雑感まとめ2
 
前に「雑感」として書いた記事を、再録+します。
 
 
  障害と人格
 
 
障害を否認し障害に卑屈になれば
障害を補う努力を怠り
障害を隠そうとして
人格が嘘吐きになります。
 
健常者に恨みをいだくなら
健常者をだますようになり
健常者以上の振りをして
人格がますます大嘘吐きになってゆきます。
 
 
障害を認め障害に折れなければ
障害を補う努力をするようになり
人格が障害を克服します。
 
 
私は、小1の時に発症したリウマチ熱による大動脈弁逆流という心臓弁膜症と、対人緊張と、鬱と、自業自得の喫煙による慢性気管支炎が、現症です。最近、不整脈も出るようになりました。耳は遠くなり、目は薄くなり、筋肉は衰えました。
 
今さら、どうしようもないので、予後を含めて、神様にお任せするしかありません。
68年も生かしてもらいましたから、今は、それほど、長生きしたいとは思っていません。
 
 
  詭弁
 
美辞麗句は、実行性が具体的にあるかどうかを判断してください。
美辞麗句だけ並べるのは、詭弁です。
 
聞くに麗しいことばかり言われて、いい気持にならないでください。
実行と実質が伴わなければ、ただの嘘です。
 
やさしい顔・態度・言葉は、やってきたことと一致するかどうかを判断してください。
やさしいふりだけなら、詐欺師や独裁者も見せてきました。
 
似て非なるものを並べて同一のように話を進めるのは詭弁です。
 
大きくて曖昧な道理によって、個別を語るのは詭弁です。
 
個別の事柄をもって、全体を語るのは詭弁です。
 
 
 愛
 
昔読んだ現代詩の中で
とりわけ印象深い詩句があります。
 
 愛の歌には
 なぜか愛のことだけが書かれていない
 
 
本当の愛という感情、また、深い情緒は、必ず悲しみを経ていると思います。
 
だから、愛を讃え、愛を謳歌して、盛り上げようとするだけの歌に愛はないし、それはお祭り騒ぎに過ぎないし、派手な供え物に過ぎないと思っています。人間が、愛を本当に知り、愛に感動するのは、悲しみを知っているからだろうと思っています。
 
愛だけではなく、多くのよさそうな言葉、正義、善、義、というものは、愛を知らない者が使えば、虚言、悪、偽、であるかもしれません。
 
本当の愛は、温もりと潤いを知っており、癒しと涙を知っており、すなわち、共感と悲哀を知っています。それが一番大切なことであり、信仰のいちばん重要なところでもあるのでしょう。
 
 
 神の言葉、人の言葉
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、この表現が、誤解され、多くの躓きとなっていることを憂慮します。
 
日本では、聖書は日本語の聖書が読まれています。日本語って、一般に言葉って、そんなに正確なものでしょうか。一つの言葉が、人によって違う意味で使われていたり、一人の人によっても、ときによって意味が変わることがあります。また、元々二つ以上の意味を持つ言葉もあります。
 
人間の使う言葉は、それほど褒められるような完全なものではないのです。言い換えれば、人の言葉は頼りない出来であると言ってもよいと思います。
 
神の言葉は絶対です。しかし、人間は絶対の言葉を持たないのです。また信仰は言葉ではありません。言い換えれば、聖書の言葉を、人が受け取って、絶対化することは、信仰に反します。言葉を繰り返し唱えておれば、聖書の言葉を繰り返しておれば、信仰になるでしょうか。否であります。
 
そこを勘違いすると、聖書を勝手に解釈してそれを信じ込むというカルトになるでしょう。
 
信仰は心にあり
心に働き
心を働かせる賜物です。
 
信仰の心を、いつも正確に表せる言葉はありません。こう言っとけば大丈夫などと思っていたら、いつのまにか、心を動かさない言葉になっていることもあるのです。
 
大切なのは心であって、言葉は心を伝える手段なのですから、手段として大切にして、聖書を読む必要があるのであって、聖書の言葉は絶対だから安心などと思うと、いつのまにか心を動かさないものが信仰?と呼ばれることになってしまいます。
 
これが、人間の不完全性
そして罪の性質であります。
 
偽善者は言葉でごまかそうとします。
聖書の言葉を悪用します。
都合の良いところだけを取り出して
聖書に書いてあると知ったかぶりをします。
 
人の言葉は絶対ではなく
人間の心においては相対的なものです。
時と場合によって、一つの言葉でも、もたらす働きは、日常的に変わります。
 
神の言葉は絶対でも、それが記された聖書を読む私たちは、人の言葉しか知りません。つまり、聖書の言葉は、人においては、決して絶対ではないのです。私たちにとって、信仰は聖書を読めば何でも分かるというような万能の辞書ではないのです。人間において万能はあり得ません。
 
