
にたものどうしの わかれみち
はおと なく しののめに
とびたつのは ぬれて
ただひとひらの はね
ふきすさぶ くもの まつ
いつも ひとつの そらへ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
×徳あるものた上に立つ徳治制が望ましい
●徳ある者が上に立つ徳治制が望ましい
午後0:41 · 2022年5月2日
 
徳のない楽山が、言葉だけ、訂正か、指摘を、書いています。正直さがない。反省しない。責任負わない。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のための自己中から来ています。つまり、自己満悦のために記事を書くので、学習と成長も見られません。楽山は、不変の厚顔無恥であります。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ざっくりまとめると、大川隆法総裁は自分こそが宗教的にも政治的にもトップに立つべきだと考えていたことがうかがえます。
自身が選挙に出たときも、国会を幸福党でしめて憲法改正し、大統領になる気満々だったでしょう。
初夏氏はそんなことはないといいたいらしいが、それは無理かと…。
午後0:39 · 2022年5月2日
 
ということを言う楽山は、自分がトップに立つべきだという教祖願望を表しているのです。そのための評論家気取りです。何かを書けば、自己愛からの尊大な自己満足・自己満悦が、そして、自己愛からの誇大妄想が、噴き出して、漏れて、表れてくるのです。楽山は、不変の厚顔無恥であります。
 
楽山には、まともな秩序の意識を持っていません。だから、憲法改正にも、独裁にも、賛成するでしょう。いちばん、大統領や、王様に、なりたがっているのは、楽山であります。その夢想が誇大妄想として固定しているので、隠したつもりでも、丁寧語とは裏腹に、不変の厚顔無恥を表してしまうのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、私の理解では、大川隆法総裁の主張はこうです。
・自分は地球における最高の権限を持っている
・自分の言葉が法となり、善悪を定める
・民主主義は衆愚政に陥る危険あり
・徳あるものた上に立つ徳治制が望ましい
・神近き者が上に立つのが天上界の秩序
・祭政一致であるべき
午後0:32 · 2022年5月2日
 
楽山は、自分が一番上だという誇大妄想を持っています。だから、いつも、上から見下ろす発言になります。指導者気取りです。楽山は、おびただしい言葉の破綻を見せておきながら、善悪を定めたいようです。他者のことを、とやかく言う資格は全くないのが、楽山です。
 
民主主義を憎んでいるのも楽山であり、ネトウヨとして、A級戦犯を讃える記事を書いています。楽山は、放置すれば、人々を詭弁で誘導して、衆愚へと誘導します。あらゆる徳に背いているのが、楽山です。神近き?楽山という自覚でしょうか、むしろ、我は神なり・・でしょう。。
 
楽山は、結局、王様気取りであり、その根拠が、自らの、霊が分かるっぽい?体験と、心霊大好き趣味なので、小学生並みの知恵で辻褄を合わせで記事を書いて悦に入るのです。楽山は、人間としての罪悪感も羞恥心も持たないので、サイコパスの性質が、書くことに表れてくるのです。
 
楽山とは、決して、議論や交流をしてはいけません。楽山は、論理?めいた迷路を用意しています。そして、気に入らないとテーマの実質から外してゆく人です。楽山の害を避けるには、出禁しかないのです。私はそうしています。楽山の思想は、ずっと詭弁だけです。悪知恵だけです。企みだけです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
3年余り、批判を当てても、同じように書いてくる慢心こそが異常です。その間、当てつけや悪口は書いてきても、真っ当な反論など、全く書けないのです。論理遊びの罠を仕掛けてきますが、理路が分からず受け取れないことからの詭弁に過ぎず、それがバレてからは、ただただ見苦しいだけなのです。
 
 
 
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  ペテンと気取りの人生
 
 「科学からオカルトへ A・R・ウォレスの場合」渡部昇一著
 2022年04月04日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
楽山は、人格障害者です。恐らく精神病質サイコパスだと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、潜在か顕在かは知りませんが、反社会性人格障害であろうと思います。病質者という言葉も使っていますが、人格障害者と、ほぼ同義です。
 
