ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自己愛性パーソナリティ障害

 
  楽山の害2
 
 
年が明けて、楽山がいかに悪意の人であるかが明らかになりました。ウイルス攻撃までやってくるとは、信じられない犯罪者です。前科もあるのでしょうか。犯罪者を相手にしていたとは恐怖です。自己愛性パーソナリティ障害NPDの、良心の無い表れです。決して関わってはいけない人です。
 
この4年しなかった具体的なウイルスによる妨害行為を、ついに楽山はしてきました。踏んではいけないサイコパスの獣道です。ブロガーではなく犯罪者の没落の底なし沼です。この世とあの世の、地獄への闇の道です。これからは、犯罪者として逃げるのでしょうか、白(しら)を切り続けるのでしょうか。
 
楽山は、今回、してはならないことをして平気でいられるサイコパス性を証明しました。なお、その上で、平然としてツイートを書いてくることで、さらにその態度が、罪悪感のない凶悪かつ凶暴性であることを自ら証明しています。そのことに全く気づかない情性欠如の犯罪者だということです。
 
平気で嘘を吐き、丁寧語で人を騙す性質は、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山の症状として組み込まれいるもので、前から指摘してきたことです。口だけでなく、今回、犯罪行為となって表れているということで、自己中病質の実害が、さらにエスカレートする可能性が大と判断しています。
 
楽山は、真実追求の言論と交流の場に、いてはいけない存在だと思います。
 
このまま、人のPCをぶっ壊して平気なのでしょうか。そういう人は、ふつうの顔は出来ないはずです。許されず、赦されない人になります。楽山は、真実追求の言論と交流の場に、いてはいけない存在だと思います。いずれサーバーに報告するしかないでしょう。
 
私は、キーボードが全く反応せず使えない状況なので、画面上のスクリーンキーボードを使って、マウスで、よちよちと入力して書いています。マウスでポイントするのはミスが多いですし時間がかかります。こういうことをさせて平気でいられることは根っからの病質の証明です。
 
楽山には、宗教の感受性がないと思います。御縁がないという言い方をしますが、楽山は、それ以上に悪質です。それが、今回の妨害行為によって明らかになりました。自分が理解できない宗教を否定しないではおれないという病質なのでしょう。私は、ただ、出来ることをしているだけです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
とある新興宗教の信者だったので、これはよく分かる。
こうしないと悪霊に憑依され、地獄に堕ちる
ああしないと天変地異が起きて大勢亡くなる
などと何度も何度も聞かされました😅(笑う顔、汗)
引用ツイート
naru@脱・自己愛被害
@kokorodrugstore
1月14日
あなたをコントロールしようとする人は、
あなたに「言うことをきかないと悪い」かのように思わせます。
道徳や良心の話を持ち出して罪悪感を煽ったり、
宗教ならば信仰心がどうとか呪いがだのバチが当たるなどと言うでしょう。
惑わされないでください。
相手はあなたをコントロールしたいだけです。
 」
2023年1月15日
 
カルトの脅迫めいた話を「笑(汗)の顔」で語る楽山です。どこまでも他人事だと思っているのでしょう。今になっても普通に話す常識人を気取っています。実際は、ウイルスで他者のPCを破壊した犯罪者です。このツイートの呪いとかの超常話は、カルトの話であって、宗教の本質ではありません。
 
 
 
  楽山の害2
 
 
この記事は、確定に至っておりませんので、今後、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
● 楽山の狡猾で執拗な詭弁:ボンヤリ言語による詭弁の刷り込み。
 
楽山の筆致は、深い洞察など何もないのに、読む側が批判する意志を持たなけば、気づかないうちに、そう言えばそうだけど・・みたいに、否定できないでいて、やがて、それが、受け入れ、肯定してゆくことにつながってゆくことになるような特徴があります。だますために書いているからです。
 
丁寧語、ときに若者言葉、曖昧表現、社交の世辞、などを使って、はっきり言わず、先入観的な内容や印象を、刷り込んでゆくところの、ボンヤリ言語は、特に感動したわけでもないのに、いつのまにか、受け入れてしまうという事態を生じます。
 
犠牲者は、ゆくゆくは、楽山に似た人格傾向が表れると思います。つまり、全体に、うすぼんやりした発言しかしなくなる危険があり、それによって、楽山と同じように、刷り込みによって、責任を回避しようとすることになるでしょう。
 
楽山の、不感不応による無反省と無責任と無理解と他者の無視と同じような人格像に陥るかもしれません。即ち、曖昧にネチネチ言い張ることしか出来なくなり、言葉の使い方にとどまらず、人格そのものが疲労し変質してゆく危険性があります。成長しなくなり人格破壊と言ってよいと思います。
 
似た言葉による詭弁の刷り込みもあります。例えば、「人それぞれ」「人は人、自分は自分」という言葉の妥当性からの、"自己中心" の正当化などがあります。実際は、いずれも大人の責任を持つ人の、個人の意志の尊重であり、楽山の自己中とは全く違います。
 
お笑いにも似ていますが、楽山のは、笑うどころか、極めて有害で人格破壊的な詭弁の一種であるところの「と言えなくもない」「・・そうである」「相通ずるものがある」「ならなかったのではなかろうか」「かなあ」「ていうか」等々の言い回しもあります。責任回避のための、捏造の婉曲表現です。
 
● 楽山の反省芝居:トホホ言語による謙虚芝居。
 
反省、および、反省を表す言葉、実際に "とほほ"、自己否定的な言葉、これらは、総て、楽山の三文芝居です。ゆえに、文脈において表現が浮いており、その前後においても、楽山は、何も変わっていないことが、流れの中で、判断の証拠となってきました。
 
つまり、楽山は、平気で、利己のために、嘘を吐く男です。こういうのは、読んでいく時の、何とも言えない違和感・不快感に気づかくことが、必要です。
 
楽山は、弱気など持っていません。弱気を表すのは、卑劣な受け狙いであり、ゆえに、極めて有害な、三文芝居による精神の詐欺行為であります。
 
つまり、楽山は、弱気どころか、真逆の、訂正不能の鉄仮面の、厚顔無恥であります。恐らく、高等感情の鈍麻から来ていると思われます。
 
楽山は、共感、深い、心から、などという言葉を、わざとらしく書いて強調することがありますが、前後の文脈から乖離しており、それまでの記事の流れとも矛盾しており、作為的な、冷淡な人格を隠すための嘘であり、楽山には、しんみり悲しむこと、共感すること、などの深い情緒の感受性が、欠落していると思われるので、真に受けないでほしいと思います。
 
楽山の理路は幼稚で、簡単な理路を組み立てたり読み取ったりすることも出来ないことが、錆びたオモチャを並べるような文章を書いていることに表れてきたからです。そのくせ、結果だけを、執拗に書いてくる筆致は、先入観に執着するだけで、訂正不能になっています。
 
楽山は、学習しないから成長せず、都合の良い材料を、他者の文章から探してきて、そのまま、繰り返すしかなくなっています。本を読んでも、新鮮な知識や情緒を受け取ることが出来ず、先入観の固定観念に合うもの部分だけを、自分の好みで拾って書いて強調するだけになるのです。
 
人間は、一生涯、学習し、反省し、成長する生き物です。そういう努力をしない者は、どれだけ、本の数を重ねても、どんな有名人の話を引用しても、努力したことにはなりません。
 
言論にしても、思想にしても、感想にしても、公表するだけで、賛否を問うて反省と学習をしなければ、思考の糧にすることがないわけですから、実際上、無意味で一方的な主張の繰り返しにしかならないわけです。それは、子供が、言い張って、聞かないのと同じなのです。
 
そういう者は、結局、よく思われるために、うわべを繕うことしか出来ず、そのために、数々の、嘘や詭弁や、権威や有名人の名前までも利用・悪用して、飾り、だますしか、なくなるのです。高名を悪用したとしても、ネットの片隅だから、迷惑行為など、バレないと、高をくくっているのでしょう。
 
