ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自分信仰

 
  祈る心3
 
   「祈り、でもでも」修正、加筆。
 
 
祈りたい気持ちがあって
祈りたいことがあるから
まだ信じているのだろう
実際には
毎日のように祈っているが
殆ど、そのときの心境の吐露
 
でも祈ったからといって
何か変わるのかどうか
変わるとして
それは目に見えるのかどうか
人に分かるのかどうかといえば
どちらも人には
はっきりとは分からない
 
信仰が全知全能の神に従うことなら
不完全な人の信仰は
完全ではありえない
 
つまり分かっていると思うことは
御心か人間の勝手かどうかさえ分からないのに
分かったことにしやすいという自覚
 
神が云々・・ではなく
自分がどうなのかが信仰の祈りである
 
つまるところ
反省もせず分かったつもりになり
かつ分からないと言わなくなったら
もはや信仰ではない
 
祈りたくなるのは何故だろう
委ねたくなるのはなぜだろう
そうさせているのが信仰だ
そして神だ
 
どうしても人には分からないことがあるからだ
 
神のなさることは分からない
 
人によっては
完全を気取った祈りが
実は自慢だったり呪いだったりする
 
いくつもの祈りの結果が総て益でしたなんて
あらかじめ感謝と讃美が前提として
固定した教条の鉄則になっている人の
正直を押し殺した多幸の強迫観念だ
 
祈るとき鰯の頭を仰いではいないが
弱いから何かに頼りたい気持ちはいつもある
 
叶う叶わないにかかわらず
打ち明けて任せる相手を求める立場から出発しているからだ
 
でも本当の神を想いで信じ込むのは背教であり
何も整ってはいなくて
むしろ整うことも壊れることも不完全なのである
 
正しく信じていない自分
信仰の薄い自分
 
いつも
そこから始まっている
 
不完全、欠点だらけ
いたたまれなくて
祈り
 
 
 
人の言葉の不完全さ・不十分さを
書いたり読んだりするたびに思います。
そのたびに修正するとしても、
修正が必要であると感じること自体が既に不完全を示しています。
人の信仰は完全にはなりません。
 
前にも書いたけど、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、
信仰の固定と訂正不能は、もはや信仰ではありません。
 
自分の信仰を固定するのは自分信仰です。
それはまた唯一の絶対・永遠・不変の神
という飼い主である神を無視する行為です。
神以外に完全はありません。
 
神を仰ぐのであって
神を理解したから信じるのではありません。
 
神のもとに
そして誰よりも
キリストの元にあるのは
理解ではなく
むしろ共感に近いものです。
ゆえに愛に近いものです。
 
神の導きは、どのようにあるか、事前に人は分かりません。
事後にも、完全には分かりません。
次に連なるのが、恵みか、試練か、人は確定できません。
 
信仰によって生きてゆく意志を与えられることはありますが、
信仰によって生活が便利や有利になるわけではありません。
 
恵みと試練は同一なのかもしれないと前に書いたことがあります。
自分の思いは様々あっても
自分の気持ちだけから、恵みだ、試練だ、と確定してはいけないのです。
 
修正ばかりしていると、なんだか、不安定で、
いい加減のような気もするけれど、
その時その時は、一所懸命に書いてきたつもりなので、
自分の判断はその程度なんだ、という自覚は、結局、必要になります。
 
それは不完全である自覚
  =罪の自覚でもあります。
 
人の言葉は、伝達のための暗号です。
 
神の言葉が完全でも
聖書を読む人の言葉は不完全です。
 
人間の表現の、目に見える手立て、
すなわち、言葉、態度、行為、サイン、筆致、
全て伝達手段として
広い意味で、言葉と言ってよいでしょう。
そういう人間の言葉は、当てになりませんが、
その時その時は、当てにしているのです。
他に、人間は、表す言葉を持ちませんから。
 
神の言葉であるという聖書も、
私たちは、人間の言葉によって、
自分の言葉の世界において受け取っています。
 
神の言葉だから正しいと
持論の聖書の解釈を主張するのは甚だしい間違いです。
受け取って伝えているのは不完全な人間です。
 
聖句の一つ一つに魔法を期待してはいけません。
聖書の言葉は、誤解によって、人によっては、
躓(つまず)きの石ともなり得ます。
聖句をいつも正確に受け取っているわけではない人間が使うからです。
 
