ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:罪深い

 
  信仰と思想
 
 
正しい道、正しい信仰、
正しいキリスト教、正しいキリスト教思想などと、
正しさを強調する向きがあります。
そういう向きは
神と人の違いを分かっていないのです。
神をどのような御方として信じているか
という自覚がないのです。
 
全知全能、絶対完全、永遠不変
神の性質として言われているこれらは
人間の性質として否定されるためにあります。
人は神ではないことを示しているのです。
間違えても目指すなどと思ってはいけません。
キリスト教に戒律があるとすれば
まさしくこの弁えであります。
 
神の正しさを
人間が持つことはあり得ないのです。
これは強く思います。
信仰の敬虔に直接かかわる問題だからです。
 
私は、罪深さを、しばしば、不完全という言葉で表しています。
不完全から、罪を犯す必然性、罪性を考えているからです。
 
私たちが求めるべきは正しさではありません。
信仰が与えるのは正しさではありません。
 
真・善・美、いずれも同様です。
人間が完全な真善美に至ることはありません。
 
人の善行を施す。
人に意見を言って正す。
これは、完全が、不完全に教えることではありません。
不完全が、不完全に、
正しい道へのヒントを伝えているに過ぎません。
 
神の、全知全能、絶対完全、永遠不変
人が地上で持つことはありません。
 
したがって強気で豪語できる信仰はありません。
その自覚が敬虔であります。
 
人間に、信仰者に出来るのは、
ことに際して精いっぱいの真善美です。
だから、なおさら、不完全の自覚が必要です。
それを、敬虔、謙虚、などと呼びます。
神に対する人の弁えであります。
 
信仰には、のぼせるということがあります。
若者に多いですが中高年にも起きてきます。
中高年は、教える側にいることが多く
年齢から、社会における位置から
豪語しがちであり訂正不能になりやすいのです。
 
自分の言動が
いかに正しいと思えても
そこに絶対完全の称号を与えないのが信仰です。
 
人間には神の視野はありません。
人間は不完全です。
しかし
人間には理路があり感受性があります。
人間は生きている限り学習し成長する生き物です。
 
不完全で罪深い人間には
学んだことを生かす能力があります。
 
そこで
完全で訂正不能の思想を持ってしまうと
学習したつもりになって
成長したつもりになって
実は
自己満悦だけを求めるようになります。
 
自分の不完全の自覚と
神という完全絶対者を仰ぐことで
祈りを通して告白と反省の機会を持つのが信仰です。
 
超常現象の奇跡
即ち、聖書にある歴史や奇跡の話、
これらを信じ込むのが信仰ではありません。
超常の奇跡は
元々人間を超えたものとして語られています。
 
神やキリストとの合一化は
人間の傲慢を表す反キリストの所業です。
罪と偽善だけを表す者と成ってはいけません。
それらは人間の滅びの見本になるだけです。
 
聖三位を讃美するだけの信仰は
わかってる、わかってる、わかってると
神に対して思い上がりを表しているのです。
 
信仰から
神に向かって
わかってる
知っている
守っている
と言うことは
信仰においてはあり得ません。
分からない
知らない
守れない人間を憐れむのが神だからです。
 
人間は
被害者であり
加害者であります。
プラスマイナスゼロということではなく
比較できることではなく
どうしようもないところから
信仰は生まれて成長してゆきます。
このようなあり方は
信仰以外では生まれてこないでしょう。
 
科学の一部の者が信仰を否定するのは
観察も実験も出来ないからです。
現象の再現性がないからです。
つまり
科学も
いかなる学問も
信仰を対象に出来ないからです。
 
無神教カルトがしばしば口にする台詞があります。
「神の存在を証明してみろ
 そうしたら信じてやる」
証明できるなら信じる必要はないのです。
 
信仰のことで
科学めいた話をする者を警戒してください。
自分が対象として理解できないことを否定するのは
神を対象としてしか考えられない者です。
大方、自己中心の人格です。
科学という学問の弁えすらない者です。
 
人は生まれて
必ず死ぬように造られています。
人間は永遠には耐えられないからです。
人間は
全知全能絶対完全永遠不変には
耐えられないのです。
これが分からない、あるいは、否定するのは
人間が分かっていない証拠です。
 