それにしても、1年半~2年近く批判されて、まともに弁明できないくせに、反省もせず、修正もせず、嫌がらせのような返しを時々してくるだけで、答えにも返しにもなっていないのに、書くことだけはやめない高慢というのは、どう考えても、異常であります。
 
そう考えてゆくと、相当に、思想も精神も荒廃しているとしか言えない、というのが、今までの経過であります。つまり、飽くなき、無反省、無神経、無責任、無理解が、自己愛と自己中によって、無益な文章を書き続けている病質であろうと判断しています。
 
 
ネットですから、私は、楽山の書いた文章から判断しています。
楽山は、悪質な詭弁屋で、精神の詐欺師という判断です。
 
楽山については、既に、批判する前の、だまされていた数か月を、私は経験済みですが、結局おかしいと気づいた時も、その後の、それぞれの記事を読んだ時にも、いつも、吐き気がして、加えて、ただの意見の相違にとどまらない、とても異常な疲労感を覚えます。
 
自分への害だけを考えるなら、批判を書かなければ済むことですが、それでは、キリスト教の信仰を、ほしいままに、おとしめる者がいることを知りながら放置することになるので、やせても枯れても言論するキリスト者としては、看過できないということであります。
 
こういう場合に、神の導きに任せる、などと言うことは、できることがあるのに、それを放棄することになります。キリスト者の実践的務めは、ただただ、できることする、ということに尽きます。ですから、何かできることがあるのに、しないというのは、明らかに、神の前に、怠慢であります。
 
この記事は、私レベルでも、確定には至っておりませんので、今後、生きておれば、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
 
 
  教えのパラドックス
    前に思ったこと、今思うこと
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
私が、最初、読んで思ったのは、厳しすぎて、守ることなど到底できない教えだということです。情欲をいだくことがなくなれば、子孫など出来ない、人類滅亡じゃないか・・と思いました。しかし、どう見ても、守るのが無理な教えを、キリストは、なぜ、言ったのでしょう。
 
これは、その通り守れという教えではないということです。人々は、どうすれば天国に行けるか、どうすれば神のように正しくなれるか・・ではないのです。キリストは、信仰の救いは、どうすれば救われるという行為義認ではない、ということを言ったのではないか。
 
つまり、神への恐れが足りない人々に対して、何よりも、神のように正しくなることは出来ない、ということを言っているのではないかと思います。大きな結論としては、罪なき人は一人もいない、誰もが罪人なのだから悔い改めが必要なのだという意味ではないかと思います。
 
聖書では、正しいからではなく、正直に罪を認めた人や、救いと癒しを必要としているが罪に塗れていて諦めている人が、キリストによって救われています。一方、自分は正しいと思っている人は、キリストによって厳しく批判されているのです。
 
キリストは、この教えを、神のように正しくなりたいならば、こうでなくてはならないが、守れるか、守れないだろう、だから、誰にとっても悔い改めの告白と祈りが必要だ、と言っているように思えます。キリスト信仰の条件は、善でも義でもなく、神の前に正直に祈るかどうかなのです。
 
神の前で正直に祈る人は、悪意をもって、故意に不正や悪を目指すことは、しないということでもあります。
 
楽山は、その対極にあり、丁寧語を使っても、心は欲望だけのケダモノです。
 
楽山のように、慢心して凝り固まっているような病質者は、誰の助けにも参考にもならず、迷惑と害だけを振り撒いてゆきます。全ての価値観を自己満足の快楽でしか感じないのです。公共というものを何も気にしない人です。罪悪感と良心が育っていないサイコパスです。
 
嘘と詭弁でキリスト信仰を汚している楽山のような、一部の自己中体質の嘘吐きに、どうか、だまされないでください。関わらないでください。
 
 
だます だます

だます だます
 
 
(2020年)
(2023年01月16日、再録+加筆)
 
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
年が明けてから、楽山の犯罪性が明らかになっています。にもかかわらず普通を装っていられることから、サイコパスは罪悪感がなく反省しないということが、楽山を通して表れ、楽山の恐怖の本性を表しているのに、楽山だけが気づかないのです。楽山には決して近づかないでください。
 
 
 
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  楽山の無責任引用3
 
 言葉のズレ(幸福の科学と一般では、同じ言葉でも意味が違う)
 2020年12月22日 楽山日記(LD)
  を再録し、改めて批判。
 
 
楽山であろうと思われる犯罪者の妨害によるフリーズは、ウイルスかどうかもはっきりしないまま、改善しません。キーボードは全く使えなくなりました。犯人は平気なようです。罪悪感がないことは楽山と一致します。あるいは、そういう仲間でもいるのでしょうか。もはや、人間とは思えません。
 
楽山の世界は異常です。言葉の意味・概念・イメージが、浅く硬く固定されて訂正不能です。だから学術用語を使っても、歪曲され平板な意味になって、真に受けてはいけない場合が殆どです。楽山は、サイコパスに近い自己愛性パーソナリティ障害NPDだと思います。やはり危険人物でした。
 
ウイルスについて楽山から違うという弁明もないようですし、さらに、ここまで黙っていて、こちらに言われてから、違うと楽山が言ってきても、それは、今さら信用することは出来ません。今からは、ほぼ正式の呼称として、闇に隠れる犯罪者楽山と呼ぶことが多くなるでしょう。凶悪です。
 
 
信仰は、自分の罪を認めることから始まりますが、楽山には、それがありません。だから、楽山は、人のことばかり書いてきます。導いている立場を気取って、発言の大方が詭弁というやり方で、さらに自己愛と自己中を深めてゆくのです。
 
楽山の過去記事ですが、楽山は、堂々とは何も言えず、せいぜい、当てつけか、悪口を言いふらし、あとは、コピペで記事を書いたり、冷静・柔和に思わせるための嘘の芝居で、忠告めいたことを書く、というくらいしか出来ないのでしょう。
 
楽山は、また、自分の卑怯な性質をごまかすために、記事を書いてきました。しかし、その大部分が、他者のサイトからの引用となっており、そのことが、かえって、楽山が、自分では何も書けないことを露呈してゆきます。
 
 
*言葉のズレ
信者と一般人の言葉のズレについて、Togetterにまとめられていたので、ここにも保存しておきたい。
・一般とは違う幸福の科学の言葉 - Togetter
 」
全体的にみて、皮肉、風刺が効き過ぎてはいるが、たしかにこんな風なのだからおかしい(笑)。
 
おかしい楽山が、何かを、誰かを、おかしいと笑うことを、信頼しないでください。楽山は、いかなる他者に向かっても、おかしいと言う資格はありません。楽山は、自己中心の見なしで、おかしいと言っているだけです。また、ゲームのように面白がっているだけです。
 
楽山に、知性や理性があるなどと思わないでください。心の無いところに、知性も理性も感性もありません。知性ではなく無知が、理性ではなく無理が、そして不感不応があるだけです。楽山は、お山の上にふんぞり返って、人を下に見て、面白がっているだけです。
 
心の無い者には、知性と理性の代わりに、ごまかすための、世辞、嘘、詭弁、妄想、自己愛、自己中があるだけです。それらは、総て、無知によるものであり、無理にこしらえるもので、かつ、無恥によって、後悔せず、反省せず、責任を負わず、ズルズルと言い続けるだけなのです。
 
 
*一例
特に印象に残ったものを、ここにも保存しとく。
 
楽山の記録は、楽山によって恣意的に選択・操作されて出来てゆくものですから、保存せず、破棄してください。いかなる問題を解決するのにも、役には立たないと思います。楽山の印象は、無責任な忘却化、偏見となってゆくだけでしょう。
 
以下のまとめは、別サイトに書いてあるもので、楽山は、何事も、まとめることが出来ません。だから、時により、状況により、言うことが、ころころ変わります。楽山の情緒不安定と高等感情鈍麻によって、楽山の忠告めいた文章は、汚染されています。近づかないでください。
 