自分の心に起こる動きを、正確に対象とすることは難しく、
心を動かされたことも、恐らく、自分で言葉化してゆくのでしょうから、
信仰には、一時的には、不可避に、自分信仰の部分があります。
 
しかし、それを信仰だからと確信する方向には、
神と同一そして一体感という恐ろしいカルト信仰が待っています。
 
ゆえに、反省による学習によって成長できる信仰であることが必要です。
難しいことではなく、その最も大切な時と所が、祈りであると思っています。
 
祈りだけは、信仰の心が全くなければ、することはないでしょう。
祈るのは、信仰の心が、ちょっぴり以上あるからなのです。
 
正直に祈りたいという気持ちが、まず、第一に、信仰の、最も確かな恵みなのです。
 
 
祈る心 信仰

祈る心 信仰
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月14日、再録+加筆)
 
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
頭の中にもやのように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
うつして小さなバラ色だ
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
捨てかねている命に幸いを
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
   人間離れ
 
宗教がそして信仰が人間離れしていくとき、それは宗教が最も危険な状態に陥ろうとするときです。そしてそれは宗教が宗教であるがゆえに最も日常的に直面しやすい問題でもあります。
 
偶然のように突然起こった不幸を無理やり神の意志・計画として辻褄を合わせようとする心の働き、飲めないものを無理に飲み込もうとして力んで平静を装おうとする姿は、何らかの信仰を持つ者にしか起こりえないでしょう。
 
それは耐える姿ではない。人間離れした力をわが身に強制するカルトの姿に近いのです。人間離れしたものを立派なものとして求めようとする恐怖に駆り立てられた行動なのです。
 
悲しみを悲しみとして受けとめれば、嘆き、怒り、時には背教の念さえ抱くことがあります。そういう裸のありのままの姿の自分を見て、神の前にさらけ出し認め自覚することによって、隠さず正直に神に告白して祈り、無力を認め力を求めることで、初めて耐えるという忍耐の行為が生まれるのであります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
祈る心も、悔いる心も、癒され癒す心も、反省する心も、持っていない楽山です。我欲を貪るために、マルチに成りすまして人を誘導します。アンチカルトなどと思わないでください。人を自分より低く見て、人を傷つけて、優越感を貪るのが楽山です。柔和の装いに騙されないでください。
 
 
 
 楽山の過去のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
パスタファリアン
@FShinnja
普段、幸福の科学の盲信者を見ていると、ああこれなんだなと思うことがあくつも。
ただ、我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけないとも思う。
午前0:32 · 2021年6月9日·Twitter for Android
https://twitter.com/FShinnja/status/1402287337535459331
 
引用元ではなく、引用した楽山を批判しています。
 
楽山は、いつも、卑怯で、狡猾で、企みますが、大人の人格に成りえていないので、心は、ネズミ花火のようなものです。人を盲目にして、自らの盲目に気づかないのが、楽山です。恐ろしく知性も感性も劣化して、責任ある言動が出来ないのです。
 
「ああこれなんだな」と、いつも、他者を嘲笑っているのが楽山です。さらに、楽山は、「我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけない」などとは思っていません。楽山は、だまされる側ではなく、自家製の詭弁によって、いつも、だます側の自覚だからです。
 
したがって、賛同したつもりでも、共感のつもりでも、自己愛性人格障害の楽山には、正常人の真似はできません。楽山には、共感も、誰かを真に尊敬することもありません。よって「我が身もふりかえ」ることなど出来ませんし「気を付け」ることもしません。だまされないでください。
 
楽山は、自分カルトですから、我が身を振り返ることもなく、慢心して、充実しているつもりで、人に意見が言えると思っており、かつ、その意見は客観的な卓見だという自覚があるのでしょう。自分のみすぼらしさを感知する能力がないので、自分の言ってることの下劣さに気づきません。
 
 
 楽山かもしれない筆致の過去のツイッターですが
 
raku
@rakusyo34
自分のやったことはブーメランで自分に返ってきますね(・_・;
午前9:03 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/rakusyo34/status/1402416024557813760
 