楽山は、一見まともに見える文章を書いてきますが、約3年余りの批判を受けても、無視して、同じことを書いてきます。私は、楽山とは議論しません。以前、議論しても、全く無駄だということを経験しているからです。理路に見せかけても、何の糧(かて)にもならず、感性や共感は皆無です。
 
正常な感性と知性が働かない病質者は、議論しても、決して双方向にならず、相手の意見を受け取って考えることが出来ず、繰り返しになり、徒労と疲労に見舞われるだけならマシで、下手をすると人格が破壊されるでしょう。楽山は、危険人物なのです。柔らかい筆致に見えるのは、作為の芝居です。
 
 
*概要
渡部昇一の講義録を読んだ。タイトルは「科学からオカルトへ A・R・ウォレスの場合」であり、『幸福なる人生 ウォレス伝』に収録されているものである。
その内容は、ウォレスの生涯を概観しつつ、科学的思考によって人間には不滅の魂があることを証明した功績を高く評価するものである。
 
「科学的思考によって人間には不滅の魂があることを証明」できないと思います。不滅は、人間の扱えるテーマではありません。恐らく、勢い任せの論調ではないかと思われます。しかも、楽山は、理解していないので、その根拠を何も書いていません。いつものように無責任な徘徊です。
 
 
ダーウィンは人間と動物との差異は程度のちがいであり連続しているとしたが、ウォレスは両者は質的に異なっており連続しておらず、その相違は魂にあるとしたとのことである。つまりウォレスは「科学からオカルトへ」と進んだわけである。
 
人間と動物の質的な違いを語るのに、なぜ、オカルトに進むことになるのでしょう。動物より人間のほうが、高等で、本能だけでなく、精神があるということではいけないのでしょうか。恐らく、楽山は、話を心霊の方向に持ってゆきたいのでしょう。
 
 
*私見
自分はスピリチュアリズムにはさほど抵抗感はないので、ウォレスの魂は存在するという主張にも強く反対するつもりはないのだが、人間と動物のちがいについては連続していないとするより、連続しているとする方がシンプルであり、筋が通っているとは思う。人間と動物とは、身体は全くの別物とは言えないのはもちろん、精神についても進化心理学によれば連続していないと結論付けるのは難しいだろう。
 
楽山は、霊能者気取りなので、スピリチュアリズムに抵抗感がないだけでなく、自身がスピリチュアルだと思っています。ここも、作為の詭弁です。人間と動物が連続していようといまいと、違いが分かっておればよいわけですが、楽山は、自分を特別だと言いたいがために、連続していると言っています。
 
なお、進化心理学について、楽山は甚だしく曲解して、心霊に結びつけています。
「心の理論3」
 
楽山は「人間と動物とは、身体は全くの別物とは言えない」と言っています。内臓や骨格に、人間と動物には、共通する部分がありますが、この議論自体に意味があるのでしょうか。誰も、本質は分かりません。そういう謙虚さがなく、分かっていることを自慢したい楽山は、気安く書いているのです。
 
 
とはいえ言語については、本講義で語られていることは非常に説得力がある。ただ動物も意思を伝える方法を持っていることからすれば、両者におけるこの点のちがいは大きいけれども完全に断絶しているとまでは言い切れないのではないだろうか。私はこう考えるので、言語については人間と動物とでは連続しているとも、連続していないともそう簡単にはは結論は出せないように思える。
 
「完全」とか「断然」という言い方を嫌っているように見せかける楽山は、訂正不能の偏見だけでキリスト教と信仰を否定してきました。曖昧な言い方であることが、企みの根深さを示してきたのです。つまり、楽山は、言い張りはあっても、いかなる結論にも到達することのない精神の病質なのです。
 
 
*勇者
ところで、本書の解説ではウォレスについて次のように書いてある。
ウォレスは、心霊現象研究が災いして、自然科学の方面から疎まれ、心霊現象の存在がなければキリスト教も成り立たないという論文を書いて、伝統的なキリスト教の宗派からも反感を買った。
(中山理「解説 時間を超えた言霊の世界からのメッセージ」『幸福な人生 ウォレス伝』、育鵬社、2020年、p.381)
 」
どうやら、ウォレスは名誉や権威のために口を閉じたり、自説を曲げたりする人ではなかったらしい。こういう勇気と正直さは心から尊敬したいと思う。
 
