ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:聖書

 
  聖書におけるサイコパス
 
 
悲しむことなく、悔いることはありません。
後悔するとき、人は、悲しんでいます。
悲しみと悔いは、人間の高等感情です。
 
そして、悔いることのないまま、改めることはないのです。
 
正義や慈善とかではなく、悲しみを知ることが、人間の良心なのです。神に、正直に祈る人は、楽山のような嘘と詭弁と決めつけではなく、正直に告白して救いの希望を祈り願います。
 
そして、悲しみを知らないのが、サイコパスです。何か言われると怒るか笑うだけなのです。
 
聖書に登場する二人の悪役、カインとユダについてについて考えてみます。
 
カインはサイコパスだと思います。しかしユダは違うと思います。
 
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6-7
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世記4:5-7、旧約聖書)
 
供え物が受け入れられなかったとき、カインは、悲しむのではなく、怒りました。
そして、弟を殺します。
 
 
 (創世記、口語訳)
4:8
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 
4:9
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
 (創世記4:8-9、旧約聖書)
 
殺すという行為には、過失致死、正当防衛、そして故意の殺人があります。カインは、3番目の殺人です。そして、神に問われると、カインは、ふてくされて、弟の番人でしょうか、と言い返します。
 
サイコパスには、笑いと怒りしかありません。良心がありません。罪悪感がありません。悔いる、反省する、しんみり悲しむ、という高等感情がありません。いつも、自分の都合だけで反応します。罪を指摘されると、怒り、恨みます。
 
 
聖書を書いた人も、同じように思ったのか、カインの子孫も殺人者という書き方です。
 
 (創世記、口語訳)
4:23
レメクはその妻たちに言った、
「アダとチラよ、わたしの声を聞け、
レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
わたしは受ける傷のために、人を殺し、
受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
4:24
カインのための復讐が七倍ならば、
レメクのための復讐は七十七倍」。
 (創世記4:23-24、旧約聖書)
 
 
サイコパスは、罪を指摘され、傷つけられると、悔いることも改めることも悲しむことも恥じることもなく、怨念を燃やし、復讐ばかりを考えます。ユダは、どうでしょう。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書)
 
ユダは、裏切ったのち、後悔して自殺しているので、サイコパスではないと思います。裏切りの罪ならば、他の弟子たちも、十字架の時には逃げているので、同じです。そして、それは、私たちの罪でもあります。私たちも、神に対しキリストに対して、恥ずべき罪人です。
 
 ※
 
裏切りの罪人である自覚ならば、神について、キリストについて、聖霊について、決めつけたり、豪語したりなどは出来ないはずです。神とキリストと聖霊と話をしました・・などとも言えないはずです。
 
キリスト者は、神の前に、ただ、正直な祈りを捧げることのみをもって、キリスト者なのです。
 
 ※
 
時間も宇宙も果てしないのに、人間の心は、一部でも見えにくいのに、ほんの一点のような時空を右往左往して生きている人間には、思い上がれる道理はないのです。果てまでなど、とても、追えない、見えない、分からないという非力を弁えているならば、正直に分からないと祈るのです。
 
 
信仰 vs サイコパス

信仰 vs サイコパス
 
 
(2022年04月21日)
 
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
写らない夜が行きます
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
 
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
 
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
 
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
魂を揺さぶられて、恨みに思う者もいるようです。反省と悔い改めの機会を逃し続けて、身につけた嘘と詭弁から正しさを求めても、得たつもりでも、悲惨な自我の、醜態にしかならないのです。もはや、思想も宗教も信仰も、語れば詭弁になり嘘になって、崖っぷちを彷徨うしかないでしょう。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
のりたま🍀358🍀
@ichigooooo0914
誹謗中傷が辞められない人。発する言葉を
一番最初に聴く人は
発している貴方自身。
午前0:19 · 2022年4月17日
 
楽山が、これを引用するのは、誹謗中傷と批判の区別が分からないからです。誹謗中傷は、楽山の記事で、対象はキリスト教です。根拠が、全く的外れの曲解~妄想です。つまり、楽山が、教祖願望の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の自分自身を誹謗中傷しているのです。
 
 
 
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  楽山はホラー2
 
 キリスト、パウロ、ガンジーと非暴力
 2021年04月10日 楽山日記(LD)
 楽山は、読者への思いやりなど全く持っていませんのでご注意ください。
 
 
病質者らしいことを書いて、説得力はゼロなのに、独りで「理解できた」と満悦する楽山です。こういうのが、本当の、リアルの、ホラーなのです。楽山に対する説得は無駄であります。全く、気づきがなく学習機能がない病気の脳ミソ単独の暴走です。
 
 
前の記事を書きながら思い出したのだが、ガンジーの説いた非暴力について次のような説明を読んだ覚えがある。
暴力は自らの望みを実現させるために相手に肉体的苦痛を与えるが、非暴力は自らが肉体的苦痛を受けることで相手の良心に働きかけ、真実への目覚めを促すものである云々。
 
楽山は、「自らの望みを実現させる」、即ち、快感を得るために相手に精神的苦痛を与えます。暴力について他人事のように言っていることで、楽山に、その自覚のないことの証明になります。楽山は、「良心に働きかけ」「真実への目覚めを促す」気もないのに、また、嘘を吐いて、正義感気取りです。
 
 
自分はこれこそキリストの「悪人に手向かってはならない。だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5.39)という教えの意味だろうと理解したのだった。
 
キリストは、人が出来ないことを承知で言っているのです。それゆえ、キリストは十字架につくことになります。それも承知の上です。救い主キリストの、洞察力と共感力なのです。
 
それを書かずに「理解したのだった」は、理解できない自分をも無視して意地を張る身の程知らずなのです。恐らく、何を読んでも実際は理解抜きで、理解したつもりになる見栄張りの嘘つきです。吐き気がします。
 
言われても実際には出来ないことを言っているキリストの意図は、罪なき者は一人もいないということとです。神の前に、罪を認めよ、正直になれ、という大きな教えにつながります。
 
 
でも、パウロは次のように書いている。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
(ロマ12.19-21)
 」
 
(一つの解釈としてネットより)
この地域の人たちは水瓶、果物や野菜のかご、火のついている壺などほとんどを頭の上に乗せて運びまし た。 隣人から新しい炭を受け取った後で、頭に火鉢を持ち上げて家に出発します。もし隣人が本当に寛大な人なら、その人は火鉢か壷に更に新しい熱い炭を「積み上げる」のです。壺に燃えている炭を入れて あげます。
古賀バプテスト教会
 
このパウロの発言は、慣習なのか、殉教を意味しているのか、私は分かりません。キリストの敵となった者たちは、律法を曲げて、褒められることを悦ぶ者たちであり、信仰の心が無く、思いやり・罪悪感・修正機能などがなく、キリストを殺した者たちです。楽山との共通点が多々あります。
 
 
これはキリストの言葉と関連しているのか判然としないのではあるが、もしかしたらキリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、このように解すべきなのだろうか。相手に逆らわないのは、相手の良心への働きかけではなく、神による復讐を期待してのことであると。
 
当時の宗教勢力であるパリサイ人などの者たちは、結果としてキリストを殺したことに表れており、良心がないので働きかけても反応しません。現在の現実の人格としては、楽山が、その典型例であります。だから、信仰について、平気で「神による復讐を期待」などといえるのです。
 
楽山は、恥知らずで、良心がなく、自分は偉いんだ!正しいんだ!という意地だけで書いています。書けばいいと思っているのでしょうか。反キリストの偽善者らしく、文章だけ丁寧だが、根拠もなく、わめき散らしているだけなのです。
 
 
内村鑑三にもこのような言葉がある。これはおそらくはパウロの言葉を前提にしているものなのだろう。 
我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。 
・ヨブ記講演 内村鑑三 - 青空文庫
 」
「愛を以って敵人の首に熱き火を積」むことを健全とするとは、はたしてどういう論理によっているのだろうか。
 
