ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:聖句

 
  情欲の聖句(2)3
 
 
何度か、引用してきた情欲の聖句であります。情欲にとどまらず、キリストの洞察と立場に深くかかわる問題であることを知ってほしいと思います。キリストの教えを、楽山のように、いちゃもんで否定したり、安易な道徳に貶めることのないようにしてください。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
 
これが、守れ、という教えでないことは明らかであります。ゆえに、できるだけ守れ、という妥協でもないわけです。性欲は湧いてくるものであって、異性への性欲については、ホルモン系の病気の人や、趣味の違う人以外では、男は、必ず情欲をいだいて女を見るのであります。
 
それがなくなったら、セックスという不潔で面倒臭い行為など、誰もしないでしょう。つまり、この聖句を、文字通り守ったら、人類は滅びるという矛盾律なのです。ですから勘違いしてはいけません。それと、姦淫は、最も嫌悪すべき偶像崇拝の意味で使われることもあります。これは大きな問題です。
 
つまり、ここでは、異性愛について言っておられますが、異性・同性を問わず、みだらな思いを戒めながら、その思いが、断ちきれない人間の性についても、キリストは、当然、洞察し、理解し、大きく包み込んで、言っておられるわけです。
 
この教えを、新共同訳のように嘘の解釈をして、女というのは人妻のことだから、人妻を色の目で見ないようにしましょう。あるいは、できるだけ、控えるようにしましょうね、などというような、安っぽい道徳に、おとしめることがあってはなりません。
 
福音は、人の道徳で説明できるようなものではありません。キリストは、神を信じて戒律を守っているから正しいと言っている者たちを、敵対者として、強く意識しているということです。そこを捻じ曲げる解釈は、パリサイ人や律法学者や祭司、即ち、悪魔側の信奉者に他なりません。
 
つまり、前にも書きましたが、この教えは、情欲をいだかずにおれないのだから、罪は、まぬかれない。ゆえに、総ての人は、罪人であり、正直な祈りによって、俗のほうから、神のほうへ、方向転換することが必要だと言っているのです。
 
 
さらに、厳しい、というより、守るのは不可能、と思われる教えが続いています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:29
もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
5:30
もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 
5:31
また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 
5:32
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
 (マタイ5:29-32、新約聖書)
 
 
この厳しさも、そのまま、守れという教えではありません。ただの誇張でもありません。キリストは、人が、教えを守って完全になることなど決してできないということを、既に、ご存知だということです。
 
ここにおいて、キリストが、強く意識しているのは、こういうことをしているから罪で、あるいは、していないから罪はない、という行為義認への痛烈な批判であります。その批判は、パリサイ人などの戒律主義の偽善者に向けられていることを理解するべきです。
 
人間が、ちょっとばかり、形だけ、善を行い、悪を避けたつもりでいることなど、神の前で、正義などと言えるようなものではない。つまり、人間は、罪を犯さないようになって神のように正しくなることなど決して出来ない、ということを前提に言っておられるのです。
 
 
キリスト教と信仰を、道徳と同じように考えて、正義の神はなぜ悪を放っておくのか、などと、人が神を扱い判断し裁くような理屈で、机上で神?を否定して、宗教を信じ過ぎないほうがいいみたいなことを書いている楽山という反キリストがいるので、書いています。
 
私たちは、筋が通っているから、矛盾がないから、正義だから、神を信じているのではありません。神の正義は、神秘であり、決して、人が理解することは出来ません。私たちは、祈る相手がいるという救いの一片によって生かされて、信仰者となるのです。
 
人が、神を理解することは不可能です。神の筋道も、神の整合性も、神の正義も、私たちは、地上で理解することはありません。完全ではなくても理解できることはあるだろう、という主張は、それ自体が、不完全な理解による正義であり、神の正義に遠く及ばないものだと承知するべきです。
 
人間は、たかだか安い道徳を守ろうとする程度ですが、しばしば、善と悪を間違えて、偽善で納得したり、合理化したり、言い訳したりもするわけです。だから、人の善悪の認識と判断など、殆ど、生きる支えにはならないこと知った人が、信仰を求めるのだろうと思います。
 
私たちは、イエス・キリストという仲保者によって導かれています。信仰は、道徳ではありません。だから、人が、道徳と正義の視点から、神とキリストを否定することは不可能であり、同時に、また、肯定することも不可能です。つまり、私たちは、正義によって、信じるのではないということです。
 
キリスト者は、キリストに絆(ほだ)された者、言い換えると、キリストに絆されることで心の自由と解放を得た経験がある者です。道徳とか、行為とか、奇跡とか、契約とかいった言葉で、神とキリストを決めつけてはいけません。大事なことは、理屈ではなく、心に与えられます。
 
キリストの、人間を洞察し、人間に共感する愛を知った人は、それを忘れることが出来ないゆえに、キリストを、人生の同伴者、そして、唯一の希望として、仰ぎ続けているということです。
 
とんでもない悲劇が起こるから神はいないなどという反キリストの言い分は、神も人間も理解していない表れです。そういうことを言うのは、楽山のような無神教カルトです。誰も救えない者たちとして、いちゃもんばかり言って、人を、神から遠ざけようとしてくる悪魔性です。
 
それゆえに、信仰者は、ごまかしや、勘違いや、安い道徳や、安易な理屈に、落ち着いてはいけないのであります。信仰は、正義の人になるためではなく、正義を求める人としての生きる活性を失わないために、その活性が何であるかを知るために、与えられます。ゆえに、福音と呼ばれます。
 
私たちは、常に、途上にあり、望まれているのは、完成することではなく、努力し成長することであります。私たちは、民であって、神ではありません。私たちは、完全になるのではなく、完全ではないこと知って、学び、成長することが望まれているのです。
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
21:15
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。
21:16
またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 
21:17
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
 (ヨハネ書21:15、新約聖書)
 
