落ちて惨め楽山
 
 「狭き門」ジッド著
 2021年10月05日 楽山日記(LD)
 
 
薄情で無理解な楽山が、また、キリスト教に、いちゃもんをつけてきます。そして、またしても、有名な小説をネタとして悪用しているのです。低劣な人というのは、都合がよいと思ったら何でも利用するので、こういう悪意の引用を平気でしてくるという例です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:13
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 
7:14
命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 (マタイ7:13-14、新約聖書)
 
楽山は、いつも安易な道を選びます。この聖句について、とやかく言うより、この聖句が自らに向かっていることを知るべきなのです。しかし、今日も、広い門を通って、悪意と敵意がバレバレとなっています。悪意の猿芝居、楽山の芸です。
 
*狭き門
「狭き門」は何回か通読したことがある作品だが、今回読み直してみたら記憶違い及び読み違いが三つほどあったのが分かったのでメモしておきたい。
*記憶の変換?
まず一つは、自分はアリサは家を出て修道院に入ったとばかり思っていたのだが、それは間違いだったということである。たぶん、アリサの性質からそのように思い込んでしまったのだろう。
*別れの理由
もう一つは、とある本で、アリサはジェロームに本当の自分を知られて幻滅されるのを怖れて、そうなる前に自ら身を引いたという解釈を読み、長らくそのように思っていたのだが、それは間違いだったということである。
 
恐らく、楽山は、本を読むだけの読解力はないと思います。また、平気で嘘を吐く虚言癖のサイコパスでもありますから、読書家気取りだけでしょう。まず、まともに読書することなど、楽山の偏狭で未熟な知性では無理で、だからこそ、見栄を張っているのです。
 
楽山は「解釈を読」んだと書いてあります。「狭き門」自体の感想が改まったのではなく、楽山は、解釈本を読んで、キリスト教批判に使えると思っただけでしょう。このような、下種なやり方で、インテリを気取って、人の良心をおとしめてくる楽山の低劣さを、知ってほしいと思います。
 
本作を読んでみるとアリサはとても宗教的な人物として造形されており、そのような考え方をする人物としては描かれていない。たとえば、アリサの日記にはこう書いてある。
おそらく最初のうちこそ、わたくしに対する愛情が、彼を神のほうに導いていたとしても、いまとなっては、その愛情が彼の妨げになっている。
(「狭き門」『世界の文学33』、ジード著、菅野昭正訳、中央公論社、昭和40年、p.245)
 」
わたくしが「自己完成をめざした」のも、ただひとえに彼のためだったような気がする。それなのに、その自己完成にも、彼と離れないかぎり到達できないとは、おお、神さま、それこそ、あなたの教えのなかで、わたくしの魂をもっとも当惑させるものなのです。
(同上、p.244)
 」
本作ではジェロームがアリサを偶像化していることに触れている箇所があるので、とある本ではその部分を拡大解釈していたのかもしれない。
 
小説の中の、一人の女性が結婚を諦めて命を落とすというストーリーによって、楽山は、現実の信仰を否定しようとするのですが、そんなフィクションの話より、現実には、楽山という精神病質者の悪意ある歪曲が、信仰を妨害しているという害のほうが深刻なのです。
 
*宗教による悲劇
三つ目は本作には悲恋ものというイメージがあったのだけれども、改めて読み直してみると単純な悲恋ものというよりは、宗教にまつわる悲劇というニュアンスが強いことである。
たとえば、アリサはこんなことを言っている。
「なぜ、あなたはイエスさま以外の案内者を求めようとなさるの?……わたくしたち二人は、それぞれ相手を忘れて神さまにお祈りするときこそ、お互いにいちばん近くにいるはずだとは思わなくて?」
(同上、p.145)
 」
「あなたのおそばにいると、こんなに幸福になれるのかしらと思うほど、わたくしは幸福なの……でも、いいこと、わたくしたちは、幸福のために生まれてきたわけじゃなくてよ」
(同上、p.215)
 」
「恋だって、ほかのものといっしょに過ぎ去っていくにちがいないわ」
(同上、p.226)
 」
ジェロームの「きみを見つけられないくらいなら、僕は天国だってお断りだね」という言葉には、次の聖書の言葉で返答している。
「まず神の国と神の義とを求めよ」(マタイ伝第六章三十三節)
(同上、p.145)
 」
この辺りを読むと、この悲劇は宗教に起因するものだとしないわけにはいかないだろう。
 
