ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:練習用

 
  二つの言葉について
 
 
  「一期一会」
 
生涯に一度だけ会うこと
・・これだけだと何となく分かりにくい感じ?・・
それで
次に再開できるという保証のない人の世において
会っている今ひとときが全て ( なのだから、
相手を大切にもてなさなければいけない )
と受け取ってみる。
・・ひとときが永遠・・という広がりを
感じさせる言葉になるような気がする。
 
(ネット検索)
一期一会の解説 - 三省堂 新明解四字熟語辞典
いちご-いちえ【一期一会】
一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること。生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意。もと茶道の心得を表した語で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきことをいう。▽千利休の弟子宗二の『山上宗二記やまのうえそうじき』に「一期に一度の会」とあるのによる。「一期」は仏教語で、人が生まれてから死ぬまでの間の意。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B8%80%E6%9C%9F%E4%B8%80%E4%BC%9A/
 
 
 「国破れて山河あり」
 
人間の無常と自然の悠久のようだが、
否定的に読むと、
国が滅びて山河だけしか残っていない。
肯定的に読むと、
国は滅びたが山河は今なお昔のまま残っている
という希望とも受け取れる。
 
さらに
国が滅びても
山河を「山河」と呼ぶ人々は今なお残っている
という希望とも受け取れる。
 
さて仮に
「人類滅亡して自然あり」となるとどうだろう。
前に
人類が滅亡しても自然は自然であり続ける
と書いたことがあります。
あながち間違っているとも思えないのだが、
見方を変えると、
人間のみが自然を認識し「自然」と呼んでいるのだから
人間がいなくなれば、その認識そのものがなくなり、
つまり
人類が滅亡すれば、もはや自然 ( と呼ばれるもの ) はない。
 
すなわち
「人類滅亡して自然なし」という見方も出来るかもしれない。
人類が滅亡してしまったら
山河を「山河」と、自然を「自然」と、
呼ぶ者がいなくなるという意味で。
 
(ネット検索)
国破れて山河あり - 故事ことわざ辞典
国破れて山河ありとは、戦乱で国が滅びても、山や川の自然はもとのままのなつかしい姿で存在しているということ。
有為転変の世の中と変わらない自然とを対比し、感慨深くいう言葉。 杜甫の詩『春望』の冒頭の句「国破れて山河あり、城春にして草木深し(国は滅亡したが山や川はそのままで、町には春が訪れ草木が茂っている)」から。
「国敗れて山河あり」と書くのは誤り。 自然災害などの影響を受けず、自然が残っていたという意味で用いるのは誤り。
http://kotowaza-allguide.com/ku/kuniyaburetesanga.html
 
 
(2011年12月11日)
 
(2019年06月01日、修正)
 
悠久(ゆうきゅう)
 
 
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  海の出来事(再録)
 
 
小学校の間にクリアすべき課題が3つありました
鉄棒の逆上がり、自転車、泳ぐこと
どれも私は出来ませんでした。
 
中学校になって
低い鉄棒なら逆上がりは出来るようになり
自転車も何とか乗れるようになりましたが
泳げません
 
ある日、友だちとプールに行きました
うつ伏せで手足を伸ばして目をつぶって浮く練習
お腹に何か触る
目を開けたら底でした
また友だちは何度やっても出来ないのに
私はプールの底であぐらをかくことが出来た
 
導かれる結論は
そのとき私という人体の比重は1よりも大きい
 
あるとき青年の私は海に行って
泳げないので
海面が胸くらいのところで立っていました
 
子供がパシャパシャと泳いで来て
私の横で止まって立ち泳ぎを始めました
私は横で見ていました
 
バシャバシャ・・
あまり上手ではないな、練習か
私は横で見ていました
バシャバシャ・・顔が沈んだり浮いたり
私は見ていました
ゆがんだ顔がとても真剣になりました
私は見ていました
血相が変わり、すごい顔で
手を私のほうに伸ばしてきました
バシャバシャッバシャッバシャバシャバシャ
あれ?と
私は歩み寄り腕を差し出しました
その途端、子供は腕にしがみついてきました
私はしがみつかせたまま歩いて岸のほうへ戻りました
 