キリストは、
傷や病を負うた者
社会から低く見られている者など
思い上がりようのない人たちに
信仰の義を与え
救いを宣べ伝えました。
 
一方キリストは、
高ぶっている者
高い地位を自慢して
罪人を指して
あのようでないことを感謝する者
これら信仰の目的を自己正当化に
悪用するものたちです。
キリストは激しく批判しています。
 
豪語はもちろん
世辞や丁寧語で
信仰を否定する者を信じてはいけません。
信仰は命の問題であり
決して世辞や豪語では語れません。
 
信仰の動機も切っ掛けも知らない者が
知恵足らずのまま大人になって
神と信仰を否定してきます。
自分より上の存在を想う心がないからです。
彼らは慢心して笑っており
放屁して自分の臭さを知らない者たちです。
 
キリスト教会組織や人の口で
一方的な権威をもって侮辱された人は
その教会から離れてください。
 
神とキリストの教会は
また本当のキリスト者は
いかなる人も
脅威にならない限り
批判や侮辱はしません。
 
加害者の傲慢にも
被害者の卑屈にも
毒されずに生きる道があります。
 
 
※ この記事は、今後、修正加筆する必要があるかもしれません。
 
 
飾りのない道を

飾りのない道を
 
 
(2022年11月16日)
 
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
幼子が胎に宿った
と言われた夜もそのようになれ
わが愛する人々は遠く去れ
二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
  地の塩
 
人をすなどろうとは思いませぬ
人をあやつるなどは以ての外
されど狭き小屋から眺むるに
物はあふれ
口から厠へ落ちるばかり
やがて商うことも
贖うこともできなくなりましょう
渇ききった
飢えたる魂のあるところ
何処の海を二つに分けて
何処の山へ
国へ
祭壇へ
導かれようというのでしょうか
荒れたる狭き庭を眺めては
地になりたし
塩になりたしと
思うこの頃
 
※ 塩は、味付けに欠かせないものとして、キリストの教えの中の譬えとして聖書に書いてあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:13
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 
 (マタイ5:13、新約聖書)
 
 
 
楽山の害毒メモ:抜粋
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省もしないし、責任も負わないくせに、長きにわたって、白々しく、まともに見せかけた記事やツイートで書き続けた楽山に、言論の自由はないと思います。嘘と詭弁で保身して、罪悪感がない楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。関わらないでください。
 
 
 
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  考える信仰2
 
 
宗教そして信仰は
一見、客観性を失わせるように見えるかもしれません。
 
というのは
信仰を知らなければ
まず信仰については語れない。
信仰者であれば
信じているのだから客観的には語れない
というような理屈になるのでしょう。
 
しかし
ここには大きな勘違いがあります。
信仰が
超常から日常まで教えられたとおりに
信じ込むことだという勘違いです。
 
キリスト信仰の場合
教えられるのは大方言葉であり
そのまま思い込み信じこんでも信仰にはなりません。
 
キリスト信仰において期待されるのは
不変の悟りではなく
即ち言葉を鵜呑みにすることではなく
考えることです。
 
考えることには感じることが必要であり
感受したことについて考えるわけだから
そこには
正直に感じることで
当然生じる疑いというものがあります。
おもに超常の奇跡についてです。
 
疑いを気合いで排除するのが信仰ではありません。
それはカルトのやることです。
 
疑いを含めて考えることが信仰です。
したがってキリスト信仰が
人生を縛ることではなく
むしろ人生の知情意の活性を促進するからこそ
私は信じているのです。
 
キリスト信仰は
神を絶対としますが
神を人は詳細に知りえないので
人が自らを相対化することでなければ
神を信じることは成り立ちません。
 
したがって
人が教えられ覚えた言葉である信条を
絶対化することは
即ち信仰を絶対化することは
背教であります。
 
信仰の相対性については
既に言われてきたことだが
何故か、絶対でなければ、絶対でなければと
思い込んでいる人が少なくないようです。
 
神の絶対を人が負えるかと聞かれて
負えると、また、負うべきと言う者は
少なくとも勘違いしているか
最悪の場合、背教者です。
 
人が信じる総てのものは
いつも絶対ではなく相対的である。
人は不完全で罪深いということを自覚しているなら
当たり前のことであります。
 
信仰は
絶対の神の存在を仰ぐゆえに
自らを絶対ではない者とすることです。
 
そうでなければ
悔い改めの祈りなど意味がなくなるでしょう。
 
私たちキリスト信仰者が
折に触れて正直に告白して
悔い改める
即ち祈りにおいて
神との関係を新しくしていただくのは
まさに私たちが
心貧しく不完全であることを
正直に認めて
神に憐れんでいただくためであります。
 