上の「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」というパウロの言葉を前提にしているならば、類似の「愛を以って敵人の首に熱き火を積む」という表現は、殺して呪うことを言ってはいないようです。解釈の難しいところですが、楽山のような悪意の短絡をしないことが大切です。
 
もし敵を殺し死体を呪う行為ならば、論理ではなく感情であり、正直言って、欠点の多い私は、楽山について、軽くない陰性感情をいだくことがあります。内村鑑三も、楽山のような訂正不能の偽善者に出会ったのでしょうか。しかし、信仰があるからこそ、暴力を自制するわけです。
 
楽山が、いかに、飢えた狼のように、よだれを垂らして、内村鑑三の、おかしな発言と思えるものを漁っていたかが、うかがえます。これが楽山の炭火という怨念です。ずっと、悪意の種火となっているのです。肯定し共感しているように装う楽山の嘘に、惑わされないでください。
 
楽山は、書いたものが、何も成り立たないし、何の役にも立たず、何の教えにも理解にもならないものだから、それこそ、内村鑑三とキリスト者の存在を殺して火でもつけたい気持ちでしょうか。とても危険な楽山の邪悪さが発言に、陰湿に表れています。
 
 
聖書的には、キリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、パウロのような理解の仕方が正しく、これができてこそ、内村鑑三の言うがごとく「健全に達した」とされるなら、自分にはやはり聖書は異文化であって理解するのは難しいようだ。
 
言葉面を整えるだけで、一滴の慈愛も持っていないのに、楽山は、愛について、ガンジーと内村鑑三を秤にかけています。その時点で、アウトだと気づかないのです。病質者とは、そういう者です。人間も神も、オモチャとして扱い、いちゃもんをつけては満悦するのです。
 
「異文化であって理解するのは難しい」・・分からないというシンプルなことが言えず、代わりに、理解できないのは異文化だからだ!と言っている頑固な自己愛と自己中を見逃さないでください。反省するのではなく、災いを全て他者のせいにするのは、サイコパスの特徴です。
 
 
とはいえ理解できないからこそ理解できたときは嬉しく、ここが聖書の魅力でもあるのだが…。
 
上のほうで「理解できた」と言っておきながら、理解できない」と言い、「理解できたときは嬉しく」と世辞を添えているのが、楽山の、何とも言えない気色悪さなのです。
 
楽山には、理路も共感もありません。反省も責任感もありません。ゆえに理解などあり得ないのです。だまされないでください。無反省で罪悪感のない楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。サイコパス精神病質と同様です。
 
「ここが聖書の魅力でもあるのだが」・・楽山の嘘です。反キリストの病質者は、まともに考えることも感じることも出来ません。聖書の魅力など分かるはずはないのです。騙すための褒め言葉は、楽山の常習であります。自己顕示欲のために、反キリストが卑怯な知恵だけ身に着けているのです。
 
 
 
 「第十六講 ゾパル再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月10日 楽山日記(LD)
 
 
飛び飛びに聖書を読んでいることが分かります。伝えようという意志がない我欲からなので、けなしたい箇所が優先されるのでしょう。じっくり考えることも冷静に計画を立てることもないのが楽山です。楽山は、自ら、自身の悪性を表してゆくのです。
 
 
「第十六講 ゾパル再び語る」を読了したので、その内容と感想をメモしておきたい。
第二十章の研究。
ヨブ記は十九章で完結とすべきところではあるが、さらに「二十三箇章」が続いている。聖書ではこのような例が他にもある。イザヤ書では五十三章で「光明の絶頂に達」するが六十六章まであり、ヨハネによる福音書では十七章で「絶頂」となるがそこでは終わらないなど。
 
何様のつもりで楽山は「ヨブ記は十九章で完結とすべき」などと著者の口を利用して言えるのでしょう。極めて安易な気持ちでしか読んでいることが明らかです。理解ではなく、言葉面だけを求める姿勢です。自分の都合でしか聖書も他の本も読んではいないと思います。
 
大事なことが何も分かっていない楽山は、分からないと遠慮する態度を持ちません。これが、楽山の学者気取りです。余計なお世話だけして、求められてもいないのに出てきます。しかし、いつも、こんなことまで知ってるんだ!と言いたいだけなのです。信仰の響きがなく、婉曲の悪口を言うだけです。
 
恐らく、最後の、神が出てきて、ヨブが悔い改める最終章へのストーリーなどは、あとで書かれたものだと言いたいのでしょう。だから何なのでしょう。信仰を求める人は、聖書が何を伝えているかを求めるのです。大昔の事実など、それにこだわる楽山など、どこにも必要とされることはないのです。
 
楽山は、事実性に、いちゃもんをつけてきます。そして、史実か否かにこだわり楽山の幼稚すぎる机上の辻褄をもって、合わないから神はいない!キリスト教は嘘っぱちだ!と言いたいのです。真実を求めて、得られると感動する、という正常人の心がありません。
 
それが、楽山のベースにあるところの、自らの不遇に対する怨念なのです。毎回、それだけが、明らかになります。もはや、楽山の読書は、節操も弁えもなく噛みついてくる狐か狸の類でしょう。ゆえに、人の話を無視し続けて、逃げ隠れして、平気でいられるのです。
 
最初から、楽山がキリスト教について書くのは、謀略だということです。だから、信仰の欠片もなく、偽善でいっぱいの楽山に、耳を貸してはいけないのです。伝染性があるので、楽山は、疫病です。罹ると、知性と感性が愚鈍になり、ついには、人格が破壊されてゆくでしょう。
 
 
ヨブ記が十九章で終わらない理由は、愛を学ぶ必要があるためである。ヨブは「信仰による勝利」は得た。しかしこれは「愛による勝利ではない。故にこれは最上の勝利ではない」。ヨブは「愛を以て友を赦し得るに至らねばならぬ」。
「我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。信仰よりも希望よりも最も大なるものは愛である」。
 
上のほうに書いたように、内村鑑三の真意は、私には、はっきりとは分かりません。しかし、分からないと言えない楽山は、餌を見つけた野良犬のように、「愛」を含む引用をして、これでええじゃろ・・とばかり、独り満悦しているのです。こういう気取りが、楽山の言には満載です。
 
楽山は、自分の言葉で書くと理路にならないために、引用が多くなってきました。引用だけという感じでもあります。なお、本の一部を選択して引用するという行為は、偏った刷り込みをするときの詭弁であります。そして、引用した責任を負わない楽山は、全くの無責任なのです。
 
 
本講の一つの勝利で終わりではなく、その先があるという考え方は、仏教でいうところの悟りを得てからの悟後の修行、上下菩提下化衆生、さらには釈尊の大悟の後の梵天勧請などを連想させるところがある。
 
何かを得て、さらに、学習する、という当たり前の態度が、楽山にはありません。楽山は、仏教の知識を見せびらかしたいから言っているだけでしょう。キリスト教と仏教、似たところもあるけれど、同じ宗教ではありません。楽山の粗忽(そこつ)の極みであります。
 
 
こうしてみると、巷でも言われるとおりに、キリスト教と仏教は異なる宗教ではあるが重なるところはあるようだ。
 
楽山には、何を語る資格もありません。楽山は、少なくともキリスト教を、全く理解していないからです。誰も関わらないでください。自己顕示欲だけの楽山は、無反省、無責任、無神経、無理解、訂正不能、罪悪感欠如の、自己愛性人格障害そしてサイコパスです。
 
 
万教帰一的な考え方によっても、どちらも人によるものであると唯物的に考えても、キリスト教と仏教に似たところがあっても当然ではあるが、それでもやっぱり異なる時代、場所、人の間で共通のものが発生したとすれば不思議である。
 
(ネットより)
万教帰一(ばんきょうきいつ)とは、すべての宗教は一つに帰するという概念である。主に新宗教で使われる。
ウィキペディア
 
楽山は、言葉だけ、なじみのない学問や宗教の言葉を説明なしに多用します。インテリ気取りからでしょうが、今となっては、説明しないで専門家を気取って自慢したい気色の悪さだけということになります。しかも、理路を説明せず、結論だけを書いて利用するのです。万教未明の楽山です。
 
