ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自己愛性パーソナリティ障害NPD

 
  人からの自由3
 
 
正月早々ポップアップで作業を妨害した可能性のある楽山は、証拠がないじゃろ❔・とでも言って、しらばくれるかもしれません。しかし、思い当たる加害者は、楽山以外にいないのです。楽山は、犯罪衝動を抑制できない人だということを自ら証明しました。つまり、弁明不可の、危険人物なのです。
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においては、他者からの自由、人からの自由という大きな恵みがあります。ただし、楽山のような、無反省、無責任とは全然、違います。できること精いっぱいする、それ以上できないなら、あとは神に任せましょうということです。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、正体は、結局、自分信仰であり、一種のカルトであります。
 
例えば、自分について、これでいい・・を神にささげることは出来ません。これでいいかどうかは、神が判断なさることです。これしか出来ません・・を捧げるべきです。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰の、他罰性に陥る危険があります。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
 
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その偽牧師は「罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい」「今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与える」からだと言い、そのような詭弁で成り立つ信仰はどこにも存在しない、まず最初に自分が自分の自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりです。
 
悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと「生まれながらの自由意志ではなく御言葉と御霊による自由意思」と言い出し、聖霊を自己正当化に振り回し、理解不能の造語的組み合わせをしてきます。その場で繕っただけの言葉遊びを聖霊によって正当化したつもりの偽牧師です。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり、自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ、人間らしい自由意志を嫌い、人間を嫌って否定している証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど理解力が欠け落ちて、妄想が固定してしまっている者がいるということです。人間が、人間離れしたら、人間的な情感の喪失と、人格の破壊によるところの、カルト的狂気に堕ちてしまうのです。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、ゴタクを並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られています・・などと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っていないからです。
 
まともに人の話を理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を的外れの方向に振り回して、悦に入っている妄想的人格破壊の姿であります。それが、その者の中だけで終わらず、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、超人になることではなく、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うすることであります。
 
そのために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対してだけは正直となるためなのです。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神という絶対の存在を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることです。見方を変えれば、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味で、人からの自由なのです。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを学びます。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、主の慈しみを知るゆえに、恐るべき神への信仰が、人への恐れから解放し、ゆえに、人からの自由とも言えるのです。神を恐れ、主を愛するがゆえに、恐れることなく、人を愛するようになるという恵みです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。だから、苦難に直面し、くずおれることなく、回復する力でもあります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることがありません。罪深いこの世の形骸に、ときに従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともなりません。支えるのは、正直な祈りであります。
 
打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とはなりません。悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、誤りのない生き方の境地とかではなく、信仰は、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
ゆえに、キリスト信仰の、"人からの自由" は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
 
人からの自由b

人からの自由
 
 
(2019年)
(2021年)
(2023年01月24日、再録+加筆)
 
 
 
  問いと自由
 
なぜ生まれたのか
なぜ生きるのか
なぜ死ぬのか
土の上にも土の下にも
答は見つからないだろうし
その答を探そうとするうちに
問いの方が先に消滅する
ということは分かっている
 
水の上にも水の下にも
問うこともなく
答を求めたがることもなく
生きて死ぬ動物も植物も
子孫を残すという目的に
すべてを捧げ命を削っている
 
子孫を残すかどうかを選ぶという自由は
火の上にも火の下にも
クローンの時代のように残酷である
 
自らの遺伝子を残すことに
無条件の喜びを疑わない一方で
動物にも植物にも人間にも
種を残せない生と死があることは
遺伝子の皮肉だろうか悲劇だろうか
種に問いかけられることのない
自由だろうか
 