 
「悪魔」
(一般)特定の宗教文化に根ざした悪しき超自然的存在や、悪を象徴する超越的存在
(HS)大川隆法や教団に批判的な者、またはおかしいと思ったことをおかしいと口に出して言う者
『嘘』
【一般】
事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽?(いつわ)?り(デジタル大辞泉)
【HS】
幸福の科学に対する批判的な言説。
一説によると大川隆法無謬性信仰を元に、総裁や法を批判するとしたら嘘だからという前提に立つ。
 
何やら、分類しているように見えますが、超常の話です。理路も感受性もない楽山は、現実の大事なことを書けないのです。いつも、楽山は、人をだますために言うだけです。楽山には自己を訂正する機能が全くありません。自己愛に凝り固まっているからです。
 
物知り顔に、楽山が言うのは、他者の文章から無断で持ってきたものか、自前の、嘘と詭弁に他なりません。真実という意味では、人のことなど、興味もなく、遊び道具に過ぎないので、何の責任も負う気がないのが、楽山です。
 
 
『地獄』  
【一般】宗教的死生観において、複数の霊界(死後の世界)のうち、悪行を為した者の霊魂が死後に送られ罰を受けるとされる世界  
【HS】
長いものに巻かれず、勇気をもっておかしいものをおかしいものを言った者が死後に集う場所
 
どちらの意味でも、神も宗教も知らない楽山は、ホラーとしてホビーとしてしか考えることのできない人です。何も信じることがなく、自分以外を、寄る辺とすることが出来ないからでしょう。自己愛絶対に生きる楽山は、宗教と信仰に、生涯、縁のない人であることを表しています。
 
 
『社会的信用』
【一般人】
しばしば融資の可否を決める指標となる。収入安定や前科無しなどで測る。
【HS】
教団が大川隆法総裁の霊言に「ある」と主張するもの。
イタコ芸の回数や出版数、お金を出して新聞に広告を載せた実績などで測る。 
 
楽山に前科があるかどうかは知りませんが、楽山には、他者の心をもてあそび傷つける性質があるので、一般の信用も、HS流の信用も、ないということです。現実を無視して、超常を語っておきながら、責任も負わないし学習も修正も出来ないなら、いったい何を信用しろというのでしょう。
 
 
『自由』
【一般】義務や制限に縛られないこと
【宗教者】欲望・煩悩に惑わされないこと
【HS】大川隆法総裁が許した範囲内で選択できること
『宗教弾圧』
【一般】
個人や集団がもつ信仰を理由に、その個人や集団を差別・迫害すること。
【HS】
幸福の科学に対して他者が批判的なことを述べること。
「批判される=弾圧されている=権力側が恐れている=HSが素晴らしい証拠」と脳内変換させる途中の段階。
 
自由と、自分勝手を、混同しているのが、楽山です。社会道徳を知らず、責任とか反省とかについての知識も弁えもないことが、楽山の言動に、この約3年間、表れてきました。だから、何度も、無反省・無責任と書きます。これからも、書くことになります。
 
こういう人は、結局は、信頼されません。それを全く無視して、書くことをやめない病質が、楽山にはあります。楽山が、書けば書くほど、書いたことが批判記事とともに資料として蓄積することに、楽山は何も危機感をいだかないのでしょう。我欲に固定して、学習不能だからでしょう。
 
 
『守護霊 霊言』
【HS】一人にひとりずついる「守護霊」の話。地上に生きている人の「潜在意識」であり、「本心」「本音」そのもの
【一般】大川隆法総裁が生きている有名人に成り済まして行う、通称「イタコ芸」
『証拠・証明』
【一般】質を重視。因果関係も重視
【HS】数量を重視。霊言は数出しているので証明済み。
因果関係は、都合の良いように設定すればそれでよい。
 
楽山は、親戚が霊が分からないっぽいのには驚いた、と記事に書き、楽山自身は、霊が分かるっぽいつもりのようです。しかし、楽山の言う霊とは、宗教的なものではなく、ホラーや超常の趣味の言葉であり、何も努力しなくても備わっている霊であり、怠慢な楽山を、空想と妄想で満たしています。
 
 
『常識』
【一般】
健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。
【HS】
大川隆法や幸福の科学を批判せず、その言説や活動を尊く正しいものとして共感と賛同の意を以て耳を傾けること。あるいは受け入れること。
 
楽山が「普通の知識や思慮分別」を持っているなら、無反省・無責任ではなかったはずです。つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山には、普通の、良識や、高等感情がなく、ゆえに、罪悪感もなく、人に悪を当てはめる快感だけを求めているのです。
 
楽山は、自分信仰、自己絶対の思い込みが前提にあるので、他者を信じることがありません。丁寧語も、霊性・柔和を装うための手段に過ぎません。ゆえに、正当な理路の組み立てが出来ず、詭弁に走って、まともに見せかけたり、世辞を糊塗することで、ごまかしているのです。
 
ゆえに、楽山は、他者の言うことを受け入れることは、世辞以外にはなく、逆に、いつも、他者を、楽山の安い天秤に乗せて、評価・批評し、扱い利用したがるのです。楽山の言動は、総て、気取りによる病的なナルシストの症状だと思います。
 
 
『信仰の自由』
【一般】どの宗教を信じるか、または何も信じないかも含めて自由なこと
【HS】どの宗教を信じるかの自由。信じない自由は含まれない。
尚、大川隆法総裁が仏陀であることは、「前から知っていた」と「今知った」しかあり得ない。
 
楽山は、自由と、自分勝手を、混同して、キリスト教を、好きなように、何度も、けなして、訂正もせず、反省もせず、責任も負わないで、書き続けている約4年の流れです。これだけ批判されても、楽山は、平気でいられるだけの高等感情鈍麻による厚顔無恥です。
 
信頼度は、ゼロであり、自由など重要なテーマについて、楽山に問うのは無駄であり、また、楽山は、問うことに答えられる何ものも持ってはいません。批判目的以外で、楽山を対象にしてはいけません。決して楽山と遣り取りをしてはいけません。恐ろしい疲労が待っているからです。
 
 
『脱カルト』
【一般】悪しき集団から抜け出て社会復帰すること
【HS】基本的には一般と同じだが、幸福の科学から抜けた場合のみ「転落」と言う
『発展』
【一般】
勢いや力がのび広がること。盛んになること。「都市の―」。次の、いっそう高く盛んな段階に移っていくこと。
【HS】
以前語っていたことと矛盾することを言った時の説明。「法は-する」。
 
「以前語っていたことと矛盾することを言った時」に、何の罪悪感もいだかず、反省も訂正もしないのが楽山です。否定を言い、肯定を言い、どちらも、言った責任を負いません。真に受けると酷い疲労だけが残ります。楽山は、言論や意見交換の場に、いてはならない人なのです。
 
 
『深い考え』
【一般】
表面的・短期的なことだけではなく、本質的・中長期的なことも含めて熟考すること。
【HS】
総裁の理解しがたい言動・行動を無理矢理納得するために使う用語。
「これは、主にーがあるに違いない」
 
楽山には「深い考え」は皆無であります。借り物、無断引用、理解しないまま引用しているもの、嘘、妄想、自己正当化など、邪悪なものだけで、言い逃れに終始します。楽山が、記事を書いて、あるいは、ネットに何かを発表して、さらに深まってゆくのは、「無理矢理」な人格の異常さだけです。
 
 
『目安』
【一般】当て。 目標。おおよその基準。また、おおよその見当
【HS】基本的には一般と同じ。但し「奉納目安」となった場合は、一般の「定価」とほぼ同義
『唯物論者』
【一般】
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する価値観を持つ人。
【HS】
①宗教や信仰、霊界、真理に関心を示さない人。暗に一般大衆を指す。
②幸福の科学を批判し、エルカンターレ信仰の意義を否定する人。
 」
 
