ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:絶対

 
  当てにならない2
 
 
私たちは実に当てにならない世界に住んでいます。実際は、当てにならないのは私たちの心であり内部なのです。
 
入力は総て感覚器を通している。内部処理は総て脳が行っています。いずれも寿命が尽きればなくなるものであり、これらは、寿命がある間は維持されるけれど、本当に変わらないで維持されているかどうか、検証は不可能です。
 
当てにならない世界を、当てにならない知情意をもって、断定できる何があろうか。
 
しかしながら私たちは、当てにならない世界において、当てにならない知情意をもって、判断し実行するしかないのである。それが人間の不完全性である。
 
神が絶対でも、あるいは、たとえ絶対がどこかにあっても、私たちには絶対はない。それを知ることが信仰の始めです。絶対とは不変に正しいこと。非絶対即ち相対とは可変で、ときに、当てにならないこと、そして変わりうること。即ち、学習と成長を旨とするべき存在、それが人間です。
 
当てにならない知情意をもって、当てにならない感覚・知性・感性をもって、生きてゆくのに絶対は全く向いていない。にもかかわらず、絶対の訂正不能で、ワナを仕掛けてくるのが、楽山です。
 
神の属性である不変は、変わることなく成り立つということであり、神義すなわち神の正しさも、真理の働きを持ちます。人は、神を、つまり、絶対を、理解することなど出来ません。ゆえに、人と運命を共にする仲保者が、キリストであります。
 
人間の正しさは不変ではなく、より正しいことによって、また状況によって、否定され超克されてゆくのが、人生です。これを人間の相対性と呼びます。信仰をもっても、この相対性は変わりません。これを、一般的には、罪深さと呼んでいます。
 
人間に成り立つ絶対性は、絶対は絶対にないという循環論法にしかなりません。
 
自覚の弊害として、人の絶対は慢心し訂正不能を好みますが、自覚の必要として、人の相対は努力して成長することを求めるでしょう。
 
しかし、人は絶対を求めやすい。絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。だから絶対の存在を確定しようとするか、あるいは確定したつもりの言動を、神の御心だと言って神聖化しやすい。それを信仰と呼び使命と呼び確定して、感じることと考えることを疑いだと、退けてしまいやすい。
 
絶対は神のもので、人は決して絶対を確定できないのに、気安く正邪を神の立場で決めつけやすい。神とは違う人としての身の程を弁えることが信仰の始めであるのに、味方としての神しか欲しがらない信仰は、戒める神と懲らしめる神をそっくり除外して、揺るがない信仰だと思いやすい。
 
これらもまた相対的で不完全な人間の罪性である。
この人の罪性ゆえ、キリストは十字架の道を歩まれる。今も。・・である。
 
 
あらゆる悲劇は信仰者にも起こりうる。その理由は神の秘密ということがある。神は、いつも分かりやすく恵むわけではない。神の考えることを人がいつも理解できるわけではないのです。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、私たちの狭い見識と視野と能力では、神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力、即ち、全能を理解できないことを考えるべきでしょう。真の信仰者は、既に、知っていることです。ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とする。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っている。神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、地上のみならず、総ての世界での計画を持っておられるのでしょう。その詳細は、神の秘密、神秘である。神を恐れるべきとは、このことであります。
 
人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではない。
理解できたら、信じる必要はないからです。
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは
いつも
人の絶対を確信し保証するカルトである。
 
人の相対性は、その自覚は、
信仰とカルトを見分ける決め手ともなるだろう。
 
 
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。また、偽善と偽悪の問題もあります。
 
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
イエス・キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性では語れないところの、優れた洞察と共感を誰にでも示しておられる、というだけで、神聖と信じています。
 
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実だと思います。そこから信仰の敬虔が生まれます。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限らない。
 
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのです。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、信仰からは、離れる方向だと思っていたほうがよいでしょう。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人を騙すのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのか・・などと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすい。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのである。
 
私たちは、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じている。
 
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが、いかなる正しさも、人が敬虔を忘れるとき、絶対の正しさではありません。また、実際には、口で信仰といっているだけの偽善者もいます。聖書のパリサイ人がそうでしょう。私たち信仰者は、罪を認め、悔い改めることが、信仰生活として必要です。
 
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。心を決めつけることは、経験による学習を怠けることになる可能性があります。決心は、暫定的な結論であり、言動の原動力ですが、絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。
 
相対で不完全な人間は、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。
 
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は汚れ過ぎています。洗礼は、神に対する人の信仰告白の儀式です。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも、求道者でも、異教徒でも、無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、否であります。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の心を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであります
 
そして、人に対しては
その"神の前の正直をもって武装"しておくことが大切なのです。
 
 
神に対して、偽り、あるいは、飾る人は、人に対しては、さらに嘘を吐き、自分を立派に見せかけるでしょう。神の前での正直を努めない人は、いかなる讃美の美辞麗句を弄しても、キリスト信仰者ではないのです。パリサイ人は誇り、取税人は自らの胸を打つ喩え話に表されています。
 
