ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  アドラー教と楽山
 
 アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン‏
  への、私の批判記事「アドラー教について(14)」
  を加筆して再録。
 
 
楽山は、以前、盛んに、アドラー教の宣伝をしていました。そのことを、過ちだったと訂正したことはないと思います。楽山は、カルト的な完全自己中になっています。その関連で加筆しています。
 
個別の多様性を考えず、後先を考えずに豪語して、そのあと、折り合いをつけるための言い訳めいたことを言う。人間の言葉の不完全を思うならば、先ず、豪語を避けるべきなのですが。
 
【憎い人を忘れる7つの考え方】
1. 自分の為に許してやる
2. 過去は過去に置いてこれる
3. 悪い人だと早く知れて良かった
4. 嫌いなら、無理に関わる必要は無い
5. 憎い人のことを考えたら、相手の思うツボ
6. 他人と過去は変えられない
7. 好きな人を大切にする
 
憎い人と悪い人を、カルトと置き換えたほうがよいかもしれません。決めつけて、現在と未来を固定して、人の迷惑を考えなくなっている楽山と置き換えてもいいでしょう。
 
嫌われることを恐れていれば、あなたは永遠に幸せになれない
幸せになる為には、嫌われる勇気が必要です
嫌われることを恐れずに、ありのままの自分で生きるべきなのだ
嫌われないように、他人の顔色を伺って生きていては何も楽しめない
 
嫌われて平気でいて、仲間だけで褒め合うのもカルトの特徴です。楽山が、シャロームに無条件で同意することに表れています。これで幸せになれるのでしょうか。他者に、とんでもない徒労を与えるだけになっているのですが。
 
嫌われても、否定されても、何も気にしないようになったら、楽山のような、人間とは思えないような、人間の神経も精神も持っていないような存在になるでしょう。
 
自分よりも他人を優先して生きる為に、あなたは生きていない
 
このような発言が、自己中体質を促進するでしょう。楽山に至っては、他人より自分を優先するにとどまらず、他人を無視して自分の満悦と慢心だけを、むくむくと膨張させる人になっています。
 
未完成のままでいい
完璧なんて目指さなくていい
というより、完璧な状態なんて実現されません
もしあなたが完璧な状態を分かっているとすれば、それは空想の産物です
何でも揃って、何不自由しない状態なんてこの世に存在しない
いつだって、幸せは今この時にあり、やりたいことは今やるべきです
 
確かに、人間は、未完成だから成長が必要ですが、
この文脈が、アドラー教から出てくるのでしょうか。
幸福を保証するかのような断定と豪語を繰り返している中で。
 
完璧でなくていいという保証は、
失敗と批判に対する責任逃れの予防線ではないでしょうか。
 
他人は他人、自分は自分
他人が自分をどう思おうと、何を言ってこようと、そんなことはどうでもいい
 
どうでもいいのでしょうか。参考にしなくてもいいのでしょうか。人の言うことは、どうでもいいから聞かないよ、と言っている文脈になります。そうして、楽山は、人間性を失って、他人など、どうでもいい人になっています。その結果、楽山自身も、人間ではなくなっています。
 
そんなことを気にかけて、自分の気持ちに嘘を付いてはいけない
自分に嘘を付いて、やりたくもないことをやらされていると思いながら生きるなんてバカバカしい
自分で自分を制限しているだけです。
 
やりたいようにやれ、と言っているようなものです。楽山みたいに。
 
教えられたとおりに、やりたいようにやって、突き進んで、失敗したときの責任をだれがとるのか、という問題になるでしょう。一喝するだけでおさまらないときは、逃げる用意でもしているのか。
 
それとも、楽山のように、全く責任を感じない無反省・無責任・無神経な人になれと言っているのでしょうか。そして、誰にとっても、疲労だけを与える迷惑因子になっています。
 
人はあなたが思うほどに、あなたのことに興味を持っていません
あなたが勝手に馬鹿にされてるとか、変だと思われていると思い込んでいるだけです
みんな自分のことで精一杯なんです
 
他者の思惑に左右されてはいけない、他者に依存してはいけない、ということは、誰でも言うことです。しかし、今まで言ってきたことは、興味などという範囲ではないですね。
 
楽山は、他者の意見も思惑も忠告も批判も、無視して、人間を、やめているようです。
 
教えるならば、うまくいかないときの対処も教えることが必要です。人が伝えるいかなる教えも、薔薇の花園を約束するわけではありません。だから、謙虚になるわけですが、それが、アドラー教に見られるでしょうか。
 
楽山は、薔薇の花園にいるつもりなのでしょう。実際は、罵声を浴びせられ、糞便を投げつけられても仕方ない状況ですが。
 
人の噂を楽しむ人達は、あなたに興味があるのではなくネタを探しているだけ
そんな人達、相手にしてはいけません。
 
楽山みたいな人のことでしょうか。確かに、反省もせず、責任も負わず、ネタにして茶化して遊ぶだけの楽山のような人は、相手にしてはいけません。
 
あら探しなんかしてないで、良いところ探しをしましょう
どんな物事も、良いところを見ようとするのか、悪いところを見ようとするのかで意味が全く違う
あら探しをしてしまうのは、あなたの心が曇っているだけ
あなたが偏見を持たずに、良いところを見つけようとすれば、世界は幸せな場所に変わる。
 
良いところだけを探して、悪いところを無視するのは、悪を野放しにすることです。そうすれば、楽山のような自己中は、大助かりでしょう。しかし、その分、犠牲者が増えるのです。
 
まるで、ブログ主自身に対して、批判せずに良いところ探しをせよ、と言っているかのようです。
 
それが幸せというのは、文句を言われたくないカルトの特徴です。あら探しをするのではなく、思考を深く掘り下げることは、いかなる場合も、自分を支配されないために必要です。
 
反省もせず、責任も負わず、過ちを認めずに、怠けていると、楽山のような、体質的な、自己満足疾患になってしまうのです。
 
好きでもない人と仲良くしなくていい
人生で出会える人、付き合える人の数は限られている
人との関係を雑にするべきではありませんが、目の前の人達が全てではない
あなたに合う人、あなたを好きになってくれる人はいくらでもいる
どうでもいいような人達と、惰性で付き合い続けることは時間の無駄
 