楽山の唯物論と、信仰についての言は、どちらも、心を考えていない前提です。だから人間の言葉とは到底言えないものです。学者の引用で語りますが、楽山自身は、マンガ・お伽噺・ホラー映画レベルの辻褄だけです。分かってもいないのに学問や宗教の用語を使って見栄を張ります。
 
 
*反論
今のところ、このまとめに対する信者側の反論は、KENTO氏によるものだけのようだ。
2020-12-22 パスタ氏とジョニー氏は
https://twitter.com/KENTO00687971/status/1340789023216861185
(現在、消去されているようです)
 
引用サイトに書いてある、知らないのに語るな、というのは、楽山の無知と無恥に対して当てはまるでしょう。知らない人が、知らないことさえ知らないのが、いちばんの偽善の悪につながります。楽山が、そうです。理解も洞察も直観もないのに、言葉だけ執拗で煩わしいだけの出まかせ状態です。
 
 
ツイートを読むと、冒涜だ、悪口だ、HSのことを知らないんだという風に、大変に憤慨しているけども、まとめ内容は事実に反するという論証は一つもないことからみると、信者側から見ても、これらは事実であると認めざるを得ないということなのだろう。気の毒なことである。
 
「気の毒」と言って、さげすみ、楽しんでいる、愉快犯が楽山です。楽山こそ未熟なのに、他者の未熟を指して、「気の毒」≒ 才能がなくて悟らない人は哀れだ、というニュアンスを伴う言い方しか出来ないのです。まともぶる外道の乱暴者に、だまされないでください。
 
「論証は一つもない」と言っていますが、楽山こそ、論証も、根拠を示すことも、一度もなかったのです。自分を見ないで、人のあら探しをして、批判したつもりになって悦に入る楽山こそ、他者を、婉曲の丁寧語で、疲れさせ、かつ、貶めることしかできない、悲惨で、気の毒な人なのです。
 
 
*自己を客観的にとらえること
自分がHS信者だったころ、現代新興宗教事典のようなものでHSの項目を読むと、非常に不満に思ったものだった。ワイドショーでHSについてまとめられた動画をみても不満だった。そこに嘘はなくとも、「そんなんじゃない」という激情を抑え難かったのだ。
 
今も批判に対して、まともな返し、つまり、弁明や反論が出来ず、動機と根拠が、批判者についての、捏造の事実や、詭弁や、決めつけ~妄想に過ぎない楽山です。それと、恐らく、楽山には、激情も、情熱も、無いと思います。楽山にあるのは、欲求不満だけだと思います。
 
 
でも今にして思うと、この時の感覚は、録音した自分の声を聞いたときの感覚と似ているのかもしれないと思う。実際の自分の声は、自分が思っていたのと違っていたのと同様に、実際のHSも自分が思っていたのと違っていたので、そこに戸惑いが生じていたのだと。
 
楽山の感覚は今も同じです。こういう反省のような発言を真に受けないでください。無反省と言われたものだから、あたかも、反省しているかのような、過ちを認めたかのような、思いやっているかのような、楽山独特の芝居です。「反省、とほほ」とか言うこともあります。
 
反省文を書くときに、「とほほ」とか、書くでしょうか。こうかけばいいじゃろ・・という気安さで、言葉を置いているだけで、その前と後に、全く変化も成長も見られなかったのです。これは、中身のない大根役者、楽山の、低劣な、偽りの三文芝居なのです。
 
楽山の芝居や詭弁を、今まで楽山の言ってきたことが、ことごとく否定しています。真実の追求は「録音した自分の声を聞いたときの感覚」と言って弁明できることではありません。拙劣な比喩を書いているだけ、うまく表現できたと思っていることが恐ろしいのです。
 
言葉のズレではなく、体質的な欠陥ですから、治ることは期待できず、実際、約4年間、変わることなく、成長も改善もすることなく、続いています。自分を見ない楽山は、言論者・批判者には決してなれません。楽山は、いわば個人カルトであり、約4年間、嘘と詭弁と無理解しか残していません。
 
楽山の発言の、正当性の証拠が、今まで、ずっと無いので、言えば言うほど、無根拠の嘘の芝居になります。他者を、いつでもだませると軽く見ている証拠です。楽山は、発言が、ことごとく失言となって山のように積み重なっても、全部無視して、不感不応の独り芝居を続けています。
 
 
KENTO氏以外にも、上のまとめに反発を感じる信者もいるだろうけれども、この辺りのことに注意しつつ、事実は事実と率直に認め、反省すべきところは反省し、修正すべきところは修正したらいいのではないかと思う。
 
「反省すべきを反省」せず、「修正すべきを修正」しないのが、まさに楽山なのです。人のことを、とやかく言う資格はありません。注意、忠告、反省・修正を促すことが、自分で出来ないし、言われてもしない楽山は、実に、厚顔無恥となり、人格が悪魔性になってしまいました。
 
楽山の発言は、自己愛に慢心したベースからの出力です。これに頷けば、結局、人間性と共感性を破壊されて、腐った麩(ふ)のような中身のない、偽りの人格模様になるでしょう。どうか、自分の精神衛生のために、精神を侵す公害の楽山に、関わらないでください。近づかないでください。
 
前の記事で「信仰も棄ててしまえばあっけないもの」と書いた楽山は、あっけなく信仰について否定の結論を出してしまうほど考えることに怠慢で短絡的で、その精神から、学習しなくなったために、何を書いても熟練の欠片も生まれないゆえに、何も成り立たないという地獄に落ちています。
 
 
欠落の単方向

欠落の単方向
 
 
(2020年)
(2023年01月15日、再録+加筆)
 
 
 
  不眠と雨音
 
ときに強く
今にも屋根を天井を貫き
身を貫くかのように
上から下へ容赦なく叩きつけて
天からの怒りのようでありながら
絶え間なく打ち続く夜の雨音にも
トトンピチャピチャと撥ねる音
ボトリボトリと落ちて当たる音
流れる水の音が渾然(こんぜん)一体となって
響く夜のシンフォニーは単調ではない
 
絶え間なく落ちてくる水滴は
水となり水に叩かれ水となり
淀み
流れ
躊躇(ためら)うこともなく
変わり続ける夜のオーケストラは変調でもない
 
絶え間なく過ぎている時間にいて
外も内も変わり続けていることに
変わり果てた姿に唖然とするまで
気づかない壊れた楽器は
オーケストラになれない
 
眠れぬ夜のシンフォニーに
しばし耳を欹(そばだ)てて
眠れぬ夜の耳鳴りと区別しながら
もはや明日の目覚めと呼べなくなった
今日の睡眠を水に流している
 
 
  早朝の時間
 
眠れない夜ふと
とうの昔忘れたものに
眠らない夜の向こうから
呼ばれたような気がして
澱(おり)を覗(のぞ)いてみる
 
そう簡単に覗けるはずもなくて
深林のような
墓地のような
来たところから帰るところへ
明日の目覚めは望みません
と祈りさえしたくせに
 
一方では
いきれのような
ほとぼりのような
まだ足りない
まだ足りない
まだ尽くしていないと焦がれていて
いたたまれない時間がまだ残っている
と呟(つぶや)くほどにかすんでゆくから
習慣も癖も拡大しないと壊せない
崩せないフォントの往来だ
 
いってらっしゃいで帰ってくる
ただいまで出かけてゆく
集散も孤独も活動しないと死にきれない
早(はや)眠れない速度の早朝だ
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
神ノ義ヲ得ルコトガデキル
神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
人ハ生キルコトガ許サレテイル
人ハ生キルコトガ望マレテイル
人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
私ハ伝エルベキ
何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善と崩壊を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書いても、本当に反省することはないようです。心を持たず、無反省と無理解のまま、言葉だけ書いて済む世界など存在しないのです。
 
