ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:義

 
 信仰の義2
 
 
義とは、正しさのことです。信仰は義から離れるべきではありませんが、人の信仰に、神のような完全なる義はありません。ゆえに人は罪を犯します。地上に生きる人の信仰が完全になることはありません。それを確かめる完全な能力が人にはないからです。
 
人は、正直に祈り、赦しを乞うしかない立場です。
 
完全な信仰を求めること自体が間違いであります。信仰が完全になる、あるいは、なったと思うなら、その思いは罪であります。人間である限り完全はありません。神の前に、信仰者であってもなくても、人は不完全、即ち、罪人です。神に祈る時の正直さだけが、絶対ではない人の、信仰の義となります。
 
 
神という存在を、いかように見て信じるかという問題です。
 
机上の概念として扱えると見るのか。否であります。
人格者の典型のような御方と見るか。否であります。
 
全知全能・絶対完全・永遠不変という属性は、地上にいる限り、人知によって、確認することも、把握することも、出来ません。
 
人を見て、その肉体と言動の総てを見ている存在、その心の中も総てを見抜いている存在・・と考えると
誰にとっても恐ろしい御方。それが神であります。やさしい父親のイメージは、聖書によって、砕かれていなければなりません。
 
その御方は、ご自身に向かって人が祈るのを悦ばれるが、祈りの、軽々しい嘘をも、すべて見抜かれる御方であります。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:9
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:9-14、新約聖書)
 
 
この話は、単に、敬虔を勧めるとか、清貧を勧める、とかいう話ではありません。キリストは、信仰の本質と救われる条件を語っておられます。パリサイ人は、信仰の行為を他者と比べて、自分のほうが上だと誇って、神に感謝しました。神に感謝したのに、神は、義とされませんでした。
 
取税人は、嘆き、へりくだり、正直であったことだけで、神は義とされた。信仰に必要なものは、神の前に、へりくだり、正直であることだけだということです。
 
信仰者に求められる信仰とは、神よりも、はるかに劣っていて罪深い自分を、正直に告白すること、それだけで、神は信仰者に信仰の義を与えると、キリストは言っておられます。罪を侵したら、間違いに気づいたら、その都度、また正直に祈ることで、信仰は守られます。
 
一方、神の前に、他者より優っていると確信する者、嘘を吐く者、自慢して誇る者を、神は退けます。また、他者に嘘を吐き、他者を、だまし、誘導して、操ろうとする者、それは、即ち、神に対しても、嘘を吐くことであり、嘘によって自らを飾るのだから、神に受け入れられることはありません。
 
それは、人に対して、さらには、神に対して、不誠実であり、偽ることであり、いかなる美辞麗句や、もっともらしい言葉を用いても、そのような者は、神の全能によって見抜かれて、救いを自ら拒む者として、自らの行為の報いを、自ら受けることになるのです。
 
正直な祈りを強調するのは、それが、人が、神のために出来る唯一のことだからです。人は、神の前に、何も隠せません。人は、神の前で生きているのです。それが、神の全知全能に対する人の弁えです。神の怒りを鎮めるのは、ただ、神の前で、祈りにおいて、正直であることだけです。
 
人の、能力、財産、寄付の額、奉仕活動の出来高、それらによって、救いが左右されることはありません。人の献身は、感謝のしるしとして行われるものであり、人の献身が、いかに多くても、神の絶対の前では、高が知れており、決して自慢できることではないからです。
 
神の前に、正直に祈ること、それだけを、神は人に求めておられると思います。
 
キリスト信仰は、祈りの信仰であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
信仰の義とは、このようなことでしょう。人に認められるような立派なことではないのです。できることをすること、それを、主に捧げることが、信仰者の精いっぱいであります。
 
神の前に、善行を自慢したら、どんなに効率がよくても、気づかないことのために、全知の神によって、上の聖句のパリサイ人と同じになります。
 
女性は、目の前のキリストのために、よかれと思って、できることをしました。それができる機会は、またとないと思ったからでしょう。そして、弟子たちに怒られました。弟子たちは、行いの効率を考え、女性の心を思いやらなかったからでしょう。
 
女性の行為は、効率の悪い、的外れのことかもしれません。信仰の行為としては不細工だったでしょう。しかし、主イエス・キリストは、それを、信仰に適うこととして受け取ったのです。主が、いかに、人の行為だけでなく、人の心を見ているか、ということが分かる聖句であります。
 