惰性で付き合い続けることと、好きでもない人と仲良くすることを、同一に考えているようです。惰性で付き合うことは、依存の強迫観念において起こり得ることですが、それは、好きでもない人とは限りません。また、今は苦しいけれど我慢するということもあるでしょう。
 
楽山のように、都合のよい文言だけを求めて、苦言や批判を無視する者は、何の説得力も魅力もない惰性だけの人間になっています。
 
好きでもない人と仲良くする必要はないとして、好きではないと、いつ、判断するのでしょう。最初に好きでないと感じたときに、仲良くしないと決めてよいのでしょうか。
 
好き嫌いと、正邪を、混同して、楽山は、無視を行使します。その結果、楽山を好きでもない私によって、今まで2年、これからもずっと、その邪悪さを批判されることになります。
 
軽々しく、教えだからと、付き合いを断ってしまうことの責任を誰が負うのでしょうか。実際には多様なケースがあるのに、一律に短い言葉で断定することの弊害を恐れないようです。
 
楽山は、全く責任を負わず、反省せず、訂正不能になって、破壊が酷くなっています。付き合いがなくても、行為がなくても、邪悪は、批判されてゆくのです。
 
弊害として、出会って、ちょっと不満を感じるたびに、目の前の人たちが全てではない、好きになってくれる人は他にいる、惰性で付き合い続けない、時間の無駄、などと思っていたら、次から次に、諦めが早すぎて、我慢することがなく、腰を据えることがなく、理想と満足を求めて、どこまでも、いつまでも、放浪の人になってしまうでしょう。
 
楽山には、生きる軸となるものが、全く見られません。
 
人は勘違いをするのが当たり前の、愚かな生き物です
人は自分のフィルターを通して、物事を知り、判断をしています
 
このことは、独りでも起こることですが、アドラー教も、自己中と思われる要素をその教えにも持っています。特に自己愛性人格障害者において勘違いをすると、正当化の根拠を得たかのように完全な他者無視の自己中になっている者がいます。
 
楽山がそうです。色眼鏡でしか物を見ず、しかも、それを、真理のように語って、自己満足して、反省することなく、責任を負わず、訂正不能で、成長せず、その結果、自己正当化の詭弁だけが、症状として、症例のデータとして、山のように積まれてゆくのです。
 
人それぞれ違うのが常識であり、みんな同じであることが異常なのです
孤独を恐れるあまり、多くの人達は常識を正解だと思い込んで苦しむ
自分の頭で考えて、自分の人生を生きよう。
 
続く言葉で、人それぞれと、人によって違うという話にすり替えています。そして、アドラー教は、独りで判断するように言っているのです。上で、勘違いが当たり前と書いているのに。
 
その教えの結論が、自分の頭だけで考えようなら、それは、自分で満悦する楽山のような人間です。都合のよいことだけを拾って来ては書き、都合の悪いことを無視して、楽山は喜びだけで、周りは迷惑だけです。
 
自分が知っていることが全てだと思ってはいけません
自分の知っていること、認知できる範囲はこの世のほんの一部に過ぎない。
だからといって、他人とは分かり合えないと考えて切り捨てるのも早計。
無理に同調する必要はありませんが、お互いに折り合いを付ける努力をすることに意味があるのです。
 
まるで、予防線にもならない、体よくまとめただけであり、同時に、苦しい言い訳のようです。
 
自分の頭で考えて、自分が全てではない、他人とは分かり合えないと考えて切り捨ててはいけない、無理に同調するな、折り合いをつける努力、・・これは、主張の方向が、散乱しています。
 
単方向に豪語してきて、言い逃れをして、自尊と自己の正当性の保証を求めているようです。引っ込みがつかなくなって、折り合いをつけようと八方美人的に苦しい言い訳を貼り付けて、辻褄合わせをしている姿ではないでしょうか。
 
人間の言論の正しさを豪語で伝えようとすると、豪語そのものが乱れて、豪語して言い訳、突出して折り合い、という、収拾が付けられなくなるという縮図を見ているような気がします。
 
いまだに、アドラーという名前を掲げ、アドラーの写真を載せて、心理学という学問の名前を付けているようですが、元々、アドラー心理学という学問の紹介であるなら、豪語して教える態度はないはずです。
 
ずっと、世界を変える幸福の約束のように、強気で言っては、引っ込みがつかないような伝え方であることが、心理学という学問ではなく、アドラー教と呼ぶしかない宗教活動であることを示しています。そして、無責任豪語は、カルトの特徴なのです。
 
 
その無責任は、しっかり、アドラー教宣伝者である楽山に、無反省・自己中とともに受け継がれているようです。人は人・・で、あるいは、それは相手の課題・・で、人に囚われないだけではなく、人を無視できる心性は、人の心情が分かっていない表れとして、いつも呆れます。
 
楽山は、こちらが、無反省だと批判すれば、反省という言葉だけ書いてくる。こちらが、共感がないと書けば、共感という言葉だけ書いてくる。そして、その前と後で、何も変わっていないことが、嘘であることの証拠となってゆくのです。
 
理路の正当性は、論理性だけではありません。特に、宗教や信仰の真実については、いくら理屈をこねても、そこに人間の心の共感性がなければ、言論は成立しません。楽山には、それが、見られたことが全くありません。
 
だから、楽山の言は、人を苦しめることは出来ても、人にとって助けとなるような糧には全くならないのです。そして、糧となるための努力さえも見られないまま、自己弁護・自己正当化の言を、だらだらと虚しくつないでゆくしかないのです。それが、自己中に染まった者の大きな災いです。
 
楽山には、シャロームという仲間がいて正体は偽牧師でしたし、アドラー教の自己中を信奉していたこともあって、また、無反省・無責任・無理解・無神経であるために、自業自得の結果として、病質者とカルトの印象がつきまとうことになります。
 
 
果実は邪悪の共鳴

果実は邪悪の共鳴
 
 
(2020年02月08日、同日一部修正)
(2021年02月09日、再録+、同日さらに修正)
 
 
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   楽山の自己讃美
 
 「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」
 (『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 楽山日記(LD) 2021年02月06日
 
 
楽山が、ヨブを引用するのは、ヨブが正しいのに神に試されたという思い込みがあって、自分もそうだ、自分は正しい、苦難に耐えているぅ、自分は偉いぃ、という自己賛美をしたいためだと思います。
 