自ら信仰を絶対として
神に対して讃美ばかりを豪語するような
偽善者になってはいけません。
 
私たちキリスト信仰者は
心の解放を受け取ったのだから
信仰についての疑問も含めて
よく感じ、よく考えて、折に触れて正直に祈り
反省し学習し成長することが期待されています。
 
 
ゆえに
楽山がボンヤリ曖昧に言うような
またシャロームが豪語するような
信じ込むことが信仰であるという固定観念は
全く信仰を知らない偽善者の言であり
この二人は信仰について
何も知らずに言い張っているだけなのです。
 
 
 
   宗教と狂気と堕落
 
長い歴史をもつユダヤ教を母体としていても、キリスト教は成立当時は新興宗教と思われました。ユダヤ教は選民思想と排他的色彩の強い宗教です。聖戦の名のもとに短い勝利と長い敗北の歴史をもち、その中でつちかわれた唯一神への絶対的信仰とその形式としての律法・掟を持っています。
 
律法の中には慈愛や思いやりを感じさせるものもあるのですが、イエスの時代には律法主義という形式主義・教条主義を頑なに守っていた人たちがイエスの敵となりました。
 
その後ユダヤの内外にキリスト教を広めるにあたっては当然、国により民族により宗教観も異なり布教するうえでの意見の対立や問題も多かったのでしょう。そのために福音書をはじめとして異なった色付けをされてキリスト教は伝えられ広められていきました。
 
聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのでしょうか。そこに、神聖に対する思いこみや決めつけの先入観や偏見があってはいけません。神聖は、神のものであり、人のものではありません。
 
聖職者も、神と違って、信仰者と同じ人間だから、不完全という罪深さを持っており、ゆえに、教えられたことを鵜呑みにして、思考停止してはいけません。信仰は、思考と感性を、活性化してゆく道である。信仰の道は、成長してゆく道であります。
 
宗教は、うっかり訂正不能にしてしまうと、古い新しいを問わず人間離れという狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていることを忘れてはいけません。ゆえに、経験から感じることを、じっくり考えてゆくべきです。
 
宗教だけから戦争が起こるということは、少なくとも正当なキリスト教においてはありえないことのように思われるのですが、利害関係や政治的な争いに宗教がからんで訂正不能の過ちを犯す経過では、戦争は狂気とも言うべき残酷なものとなります。
 
一方、クリスチャンの接頭語のように付けられる「敬虔な」という言葉があらわすものは何かを考えると、おとなしくて静かで「社会のお邪魔にならない」影響力の乏しい人畜無害のような印象を覚えますが、もちろん、これは間違いです。信仰は、経験を考え、成長する道です。
 
確かに宗教が社会に有害であってはなりません。しかし、キリスト教の大きな迫害の歴史とその殉教者たちの死を思うとき、主イエスキリストの愛と魂の救済という強い目的意識を持ちつづけることの難しさを感じざるを得ません。
 
人間の感性と知性を軽んじて、神霊を訂正不能に思い込むような、成長を忘れた信仰は、聖書の言葉をも、意味を固定してしまって、カルトと同じようなものになるでしょう。
 
人間の罪深さ、また、人間の言葉の曖昧さ、即ち、不完全さを思うとき、反省と修正と成長のない信仰が、いかに自分信仰になりやすいかを知るべきであります。
 
キリストの教えは、人間に理解できない超常奇跡よりも、はるかに、人間に対する共感と愛に満ちています。それに反応する信仰者は、キリストへの共感という愛に生きる道に気づくようになるのです。
 
それを、贖罪の辻褄と超常の仕組みとして信じ込む信仰?によって損なうことのないように、日々の祈りの正直さだけが求められていると思います。
 
 
考えること そして共感すること

考えること、そして、共感すること
 
 
(2020年08月11日)
(2021年10月24日、再録+)
 
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
 
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
 
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりする
 
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
 
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか 
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
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