最初、こちらにブーメランと言ったのは楽山のほうです。しかし、今までに、こちらが、楽山について、ブーメランという指摘をすることが、つまり自爆のようなことが、どれほどあったでしょう。書けば、おかしなことにしかならない、因果の、因が楽山で、果が楽山、という繰り返しです。
 
楽山は、こちら、または、キリスト信仰を、批判・否定・攻撃して自己正当化をしたつもりで、ひっぱたかれるのは、いつも、楽山のほうなのです。こちらは、楽山が書くたびに、楽山の文章から、楽山批判の題材を受け取っているという成り行きです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
断定口調で話す奴や偉そうな奴は信じるな。賢くなればなるほど自分がいかに何も知らないか気付いて断定口調で話さなくなるし、偉くなればなるほど偉そうに振る舞う必要がなくなり腰が低くなる。断定口調で話す奴は100%ただのバカだし、偉そうな奴は120%実際は偉くない小物。お前ら、これメモっとけよ?
午後6:34 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1402559816610967554
 
引用元ではなく、楽山を批判しています。
 
断定口調でなければ大丈夫と言うことはありません。その最悪の例が、楽山ブログとツイッターであります。断定口調を避けることは、断定できるほどの責任を負えない楽山であったり、柔和を装う楽山であったり、刷り込むための楽山の丁寧語であったりします。
 
断定しているから受け取るのではなく、断定していないから安心するのでもなく、冷静に理路と心の共感を追う姿勢が大切です。楽山は、冷静に、冷酷に、邪悪な詭弁の理路を捏造し、理解と共感のなさを、とっつきやすそうな言葉の体裁で繕う婉曲表現が手口なのです。
 
 
 
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  楽山は自己中の加害者
 
 宗教と自由
 2014年03月30日
 楽山日記(LD)
 
 
かなり前の記事です。楽山の宗教についての経験には、楽山の自己愛性人格障害によって、自己中が、歪んだ思考を生み出してきたことが分かる記事だと思います。ゆえに、楽山は、今、カルト被害者ではなく、加害者となっているのです。
 
とある宗教を信じていたころの自分は
いつも、「~ねばならぬ」が気になっていた
信仰は絶対に手放してはならぬ
利他行を実践しなければならぬ
真理の書籍を読まねばならぬ
反省しなければならぬ
伝道活動に励み、教団の発展に寄与しなければならぬ
波動の悪い書物、漫画、映画などを見てはならぬ
波動の悪い場所に近付いてはならぬ
波動の悪い人物と交際してはならぬ……
 
「~ねばならぬ」だけで出来ている宗教と信仰は、大方、偽物です。信仰は、まず、それまでになかったような、癒しや、感動や、はっとするようなことを受け取って、考えることから始まります。
 
それが、忘れられず、一生の支えになってほしいから信仰者になるのです。ですから、誰にも強制されることはなく、また、現世的ご利益の誘い文句に乗ることでもありません。
 
楽山は、カルトしか知らず、それ以上に、自分がカルト教祖になりたいがゆえに、既存の宗教を否定することから始めているようです。
 
そのための批判が、安っぽくて、いちゃもんに過ぎないことから、楽山は、精神の詐欺師、ペテン師として言動するしかないのです。「~ねばならぬ」だけを言ってくるのは、それは宗教でも信仰でもありません。本当の信仰を持たない楽山が、欲望から、他者の信仰を呪っているだけです。
 
まさに、楽山は、楽山自身の自分信仰以外を、「~ねばならぬ」教だと言って、貶めるという暴挙に出ています。では、楽山は、何を救いと言っているかというと、信じないのもいけないが、信じ過ぎてもいけない、などと、いい加減で、何の助けにもならないことを言ってきたのです。
 
信仰を持っていたころは
四六時中、上のような思いを抱いていたのだった
ただそれにも関わらず
自分は自由であると感じていた
 
楽山は、恐らく、自分信仰となっている自らの、霊能者妄想から、自由になったことはないと思います。似たようなことばかり書いてきたことが根拠です。それは、自由ではありませんし、また、今の楽山の精神も、病質ではあっても、全く自由とは正反対なのです。
 