「人の間で共通のものが発生したとすれば不思議である」・・何が不思議なのでしょう。世の中は、楽山の理屈で動いているわけではありません。楽山は、人も、神も、自分も、見ないで書いてくる厚顔無恥の荒らしとして、求道者を混乱させ、信仰者の平安を荒らしてくる者です。
 
言ってることが、ことごとく、詭弁であり、ゆえに、そのまま不祥事となってゆく楽山です。どうか、楽山と同類にならないために、精神衛生のために、決して、関わらないでください、相手にしないでください、近づかないでください。
 
 
光から逃げる者

光から逃げる者
 
 
(2021年04月11日)
(2022年04月16日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  夜明けのオートバイ
 
初夏の夜明けは早い
深夜眠れない男が
いそいそと仕度を始めるのは
たかだか二時間の旅
夜明けの前から後までの時を
旅立とうとしている
今日が始まる前に
求めるために?
逃げるために?
旅立たないではいられない
途中で眠くなって
永遠に帰って来ないかもしれない
愚か者は小さなオートバイに乗って
飛行機にでもなった気分
暁の中を
赤い逆光の中を
ヘルメット姿の影になって
横切ってみたい
最後の記憶の
最後の縁を
見て
確かめて
打ち砕いて
飛び去ったと 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省するどころか、ずうっと、中立を装って、読者を欺いてきたのが、楽山です。根は、サイコパス(反社会性人格障害、精神病質)だと判断しています。「難しい」「人間の性」で済ませて、「恥ずかしながら、自分もそんな風」ならば、いかなる発言も、するべきではない人です。
 
 
 
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  線形理解
 
 
(ネットより)
線形(せんけい)
線型性 - 変化の度合いが一定で、グラフにすると直線になること。
線形 (路線) - 道路・鉄道などの路線の形状。
葉#葉身の形の分類。
 
"線形" は、一方向に固定した曲解~妄想という意味で使っています。単純、単方向、短絡、訂正不能、などの意味を含みます。楽山は、学識もなく、思考力もなく、共感力もなく、評論家気取りで、偉そうに語りますが、宗教・信仰などの重要なことについて、辺縁をかすったこともありません。
 
 
聖書には、数々の奇跡物語が書いてあります。そういう、キリストが手で触れて病気が治るとか、水の上を歩くとか、僅かの食糧が千人分になるとか、そういう魔法のような超常奇跡を信じ込むことが信仰だと思っている人もいるようですが、間違いだと思います。
 
そういう信じ方をしている人がいるために、キリスト教とキリスト仰は、夢物語として、キリスト教?、アーメンソーメンねとか、奇跡を信じることだとか、視野の狭い人間になるとか・・で、キリスト者(クリスチャン)を定義されるのは、甚だ迷惑です。
 
何故なら、超常奇跡は人間には出来ない神の業(わざ)であり、ゆえに、超常奇跡を信じることによっては、人格は成長しないからです。そこで、思考がストップしてしまった人は、一生、それがキリスト教と思い込んで短絡した偏見のまま生きるのでしょう。それは、信仰とは関係ありません。
 
そういう安っぽいことをキリスト教だと思い込んでいる安直な短絡が、反キリストの立場で暴言を吐いている楽山のような無神教カルト信者であり、また、平安芝居を専らとする嘘っぱちの偽牧師シャロームshalom であり、そういう低劣思想を訂正不能に決めつけている思想は、信仰の迷惑物質であります。
 
そういう安直な短絡した曲解を否定して、キリスト教と信仰と神を否定する輩は、既に、人間として、人間らしい心が欠損し、良心が成長せず、野次馬の罵声のような、幼稚な雑言を吐いて、寒い寒い恥をさらし、かつ、その恥を自覚しないという人格崩壊の地獄を体現しています。
 
 
キリストの奇跡は、とりわけ、物や肉体への奇跡については、あったかもしれない、なかったかもしれない、という解釈にとどめて、保留するべきです。現代において少なくとも滅多に起こっていない物や肉体の奇跡を信じ込むのは、恐るべき神を決めつけることであり、背教と言うべきです。
 
そればかりか、奇跡頼みになって、感受性や思考力や忍耐力などの人間力を損なう可能性もあります。人間を超えることをいくら念じても空しいだけです。信仰者は、超人ではありません。信仰は、人間性の成長を希望して、限られた命を、祈りとともに生きるためにあります。
 
つまり、物や肉体への奇跡については、終末まで保留するということです。決めつけないということです。決めつけや根拠のない確信は、思考と感性を鈍らせ視野を損ないます。信仰は、視野が成長可能である、つまり、心に未知の領域があるという自覚からの敬虔がないと成長できません。
 
楽山やシャロームのように、信仰を軽く見ることで、人間性と人格が崩壊して、訂正不能となり、何を言っても、考えることと感じることが出来なくなり、同じことを返すしかなくなるような妄想だけの反復エラー再生マシンになっている者もいます。こうはなりたくないという最悪の事例です。
 
信仰の敵は、つまり、楽山やシャロームのような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の者です。サイコパスと近縁です。症状として、楽山の返してくることは、全部と言っていいほど、こちらを悪という前提で書いていますが、その根拠を示したことがないのです。
 
 
キリストの奇跡、とりわけ、キリストの肉体の復活については、あったかもしれない、あるいは、キリストの不滅を象徴しているのかもしれない、という「かもしれない」くらいしか、人間の能力では語れないので、終末まで、保留するべきことです。
 
それを、あったとも、なかったとも、決めつけることは、超常現象が分かり知っているという超人意識であり、信仰ではありません。神は、人間に共感するところの超常の御方です。そのような超常の御方を恐れるゆえに、人間は、超常について断定してはいけないのです。
 
一方、キリストの共感力、キリストの不滅と臨在については、キリスト者は、信仰の中心として、祈りに至るほどに実感しています。幽霊のような存在ではなく、愛されたゆえに愛すべき、共感を受けたゆえに共感を持つようになるところの、救い主として仰ぎたいという実感です。
 
 
この共感が、感性の無い楽山には皆無であります。だから、楽山は、口を開けば、信じてもいないのに信仰について余計なことばかり言います。恵みがないのではなく、恵みに振り向きもしないのです。その身の程を弁えもせず、人格を自ら壊して、信仰の代わりに人格崩壊を広めようとするのが楽山です。
 
知らないことについては黙っておればよいものを、楽山の口は、共感もなく、遠慮がなく、思慮がなく、奇跡が起こらないから神はいない・・というような短絡した幼稚さと獣性によって、疲労物質~病原となっています。楽山の反キリスト性は、理路も、情感も、損なってゆく症例となっています。
 
楽山が最近見せた多量の決めつけ投稿は、楽山の衝動と焦燥と羸痩(るいそう)を表しています。症例として、かなり明瞭です。人間として闇です。信仰については真っ黒です。言論においては、ケダモノです。決して近づいてはいけません。楽山の婉曲言説は、いつも、いつまでも、汚い唾液の病原噴出です。
 
(ネットより)
羸痩(るいそう):
るいそう(羸痩、英: emaciation, 独: Abmagerung)とは、脂肪組織が病的に減少した症候をいう[1]。いわゆるやせ(痩せ、leanness, thinness)の程度が著しい状態であり[2]、症候であることを強調するためにるいそう症[3]、あるいは症候性やせ[4]などと称することもある。
 
 
強がりだけはしたくない

強がりだけはしたくない
 
 
(2022年04月14日)
 
 
 
  別れにⅡ
 
別れが永遠でないのなら
楽しい送別会がふさわしい
にぎやかな船出に
再会の期待と祝福
にこやかな顔が
すがすがしい風の港に並ぶ
けれど包み込むような
緩やかな風の中で
少しでも
ふっと落ちて
戻らないもの
すくいあげたくなったら
果てしない方向へ一歩でも
踏み出したくなったら
別れに
別れを告げている
とうに岸を離れて
見えなくなった船の
去っていった海の
波の彼方に向かって
まだ手を振り続けている
人がいる
 
