ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:罵詈雑言

 
  楽山のお気楽傍観
 
 「ブログ村騒動」発言集(ぽん吉論争)
 2021年08月05日 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
 
 
楽山は、自分から目を背けて、他者の口喧嘩を載せています。傍で眺めて、自分は何も言わない書かない楽山が、陰険な分、深い悪意が表れています。責任逃れの一環に過ぎない記事です。罵詈雑言の例にように並んでいるコメントは、抜粋にとどめます。
 
読んでいるうちに、コメント者に同情したくなります。何故なら、楽山が、コメントをそのまま載せて、HNもさらして、楽山自身は何も書く気がないのに、傍で笑っているイメージだけが浮かんでくるからです。
 
あいつら、こんなこと書いて、おかしいですね・・と言いたいのでしょうか。自分の意見が整わないために、言えなくて、代わりに、他者の罵詈雑言をさらして、ほのめかして、悪い印象を刷り込みたいのでしょう。
 
いちばんおかしいのは、楽山であり、本気がないから、傍観して、僕は、こんなことはしない・・と笑って見物しているのです。この記事、楽山は、前置き以外、一言も書いていません。
 
いかなることも、自分のこととして受け止められず、傍観して評論家を気取りたいが、罵詈雑言が並んでいるために、自分の意見は書かないでいるのでしょう。そういうことが出来てしまうのが、楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDなのです。
 
*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
今回、この騒動における発言をまとめてみました。まず初回は、ぽん吉氏に関連した発言です。編集方針は下記の通り。
ネタ元は、楽山日記の「ブログ村騒動」関連記事であり、場合によってはさらにその元記事も確認した。
発言を時系列にならべたり、前後のつながりを保つことより、発言者の個性、考え方を明らかにし、また論争全体の雰囲気を再現することにつとめた。
 
数年前だそうです。退屈しのぎに掘り出してみたのでしょう。自分が批判されていることを考えたくないものだから、他者の口で、退屈しのぎをしているのです。あらゆる自身の問題を無視する人は、こういう性向を持つらしい、ということだけが伝わってきます。
 
楽山は、演劇の設定をするみたいに「雰囲気を再現」するそうです。いかなる問題も、自分の問題として考えることのできない者の、プロデューサー気取りなのでしょう。それで、記事をしっかり書いているアピールをしてくるのです。
 
そういうことだから、私は、前に、いつか楽山はぶん殴られるだろう・・と書いたことがあります。傷害~殺人事件にならないことを祈ります。非暴力の議論から見て、いちばん恨まれるのは、このような、関わっておきながら、責任を負わず、傍観者を気取っている者なのです。
 
本記事の目的は、「HSとは何なのか」「HS信者とはどのような人たちなのか」を探ることにある。
 
自分を探ることだけはしない自己愛性パーソナリティ障害NPD楽山の、インテリ気取りの文章です。
 
発言者の名前などは太字にし、その立場によって色付けした。
空行は詰めてコピペした。
HS信者だけでなく、退会者、アンチ、第三者の発言も一部掲載している。
天使の羽根はブリュンヒルデ氏、何処野独逸および湘南のガンレオはぽん吉氏の変名らしい。
名前のない発言もあるが、文体、アドレス等から発言者は容易に推測可能であろうから、そのままにしておいた。
以上。
 
人の醜態やゴシップを書いて、自分は違うと満悦する楽山が、いちばん、醜いのですが、楽山だけは、気づかないのです。書いてないけど、全体に、楽山の「(笑)」が付いているような記事になっています。
 
自分を圏外に置いて、楽山は、・・こんなに悪口言ってますよ・・と他者を笑いたいのでしょう。まさに、楽山の自己愛性パーソナリティ障害NPDが表れています。これだけ、自分の意見を書かずに、他者をディスる人も珍しいです。楽山は、超然たる "神芝居" をしているときではないのです。
 
*発言集
では、以下にぽん吉氏に関連した発言を貼ります。
(注意 ひどい悪口が多いです。汚い言葉が苦手の人はお気をつけください)
 
酷い悪口より、自分だけ中立を装い、整った思考の理路もなく、鋭い感性も無く、傍観して笑っているような、宗教をオモチャにする楽山こそ、最悪だと思います。この2年余りの経過が、如実に示していることです。
 
楽山の無視と傍観と無反省と無責任が、裏返しのように現れていること、楽山だけは気づかないのでしょう。楽山によって引用されたコメントは省略しますが、楽山の、婉曲的な当てつけや侮辱や嘲笑いや詭弁よりはマシだと感じます。
 
