ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  アドラー教について(6)3
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
    2019-05-23  【シカトしろ❗️】言いたい奴には言わせておけ‼️
    加筆修正して再録。
 
 
アドラー心理学は、自己中促進カルトだと思います。ゆえに、ブログに書いて、アドラー教と呼んで警戒を呼び掛けています。日本人アホ化計画とも呼んでいます。
 
丁寧語は見せかけで断定や豪語が多いのも、カルトの宣伝に当てはまります。ぴったり当てはまる者がいます。彼は、アドラー教の宣伝者です。やめたようなことを書いていましたが、自己中、無反省、無責任のままです。
 
アドラー心理学サロンです。
あなたは他人に言われた言葉、他人にされたことを気にしてしまい、傷付いたことはありませんか?
世の中には価値観や考え方の違いから、とんでもないことを平気で言ってきたり、してきたりする人がいくらでも存在します。
困ったことに、あなたにとっては言葉の暴力であったり、嫌がらせになることでも、相手は罪悪感も無く、むしろ落ち込んでいたりすることもあるのです。
 
罪悪感のない人については、私も書いてきました。
 
とんでもないことをされたブログ主の経験と、その反発か復讐心が動機となっているのでしょうか。この記事の、数々の暴走気味の発言は。
 
本記事では、限度はありますが、他人に何を言われても、何をされても気にしなくてなる方法について解説させて頂きます。
 
このことには、自己中に走りやすい、という指摘と批判があるということです。何をされても気にしなくなる、という言葉だけだと、鈍感になり、無頓着になり、自己中になることに、ぴったり結び付いてくるのです。
 
まず、他人自分にが言ってきたこと、してきたことを気にしなくてするには、アドラー心理学の代表的な考え方である「課題の分離」を理解する必要があります。
 
課題の分離を、会って言葉を交わしたその時に判断して正確にできる、という前提のようですが、課題の判定は、そんなに容易くはないと思います。課題には、物だけではなく、人も含まれることがあるからです。
 
アドラー心理学サロンでも様々な言葉で、この課題の分離を表現しているので、人によって捉え方のニュアンスに違いがある可能性があります。
本記事では、下記の定義でご説明致します。
「他人が自分をどう思うのかは他人の課題であり、自分の課題ではありません。他人が自分をどう思うのかを気にすることは、他人のことを変えようとする介入となります」
 
ニュアンスでは済まないことがあるから、批判が生まれます。相手の課題に自分が含まれ、自分の課題に相手が含まれる場合を考えていないようです。
 
ブログ主は、定義すれば、誰にとっても、意味が定まると思っているようですが、特に、人文系や宗教や倫理の話では、定義こそが、勝手に、また、不可避的に多義に、解釈されてゆくものです。
 
他人が自分をどう思うのかを気にする自分をどうするかは、紛れもなく、自分の課題です。他人の意図も気持ちも考えてみるべきですが、どこまで考えるかは、精神衛生の問題になります。
 
また、自分の思考にとどまる限り、介入とは言えず、他人を変えようとするつもりは、ないということです。自分のために、心の健康を害さない範囲で、他人のことを気にするのです。
 
考えても仕方がない、言っても無駄だ、ということなら、無視するか、公共において批判するかしかありません。そこまで、確かめたほうがいいと思います。簡単に決めてはいけないことです。
 
もし、少しは言いたいこともあるということなら、言った段階で、相手を変えてやろうという介入というより、相手に自分の意見を述べるだけだから、関わりと言うべきでしょう。ブログ主は、”介入”という印象の悪い言葉を使って強く否定したいようです。
 
自分の課題と他人の課題を区別して、自分の課題の範囲と他人の課題の範囲の分離が必要となります。
 
上の他者のこと総てを安易に自分の外に置いてしまうことで、ぞんざいで荒っぽい不都合の無視という分離?が生まれてくるでしょう。そして、豪語と断定に走るようになります。
 
課題をどの範囲で分離していくのかが難しいところですが、あなたの嫌がることを言ってきたり、やってくる人に対しては、下記のような分離が実践しやすいと思われます。
 
苦言が、のちに、金言となることもあるでしょう。嫌がること、というだけで判断してよいのでしょうか。その前に、考える、考えるために保留しておく、ということが必要な場合もあるでしょう。
 
他者の言うことには、あまり快感物質は含まれていないことが多いです。他者が言うときの確信と高慢の度合いにもよります。私は、他者を、解決するまで気にしなさい、と言っているわけではありません。
 
というのは、高慢な者に高慢な態度で、青二才の頃の私が、あるとき唐突に、進路について「○○には向かないと思うね、うん」という言い方をされたことがあります。オマエがオレの何を知ってる?・・と思い、ふるえ上がって、物が言えなくなりました。
 
また、私の進路を閉ざすために、「向かない。ひらめきとしてね」と言った人がいます。ひらめきで、人間を扱われてはたまりません。
 
そうして、無視するべきことを無視できずにいると、トラウマになるという経験があります。今でも、思い出すと、心が、恐怖に震えます。残念ながら無視することはできません。記憶から消えないからです。
 
しかし、この記憶の対処・処理・心の整理については、今も考えることが多いです。ということは、このことで、考えを広げることも出来るということです。
 
大事なのは、無視して、なかったことにすることではなく、いかに、対象化して、その影響を防ぎ、一つの資料のように、考えられるようにするか、ということなのです。
 
「他人が自分に何をしてこようと、何を言ってこようと、それをどう思うのかは自分の課題。止めさせようとする努力は自分の課題としてできるが、止めるかどうかは他人の課題」
 
つまり、ブログ主は「止めさせようとする努力は自分の課題」と自分で言っているのです。何か言い返したり、誰かに相談することは、「課題の分離」には反しないということです。
 
自分の精神の安定を脅かすほどに、心がつぶされたように、何も言えなくなったと思ったら、唖然としたら、ともかく、逃げましょう。
 
課題の分離の行き過ぎは、多く、自分の課題とするかどうかについて、常習的に自分の快楽原則の都合で選んでいることによって起こってきます。そうやって、取捨選択された課題は、自分の快楽課題に過ぎません。快楽だけで生きようとすることは、常識的に、否定されるべきでしょう。
 