復活の主イエス・キリストは、ペテロに、三度、同じことを問うています。その前に、十字架の時、ペテロは、三度、キリストを知らないと言って、裏切っています。
 
私たちキリスト者は、何度、問われるでしょう。私たちは、何度、裏切っているのでしょう。キリストは、人が裏切るという罪の性質を、既に、ご存知です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:31
そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。 
26:32
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。 
26:33
するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。 
26:34
イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 
26:35
ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
 (マタイ26:31-35、新約聖書)
 
ペテロは、自分の覚悟をキリストに誓いますが、キリストが、既に、裏切りを見抜いておられます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:69
ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。 
26:70
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。 
26:71
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 
26:72
そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。 
26:73
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。 
26:74
彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 
26:75
ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
 (マタイ26:69-75、新約聖書)
 
私たち信仰者は、何度、キリストを裏切ってきたでしょう。
 
この話は、ペテロの裏切りをを責めるための話ではありません。誰もが、裏切りという罪を犯すということを、キリストは承知の上で、生き、死に、滅びることなく、よみがえり、救う御方であるということを、私たちに、伝えているのです。
 
 
洞察

洞察
 
 
(2021年)
(2022年12月20日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そうではなく、楽山固有の悪と罪と偽善だということです。
 
自己愛性人格障害の楽山には、後悔、反省、自覚、などの高等感情が欠けています。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。超常に遊んで、狼狽して、自己正当化することしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山のように、神の見ているこの地上で、自分を、他者に大きく見せようとするのは、信仰とは全く逆方向の欺瞞です。信仰者は、正直な祈りを心掛けるべきでしょう。返答に窮すると讃美を繰り返す偽牧師シャロームshaom と、楽山は、仲間か、同一の成りすましだと思います。
 
 
 
楽山は、ツイッターでHS批判を続けているつもりのようです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
アンチは表舞台には上がれない陰口の王者だ
 」
ORは、世界宗教者会議というような表舞台には上がれてない。政治の舞台にも上がれなかった。
朝ナマで、オウム教祖と直接対決できたのに出席しなかった。
この批判は、ORも当てはまりますね。
 
楽山は、アンチではなく、インチキだとバレても、批判しているふうを装って、現実の立場を、捏造し続けています。結局、人のことを言って、逆に、自分が、陰口の常習者に成り下がることで、またしてもインチキぶりを自ら証明しているのです。陰愚痴のペテン師です。
 
楽山は、批判をしないと、何の立場もアイデンティティーもなくなるので、不細工に、あがいているだけです。既に、今まで、だまし、偽ってきた履歴が残っているのだから、引っ込む以外にないのを、批判し続けることで、ますます、不潔な涎(よだれ)になってゆきます。
 
他者のことを「表舞台には上がれてない」「政治の舞台にも上がれなかった」・・これこそ、今の楽山の、欠格の醜態の口だけであり、いかなる正当な出席の事実も資格もない実情なのです。まともな反論も出来ず、誰にも相手にされないまま年を取ってゆくのでしょう。
 
今回も、楽山の発言が、楽山を否定してゆきます。人を責めることでは、決して、自分を上げることにはならないという典型例です。言えば言うだけ、みじめさを増して、楽山に当てはまってゆきます。心を学ばず、言葉を学ばないまま、思い上がった偽善者の末路です。
 
カルト教組のようには、持ち上げてくれる人もなく、独りの部屋で、ぶつぶつ呟いて、自己満足するのでしょうか。誰からも愛されず、共感されず、今まで受けた賛同が欺きの犠牲でしかないという現実から目を背けたい逃避の虚数空間が楽山のマイホームなのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
『アンチは相手にするだけ無駄なので、いち早く切り捨てるべき』
アンチ達が「アンチという泥沼」から抜け出る事を望みます
 」
一般論では、合わない人とは距離をとるのが正解。
でも宗教的には、後者のように改心を祈りつつ、待ち続けるのが正解と思います。
 
「切り捨てる」を「距離をとる」という丁寧語で言い換えて「正解」などという楽山の偽善の、評論家気取りの言い訳です。楽山は、スルーと言って無視する自己中の虫です。今までの泥沼の楽山が、今の楽山を追いかけてくるでしょう。
 
誰も、楽山という底なしの泥沼に堕ちることのないように祈っています。楽山の影響を誰も受けないように祈っています。正直の欠片もなく、改心することなく、祈ることなく、災いを人のせいにしてきた楽山の放言が、楽山を切り捨ててゆくのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
どの時代どの地域にもアンチはいる。
 」
大川隆法は、他の思想や宗教に対してアンチです。
Pさんは、HSや百田尚樹のアンチに対してアンチしてます。
仰る通り、アンチはいつでもどこでもいます。 
 
楽山が、よく使う詭弁です。一般を同じ穴の狢(むじな)として巻き添えにします。どこにでもいるのだから、自分もいっしょで、悪くないと言いたいのでしょう。楽山は、嘘と詭弁にまみれています。こういうのは、真実追求の言論の場に、いてはならない人です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
でも私のOR批判は、全体を見た上で、その一例として文言を取り上げるというものです。
たとえば、ORは、自分は仏陀で、創造主で、イエスに我が父と呼ばれた存在だなどと傲慢発言を繰り返してる。
その一例が、イエスの悟りが掌に見えたというものだという風に。
 
我欲の奴隷である楽山は、全体を見れませんし、個別も見れません。何も現実を見ずに、自らの妄想を見て、妄想を通して、現実だと思っているだけです。楽山は、霊が分かるっぽいという自覚で、教祖願望を掻き立てています。そして、自己中となり、人間性を失っています。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
・全体を見ず、一部を切り取り、それに勝手な意味付けをした上でケチをつける
・全体を見た上で、問題点を把握し、その具体例として一部の文言を例示する
 」
この二つは、まったく別のものです。
でもPさんは、一部の文言を取り上げているという表面的なことしか見れてない。これはアカンと思う。
 
楽山には、「全体を見」る視野も、「問題点を把握」する目も、持っていません。楽山は、いつも、理路の言葉の一部をあげつらって、「勝手な意味づけ」をして、「ケチをつけ」てきます。楽山は病識がないので、相手を批判しているつもりで、自分の泥沼を表してしまうのです。
 