楽山の悪意全開です。癒しと励ましの聖句を、一部だけ引用して冷たい文言に見せかけようとしています。楽山は、聖書の「せ」の字も知らず、細かいところまで、このような悪企みに満ちている冷血の人です。温かい情感がないのだろうと思います。決して楽山を聞いてはいけません。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 
6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
 (マタイ6:33-34、新約聖書)
 
この世の持ち物や関係の全てを捨てたところで、神の義が得られるわけではありません。一方で、聖書によれば、ただ、ひと言で、神の義が与えられ、罪を赦されることもあるのです。
 
楽山は、人間にとって、何が大切か、何がいけないことか、まるで、分からないで言っているのです。楽山のように、神の義などからは正反対の者が何を言っても、お仲間が増えるわけではないのです。愚かです。
 
楽山の言う悲劇は小説の中のフィクションの話です。個人によって事情も違ってくるでしょう。人の恋愛の暴走が悲劇をもたらすこともあるでしょう。様々な状況で、不完全な人間を信仰対象としてしまうことの悲劇を思います。しかし、楽山の悪意は、それらを凌駕しています。
 
ゆえに、一方、はっきりしているのは、フィクションで現実の信仰を否定しようとする楽山の未熟さ低劣さであり、自己愛の病魔から、信仰を否定するようなことを宣伝して、責任も負わない不全の者の言うことなど、いつでもどこでも信用するに値しないのであります。
 
信仰者が信仰を捻じ曲げてしまうと、様々な弊害があることは、既に、多くの事実によって、明らかであります。しかし、今、ここで、信仰を捻じ曲げているのは、信仰について、何も分かっていないことが今まで書いてきたものによって明らかになっている冷血非情の人、楽山であります。
 
いつもいつも、うんざりするような執念で、信仰をおとしめてくる楽山の、鬱陶しさは、目に余るものがあり、あらゆる題材のすみをこすって拾ってきては、嘲りを信仰に向けてくるのですが、一切が、無責任で無反省な発言に過ぎないのです。楽山は何を言われても無視する無知と無恥の病質です。
 
巻末の解説にもこうある。
アリサの悲劇、それは現実的なものいっさいを拒絶するジェロームのアンジェリスムの所産であり、ここでは神への服従が人間的なものことごとくを封殺していく過程が、『背徳者』を裏がえしにしたカタチでたどられていく。
(同上、p.561)
 」
宗教が自然を捻じ曲げて悲劇を引き起こしたという物語を読んで、宗教に悪感情を持つというのはいささか単純にすぎることではあるが、
 
まさに、楽山が、宗教への悪感情に、誘導しているわけです。このように、明らかにおとしめる目的で行ないながら、引用だからと、責任を逃れようとするのが、楽山という男の、嫌らしい処世なのです。腐っても、このようにだけはなりたくないものです。知恵が足りないのに見栄を張るのです。
 
宗教は場合によっては人の自然な感情に害悪をもたらすこともあるのは事実であろうし、自身が狭き門に迷い込まないためにも、大切な人を守るためにも宗教との関わり方には慎重を期すことが大切なのだと思う。
 
このように、「場合によっては」「こともある」という弱い表現で、『事実』「であろう」と言ってくるわけです。楽山という無責任な卑怯者は、こういう表現をもって、出会う人を、ことごとくイラつかせてきました。一日も早く、この無反省無責任男が放逐されてほしいと思います。
 
宗教が悲劇をもたらすのは、楽山のような者が、無理解と偏見と曲解によって、宗教を、戒律や、強迫観念や、毛嫌いや、無責任の否定などの見なしによって、その恩恵から、人々を遠ざける時であり、まさに、不感不応・訂正不能のサイコパス、楽山による日記ブログが企んでいることです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDであるために宗教と信仰の心が全く理解できません。それを逆恨みして、宗教と信仰を否定しようと、陰謀を企んでいる病質なのです。温もりも潤いもない心から、楽山が放ってくる砂まじりの虫か蛇の毒のような文章に惑わされないでください。
 
楽山は、今まで、実のあることなど一言も言ったことがありません。無責任で無反省な発言は、結局、何の意義も作用も持ち得ません。楽山は、何も主張していないのです。どうか、楽山の文章をまともに読まないでください。楽山の空疎で無益な病質しか表れていないのです。
 