楽山は、自説を持たずに曲がっており、曲がっているのに権威を気取り、学者を気取り、誰よりも自分を「心から尊敬したいと思」っている異常者です。楽山が、「勇気」も「正直さ」も持っていないのに、有名人を引用するのは、自分を高みに置きたい・・という自己愛の方向しかないからです。
 
楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスに対しては、丁寧語で書いても丁寧語の世辞が返ってくるだけです。楽山は、それで満悦するのでしょう。有害な楽山に対しては全否定で臨むしかないということです。
 
一部、だまされて、楽山を擁護する人がいるようですが、具体的に批判するのでないならば、せめて、楽山の美味しい具材になるのだけは避けてください。あらゆる手練手管で、作文の、いたるところに、芝居や罠(わな)を仕掛けてくる楽山です。罪悪感が皆無だからです。
 
3年余りの経過において、楽山の発言は、故意の作為であり、真実の欠片も持っていないし、求めてもいません。自分が気持ちよくなり、インテリと思われることを、欲望しているだけです。あらゆる言論を曲げてきます。楽山を受け入れる言論者は、感性が鈍くなり、理路が弛緩してゆきます。
 
楽山やシャロームのようなサイコパスには、徹底した不感不応が固定しています。そうでなければ、どこかで戸惑うはずです。楽山には、反省、共感、といった言葉はあっても、その前後関係において、実質が欠損していることで、何事も本気でないことが表れてきました。
 
サイコパスの言には、その根底において、怨念とあざ笑いが隠されています。楽山のようなサイコパスは、自分が優れていることだけをアピールしますが、柔和な筆致の裏側に、悲しみのうちに後悔したり反省したりすることが全くないことを意味します。それがサイコパスです。
 
サイコパスには、罪悪感がありません。サイコパスには、遺伝因子と環境因子が関わっていると言われていますが、成人に達するころまでに、良心、即ち、高等感情としての、静かな悲哀の感情が育っていないので、反省したり後悔したり自分を見つめたりすることが出来ないのです。
 
楽山は、私のツイッターの通知欄に書き込んできました。私は楽山を出禁にしています。楽山とは双方が成り立たず、議論にならないのは、既に、3年以上前にヤフーブログで経験済みだからです。言うには言うが、まるで受け取らないのが、サイコパス楽山の特徴です。
 
 
人類の敵は、国家でも民族でも集団でもありません。人類の敵はサイコパスです。戦争や残虐行為などの人災の陰にはサイコパスという人格障害者が暗躍しています。楽山がそうかどうかは、知能の問題かもしれませんが、少なくとも、対人関係と社会生活において、既に、破綻した人生を送っているのです。
 
 
昔聞いた話ですが、精神科に精神病質サイコパスが入院してくると、まず、取り囲んでボコボコにするそうです。一切の説得は無駄で、逆らうとこうなるという強制的な条件付けで対処するということです。楽山の不感不応には、似たようなものを感じます。作為の柔和芝居に騙(だま)されないでください。
 
精神病と精神病質は違います。前者は効く薬があり、精神療法があります。後者は、基本的に治療薬はありません。精神療法は、大方、無効です。生活の場を、制限してコントロールするしかないのです。楽山が議論の場にいるのは、病識がないために反社会性に気づかないからです。
 
楽山は、キリスト教を否定しました。しかし、別の記事では、半肯定しています。楽山には、宗教など、どうでもよくて、理解もしていません。自分は、バランスが取れていて柔和だと見せかけたいだけなのです。そういう成り立たない詭弁を仕掛けてくるので、どうか、直接の遣り取りはしないでください。
 
 
病質の脅威

病質の脅威
 
 
(2022年04月06日)
 
 
 
  聴診器の幻想
 
悔いながら懐かしみ
死にそうで生きていけそうで
ここまでは大した心臓で
 
逆流の雑音を奏でる聴診器は
既に昔の熱(ほとぼり)のように
胸を叩く幻想を傍らに
後ろ向きの赤子と
笑う喀痰の老人を同時に記帳して
費え去る収支のページをめくり
破れた扇子を広げ
無知なる未知に語り続ける
 
初めて字を書いたときの
初めて言葉を失ったときの
初めて忘れたと言ったときの
肉体と精神の継続が
幻想でも現実でもなくなるまで
内緒話の途切れ間を
管のカルテに送り続ける
 