こうした分離をすれば、嫌がらせを止めさせる努力をすることはできるが、最終的に自分への嫌がらせを止めるかどうかは他人が決めることなんだと、自分のできること、できないことを区別することができます。
 
本当に嫌がらせなのかをどうやって確認するのか、厳しいこと言われたら嫌がらせだと短絡するようにならないかどうか、といったことについて、リスク回避の対策がなされていないと思います。
 
もちろん、なんとかしなきゃ、なんとか言わなきゃ、どうしたら言われなくなるだろう、という焦りを防ぐことは大切です。焦りは、心を乱すだけになるからです。人の気持ちは、複雑なものがありますから、自分の都合だけで、安易に決めつけてはいけないということです。
 
できる範囲で、嫌がらせを止めさせる努力をしても、どうにもならないのなら、無理して分かり合おうとせずに、嫌がらせをしてくる人の無視を決め込むか、その人のいる場所から離れるのが賢明だと思います。
 
嫌がらせかどうかを、最初の一言や、その相手に対する先入観で、早計に決めてはいけないと思います。相手が言葉と言い方に何を込めているかによります。繰り返されるかどうか、常習であるかも、確かめましょう。
 
しかし、その時の、自分の判断ですから、相手の言葉に自分が感じた嫌悪感が耐えがたいほど大きければ、今後、しばしば、その言葉のたぐいに接することからは、逃げたほうがよい、という一応の判断はできるでしょう。
 
>分かり合えない人間は、残念ながら存在します。<
 
是としますが、出会って言葉を一言交わして、不快だから、などという早計な決めつけではなく、ある程度、常態として同じ不快が続くかどうか・・くらいは見るべきでしょう。数か月、遣り取りをして、人間とは思えなくなった自己愛性人格障害者を、現在、批判しています。
 
絶対に分かり合えないとまでは言いませんが、あなたから分かり合おうとしても、相手に分かり合おうとする意向が無いのなら自分の膨大な時間と労力を費やして振り回されただけの結果に終わってしまう可能性もあります。
振り回されず、どうにもならないなら関わりを断つようにしましょう。
 
相手に分かり合おうとする気持ちがなく、自己愛が強い人などがそうですが、そういう場合は、そう分かったというより、はっきり感じた時点で、問い詰め追い詰める自信がなければ、関わらないことが唯一の選択でしょう。
 
自己愛性パーソナリティ障害の病的ナルシシストや、サイコパス精神病質と言われる人格は、変わりようがなく、罪悪感もなく、反省もしないので、批判するのでなければ逃げるしかないのです。
 
昔、聞いた話ですが、ある良心的な精神病院の関係者が言ったことですが、精神病質者が入院してきたときには、先ず、多勢で取り囲んで、ボコボコにするのだそうです。そういう人は口で説得しても意味がなく、逆らうことは無駄であるということを体に覚えさせる、ということだそうです。
 
これは、ただの人間関係の悪化ではなく、極端な人格異常の場合です。しかも、昔の話に過ぎないので、そういうどうしようもない異常な人は、少ないがいる、ということを言いたいだけです。
 
あまり熱心に分かり合おうとあなたから一方的に努力をしてしまうと、むしろその努力は仇となってしまい、あなたが他人の課題に介入しようとしていることになって相手を逆上させてしまう可能性があります。
 
相手を逆上させてしまう、と言っていますが、つまり、相手のことを気にしているわけです。また、意見を言うことは当然であり、介入ではありません。介入するような暇は、ふつう、ないということです。
 
介入と言わなくても、他者を考えないで生きることは不可能でしょう。他者を思いやるとき、他者の課題を考えることもあるわけです。自分の課題と他人の課題、そんなに、はっきり分けられるものでしょうか。
 
上については、そこまで努力する人は、よほど奉仕の精神に溢れた人で、あるいは、自分は人間関係がちゃんとしているはず・・と強迫的に思い込んでいる人でしょうか。
 
なんとか関係を修復しようと、焦って、機嫌を取ったり、故意に丁寧で優しい言葉を選んで使ったりする人もいるでしょうから、そこで、的を外れてゆくのでしょう。
 
相手を変えようとする言動は、しばしば、こちらが自己中になっていることが多いです。そして、その結果は、特に精神面の、健康を害することが多いと思います。しかも相手は変わらない、つまり、無益なことが多いのです。
 
課題の問題ではなく、精神衛生の問題だということを、私は、広く伝えて、注意喚起を促す、または、警鐘を鳴らす、ということを目的として書いています。自己愛性人格障害者に、批判する以外で、関わってはいけないと思います。
 
また、あなたが自分の課題に加えて他人の課題を背負って余計に悩み苦しむだけになってしまう危険性があります。
 
むしろ、他人のことを考えるか否かを考えるているあいだ、それは自分の課題になっていますから、他人のことを自分の課題にして気にし過ぎる、捨てられない、ということでしょう。つまり、一般的に、背負えない課題を背負ってしまうと苦しみが付いて回ります。
 
上記の課題の分離方法について、良く頂く反論が下記となります。
「そんなこと言ったら、お前の課題だからって言いたい放題、やりたい放題されても仕方ないってことか!?」
そんな訳ありませんよ。
そんな考え方をして他人を傷付けるような人と前述の対処と同じように関わらない方がいいと割り切った方がいいのだと思います。
 
そんな訳ないと、言葉だけで言っても、歯切れよく、断定的に、そんなふうに受け取ってしまうような書き方をしているのです。受け取る側の課題でしょうか、むしろ、受け取らせる側の責任という課題でしょう。
 
一方で、相手にしないことは、いずれ、相手も分かるでしょうから、無視は、無視した相手を傷つけます。課題の分離の出来ない相手が、どう出るか、嫌がらせや暴力に発展しないか、これは相手の課題だからと、安心していられない場合もあります。
 