 
 
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  今更あざとい
 
 『人生に悩んだから「聖書」に相談してみた』MARO(マロ)著
 2023年01月12日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
楽山には、ウイルスを使った疑いがあります。楽山に作れるとは思えないが、怪しいサイトから仕入れることは可能でしょう。もしそうだとすれば犯罪者ということになります。そこまでやってしまうというのは意外でした。根っからの悪ということでしょうか。
 
ウイルス攻撃が続いています。恥ずかしいという感情を持たないようです。楽山は、約4年も、批判に不感不応で、かつ、罪悪感がないようです。さらに、批判されながら弁明も説明もせずに無視して、なおも騙せると高を括って、平気で書き続けるのも異常です。
 
今まで、散々キリスト教を貶しておいて、ここで褒めればプラスマイナス=ゼロが成り立つと思っているのが大人になり損なった楽山です。謝罪も訂正もないまま、キリスト教を褒めてやった、これでチャラだとでも言いたいのでしょうか。むしろ、批判を続ける動機になります。嘘だからです。
 
 
*はじめに
 聖書の分かりやすい解説本はないかと探していたら、本書を見つけたので読んでみた。マロ氏の著作なら、面白くて、ためになるに違いないと思ったので。
 
「面白くて、ためになる」ことを全く書いたことのない楽山です。楽山は、聖書の解説を読んでも何も分からないと思います。聖書は、謙虚な良心に響く書物です。自己愛性パーソナリティ障害NPDが受け取れるようなことは何も書かれていません。ためになることを全て捨ててきたのが楽山です。
 
 
*教会
結果はと言うと、期待通り…いや期待以上だった。くすっと笑えるところ、心がほんのり温かくなるところ、聖書について「なるほど」と思える話が多々あった。
 
「くすっと笑える」「ほんのり温かくなる」「なるほど」・・全部、嘘です。何を笑ったのでしょう。なぜ暖かくなったのでしょう。何を理解したと言うのでしょう。何も書けない楽山です。自己愛しか持たない者が真善美を気取ると、こういう醜態になります。
 
 
二、三の例を挙げるとすると、まず一つは教会に関する記述である。教会は「すべての人に開かれている場所」であり、「クリスチャンではない人でも、つらいときは逃げ込んでいい」(p.22)のだという。また教会は行く場所というより、「「帰る」場所、すなわちホーム」(p.32)であるという。こういう話を聞くと、教会を身近に感じるし、その優しさは心にしみるものがある。
 
偽善者もサイコパスも、教会に逃げ込むことはないでしょう。こう書けばええじゃろと思って書いても、悪の本性が、それを裏切るのです。三文芝居は浮いてしまいます。本性は表れてしまい、隠すことは出来ないのです。なんて白々しい、そして、わざとらしいのでしょう。表現の心がありません。
 
 
*「いいこと図鑑」と「良書の証」
もう一つは、「いいこと図鑑」のすすめである。どうしても悪いことにばかりに注意が向いてしまう場合は、意識的にいいことを見つけ、日記に書き留め、自分だけのいいこと図鑑をつくろうというのである。いいこと図鑑、または、いいこと日記というのは想像するだけで気分が明るくなるし、いいアイディアだと思う。
 
楽山は、いいことを理解したことも書いたこともあません。この記事も悪だくみしか表れていません。浅く、白々しくて、軽すぎる筆致は、読むに耐えず、痒くなりそうです。楽山にあるのは、欺きの手引きだけでしょう。文脈を無視した飾りは言葉は浮いてきます。まともに書いた文章ではありません。
 
 
三つ目は、眠くなる本は良書の証だという話である。その理由はといえば…悪い演奏では寝ていられないが、良い演奏ではうとうとすることができる。同様に、おかしなことが書いてある本は不快でとても眠ることはできず、むしろ目が冴えてしまうことさえあろうが、いい本を読めば心は安らぎ、すやすやと眠ることになる。
 
楽山は、眠くなった状態で何を読み取ったというのでしょう。うとうとしながら何を理解したというのでしょう。楽山は、うとうとするのが理解だと言っています。楽山に無視を教えたのは読書だったようです。読めば読むほど集中するのが良書です。楽山は読書してないと思います。異常性の証拠になります。
 
 
したがって「有史以来、おそらく世界でもっとも多くの人を眠りに落とし込んでいる本であろう聖書は、世界でもっとも良い本である」(p.49)のだそうな。こういう風が吹けば桶屋が儲かる式の理屈は、実に愉快である。
 
正気でしょうか。楽山の悪意と無教養が漏れ出しています。しかも「風が吹けば桶屋が儲かる」という喩えを読書に当てはめています。楽山は、本を読むことを、眠くなることに喩えて、かつ、よく眠れるから良いと言っているのです。愉快だそうです。人格障害の、すごいズレ方です。
 
 
*「試練」と「誘惑」
四つ目は、聖書の言葉についての話であるが、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」(コリントⅠ 10:13)の「試練」は、ギリシア語では「誘惑」という意味もある言葉であり、本来は「越えられない困難はない」ではなく、「越えられない誘惑はない」と訳すのが本当であるという。だから越えられない試練は現実にありえるのだから、そういうときは、自分だけで苦しまずに神様を頼っていいのだと…。
 
どこの誰の説なのでしょうか、楽山は、書いていません。神の与える試練は、悪魔の誘惑を伴うこともあるのでしょう。「自分だけで苦しまずに神様を頼っていい」・・今さら、どの口が言わせるのでしょう?楽山は無神教カルトです。好きなようにキリスト教を貶めてきました。
 
 
この部分は長年、違和感があったところなのだが、この説明を読んで真夏に水浴した後のようなさっぱりした気分になることができて有り難い。やっぱりマロ氏の著作は面白くて、ためになる本である。
 
今さらのきれいごと、「真夏に水浴した後のような」・・鈍い比喩ですが、「越えられない試練は現実にありえる」・・信仰のない楽山は、できることもしないで言っています。また、信仰者の忍耐を甘く見ている楽山です。「面白くて、ためになる本」・・べた褒めの世辞しか言えない。
 
 
嘘の世辞の卑怯

嘘の世辞の卑怯
 
 
(2023年01月14日)
 
 
 
  創造
 
今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している
 
ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する
 
存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、ウイルスを使った疑いがあります。楽山に作れるとは思えないが、怪しいサイトから仕入れることは可能でしょう。もしそうだとすれば、犯罪者ということになります。そこまでやってしまうというのはい意外でした。根っからの悪ということでしょうか。
 
 
 
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  カルトの棄教3
 
 信仰も棄ててしまえばあっけないもの
 楽山のブログ。2019/6/30(日) 午前 10:37
 
楽山の仕業である可能性を濃厚に疑っているウイルスらしいものによる間欠的フリーズが続いています。これで罪悪感をいだかないでいられるのは、不都合に対して罪悪感を感じることもなく悪意の衝動的な行動に走るサイコパスの犯罪者としか思えません。羞恥心のない恥知らずです。
 
入力が遅くなるけどマウス入力を試しています。間欠フリーズと比べて、入力時、精神的に楽な方を選ぶことになるでしょう。これだけの迷惑をもたらして、平気でいられる犯罪者は、とうてい人間とは思えません。決して関わってはいけません。
 
サイコパスは、罪悪感がないから、悪いことをしても、うまくいかなくても、失敗とは考えずに、反省せず、人のせいにします。まともな情がないので、説得力もないのに、詭弁の屁理屈をこねます。いつも上から、評論家気取りで、裁き主のように、ぐだぐだと人のことばかり言って満悦します。
 
犯人は、自分もウイルスに攻撃されました、などという言い逃れをしてくるかもしれません。サイコバスは平気で嘘を吐きます。サイコパスは、罪悪感、羞恥心、悔いる心を持ちません。人に共感したり人を愛することが出来ません。責められると憎んで、仕返しすることしか考えません。
 