 
真理は神に 人には人の真実

真理は神に 人には人の真実
 
 
(2020年04月02日)
(2022年04月03日、再録+加筆)
 
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
  真実
 
宗教人のあわれみは
ときどき気色が悪かったりするので
やめておいたつもりの男が
自分を憐れんだり憎んだりするので
きっと地球は丸いのだなと
あくびをして考えてみるに
 
子供を戦場に送って死なせたり
科学者を殺したりした中世の教会を経て
まだ教会というのがあるのは
昔のことを悪者にして
あれらは間違っていて
あれらは悪かったと
言えるおかげさまだったりしている
 
地球が太陽のまわりを回っていることは
今は誰でも知っているけれど
相変らず日が昇ると言い日が沈むと言っている
感覚というものから
科学はどんどん遠くなっていく
 
宗教人の求める真実が
遠くなりませんように
軽々しく人を憐れんだり
憎んだりするときに
お前が間違っていて
お前が悪いと言ってもらえる
お叱りと憐れみがそばにいて下さいますように
 
面倒は嫌いなので
青信号を
緑信号と呼ばなくてすみますように
急に地平線や水平線がまるくなったり
地球が昇ったり沈んだりしませんように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘と詭弁で言葉をいじって、自分を高める?ことだけしてきて、罪を認めることも、悔い改めることも、鼻で笑って、気にしない楽山です。いくらインテリや学者を気取っても、教える姿勢だけでは、ズルズルな自我の低格が表れるだけです。柔和を装う楽山に、決して関わらないでください。
 
楽山は、何を興奮したのか、最近、二度にわたって、大量の記事を書いてきました。そこに私の発言が引用されていますが、前後関係を無視して、"stは、こういうことを言う奴です" と決めつける乱暴が表れて、結局、楽山は、自らの正体である荒らし体質を、自分で、さらす結果になっています。
 
 
 
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  神を恐れる心
 
   記事「神を恐れる」を修正加筆して再録
 
 
次のようなことを書いたことがあります。
 
「神は漠然としているのではありません。
 漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
 キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
 人の知恵では決めつけられない御方ということです。
 漠然とした神のイメージさえ、人においては正しくありません。
 私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
 神は、決して人の見識の対象とはなりません。
 私たちは、祈り願い、受ける立場でしかありません。」
 
キリストが父と呼び
私たちが信じる神は
私たちが知らないだけであって
漠然とした神などではありません。
 
漠然としているのは私たち人間のほうです。
 
不変の神に比べて
移り気で変わりやすく
不安定で偏りやすいのは
私たち人間のほうなのです。
 
私たちは神について想い考えますが
それは、不正確な想像という罪を承知で
想い考えるに当たってそうするしかないからであって
信仰の内実において神を対象化してはいけません。
神は
人の想いと思考などという有限が向かうところの
対象に並んでいるような御方ではないからです。
 
神を信じるということは
神のイメージや概念を信じ込むことではなく
神についての人の見識の絶対性を否定することです。
神についての人の思いを相対的とすることです。
神についての人の情熱を相対的とすることです。
 
神の御心は変わることはありませんが
神について人が思うことは
そのときの思いに過ぎません。
可能性に過ぎないのです。
だから祈りのうちに
さらなる導きを待つしかないのです。
 
神と人の契約とは
赦しと救いの約束であり
人が人らしく
神の前に低い存在であることを自覚しているあいだ
無効になることはありません。
 
人が神や神の意志と行為を決めつけることは
自分が神と同等だと言うに等しく
人が神の前に故意に隠し事をすることは
自分が神を騙せると思うに等しく
いずれも
人が神の前に低い存在という自覚を失っている姿です。
それは、神に対する反逆であり
ゆえに、その時、人が赦しも救いも拒んでいるのです。
つまり
神と人の契約を破棄するのは
まさに、人の側でのみ起こることなのです。
 
神との救いの約束が破棄されることはありません。
 
あるとき傲慢であっても
そのあと悔い改めて
神を恐れるにふさわしい姿になれば
神の側は破棄していないのだから
救いの約束は恵みとして有効になります。
 
自分を愛し救い
自分に命の恵みを与える神が
あらゆる生殺与奪の全能を持つ神であり
人間などが
うっかり友だちのように
近いなどと思ってはいけないことに気づき
神を恐れること
それが信仰の節操の始まりです。
馴れ合いは
神に対しては成り立たないということです。
 
言うまでもなく
神は
人間の俎上や机上に載る御方ではないのです。
 
恐れる神に比べて
聖書から
キリストに愛され癒やされることに気づき
キリストを愛するようになること
それが信仰の情熱の始まりです。
 
信仰は
人にとって
神がかったと言われるような
超常のものではありません。
 
神という永遠不変は
人が超常を知らないことを
隅から隅までご存知ですから
超常を知らなくても理解と共感が可能な
人間として正直な信仰を
キリストを遣わすことで与えられたのです。
 

神は理解する対象ではありません。

希望として信じ仰ぐ対象です。

 
 
えいえん

永遠
 
 
(2020年11月17日)
 
 
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