人と人は反応し合って生きています。「課題の分離」という高尚な言葉を使わなくても、相手によっては、結局、逃げるしかない場合があるでしょう。
 
しかし、課題の分離を、いつも使って、不都合を無視している者もいるので、そういう者を批判するためには、相手に読ませることではなく、広く一般に情報を伝えるという方向を、自分の課題とするほうがよいと思います。
 
「あなたが嫌い」、「あなたを傷付けたい」という目的を持つ人は理屈が通じる相手ではありませんので、そもそも関わらないようにする努力が必要となります。
 
理屈が通じなくても、なんで、こんなことをするんだ、とか、こちらの被害を見せることで、気づく人がいることも忘れないようにしてください。冷たい心の持ち主にならないために。
 
自己愛性人格障害の人というのは、理屈も通じず、また共感も成り立たない人です。見分けることは、とても大事です。そういう人は、高い位置を占めると、とても偽善的な社会悪に結び付くと思います。
 
自分の課題に加えて、他人の課題まで背負って生きることはできないのです。
自分の人生を生きながら、他人の人生まで生きてはいけない。
 
ですから、注意点として、個人が、きっぱり、どちらの課題かを、早期に、会って言葉を交わしたときに、その時その場で、見分けることが、いつも直ぐにできるとは限らないのです。
 
そこに至るまでの、思慮を養う必要があります。でないと、好きなように使って、アドラーの名を付けて、心理学の名を付けて、自己のために利用するようになってしまうでしょう。
 
逆に、自分が、いけ好かない人と思われ、アドラー教で言われている「関わらない」対象の人格が当てはまったりすることのないように祈っています。
 
いちばん気持ちのよさそうなところに、アドラー教の言葉があり、曲解する者が飛びつけば、それは、とても気持ちの良い、また、都合の良い言葉として、恣意的に使われる可能性があります。
 
その先には、無反省で無責任の自己中人間の人格破壊が待っていると思います。蔓延させてはいけないのです。その実例を、約3年間、批判しています。彼は、ブログで、アドラー心理学を宣伝していました。
 
 
煽り、刷り込み

煽り、刷り込み
 
 
(2019年10月31日)
(2020年11月13日、一部修正再録)
(2021年11月27日、再録+)
 
 
 
  祈り・矛盾
 
主よ
あなたが主であることを知っています
あなたが主であることを教えてください
主よ
あなた以外に私に主はいません
あなた以外に主がいないことを教えてください
主よ
導いてください
お赦しください
この矛盾律の中で祈っている私を
この罪びとをお赦しください
 
 
 
 罪と赦し
  信仰という立場から考えてみます。
 
Aという人がBという人に、罪を犯したとします。Aは罪を悔いBに謝り赦しを乞います。BはAに言います。「Aよ、私はあなたを赦す」。この場合Bの記憶の中にAについて何が残るでしょう。「Aは罪を犯さなかった」「Aは罪のない人」ではないはずです。
 
つまり「Aは罪を犯したが罰することをしなかった」という記憶のはずです。つまり「赦す」とは「罪をなくす、消す」ということではなく「罪を罰しない」ということになる。しかもそれは罪を犯した者が罪を知り悔いているから起こりうることなのです。
 
これは、基本的な言葉の理解の問題です。「罪が赦される」とは「罪が消える」ということではないのです。赦されても、地上を生きるあいだ、私たち人間は罪人です。神に対しても、やはり、上と同様に考えるべきでしょう。
 
ただ、信仰者の立場で考えるならば、神様は、人が自らの罪のために本当に苦しんでいるならば、これを憐れみ、罪を罰しないだけでなく、さらに、慰めを与え正しく生き続けるように、願い、勧め、導かれるでしょう。
 
 許す(ゆるす) ≒ 許可
 赦す(ゆるす) ≒ 赦免
 
実際に神様がどう考えておられるかは分かりません。人の知恵では神の知恵は計り難いからです。神の立場で考える愚は避けたいものです。地上の霊長として、人は、人の知性と感性によって、神の意志を推測するだけです。
 
例えば、神は全能であるから罪を消し罪を忘れることもできる、というのは神の全能についての詭弁です。忘れることと覚えていることと、どちらが能力であるか常識で考えれば明らかです。神の全知は、全てを常に知っておられると考えるべきです。
 
人が知りもしない神の知恵と立場で考えようとすることは実に虚しいことだと思います。人は考える動物ですから人が神について考えるのは自由だけれども、あくまで、聖書から、人の知恵で推測しているに過ぎないということを弁えるべきだと思うのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 (1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
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  アドラー教2
 
   アドラー心理学サロン(アドサロ)‏ @AdlerSalon
  (2019年09月28日頃でした
   今は、あるのかどうかも分からないです。)
    に関連して、楽山を批判。
 
 
アドラー教は、言葉を暴走させるのが好きで、それを欠点とは思っていない、ということが明らかになっています。楽山は、アドラー教の宣伝者でした。
 
人の噂話ばかりしているあなた、
そんなことしていないで自分の
人生を頑張ったらどうですか?
 