執拗に、内村鑑三を、餌食にしている楽山です。楽山は、こういうことを、平気でします。
 
ヨブは、神に試されました。そして、悔い改めました。神以外に寄る辺がない信仰者だからです。楽山は、神に試されたのではなく、だまして快感を得るという自業自得の沼から、おめいているのです。最も神にも人にも憎まれる因業の者です。
 
「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十七章の研究
ヨブは「今や罪の故ならずして死せんとしている。友はそれを罪の故と断定して彼を責めている。しかし神は彼の無罪を知り給う。しかり神のみが彼の無罪を知り給う」
 
神の前に無罪の者はいません。ヨブは、自己正当化から、神によって試され、最後には気づいて、塵・灰の中で悔いて、信仰を回復します。
 
楽山が自己正当化をすることと決定的に違うのは、楽山には微塵も悔いる心が無いということです。ずっと、自己正当化だけなのです。神に試されたのではなく、自らの因業によって壊れているのです。
 
「ヨブは神が罪なき彼を苦めつつある事を認めてこれを怨じながら、今また同一の神に無罪の証明を求めている」
 
無罪の証明を神に求めるのは、背教でありますが、一方で、神以外に寄る辺のない自らを表すところの、信仰告白でもあるでしょう。こういうのを、パラドックス・逆説と言います。しかし、信仰者は、神に無罪の証明を求めるのではなく、赦しと癒しと救いを求めるのです。
 
楽山が、無反省・無責任でありながら、無罪であるかのように、高慢なのは、神に対しても、人に対しても、欺きであり、背教以前の、反キリストであることを、自ら証明しているのです。
 
楽山においては、いわゆる汲むべき情状酌量の余地が、まるでなく、悪と罪と偽善の実績を積んでおきながら、神に対して、ヨブを引き合いに出して、自己正当化するなどは、信仰以前に、まず、人間とは思えないことなのです。
 
神は人の罪を裁く。「この時人の側よりして、仲保者を要求する心は当然起らざるを得」ないが、人のために神に対して弁ずることができる者は「神自身」以外には存在せず、したがって「同一の神が我を責めかつわがために弁護す」ることになる。
 
(ネットより)
仲保者
〘名〙 神と人との間の宥和(ゆうわ)媒介をする人。イエス‐キリストをいう。
 
神が、神をなだめるような理屈に、楽山は、賛同しているのでしょうか。実に、分かりにくい話です。楽山は、自分が神だから、自ら仲保者となって、自らを救うと言っているのでしょうか。
 
だとすれば、楽山の仲保者は、キリストでもなく、神でもないこと、即ち、救われる理由など全くないことを、楽山自身が語っていることになっています。楽山の自尊過大が招いているところの、宗教的に重篤な病態が、ここに表れています。
 
「まことに人は神と争いて苦むとき、我を苦しむる神の所に往くほかに逃げ場所はないのである」
 
こういうことは、どうしようもなく苦しい時に、なぜ?と神に問いながら、救いと癒しを祈りながら、やはり神のみに寄ってゆく信仰者の態度なのです。信仰者には、他にないからです。
 
楽山は、神が苦しめ、神が仲保者になるというパラドックスに興味でもあるのでしょうか。無反省・無責任で悔いる心の無い楽山には、起こりようのないことですが。
 
「イエスを称して最大の無神論者という人がある」。最期に「わが神わが神何ぞ我を棄て給うや」という嘆きを残しているからである。しかしこれによって「多くの患難悲痛にある人々が彼によって救わるるのである」「そは「最大の無神論者」は実は最大の有神論者である」
 
無神論=有神論みたいな逆説的な書き方に、楽山のような、不思議・超常・ホラー大好き人間は、魅力を覚えるのでしょうか。
 
ここでの無神論は、神はいないと、平気で、楽山などが言うのとは、全く違います。楽山が信仰を理解できないことが表れています。
 
神亡きがごとき悲劇の地上に救いを求めるヨブの信仰であり、それを認めて生かす神の話なのです。安い辻褄で、神がいるなら悲劇が起こるのはおかしい、などという傲慢で安易な見なしを学者気取りで言ってくる楽山には理解できないことです。反キリストの楽山は、それらしく、自分が何をしているか、まるで分かっていません。
 
「さりながら義しき者はその道を堅く保ち、手の潔浄きものはますます力を得るなり」(第九節)に注意。
「罪のためならずして大災禍に逢える彼が、その大災禍の中にありて正と義の勝利を確信したのである。ヨブの偉大よ! またヨブ記著者の偉大よ!」
 
 (ヨブ記、口語訳)17:9
それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、
潔い手をもつ者はますます力を得る。
 (ヨブ17:9、旧約聖書)
 
まだ自己正当化を続けるヨブの発言です。ヨブは、正義を貫いたのではありません。ヨブは、最後に、神によって、悔い改めたのです。
 
楽山は、悪と罪と偽善を貫いています。悔い改めることもないでしょう。楽山は、反省もせず、悔いることもなく、文句ばかり言って、自己正当化だけをしているために、ますます神にも人にも憎まれる途上であります。
 
楽山は、どんどん、それらしくなってきました。引用にも、引用した者の意図は、表れてくるのです。誰も、この楽山に関わらないことだけを願ってやみません。
 
「神は最後まで義の味方であって悪の敵である。われらの求むべきは義に歩むの生涯である。自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟あらば、我らはすなわち大磐石の上に立って安らかなのである」
 
人が、"義" と言うとき、その義が、その人の判断に過ぎないことを弁えるべきです。「義に歩むの生涯」「自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟」「大磐石の上に立って安らか」などは、楽山は好むのでしょうが、私は、豪語が過ぎて、食傷気味であります。
 
悲劇と艱難の前にある人に、正義を守れ、などと言うのは、乱暴であります。ただ、なぜ?・・と、神に祈ることで、信仰者たるを得るのが精いっぱいでしょう。
 
豪語は、偽牧師のシャロームや、ペテン師の楽山のような、偽善者の好むところです。信仰者は、ただ、正直に祈るべきであります。
 
「さわれ失望中に一閃の希望ありて、ヨブ記が失望の書にあらず希望の書たることを知るのである。一閃また一閃、遂に暗黒悉く去って光明全視界を蔽う処まで至るがヨブ記の経過である」
 
「一閃の希望」ではなく、神の絶対と、人の不完全を対照させて、ヨブや友人という信仰者に、また私たちに、ありがちな浅はかな見なしや自己正当化によって、人の偽善と罪を浮き彫りにするところに、ヨブ記の意義があるのです。
 