けれども
信仰から離れた今は
信者だったころの自分が
あれほど窮屈な生活をしていながら
自分は自由だと感じていたことが不思議でならないのである
これがマインドコントロールというものなのだろうか。
 
楽山は、HS信者だったのが本当かどうか知りませんが、アドラー教の宣伝者ではありました。そして、何より、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)がもたらす自分信仰から、全く離れてはいません。カルトから自分信仰へ・・似たようなものなのです。
 
そして、楽山は、今、自由のつもりかもしれないが、決して自由ではありません。その自由のつもりの発言が、無反省で無責任な自己中の勝手な発言となり、誘導となり、他者の自由な思考と感性を奪っていることが根拠です。そのことは、ひどくなれば、たしゃの人格破壊につながります。
 
楽山に、既に起こっている人格破壊は、次には、楽山からの誘導によって、他者の人格を破壊するでしょう。ボンヤリ言語で、偽りの三文芝居で、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、かつ、非を認めないという、ケダモノのような自己中の本能によって、人を巻き込んでゆくでしょう。
 
楽山は、自らの妄想によって、他者をマインドコントロールするほうであり、その手段として、刷り込み、詭弁、虚言、婉曲的なボンヤリ言語、ときに、同情を引くためのトホホ言語などを用います。楽山に、本音はなく、一日中、自己正当化の言語に、駆り立てられているのが現状です。
 
つまり、尊厳を守るための正常な自己愛ではなく、執念のような訂正不能の妄想的自己愛・自己中となって、思慮ではなく、本能のように言動しているのでしょう。こうなってしまうと、元に戻ることは難しいと思います。誰も、楽山に関わることのないように、批判を続けるしかありません。
 
とある宗教を信じていたころの自分は
いつも教祖のことば(教義)を基準にして
考え、行動していた
教祖が
善とするものは善とし
悪とするものは悪とし
正とするものは正とし
邪とするものは邪とし
真実とするものは真実とし
存在するとするものは存在するとそのまま信じていた
 
このことは、事実であれば、よほど、自主性・主体性のない人間だったことを意味しています。そのことを、反省するのではなく、全面的に、宗教のせいにしているところが、楽山の病質を表しています。あらゆる不祥事を、人のせいにする、これが、自己愛性人格障害の特徴です。
 
また教祖が
当教団は、多くの有識者から高い評価を得ている
信者でない者はこのようなものである
霊とはこのようなものである
霊界はこのようなものである
唯物論者とはこのようなものである
悪魔、悪霊とはこのようなものである
生まれ変わりの仕組みとはこのようなものである
菩薩、如来とはこのようなものである
あなた方の目的と使命とはこのようなものである
法とはこのようなものである
真理とはこのようなものである
云々と言えば、それらもそのまま信じていた
 
このように、人の言うことをそのまま信じることが、ある意味、異常であります。自分で考える意欲と能力が乏しかったことを意味しています。それを、楽山は信仰と呼んでいますが、真の信仰のあり方からは、ほど遠く、受動的で軽率な人格という他はないのです。
 
自我が弱い分、言われることを鵜呑みにして、今は、よくなったような言い方をすることこそ、自らを省みない者の成り行きなのです。正常な人間には、反発力があります。その大方は、反省し、自戒し、学習し、成長につながります。楽山には、それがないので、人のせいにします。
 
この記事に、一貫して見られるのは、教祖が悪い、他者が悪い、自分はその犠牲者、という一方的な被害者の立場であり、このことこそ、自己愛性人格障害の特徴です。自分が、迂闊だった、未熟だったという自省が働かず、ゆえに、次は、楽山自身が、他者を犠牲にしてゆくのです。
 
 
 
 信仰と知性、判断力
 2014年03月30日
 
 
楽山の、今につながるところの、無反省・無責任がもたらす災いが表れています。全てを、他者のせいにして、他者を否定し無視することで、結局、新たな、自分信仰というカルトに縛られることになります。宗教は気休め程度がよろしく信じ過ぎるのは災い、という反信仰の態度です。
 