 
  気づくⅡ
 
あるのか
と問われれば
ないのか
と問い返すしかなく
 
縛られねばならぬのか
と問われれば
それは縛るものなのか
解き放つものではないのか
それまで知らなかった方向を
教えてくれるものではないのか
 
しかし苦痛の種になることもあるし
自問自答を繰り返すうちに
結局気づかなかったことについて
どんな習性をもって
生まれてくるのか
石灰質の殻の中で生まれぬまま
黄色くやがて黒ずんで腐ってゆく
私にとってだけ
ある種の美味の
ほったらかしで申し訳ない
という気づき
 
 
 
(ネットより)
「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」(夏目漱石〔草枕〕)
 
このように、人間は、不完全です。
要するに、住みにくい世を、真実を求めているか、あるいは、だましおおせることを求めているか、という分かれ道で、私は、かろうじて前者を、努力目標にしています。楽山は、ニヤニヤしながら、後者を選んでいるということです。
 
悪意を選んだ者は、悪意によって選ばれた道を進むことになります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
大事なことを、全く分かっていないことが表れている楽山の言です。反省せず、謝罪せず、平気でいられることが、人格を鈍く、面の皮を厚くして、罪悪感や羞恥心という良心の高等感情を滅ぼしてしまったのでしょうか。良心を滅ぼした後に残るのは、滅びの形骸だけなのです。
 
 
 
 
ロシャのキリスト教は、ひどいことになっているようですが、キレ総主教(?)は、政治ベッタリのようで、大量殺人犯、裏地見る風珍を、ニヤニヤ讃えていました。サイコパスに味方すると、サイコパスになってゆくのでしょう。同教団の他の聖職者が、戦争反対を言っていて少し安心しました。
 
人類の敵は国家でも民族でもありません。人類の敵はサイコパスです。大量殺人が起こるところでは、必ず人間性を失ったサイコパスが暗躍していると思います。日本にも、ネットにも、サイコパスはいるので、権力を持つことがあれば、同じようなことが起こりうると思います。
 
 
 
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  楽山の詭弁物語2
 
 「私の聖書物語」椎名麟三著
 2021年03月13日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
何も知らないし分からないのに、知ったかぶりをする楽山は、学習が成り立たないために、魔法のような宗教の思い込みに走っているのでしょう。共感がないために、理路も情緒も、意味も直観も、そして、真実も、言葉でごまかしてきたのです。
 
 
*私の聖書物語
先日、椎名麟三の本を読んでみようと思い立ち、「私の聖書物語」を読んでみた。自分には難しい本だったが、共感できるところも多かったので以下にメモしておきたい。
 
楽山は、「メモ」と書くことが多いです。謙虚だからでしょうか、否です。メモだから、責任負わなくていいと思っているのでしょう。そのくせ、言ってることは、偏向が甚だしいのです。
 
 
*愛すること
愛というものは、最後には愛しているというより仕方のないものであるからだ。愛は、愛それ自身をもってしか説明できないものなのだ。というのは、愛は、どんな理由も必要としないだけでなく、むしろすすんでそのような理由を拒むものであるからだ。 
(『椎名麟三全集15』「私の聖書物語」、椎名麟三著、冬樹社、昭和49年、p.344)
 」
愛がどうしたこうしたと言うのは気恥しいものであるが、このくだりを読んで、随分前に大恋愛中の友人がこんなことを言っていたのを思い出した。
「相手に、自分のどこを愛しているかと聞いたとき、ここが好きとか何とかいったら、それは本当には愛してないってことなんだぞ。本当に愛してたら、ここが好きとか、こういうところを愛してるとか、そんなことはいえないもんなんだ」
こんな彼が上の文章を読んだら、「その通り!」と喜びそうである。
 
エロス・性愛、フィリア・人間愛、アガペー・神の愛、のいずれのことを言っているのか、書いていません。「愛している」という台詞からは、エロス、性愛、恋愛のことを言っているのでしょうか。また、楽山の不備の言が始まっています。
 
楽山が、どう思うかを書いていません。分からないからでしょう。恋愛にもエロスだけでなく、フィリアも働いているわけですが、愛と性欲の区別がつかないのでしょうか。ならば、神の愛など分かるはずがありません。
 
「どこを愛しているか」ということではないと、わざわざ言っているのは、どこはチャームポイント・好み・魅力であって、愛という関係とは質が違うことを、楽山は知らなかったのでしょうか。楽山は、気恥ずかしいのではなく、真実を追求する言論において、ただ、恥ずかしい人です。
 
*自由と愛
また著者は、自由についても次のように書いている。
愛というものは、究極には理由のないものであるならば、自由というものも究極には、理由のないものなのである。
(同上、p.344)
 」
自由も、愛と同じく、ああだこうだ言っても仕方のないことなのだろう。ただ、ああだこうだ言っても仕方ないと分かってはいても、ああだこうだ言わないではいられないのだから仕方がない(笑)。
 
引用の理路も、愛=自由ではないのだから乱暴で不十分ですが、楽山は、引用しておきながら、またしても、説明を書きません。なのに、ああだこうだという文句だけは言ってくるのです。「仕方がない」は、何の説明にもなりません。これで勝手な書き方の弁解にはなりません。
 
散々、詭弁と嘘で、人を侮辱し、だまし、おとしめておきながら、何が「(笑)」なのでしょう。楽山には、何も言わないでほしいのです。偽善で腐った楽山の言論は、ノートにでも書いて、一人で笑っておればよいのです。
 
無反省、無責任、無神経、無理解の病的ナルシスト、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の言など、迷惑なだけで、誰のためにもならないからです。言ってみれば、楽山こそが、身勝手の典型になります。愛とは対極にあります。
 
訂正不能で、学習する気がなく、都合のよさそうな言葉だけを使い捨てで悪用してきて、結果、嘘と詭弁しか出してこないような、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。そういう者は、批判の対象にしかなりません。
 
 
*人間はすべて許されている?
キリーロフは、小さいとき見た木の葉について話す。それは日光に葉脈がすいてキラキラと美しかったというのである。スタヴローギンは、それは何の意味だい、とたずねる。勿論意味なんかない。キリーロフは、そう答えて、人間はすべて許されているのだというのである。
(同上、p.361)
 」
これは、ドストエフスキーの「悪霊」についての文章である。
「悪霊」は、ウン十年前の夏に汗をかきながら読んだ覚えはあるものの、その内容はきれいさっぱり忘れてしまっているので、上の文章については自分は何も言えない。
でも、「人間はすべて許されているのだ」という言葉には、はっとさせられた。これは前々から考えているテーマなので。
 
今までの経過から、楽山語の「人間はすべて許されているのだ」は、何をしてもええじゃろ・・ということです。なお、キリスト教においては、許される、ではなく、赦される、であります。許可ではなく、赦免であります。それを、楽山は、何でも許可、何をしてもいい、ということに、すり替えています。
 
引用の文章は、それだけでは分かりにくいと思います。何もまともに考えることの出来ない自己愛性病質者の楽山の解説は、すべて恣意的です。自己正当化と自慢だけをしたいだけの詭弁なのです。ならば、楽山は、何も言わず、日光に血管が透いてキラキラしておればよいでしょう。
 
 
*信仰と許し
許しについて、本書では次のような文章もある。
キリストを信じない人にははなはだ申し訳なくて申し上げかねるのだが、その人さえも実はキリストにおいて救われてあるのである。また私に叱責の手紙を下さった熱心派の方々にはまことにお気の毒であるが、イエスをキリストとして信じられなかった私も、驚いたことにキリストにおいて救われていたのである。その事実が私をいつも震撼させるのだ。
(同上、p.401)
 」
宗教では、信じれば救われる、悔い改めれば許されるという具合に、許され、救われるには一定の条件があると説くことが多いのだが、著者はそれとはちがう考えらしい。
 