当たり前のことを言っています。
こういうところからカルトの誘導は始まります。
 
他人ネタでしか楽しめない人は
自分の人生に退屈している
他人の詮索をしてはあること無いこと
話をしたところであなたの人生は変わらない
 
まさに、楽山が、そうです。人のことばかり言いますが、評論家気取りだけで、自分を改善しようとは全く思っていません。ゆえに、何の役にも糧(かて)にも助けにもなりません。
 
楽しめず、退屈する人は、他人の詮索をするのでしょうか。楽山が、そうです。
 
それは、人生を変えるためでしょうか。楽山は、違います。何も変わりません。
 
他者の話から学ぶこともあります。
他者の話は、あること無いことと言っていますが、
あることを拾う作業が嫌なのでしょうか。
 
楽山は、他者の話を、何も受け取らず、無視して、言いたいことを言います。
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だからです。
 
他者の話で注意して心がけるべきは
他者が自己中心に言っていることは自分のためにならないこと、
他者が悪意を持っているときは聞かないことです。
 
他者の人生に向かって、よくもここまで端折って言ってくるものです。
先ず、この人が、歯切れのよさそうな言葉と、疑問への叱責と、
余計なお世話の数々を、やめるべきだと思います。
 
そんな暇に自分の人生を良くする
努力をした方が100倍は有意義
 
人生をよくする努力は大切ですから
人生を詭弁で悪くしそうな説教を見逃すことはできません。
少なくとも批判的に見る眼を持ち
批判する努力をするべきなのです。
 
人はそれぞれの世界を生きて
それぞれの幸せをつかむ
 
当たり前のことを言っています。飾り言葉です。
 
この、人それぞれ、という言葉を、楽山は、自己中の正当化に使います。
 
どんな仕事をしていようと
どんなことを好んでいようと
それは他人には関係は無いし
勝手に優劣を付けてはいけない
 
関係ない、というのは、ひどい言い過ぎですね。
否応なく、他人が関わったり、
他人に影響したりすることはあるでしょう。
 
多くの仕事や作業は他人に関係しています。
優劣云々とは別のことです。
何を吹き込むつもりなのでしょう。
 
人が人の価値を決める道理も
見下す道理も無い
自分の人生が上手くいかない
憂さ晴らしの為に他人に八つ当たり
してはいけない
 
当たり前のことです。飾り言葉です。
 
他者への必要な批判までも憂さ晴らしと言っている場合は、不当です。
 
あなたを傷付けるようなことを
言ったり、やってくる人は臆病者
他人の欠点を見つけ出そうとしたり
人を悲しませたりする人は前向きに
努力できない
そのくせ自分の弱さを悟られない
ように他人を見下して「自分は強い」
と錯覚している
 
そう言っている人は、恐らく、弱みを見せたことはないと推測します。
我が身を振り返らずに人をミソクソに言うのは偽善者です。
 
その人の中では、
臆病者、悲しませる、努力できない、
こういう人は価値が無いと言っているのでしょうか。
「自分は強い」と錯覚しているのは、誰でしょう。
 
幸せに生きる人はあら探しをしたり
人を傷付けたりはしません
 
おかしいですね。
彼の言う、幸せに生きる人、というのは
アドラー教徒のことでしょうけれど、
人を傷つける要素満載です。
 
それを気にするなと言うのが嫌われる勇気なのでしょうが、
嫌われるだけではなく、傷つけることになるでしょう。
その結果、誰とも、良い関係を結べなくなるでしょう。
 
食わず嫌いは損をしてます
食べ物に限らず人でもどんな事
にも共通することですが何となく
「〜嫌い!」は損です
よく知りもしないことを理解しよう
ともしないでそれを避けることは
自分の可能性閉ざしているだけ
苦手だと思っていたけれど実は
美味しかったり良い人だったり
することはかなり多い
 
だから、最初に、アドラー教のように、
気に入らないからと無視すると、
美味を見逃してしまうことになります。
 
どんな人生を送ってもいい
自分の人生は自分だけのもの
あなたが好きなように生きて
幸せならばそれが正解なのです
 
当たり前のようですが、
好きなように生きて幸せならば正解と言えば、
何をしても自分が幸せなら正解でしょうか。
犯罪者が聞いたら大喜びでしょう。
またアドラー教徒なら、もちろん喜ぶでしょうね。
こういう不備が、あちこちにあるのがアドラー教です。
 
人生は一度きりであり正しい人生
の定義は人それぞれ
多くの人達が世間の常識に合わせて
いますがそういう人で幸せに生きて
いる人は少ない
正解はあなたの気持ち一つ
でしかない
 
正解は個人の気持ち一つと言っていますが、
一般に個人を制御する道徳や社会正義や法を無視してよいのでしょうか。
 
発言の加減を弁えない人のようです。
こういうことを、すぱっと公開してしまうところに
ゆるゆるの自己制御不足を感じます。
 
人は自分に都合のいい理解しかしない
人間は正確な理解をしようとする
のではなくもっともらしいことを
盲信しないと生きてはいけない
 
言いすぎでしょう。
どこまで、人を画一的に決めつけるのでしょう。
 
言論が苦手の人なのでしょうか。
 
人は「理解できないこと」を恐れている
全てを自分の理解できるものに
捏造して自分を守っている
 
楽山のような一部の自己愛性パーソナリティ障害者や
カルトについては言えることですが
 
誰よりも、この作者が、
煽って叫んでいるような決めつけです。カルトらしい。
格言的に決めつけないと気が済まないのでしょうか。
 
他人が何を思い、何をするのかは
あなたが決める課題ではない
 
自分と他者が、ときに、影響し合うことを
完全に排除するならば、自己中にしかなりません。
 
人は他人のことになると好き放題言ってくる生き物です。
言いたいだけ言わせておいてあげましょう。
他人の批判に忙しい人は
他人を批判することで自分の価値を高めようとする
それしか無くて自分の人生が空っぽなのです。
 
これは批判に対する反論として理路がないですから、
しかも、拒否と否定しか書いていないから、
人生空っぽなどと言うのは、罵詈雑言の悪口になります。
 
批判は、間違っているところを指摘することで
必ずしも悪口ではありません。
また、批判の全てが悪口でもありません。
 
こういう記事のようなことを書くのは、
間違いを指摘されても無視する人で、
その結果、嫌がらせの悪口しか返せなくなるのです。
 
嫌われる勇気とアドラー教は言っていますが、嫌われていいのでしょうか。
嫌った人々からは機会が与えられなくなるでしょうけど、それでいいのでしょうか。
 
私は、嫌われないように、おべっかを使えと言っているわけではないのです。
嫌われてもしょうがない相手はいます。そういう人には、礼儀がどうのと言っていては、こちらが煙に巻かれているうちに失うものが多くなるばかりです。
 