実際、楽山は、信じたこともないキリスト教を、否定してきました。実に、傍迷惑なことですが、そこには、自己中という病質が働いているとともに、宗教の一部の災いによって、宗教全体を見境もなく否定するという短絡の詭弁も表れているのです。
 
ようするに
信仰をもっていたころの自分は
 
楽山は、思い込みが訂正不能で、全か無かという極端な病質の、短絡した思路だけであり、健全な信仰を持っていたことなど、一度も、なかったと思います。そして、病質から、誰かのせいにしたくて、キリスト教を、やり玉にあげてきたのです。それが、楽山という異常な体質の人間です。
 
教祖のことば(教義)をそのまま信じるばかりだった
それで自分は真理、真実を知っていると満足していた
 
教組の言葉を離れても、基本的に、今も姿勢は同じです。ゆえに、今は、自分の妄想を信じ込んで、他者に影響を及ぼすことで、自己満足しているのです。つまり、自己愛性人格障害の自己中は、むしろ、自主性を育てず、他人格を支配しようとすることで破壊するということです。
 
だから、事実を確認し、論理的に思考することは
しなかったし、できなかった
その必要性も感じなかった
 
だから、楽山は、確認、思考、など、まともに、したことがなかったのでしょう。今も同じです。代わりに、自己愛と自己中から、人のせいにするということが繰り返されてきたのでしょう。過去に必要を感じなかったのではなく、今も、必要を感じず、平気で宗教を否定しているのです。
 
このような信者時代を振り返ってみると
つくづく自分にとっては、
信仰というものは
知性、判断力を鈍らせるものだったと思う
 
そして、総てを、信仰のせいにして、宗教と信仰を、知性と判断力を鈍らせる元凶のように言っています。これが本音です。
 
知性と判断力は、楽山には、今もありません。他罰だけの精神には、知性は育たないからです。つまり、いちばん自分を生かすために必要な、反省力が、楽山にはないのです。
 
楽山のことを、なんとなく良さそうな人だと思って付き合っていると、病的な疲労から、精神が病的に摩耗して、奴隷か廃人のようになり、楽山と同じことを言うようになるでしょう。完全に断絶して、人格も言葉も受け入れないようにしてください。自分で学習し考えるようになってください。
 
 
全部人のせい?

全部、人のせい?
 
 
(2021年10月19日)
 
 
 
 (伝道の書、口語訳)
1:2
伝道者は言う、
空の空、空の空、いっさいは空である。
 ・・・
1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
1:18
それは知恵が多ければ悩みが多く、
知識を増す者は憂いを増すからである。
 (伝道1:17-18、旧約聖書)
 
今のところ、特に、神の知恵を、人の知恵で追いかけて、超常のことばかり考えていると、憂いが増し、風を追うような空しいものとなる、というような意味に受け取っています。
 
 
 
  老いと病
 
三十代から始まる
ひとこと言われた後に
続く笑いが気に掛かる
自分は照れ笑いしているくせに
 
白髪が目立ってくる
事故で入院する
白髪がごそっと増える
面(つら)の皮が厚くなる
鼻の皮が硬くなる
 
放屁する場所を余り構わない
放屁自体が増えてくる
腸のグルグルが増えてくる
便秘も下痢も増えてくる
小便も近くなる
間に合わないことがある
尿漏れパッドを買ったりする
おむつも買おうかと思ったりする
 
すっかり白髪頭になってしまう
一つ難しいことを覚えると
二つ易しいことを忘れる
覚えた一つも忘れる
 
ひとこと言った後に
続く笑いに気づかない
ひとこと言われた後に
続く笑いに笑っている
気に入らないのに笑っている
いつまでもいつまでも笑っている
 
以上に気づいて黙ってしまう
 
人のせいにしたくなる
病気で入院しない
いつまでもいつまでも黙っている
わけにいくか!
と何か言い始める
 
 
  うばわれて
 
てんは にぶつを あたえず
てんは いちぶつを あたえて
てんは いちぶつを うばっていく
むねんの こころ いかばかり
ないても
いかっても
もどってこない
 
てんは かえりみて あわれみ
なごりのようなものを のこす
 
きづいた ひとだけが
きずを しり
いやされる ことを しる
うばわれて
うばわれて
なにも なくなっていく
ときの なかで
ふりそそぐ ものを うけられる
 
 
 