楽山は、「信じれば救われる、悔い改めれば許される」という言葉の意味を全く理解していないことが、今までに明らかになっています。自己顕示欲の知ったかぶりだけで書いています。どうか、真に受けないでください。悔い改めない限り、救いと感じることはないのです。条件ではなく真実です。
 
疑いがあっても、信仰が全くないわけではない、という意味かもしれませんが、楽山は、それを、反キリストでも、何をやっても許される、という恣意によって、ねじ曲げています。このような話の進め方をすること自体が、既に、反キリストの宣伝者以外ではないということです。
 
 
ちなみに自分も、信仰や悔い改めなど、何らかの条件を満たしてはじめて許され、救われるというのではないように感じられる。それらによって許され、救われるというよりも、それらによってこそ許され、救われていることに気づくことができるというのが本当ではないかと思うのである。
 
今度は、条件という言葉だけで、楽山は、信仰を、教条主義にすり替えています。ベースが理解が皆無の楽山からは、「本当」は生まれず、嘘と詭弁しか生まれてこないのです。自分の罪に気づかず罪を認めない者は、救いに気づくこともないのです。信仰は、罪が赦されて生きる、という救いだからです。
 
楽山は、悔い改めもせず、反省もしないで、救われているつもりなのでしょうか。それこそ、宗教と信仰を悪用する自己顕示欲の誇大妄想の悪夢であります。ますます、ふてぶてしくなり、ひどくなっています。信仰にも理路があります。楽山は、議論可能な理路を持っていません。
 
 
*神義論
神が、キリスト教のいうように全能だとするならば、アダムとイブが禁断の木の実を食べたのも神のせいである。何故なら人間の一切やこの世の一切を決定しているのが神であるなら、禁断の木の実を食べることも神において決定されていたことにちがいないからだ。だがもし禁断の木の実を食べるということだけは、神の決定から逃れ出ていて、神の知らないことであったとするならば、そんなぼんくらは、神でも全能でもあるわけはないではないか。
(同上、pp.370-371)
 」
これは上と同じく、自分には興味深いテーマだ。
神は全能であるとすれば、どうしても考えないではいられないことなので。
 
興味深くはありません。神の全能を、自分の都合と辻褄に引き寄せる妄想です。自分勝手を許す神ではありません。このように、幼稚な言いがかりだけが、楽山からは出てきます。神の意志と行為を、現実に合わせて云々する能力を人間は持ちません。神は上の絶対、人はその下の相対的存在です。
 
このように、楽山と同じような、いちゃもんを言っているように見える小説家の言を、楽山は、フルに利用し悪用してきます。楽山の言い分は、神が、楽山にも分かるような都合のよい辻褄の合う言動をしないなら信じないということです。
 
信じなくて結構、邪魔をしないでください。既に否定されたのに、また、平気で書いてくるのが、楽山の病質であります。ゆえに、いつ見ても、理路も感性も深みもないのです。進歩と成長がなかったのかもしれません。
 
(ネットより)
椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 1973年3月28日)は、日本の小説家である。
・・・
1950年(昭和25年)、キリスト教へ入信。日本基督教団上原教会にて赤岩栄牧師から洗礼を受ける。以後キリスト教作家として活動。
 
楽山の引用と解釈は、神の辻褄が分かるなら信じる、という、楽山の自我の完全欲の言であります。自己中は、罪を認めず、不祥事を全部他者のせいにしますから、分かることもないでしょう。信仰は、自らの完全を否定することから出発します。
 
人間は決して完全にはなれず、神に希望を託さなければ愛も癒しも希望もなく、楽山のような謀略者に食い殺されてゆくだけです。ゆえに、価値観を、この世に置くのではなく、最終的結果を、神に任せる道が、信仰です。辻褄が合わない世界だからこそ、不完全を自覚する人は、神を必要とするのです。
 
神が分かるなら、信じる必要はないのです。楽山のような完全欲の病質的ナルシストは、自己満足が得られないと気が済まず、いくら批判しても、同じようなことを書いて、疲れさせてきます。信じないのは楽山の勝手ですが、誰かに影響を与えようとする意図は、これもまた、悪夢のようなものです。
 
早く過ぎ去ってほしいと思います。楽山は、人間性を破壊する悪夢です。どうか、楽山にだけは、関わらないでください。関われば、楽山の他害性によって、徒労となり、疲労し、地獄を見て、人間としての思考も情緒も失ってゆくでしょう。それが、楽山の病質です。
 
 
*信じないけれども信じている
「それが実に全くほんとうに困ってしまうんですよ。お前は信じているんだとおっしゃるなら信じているんですし、信じていないんだとおっしゃるなら信じていないんだからです」
「どちらがほんとうなんだ!」
「ところが全く困ったことにどちらもほんとうなんです。つまりその二つは、実に平和に共存しているわけなんですよ」
(同上、p.374)
 」
これは奇跡を信じるか、信じないかという話であるが、著者のなかではこの二つが「平和に共存している」そうである。
 
「これは奇跡を信じるか、信じないかという話」ではありません。キリストに共感するか、キリストを好きになるか、という話なのです。楽山の勘違いは、人間にとって、どこまでも世迷言です。楽山は、話にならないことばかり言っています。
 
楽山は、おびただしい嘘と詭弁で、他害と破壊を及ぼしても、その自覚、即ち、病識がないのです。楽山には、平和もありませんし、共存もありません。信仰もありません。自我の欲望を追いかけ、その結果、訂正不能の悪夢を見ているだけです。
 
 
これは自分も同じだ。奇跡なんかないだろうと思いつつ、奇跡が起きたら起きたで、そういうこともあるだろうとさほど抵抗なく受け入れることはできる。
 
楽山は、奇跡が起きても起きなくても、平気でいられるそうです。その奇跡は、恐らく超常現象としての奇跡でしょう。楽山は魂の奇跡を知りません。楽山には、霊が分かるっぽい?という妄想的発想は起こっているだけで、本当の救いの奇跡は起こらないでしょう。
 
楽山の言から明らかなのは、楽山のように偏向し腐敗した心には、心の奇跡など起きようがないということです。起きないのは仕方ないが、他者の心の奇跡と目覚めを、邪魔するのはやめるべきです。誰も、楽山のようになってしまっては、ささやかな幸福さえも失ってしまいます。
 
 
あれこれ見て、あれこれ考えた上で、どうやら神は存在しないようだと結論づけたとしても、神を信じて祈ることにさして抵抗はない。
 
白々しい嘘です。逆説の哲学者シモーヌ・ヴェイユじゃあるまいし、存在しない神に祈る楽山の正体は、信仰を欠片も持たないで、だますために、祈り芝居の記事を書く詐欺師です。神は存在しなくても、神を信じて祈る・・明らかな矛盾律です。実際、祈ってなどいないと思います。
 
祈ることに抵抗がないそうです。それは、楽山が嘘を平気で吐く異常者だからです。祈りを何と思っているのでしょう。祈りは、神への唯一の音信です。神は、人の総てを見抜きます。楽山は、神を何とも思っていないから平気なのです。楽山は、嘘を平気で吐くように、祈るのでしょうか。笑止です。
 
楽山は、おのれの自我が神を、物か人のように、机上の対象にする怨念のような異常な確信から、この軽さで、神も、上から眺めて、信じてやろう、祈ってやろう、自分は何でもできるから・・とでも言うのでしょうか。黙っておればよいものを・・、何も知らないのに語ることの、おぞましさです。
 
 
我ながらおかしなことだけれども、こういう矛盾は平気である。何かの本で野蛮人かどうかは矛盾に無頓着であるかどうかによるという話を読んだ記憶があるが、この基準からすればどうやら自分は野蛮人であるらしい(笑)。
 
楽山が、こういう矛盾に平気なのは、自己愛性パーソナリティ障害だからです。逆説的真実も何もなく、自慢したい、ひとかどの人物と見られたい、特殊の霊的境地がある、分かっている、という妄想に、酔い痴れて生きているのが、楽山であります。楽山の平気は、正常人には成り立ちません。
 