 
「信仰も棄ててしまえばあっけない」というのは、下にあるようにkeitaという人の言で、佐倉哲という人が引用したものです。二人とも神否定のようです。これを、楽山は、反キリストのサイコパスらしく、キリスト教と神を否定するために引用~悪用しています。佐倉哲の筆致は、楽山に似ています。
 
はたして信仰は「捨ててしまえばあっけないもの」でしょうか。決めつけられない絶対の存在を妄想的に断定するカルトや無神教カルトにおいてのみ、あっけない、と言えることです。宗教と信仰の真実の深みを何も知らないのに、この記事で、楽山は、分別もなく棄教を勧めています。
 
真の信仰は、関係であり、絆(きずな)であります。神のほうから救いの約束を反故(ほご)にすることはありません。人が救いを拒むことはありますが、あっけなく捨ててしまうことは出来ないと思います。狭き門は、いつも、狭く開いているのです。心無い楽山には見えないだけです。
 
ただ、シャロームのような、悪意が継続するような偽者は、捨てるというより、最初から、信じる気などなくて、自尊の飾りとして言葉だけ「信じている」と言い、中身の乏しさを埋めるかのように、讃美しまくったり、全く成り行きも道理も立場も弁えず、余裕ありげに振る舞います。
 
人間の最も下等な欲望に生きている自己中のケダモノは、笑いと怒りしか持っておらず、しんみりした悲しみの情がありません。だから、反省せず、不都合を無視して、人間離れに快感を感じるのです。平気で人を傷つけて、それを自らの優位と感じて満悦するのでしょう。
 
 
・「信仰を棄ててしまえばあっけないものです」 keitaさん
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/neo/n148.html
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。
 
カルトは、超常を決めつけるところから始まっています。つまり、人間の手に負えないところを、決めつけて信じ込むために、無理が生じます。強く思い込み信じ込むことに、大きなエネルギーの無駄遣いをするのです。それを、キリスト教といっしょにするのは、甚だ迷惑です。
 
「棄教とは無理を止めること」と言っていますが、楽山の言は、思い込みだらけ、無理だらけです。他者のことを、とやかく言っても、自分のことについて何も気づかない楽山です。何かの忠告をしても、気づきがないのだから、当たり前のことしか言えなくなり、インテリ芝居をするしかないのです。
 
そのために、上に書いてあるように、何も知らないのに、知っているかのように振る舞う無理があるのです。自然体と書いてあるのは、不完全であることを自覚する人間に戻ることであり、必要なことですが、楽山は、妄想的に訂正不能の否定をもって語る、極めて、犯罪性の高い異常人格です。
 
楽山とシャロームは、言葉遣いは、わざとらしく丁寧ですが、徹底して自己中心です。シャロームは神の意志と行為を決めつけて、どんでん返しの奇跡で救われると言い、罪を認めず悔い改めることのない偽牧師です。
 
楽山は、不都合な一切のことを無視して、ボンヤリ言語の曖昧さで語るだけです。そうやって慢心できることこそが異常なのです。二人は、同一の成りすましかもしれませんし、どちらも、罪悪感のない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。
 
 
キリスト教にも、神を思い込んで信じ込んで、神の前で祈りの体裁を整えようとする信仰者もいるかもしれません。間違っていると思います。まるで社交の礼儀のような、神に失礼なことを言わないように整えて善いことばかりを唱えても、正直な本心でないなら救われることはないと思います。
 
誰も、神の前で、立派に物が言えることなどあり得ないからです。それは、聖書の中の、胸を打ち、赦しを乞う取税人の祈りに表れているのです。それがキリストの教えであり、楽山とシャロームは、そこを全く理解していません。それぞれ、反キリストと偽牧師としか言いようがありません。
 
何度も言いますが、神の前には、精いっぱいの正直しか通用しません。祈るとき、すでに心を見透かされているのです。したがって、祈りが立派かどうかを神は見ているのではなく、人の信仰の唯一の正しさとして、正直な祈りを、神は待っておられると考えるべきなのです。
 
処女懐妊、奇跡、肉体の復活を、起こったと信じ込むことが信仰なのではありません。それらが史実であってもなくても、人間の手には負えないことゆえに、史実と信じ込んでも、人間の心には、固定観念か強迫観念が生まれるだけなのです。正直に、分からないと言うべきです。
 
これも何度も言いますが、神の完全と人の不完全を弁え、キリストと人間との交流から、キリストの共感と同伴すなわち愛を知った人間は、人間として生きて成長するために、キリストを忘れることが出来ないから、キリスト者(クリスチャン)なのです。
 
これは、観念でも論理でもなく、キリストの愛に触れて、キリストを好きになること、すなわち、愛によって絆(ほだ)されることです。だから、人間性を超えるものなど、要らないし、むしろ、信仰者にとっては邪魔なのです。愚かにも、その超常の奇跡を信じ込んでいるのが偽牧師シャロームです。
 
 
keitaさんの文章を再読してみたけど、その通りのように思う。
信仰は棄ててしまえばあっけないものだ。
宗教の教え…特にその世界観は、
信じているうちはリアルに感じられるけれども、
信じなければ少しもリアルではなくなる。
そのあっけなさは、驚くほどだ。
 
楽山は、真の信仰を知らないから、また、自身の完全欲から世界観を欲望しているだけだから、たとえ、楽山が信仰を捨てたと言っても、真の信仰は人を捉えて離しません。何故なら、共感に満ちた愛というのは理屈ではないからです。楽山が、あっけないのは、不都合な思考と記憶を捨てることでしょう。
 
信仰を捨てても、心のどこかに残るでしょう。一度、道を外れ、否定したとしても、真面目に信仰を考える人には、また、祈りにおいて、飾ったり、嘘を吐いたりした人にも、再び、罪を悔い改める機会は、いつでも与えられています。それが神の寛容です。
 
信仰は、一気に悟る境地ではなく、信仰は、学習し成長するための道です。その旅を支え続けるのは、聖書であり、キリストからの共感は、キリストへの共感となり、正直な告白と祈りとなってゆきます。神聖の辻褄など、地上の人には、理解できるものではありません。
 
自分の日常における罪や善悪についてさえ、人は、自分の言動の影響を、影響がなくなる果てまで追うことなど出来はしません。罪の自覚と善悪は、人にとって、時々に、感じることであり、完全に知ることではないのです。私たちの不完全は、ここに明らかであります。
 
あっけないのは、カルトのほうでしょう。カルトは、妄想に理屈が絡んだだけのものだからです。カルトの場合、それで救われるかどうかは根拠がないために、殆ど、無謀で投機的な賭けの持続になるのです。だから、株券のような信仰を捨ててしまうと、あっけなく終わるのでしょう。
 
以前の記事で、運命論肯定のように、自由意志を否定しておきながら、取っ払ってしまえば、などと、信じているものを、自分で取っ払うことが出来るような言い方です。何も持っていないから、楽山の忘却こそ「あっけなさは、驚くほどだ」ということです。
 
 
ついでに言えば、これと同じことは、宗教以外のことにも言える。
たとえ自分が、これには意味がある、価値があると信じていることであっても、
そういう思いを取っ払ってしまえば、とたんにそれは無意味、無価値になってしまうものだ。
 
またまた、楽山の、詭弁というか、壊れた理路の瓦礫です。一般的な話になりますが、信じていることなら、思いを取っ払うことは出来ないはずです。その、出来ない状態の自覚を、信じている状態というのです。楽山は、何も本気で信じていないから「無意味、無価値」という暴言に至ります。
 