自分が批判されていることを無視して、このように、かき乱された有り様を、平気で見物するのが、いつも冷静を気取る楽山の生き甲斐なのでしょうか。そういう生き方をする楽山は、人間として生きていないと思います。
 
このような有り様の自分を表してしまう楽山は、自爆して裸の肉片が飛び散っているようなものですが、楽山は、気づく感性がないのです。人の立場を思いやって人に共感することが出来ないのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDの特徴です。
 
人の醜さ、スキャンダル、悪口を、ピーナツでも食べながら見物して、自分が裸であることだけは気づかないで、机上にタラタラ失禁しているの王様のイメージが楽山です。
 
コメント全体は省略しますが、コメントの中にある雑言を集めてみると、
 
>(抜粋)
重度の霊障者、キチガイ、エゴ丸出し、地獄霊、死んでも治らん、でっち上げ、悪霊憑き、地獄霊憑き、反省ゼロ、でたらめ、捏造、悪口雑言、妄想、外道な大理石人間、ファシズム、ウソっパチ、悪霊にやられている、ウソ、でたらめ、捏造、悪口雑言、妄想、キチガイ発言、ゴキブリ野郎、ゴキブリ以下、最早 「人」ではない、ムシケラ、脳タリン、トカゲ バカレオ ww、超頭悪い、貪獣、実践0のトーシロー、惨めだな ww、クズ、ムシケラ、中傷・誹謗は出来ても、反省・謝罪は出来ない、永遠のぶら下がり、悲しき壁蝨、活動しない仏弟子、嫌われ者のブロガー、悪想念ばかり垂れ流している地獄ブロガー、バカ丸出し、阿呆の極み、ほんっと、アホ丸出し、誰にも相手にされていない、投稿中毒ブロガー、異常者、邪見、外道の輩、悪霊に常時憑依されている、悪霊体質、卑怯を通り越して<病気>といって過言ではない、妬む者、判断力など無いに等しい、悪霊体質者、
 
これらは、まさに、楽山に向けられるべき雑言であります。
 
「汚い言葉」と楽山は言っていますが、雑言の直接表現よりも、悪口よりも、最も悪質なのは、婉曲的に当てつけて、かつ、関わっておきながら責任を負わない楽山であります。
 
傍観者の利己主義による見物であり、観察者気取りであり、自分は何も言えないくらい気が小さくて臆病で、責任から逃げてばかりの偽善者である楽山の日常であります。こうはなりたくないものです。
 
この記事に並んでいる人々よりも、誰よりも、卑怯で醜いのは、眺めて、笑いを隠しながら、こんなこと言ってるよ・・と、自分が勝手に楽しんでいる観察者気取り・批評家気取りの楽山です。
 
雑言からは、言った人の、どうしようもない叫びのような感情は感じられます。それを、笑って記事にして、何も責任を負わない楽山からは、人間の思いを何も受け取れない体質、自分は違うという自己満悦の悪臭、見物人以上に邪悪な偽善を感じます。
 
霊障と言うなら、楽山のほうでしょう。
 
 
木霊でしょうか霊障でしょうか

木霊(こだま)でしょうか。霊障でしょうか。
 
 
(2021年08月06日)
 
 
 
 (昔の話です)
 
クリスチャンのMLに参加している
昨今では聖霊体験なるものを
重視するのが主流らしいが
聖霊と友だちのように
直接交わる体験の記事に
抵抗を覚えてしまう
 
父・子・御霊(みたま)という神格
即ち神様とキリストと聖霊のうち
人格となって語られ
人間の永遠の友でありうるのは
イエス・キリストだけではないのか
キリスト教はいつから
聖霊教になったのか
キリストはいつから教義上の
贖罪仲介者になってしまったのか
 
神と聖霊は恐れ多い御方であり
神の導きや聖霊の働きは
聖なる領域からの
秘められた賜物(たまもの)であり
もっと心に恐れを
口に慎(つつし)みを
持ちたいと思うのだが…
 
キリストの神格について
わかっているわけではないし
これも独り善がりの独り納得の
信仰観に過ぎないのだろうか
 
嘆息よ
レスポンスのない
置き去りにした課題
何ひとつ解決していない
 
 
(2000年代か)
 
 
 
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  赦すこと2
 
 
私が最初に牧師から習ったのは、罪の赦しは、許可ではなく、赦免のことだ、ということでした。だから、漢字では、許す、ではなく、赦す、を使うのでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。 
 (マタイ6:14-15、新約聖書)
 