 
*人であり、神であるということ
荒本さんの反逆は、イエスを神として、人間であることを捨象したキリスト教に対する反逆だったのだと思う。私は、イエスをキリストとして信ずる者であるが、キリスト教界のことはあまりよく知らない。だがおそらく荒本さんの反逆したくなるようなものが、少なくとも荒本さんの所属していた教会にあったのではないかと推測されるだけだ。ただ荒本さんは、そのイエスの人間を強調しすぎたのである。
(同上、p.439)
 」
著者によれば、荒本さんは「熱心なクリスチャン」でありつつ、「イエスが、人間であってなぜわるい、とか、マグダラのマリアに恋愛していてなぜわるいとかいって、キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」と主張して教会から離れ、マルクシストになり、「アンチ・クリスト」という論文を発表するようになった人であるが、やがて病に倒れ、最期のときには「おれは、神を信じていたのに…」と言い残していったという。
 
「キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」・・楽山とは全然違って、椎名麟三という人が思考するキリスト者であることが表れています。私も教会からは離れていますが、おかげでか皮肉にか、楽山という偽善者を、人間として批判することが出来ます。
 
キリストを、人間かどうか、決めつける必要が、断定する根拠が、能力が、人間の、いったい、どこにあるというのでしょう。そこが間違いなのです。また、キリストの、人間への共感性を否定したら、信仰は、おしまいです。楽山のような、超常狂いだけのカルトになってしまうからです。
 
キリストの人間性を無視することは、超常奇跡信仰であり、人間が受け取れるものを見失ってゆく袋小路への堕落であります。なお、経験上、私が通っていた教会をはじめ、まともな教会は、キリストの人間性を無視したりはしません。教会もいろいろであります。
 
恐らく、キリストの人間性を無視する教会には、楽山に似た訂正不能の外道者がいるのでしょう。そういう者は、どこにいても、真実を、人々から遠ざけてゆきます。教派にもよるでしょう。聖書は、カルトの喜びそうなネタが満載です。人間は不完全な人間であることを忘れてはいけません。
 
キリスト者でもなく、必要な知識も理路もなく、信仰など持ったことがなく、教会外にいて、減らず口だけをたたいているのが、楽山その人であります。どれだけ、信仰を語る圏外にいても、自己愛性の病質者は、身の程を知ることがなく、弁えることがないのです。
 
 
著者は、イエスは人であり、神であるので、どちらか一方の見方に偏することに注意喚起しているようであるが、近頃の自分の関心は、信仰上のイエスより、歴史上のイエスに大きく傾いているので耳に痛い話ではある。
 
先ず、楽山は、信仰上のイエスを知りません。むしろ、憎んでいると思います。だから、知りもしないのに、無神論関連の本から、信仰をけなし、信仰関連の本から、信仰を揶揄してくるのです。聖書から、人間としての真実を受け取らず、史実性だけに傾いて、信仰を理解することはありません。
 
歴史上のイエスに傾くなどと平気で言っているのが、思慮が浅いのに思い上がっている証拠です。歴史上のイエスは、二千年前ですから、いつになっても、詳細は不明であります。過去は、いかなる資料によっても、その資料の信憑性が問われ続けます。人間としての真実は、今、必要なのです。
 
大切なのは、聖書が、超常奇跡ではなく、人間に何を伝えようとしているか、ということです。それに、信仰もないのに、キリストの史実だけを追い求めることは、世界で一番の徒労であり、無駄であります。楽山が、いかに幼稚で問題外であるかを、楽山が表しています。
 
 
*これから
椎名麟三の本は、以前、とあるクリスチャンから勧められて一冊読んだきりだったのだが、今回改めて読んでみると難しくて分からないところもあるが、著者独特の思考と語り口によって様々なことを教えてくれ、読みごたえがある。つづけて他の著作も読んでみるつもり。
 
楽山は「難しくて分からないところもあるが」「読みごたえがある」のだそうです。この軽さと浅さが、楽山の特徴であり、厚かましさであり、本気の無さであり、自己顕示欲の権化であることを表しているのです。
 
楽山が、どれだけ、本を読んだといっても、信用しないでください。自分に都合のよい言葉を漁(あさ)っているだけの楽山が、真の読書をすることはないのです。本に学ばないで、自分の言い分を、肯定してくれそうな言葉面を探して検索しているだけです。
 
そうして、楽山は、勘違いの妄想を、詭弁によって、ごまかして書いてくるのです。楽山の言は、丁寧語で書いてくる分、少しばかり、人を誘いますが、注意してください。楽山は、理路を学び、信仰を知っている者からは、石にも砂にも値しない、嘘との偽善の有害物です。
 
キリストが、なぜ、手加減せずに、パリサイ人という偽善者を、あそこまで厳しく否定したかが、楽山という偽善者を通して、表されています。現代にも通じる警告であり、教えであります。
 
私は死んで何も言わなくなっても、神は、いつまでも偽善を黙って見ておられる御方ではないのです。このことが、一見、空しいように見えても、臨死において、キリストが、父なる神が、与えるところの、最終的な平安であり、救いであります。
 
 
視野の無い嘘吐き

視野の無い嘘吐き
 
 
(2021年)
(2022年03月15日、再録+)
 
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
 
  楽山のツイッターですが
 
なんだか、こんな話を聞くと、もーれつに読みたくなってくる。
トンデモ本は好きなので(笑)。
https://twitter.com/komo266/status/1370643221932503044
引用ツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
 · 2時間
実は、ずっとやりたいと思ってたけど、まだできてないことがある。それは、この本を論評すること。
以前ざっと読んだのだが、あまりに言っていることが無茶苦茶で、かえって霊言の胡散臭さが際立つ名作だったww 
https://amazon.co.jp/dp/4823301730/ref=cm_sw_r_tw_dp_MH9SE7PTQKTN06P94X83
https://twitter.com/asasfjgg/status/1370612569895960581
 」
 
引用元を批判するつもりはありませんが、引用することで、どんどん、他の批判者を、自らの偽善の正当化に巻き込んでゆく、トンデモ的外れの楽山です。いつも、楽山は「(笑)」なのでしょう。楽山は詭弁を弄して、発言の責任を負わず、人を、疲労させるだけの人です。
 
自分の落ち度についての問題も、その指摘も、これだけ無視して、ふつうの人を気取ることの無理を感じることなく、笑って、明るい言葉を発していられるというのは、ふつう考えられないことです。楽山の、嘘と詭弁と、反キリストの言と、無反省・無責任を批判しています。
 
霊が分かるっぽいと言っていた楽山が、ブログ記事とツイッターで、馬脚をあらわしてゆく成り行きです。楽山に、他者の言を引用する資格はないと思います。理由は、真実を追求する資格のない病質的偽善者であり、楽山自身が、真実を裏切り続けているからです。
 
いちばんおかしいのは楽山であり、おかしいことを言ってきたのであり、その楽山が、他者に向かって、おかしいなどと意見を言う資格はないということです。今までの3年間の楽山批判が根拠です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を見る目を持たず、外界を見る目を持たず、固定した幻想の視野を持ち、バランスのとれた人格の固定して夢想だけで、関わってもいない世界に口を出し、受け入れられないと逆上して荒らしてくる楽山には、どう考えても、生育歴によらず、否定だけしか返せないということです。
 
 
 ※
 
またしても、楽山系が、私のツイッターの「通知」欄を荒らして、楽山の悪行を強調しています。楽山系が、どれだけ低劣であるかを表しています。楽山は、知っているのでしょう。ゆえに、楽山は、本性が荒らしであることを自ら証明しているということです。
 
複数のHNで、私のツイッターの「通知」欄を荒らしている者たちがいます。楽山の、成りすましか、仲間でしょう。楽山の学者気取りも、これでトンデモになり、楽山が単方向の荒らしであることを証明しています。断末魔とでも言うべきでしょう。いつかは、バレることだったのです。
 
「通知」欄の荒らしの書き込みが困るのは、好意的な書き込みの中に混じっていて、紛らわしいからです。荒らしは、楽山と同じようにコピペで書いてきて、自身の意見はわずかで、あとは悪口や当てつけだけのようです。削除できないのかな・・、まあ、相手にはしないほうがいいと思います。
 