楽山は、まさに、「一部の文言を取り上げて」「表面的なこと」しか見れていないのです。いつも、そうであり、それが楽山の体質です。「アカン」ではなく、アウトなのです。楽山は、人間の良心を持たず、全く別のものを持っています。批判者ではなく、批判対象にしかなれない人です。
 
楽山が、人のことを、書けば書くほど、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるところの楽山自身を表します。ずっと、そういう成り行きです。楽山を相手にしてはいけません。関わってはいけません。どうか、楽山に近づかないでください。
 
楽山が、誰かを批判するとき、その批判が楽山を斬る、という、いわば自滅の刃になっています。このように、自己愛性人格障害は、知能は正常のはずですが、自己中のために、考え方が片寄ってくるので、結果として、知性も感性も、狂ってゆくことになるのでしょう。
 
 
 
  まえがき 契約
 
今ここに保証のない契約をたてて
旅立つ前の支度のように
転がるプライドを箱におさめ
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
虚言と余言?を手紙にしたためて送ろうと思う
 
奴隷がしもべに変わるように祈りながら
呪いを自らに向けて
一つの段を降りてまた一つを降りて
もう降りようのないほど降りて
降り尽くしたとき
通じ合えることの乏しさを
触れることもなく
触れられることもないほどに
低く造られたことの喜びを
分かち合える友の少なさを
パン屑の奇跡になぞらえて
汚れの中に身を置いた
空しさの故に約束しよう
 
あなたがたは栄え
この身はいつか森の中に行って罪を悔い
見せない涙のように土に帰る幸いを知ると
 
 
  失恋の歌をかくなら
 
失恋の歌をかくなら
それはたやすいこと
満たされなかった欲望や
裏切られた夢が
今も僕を恨みながら
アルコールづけの胎児の表情で
落ちていく秋を歩ませる
 
ひとりの空 ひとりの道
僕はひとりだ
暗い天井
効き目のない眠剤
かつて幾度も君の夢を見せた
眠りの中に落ちていくのは怖いことだ
 
代わりにペンを走らせてゆく
描かれるのはいつも
光を求めて空を仰ぐ
盲目を拒んだ義眼の洞察
 
書くたびに無力になる
怒りと口付け
死化粧の悲しげな
やさしさだけで
初めて憧れる
遠い旅路の青い海
地の果ての歌
ララ・・・・・
 
 
 
寸評:
 
笑いと怒りはあるが、悲しみの情がない。死者が万を超えても平気で自説の妄想を得意そうに語る。核兵器の話で脅してくる。罪悪感もなく、反省もしない。恐らく同じ思いの人はいると思いますが、風珍は、人の命を何とも思わないサイコパスとしか思えません。最悪の事態が起こらないことを祈っています。
 
人類の敵は、国家でも民族でもなく、サイコパスです。
 
 
 
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  神の国は3
 
 2018年11月22日
 私の記事「神の国はいつどこに」に加筆して再録
 再録+
 
 
信仰者の中には
神は、キリストは、聖霊はと
聖三位のことばかり語ろうとする人がいます。
信仰のことといったら奇跡のことばかり語り
物や肉体に起こる奇跡を信じることが信仰だ
と思っている人もいるようです。
 
神聖の仕組みを知ること語ることが信仰でしょうか。
信仰について、大真面目に、現実離れしてはいないでしょうか。
得々と、お伽噺を語ってはいないでしょうか。救いは現実のものなのですが。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
 
神の国について、キリストは、人々の中にある、と言っています。神聖の救いの仕組みを知ること語ることが信仰でしょうか。信仰は超常を思い込むためにあるのではなく、信仰は、人間が、人間と人生を考えるためにあり、その中にあります。
 
神が人を救うということを知らせることは福音ですが、人間が信仰者になることは、どうして起こるのでしょうか。神が人を救うと言うだけで救いを信じるでしょうか。そうではなく、聖書によって、キリストと人の交わりを知るからこそ、人は救いを求めるのだと思います。
 
なぜなら、そこに人は、心が、いろいろな執着から解放され、人間に救いが与えられることに実感が持てるからです。さらに、そのことを、救われたとさえ感じられるからです。そのとき、神の国は、いつどこに?という問いは、救われたと感じる人にとって、今まさに垣間見ているからです。
 
何故なら、人は、救いの仕組みのような、あるいは、記録映画のような視聴覚ではなく、お伽噺でもなく、知識や理屈としてでもなく、人間として既に生きて人生を体験し続けているからです。神の側の話をいくら聞かされても、それは、人の側とは、かけ離れた神聖の世界の話です。
 
さらに、人を救うと言われて奇跡を信じる人、つまり、救われるという話だけで夢中になる人は、救われるにふさわしい成長をする気になりません。そういう人は、全て、奇跡だから救われるのだと、自動的に救われることを信じてしまいます。
 
 最悪の場合、救われる立場から
 神の恵みなのだと言うだけで、
 自分を例にして自慢して讃美するだけになり
 救いを求める心に答える話が出来なくなるかもしれません。
 そこには愛という言葉はあっても
 愛そのものは、ないのです。
 
なぜ、キリストと人が関わった話に、人は胸を打たれるのでしょう。それは、キリストが、救いのために犠牲になったという役割でなく、その言行において、教えだけでなく、キリストと、低さを知るしかない人間たちとの交わりが、溢れるばかりの共感を与えてくれるからです。
 
聖書を通して、キリストと交わったら、人間の心には忘れられないものが残るのです。それは、聖書を読むことからの、人生において大きな体験なので、物や肉体の魔法のような奇跡ではなく、救いの辻褄でもなく、人間の心に響く共感、 "魂の奇跡"、あるいは "心の奇跡" と呼んでもいいでしょう。
 
その大切なものが、弟子たちを使徒に変え、人をクリスチャンとして成長させるのです。奇跡が分かり、奇跡に守られるようになる・・などと、思っているなら、それは、超常願望に過ぎません。神は、人の願望や欲望を成就して讃美されるためではなく、生きている心を救うために信仰を与えるのです。
 