そういう人に対してだけは、いくら嫌われても構わない、という意志を持って対峙するべきです。こちらも、相当のことを言ってきたのは、読んできた人はご存知だと思います。
 
しかしそれは特殊な個別の場合です。"嫌われる勇気"などと一括して勧めることは決してできないと言いたいのです。
 
自分のことで忙しいあなたには
そんな人に構ってあげる時間なんか無い
 
こうなると、殆ど、利己主義の勧めでしょう。
忠告や批判や議論を拒否するときの台詞です。
 
今日も言葉が暴走しているのがアドラー教です。
 
全否定と部分否定など、理路全般に、日本語による文書作成が未熟で、
こう書いたら、誤解されてしまうのではないか、という自省が、まるで働かない人がいるようです。
 
アドラー心理学は、語られ広められているほど、単純ではないような気がします。日常の言葉で書かれたところが、常識的に、おかしいから、そういう指摘をしても、ちゃんと読んでから言えみたいな、反論ではなく、貶めだけを書いてくる人たちのようです。
 
 
以前、こういうアドラー心理学の宣伝をしていたのが、楽山です。楽山の、言うには言うが、無反省、無責任、他者無視、単方向、自己中、という点が、アドラー教の特徴と一致しています。
 
今回の私の記事は、アドラー教を批判していますが、その宣伝をしていた楽山を改めて批判することが主目的です。両者は、口調は違いますが、中身が、とても、よく似ています。
 
"気に入らないことは無視しましょう" というアドラー教の教えを、そのまま実践して、おぞましい無責任男になっているのが、楽山なのです。
 
 
気に入らないことや不都合は無視

気に入らないことや不都合は無視
 
 
(2019年09月28日、同日一部修正)
(2021年10月09日、再録+) 
 
 
 
キーワード:無視
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
 
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
  夜景
 
夜の街に集う幾千幾万の人影を
完璧に無視できる距離において
街の灯を愛でる人影は佇つ
 
(※ 佇つ(たつ、(まつ))
 
 
  あなたはいつも傍に
 
あなたはいつも傍にいる
 
今にも刃物で胸を突き
切り裂こうとする人の、
 
仮面の裏の口を潰しながら
燃えて突き上げる殺意を育む人の、
 
不眠不休で残務に追われながら
追いかけてくる札束に轢かれる人の、
 
死の床の痛みが撥ねて
繰り返す吃逆の
不眠の胸郭を呪うしかない人の、
 
肩を組む千鳥足の、
肩を抱く独りぼっちの、
 
あなたはいつも傍にいる
 
傍には距離はないのだろうか
それとも永遠の距離だろうか
 
いつも一緒にいながら
ついに認め合うことのない者たちの独りに
 
どこにいても
あなたはいつも傍にいる
無視されながら殺されながら
なおもあなたのやさしさは
傍にいることでしかないかのように
 
 
※ 吃逆(きつぎゃく、(しゃっくり))
 
 
 
 
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  楽山の独裁
 
 
 「自由の意味」田中美知太郎著
 2021年03月18日 楽山日記(LD)批判
 
 
楽山が、本を読んだと言っても「メモしておきたい」と書いているように、都合のよい文言を拾ってくるだけですから、読書になっていないと思います。聖書において顕著であります。
 
*自由の定義
『人間であること』に収録されている「自由の意味」を読んだので、その内容をメモしておきたい。
まず著者は、自由について次にように定義している。
「自由」とは何か。これをいろいろなふうに定義しますけれども、最もそのものずばりで言うと、自由というのは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ということでしょう。
(『人間であること』「自由の意味」、田中美知太郎著、文藝春秋、昭和59年、p.120)
 」
著者によれば、これはプラトンの「国家」第八巻による定義とのことである。
 
(ネットより)
田中 美知太郎(たなか みちたろう、1902年(明治35年)1月1日[2] - 1985年(昭和60年)12月18日[2])は、日本の哲学者、西洋古典学者。京都大学名誉教授。文学博士(1950年)。
 
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」というのは、このままでは、自己中心と区別しにくくなります。
 
つまり、自由が成り立つのは、責任ある大人としての弁えが出来ている人の場合です。それが前提なので、無責任な楽山には当てはまりません。楽山の引用自体が、自分をまともに見せたいがための詭弁でしょう。
 
*現実
 次に著者は、自由とは「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ことであるが、現実には「自由社会」といえども、皆がそのような自由を行使できるわけではないとしている。
つまり現実としてわれわれは、決して自由ではないし、自由ではありえない。これをはっきりと認め、そして今日の社会というものを考えなければならないわけです。
(同上、p.123)
 」
自由は何でも好きにできることではあるが、現実としてそれは不可能であるから、自由はある程度は規制、制限されることになるというのは当たり前のことではある。
 
「言いたいことを言い、したいことをすることができる」という自由が、現実として不可能と言いながら、責任とか義務とかに言及しないのが、狡猾な楽山の詭弁です。ひどいものです。
 
まるで、現実がそうさせていると言っているようです。つまり、自分の責任を書かないのも、自己中の楽山の特徴なのです。読書したふりで、分かっているふうに書いているぶん作為が際立ってきます。
 
*自由の基本的な意味
著者によれば、古代ギリシアにおいて、自由の基本的な意味は二つあり、一つは国家の独立であるという。当時、外国から侵略、支配されるということは、殺されるか、奴隷にされることであったので、自由のためにはまず国家主権の確保が条件であったというのである。
もう一つは独裁の排除であるという。独裁政治の下では自由はあり得ないというのは容易に理解できることではある。
本講演がなされた当時は、国家は自由を圧迫する悪役とされていただろうことからすると、自由の守護者としての国家を語るには相当な困難があったろうと想像する。
 
哲学者の名を出して、偉そうに書いてくる楽山の、中身が詭弁という虚偽性には、うんざりします。
 
ここで、国家の独立を持ち出して、話を複雑にしてきました。人の自由がテーマではないのでしょうか。「言いたいことを言い、したいことをすることができる」ではないのでしょうか。楽山は、個人として独立していないのに、どうして、国家の独立を語れるというのでしょう。
 