その子の友達が驚いたように
「だいじょうぶや?」とか言ってました
私は「沖へ向かうと危ない。岸に沿って泳ぎなさい」と
言えないまま離れて行きました
 
泳げない私が
溺れかけた子どもを助けた
 
私が為すべきこと、それは私に出来ること
というのが
あのときほど明らかだったことはありません
あれが最初で最後だったような
 
大学も仕事もうまくいかず
・・そして気の遠くなるような時間・・
 
還暦近くなって
テレビを見ても、誰の言うことを聞いても
もっともらしく思えるが
実は誰の言うことも信用してなくて
疑い深く
面と向かっては何も言えないくせに
テレビの名言には反名言をためしに呟いてみたり
ネットでは疑問や反対意見や批判や
暗いことばかり書いてる
 
泳げません
 
 
(2011年11月03日、同日若干修正)
(2019年05月29日、若干修正)
 
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  著作権とは(+お詫び)
 
 
「著作権(ちょさくけん、英語: copyright、コピーライト)は、知的財産権(知的所有権)の一種であり、美術、音楽、文芸、学術など作者の思想や感情が表現された著作物を対象とした権利である。このうち著作者の権利は、財産的権利(著作物を活用して収益や名声などを得ることができる著作財産権)と、人格的権利(著作物の内容と著作者を紐づけることで、著作者の人間性を正確に表現する著作者人格権)に分類され[1][2]、とりわけ著作財産権は狭義の著作権と同義とされる[3]。また、著作物を伝達する者(実演家、レコード製作者、放送事業者など)に付与される権利(著作隣接権)[4]も最広義の著作権の概念に含まれる[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9 」
 
 
最近、 YouTube の音楽動画について、Tという歌手のコンサートの、曲ごとのライブ動画が次から次に削除されている。T歌手については、シンガー&ソングライターであるが、歌だけでなく、ステージでの表現が気に入っているので、残念である。
 
さて、ならばと思い、それに相当するだけの有料サービスとして、動画のディスクか、ダウンロード版が売られているかと言えば、ないのである。
 
著作権を、杓子定規に解釈して、当然の権利だとばかり削除しているのではないかと思う。
 
しかしながら、代替というより本家本元の有料サービスを提供しないで、著作権だけで、削除の正当性が成り立つだろうか。
 
これは、公共に対する義務を果たさないで、権利を行使していることになりはしないだろうか。
 
歌だけなら、CDが出ていて、私は、既に持っている。しかし、ステージパフォーマンスが加わることで、魅力的となり、というより、歌だけでは、味わったことにならないとさえ思う場合、代替となる有料サービスさえも用意できないならば、削除は不当ではないかと思う。
 
現物が、どこにも売られていないものについて、誰のものかを明記した動画を著作権によって削除することは、はたして正当だろうか。
 
代替となるサービスが提供されるまで、削除するのは望ましくないと思う。
 
 
(削除された動画に書いてあるメッセージ)

この動画には WMG さんのコンテンツが含まれており、著作権上の問題で権利所有者によりブロックされています。

 
著作権を一括管理しているのは、配信会社ではないのか。これは、口実ではないのか。それに歌手本人以外の人についてならば、映像を見たいとは思わないのである。
 
 
著作権は、多くの場合、既に発表されていて、販売されているものについて、その権利を一定期間独占するものではないのか。
 
著作権違反だからと、代わりのものを提供しないまま削除する、という行為は、やはり、公共の責任を果たさずに権利を主張することにならないのだろうか。さらに広く言えば、公共の福祉に反するのではないだろうか。
 
YouTubeへのアップを無条件に弁護する気はないが、目に余るものを感じたので、記事にしておきます。
 
 
「著作物の定義・範囲、著作物の保護期間、著作物の管理手続や著作侵害の罰則規定などは、時代や国・地域によって異なるものの、国際条約を通じて著作権の基本的な考え方は共通化する方向にある。しかし、著作物のデジタル化やインターネットの社会普及に伴い、著作権侵害やフェアユース (無断利用が著作権侵害に当たらないケース) を巡る事案が複雑化している時代趨勢もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9 」
 
 
(2019年04月13日アップ、同日一部修正)
 

体調不良のため訪問のほうが滞っております。申し訳ありません。

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「Trad(DVD付き)」というのを買いました。DVDのほうに、2000年コンサートのライブ映像「カムフラージュ」「駅」その他の動画が載っていました。よって、代替品がない、という私の上の主張は撤回いたします。すみませんでした。
(2019年04月26日、加筆+お詫び)
 