過ちも罪ですから、罪を赦すことについての、赦しなさい、という、キリストの教えです。過ちだと自覚がある場合です。
 
赦されない罪があります。
過ちだと、あるいは、罪だという自覚のない場合です。
罪だと思っていないならば、赦す、ということ自体が無意味です。
 
一つは
気づいていない場合。赦すと言われても何の事だかわかりません。
もう一つは
偽善という罪。罪を犯しながら、罪を隠して善に見せかける罪です。キリストの敵となった者たちは、そういう者たちでした。彼らは、赦しを求めないので、赦すことが意味を持ちません。
 
さて、罪を赦されたら、どうなるでしょう。赦された、ああよかった、これで、清廉潔白になったと思うでしょうか。・・そう思うなら、そう思うことが、罪であります。
 
赦しは、また、これからも罪を犯すであろう罪人としての弁えを学習することです。人間は、この地上では、清廉潔白にはなりません。赦されることで心の解放感はあるでしょう。しかし、ああよかった、と言って安穏とするのは、信仰の態度ではありません。
 
人間の立場から見ると、赦されることよりも、赦しを神に求めることのほうに、生き方の学習があります。したがって、罪を犯しても大丈夫と学ぶのではなく、罪を犯す自分を知ることであります。その学習があるからこそ、私たちは、赦されることを求めるのです。
 
 
キリストの十字架の贖いによって、罪に死んだから、罪はない、などと信じている偽善者もいるようですが、そのような者は、反キリストの役割を果たしているだけなのです。罪はないと信じ込んだ人間がどうなるかということを考え推測して否定するということができないだけの偽善者です。
 
人は、他者の罪を赦すべきか、という問題については、上のほうにあげたように、赦すことが無意味である場合があります。気づかない人は、気づかせる、または、気づくことを待つしかないのでしょう。
 
しかし、キリスト信仰を、自己中心に考えて、あるいは、何も考えないで、何でも赦される、または、赦されることを求めてさえないか、最初から信仰が嘘である場合も含めて、決して、赦してはいけません。偽善と反キリストを増長させるだけです。それは、神に対する罪になります。
 
そういう者を、批判することが苦手なら、無理して批判する必要はありません。神に与えられた務めは、人それぞれです。ただ、批判は、悪口とは違うし、批判する気のある人が、批判しなければいけない場合があることは、承知してください。批判対象にしかならない者がいます。
 
その者は、いつも他者を下に見て、自分を高めるために、教えたがります。放置すれば、会う人ごとに嘘を吹き込み、その人を洗脳して人格をおとしめてゆきます。
 
凶悪カルトとカルト支援者は、悔い改めより、赦しが先だと言っていました。悔い改めは、祈りによる罪の告白です。罪を認めないで隠して、平気で嘘を吐いている者が、どうして赦されるでしょう。どの罪を赦せというのでしょう。どんな罪も、告白しないまま赦されるなら、地上は、偽善者の楽園になるでしょう。そんなことも分からない愚か者が、実際に、いるのです。
 
カルトは、批判者に対しては、いたずらに決めつけることを繰り返して、疲労させ、批判者の人格を破壊してゆきます。こういうことは、宗教が絡むとき、カルトが絡むとき、とても醜悪な遣り取りになりますから、批判というものは、自分を、ある程度は、コントロールできる人がするべきことです。
 
何でもかんでも総ての罪を赦すのがキリスト教の理想などということでは、決して、ありません。むしろ、罪の自覚があるから赦しが意味を持つのです。罪を認めて、神の前に告白して、罪を犯しやすい自分の性質を反省することで、思い上がりが抑えられ、それゆえに、罪を赦される恵みに気づくことができるのです。
 
何でも赦してくれる神?を信じているカルトは、罪人の自覚を全く持たないで、神に対しても、極めて、お気楽に構えており、平気で罪を犯し、嘘を吐いて、偽善者となり、神のしもべたる自身を永遠に弁えないまま、罪業の穴へ、ぬるぬると滑り落ちてゆくでしょう。
 
悔い改めより赦しが先だなどという詭弁を弄する者は、悔い改めなくても赦されるという我欲からの妄想欲求が、そう言わせているだけです。
 
罪の自覚のない者に、赦しを与えることは、いったい何を赦されるのか悟ることもないのだから、赦すこと自体が無意味です。悔い改めない者に、赦しを与えれば、勝手放題の地獄が開かれるだけです。
 