*「公的な自由」と「個人的な自由」
著者は、上の二つの条件…他国及び独裁からの解放を公的な自由とし、「言いたいことを言い、したいことをすること」を個人的な自由と分類しつつ、両者については前者があってこそ後者は可能となるとしている。
これは分かりきったことのようにも思えるが、上と同じく当時の政治状況を意識した発言なのだろう。
 
楽山は、個人としての責任を負う気がないのだから、公的な責任など負えません。つまり、書いたものを公開するということも出来ない、してはならない、ということが分かります。
 
楽山は、書いたものを、いかがでしょう、という姿勢で問い、意見や批判・批評を受け取って、成長の糧とすることが全くできない人です。
 
*自由社会と人の本性(独裁政治を生む危険性)
著者は本講演の最後に、自由社会から独裁が生まれる過程について書いている。その理屈はこういうことらしい。
まず社会全体に自由が行き渡ると、あれもよい、これもよいとされ、「どんな人の生活もそれぞれを平等に同じ価値のものとして認め」ることとなり、これは「どっちにしたところで大した代わりはない、どっちでもいい」という考え方に行き着くことになる。
 
何を、他人事のように言っているのでしょう。自由には責任が伴う、ということを、まるで無視した楽山の、都合のよいところだけ拾って書いてくる自己中の病質的な解釈が表れています。楽山の言は、何の参考にもなりえないのです。書いてくる我執だけが臭気となって流れるだけです。
 
またしても、人それぞれ、というのが出てきます。今までも、ここでも、ずっと、楽山の、人それぞれだから、勝手にしていいじゃろ・・という無反省・無責任な欲望だけが表れてくるのです。このような繰り言は、もはや、ボケ老人にも似てきます。
 
このように、こうでなければならないという社会的な規範による圧力が弱まり、それぞれがそれぞれの自由にしてよいということになれば、外圧による善ではなく、自発的な善をなすことが可能となり、「本当の善人」が生まれることになる。
 
そうして、楽山は、「本当の善人」どころか、自発的な悪と偽善を、ほしいままに為してきたのです。勝手放題では人間関係も社会も成り立たなくなるので、自発的に責任を負わない者には、永遠に自由を許してはいけません。
 
自由には責任が伴う、という、小学校レベルの道徳を、楽山は、理解できないようです。
 
しかしその一方で、これとは「正反対の非常に悪い人間」も出現することになる。「最悪の人間のほうが、あらゆる制約が捨てられると、むしろたくさん生まれてくる」ともいえる。「人間的に下等な欲望に訴えるという形で権力をねらう最悪な人間が出て、政治的指導者になる」恐れもある、というのである。
 
実際、歴史においては、そのような最悪が実現されてきたわけです。そして、ネットでは、楽山という自己愛性人格障害の偽善者が、教えを垂れるふうに書いてきて公害となっています。
 
これは一つの理屈にすぎないのではあるが、歴史を振り返れば、民主政治の中から独裁が生まれるというのはあり得ない話ではないのだから、注意は必要だろうとは思う。
 
理屈ではなく、ネットでは、現に、楽山が、恣意的に実行してきた自己中のことなのです。今、注意が必要なのは、楽山に対してです。今、排除するべきは、言論の責任を負わない楽山であります。楽山は、未だに、自由と責任というものを理解しようともしないのです。
 
楽山は、まさに、病質の怖さを見せています。ゆえに、「注意は必要だろうとは思う」という、安易で鈍い当たり前のことしか言えないのでしょう。
 
*いろいろな考え方
自由については、政治、宗教、哲学、語源など、さまざまな方面からの考察があるが、本講演の場合は古代ギリシアの考え方を基礎にして語られており、非常に興味深いものがある。ひきつづき自由とな何であるのか、過去にどんなことが語られていたのか、調べてゆきたいと思う。
 
楽山には、興味深いのでしょうか。わざわざ、偽善を斬り損なっている文章の部分を引用してきたのです。楽山は、ただ、曖昧な言葉に、食らいつき、縋りついているだけなのです。
 
自由とはなんであるのか、恣意的に書いて、好きなように曲げて、本当の自由を邪魔している楽山に分かることはないと思います。
 
このように、本を読んだことにして、また読んでいこうという姿勢を書いて終わりです。何も、糧となることを書けないのが、楽山という病質者です。「非常に興味深いものがある」・・このような、ボンヤリ言語の曖昧言葉で、楽山は、嫌がらせのように、執拗に、また書くぞ、と言っています。
 
自室のPCの前だけの独裁国家を謳歌しているのでしょうか。中身のない楽山の繰り言であります。
 
楽山の自由は、誰にとっての自由とも相容れない独裁的な自己中であり、平たく言えば、身勝手な自己愛性パーソナリティ障害の症状だと判断しています。
 
自己中は、自由とは違う。自己中は、他者の自由を阻害し、かき乱す。こういう、徒労と疲労だけを与えるような輩の、人格破壊的な害を知らせるために批判記事を書いています。
 
楽山が、執拗に発信だけを続けること自体が、今までのことを踏まえるということが病的体質のために出来ないという症状なのです。
 
詭弁ばかり書いてくる楽山の理解力は、結局、小学生以下だと思います。楽山は、自由を乱す自己虫に過ぎなくなっています。
 
このような判断は強化されてきました。楽山が、今まで、嫌らしい詭弁と誘導を書いてくるだけだったからです。楽山は、言論の妨害者です。
 
 
自己中は自由とは違う

自己中は自由とは違う
 
 
(2021年03月19日)
 
 
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  楽山の醜態加速(2)
 
 信仰と経験
 (『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』スティーヴン・キング著)
 2021年02月12日 楽山日記(LD)
 