 
この点、GO!GO!7188の歌詞は、当たってる。
 やり切って やり切って やり切って
 初めて気づいた
 ずっとこだわってたことってよく見るとすごく小っちゃい
 ほんとうにバカみたい笑っちゃう
・飛び跳ねマーチ
曲はこんな感じ(上の歌詞の該当部分)。
・飛び跳ねマーチ/GO!GO!7188
https://youtu.be/crKVjNW-aEg?t=1369
一曲まるごとだとこう。
・飛び跳ねマーチ/GO!GO!7188
https://www.nicovideo.jp/watch/sm20383667
ちなみに、こういう状況の対抗策としては、次のような考え方があるという。
「一切は無意味であるなら、自分で意味を見出せばいいのだ。
一切は無意味であるからこそ、人は何にどのような意味をつけるか自由に決定できるのだ」
意味、価値のあっけなさに気が付いたものの、虚無的にはなりたくない人にとっては、
これは一理ある考え方ではないかと思う。
 
またまた、恐ろしい脱線です。無意味であるなら、自由に自分で意味を決定できる、と言っています。無意味が本質なら、自分で、捏造してよいということになるのです。つまり、詐欺でよいと言っているのです。極めて悪質です。楽山は自分で意味を捏造する人です。
 
無意味であるなら、というのは、どういう仮定なのでしょう。本質を指して言っているのでしょうか。本質が無意味なら、どこまでも、無意味です。楽山は、何を言っているのでしょう。・・ちょっと、耐えがたいので、発散のため、ひと言、罵詈雑言、吐きます。・・馬鹿か・・
 
あとで暴言吐いたと言われそうですが、その通り、暴言吐きました。私の場合、理由と根拠を示してきた批判や意見に対して、相手の無礼なオトボケや無反応が続く場合、ガス抜きすることはあります。暴言ですから罪ですが、楽山のように無視して、やさしさ芝居するよりはましだと思います。
 
楽山やシャロームという病質者は、ガス抜きが必要なほど何の役にも立たない雑言を、殆ど発作の重積のように繰り返すのです。聞く者の理路を混乱させ、ボンヤリさせて、その深い情緒や理性を破壊してゆきます。その先には、人格破壊が待っています。どうか、この二人に近づかないでください。
 
 
((コメント欄))
 
>(シャローム)
楽山さん こんにちは
記事を読んでふと孫悟空の話を思い出しました。
まちがいかな?
あちこち、飛び回り、ふと気がつくて、どうもまたおなじところに行き着いたようだ。ふと見上げると優しいまなざしに見つめられているのに気づいた。なんと自分があちこち飛び回っていたのはお釈迦様の御手の中で、ぶつかっては止まっていたのはお釈迦様のゆびだったのだと。宗旨替えしたわけではありませんよ。(笑)
2019/6/30(日) 午後 0:38[ shalom ]返信する
 
確かに、シャロームは、学習も成長も拒否しているので、達しえたところという自覚に安穏として薄笑いを絶やさず、世界の総てが成長を求めて変転していっても、ずっと同じところにいるわけです。神の意志を決めつけて、これで大丈夫と信じ込む腐った信条の沼に浸かって、笑っていられるらしいです。
 
孫悟空のストーリーから言うと、どれだけ遠くに飛んだつもりでも、お釈迦様の、手のひらをさえ超えるものではなかった、という、悟空の思い上がりを戒める話だったと思います。つまり、それで、悟空は、絶対者を知り、恐れ、崇めるようになるのでしょう。シャロームとは、真逆です。
 
それを、遠く離れても、いつも神は自分の味方という身勝手な話にすり替えています。自己中心に凝り固まってしまうと、いくら神聖の名を唱えても、余裕の笑いを見せても、偽善になってしまうということです。それは、真っ向からの背教であります。
 
本質を何も弁えず、思想家・宗教家・聖職者のつもりでいるシャロームが、また「(笑)」をつけて、和みのつもりのコメントを入れています。真摯に批判に向き合う信仰も思慮もないので、笑って、和みの嘘芝居しか出来なくなっています。
 
シャロームの和みは、嘘を土台として、無条件に、いつでも生まれます。状況を無視して気安く笑えるのです。現実離れしたカルトというのは、反省がなく、後悔もせず、気楽に、とんでもないことを書いてきます。前に「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」という暴言がありました。
 
キリスト信仰から宗旨替えしたのではなく、シャロームは、キリスト信仰者ではないのです。シャロームが、いくら、宗旨替えしていないと言って、いくら神を讃美しても、自尊から生まれた信仰?を訂正不能に信じ込んで、罪を認めず、悔い改めをしないのだから、堕落するプロセスでしかいないのです。
 
 
楽山とは、自己中心という共通点のために、好意的に付き合っているシャロームです。一人の成りすましの可能性もあります。シャロームと楽山に近づかないでください。キリスト信仰は自己中心とは正反対のところにあります。
 
シャロームは、総ての不都合を、楽山と同様に、無視しているから、笑えるのです、というか、笑ってしまうのです。笑っている場合ではないことが8年続いていても、分からないで、笑って済ませられるのでしょう。。
 
シャロームも、楽山も、前にコメントの遣り取りをしたことがありますが、こちらの話を全く理解できず、偏向した仲間ぼめだけを、ぶつけてきました。人間なら分かるはずのことが、分からない、そして、受け取る気がないのです。だから、今では、直接のコメントの遣り取りはしない方針です。
 
 
「またおなじところに行き着いたようだ。ふと見上げると優しいまなざしに見つめられているのに気づいた」・・なぜ、シャロームは、こういう白々しいことが書けるのでしょう。それは、シャロームが、信仰者キャラなので、悟ってるふうを装っているからです。
 
戒めの話は、戒めとして、神の救いと祈りに結び付いてゆくのですが、シャロームは、戒める神も懲らしめる神も信じていませんから、シャロームにとって神?は、いつも、シャロームの総てを肯定してくれるだけの守り神?でなければならなくなります。
 
シャロームにおいては、戒めの話も、自分が何をしても、神?が、いつも自分を守ってくれる、という都合の良い話に、ほぼ自動的に、変換してしまうのです。これは、妄想であり、カルトであり、悪魔性でしかありません。この神への冒涜は、楽山の言と、よく似ています。
 
楽山とシャロームは、嘘を吐いて、騙して尊敬を得ようとする病質者です。それは、神と人の違いを弁えず、不正直であり、自己正当化することであり、聖書において、神が最も嫌う人の姿です。キリストによって痛烈に批判されたパリサイ人と同じ人格障害者です。
 
真の神は、このような身勝手をゆるしたでしょうか、否です。聖書を読めば、その多くの記事において、明らかなのです。自分で決めつけた聖三位?と信仰?を絶対として慢心し続ける者も、否定し続ける者も、神が赦して信仰の義を与えることは永遠にないということです。
 
 
魂胆は嘘の培地

魂胆は嘘の培地
 
 
(2021年)
(2023年01月13日、再録+加筆)
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  微生物
 
疲れたときには伝説が一つ
散ることも咲くこともなく
終わりのない物語の
序曲と余韻に
しおりを挟んで
明日への冷ややかな虚構と
原稿から本棚への疑問符とともに
すうっと胸に落ちるだけでいいのに
 
あたり一面に
眠らない微生物が
静けさを沈黙に変えて
沈黙の耳を敷き詰め
殺すでも生かすでもなく
責めるでも癒すでもなく
渇きの荒れ野に放り出す
 
姿は見えず消え去ることもなく
まだ終わらない一日を問い続ける
物言わぬ声
問いに問いを重ねて
耳に止まない歌声は
いつしか私の中にいつも住んでいて
昼となく夜となく
微生物たる証を求める
微生物たる私を求める
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて呟く
ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
 
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善と崩壊を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書いても、本当に反省することはないようです。しかし、無反省で無理解のまま、言葉だけ書いて済む世界など存在しないのです。
 
楽山の人生観を、その言葉と意志から見てゆくと、とても、貧相で悲惨です。うわべの世辞で好感を得て満悦し、都合が悪くなると嘘と詭弁で混乱させて満悦し、誰とも心が通わないのにインテリ気取りで満悦する、という、中を見れば何もない、実質、作り話の空想に過ぎないのです。
 