信仰の義とは、キリスト者だから、神に従う、また、良いことをする、という話ではありません。私たちは、不完全で、しばしば的外れなのです。しかし、それを承知の上で、主は見ておられるということです。
 
上の聖句の続きに、主は「葬りの用意」と言っておられます。十字架において犠牲となる救い主イエス・キリストに、人々と一緒にいられる時は限られていたということです。ご自身の愛と悲しみとして、人の愛と悲しみに共感する、という主イエス・キリストの言行は、福音書全体に貫かれているのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:11
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 
26:12
この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。 
26:13
よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
 (マタイ26:11-13、新約聖書)
 
 
信仰の輝き

信仰の輝き
 
 
(2021年04月03日)
(2022年04月04日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·5時間
これは人間関係だけでなく、宗教に関しても言える。
おかしいと感じるなら、速やかに、その宗教とは距離をとるのがいい。信仰を続けようとして疑問を抑圧しても、苦しみを長引かせるばかりだ。それより、さっさと次のステージに進むべし。
午後8:16 · 2021年4月1日·Twitter Web App
 
誰よりも、自己愛性人格障害で霊能者気取り~妄想の個人カルトの、楽山とは、二度と関わらないように、距離を取ってください。楽山には、良心がありません。代わりに、丁寧語の詭弁と嘘があるだけです。ずっと、楽山の言葉が、楽山を斬っていることにも気づかないのです。
 
楽山との関わりを続けようとして疑問を抑圧しても、苦しみを長びかせるばかりです。それより、さっさと自分の思考と感性を磨きましょう。思考と感性は、楽山が持っていないものです。それで、楽山は、いちゃもんしか言えなくなっているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」だから、誰でもあることだから、反省しない、謝罪しない、と言っている楽山です。汚い詭弁に惑わされないでください。反省しない人は、人間ではありません。楽山は、このような一般化で、うっかり頷いてしまいそうな詭弁を、数えきれないほど書いて、欺いてきたのです。
 
 
 
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  この地上に2
 
 
私のふるさとは
この地上にはありません
と言いたくなるとき
それは信仰者として
真実でもあるのだが
一方で
逃避なのかもしれない
 
人というのは生涯
演技し続ける動物のようだ
恥ずかしくないように
少しでもきれいに見えるように
嫌われないように?
 
そういう演技は正当で
普通なのかもしれないが
過ぎれば
「世間体」大明神とか
「体裁」大権現とか崇拝にもなりうる
 
自分というものをしっかり持って
という「しっかり」の基準は分かりにくい
自分を信じて
という「信じて」は
責任の自覚か
努力と実績に裏打ちされた自惚れ
つまり自信だろうか
 
世間体も体裁も
人間関係も幸福も捨てて
真理や真実を追究して
心を病んで
傍目には
自滅的な人生を歩んだ幾人かの
哲学者、数学者、文学者、詩人などの
名を思い起こすのだが
 
私のふるさとは
この地上にはありません
と言いたくなるとき
そういう質を持ってしまった者が
反社会的ではなくても
非社会的になって自閉して
ただ一度だけ
逃避が許される最後の時を
待っている人であるなら
 
幾人かの名と違って
自分は志よりも病が先なのか
いつまで社会人でありえたのか
と風景のように遠い人々を
遠い社会と世界を
ぼんやりとした意識の向こうに眺めている
 
想うところに
以上のように想うところに
いちばん知っているつもりで
いちばん知らない自分は
むしろ、いて欲しくないのかもしれない
しかし、いて欲しいのかもしれない
何故なら、生まれてきたから
 
なぜなら
神様が死ねと言うことはないから。
 
すなわち
神が定めた日に
死は実行されるもので
神が人に死を命じる必要はないから。
 
 
この地上に

この地上に
 
祈り「主よ、この失敗だらけのまま至った老境に、慰めはありましょうか。」
 
 
※ 
 
信仰者は、善に生きるのではなく、義に生きるのでもありません。
善と義は、神のものであり、神のみが全き善と義であります。
 
信仰者は、悔い改めによって、反省し、学習し、成長する人間になるのです。
それは、人の正直な祈りによって可能となります。
 
 
(2011年04月30日)
(2021円02月02日、一部加筆)
 
 
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