 
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  祈る心2
   「祈り、でもでも」修正、加筆。
 
 
祈りたい気持ちがあって
祈りたいことがあるから
まだ信じているのだろう
実際には
毎日のように祈っているが
殆ど、そのときの心境の吐露
 
でも祈ったからといって
何か変わるのかどうか
変わるとして
それは目に見えるのかどうか
人に分かるのかどうかといえば
どちらも人には
はっきりとは分からない
 
信仰が全知全能の神に従うことなら
不完全な人の信仰は
完全ではありえない
 
つまり分かっていると思うことは
御心か人間の勝手かどうかさえ分からないのに
分かったことにしやすいという自覚
 
神がではなく
自分が・・である
 
つまるところ
反省もせず分かったつもりになり
かつ分からないと言わなくなったら
もはや信仰ではない
 
祈りたくなるのは何故だろう
委ねたくなるのはなぜだろう
そうさせているのが信仰だ
そして神だ
 
どうしても人には分からないことがあるからだ
 
神のなさることは分からない
 
人によっては
完全を気取った祈りが
実は自慢だったり呪いだったりする
 
いくつもの祈りの結果が総て益でしたなんて
あらかじめ感謝と讃美が前提として
鉄則になっている人の
正直を押し殺した多幸の強迫観念だ
 
祈るとき鰯の頭を仰いではいないが
弱いから何かに頼りたい気持ちはいつもある
 
叶う叶わないにかかわらず
打ち明けて任せる相手を求める立場から出発しているからだ
 
でも本当の神を思い浮かべることは出来ないから
何も整ってはいなくて
むしろ整うことも壊れることも不完全なのである
 
正しく信じていない自分
信仰の薄い自分
 
いつも
そこから始まっているようだ
不完全、欠点だらけ
いたたまれなくて
祈り
 
 
(2011年10月29日)
(2019年05月29日、修正)
(2020年05月30日、修正)
 
 
人の言葉の不完全さ・不十分さを
書いたり読んだりするたびに思います。
そのたびに修正するとしても、
修正が必要であると感じること自体が既に不完全を示しています。
人の信仰は完全にはなりません。
 
前にも書いたけど、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、
信仰の固定と訂正不能は、もはや信仰ではありません。
 
自分の信仰を固定するのは自分信仰です。
それはまた唯一の絶対・永遠・不変の神
という飼い主である神を無視する行為です。
神以外に完全はありません。
 
神の導きは、どのようにあるか、事前に人は分かりません。
事後にも、完全には分かりません。
次に連なるのが、恵みか、試練か、人は確定できません。
 
信仰によって生きてゆく意志を与えられることはありますが、
信仰によって生活が便利になることはありません。
 
恵みと試練は同一なのかもしれないと前に書いたことがあります。
自分の思いは様々あっても
自分の気持ちだけから、恵みだ、試練だ、と確定してはいけないのです。
 
修正ばかりしていると、なんだか、いい加減のような気もするけれど、
その時その時は、一所懸命に書いてきたつもりなので、
自分の判断はその程度なんだ、という自覚は、結局、必要になります。
 
それは不完全である自覚=罪の自覚でもあります。
 
人の言葉は、伝達のための暗号です。
 
神の言葉が完全でも
聖書を読む人の言葉は不完全です。
 
人間の表現の、目に見える手立て、
すなわち、言葉、態度、行為、サイン、総て、伝達手段として
広い意味で、言葉と言ってよいでしょう。
そういう人間の言葉は、当てになりませんが、
その時その時は、当てにしているのです。
他に、人間は、表す言葉を持ちませんから。
 
神の言葉であるという聖書も、
私たちは、人間の言葉によって、
自分の言葉の世界において受け取っています。
 
神の言葉だから正しいというのは甚だしい間違いです。
受け取って伝えているのは不完全な人間です。
 
聖句の一つ一つに魔法を期待してはいけません。
聖書の言葉は、状況によって、
人によっては、躓(つまず)きの石ともなり得ます。
聖句をいつも正確に受け取っているわけではない人間が使うからです。
 