 
  飲兵衛さんの思い出
 
昔学生の頃
バイクで帰ってきて
路地へゆっくり入ったところで
赤いお鼻の
飲兵衛(のんべえ)さんが
バイクに近寄ってきて
紙切れのようなものを差し出して
訳の分からないことを
たいそう不機嫌そうに言うもので
うるさいから無視して進もうと
エンジンを吹かし始めたら
怒ってバイクの前に
立ち塞(ふさ)がってしまった
 
腹が立ったが顔を見ると
やり場のないものが
鬱積(うっせき)しているらしい
どうしよう
このままでは帰れない
無理にバイクを前進させれば
ぶつけて怪我(けが)をさせるか
喧嘩(けんか)になって
こちらが怪我するかも知れない
 
しかたないと諦(あきら)めて
エンジンを止めて紙切れを見た
数字が書いてあった
電話番号のようでもあるが
よく分からない
近くの通りの公衆電話のことなど
首をかしげながら話していると
飲兵衛さんの顔が
和(なご)んできた
 
最後にはニコニコ
笑って通してくれた
 
気づいた
怒った飲兵衛の話など
まともに聞く人はいなかったのだ
皆ごまかして逃げるか
力ずくで押しのけるか
 
しかしこの飲兵衛さん
にだってプライドがあった
あちこちで角を立てながら
さらに傷つきながら
求めていたのだ聞き手を
 
関わるまいと逃げる人
から聞く人へ
キーを回して
エンジンを止めるという行為
それは聞き手になりますよという
こちらの意思表示になったのだ
 
あのとき思った
案外精神科医に向いている
かもしれないという見込みは
見事に外れたが
患者になってしまった今は思う
心を病んでいる人も
それぞれの精神の
受け皿を持っている
 
 
 
 2022年04月04日
 「幸福の科学」の抗議活動
  抜粋して批判。
 
幸福の科学は、政治、経済、教育…など、多方面に向けて意見を述べているので、社会全体のためを考えていないわけではないだろうけれども、批判封じのような抗議が目立つせいか、どうも守りに入っているというか、自己保存欲が強い団体だという印象を受けざるを得ないのであるがいかがだろうか。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、社会全体のことなど何も考えていません。自我の欲求だけを追いかけています。自身に対する批判封じには、悪口記事を書いたり、仲間を利用して荒らしてきますが、根拠を明らかにしたことは一度もありません。
 
楽山は、不感不応の精神を持ち、学習による成長も発展もありません。活性のない石仏というより形の悪い岩石の硬さで、訂正不能です。そのくせ、文句を言われると、当てつけ、嘘、詭弁を弄して、おとしめてきます。時々焼け石~ヤケクソになり、反省という湧き水を持ちません。
 
カルト批判者を気取っています。学者気取り、評論家気取り、インテリ気取りでもありますが、理路は、この3年余り、一度も整ったことがありません。共感、罪悪感、羞恥心などの高等感情がないので、ネットに表れるというより、湧いてくる虫のような存在です。人格の鈍化という毒を持っています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
約3年余り批判記事を書いても、楽山は、憎まれ口ばかりで、それで全く平気でいられることが、サイコパスである証拠となっています。そこまで明らかなのに、楽山は、私が反論させないと言って、まるで民主主義であるかのように言ってきます。楽山は、ロシアにように、民主主義から最も遠いネトウヨです。
 
楽山に議論の理路はありません。感性もありません。楽山は、自己愛だけがあって、そこから決めつけの悪口の類だけを投げてきます。どう、のぼせ上がれば、どういう精神状態ならば、楽山のようになってしまうのかは、理解不能ですが、楽山と議論することは、精神衛生上、禁忌です。
 
詭弁によって相手を混乱させてくる楽山と、直接の遣り取りをすることは、既に、3年以上前に、私の精神を守るために、しないと決めています。楽山は、他者の意見を、何も受け取れない人です。私の記事とツイッターで批判して、一般読者に、不感不応の楽山に近づかないようにお願いしています。
 
 
 