この講演を読むと、夜明け前が一番暗いだとか、闇の底に光があるということがよく分かる。
 
楽山は、何も分かっていないと思います。闇の底に光、などと讃美しても無駄なのです。わざとらしい芝居、吐き気がします。
 
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」という西郷隆盛の名言も思い出される。人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切であるし、尊い。
 
楽山は、天を相手にしたいのでしょうか、神と向き合うのでしょうか。たちまちのうちに燃え尽きて消滅するでしょう。天、そして、神とは、そのような存在です。安い豪語など通用しないのです。「尊い」などと、愚かな。楽山の本性が丸出しになってきました。
 
西郷の言であるなら、それは、大きな視野と立場を持つことを言っているのだろうと思います。それを「人に理解を求めるよりも、神と向き合う方が大切である」などと、実にバレバレな嘘の豪語に短絡して、他者無視の楽山自身の正当化を図っています。
 
楽山の人格の低格化と荒廃が、さらに進んだと見るべきでしょう。まさに、サイコパス全開。
 
ああそうだ。論語には「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり」という言葉もあったのだった。
友に理解されないことを嘆き、苦しむヨブをみていると、ヨブ記にはこういうテーマも含まれていそうだ。
 
「ああそうだ」が、白々しい、大根役者の三文芝居、様々な魂胆を抱えている楽山です。楽山は、人が自分を知らないことを、自分の天才ゆえと思っているのでしょうか・・背筋が寒くなります。
 
他者の言葉を歪曲して「ああそうだ」と、自らを高めようとするとは見苦しい。楽山は、知られるべき実績ゼロの、病質者です。
 
また、楽山は、人を見下しているので、人を知らないことを憂えてなどいません。こういうことが、2年にわたって続いているのです。楽山の厚顔無恥は、悪化しているだけです。
 
楽山の、中立・中庸芝居も、言い方が変わってきて、そろそろ限界のようです。右翼の、しかも、変質者の楽山が、牙を剥いてくるでしょう。児戯に等しい詭弁ですが、とても危険です。
 
今回も、気持ち悪い楽山の文章でした。終わりなき欺きのようです。楽山に関わっている人は、直ちに逃げてください。どうか、人格破壊の楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください、近づかないでください。祈っています。
 
 
終わりなき欺き

おわりなき あざむき
 
 
(2021年02月07日)
 
 
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  アドラー教について(12)2
 
 アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学
 再録+
 
 
おもに「嫌」ということについて語っています。
嫌われる勧め?でしょうか。
相変わらず、短絡と豪語の目立つブログ主です。
 
悪口言って作った仲間は、仲間ではなく負け犬の集まりです。
自分の劣等感に負けて、健全に努力することを放棄して悪口によって優越感に浸って現実逃避してるだけ。
人は悪口を言う人を信頼できません。
次の悪口のターゲットになる危険性が高いからです。
つまり、群れているだけの臆病者なのだ。
 
悪口を言って、いいことは何もないということです。
言えば、言われる、という現象。
悪口を言ったことのない人は、あまりいないと思いますが、
負けたことのない人は、ほとんど、いないでしょう。
 
悪口は、負け犬の始まりなのです。
注意するべきは、負け犬とは、負けた犬、または、負けてしまう犬のことであり、
負けを認めることとは全然違うと申し上げておきます。
 
悪口と批判は全然違います。前者は根拠がなく、自分のためであり、後者は根拠と道理を示し、かつ、自分のためだけではないことが多いからです。
 
「負け犬の集まり」「臆病者なのだ」・・記事のこの部分こそ、説明というより決めつけに近い書き方ですから、紛れもなく悪口でしょう。
 
ちなみに、勝ち負けに拘泥(こうでい)しない生き方もあるということも申し上げておきます。
 
嫌われるよりも、好かれる方がいいとは限りませんよ。
嫌われた方が自分のやりたいことができるじゃないですか!
好かれようとしていたら、自分のことより他人を優先しなくてはいけません。
自分らしく、自分の幸せの為に生きることを選ぶなら、さぁ嫌われよう。
嫌われる勇気は、幸せになる勇気。
 
自己中の臭いがします。乱暴な筆致です。
 
結果としては、好かれるほうがいいわけです。
 
「嫌われた方が自分のやりたいことができる」とは限りません。
ますます、やりにくくなることもあります。
 
他人からの嫉妬の強さは、あなたの魅力の大きさを表します。
それだけ嫉妬されるということは、あなたがそれだけ魅力的ということです。
人は誰でも、魅力的でありたいと本心では思っている。
嫉妬を嫌悪することは、自分の魅力を嫌悪すること。
嫉妬心からの陰口を言われたら、あなたの勝ちです。
 
嫌われることを、何故か、嫉妬に置き換えています。嫌われることは、嫉妬からとは限りませんね。悪いことばかりしても嫌われます。乱暴なだけでも嫌われます。下に見て豪語して教えようとする態度も嫌われるでしょう。嫌われることと嫉妬を同列で考えることは出来ません。
 
嫉妬ではなく、心底、嫌うことがあります。
そこには、相手についての、嘘、偽り、悪、卑怯、という負の評価があります。
 
そういうことの受け身、つまり、そういう嫌われ方は、それこそ、嫌で、避けるべきことです。
 
他人が自分をどう思うのかは他人が決める他人の課題であり、自分で決められる自分の課題ではありません。
他人が自分をどう思うのかを変えようとすることは、他人の課題への介入であり、変えられないことを変えようとしても辛いだけ。
他人の課題には介入せず、自分の課題にも介入させてはいけない。
 
"課題の分離"を出してきました。
 
他人が自分をどう思うのかを気にしなくなると、事態が、さらに悪化することがあります。
 
他人がどう思うのかを考えることは、思いやりであることもありますから、
介入などと言って、全部、無視してよいものでしょうか。自己中の臭いがします。
 
世の中、嫌われた者勝ちですよ!
嫌われることで、人は自分らしくなれるのですから。
嫌われないように生きるということは、他人都合で生きているだけ。
嫌われる勇気を持つことで、多くの人達が嫌われないようにして損ばかりしていますが、あなたは自分らしく生きて幸せになれる。
得ばかりです!
 