信仰が私たちに担保するのは、いつでも聖書を読むことが出来て、いつでも学習し直せるということです。信仰は学びの道であります。そして、いつでも正直に祈ることが出来るという恵みがあります。
 
学びを疎かにして慢心するところには
思いこみの繰り返しが信仰を、無意味に分厚くして、無味にするだけでしょう。
 
私たちは、この地上の苦難に接して、聖書を読んで受け取ったことと、経験から受け取ることと、受け取って考えることをもって、生きてゆく存在であり、神とは違う相対的な存在です。
 
生き方についても、言葉についても、聖書についても、私たちは学ぶ務めと意識を持つことが、信仰には大切なことです。そして、正直な祈りだけが、信仰の義に結びつきます。
 
まさに信仰について、正直な祈りに支えられて、聖書と体験によって学ぶという修道は、間違いだらけの信仰者が成長するための、唯一の生き方であり、信仰生活の日常なのです。
 
 
弱くても、成長し得る心の器が、信仰には最も適した器です。それは、聖書において、"心貧しさ" と、また、"土の器" と呼ばれています。つまり、余計な先入観がなく、知恵も情も入れやすく、また、地味だが、ものを入れやすく、馴染みやすい、心の器であります。
 
 
今 ここで 永遠

今 ここで 永遠
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月23日、再録+加筆)
 
 
 
  初恋の頃
 
(あんな若い時代があったと懐かしめればいいのだが何故か
  歳をとった今の自分があることが不思議に思えてならぬ)
 
再びめぐり会うことはないと
気づかれもせぬままに
与えられた一つの笑顔さえ
もうはっきりとは思い出せないほど
遠く走り過ぎたような気がする
 
すれ違うバイクに
ピースサインを投げられた
さりげなく手を上げてみせる
ピースサインは出会いの挨拶
そしてまた別れの挨拶
 
出会うことが別れだったあの日
見知らぬ土地のピースサインのように
私もまた笑みを返した
秋の街をとぼとぼと帰った
 
あの頃 バイクを知らなかった
パソコンもなかった
詩も読まなかった
だが人を愛することだけは知りたかった
遠く過ぎ去った面影に
言葉をかけるすべはない
かわりに吹き抜ける風の中で
私は小さな詩(うた)をよみたい
君は今
どんな顔をして生きているのだろう
 
まぶたを閉じれば浮かんでくる
あの教会
あの下宿
およそ二年の歳月が
そこには遠くまどろんでいる
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
遠江さんは、批判したら面倒なことになりそうな相手でも、見て見ぬ振りせず、きちんと声を上げる人なんだ。
真理に忠実なのか、単に空気を読めないだけか分からんけど、どちらにしても貴重な人材だな。
午前7:03 · 2021年9月21日
 
「見てみぬふりをせず」に書いてくる批判を、平気で無視するのが楽山です。不感不応の訂正不能で、書き続ける言論失格者です。そうすることで余計に面倒なことになります。もはや、楽山を、直接には相手にせず、徹底した批判を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山は、文脈を、理路を、流れを、情感を、人の心を、空気を、状況を、全く読めない人です。言論において、貴重どころか、邪魔であり、有害であり、病害因子であるところの、うっとうしいカビ~寄生虫~ばい菌のような存在です。
 
楽山の、丁寧語に、曖昧なボンヤリ言語に、同情を引こうとするトホホ言語に、嘘に、詭弁に、学者気取り・インテリ気取りなどの気取りだけなので、だまされないようにしてください。真に受けると、無思考、高等感情鈍麻、自己中心、という、人間離れのペテンの世界に染まってしまいます。
 
忠実になるべき対象の真理を分かりもしないのに「真理に忠実」と言っています。実は、これ、大言壮語なのです。誰も真理を知りません。ゆえに、何が忠実であるかも知りません。こういうところに、自己愛性人格障害の慢心は表れてくるのです。ゆえに、空気も読めない軽佻浮薄の楽山です。
 
(ネットより)
軽佻浮薄(けいちょうふはく):かるはずみで言動がしっかりしていない様子。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
心無い楽山は、永遠という言葉を、時間の長さと、無限という言葉を、ものの長さや大きさと認識するだけなのでしょう。神を、超常の王様と、救いを、何らかの利益としか理解しないでしょう。そのような、単純な辻褄で理解しているつもりになる慢心からは、信仰は生まれません。
 
 
信仰というのは、まず、自分の理解できない大いなるものの存在に気づく心の器が受け皿です。それは、能力ではなく、力ではなく、むしろ、無力、とても乏しい自己、それゆえに、受けて、学ぶことを、年齢や才能によらず、成長することを、希望する人が、信仰には向いています。楽山は論外です。
 
 
 
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