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  現代の偽善者3
 
 
二千年前のキリストの時代には、偽善者は分かりやすかったかもしれません。聖書のパリサイ人と取税人の祈りにおいて多くの人は、かなり、はっきりと分かるでしょう。尊大で傲慢なパリサイ人と、赦しを乞う以外になかった取税人は、明らかに違っていました。
 
現代のパリサイ人つまり偽善者そしてサイコパスは、そのような分かりやすさを持ちません。現代の偽善者は、柔和な言葉遣いの丁重な挨拶から始まります。
 
現代の偽善者は、誰でも賛同するような話題を用意しています。そして、褒め言葉や讃美言葉で熱心で敬虔な信仰者だと思わせてきます。現代の偽善者が、尊大で傲慢になるのは、何らかの知的な話においてか、追いつめられたときでしょう。
 
宗教、政治、思想、などについて、彼らは、自分が知的に上だということを誇らしげに示します。中身はないのに、評論家のような立場で物を言うでしょう。こちらの話は受け取らず、弁明せず、自分の言い分だけを繰り返します。
 
その上で、じわじわと相手を貶めながら、従うことがベストだということを刷り込んでゆきます。うっかり関わり続けていると、気づかないうちに刷り込まれてゆくのです。彼ら偽善者の言うことが、すべての人に広まったら、いつのまにか、気づいたら、とんでもないことになっているのです。
 
彼ら偽善者の言うことが、何よりも自己中心を土台としていることを覚えてください。けっして自らの罪や過ちを認めず、悔いることがないということ。
 
偽善者の判断は、真実として、良かった、悪かった、近い、遠い、ではなく、策略として、うまくいくか、まずいか、という判断だけなのです。大事なことは、彼ら偽善者の言うことが、聞き手に対して、常に、上から教える態度に終始していることに気づくことです。
 
彼らの言うこととが、世辞の感謝やお詫び以上には、けっして微塵の反省も含まないこと、これらに気づいたら一目散に逃げてください。コメントにレスしないで無視して下さい。けっして彼らの話に乗らないでください。質問も確認もしないでください。
 
話し合おうと思ったりしないでください。説明を求めないでください。詭弁と無理解だけが返ってきます。現代の偽善者は、覚悟の批判者だけが疑い、消耗を覚悟しながら批判する対象です。
 
彼らは、病的ナルシスト、精神病質(サイコパス)、自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)、病質者、異常者、偽善者、変質者であり、聖書のパリサイ人の、現代文明による進化型なのです。
 
 
現代の典型的なクリスチャンは、相手の本性を確かめることなく、穏やかな話には乗りやすい傾向があります。教会で穏やかで美しい話ばかり聞かされてきたからです。批判禁忌を教会が刷り込んできたからです。現代の偽善者は、そこを狙ってくることを忘れないでください。
 
昔のパリサイ人は尊大で無知でした。現代の典型的なクリスチャンは、そのままでは、だまし言葉と詭弁だけを仕込んできたような現代の偽善者には敵いません。
 
超常信仰から自らが行う儀式的な行為の神秘性を、本気で信じ込んでいた者もいたかもしれません。今の偽善者は、良心がなく、代わりに、丁寧と柔和を装い、意図して、だますことを企みます。批判禁忌を教えられた信仰者は格好の餌食なのです。
 
 
現代の偽善者は慇懃(いんぎん)で狡猾(こうかつ)

現代の偽善者は慇懃(いんぎん)で狡猾(こうかつ)
 
 
(2019年05月24日、同日一部修正)
(2021年03月21日、再録+)
(2022年03月25日、再録+加筆)
 
微塵(みじん)
騙す(だます)
敵う(かなう)
餌食(えじき)
 
 
 
  一枚の写真
 
若い頃の私の顔
写真の中の
とりわけピントのぼけた
青年よ
私はその一枚が好きだった
しかしその微笑よ
お前があまりに狡(ずる)かったので
想い出になることも
死ぬことも許されず
この顔になった
老いへの無知が傍らで狂乱している
かつての青年よ
この顔に対して
私は殺したいほど
抱きしめたいほど両価性だ
 