 
罪の自覚があり、それを神に対して正直に告白することで、世俗や我執から、神へと、自らの向きを正すことが悔い改めです。そのために祈りの機会が与えられているのです。
 
 
赦し

赦す
 
 
(2020年02月)
(2021年02月25日、加筆して再録)
 
 
 ※ 前の記事に補足
 
信仰者が、聖書の言葉から、弱いからこそ強い、という逆説を、理解不十分なまま、説明せずに豪語すると、生き馬の目を抜くように、反キリストから、それこそ、キリスト教の嘘と偽善だと言われ、広められるでしょう。
 
(ネットより)
生き馬の目を抜く
【読み】 いきうまのめをぬく
【意味】 生き馬の目を抜くとは、すばしっこく人を出し抜き、抜け目がなくて油断できないさまのたとえ。
 
強いのは、いつも神であります。神のみであります。神が憐れむのは、弱さを知っている人であります。ゆえに、神の憐れみがあるから、信仰者は忍耐強いということの、逆説の真実なのです。ゆえに、豪語していいような性質の言葉ではありません。
 
私たちは、神でもなく、キリストでもなく、預言者でもないのだから、力比べは、いけません。
 
世の中には、信仰を、超常奇跡物語としてしか見ていない人もいるようだから、少なくとも、私たちキリスト信仰者は、神の業であって人には手に負えない超常奇跡ではなく、人が人として生きてゆくために必要な、そして、人間であれば理解可能な、愛に通じる共感を受け取り、神とは違う低さと罪深さという弁えを学ぶ姿勢を忘れないで、祈りの信仰生活を送ることが大切です。
 
 
 ※ 批判における厳しい表現について
 
まじめなことを淡々と書いている記事は、一般の読者に対しては、十分ではなくても、意志の伝達として成り立ちます。
 
しかし、私の批判対象は、批判をスルーすると公言していますし、言葉も理路も理解する能力も失っている人なので、普通の批判をしても何も受け取らないでしょうし、気にもしないでしょうし、脅威にならないから、読むことさえしないでしょう。
 
厳しい表現や、辛辣な比喩は、文章の中で目立ちます。ゆえに、批判対象だけでなく、一般に、何を言っているか気になる、ということがあります。
 
無反省と無責任そして体質的に鈍感なあるために、無視してくる批判対象に対して、表現を大人しくすることは、むしろ、こちら側の体面を守ろうといる傾向があります。
 
それに、破綻した理路と要領を得ない筆致や詭弁を見続けることは、ストレスがたまってくるという、こちらの精神衛生の問題でもあります。
 
即ち、辛辣な比喩など、厳しい表現は、激情に駆られて用いるのではなく、激情を治めるために用いるという意味があります。
 
というわけで、今まで、批判対象に向けてきた辛辣な比喩をあげると、亡者、ヒト型生物、疲労物質、放屁、排泄物、糞尿、病原、寄生虫、害虫、ゴキブリ、ドブネズミ、狂犬、等々あります。とうてい全部は思い出せません。
 
なお、嘘吐き、詭弁屋、精神詐欺師、偽善者、病質者、人格障害、高等感情鈍麻、サイコパス、エナジーバンパイア、などは、比喩表現ではありません。
 
以前、キリスト教系カルトの者が、私の批判に対して、それこそボロクソに、個人情報まで持ち出して、ギャーギャー吠えるように、罵詈雑言を連発してきたことがあります。それを読んで、私は、この人はギャーギャー言っているんだ・・としか受け取れませんでした。辛辣な表現も、質が問われることを、そのとき思いました。あまりひどいので、サーバーに報告したところ、相手の記事が削除されることもありました。
 
一方、病質者の書くところの、大人しく見せかける文章は、大方、概念的な言葉や熟語を並べただけのものであり、そこに、生活者としての実感が表れていない、という特徴があります。つまり、概念遊び、即ち、机上の空論なのです。
 
そういう文章は、書いた人に学習意欲も真摯さも向上心も反省力も見られないから、繰り返し読まされるほどに、うんざりするか、がっかりするか、ろくな気持ちにならない、ゆえに、疲れるという体験だけを与える文章になります。
 
また、過去の非を認めないまま、きれいごとを書いてくれば、それだけで、嘘吐きだと分かるわけです。人間の歩みとして、成り立っていないからです。パンツに漏らしたウンコを洗わず拭かないでいて、ニオイが、むわ~と伝わってくるようなものなのです。
 
 
(2021年02月25日)
 
 
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