 
恵みだけを語る者、つまり、恵みなのです、恵みなのです、ということばかりを繰り返す者を警戒してください。そういう者には、信仰の芯について、まだ知らない人と、勘違いしている人と、知ろうとしない人がいます。
 
上の人は、キリスト信仰者ではありません。まだ、神と人の、憐れみも愛も知らないのです。だから神もキリストも、救いの仕組みの工作のような知識だけしか知らない者です。そこには血も涙も命もありません。人間らしい温もりも潤いもありません。そこにあるのは、机上の辻褄合わせだけなのです。
 
偽者者は、神の仲間になったかのように思い上がっており、全て知っているという慢心から、学ぼうとしないために成長がなく、むしろ鈍くなり、やがて自他を破壊してゆくのです。そういう者は、世辞の丁寧さによって、見かけの憐れみと敬虔を装っています。
 
そういう者の傲慢が、言葉や振る舞いに直ぐには見えないことがあります。しかし、突っ込んで質問すれば答えられず、しかも分からないとは言わず、それが一回ではなく重なると、最後には質問者を無視し拒否してくることで分かります。それが偽善者なのです。
 
偽善者は、キリストを殺した者たちと同じ体質を持っています。しかもその不感不応で悔いることのない体質を、不動の信仰だと思い込んでいます。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:12
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 (マタイ9:12-13、新約聖書)
 
キリストが引用した言葉は旧約聖書ホセア書のようです。
 
 (ホセア書、口語訳)6:6
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
 (ホセア6:6、旧約聖書)
 
 
したがって、神を知るというのは、神の憐れみを知るということなのでしょう。決して、神の辻褄を知ることではありません。神の憐れみを知るために必要なのは、奇跡を信じることでもなく、教理を鵜呑みにすることでもなく、人間に分かる愛に共感できることです。
 
聖書ではそれがキリストを動かし、聖書を読んで学ぼうと努める私たちは、キリストが施す愛に共感するゆえに、キリストを信じるに至ります。上の例外的な偽善者を除いて、殆どの人は共感できる心を持っています。
 
儀式的信仰の習慣や言葉中心の教条や、たとえ奇跡体験があったとしても、解釈に詳しくなったとしても、人間の潤いに満ちた温かい共感を捨てて、人間としての心を損なうならば、全ては無意味です。共感の温もりと潤いこそが、人間が持ちうる信仰であり、人間が知りうる神の国に他ならないからです。
 
 
キリスト信仰は、良いことをしたから救われるという行為義認ではありません。信仰のみによって救われる信仰義認ですが、信仰、つまり、神を信じることは、いったい何を意味しているのでしょう。神を造り主、キリストを救い主と信じる者の信仰とは何でしょう。救われる唯一の条件とは何でしょう。
 
それは、
自分の罪を認めるがゆえに祈り
神の前に罪深い自分を正直に差し出すことです。
 
聖書の罪人たちは、それが出来たから救われました。
それが救われる唯一の条件ですし、
信仰そのものであると言ってもよいのです。
 
 
神の憐れみと共感を示す聖句です。
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇、旧約聖書)
 
 
信仰は共感

信仰は共感
 
 
(2018年)
(2020年)
(2021年)
(2022年12月04日、再録+加筆)
 
神の業(かみのわざ)
溢れる(あふれる)
 
 
 
  個と種
 
違う遺伝子を持ち
違う学習を経た
個はあくまで個であるから
完全に理解し合えることはないだろう
 
同じ遺伝子と学習経過を
一部に持っている種は
あくまで種であるから
他の種との協力よりは親密に
協力し合うことはあり得るだろう
 
誤解を許容した上での話で
他の種との共存を肯定した上での話で
はるかにヒトより永い淘汰の歴史を持ち
一途(いちず)に子孫を残すことだけのために
強化された遺伝子を持っている他の種に
無謀な戦いを挑もうとしなければの話だが
 
 
  色褪(あ)せる死
 
よほど悲惨な死に方は別として
近づいてくる当たり前の死
年を取れば取るほどに
死は近づいてくるのだが
年を取れば取るほどに
死は悲しまれなくなり
死の色合いは薄れてゆく
よほど特殊な事情は別として
同世代の高齢者が
畳の上で死んだとき
号泣(ごうきゅう)する友人は少ない
先に逝っちまったか
次は自分か
そのうち自分も
みたいな共有される平板の上を
ひとりひとりの褪色(たいしょく)が包んでゆく
年を経れば経るほどに
誰もが忘れる頃
ある日ふと
いないんだった
もういないんだ
な・・・
どこかの深い深い洞穴(どうけつ)から
短すぎて呼べない季節のように
少しだけ身に迫る
冷気の蒼(あお)い風のひととき
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
楽山は、HS問題について、ツイッターで批判と議論を続けているつもりのようです。高級霊、次元構造、波長同通、憑依など、皆、超常の言葉ばかりで、人間について何も語れない貧相をあらわにしています。自尊だけを求めるペテン師だと思います。楽山に近づかないでください。
 
楽山は、自身の問題を、全く自覚できない人です。だから、平気で、傍観者として、アドバイザーであるかのように、他者のことばかり言っています。他者のことを、"トンデモ発言" などと言っている楽山こそ、トンデモな正体を隠しているのです。
 
無反省、無責任で、自分のもたらす害を、全て人のせいにするような、冷血の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)を隠そうとする楽山は、議論をする資格も能力もないのに、ただ、人間離れした超常を、理屈めいた言葉で語って、自己満悦しているだけなのです。
 
楽山の言は、言論ではなく、生殖器のようなものです。そこから詭弁を放出して、人が騙されて受け容れるのを見て、快感を得るのが、楽山の生き甲斐なのでしょう。楽山の人生には、真善美がなく、正義もなく、怠慢ゆえに、努力も学習もしない結末の、ゴミ問題となってゆくのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  信仰の心3
 
 
キリストの奇跡の話を2つ上げておきます。物や肉体の奇跡が実際にあったかどうかは知りません。しかし、それよりも、ここで重要なことが、救われた人々の、それぞれの心にあります。
 