嫌われた者勝ちと言っていますが、嫌われたままで、勝ちだというのは、
自分だけ幸福であればいいという考え方につながる自己中です。
人間は、何を目指して生きているのか、ということを考えるべきでしょう。
 
自分らしさは、他者との人間関係の中で、生まれるものです。
他者を全く無視したところに自分らしさは存在しません。
 
得ばかりです!・・これは、カルト的宣伝文句です。
 
自分を嫌っている人がいるあなたは
幸せ者です
嫌ってくる人は自分から
「私は嫌な人だよ」と教えてくれている
嫌な人に好かれたいですか?
むしろ関わりたくもないでしょう?
人生で仲良くなれる人の数と、好きな人といられる時間は限られている
嫌な人は相手にしないで好きな人と関わっていよう
 
気に入らないことは無視しましょう、という教えと同類のようです。
 
嫌う、ということは、その理由・原因を抜きにして考えてはいけないことです。
 
嫌な人が、一生涯、嫌な人とは限りません。
 
ブログ主の、豪語するための短絡が、かなり、きついようです。
 
今がどれだけ辛くても、何も心配することはありません
人間は忘れる生き物だから
人は今まであった辛いことも過ぎ去ったことは忘れていくもの
だから、何が起きても必ずどうにかなります!
忘れられないことがあっても、それ以上に忘れてることはいくらでもある
忘れているから意識していないだけ
 
初期に考えることを怠ると、一生忘れられないこともあります。
 
「必ずどうにかなります!」・・激励が空回りしています。気合いだけ。
 
嫌われようと、どう思われようとそんなの関係ない
嫌う嫌わない、どう思うのかは相手が決める他人の課題です
自分ではどうにもならない他人の課題に踏み込んで、心を悩ませるなんてどうかしてます
そんなことは気にせず、自分がどうしたいのか、何がやりたいのかに周りが見えなくなるほど集中しよう
 
どこかで聞いた「そんなの関係ない」ですが、相手のことを、自分の課題として、思いやる、ということはしないのでしょうか。ブログ主は、喧嘩ばかりしている集団にいたのでしょうか。
 
相手がこちらを嫌うかどうかは相手の課題、しかし、こちらが相手を思いやるかどうかは、こちらの課題です。
 
そして、周りが見えなくなるのは、あるいは、周りを見なくなるのは、また、それでいいと思うのは、自己中の道。
 
人にどう思われるか気になるなら、この3点を意識しよう
1.他人は自分が思うほど、自分に興味・関心は無い
2.他人の意見はどれだけ親しくても、適当である。自分にベストな助言ではなく、1番無難な意見しかくれない
3.他人はあなたの人生の責任を取ることはできず、あなたも他人の人生の責任を取れない
 
1.2.は、例外もあると言うことです。無視していいということにはならない。
3.について、例えば、思いやることは、責任を取ることとは違う良心の働きです。
ブログ主は、人間関係を、実に、雑に捌(さば)いて、語っています。
 
他者のことで自分が思い煩うほど悩まなくていいとは言えますが、
それで、他者を気にしないで生きることを正当化は出来ないと思います。
 
悪口を言う人は、自分のことから目を背けたいだけ。
自分の人生に絶望していて、自分のことに集中できないから他人のことが気になるのだ。
 
相手に、余計な見なしを決めつけています。ここの、目を背けるか、絶望するか、集中できないか、全部、相手の課題です。他人の課題に介入して見なしを決めつけているのは、誰でしょう。
 
このように、自分の課題と、他人の課題は、はっきり区別できない場合が多いのです。それを、勢いで斬ってしまうのは、短絡と言います。
 
他人のあら探しをして、悪口を言うことで自分はまともなのだと自分で自分に言い聞かせている。
そうやって、自分を正当化することを生きがいにしているのだ。
 
弁明や反論と違って、自己正当化は、いつでもどこでも、醜いものです。
自己正当化は、同時に、あら探しを伴うことが多いです。
 
しかし、ブログ主は、また、相手を決めつけているわけです。こういうことは、個別のケースにおいて、根拠を示して言うべきことです。
 
付き合う人は取捨選択しよう
人は誰と関わるのかで、性格も人生も何もかもが変わる
後ろ向きな人達と付き合えば、人生も性格も消極的になり、悪い事ばかり起きる
前向きな人達と付き合えば、人生も性格も積極的になり、良い事ばかり起きる
限られた人生の時間を誰と過ごすべきなのか、よく考えよう
 
それは、付き合わないで決められることではないでしょう。
 
人間として生きるということは、ある程度の傷を負うということです。
 
前向きに見える人が、あるいは、強く勧めてくる人が、また、物わかりのよさそうなことを言う人が、自己中であることもあります。引きまわされて疲労だけしか残らないこともあります。
 
不機嫌になって、八つ当たりしてくる人は相手にしなくていい。
自分の機嫌を良くするのか、悪くするのかを決めるのは本人の課題です。
わざわざ不機嫌になる人は、周りに気を使わせて支配しようとしているだけ。
上機嫌は意志、不機嫌は惰性。
顔色をうかがって気を使ったら、相手の思うツボです。
 
こういうことも、理由・原因を知ることは必要です。
 
おかしいですね。機嫌を良くしよう、悪くしよう、とか、本人が決めるのでしょうか。
 
「上機嫌は意志、不機嫌は惰性」・・でしょうか。短絡した豪語の断定が過ぎて、意味不明になってゆくようです。
 
誰かに嫌われたからって、それが何だっていうのです?
その人の好みに合わせて、あなたは自分を変えてしまうのですか?
あなたは自分の為に生きているのです
その人に認められる為に生きている訳ではありません
嫌われたのなら嫌われたで、ご縁がなかったと割り切って、新しい出会いを探しましょう
 
相手の好みに合わせて自分を変えるのではなく、何ごとにつけ、反省と考察は必要ということです。でないと、新しい出会いで、また同じことが起こる可能性があります。
 
ブログ主は、他者をすごく嫌いになるような、自分の個人的な経験か何かに執着しているのでしょうか、無人島で生きたいのでしょうか。それは、読者の課題ではなく、ブログ主の課題です。
 
嫌いな人とは、距離を取る
こんなに簡単で、誰にでもできる一番の悩み解決の手段を取れない人が多すぎる
人を嫌うこと、誰かに苦手意識を持つこと自体は悪いことではない
嫌いだからって、傷つけたりすることがいけないのです
お互いに相容れないのなら、無理はしないでしっかりと人間距離を取ろう
 
