この俺が説教か
 
 
映画「ロッキー」
 
夜中に通りをうろついている子供に、ロッキーが「夜遊びするな、家に帰って勉強しろ」とか説教めいたことを言う。子供が大声でメチャクチャ悪たれ口を返して逃げてゆきます。それに対してロッキーが言った台詞。このやろうと怒って追いかけるかと思ったら、
 
「この俺が説教か・・」と自嘲するのです。
 
私は感動しました。自分を低くできる人は幸いです。
 
 
 自嘲
 
この俺が説教か
フッ・・と
自分を笑える人は幸いです
 
思いを述べるだけなら
人の欲求として当然であり
そっと差し出す気持ちがあれば
好ましいこともあります
 
しかし
自分の言うことが人のためになる
という訂正不能な
使命感さえ持ってしまうことがあって
それは結局
人が自分と同様になることが望ましい
という判断を繰り返すことになると気づかないまま
自分と異なるものを悪と見なして排除し
狂わせてゆきます
 
しっかりすることを岩石と勘違いし
うわべだけ柔和なことを語っているつもりだが
真面目でも自由に発言したら
お利口になれないのです
言動において既に横暴なのですから
 
何かを崇(あが)めることが
ときには人間性を失わせることがある
という例なのです
 
そういう人は
誰かが忠告しても無駄なようです
染み付いているからです
欠点ならば自覚も可能ですが
染み付いたものは自覚されにくいようです
だから「染み付いた」というのでしょう
 
そういう人に限って何度でも
救われた導かれたと
たやすく立ち直る特性を持っていて
過ちを正さず
同じ過ちを繰り返すことになるのです
 
この俺が説教か
フッ・・と
自分を笑える人は幸いです
 
 
低き身ゆえに 真実

低き身ゆえに 真実
 
 
(2011年06月30日)
(2011年07月01日、若干修正)
(2022年01月26日、再録+加筆)
 
自分の言うことが人のためになると思っていないか、少し思っていることがあるかもしれません。反省と自戒のない信仰は、無意味以上に有害です。
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに割れて
中央は欠損していた
 
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー
まあ、大昔、失恋の傷・・
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
誰が神を
神と名付けたか
誰がやさしい父を呼ぶように
神を呼んだか
流された夥しい血を
皿の上の相づちで受けながら
誰が気安く許される
罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」と一般化して自己正当化しようとする楽山の詭弁です。反省しない、責任を負わない、このような無責任言動は、「人間の性」ではなく、個人、即ち、楽山の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によるもので、病質であり、決して人間共通の罪で正当化は出来ません。
 
 
 
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