 
もう一度、楽山の記事を取り上げます。楽山が引用した小説の台詞のようですが、
 
神のおぼしめしとはとってもすてきな考えだ。自分が無傷でいるかぎり、それは信じられる。
(「ハーマン・ウォークはいまだ健在」『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』〈文春文庫〉ス
ティーヴン・キング著、風間賢二訳、文藝春秋、2020年、p.40)
 」
 
この台詞は、結局、自分を無傷で守ってくれるなら神を信じてもいいぞ、傷を負うたら信じるもんか、という皮肉の意味に取れるだろうと思います。これは、楽山が言ってたのと同じような、宗教への、ありふれた、いちゃもんです。そのような個人に都合のよい条件を付けられて働く神は、どれだけ思い込み信じ込んでも、どこにもいません。
 
しかしながら、楽山は、「人の思考や感情は経験の影響を受けるもの」「信仰は環境や経験に先立つものではなく、その影響下にある」という解釈で話をしています。偉そうな書き方ですが、どうつながっているのか、理解不能な解釈です。環境や経験の影響が表れているなら、それを引用し書くべきところです。
 
楽山は、無反省・無責任のために、理路を学べていないので、自己中心にしか話や記事を勧めることができない、意味不明の理路不全の文章しか書けない人なのです。にもかかわらず、言い張りの執拗さだけが、いつまでも続いています。振り回されないように、ご注意願います。
 
おかしな楽山が、気づくことなく、気づかれることなく、人の心を、狂わせ、おかしくしてゆく文章を書いているとしか思えません。鎧(よろい)のつもりで、まともに見せかける言葉を書いた馬糞紙(ばふんし)を、自らにペタペタ貼り付けるしかない楽山。
 
(ネットより)馬糞紙:
麦藁(わら)などを原料とした質の悪い厚紙のこと。馬糞紙というのは外観からの連想による名前で、一般にはボール紙とよばれ、板紙として紙箱や書物の表紙の材料とされる。
 
何も産みださない無産業ロボットが、楽山だと思います。生産性が、積極性が、共感性が、切実さが、説得力が、何もないと思います。楽山の文章は、こういう熟語や言葉を言っておけば、ちょうどいいじゃろ・・という気安さだけで書かれているようです。
 
文章が苦手でも、経験から、これだけは言っておきたいという文章には、それなりの説得力があるものですが、楽山の文章には、説得力の欠片も無いのです。作為だけで、立派そうに見せかけて通念的な言葉を並べるだけだからでしょう。
 
楽山の宗教観は、キリスト信仰を、社会通念におとしめます。そして、そこで、神を信じ過ぎないのが、真っ当な信仰で、信じ過ぎるとカルトになるという、きわめて単純な見方を示してきました。
 
そういうのがキリスト信仰なら、私は、キリスト教を信じることさえ、キリスト教に関わることさえ、なかっただろうと思います。
 
いい加減であることを理想みたいに語る楽山は、一度も、神、信仰、人生について、洞察といえるほど何かはっとさせるような、深い見方を表したことがありません。
 
楽山は、そういう深い見方を、もともと何も持っていないからです。約2年半にわたって、何も、受け取って実になるようなものがありません。
 
つまり、楽山は、いい加減であることが大好きなのでしょう。いい加減さにおいてだけ、楽山は、徹底しています。そして、それは、楽山において、人の意見を無視することから生まれてきます。
 
そのように、信仰を台無しにして、では楽山が、何か人を救えるようなものを提示したかというと、通念的な道徳だけであって、聞かなくても知っているようなことばかりなのです。深みがない人というのは、自分を信用する他者の深みを奪って、均された平坦な人間に変えてゆきます。
 
そして、そこに、つまり他者の心に、楽山の好きなように、楽山の隠し持っている偏向した思想、恐らく右翼的な思想と命令系統を、植え付けてゆきたいのかもしれません。これは、他でもない、非人間的な、ホラーなのです。
 
楽山は、今までに、2度以上、過激な右翼思想家を支持する記事を書いたことがあります。つまり、楽山は、柔和な人どころか、訂正不能の偏屈であり、詭弁によって、じわじわ危険思想を刷り込む洗脳者・煽動家ではないかと思っています。
 
主張するのは人間の言動だが、植え付け刷り込むのは非人間の謀略である。楽山は後者です。
 
 
ちなみに、自己愛が強く、他者を省みない、無反省・無責任でしかない、・・そういう人が就く職業は何かと考えた場合に、一つ思い浮かぶのは、占い師です。そういう全能気取りのナルシストで、市井のインチキ占い師でもやっているのか、と思える人もいたということを付け加えておきます。
 
 
shuutai醜態

醜態2
 
 
(2021年02月14日)
 
 
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  楽山の自慰
 
 ヨブ記とスティーヴン・キング
 (『マイル81 わるい夢たちのバザールI』)
 2021年02月11日 楽山日記(LD)
 
 
楽山からの、本の言葉面だけを使っての、飽くなき、地獄への招待状、人間の腐敗への自慰行為のお誘いです。このようになってしまったら、どうしようもない、という、末路の虚無世界であります。こういうのに引っかかると、生産的思考は破壊されます。
 
*偶然
最近はまじめな本ばかり読んでいたので、たまには気晴らしにエンタメ小説でも読んでみようと思ってキングの短編集を開いたら、「ヨブ記」の話が出ていた。
 
真面目な本を、真面目に読んでいないのが、楽山です。楽山は、読めていないのに、読んだつもりになるのです。またしても、ヨブ記を、宗教を、茶化しに来ています。
 
楽山に関わって、与太話に付き合って、人生を無駄にしないでほしいと思います。
 
「ヨブが理由を知りたくなったとき、ミスター・アンダース、神はヨブにたずねた。おまえは、わたし――神――が宇宙を創造したとき、その場に居合わせたかどうか。おまえは返答するに値しないとみなされてるんだろう。じゃあ、中断されている問題をじっくり考えようか。で、どうする? ドアを選べ」
(「アフターライフ」『マイル81 わるい夢たちのバザールI』〈文春文庫〉スティーヴン・キング著、風間賢二・白石朗訳、文藝春秋、2020年、p.343)
 」
これは病気で死んだ主人公が、あの世の案内人らしき男と出会い、生まれ変わりの秘密…主人公は記憶を失ってはいるが過去に何度も今生と同じ人生を生きており、この後もまた生まれ変わって同じ人
 