ここで、傷つけることが出てきます。傷つけ、傷つけられることを避けるために、他者を無視する自己中になることが必要でしょうか。違うと思います。
 
総じて、精神衛生の問題を、豪語で解決することは出来ないと思います。誰よりも、ブログ主が、嫌な記憶~トラウマを抱えている傷だらけのように思われます。
 
苦手意識は、誰でも持つことがあるでしょう。自然と遠ざかるのであって、傷つけ合いを避けるために、距離を取ります。アドラー教だから距離を取るわけではありません。
 
誰に対しても、自立した人間同士としては、距離を取るのは当たり前のことです。
距離の取り方が難しいのですが、他者無視と自己中に短絡しないようにしてください。
 
なお、ずっと批判対象の楽山は、最近は書かないようですが、元々、アドラー教の宣伝者です。
 
 
自己中の渡り2

自己中の渡り
 
 
(2020年01月30日、同日一部修正)
(2021年02月04日、さらに加筆)
 
 
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  良心2
 過去記事「良心」+加筆
 
 
キリスト者は、良心を捨てて神に従うのではありません。良心とは、神から人が恵みとして与えられた良い心のことです。信仰へ向かう心も含まれています。
 
キリスト信仰は、人の心の良きところ、すなわち、良心を育てるからです。
キリスト信仰者にとって、信仰と良心は区別できないものとして存在することになります。
良心によって信仰を受け容れ、信仰によって良心は成長します。
どちらにも神の導きはあるけれど、人は、それを確定できる能力を持ちません。
 
 良心を捨てた者は、人の心を無視して、超常を正義とするカルトに走ります。
 
私たちは、物事を良心によって判断しています。その判断が行動を選択します。
 
 これが理想で、ときに悪意で行動することもあるのは罪の性質によります。
 
 ここでは、本来のあり方として語ってゆきます。
 
キリストを信じる信仰者においては
神様のほうを向いて、信仰によって、聖霊によって、ということが、よく言われますが、
神様のほうを向くことを自覚するのは祈りにおいてであります。
すなわち、独りで祈ること自体が神のほうを向くことです。
そして、信仰者は、正直な祈りを捧げます。
飾りや偽りや豪語は神への冒涜です。
 
信仰によって、また、聖霊によって、与えられたものを、これは信仰によって、これは聖霊によっているから良いことで、それは欲望によっているから、良くない、という判断が、人間によって、しっかりできているでしょうか。否であると思います。神聖についての決めつけは、神への冒涜であり、人に対して弊害を招く可能性があります。
 
神は完全ですが、人は罪の性質によって不完全です。人間は、神の望んでおられることを、そんなに、逐一、分かるわけではないのです。
 
さらに、人は、自分の言動の影響を最後まで末端まで追うことは出来ません。
ゆえにその善悪を、人は確定できません。人は、判断し、行動し、結果を反省し祈るのみです。
 
キリスト信仰者は、判断し、行動し、反省し、その結果と裁きを、神に委ねます。
ゆえに、究極的には、総てをご存知の神の裁きにお任せするしかないことを知っています。
 
では、どうしているか、どうするべきかというと、
他でもない、私たちは、良心に従って、物を言い、行ない、生きようとしているのです。
 
その良心の信仰に、信仰の良心に、神様が、どのように導きや恵みを与え、どのように言い、どのように行えばよいか、いちいち見定めることは、できないのが人間です。
 
神様、そして聖霊、またキリストの同伴によって、私たちの良心が、何か、導かれることはあるのでしょう。しかし、それを、つぶさに、確定することは出来ません。
 
 聖書由来の、聖句由来の、聖なる言葉で表されたものによって、活動しなければならない、という 観念がありますが、そのように言っても、実際は、自分の自由意志です。
 
 神意が分かるかのように神聖の言葉を多用することは正しいでしょうか。
 
 下手をすると、自分が、神の意志を代行するかのように、振る舞ってはいないだろうか、という疑 問が生じてきます。
 
神様は、その全能によって、私たちが足らざることを既にご存知です。であるのに、私たちは、強迫神経症のように、神様の御心に沿っているかどうかを検証しながら生きているかのように、振る舞っているつもりになるのは、ある意味、危険でさえあるのです。
 
神様は全能だから、私たちが足らざることを既にご存知です。
 
私たちは、日ごろから聖書に親しみ、祈りを専らとしているなら、正直に祈るように真剣に努めているなら、むしろ、何でもかんでも、神の御心であろうかどうか、ということを、自分で確認できないことも知っているはずなのです。
 
つまり、私たちは、信仰生活の不可欠なこと、聖書に親しみ、聖書について考えているなら、私たちが判断し実行していることについて、むしろ、精いっぱいの良心に従って判断していること、それ以上ではないことを弁えるべきなのです。
 
信仰者には、信仰者の良心があります。詳しいことは知りえなくても、気づかない導きもあるでしょう。私たちは、聖書を読み、正直に祈り、あとは、そこで導かれ培われたであろう良心に従って、行動するべきであろうと思いますし、そうするしかない、そういうありかたしかないのです。
 
信仰と良心は、別ではありません。
 
 神秘の神聖の言葉ばかりを使いたがるのは、カルトの特徴です。
 例えば、カルトは、心を汚れたものとして見て、霊と言うと安心するようです。
 
 心、霊、魂、精神、これらの言葉は、目的によって使い分けられています。
 その違いを、人が分かっているわけではないのです。
 
 信仰を受ける"土の器"も同様で、比喩表現でありますが、
 心以外のところにあるとは思えません。
 
 聖書由来の神聖の言葉を並べれば神聖を語ったと満悦するのもカルトの特徴です。
 そして、良心を、ゴミくずのように捨ててゆくのも、カルトの特徴なのです。
 
私たちは、神によって、キリストの同伴によって、良心が成長することを知っているはずです。
 
 そこに、人間離れした何かの魔法を結び付けたがるのも、カルトの特徴です。
 そういう者は、人間性を大事にすることを、人間信仰といって嘲ります。
 人間離れが信仰だと思っているからです。
 
 しかし、人間が、全能の神の意志と行為を代行する自覚の、霊を振り回す信仰?こそ、
 人間を、自らを、全能者に結び付けて、真の全能者である神を冒涜する"人間信仰"
 つまり、自分信仰に他なりません。
 