 
 
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  できることを2
    過去記事を加筆して再録
 
 
正しいことをしたから救われる・・のではない、ということが分かる聖句です。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
14:3
イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 
14:4-5
すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。 
14:6
するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
14:7
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
 (マルコ14:3-7、新約聖書)
 
女性は、高価なナルドの香油をキリストの頭にかけました。周りからは、無駄なことであり、高く売れば、もっと施しができたと女性をとがめます。なんて無駄なことするの、という感じでしょう。
 
キリストは、女性をかばいます。キリストに良いことをしたからです。つまり、女性は、キリストのためにしたのだから、責めてはいけないということです。キリストが宣べ伝えるところの救いの基準は、普通の効率の話の次元ではありません。キリストは、女性の心を見抜いていたということです。
 
ゆえに、救いというのは、人の行為の善悪や効率によるものではない、ということです。つまり、人に、深い信仰の真偽が、いつも明確に分かるとは限りません。偽は分かることもありますが、だまされることもあり、真の信仰も明確に分かるとは限らないということです。
 
信仰について、正邪はありますが、それは、神が裁くような正邪ではなく、人にとっては精いっぱい正直に祈るかどうかということです。人の信仰の正しさは、そこにしかありません。神の正しさと人の正しさは、次元の違うものです。それぞれ、神の義、信仰の義、と呼ばれています。
 
信仰によって、できることというのは、必ずしも、効率が良いとは限らず、ためになることとも限りません。さらに、つきつめて言えば、必ずしも、正しいとさえ限らないのです。それが、人間の不完全性であり罪性であります。
 
私たち信仰者は、判断し、実行し、不完全な自分からの、神への正直な祈りの時を迎えるのです。それが正直であれば、神は、信仰の義を与えるという話なのでしょう。人の善悪や効率の基準ではなく、キリストのために言動する心が正直であれば、信仰としては義とされるということです。
 
ここには、キリストの、赦しと救いの考え方が表れています。勘違いや、誤解によって、正しいとは言えなくとも、本心から、できることをしようとしてしたことなら、キリストのためにしたことを、受け入れて、責めることはなさらないということが信仰の義であり希望となり救いとなるのです。
 
さらには、女性にとって、キリストはどういう存在だったのでしょう。今を逃しては、もう二度と会えない御方、そう思うから、何かしなければ、と思ったのでしょう。捧げものの効率とか考えている余裕はなかったのかもしれません。
 
そのことを、キリストは、深い洞察と共感によって、見逃さず、ゆえに、良いことをしたと、女性を認めたのでしょう。
 
信仰は、驚くべきことを、人にさせますが、それが、いつも、正しいとは限らず、人間は、つまり、神の御心に従いました、ではなく、できることしましたとしか言えないのです。キリストは、そこに至る心を察して、女性に慈愛を向けているのです。
 
キリストの、それこそ、直観的な行動分析とでも言っていいような、鋭く、慈愛に満ちた、洞察力と直感力です。ここを見逃して信仰は成り立たないと言ってもよいのです。
 
このように、聖書には、キリストについて、人々との関わりにおいて、人間が受け取れる、瑞々しく磨き上げられた宝物のようなエピソードがあります。
 
キリストの言葉が、救われるに相応しい人に対して、信仰ゆえに、さらなる戒律的道徳的負担をかけることや、さらなる悲しみや重荷を負わせることや、責めることや、人を善悪で裁くこと、などはないということです。犯罪人の救いの聖句を読めば明らかであります。
 
どうか、求道において、信仰において、物や肉体に起こる奇跡に驚くだけでは決して得られないところの、魂の奇跡を見逃さないでください。
 
(※ 信仰と、物や肉体に起こる魔法のような超常現象の奇跡を、同一のように見なしているところの偽善者、楽山や、シャロームに、近づかないでください。)
 
私たち人間は、時に、安易な気持ちや、激情や、勘違いや、思い込みによって、罪を犯します。それは、キリスト者も同じです。キリスト者は、正直な祈りによって赦される道を選んでいるという違いだけだろうと思います。
 
神に正直に祈る、人間に出来るのはそれだけです。それだけが信仰の条件です。それ以外の、善悪や正邪などについては、人は判断して行うけれど、裁きは神に委ねられることです。
 
知り尽くし正しくなることが信仰ではありません。私たちは、できることをして、神に、精いっぱい正直に祈ります。それだけで、信仰の義が与えられ、神に認められるのです。というより、私たちには、それしかないということです。
 
私は、ある時から、それこそ、救われる条件として、正直な祈りを強調してきました。なぜかと言えば、神の前に本気で正直であろうと努める人は、人の前でも、あからさまに騙すような言動は出来なくなるからなのです。それが信仰が導く良心の道なのです。
 
 
楽山とシャロームshalomは、真実とも、信仰とも、真逆の生き方をしている反キリストであります。同一人物の成りすましの可能性も疑っています。
 
 
神の義 信仰の義

神の義 信仰の義
 
 
(2020年02月23日)
(2021年03月03日)
(2022年03月09日、再録+加筆)
 
 
 
 幸福の科学の矛盾点
 (信者自身が教団の矛盾を指摘していた)
 2021年03月01日 
 楽山の「幸福の科学とは何だろう?ブログ」
 抜粋して批判。
 
 
ここに、キリスト教について、幼稚なイチャモンをつける者がいます。よく読めば、真剣味が全然ないということが分かりますが、丁寧語で、暗示的に、だまそうとする者がいます。
 
楽山は、醜いものを背負っていても、カルト批判なら書いていいと思っているようです。しかしながら、批判者に相応しい正直さも潔さもなく書けば、楽山の今までの因業によって、偽善となってゆくしかないのです。
 
醜い楽山の正体を知っている人は、キリストほどの洞察力はないとしても、その悪と偽善の正体から、目を逸らすことは出来ないし、してはならないという立場に立つからです。
 
リバティ、HS、幸福実現党などの公式では、その内容を紹介している。内容紹介は職員はよいが、信者は禁ずるということなのか。これはダブルスタンダードではないか。
 
楽山は、自分の善意芝居を、ブログに書いていますが、そこにある敵意と悪意と恨みについては、文章に表れているのに、隠せたつもりでいるのです。これこそ、楽山の偽善のダボ・スタンダードです。
 
職員だったころに、この件について意見を述べたことがある。その意見はある程度受け入れられ、状況も少し改善された。しかしそれ以降、教団内において自分に対する風当たりがきつくなったようにも感じた。気のせいかもしれないが…。
 
楽山は、HSの職員だったそうで、不遇を恨むかのように、一連の記事で、身の程も知らずに、上からHSを批判しています。しかし、あからさまにHSを批判しておいて、「気のせいかもしれないが…」というのは、ありえないと思います。
 
「気のせいかもしれない」と思いながら、批判はしておこう、などと言う根性で批判は成り立たない、ということを知らない楽山です。
 
つまり、こういう「気のせいかもしれないが…」を付け加える書き方は、楽山が、不確定で不明瞭な語句を入れることで、違うかもね・・的な、いい加減な筆致となり、責任を負う気のないことを意味しているのです。ペロッと舌を出しているイメージになります。
 
楽山が、元信者か元職員かは知らないが、本質的に、興味本位の煩わしい野次馬だというのは、こういう無責任な言い方にあり、そこから、卑怯な性根がバレてきたからです。何事も、本気ではなく、自己顕示欲による趣味に流れてゆくのが楽山です。
 
*自由な団体というけれど
遠江氏は信念をもって、教団に対して公開で異を唱えたようだったが、結局、動画は非公開にすることになったのは残念だ。教団批判は、和合僧破壊の罪に問われかねないことであろうし、タブーになるのも致し方ないが、伝道の際には法話霊言の内容について話してもいいかどうかについてさえ議論できないというのはどうかしている。
 