このように、楽山の話は、いつも、現実離れした方向に吸い寄せられます。現実を見ないで済むような逃避をして、そこで、現実の生き方を求める宗教を語るので、いつも崩壊してゆく害毒なのです。
 
楽山は、現実を生きたくないのでしょう。あの世、生まれ変わり、などという話を宗教的だと思っているのでしょう。空想に遊ぶのが、楽山の宗教観ですから、生きる糧にならないのは必至であり、変わることなく、いつも、宗教と信仰の誤解と曲解を増幅してゆく定めなのです。
 
生を生きねばならぬこと…を告げられた場面である。
生まれ変わりにはいろいろな考え方はあるものの、同じ人生を何度も何度も繰り返さなくてはいけないとしたら、これはあまりに不条理であろうし、「なぜ? どうして?」と問わないではいられないだろうとは思う。
 
空想の話ですから、不条理は当たり前です。空想のお伽噺と、現実の信仰を、いつも混同して、重大であるかのように、人生を問うかのように、「あまりに不条理」「なぜ? どうして?」と問うても意味はありません。楽山と関わると、このような倒錯に誘導されて、現実を見失ってゆく誘導をネチネチ粘りつけられるので、危険なのです。
 
著者はこれと同じような話を、大長編の『ダークタワー』でも、短編の『例のあの感覚、フランス語でしか言えないあの感覚』でも使っていることからすると、相当お気に入りのアイディアなのだろう。
 
「お気に入りのアイデアなのだろう」と、楽山が、もっともらしく言っているのが、考えてもしょうがないような、空想のテーマであり、現実とのかかわりを求めても、断絶してゆく方向性しか持っていないので、まともぶって、人生を語るかのような書き方をするから、大迷惑なのです。
 
つまり、「同じ人生を何度も何度も繰り返さなくてはいけない」人のように、学習もなく、進歩も成長もなく、同じ堂々巡りを繰り返しているのが、楽山自身であります。真実の追求と、趣味の遊びを、全く区別できない楽山が表れています。
 
*義人の苦難
こちらでは、ヨブ記には直接言及してはいないものの、義人の苦難に関連した話が出ている。
ハラスは笑ったが、唇を単に動かしただけだった。「それはいささか考えが甘いね。弁護士さん。どうしてロニー・ギブスンみたいに角膜異常で生まれてくる赤ん坊がいるんだ。そして同じ病院でつぎに生まれてきた五十人はどうして正常なんだ、とたずねているようなもんだよ。あるいはどうして、文化生活を主導している優秀な人間が三十歳で脳腫瘍にかかったり、強制収容所のガス室の管理を手伝った怪物が百歳まで生き長らえたりするんだと、きいたほうがましだ。あんたは、なぜ悪いことが善人に起こるのかとたずねているんだったら、来る場所をまちがえたね」
(「悪ガキ」『マイル81 わるい夢たちのバザールI』〈文春文庫〉スティーヴン・キング著、風間賢二・白石朗訳、文藝春秋、2020年、p.217-218)
 」
 
何度言っても分からない楽山が、また、同じようなことを言って、いちゃもんをつけています。楽山の与太話は、不幸が起こるのは、なぜ起こるんだ、神のせいだ、というクレームだけを語って、ならばどう生きるのかについて何も語れないから、徒労と疲労の伝染にしかなりません。
 
楽山こそ、来る場所を間違え続けています。真実の追求の場においては、不幸に対処する意志こそが大事なのに、いつまでも、神のせいにして、"どうして?どうして?"ごっこに終始して、一歩も先へ進もうとしない精神肥満メタボ症候群でしかありません。
 
それに、楽山は、義人とは正反対の嘘つきの詭弁屋ですから、書いたことに、何の責任も負わないし、反省もしないのです。楽山の言うことを聞くことほど、著しく「来る場所をまちがえ」る人にだけはならないでください。
 
この物語では、これといって悪いことはしていないにもかかわらず、どこからともなく姿を現しては消え去る悪ガキ(何十年経っても年は取らず、子供の姿のまま)によって不幸のどん底に突き落とされ、破滅する男の一生が描かれているのだが、これは単なる荒唐無稽な話ではなく、上のようなテーマがあるのだろう。
 
「どこからともなく姿を現しては」責任を取らずに「消え去る悪ガキ」は、まさに、楽山を思わせますが、このような話は、興味本位の単なる荒唐無稽の話でしょう。
 
腐れ切った楽山の精神は、不幸の話を並べて、空想の話を並べて、他者の良心を腐らせてゆきます。楽山の友となることは、だまされるだけでなく、単なる裏切りに遭うだけではなく、永劫回帰ならぬ、永久堂々巡りへの詐欺的誘惑です。悪趣味というより、悪意による終わりのない地獄へのヌルヌル滑降であります。楽山独りが行けばよいのです。関わらないでください。
 
欧米の小説、映画、ドラマの背景にはキリスト教があるので、それらを理解するには聖書の知識が必要だというけれども、どうやらキング作品についてもその例外ではないようだ。
 
楽山は、あざ笑うように、また、キリスト教の名を出してきます。楽山は、キリスト教も信仰も、まるで理解していません。だから、ホラー話や空想話と、宗教・キリスト教・信仰を、同じ土俵に載せて、できない批判の代わりに、揶揄に変えて、終わりのない自慰行為にふけっているのです。
 
楽山の凶悪なるは、それを、公開して、嘘と詭弁で、誘惑し、誘導してくることです。楽山を相手にしないでください、決して関わらないでください、近づかないでください。無反省と無責任と無神経の怠慢思考ゆえの地獄には、楽山独りで行ってもらいましょう。
 
 
自慰の沼

自慰の沼
 
 
(2021年02月12日)
 
 
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