信仰において大事なことは、神そして救い主イエス・キリストに対する、救われた人々の心にあります。
 
信仰を学ぶということは、つきつめると、この心、そして、そこからの、神への姿勢を学ぶことに他ならないと思います。
 
反キリストの楽山のように、神の辻褄が合ったら信じてやる・・みたいな態度と姿勢では、信仰は、永遠に、理解されることはないのです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:19
そこで、イエスが立って彼について行かれると、弟子たちも一緒に行った。 
9:20
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 
9:21
み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19-21、新約聖書)
 
「み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう」という女性の言葉は、厚い信仰と受け取られることが多いと思います。しかし、実際に、女性をして言わしめたのは、
 
 他に救いがない
 
ということだったろうと思います。どこへ行っても治らなかった病気があり、むしろ、信仰云々よりも、救い主と言われる御方が来たと聞いて、せめて、衣にさわるだけでも・・と思って、群衆にまぎれて、近寄り、さわったということでしょう。
 
ここまでに、具体的に、どういう導きがあったのか、知りませんが、キリストとの縁があり、ここに来ることになったのです。運がよかった、というだけではなく、
 
ここに至るまでに、女性の心が砕かれて、キリストに、頼るしかない、他にない心になっていた、ということが大事なのです。この心が信仰です。
 
多くのキリスト者において、信仰に至るということは、また、信仰が深まるということも、他に選択肢がない、という体験を経ているだろうと思います。
 
キリストは、「あなたの信仰があなたを救った」と、褒めています。言い換えれば、それこそが、信仰なのだ、ということではないでしょうか。
 
衣にさわるだけが目的となっていますから、女性は、あ、へへっ、治りましたよ、それでこそ、メシアですねー、と、笑って、追従を言ったり、うまくいったと踊ったり、また、治らなければ、損したと、舌打ちしながら帰るような人・・ではなかった、ということが分かります。
 
楽山のような反キリストの辻褄合わせなど、何の意味もないのです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:25
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 
15:26
イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 
15:27
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:25-28、新約聖書)
 
「子供たちのパン」というのは、イスラエルの救いのことでしょう。キリストは、旧約におけるメシア預言によって、イスラエルに救いをもたらすことが、元々の目的だったようです。女性は、カナン人で、異邦人と言われている人でした。実際には、救いは、イスラエルにとどまるものではなかったのです
 
ここで、女性は、キリストに、食い下がっています。その台詞が、「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」という、自らを小犬に喩えるほど、自分を低くしているのです。
 
ここにも、他に頼るものがないほどに、砕かれた魂が、余計なものを求めず、心貧しく生きている姿があります。人が求めるところの、好ましい善なる心は、たぶん、これに、まさるものはないと思います。
 
これが芝居ではないと、キリストは見抜いたゆえに、「あなたの信仰は見あげたもの」と、褒めています。これが、身を低くする信仰に対する救いと癒しと恵みなのです。
 
女性は、メシアなら治して当然だろがー、などと怒る人ではなかった、ということが分かります。
 
教義がどうの、神がいるなら悪人がのさばるのはおかしいだのと、反キリストが言うのは、小理屈の辻褄合わせの奴隷となった者の、好ましさとも、善とも、かけ離れた理屈倒れに過ぎません。
 
 
つまり、信仰は、物や肉体の奇跡が、起こるなら信じる、起こらなかったら信じない、というような、取引ではありません。
 
信仰の奇跡は、物や肉体に起こるという結果よりも前に、キリストを知り、キリストに会うことで、心に起こっているのです。
 
 
 
どこまでも批判されるべき人は、闇の住人だからなのです。闇にいる人には、信仰は分かりません。闇とは、見えないものや、隠しているものが、いっぱいあるところです。正直な文章が書けない人です。
 
救われる人は、闇から出て来て、正直な告白をする人です。
 
 
仰ぐ心

仰ぐ心
 
 
(2020年10月07日)
(2022年10月14日、再録+加筆)
 
 
 
  呼べない名前
 
残された光の中を
危うく滑り込んできた
いくら見つめても 夕焼け
見つめ返してくれるはずもないのに
またここへ来て今更のように
呼べないものを呼んでいる
他に誰がいよう
めぐる日は明日を教えず
生きている今の一瞬 と
思う時すでに過去なのだ
 
過ぎ去ったお伽話が呼ぶ
砂のめぐりも絶えて
何処の静脈を流れる
知られぬまま古びた血よ
 
また帰る日もないものを
人はまた呼ぶであろう
暗闇の前の熱い血の光に
ひととき心を染めて
呼べない名前を
たそかれ と
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  愛して
 
二十代から数えて
二十年の凹凸を噛んで
出来上がった顔が弱っている
さしのべた手をかすめて
わずかの小銭が通り抜けた
歪んだ顔を隠す
愛してもいないのに
 
二十年の空白を吸いきれずに
出来上がった変質者がふらついている
その辺り昔話でいっぱい
作り話でいっぱい
もう一杯と
暗い路地に足の裏を残しながら歩いていく
歩く後ろから世界は崩れていく
前は暗闇
 
どちらを選ぶか
どちらを選んでいるか十年後
路地に人影はなく
多くの足跡乱れて
入り組んだ空白から
もれた明かりが凹凸を噛む
愛してもいないのに
 
 
  びしょ濡れ
 
ぶらりと歩いて
コンビニでお買い物
空っぽを下さい
銀行に入ると
通るべき空間がすでに用意されている
レールよりも複雑だ
時間と音さえ狭い通路
べらんめえ口調ってのはどうだろう
映画館でみている
閉じたまぶたの裏を
病のようにギラギラと波打つ闇を
公園に座っている
近くの草をむしりながら
意外と落ち着かないものだな
目的がないということは
目的があるということは
どれくらい本当のことかしら
君も遠くなったな
太古の昔のことのよう
思い出すというより
まるで想像している
君と僕に接点があったなんて
ライトをつける
ポンコツのバイクの音が
夜に響く
それよりもチクチクと
無数の虫がライトに飛び込んでくる
夏の夜の田舎道
田んぼが見えない
バイクの光だけが浮き上がる
自分が見えない
虫が当たる痛みを感じる
虫の死を感じない
この角は知っている
ふいに曲がるから
まだ西の空に
少し夕方が残っていた
夕暮れに連なる道
いつか消えて
ライトを消して
エンジンを止めると
沈黙と暗闇の中で
焼かれているものがある
ぶらりと歩いて
ドアを開けてふらついた
今日は濡れずにすんだね
実はびしょ濡れなんだ
 