 

 
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 母のこと
 
2012年、腰椎圧迫骨折で、整形入院後、介護施設に移る。認知症と診断される。
以後、月一回一時帰宅。記憶の障害と混乱顕著。被害関係妄想。病識無し。
しばしば口げんか。互いに我慢できず、ときに怒号飛ぶ。最近は話し合いは、私は諦めムード。
施設のほうで、2回ほど転倒骨折、ときに尿路感染か、内服治療。等々、現在に至る。
今年、2月8日で、母96歳。私は、2月24日で、65歳。
 
3月2日土曜日
介護施設より連絡あり、発熱で病院へ。39度。点滴の要ありとのことで、入院となる。
日曜か月曜に、入院の手続きに来るように言われる。
3月4日月曜日
病院へ。熱は下がっている。主な診断名は、
1.敗血症、2.尿路感染。1.に驚くが、除外診断のようだ。点滴中。
比較的多弁で上機嫌だが、心身ともに病識無し~希薄なり。
夜が心配。内科入院で大丈夫か、など心配だが、まずは入院にて様子を見る。
 
(2019年03月04日、同日一部修正)
 
なかなか、訪問する時間と心の余裕がなく、失礼いたしております。
 
 
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  相対性とユダ
 
 
神が絶対ならば、完全となり得ないことが自ら分かっている人にとって、人の世界は相対的にしか存在しないことになる。私たちが、ふつうに在ると思っているものは、皆、私たちの感覚を脳が、在ると認知しているに過ぎないものだ。ならば、神さえ、在ると認知しているに過ぎないものか、そうではない。神は、人などによっては、認知さえされない御方である。神は全能であり、人は不全だからだ。
 
まるで、神が、同居人か恋人か家族か友人であるかのように、さらには愛のストーカーであるかのように、神を信じて、愛し愛されていると思い込んでいる者は、まだ真の神を、そして、神について人の知恵で弁えるべき最低限さえ、信じても仰いでもいない。
 
神の意思と言葉は、人の言葉にも、さらには、人の概念にも、変換できないものである。私たちは、聖書と、神の造る成り行きを、間接的に、リアルではなく、あたかも、幻を見るように見て、あるいは傍観して、暗示的に受け取り解釈している。
 
だから、神を、何も決めつけずに、信じ仰ぐことが必要になる。しかし、人は時々決めつけることがあり、ゆえにそれは少なくとも修正可能でなければいけない。それが、相対的にしか在り得ない人の宿命である。神を相対的に信じることしかできないならば、信仰も相対的であるか、そうである。
 
ユダは、キリストの教えを理解できず曲げて受け取ったから裏切り者としての道しかなかったのか、そうではない。他の弟子も、キリストの意思を分かってはいなかった。ユダは、理解が足らなかったから救われないのではない。ユダは、理解が足らない自分を自覚せず、自分の理解に頼ってキリストを進ませようとしたから、裏切るしかなくなった。
 
他の弟子たちもキリストを理解はしていなかったが、彼らは、それでも、キリストの教えを最も大事にして、そのときそのときに、キリストの言葉を受けては無い知恵を振り絞ってキリストについてゆこうとした。それは、復活までは、大方、間違っていたけれども、そこには、キリストのみに頼り、キリストに反応しようとした弟子たちの一途な心の貧しさがあったから、キリストに愛された。それは、とりもなおさず、信仰である。
 
弟子たちは盲従したのではない。ときに、キリストを諫めようともしたけれども、そのときのキリストの言葉に、理解していなくても、自分の意見を引っ込めて考えてみることを選んだのだ。弟子たちは優秀ではない分、相対的な信仰によって、修正可能だったから、復活以後の使徒となった。
 
ユダは間違えたから救われなかったのではない。間違える自分を認めず、キリストの新たな言葉にも反応せず、慎みもせず、考えようともせず、キリストについて分かっていないことがあるという余地を持たず、分かっている範囲だけの条件付きの従順に頼ったので、結局、キリストに耐えられず、裏切るに至った。
 
知識や能力など信仰には関係ない。
 
イスカリオテのユダは訂正不能の思惑に生きて裏切り者となった。
 
ペテロを始めとする弟子たちは修正可能に心を揺さぶられて使徒となった。
 
 
(2017年06月21日)
 
 
 
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