 
  膏肓
 
横隔膜は病気です
胸がつかえて深呼吸したら
声帯が震えました
それを歌だというのです
腹がもたれて運動したら
筋肉がつりました
首と腰がきしみました
それをリズムだというのです
イメージは病気です
眠れない夜が明けるころ
うとうとし始めた頭を振りました
それを意志だというのです
目をこすり顔を洗い
水が目にしみて
手探りでタオルを取りました
それを狡いというのです
 
 
  黒く細い道(抜粋)
 
昔どこまで続いているのか分からない
黒く細い道があった
どこか人里離れたところへ
向かっているようだった
幾度か足を踏み入れそうになった
しかし早々とその道へ
行ってしまった人を見送りながら
 
本当は人里離れた所で
絵でも描いていたい暗く細い体は
場違いな明るさに
外側から腐ってゆく脳ミソを抱えて
漸く手に入れた紙切れに乗って
随分と長い間
違う感じの人々の場を奪っていた
今になって
あの黒く細い道を行くと体は
内側から腐ってゆく脳ミソを
抱えることになるのだろうか
 
腐る腐らないは道によるのではない
道は踏まれる所に出来るものだ
 
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13分
この場面は、
カルト呼ばわりされたことに対して、
いかにもカルトっぽい言葉使いで反論してて、
思わず吹き出してしまったところです(笑)
これはようするに、
「わたしたち幸福の科学は、愛と悟りとユートピア建設を説く正しい宗教です」ということだし、
ぬけぬけとよく言えるなあ。
午前9:38 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、自らの招いてきた事態を全く気にしないで無視する、という、楽山個人の「いかにもカルトっぽい言葉使いで」、反論も出来ないのに、「思わず吹き出してしまったところです(笑)」と書いています。自身の無反省と無責任が招いた不都合を何も気にしていないことが表れています。
 
楽山が、高等感情を持たない病質者らしく鈍麻を表して、揶揄して「(笑)」などと書くのは、自分は正しいから余裕があるとでも思っているのでしょうか。「ぬけぬけとよく言える」ものです。
 
楽山は、「愛と悟り」も知らず、他者の意見に不応で、自らの惨状に不感の、人格破壊的な偽「ユートピア建設」の妄想をいだいている自己愛執着の、気取りだけで他者を揶揄して遊ぶ原始的な自己虫病質者です。自覚が何もないということを、一生、繰り返し表して続けてゆくのでしょうか。
 
楽山は、決して、誰の味方にもなれない人です。
 
今日も、楽山の言葉が、楽山に返って、楽山を斬ってゆくだけの、楽山の人生になっています。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
申し訳ないが、「HSの悪口を書いていながら、HSで取材できると思うな。取材したいなら、HSに対して相応の礼を尽くしてからにせよ」と聞こえてしまう(笑)
それから人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います。
午前11:28 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
楽山は、「申し訳ないが」という政治家の慇懃無礼の口調で言っています。
 
「人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います」・・違います。犯罪者は、明らかに人権を制限されています。現状、最高刑は、死刑であります。つまり、公共の福祉に反しない限りでの人権です。
 
したがって、嘘吐きと偽善の悪行を働き続けている楽山には、人権を云々する資格はないのです。礼を尽くさず、礼の芝居でごまかす丁寧語で、宗教を子供じみた霊と超常の話と未熟な机上の理路の破綻で語って揶揄し、人を欺き続けている楽山は、首を洗って待つしかない立場でしかありません。
 
言い換えれば、楽山は、天然自然のあり方に、真っ向から反しているということです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
「歴史的資料となるだろう。」とは誰の言葉なんだろう。
ふつうは、本の帯にある推薦文は、他者によるものだと思うのだが、
まさか、まえがきにある著者本人の言葉ではあるまいな? 絵文字(口を開けて笑っている顔)
午後4:18 · 2021年3月20日·Twitter Web App
 
このように、楽山という人は、他者のみっともないことや、自分より劣っていると思う人を見つけて笑いたいだけだろうと思います。そういうことが見つかると、このツイートのようなことを書かないではいられないのでしょう。
 
結局、日常でないところ、つまり、一つは超常の現実離れ、もう一つは、恥ずかしいゴシップが、楽山の唯一の楽しみなのでしょう。楽山は、心からの笑い、例えば、おかしいのではなく、心が温まって笑顔になるようなことが出来ないようになっています。
 