 
  深夜の車
 
寒い
深夜
スプレーをかけて
凍った車のウィンドウを拭く
 
寒くない日に
生まれた言葉や
凍りついた励ましや
やさしさが
冷たい息をかけて拭き取られる
 
残った透明なガラス
見にくい
見通し
 
ハンドルを切る
神経が切られてゆく
 
坂道をのぼる
知性が落ちてゆく
 
憎しみでいっぱいの
車から
小さな音をたてて
落としたらしい愛が
草むらを転がり
暗闇にさらされて
悔いを呼ぶ
エンジンが壊れそう
 
アクセルを踏む
怒りが吹ける
煙が尾をひく
 
短いせりふのように
流れ
走り去った車の後に
夜が残る
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、宗教を飾りのように見なして、キリスト教も批判しました。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の目には、神は見えないでしょう。自己中は、自分以外の大いなるものを見ることが出来ないからだと思います。その盲目にだけ、楽山は従順なのです。
 
 
 
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  いちばん大切なもの2
 
 
この世において、キリストの心が伝わるのを妨げようとする者の話には、聖書とキリストの話を、奇跡や超常の話ばかりにして、史実か事実かどうかで追いつめるてゆく、というやり方です。それは、いちばん大切なキリストの心から遠ざけようとする誘惑なのです。
 
反キリストや無神教カルトは、キリスト教について、人間離れした呪(まじな)いか魔法のような超常現象だけを伝えて、人間の、共感できる心から離してしまう誘惑をしてきます。
 
キリスト教について、聖書を実際の史実として、神がいるなら、奇跡が起こるなら、復活したのなら、などの仮定から、無節操な自分信仰から、おかしい、という仮定法をもって、神はいない、聖書は虚偽だと主張し、キリスト教を否定する誘惑です。
 
超常に信仰は要らない。そして、信仰に超常は要らない。
 
神は、人と、取引はしない。信仰は真実であり、史実に依拠しない。
 
疑問は、自分信仰を否定しても、疑問であり、そんなことはない、そんなことはないと、無理に疑問はないかのように、疑問を否定して凌ごうとするならば、既に、反キリストの術中にはまっていることになります。疑問は、祈りにおいて、そう感じている自分を正直に告白するしかありません。
 
聖書や教理の、現実における疑問には、私たちは、共感を持てるはずです。それが、人間らしさであります。何ごとも動じないのは、神だけです。私たちは、疑問は疑問として、解決するのではなく、無視するのでもなく、"分からない箱" に入れて保留するべきです。
 
その上で、福音伝道者すなわちキリスト者は、超越性ではなく、成長し得る知性と感性を持ち、良心を持つ人間性から、信仰を考えて伝えることが使命であります。
 
否定するだけのお気楽な者たちが語れないこと、それが、キリストの心なのです。
 
人間に共感するキリストの心に、私たちが共感することによって、信仰は生まれます。
 
超常現象に驚たり信じ込んだりすることからは、真のキリスト信仰は生まれません。
 
肉体や物への奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないが、
魂の奇跡は、キリスト以後、二千年にわたって起こっており、多くのキリスト者が生まれているということです。
 
魂の奇跡、と言うのが、超常的だと思うなら、心の奇跡、でもいいのです。
 
信仰の誕生は、趣味的なものではなく、超常現象でもないところの、人間が生まれ変わる、というのが超常的であるなら、人間を目覚めさせるところの、心の価値観がどんでん返しになるような、その後の人生において決定的な変化ということです。
 
それは、絶対孤独からの解放に表れ、共感に表れ、感動に表れ、愛に表れ、新しい価値観に表れ、温もりとして表れ、潤いとして表れ、祈りとして表れてくるものです。
 
何よりも、そこには、聖書に表されたような、キリストの同伴、すなわち、キリストの洞察と共感と慈愛の同伴が、人を絆(ほだ)すしるしとして顕れるからです。
 
反キリストや、好事家の、聖書の話には、それらが、スコ~ンと抜けているのです。
 
 
前に書いたことですが・・
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 
10:41-42
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
 
先ず、この個所を読んで、キリストはマルタよりマリヤを好んだとか、マルタの信仰よりマリヤの信仰のほうが上だ、という解釈をしないようにしてください。このような読み方は、反キリストや好事家が、キリストの心をけがすためにする読み方です。
 
キリストの、マルタへの愛を見逃してはいけないと思います。ここでのキリストの言葉は、マルタのために語られています。そして、私たちのために語られているのです。
 
「マリヤはその良い方を選んだ」というキリストの言葉は、マリヤの信仰の優越を表しているのではなく、マリヤは、マリヤの出来ることの中で、間違ってはいないということ。マルタは、マルタの出来ることをしていたが、マリヤと比べることで心を煩わしていました。
 
キリストの言葉は、マルタのために語られている。そして、私たちのために。
 
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」
 
キリストは、マルタがマリヤと同じようにしていたら、もてなす人がいなくなることは承知の上で、マルタに対して、マリヤと同じようにせよということではなく、マリヤは、これでよいと、信仰の義を与えます。
 
そして、マルタには、慈しみと親しみを込めて、名前を二回呼んで、山上の垂訓と同じように、思いわずらう必要のないことを語っているのです。信仰の優劣ではないのです。
 
 
信仰の義

信仰の義
 
 
(2020年
(2022年04月29日、再録+加筆)
 
 
 
旧約と新約聖書に書かれている数々の超常奇跡を読んだときに、話にならんとあきらめる人と、そのまま奇跡が起こると信じこんでしまう人、・・この2つの場合は、キリスト信仰には至らない例となるでしょう。
 