楽山は、よく似た体質で、都合の悪いことは、なかったかのように、無視してきました。そういう体質だから、平気で批判とか出来るのです。"自由" というHNを使っていたことがありますが、全く、自由とは矛盾する不感不応の不都合無視&隠蔽体質です。出来た人と言われたいだけの欲望なのです。
 
こういうところをみると、HSは自由を尊ぶ団体だというのは、まったく事実に反するといえそうだ。
遠江氏が動画で話しているようなことは、伝道者なら誰しも考えることであろうに、それでさえ非公開になるというのは、ほんとおかしい。
 
楽山は、自分だけの自由を尊ぶ体質です。言論者なら誰しも弁えることを、平気で無視してくる楽山というのは、全く公共の自由と真実に反しており、本当に、ぶざまで、おかしいです。どうか、相手にしないでください。
 
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
  勇敢な兵士
 
勇敢なる兵士諸君
あるいはすべての戦う者たち
あなたがたは義によって立ち
あるいは仕事と割り切って
戦いの場へ向かい
祖国のため正義のため
殺された仲間のため家族のため自分のため
うまくいけば生き残って凱旋し
多くの人々にたたえられ
胸に輝く勲章を与えられるかもしれない、しかし
あなたがたは喝采を浴びせる人々から受けるようには
神から祝福を受けることはないだろう
いかに平和を勝ち取るという目的を持っていても
極悪人を殺すときも
人殺しを殺すときも
殺さなければ殺されるようなときも
人を傷つけ殺したならば神の前に
あなたがたは裁かれる身であり
決してたたえられる身ではない
 
天国に勲章も名誉も持ってはいけない
ただ裁きの日に裁きの場に立たされるであろう
そして情状酌量の余地を問われるであろう、それほどに
人を傷つけ殺すことは正義ではない
しかし心の底まで
裏の裏まで
すべてを見抜かれる神が斟酌されるとき
その計らいは限りない哀れみであり
永遠の生命へ至る道である
神の前に明らかにならないものはなく、もし
あなたがたが天国へ招かれるとすれば、それは
あなたがたが正義であるからではなく
あなたがたが、ただ
父なる神によって哀れまれた
という理由のみによるのである
何故なら御国に至る道はそれ以外になく
あなたがたを見送った私たちも
それ以下ではない罪によって裁かれるからである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
罪を隠して善人のように見せかけることを偽善と言います。偽善者の言は、ときに、実に、白々しい発言になります。人間ならば、当たり前に、しなくてはならない反省を、楽山が「実践するのは難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などと、他人事のように言うのが、典型的な偽善の発言です。
 
善悪の基準を並べてみると、人においては、偽悪、善、悪、偽善、・・という順序になるでしょうか。その両極端に、神と悪魔がいるでしょう。神に救われるのは、偽悪、善、悪の、前3者です。偽悪というのは、善人なのに、ちょいと乱暴で悪びれることです。偽善者は救われません。
 
人は、神の基準を身につけることは出来ません。ここに書いていることも、その時その時の、判断に過ぎません。しかし、判断は空しくはなく、同じ判断が、長く続けば、それは真実に近くなるだろうと思います。シャロームについて10年以上、楽山については、3年以上、偽善という判断が続いています。
 
最も憎むべき偽善者は、楽山やシャロームのように、悪を隠し、善人芝居をしたり、インテリを気取ったりの、ペテンの人生を過ごす者たちです。私はと言えば、厳しい言葉も使って批判しているわけですから、恐らく、悪でしょう。折に触れて、キリストの御名によって、神の憐れみを乞うています。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
それにしても、大事なのは、信者かアンチかという立場じゃなくて、真理に則るかどうかだと、なぜ分からんのだろう。
 
「真理に則る」を怖いと書いたら、また、同じこと書いてきた。楽山は怖いんだぞ・・とでも言いたいのか。怖い自慢なのか。楽山は、自分が、真理に則(のっと)っている、とでも思っているのか。ふつうの人でも、そこまでは言わない。ふつうに謙譲を弁えるからだ。偽善の悪意が壊れ出している。
 
楽山は、悪の将軍にでもなって、自分で自分を言葉で特別視したいのでしょうか。自分で自分に真理の勲章を付けて自慢している楽山です。真理という完全言葉を自分に当てはめる楽山は、真理の下で働くより、真理の下に、口を大きく開けたまま、潰されてゆくほうを選んでいます。
 
 
 
  モンスター楽山
 
 st問題資料集(編集方針、目次、後記)2022年03月08日
 
 
楽山は柔和な人間性を持ちません。楽山は凶暴な本能性のモンスターです。楽山に都合のよいものを集めただけで、主張でも思想でもなく、誤解させるための印象操作なのです。気をつけてください。楽山のペースに乗ることは精神の死を意味します。私は、できることをします。
 
楽山は、また、st問題資料集というのを大量に書いてきました。やはり、楽山は、量だけで勝負したいのでしょう。こちらは、楽山の体質が表れている記事とコメントを、集中的に書いてきたつもりです。表れているのは、批判返しではなく、パニック症状に近いものです。楽山問題資料集です。
 
楽山の、いちゃもんは、全て、楽山の自己愛性パーソナリティ障害の症状としての印象操作であり、刷り込みであり、プロパガンダに過ぎません。ネットの街宣車とでも言うべき煽りでしょう。こういう楽山を、決して相手にしてはいけない、これが鉄則です。楽山は、何とかに刃物状態です。
 
批判は、理由があって始まり、根拠を示して書いています。私としては、完全ではなくても、楽山が言論者として、無反省、無責任であるゆえに失格だという記事を書いてきました。それに比べて、楽山は、理由は、批判されたから、批判者をストーカーと呼び、根拠はなく、弁明にもなっていません。
 
楽山などの自己愛性人格障害者というのは、自分正義の無条件命題から書いてくるので、汲むべき内容が無く、かつ、結論だけを並べ、かつ、3年余りの文章の中で、楽山に都合のよさそうなことだけを書いてくるので、信頼度はゼロだと思います。事実の選択、文字面で誘導する手法を取っています。
 
私が、楽山に対して、好意的だったコメントも載せているようですが、初期の関わりにおいて、私は、まんまと、だまされていたということです。偽牧師シャロームshalomに同意したことがきっかけで、楽山の凶悪性が、次々に、応答に、記事に、バレてきました。楽山は、自分に溺れているのです。
 
楽山は、昔は好意的だったから首尾一貫していないとでも言いたいのでしょうか。私としては、訂正不能ではなく、楽山は、柔和ではなく、真逆の、凶悪だと気づいたから批判に転じたのです。楽山は、凶悪な性質を改めることをせずに、刷り込みの断末魔になっています。悲しむ心が無いからです。
 
批判に転じた私が、楽山に好意的になるのはないだろうと思います。楽山こそが、失望させたことを何とも思わず、昔は好意的だったとばかり、都合のよいコメントを出してくるのは、殆ど断末魔であり、実に見苦しいことであります。楽山の、もっともらしさを装う言い方に、だまされないでください。
 
楽山は、殆どコピペだけの数えきれない記事群を、しかもコピペで、だらだらと無意味に書き続けています。だから弁明にならず、自己中のままです。楽山は柔和な人間性を持たず、凶暴な本能性のモンスターです。楽山のペースに乗ることは精神の死を意味します。私は、できることをしています。
 
今回の楽山の一連の投稿は、まさに、悪意のパニック発作のようなものです。いつまでも、いつまでも、誰も見ない記事を書いておればいいのです。自分で新しいことが書けないために、過去のコメントを洪水のように流しています。どの方向にも考えることの出来ない人格の末路的恐慌発作です。
 
楽山は、ひょっとして、過去のコメントを並べれば並べるほど、楽山が被害者だと分かると思っているのでしょうか。楽山の発言は、的外れのボンヤリ曖昧言語と、わざとらしく同情を得ようとするトホホ言語しか表れていません。改竄でもしていない限り、楽山の思うようにはならないと思います。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)12:2-3
12:2
おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。 
12:3
だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。
 (ルカ12:2-3、新約聖書)
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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