楽山は、あざ笑いや高笑いはあるが、微笑みはない。共感という言葉を使っても、共感の実質がない。辻褄が合ったり、面白おかしかったりすると、感動という言葉を使うが、感動が伝わってこない。反省という言葉は知っているが、反省と言う前と後で、何も変わっていない。
 
楽山は、真摯、真剣、真面目、丁寧、ということを装いながら、その実質が全く見られません。腹の底では、他者を見下げていて、あらゆる不幸を、笑いの種と、芝居の種にするだけで、本気では何も気にしていないのでしょう。しんみりした深い情緒を感じとるセンスがないからだろうと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、「反省、謝罪」が「難しい」のは「人間の性」だからと言っています。「嘘」「卑怯」は、「人間の性」でしょうか、否、良心があればないことです。それを、悔いることなく、常習としてやってきた楽山は、まるで予言されたかのように、人間で在り続けることが出来なくなっています。
 
 
 
仏教系の荒らしがツイッターの通知欄に来たようです。
 
ハリツケにされたユダヤ人の罪人を拝んでも救われません。
因果応報を説かない低級な教えです
 
仏教系に、信じてもいないキリスト教を荒らす人がいるとは思いませんでした。抑制できないなら出禁です。真の仏教徒ではないのかもしれません。
 
キリスト教は実に幼稚で、程度が低い宗教だ。(中略)キリスト教という邪教は、この世から除去、根絶、禁止させねば絶対にならぬ。
 
何様かのつもりで言っているようです。キリスト教信仰の深さを知らないようですが、言っても無駄でしょう。宗教を勘違いした妄想的傲慢が、とても臭いです。
 
成熟した大人なら、罵詈雑言吐いても、何の解決にもならないことは知っているはずなんですけど、未熟なほど、感情的に大口を叩きます。そういう分かりやすさだけが長所でしょうか。
 
キリスト教のかたは日蓮正宗寺院までお越しください
 
以上のコメントで、行く人はいないと思います。
ハリツケ(磔、貼り付け)になっているのは誰でしょう。
 
 
 
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  楽山の害
 
 
この記事は、確定に至っておりませんので、今後、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
● 楽山の狡猾で執拗な詭弁:ボンヤリ言語による詭弁の刷り込み。
 
批判する意志を持たずに読めば、気づかないうちに、楽山を、そう言えばそうかな、みたいに、否定できないでいて、やがて、それが、受け入れ、肯定してゆくことにつながってゆくことになります。
 
丁寧語、ときに若者言葉、曖昧表現、社交の世辞、などを使って、はっきり言わず、先入観的な内容や印象を、刷り込んでゆくところの、ボンヤリ言語は、特に感動したわけでもないのに、いつのまにか、受け入れてしまうという事態を生じます。
 
犠牲者は、ゆくゆくは、楽山に似た人格傾向が表れると思います。つまり、全体に、うすぼんやりした発言しかしなくなる危険があり、それによって、楽山と同じように、刷り込みによって、責任を回避しようとすることになるでしょう。
 
まさしく楽山の、不感不応による無反省と無責任と無理解と他者の無視と同じような人格像に陥るかもしれません。
 
即ち、曖昧にネチネチ言い張ることしか出来なくなり、言葉の使い方にとどまらず、人格そのものが改変されてゆくでしょう。これは、成長の要素が皆無であり、人格破壊と言ってよいと思います。
 
似て非なる言葉の同一視による刷り込みもあります。例えば、「人それぞれ」「人は人、自分は自分」という言葉の妥当性からの、"自己中心" の正当化などがあります。実際は、前者二つは個人の意志の尊重であり、後者の自己中とは全く違います。
 
お笑いのペコパにも似ていますが、楽山のは、笑うどころか、極めて有害で人格破壊的な詭弁の一種であるところの、「と言えなくもない」「と否定できなくもない」「なさそうである」「相通ずるものがある」「ならなかったのではなかろうか」「かなあ」「ていうか」「なんだろうな」等々の言い回しもあります。普通の使い方とは違う、一種独特な、責任回避のための、捏造の婉曲表現です。
 