物や肉体の奇跡という超常のことは、神に任されるべきことです。人がどうかできることではありません。つまり神の行為であり、人の信仰の信条とは成りえないのです。奇跡が起こるという希望を抱くことはあっても、奇跡が起こると信じ込むことは、神の行為を決めつける冒涜です。
 
私たちが受け取れる、そして、受け取るべきことは、キリスト・イエスの、人々に対する共感性にあります。人々の置かれている状況と事情を洞察し共感するキリストからの教えは、人間がいかに不完全であるか、そして、キリストがいかに共感しているかが分かります。
 
ゆえに、人生におけるキリストの同伴を受け入れることが信仰です。言い換えれば、イエス・キリストの御名によって、神に祈ることが、信仰であります。正義や善は、信仰に伴うことがありますが、信仰そのものではありません。ゆえに、罪人にも信仰が生まれ得るのです。
 
そういう目で聖書、特に、新約聖書を読むと、いかに、不完全の自覚を持っている人ばかりが救われているか、ということに気づくのです。不幸の分、自分を空しくしているような人々なのです。取税人、娼婦、姦淫を犯した人、病人、犯罪人・・などです。絶対孤独から絶望していた人々です。
 
一方、キリストの敵となったのは、自分は高いと思っている人々でした。高慢はくじかれ、傲慢は裁かれるというのが、キリストの教えです。聖書では、例外はあるようですが、パリサイ人や祭司、そして、言葉だけに詳しいと思われていた律法学者たちでした。
 
こういうキリストに憎まれた偽善者になってしまう恐れは、今の時代でも反キリストとして、キリスト教の内外に、たくさんいるわけです。絶対孤独から解放された人が、裸の王様になってはいけないということです。また、安っぽい教条主義だけで、自己満足してはいけないということでもあります。
 
キリストの共感を受けて、キリストに共感する人は、キリストの民となり、キリストの同伴をもって、絆(ほだ)され、そして、生き直し、比喩的には、生まれ変わるゆえに、正直な祈りを、人から神への唯一の音信として、信仰生活を送ることになります。正義と善は、ここでも、結果に過ぎません。
 
キリスト信仰の福音は、正義や善を勧める教えではありません。もちろん悪を勧める教えでもありません。一途に救いを伝える教えです。一途に、孤独ではないことを知らせる教えです。正直な祈りだけで、信仰の義を与えられて生き直す日々を伝えています。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  無の真実
 
独り思いは掌中に風化し
砂のように行方も知れず
毀(こぼ)れ落ちる
 
後には何も残らないか
と尋ねられれば独り思いは答える
毀れ落ちたという真実が残ると
 
それは意義や意味
といったものには縁のない
売れない虚無の踊り子だ
 
しかし売り出し中の
毳毳(けばけば)しいダンサーよりも
しばしば長く残る
 
拍手喝采のない舞台で踊り続け
舞台を選ばず外でも内でも
ホーホーラララ・・・♪
 
けれど耳に聞こえず目に見えず
掌中から去って久しく
ときに手のひらよりも胸に
遠い浜からの潮風を通す
 
 
  相対性情緒
 
討論会というものにおいて
喧々囂々(けんけんごうごう)の論争を経ても
一定の結論に達することが殆どないのは
それぞれが異なった譲れない一線を
結界のように引き直し引き直し
自らのベクトルに乗っていながら
しかも語ろうとしているのは
絶対的な速度の源についてであるから
そこで起こり語られる
あらゆる現象も事物も時間も空間も
知識や論理さえ
多様に歪み変形し展開するために
絶対的な真理を見出すよりは
相対的な誤りを見逃すほうが
はるかに容易(たやす)く
すれ違う脈絡の渦の中で
感情の起伏は激しく波打つのに
論者は知性と理性をもって語るように
義務付けられているから
討論会は結論を出すことが
目的でもなければ期待でもなく
論争があるということを示す
統一されない場にならざるを得ず
よって周りで見ている人々は自らの
自転する思考に乗って公転するように
目を回しながら注目し
サラウンドしながらラウンドする
ノイズのような声に聞き耳を立てている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のボンヤリ言語というのが「大事なことだと分かって」「実践するのは難しい」に表れています。反省できなければ人間ではないということを、難しいことのように言うのは、反省する気がないということで、「んだよなあ」という語尾で「人間の性」と一般化するという気色の悪さです。
 
楽山の文章を見るとき、体質として性癖として身についてきたボンヤリ言語と、三文芝居のトホホ言語に、安っぽく同情するか、気持ち悪い作為だと気づくかで、楽山の罠にはまるかどうかが決めってくるようです。嘘と詭弁だけの楽山は、善きものをことごとく捨ててきたのです。
 
 
 
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  3つの聖句(二つの聖句3)
 
 二つの聖句 2020-01-19 00:05:05、再録+
 
 
キリスト信仰は、行為義認ではなく、信仰義認です。そして、信仰とは、神の前に、すなわち、祈りにおいて、精いっぱい、正直であることです。それが、神の存在を人が認めることであり、神の前に、それ以上のことを人は為しえません。すなわち、救われる必要十分条件であります。
 
キリスト信仰を、安い道徳に貶めないために、おさらいになりますが、大切な2つの聖句について。
 
 
聖書の犯罪人の話です。磔刑という死刑ですから、殺人犯なのでしょうか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
23:39
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40-42
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 (ルカ23:39-43、新約聖書)
 
聖書の中にも、行いを重視する聖句はあります。しかし、行いは、信仰の中心ではありません。十字架上の犯罪人は、何か善行を施したから救われたのでしょうか、否です。これから肉体が死ぬという時、恐らく地上では最後の、そして、唯一の、正直な告白のみによって救われたのです。
 
 
次は、教えを守ってきたという自信のある金持ちの青年についての聖句です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18-19
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16-22、新約聖書)
 
「よいかたはただひとりだけ」なのです。いかなる人の善行も、神に比べれば、遠く及ばないのです。善の完全なるは、ただ御一方、神のみであります。言うまでもないことです。なぜ、人は、神の善までを欲望し、敬虔を忘れて自慢したがり、完全などという大それたものを欲しがるのでしょう。
 