自己愛性人格障害者~サイコパスは、正体がパレれば、何の魅力も能力もない人です。自己顕示欲のために、高い位置に立っているつもりで気取って書いて、醜い正体をさらしても、何も気づかないのです。人類の敵は、○○主義ではなく、いつの日も、いつの時代も、罪悪感のないサイコパスなのです。
 
 
 
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  楽山の反省芝居2
 
 『知的生活の方法』渡部昇一著
 2021年12月27日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
ウイルスか荒らしのせいで、キー操作が約10秒ほどフリーズと復旧を繰り返す、という異常が続いています。つまり、文章作成に要する時間が約2倍になります。こういうことをして、いわば、他者のネット寿命を半分に短縮することしか出来ない犯罪者がいます。
 
この犯人には、大きなテーマについて、個人が、未熟を承知の上でも、それなりに情熱をもって、命を込めて、文章を作成して公表する心が、理解できないのです。自己中の欲求不満の憎しみから直情的に行為に短絡して、後先を考えない衝動的なサイコパス人格なのでしょう。
 
 
楽山は、反省文らしきものを書いてきました。とても浅い、おふざけに過ぎません。既に、4年近くが過ぎ、無反省と無責任では済まないのです。それでも、呆れるほど、全ての非を無視したまま済ませようとしてきます。楽山が書けば、批判記事が付いてくる、という成り行きが続きます。
 
 
*内容
『知的生活の方法』を読み返してみた。前半は知的生活の基本(自分に正直であること、繰り返して読める愛読書を持つべきことなど)が説かれており、後半は知的生活を継続する上での注意点、教訓などがいくつも紹介されている。
 
知情意の全てが不足~欠損している楽山が、「知的生活」などと言っています。気取っていないと気が済まないのでしょう。正しい教訓を真摯に受け止めているなら、現在のような嘘と詭弁のお気楽山にはならなかったはずです。また、嘘を吐きました。信頼度ゼロらしい日々を過ごしているようです。
 
 
*反省
前は本書を読んで、わくわくして前向きな気持になったものだったが、今回はそれよりも自分の未熟さを思い知らされた気分である。
 
「わくわく」しなくなったのは、高等感情鈍麻が進行したからでしょう。ますます生きるセンスが壊れてゆきます。それを反省せずに正当化する嘘の生き方です。「未熟さを思い知らされ」ているなら、今回の記事など書かなかったはずです。楽山の言葉が、楽山の嘘を知らせています。
 
 
まず一つは、自分は克己心が弱まり、背伸びした読書をしなくなっているということである。著者は楽しみとしての読書だけでなく、意志を用いた読書もしているらしい。でも最近の自分は、後者の読書はさぼっているので、ここは直したい。
 
「背伸びした読書」とは何でしょう。楽山が、現にしていることであり、恐怖です。「意志を用いた読書」とは何でしょう。楽山は、誇大妄想的に、いい言葉を拾っては自分に当てはめてきただけです。実にお気楽に「ここは直したい」と言って、忘れてゆく楽山です。全部、嘘です。
 
 
もう一つは、未読本を追いかけてばかりで、同じ本を繰り返し読むことを怠っているということである。本を十冊読むとしたら、そのうち二、三冊は過去に面白いと思った本の再読にしてみようかと思う。三つめは空間確保である。こればかりは良い案は浮かばず、今後も改善できそうにないのが残念。とほほ
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の精神病理から言葉を選んでいるので、「とほほ」が読者に対して失礼だということが分からないのです。ならば、反省して、自らの書いてきたことを否定するしかありません。この3年間は、「とほほ」で済む話ではありません。
 
病質のために無反省だから、おかしな文章を書いてくるのです。言い換えれば、「とほほ」と言えば反省したことになると思う心性が異常であり病質なのです。真剣味がない方向に人格破壊が起きているのです。「とほほ」と書くくらいなら「改善できそうにない」なら書くべきではないということです。
 
 
この他にも反省点は多くあるのだが、とにかく今回は自分のふがいなさを痛感した次第である。でも落ち込んでいても仕方がないので、自分なりに状況を改善する努力をすることにしよう。
 
「反省点」「ふがいなさ」「痛感」「改善する努力」・・今までのことがなかったら、うっかり真に受けてしまいそうな、謙虚芝居の楽山です。しかし、無反省で、言葉だけで、実際は、努力というものをした跡が表れたことはないのです。楽山が、否応もなく、楽山の失格を表すブーメランです。
 
「状況を改善する努力」という当たり前のことを、全然してこなかった楽山が、今さら、何をするつもりなのでしょう。楽山には、何を言っても信じてもらえず、相手にされなくなって、独り言だけの日々が待っています。人間で在り続けることから、どんどん、遠くなってゆきます。
 
 
(ネットより)
イソップ童話のひとつ「オオカミ少年」。「嘘をつく子供」というタイトルでも知られています。ではまずあらすじを簡単に紹介していきましょう。
ある村に、羊飼いの少年が住んでいました。退屈しのぎに「オオカミが来たぞ!」と叫んでみると、大切な羊が襲われたら大変と、大人たちが武器を持って大慌てで飛び出してきます。しかしオオカミはどこいもいません。
大人たちは少年を叱りますが、少年はその後も懲りることなく嘘をついては、慌てる大人たちの姿を見て面白がっていました。
ところがある日、本当にオオカミが現れます。少年は慌てて「オオカミが来たぞ!」と叫びましたが、もう大人たちは誰も彼の言うことを信じてくれません。
結局助けは来ないまま、大切な羊たちは皆オオカミに食べられてしまったのでした。
このあらすじから転じて、「オオカミ少年」という言葉は、嘘をくり返して信用されなくなった人という意味をもつようになりました。
 
まさに、楽山は、ひどい目に遭うまで恐れを知らぬ、嘘吐きの、オオカミ少年の、成れの果てに向かっています。本当に危ない時に、崖っぷちの大事な時に、誰にも助けてもらえない人生です。
 
 
自滅ガイド

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(2021年)
(2023年01月12日、再録+加筆)
 
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな君の住む国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
期待するものと
期待されるものの間で
つり上げられた信仰が
病気の小魚のように
しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
幼子が胎に宿った
と言われた夜もそのようになれ
わが愛する人々は遠く去れ
二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の嘘と詭弁と罪と偽善が「人間の性」であるなら、とうに人類は滅びています。楽山の被害者は、おとなしく退いてゆく人ばかりではないと思います。楽山が良心のある人ではないように、この地上には、良心のない人が、いっぱい、います。心からの反省は、そういうこの世を生きるためです。
 
人間でなくなってゆく危うい道を、楽山はさまよっているのです。オオカミ少年みたいな楽山が、同類の、嘘吐きやサディストに出会う、という、ヤバいプロセスでは、相手の暴力性によって、路地裏に転がり、がけの下に潰れ、海面に膨らんで浮かぶような惨事もあり得るでしょう。
 
 
 
自己愛性人格障害の男性の行動の特徴について
 
自己愛性人格障害の男性の行動面の特徴は、女性のケースとも共通しているものもあります。しかし、女性とは違うのが、自己愛の強さからくる行動が「男らしい行動」として好意的に解釈されてしまい、受け入れてしまうことがある点です。
 
(最近はめっきり聞かなくなりましたが)男尊女卑、家父長制、亭主関白といった文化・風習に通ずるものがあるために、自己愛が強くて面倒な男性として見られるのではなく、昔気質な男性として、自己愛の強さからくる迷惑な行動が許容されてしまうのです。
 
しかし、傲慢で自分勝手な行動に出る割には、内心は非常に臆病で小心者な一面がある。しかし、そんな「男らしくない」内面を他人に知られれば、自分の自尊心が深く傷つく恐れがあるからこそ、更に傲慢さに拍車をかけたり、他人を威圧するかのような言動に出てしまうことがあります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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