私たちは、カルトと同じような、うわべの言葉だけ神聖なる言い方をして、神聖によって自らを正当化するような冒涜の愚を避けなければいけません。
 
私たちは、神の御心によって行なう、というのではなく、祈り願う信仰の、精いっぱいの良心によって、考え、判断し、行うのだ、という自覚を持つことのほうが、より敬虔に近づくと思います。
 
 カルトが装うところの、丁寧語だけの偽の敬虔?と同じであってはいけません。
 
私たちは、総てをご存知の神に養われているのだから、私たちの良心にも御心が働きかけていることを知っています。ならば、自分の良心という成長可能なものを、信仰によって使い、育ててゆく自覚のほうが、人間であるキリスト者らしいと言えるのであります。
 
その生き方を支えるのは、キリスト信仰者においては、飾らない正直な祈りです。
 
神が与える信仰の義は、神に対して故意に偽ることをしない人に、即ち、精いっぱい正直な祈りを捧げる人に、惜しみなく与えられます。
 
与えられるのは、信仰の義であって、超常の義ではありません。信仰は魔法ではなく、人間に共感できて、人間が大切に出来る恵みであります。それ以上のことは、神に任せられることです。
  
信仰の義は、不変の境地ではなく、キリスト信仰者が成長しつつあることの証しであります。
 
 
成長

成長
 
 
 
成長というものが、全く見られないのが楽山とシャロームであります。
 
深い情緒が理解できない鈍麻したパーソナリティ。代わりに、わざとらしく感動したようなオーバーな褒め言葉を書いてくるが、その前後関係に表れていない、どう感動したか全く書かない、説得力の内実がなく説明しない、何も変わっていない、そして、批評家気取りで言ったこと自体に満悦しているだけです。
 
理路もバラバラで、マイナスを書いて、あとでプラスを書いたら、プラマイゼロだから、責任は負わなくていいと思っているし書いている。そういうのは、いい加減な奴と思われて信頼してはいけない人だと見なされることが分からない。常識・良識・反省・責任感・学ぼうとする姿勢、一切、見られない人です。
 
人間の知性と感性の及ぶのは、せいぜい、身の周り、情報として知っている範囲、言葉・画像・映像で、感じたり考えたりする範囲に過ぎません。そういう人間が、総てご存知の全能と言われる神を、評価して、その存在と不在、その善悪、などを云々するなど、決してできません。
 
無理にしようとすれば、自らの不完全に気づくことが信仰の入り口であり、それを人間の乏しい脳みそで安易に決めつけて、気づかないのが病的自己中の入り口にいる楽山とシャロームという傲慢の悪意であります。
 
そういう人が、真面目なふりをして、真実の追求をしてますって感じで書いてきて人を惑わしているのは、どう見ても、不正だと思うので、こちらも批判を続けています。
 
いかなる妨害にも、屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2020年01月12日、同日一部修正)
(2021年01月16日、再録+、さらに同日一部修正)
 
 
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  楽山の無神経
 
 『内村鑑三を語る(内村鑑三選集 別巻)』岩波書店
 2020年12月29日 楽山日記(LD)
 
 
今日の記事の投稿が遅れていたのですが、楽山が、また反キリストの記事を、あざ笑うように書いてきたので、批判のほうを優先させることにしました。
 
反キリストの記事をストレートに書けば、私が批判し、その批判に楽山は応えたことがありません。だから、けなしているのか、褒めているのか、分からない書き方をするのです。
 
エピソードや人となりを書いていますが、内村鑑三の宗教観には、さわれもしない楽山であります。内村鑑三について、何度か書いてきて、いつも焦点を外している楽山です。それでいて、いつも、あまり、よろしくない話に仕立て上げるのです。この性根、最悪の策士であり卑怯者です。
 
*人物評いろいろ
年末年始は内村鑑三選集を読もうと思い立ち、まずは別巻を開いてみたのだが、内村鑑三の人物評(同時代を生きた者によるもの)を集めたというだけあって、さまざまな意見を知ることができて愉快である。
 
楽山は、趣味でしか、ゲームのようにしか、、ホラー映画と同列にしか、書くことができないのです。内村鑑三はダメな奴だ、という代わりに、「愉快」という言葉を使っています。内村鑑三を、ピエロにしたいのでしょうか。
 
本書に収録されている文章の著者らの立場は、大雑把に言えば批判者、弟子、友人に分類できるようだが、批判者には、信仰について真面目な問いを発する松村介石のような者もいれば、現代のネット上の誹謗中傷のように悪口三昧の正岡芸陽や評論子のような者もいるし、弟子のなかには、内村鑑三を崇拝、心酔しきっている者もいれば、尊敬はしつつも独立した自己を保っている福田英子、志賀直哉のような者もいるし、世の中には本当にいろいろな人がいて、いろいろな考えを持っているのだなと感心させられる。
 
楽山は、婉曲的なボンヤリ言語で、内村鑑三のみならず、宗教そのものさえも、真剣な態度や姿勢を全く持てずに、揶揄してくるだけなのです。今までの楽山の記事から、宗教も信仰も、何も分かっていないことだけが、いつも、感想になります。
 
本質的でも何でもないことや、言ってどうなるものでもない揶揄のようなことを書いて、暗示し、悪い印象を吹き込むだけの、そこから先の何もなく、何も見えておらず、ほこりのように迷惑に舞い上がり、発泡スチロールのように質量のない男です。
 
これだけ、無反省・無責任で、愉快犯的にあざけって楽しむ悪意の根性だけで出来ている者は、小学生でも珍しいでしょう。真剣に気にすることが、何もないのです。
 
「いろいろな人がいて、いろいろな考えを持っているのだな」という当たり前のことを書いて、そこに「感心させられる」と書いている浅さが、楽山の悪ふざけの特徴です。楽山の「感心」のレベルの低さが、異常な筆致とともに、明らかになっています。
 
他者の参考になる意見も感想も思想も、何も持ち得ず、作り出せないでいる、学習しなかった人であります。そのくせ、人のことばかり、批判めいたことを、記事とツイッターに書いています。
 
しかも、その時によって、言ってることが違ってきて、その反省をせず、その責任を負わないのだから、それこそ、話にならない人なのです。恐らく「・・ならば、・・」という初歩の理屈しか持っていないように思われます。さらに、しばしば詭弁となるような自己中発言でしかないのです。
 