● 楽山の反省芝居:トホホ言語による謙虚芝居。
 
反省、および、反省を表す言葉、実際に "とほほ"、自己否定的な言葉、これらは、総て、楽山の三文芝居です。ゆえに、文脈において表現が浮いており、その前後においても、楽山は、何も変わっていないことが、流れの中で、判断の証拠となってきました。
 
つまり、楽山は、平気で、利己のために、嘘を吐く男です。こういうのは、読んでいく時の、何とも言えない違和感・不快感に気づかくことが、必要です。
 
楽山は、弱気など持っていません。弱気を表すのは、卑劣な受け狙いであり、ゆえに、極めて有害な、三文芝居による精神の詐欺行為であります。
 
つまり、楽山は、弱気どころか、真逆の、訂正不能の鉄仮面の、厚顔無恥であります。恐らく、高等感情の鈍麻から来ていると思われます。
 
楽山は、共感、深い、心から、などという言葉を、わざとらしく書いて強調することがありますが、前後の文脈から乖離しており、それまでの記事の流れとも矛盾しており、作為的な、冷淡な人格を隠すための嘘であり、楽山には、しんみり悲しむこと、共感すること、などの深い情緒の感受性が、欠落していると思われるので、真に受けないでほしいと思います。
 
楽山の理路は幼稚で、簡単な理路を組み立てたり読み取ったりすることも出来ないことが、錆びたオモチャを並べるような文章を書いていることに表れてきたからです。そのくせ、結果だけを、執拗に書いてくる筆致は、先入観に執着するだけで、訂正不能になっています。
 
楽山は、学習しないから成長せず、都合の良い材料を、他者の文章から探してきて、そのまま、繰り返すしかなくなっています。本を読んでも、新鮮な知識や情緒を受け取ることが出来ず、先入観の固定観念に合うもの部分だけを、自分の好みで拾って書いて強調するだけになるのです。
 
人間は、一生涯、学習し、反省し、成長する生き物です。そういう努力をしない者は、どれだけ、本の数を重ねても、どんな有名人の話を引用しても、努力したことにはなりません。
 
言論にしても、思想にしても、感想にしても、公表するだけで、賛否を問うて反省と学習をしなければ、思考の糧にすることがないわけですから、実際上、無意味で一方的な主張の繰り返しにしかならないわけです。それは、子供が、言い張って、聞かないのと同じなのです。
 
そういう者は、結局、よく思われるために、うわべを繕うことしか出来ず、そのために、数々の、嘘や詭弁や、権威や有名人の名前までも利用・悪用して、飾り、だますしか、なくなるのです。高名を悪用したとしても、ネットの片隅だから、迷惑行為など、バレないと、高をくくっているのでしょう。
 
それにしても、1年半~2年近く批判されて、まともに弁明できないくせに、反省もせず、修正もせず、嫌がらせのような返しを時々してくるだけで、答えにも返しにもなっていないのに、書くことだけはやめない高慢というのは、どう考えても、異常であります。
 
そう考えてゆくと、相当に、思想も精神も荒廃しているとしか言えない、というのが、今までの経過であります。つまり、飽くなき、無反省、無神経、無責任、無理解が、自己愛と自己中によって、無益な文章を書き続けている病質であろうと判断しています。
 
 
ネットですから、私は、楽山の書いた文章から判断しています。
楽山は、悪質な詭弁屋で、精神の詐欺師という判断です。
 
楽山については、既に、批判する前の、だまされていた数か月を、私は経験済みですが、結局おかしいと気づいた時も、その後の、それぞれの記事を読んだ時にも、いつも、吐き気がして、加えて、ただの意見の相違にとどまらない、とても異常な疲労感を覚えます。
 
自分への害だけを考えるなら、批判を書かなければ済むことですが、それでは、キリスト教の信仰を、ほしいままに、おとしめる者がいることを知りながら放置することになるので、やせても枯れても言論するキリスト者としては、看過できないということであります。
 
こういう場合に、神の導きに任せる、などと言うことは、できることがあるのに、それを放棄することになります。キリスト者の実践的務めは、ただただ、できることする、ということに尽きます。ですから、何かできることがあるのに、しないというのは、明らかに、神の前に、怠慢であります。
 
この記事は、私レベルでも、確定には至っておりませんので、今後、生きておれば、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
 
騙す者

騙す者
 
 
(2020年12月16日)
 
 
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