狭き門を通ることのない、狭き門より何処にも至ることのない、いつも、大事なところをぼかして、へへへと笑って逃げてゆく体質が表れており、その逃げ場が楽山ブログであります。決してまともではなく、このような人間がいようとは・・と呆れるばかりの、変態、変質者だと思います。
 
 
楽なお山の、落、惨

楽な、お山の、堕落、悲惨
 
 
(2021年10月07日)
 
 
 
キーワード:堕落
 
 
  堕落の煮汁
 
昼も夜も
煮汁は堕落である
煮汁は有害である
煮汁は徒労の末に毒を齎(もたら)す
煮汁は濃縮する
屋根の下
蒲団の中
煮汁は乾燥する
灰汁(あく)と澱(おり)と滓(かす)
あるいは苦汁(にがり)
しかし迎える朝
鼻腔が熱の水の閉塞を訴えても
乾いた体は渇いた咽喉(のど)は
臭気と空気を放出しながら
まず最初に水分を要求する
一日分の煮汁の支度である
それが一日の
測れない量の
罪の始まりであり
糧(かて)である
 
 
  自信とは
 
自信とは自分の能力・価値を信じること
キリスト者でも
自信を持つことはあるだろうから
自信と信仰は別だろう
自信とは
努力と実績に裏打ちされた自惚(うぬぼ)れか
努力・実績・自惚れ
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
三つとも無いことがある
怠け者・役立たず・自己嫌悪
飲む打つ買うはしないものの
持たないものは持たないのだから
結果は堕落した暮らしで
せいぜい努力するよう努力して
少しばかり学び遊び
あとは与えられるものを
ありがたく頂いて
頂いたものは頂いたのだから
裏打ちも
裏も表も
あろうとなかろうと
例えば庭が自棄の荒野になり
マイホームが自虐の牢獄になろうとも
心ゆくまで悔いたい
自信喪失者
シアワセのスポンジになるまで
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
悔いれば悔いるほど
心ゆくことなどないのだが・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
恥ずかしながら、自分もこれでした。とほほ泣き顔
はじめは「くだらん」と思ったものの、本は好きだったし、HS本は読みやすかったのでどんどん読むうちに、「これは本物だ」と思いこんでしまったのでした。
午後7:52 · 2021年10月4日
 
恐らく、嘘だと思います。楽山は、何ごとにも、本気で打ち込むことはなく、深い興味もなく、努力することもない人だと思います。本物も偽物も分かりはしません。その分、超常趣味で、羽根を伸ばせるとか、人に説教できるとか、かっこつけることだけを狙っているに過ぎないと思います。
 
楽山においては、深く掘り下げる気もなく、浅薄に、一気に努力せずに、できた人と思われたい欲求しかないと思います。本物だと言うインスタント宗教が欲しいのだと思います。だから、深い宗教より、いちゃもんカルトや、おまじないのほうを好むのでしょう。結果は醜いだけです。
 
楽山は、怠慢で、本物志向も思考もないから、気安い思い込みで羽根を伸ばそうとしては、浅さを見抜かれて、嫌われて、結局、学者とスーパーマン気取りの芝居で、独り笑いするしかなくなっているのです。哀れというより、惨めな男です。見苦しいから、早く消えてほしいのです。
 
楽山は、理路が整わず、共感もなく、かつ、反省機能がない自己愛性パーソナリティ障害ですから、何かを学ぶ姿勢もなく、何を言うか、なにをいうか、オレはオレはオレは・・と、自分信仰で自尊心を無根拠に膨らませて語って来ますが、冷静に見れば、軽薄な作り話だけなのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ワクチン接種については、メリットとリスクをよくお考えの上でご判断くださいならまだしも、「接種をおすすめしています」というのは軽率ではないですか。
とある看護師にこの件を相談したときに、「こちらから接種をすすめることはできないですけど」と慎重に答えていたので余計にそう思います。
午前7:04 · 2021年10月6日
 
誰よりも軽率な発言をしてきた楽山が、他者を軽率と言っています。前から言っていることですが、楽山には、人のことを言う資格はないのです。それこそ、楽山の被害に遭わなくて済むワクチンなり治療薬があったなら、私は熱心に「おすすめ」すると思います。
 
楽山にだけは関わらないでください。楽山は、本気では何も出来ない、中身のない、薄弱な意志の発達障害であり、病識がないために、自己顕示の悪意のアピールを企みます。うわべだけの丁寧語で、ネチネチと、しつこく粘着して、破れたギョーザの皮のような軽口になります。
 
 
 
 
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