また友人の場合はどの人物も立派ではあるが、キリスト者かそうでないかによって話の内容の深浅濃淡には大分ちがいが出ている。やはりここでも、ものの見方、考え方は、人それぞれということのようだ。
 
「どの人物も立派」・・何を根拠に書いているのでしょう。「深浅濃淡」・・何も説明していません。そして、私が何度も書いてきたところの、楽山が言えば自己中でしかない「人それぞれ」で、ごまかしてくるのです。慢性の疲労物質でしかありません。決して相手にしないでください。だまし引き込み刷り込む技だけで出来ているような男です。
 
内村鑑三という一人物について、これほど異なる意見があるとすれば、人を超えた神について人々の意見はさまざまで決して統一されたことがないというのも致し方ないことなのかもしれぬ。
 
そうして、ここで、楽山は、どういう同一視か知らないが、内村鑑三から、勝手に、神に話を広げて、「統一されたことがない」という、揶揄の本音が、表れています。
 
神を、人が統一することは出来ません。
 
意見の不一致のことならば、少なくとも、楽山には、統一見解を見出すことも、参考になる意見を発することも、良心がなく、無反省・無責任で、情性も鈍麻している冷酷さゆえに、全く、できはしないのです。
 
今までの約2年間の批判で明らかになったのは、楽山が、読めば読むほど、書けば書くほど、厄介なゴミが溜まるだけだということです。迷惑者が、早く退散して、ゴミの無いネットになってほしいと切に思います。
 
誰のためにもならないボヤキの独り言を散らしに来る自己顕示欲だけの楽山の、信頼度は、ゼロであり、有効度は、一途に、マイナスであります。
 
*滑稽さの自覚
私見ながら、本書のなかでもっとも個性的かつ面白いと思えた文章は、「ある日の出来事」(藤沢音吉)だった。おしるこのエピソードは微笑ましく思わないではいられないし、内村鑑三の情の深さを語った後で「お顔に似合はぬやさしい方でありました」という定番のオチがついている話も笑わないではいられなかった。
 
楽山の私見は、お笑いだけのようです。いかなる命題も結論も成り立たない人がいる、ということを、楽山によってはじめて知りました。
 
また、内村鑑三は自身をドン・キホーテに見立てて話したことがあったらしいが、これはその人となりについて考えさせるものがあって興味深い。
「音吉、お前と俺のことを詳しく書いたらドン・キホーテ以上の面白いものが出来るなあ」と仰いました。ドン・キホーテとはどんな物語だか知らなかつたので、さっそく本を買つて読んでみました。
(『内村鑑三を語る(内村鑑三選集 別巻)』鈴木範久編、岩波書店、1990年、p.243)
 」
この言からすると内村鑑三は音吉のもっているユーモアはもちろん、自身の生真面目さの中にある滑稽に自覚的だったのだろうし、この滑稽を承知の上で生真面目であり続けたというのはすごいことであると思う。
 
今度は、内村鑑三を、ドン・キホーテに喩えたいようです。そして、言い訳に、「ユーモア」「滑稽」「滑稽」「生真面目」だと書いています。
 
内村鑑三は、楽山が、宗教の中身を外して、褒めたり、けなしたりするために、生きて発言していたわけではありません。キリスト教の思想家である歴史上の人物を、さんざん、オモチャにしている楽山を決して許してはいけません。
 
結局、内村鑑三のキリスト教については、前に書いてきた的外れだけで、何も書けていません。ただ、バカにしたいだけだと、今までの経過も含めて、既に結論が出ています。
 
ここまで、平気で、悪口と、詭弁の誘導に徹しているのは、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害、精神病質(サイコパス)、学習障害、そして、さらに、サディスト、という思いを深くするだけです。
 
*社会主義者
あとは、上とは正反対に、もっとも悲劇的に思えた文章は、「内村鑑三先生に上る書」(福田英子)だった。著者は社会主義者であったために破門されたそうで、文章全体に悲しみが満ちていて読むと泣けてくる。
ちなみに、著者について検索してみると、Wikipediaにはこうあった。 
内村鑑三の角筈の自宅で行われていた角筈聖書研究会に出席し聖書を学んだ。しかし、1907年に、社会主義に批判的であった内村から突然聖書研究会への出席を拒否された。直後、福田は1907年3月15日の『世界婦人』(『新紀元』の後継誌として石川三四郎と福田英子で始めた雑誌)6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書き、社会主義とキリスト教の神の摂理は一致しているのではないか、心霊上の及第にまさって物界の救助をはかることが神の真意にかなうものではないかなどと述べて、内村に対し教示を求めた。[3] 
・福田英子 - Wikipedia
 」
「来歴」を読むと凄まじすぎて思わずたじろいでしまうが、それだけ真剣に生きたということなのだろうと思う。
 
そうして、楽山の刷り込みと悪口は、内村鑑三が、社会主義者だったために人を冷遇したという話のようです。そして、こともあろうに、「社会主義とキリスト教の神の摂理は一致している」、「心霊上の及第にまさって物界の救助をはかることが神の真意にかなう」などという話を、聖書の "霊" なものを全く理解できていないのに、恐れもせず、乱暴に印象して、書いて、悪用しています。
 
楽山の "霊" の理解は、 "霊が分かるっぽい" という、とても幼稚で尊大な自覚によって、超常ホラー~マンガ・アニメの理解にとどまっていて、人間離れしたい楽山の常習の悪癖であります。
 
ごまかしに気づいてほしいのは、楽山が、内村鑑三が「真剣に生きた」と言っていることです。真剣味が、全く見られないで、揶揄、からかい、けなし、悪口を書いておきながら、最後に、世辞を入れて、嘘の理解を示してくる楽山の常套手段であります。
 
不十分でも、普通に考え、感じて、感想を書く人と、楽山は違います。全く真剣に生きていない楽山には、批判も、賛同も、表す資格も能力もないと思います。
 
楽山が、そういうレベルの、しかも、身勝手な自己中・自己愛の、妄想的理解で、真実に関わる宗教や信仰を語ってくるのは、関わる総てを腐らせるつもりでしょうか。腐肉を見て悪臭を嗅ぐような思いであります。決して楽山に関わらないでください。楽山に近づかないでください。
 
 
腐敗

腐敗
 
 
(2020年12月30日、再録)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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