自分の心に起こる動きを、正確に対象とすることは難しく、
心を動かされたことも、恐らく、自分で言葉化してゆくのでしょう。
すなわち、信仰には、一時的には、不可避に、自分信仰の部分があります。
 
しかし、それを信仰だからと確信する方向には、
神と同一そして一体感という恐ろしいカルト信仰が待っています。
 
ゆえに、反省による学習によって成長できる信仰であることが必要です。
難しいことではなく、その最も大切な時と所が、祈りであると思っています。
 
祈りだけは、信仰の心が全くなければ、することはないでしょう。
祈るのは、信仰の心が、ちょっぴり以上あるからなのです。
 
正直に祈りたいという気持ちが、まず、第一に、信仰の、最も確かな恵みなのです。
 
 
祈り願う

祈り願う
 
 
(2020年06月09日、修正再録)
(2021年06月10日、再録+)
 
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
パスタファリアン
@FShinnja
普段、幸福の科学の盲信者を見ていると、ああこれなんだなと思うことがあくつも。
ただ、我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけないとも思う。
午前0:32 · 2021年6月9日·Twitter for Android
 
引用元ではなく、引用した楽山を批判しています。
 
楽山は、いつも、卑怯で、狡猾で、企みますが、大人の人格に成りえていないので、心は、ネズミ花火のようなものです。人を盲目にして、自らの盲目に気づかないのが、楽山です。恐ろしく知性も感性も劣化して、責任ある言動が出来ないのです。
 
「ああこれなんだな」と、いつも、他者を嘲笑っているのが楽山です。さらに、楽山は、「我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけない」などとは思っていません。楽山は、だまされる側ではなく、自家製の詭弁によって、いつも、だます側の自覚だからです。
 
したがって、賛同したつもりでも、共感のつもりでも、自己愛性人格障害の楽山には、正常人の真似はできません。楽山には、共感も、誰かを真に尊敬することもありません。よって「我が身もふりかえ」ることなど出来ませんし「気を付け」ることもしません。だまされないでください。
 
楽山は、自分カルトですから、我が身を振り返ることもなく、慢心して、充実しているつもりで、人に意見が言えると思っており、かつ、その意見は客観的な卓見だという自覚があるのでしょう。自分のみすぼらしさを感知する能力がないので、自分の言ってることの下劣さに気づきません。
 
 
 楽山に似た筆致のツイッターですが
 
raku
@rakusyo34
自分のやったことはブーメランで自分に返ってきますね(・_・;
午前9:03 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
 
最初、こちらにブーメランと言ったのは楽山のほうです。しかし、今までに、こちらが、楽山について、ブーメランという指摘をすることが、つまり自爆のようなことが、どれほどあったでしょう。書けば、おかしなことにしかならない、因果の、因が楽山で、果が楽山、という繰り返しです。
 
楽山は、こちら、または、キリスト信仰を、批判・否定・攻撃して自己正当化をしたつもりで、ひっぱたかれるのは、いつも、楽山のほうなのです。こちらは、楽山が書くたびに、楽山の文章から、楽山批判の題材を受け取っているという成り行きです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
断定口調で話す奴や偉そうな奴は信じるな。賢くなればなるほど自分がいかに何も知らないか気付いて断定口調で話さなくなるし、偉くなればなるほど偉そうに振る舞う必要がなくなり腰が低くなる。断定口調で話す奴は100%ただのバカだし、偉そうな奴は120%実際は偉くない小物。お前ら、これメモっとけよ?
午後6:34 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
 
引用元ではなく、楽山を批判しています。
 
断定口調でなければ大丈夫と言うことはありません。その最悪の例が、楽山ブログとツイッターであります。断定口調を避けることは、断定できるほどの責任を負えない楽山であったり、柔和を装う楽山であったり、刷り込むための楽山の丁寧語であったりします。
 
断定しているから受け取るのではなく、断定していないから安心するのでもなく、冷静に理路と心の共感を追う姿勢が大切です。楽山は、冷静に、冷酷に、邪悪な詭弁の理路を捏造し、理解と共感のなさを、とっつきやすそうな言葉の体裁で繕う婉曲表現が手口なのです。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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