キリストは、青年に尋ねられて、戒めを守ることを告げるのですが、そのあとの、青年の言葉「みな守ってきました」という言葉に対して、ただ単に、謙遜せよ、という意味で戒めているのではありません。完全に守れる者など一人もいないからです。
 
人は、神の前で、決して、分かっている、守っている、見える、と言うことは出来ないのです。これらは、完全なる神聖だけに通用する言葉だからです。青年は、やや自慢げに、永遠と完全を欲しがりました。それは、神のみの持ち物です。
 
その証拠に、21節では、キリストは、青年の不備を見抜いているかのように、「完全になりたいと思うなら」と言って、青年が守れない教えを告げました。恐らく、キリストは、青年のうちに、完全欲と慢心があることを見抜いたのだろうと思います。
 
完全は、神だけのものです。そして、キリストは、命をもって、それを成し遂げました。キリストは、青年に、社会通念的な道徳の善ではなく、神の完全な正義のことを話したのです。それは、人間が、ふつうの善行によって出来ることではないからです。
 
青年は、"悲しみながら" 立ち去りました。ここは大事なところです。青年のその後は書かれていないと思いますが、パリサイ人のように否定されたわけではありません。パリサイ人のように、批判されるとキリストを殺そうと企む者たちは、悲しむことがなく、怒りと憎しみを返すしかなかったということです。
 
青年は、パリサイ人とは違います。なんとなくですが、キリストの、悲しみながら去る青年の、信仰の成長を期待しているような温かい眼差しを感じます。ここで、短い引用ですが、
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
(ネットより)
マタイによる福音書 5:28 新共同訳
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
この聖句を、完全になりたいと思うなら、これを守れるか、と考えてみると、この心の中の姦淫の罪を犯さない者はいない、すなわち、完全な者は、罪なき者は、一人もいない、ということが分かってくるでしょう。これは、人間という存在に着いてまわる不可避の欲望、つまり、原罪だからです。
 
そういう教えとして受け取らないと、この聖句は、できるだけ守ればいい、という安い道徳に堕してしまいます。そう解釈している者もいるようです。新共同訳の、キリスト教を、安い道徳におとしめようとする、「女」→「他人の妻」→「不倫の戒め」という誤訳の罪は、非常に大きいのです。
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、受け取る私たちは人間の言葉しか知らないのです。受け取るたびに誤解しているのかもしれません。ゆえに、成長可能な解釈そして解説と、成長可能な信仰の心が必要です。信仰を通念的道徳におとしめる者は、訳と解釈に加わるべきではありません。
 
神の言葉を、目覚めにつながらない安易な道徳律に書き換える者は、既に、偽善者、背教者、反キリストと言われる罪を犯しています。聖書を無力にしようという企みの集団でもいるのだろうか・・とさえ思ってしまいます。闇を照らす光を、誰でも知っている道徳に変えてはいけません。
 
人間の真実として、あるいは、むしろ救いとして、文字通りではなく、妄想でもなく、真実として響くものを追求する歩みに、そして、人間の成長に、少なくとも終末まで、終わりはないのです。こう書いておけば無難だろうという、ぬるい気持ちで解釈して改める気もないなら、悪魔の所業と言わざるを得ません。
 
神と違って、人間である信仰者は、不完全で罪深いという自覚ゆえに、信仰に救いを求めて、神に祈ります。それは、過ちを犯しても、絶望することなく、立ち直って生き続けることを可能にします。決して、不倫はいけません、あるいは、どうすれば正しい・・という単純さで、まとめることなど出来ません。
 
信仰は道であります。決して不変の境地ではありません。洗礼は、人から神への導きを乞う祈りの形式であります。決して信仰の保証でも生命保険でもありません。信仰者も罪を犯します。上の新共同訳に、その典型を見ています。
 
 
闇を照らす光

闇を照らす光
 
 
(2020年01月19日、同日一部修正)
(2021年01月27日、再録+)
(2022年01月29日、再録+加筆)
 
 
 
  寒い目覚め
 
悪い夢から
目覚めてみれば
もっと辛い世界でした
外は明るく
人の働く音がして
車の音がして
ときおり方言めいた声がして
働く音がして
トントンカンカンと
楽ではないはずの力仕事の音を
支えている元気は何だろうと思いながら
いっそもう一度眠りについて
夢の中に目覚めたい
でも覚めるから夢
覚めない夢に落ちたら
それが地獄というものなのでしょう
 
冬の寒さの中に起きてみようかと
求められてもいない
人の間に
砂の顔を滑らせながら
もう少し
人間の声の匂いを求めてみようかと
誰にも説明できない痛みを
雪解けの冷たさに隠しながら
 
 
  祈り・目覚め
 
また嫌なものを見てしまった
という気分で目が覚める
まだ生きてるの 頑張るねー
という呟きで自嘲する 
それでも
最後の眠りが未だ訪れていないように
生きるための一番大切な目覚めは
まだなのですから
欲しがっていてもいいですか
目覚め
欲しがるだけで終わりそうですけれど・・
 
まるで神様に保証を求めているようだな
と呟いてまた自嘲して
人目をできるだけ避ける暮らしでも
人々の間に自らを曝してゆく
見られる嫌なものになって
去らせてゆく
 
 
  螺旋階段
 
狭く細い螺旋階段では
休む場所がない
安らぐ場所がない
踊り場もない
動く気もしない
下に何があったか覚えていない
上に何を求めていたか忘れた
上れば息が上がる死にそうだ
下れば転ぶ落ちそうだ
どちらにしても目が回る
動く気にもならない
狭く細い一日の
中途にいつも立たされることになるのだが
不安な未知に向かって
這ってでも上る人は多くても
飛び下りる人は稀であり
なぜかその稀な人のほうが
気になって気になって仕方がないから
上ろうともせず下ろうともせず
動かないのに目を回している昨今
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
ペテン師の楽山には、何の魅力もありません。ネトウヨで、インテリ気取りで、軽薄な自己顕示欲だけのブロガーで、無反省、無責任、無神経の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、見るべき価値は皆無です。正常の議論が、楽山には出来ません。学習機能がないからです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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