問いの自由の
木から落ちた猿よ
 
 
  培地
 
つけっぱなしの蛍光灯で
夜は明るすぎて
 
閉めたままのカーテンで
昼は暗すぎて
 
培地の中の生命体は
増えようがなくて
 
昨日も今日も
ずっと一つのまま
外へ出るのは自由なのだが
またすぐ戻ってきて明日も
よくて一つのままだとわかっていながら
0(ゼロ)になることを恐れている
 
一つ・・のあいだに触手を伸ばす
ペン先の呼吸
 
つけっぱなしの蛍光灯では
夜は暗すぎて
 
閉めたままのカーテン越しに
昼は明るすぎて
 
隠れてないで出てらっしゃい
まだ一つにもなっていないくせに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びても芝居、反省も芝居、言ってることの根拠は偏見、攻めるに守るに嘘を吐き、失敗にも罪にも偽善にも悪にも気づくことなく、不都合を自分の中で無かったことにして、平気で厚顔無恥のまま行進しているつもりのピエロには、出会うことが不幸、つまり、楽山に関わること自体が災難であります。
 
 
 
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  騙されていた頃
 
 st問題資料集(1)初期コメント
 2022年02月23日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
ウイルスでしょうか。入力が、約10秒刻みで、フリーズと再開を繰り返しています。今回の記事は、楽山が批判されて裏切られたとでも思ったのか、昔の遣り取りを出してきました。時間は過ぎ去るのです。楽山のような男に、長続きする信頼関係など成り立ちません。
 
私が楽山に騙されていました。恥を晒しておきます。社交の世辞に騙され、数か月、楽山を信用していた時期があります。その分、本性を知ったときには、今まで知らなかった罪悪感のない無反省の楽山には驚き呆れました。こんな種類の人間がいるのかという驚きとともに、決意を新たにしました。
 
人間は学習するのです。ゆえに、昔はこんなに愛されていたのに・・などという思い出話は、楽山の愚痴に過ぎません。本性を知れば、とんでもない人だったということです。楽山は、人間は不変と思っているのでしょうか。成長のない楽山が明らかになります。
 
もし私が書けなくなったら、楽山のことを、それぞれのサーバーに報告してください。楽山は、手段を選ばないようです。
 
 
*初期
st問題に関連したコメントを整理してみました。
まずは、st氏が当ブログに来訪し始めた頃のコメントから。
*例一
以下は、「★カルト体験 (新興宗教を信じたら、心の冷たい人間になってしまったという話)」でのやりとりです。
1. st5402jp2018年08月03日 11:56
この体験とご意見は敷衍するべきだろうと思いますが、転載させていただいてはいけないでしょうか。ブログ記事設定で転載可としていただくとうれしいのですが。
2. 楽山 (自由)2018年08月03日 20:26
転載OKです。転載可にしときました!
3. st5402jp2018年08月05日 03:10
自由さん
転載させていただきました。感謝いたします。拝。
4. 楽山 (自由)2018年08月05日 14:57
確認してきました。拙文を転載してくださり、こちらこそ感謝してます。ありがとうございます!
 
つまり、こういうことを書いてくるのは、楽山が未練がましい人だということです。それは、議論とは何の関係もありません。ここに表れているのは、楽山が、交流とか議論というものを理解していないということです。真実を求める意志がなく、愛されることを求める未熟者だということです。
 
議論の中身は、議論の経過によって変わってくるという常識が、楽山にだけはないのです。これこそ、楽山が、異次元的な見当違いの男だという証拠です。人間として成長不全なのです。丁寧語で、いつまでも、ごまかせる、騙せるものではないのです。即ち、楽山は言論者ではありません。
 
 
*例二
これは、「【st自由同一人物説!?】「stと自由は同一人物?」「いいえ、stさんと私は別人ですよ」」でのやりとりです。
1. st5402jp2018年08月18日 16:55
記事本文とリンク先を読ませていただきました。分析力に感心します。全部把握しているかと言えば分からないけど、読みごたえはありました。私は、信仰者でもあり、また性格的にも、かっとしやすいところがあって、反省しない人にならないように気を付けたいと思います。ありがとうございます。拝。
2. 楽山 (自由)2018年08月19日 06:37
コメントありがとうございます。
前によく議論していた某団体の信者らに対して、この種のこまごました記事を書くと、「屁理屈言うな」「もっともらしいことを言っても騙されないぞ」「粘着するな」と酷評されることが多かったので、褒めてもらえるとうれしいです。
私もけっこう短気なので、そこは注意したいと思います。
 
楽山は、短気ではなく、粘着性の嘘吐きです。社交の世辞以外は、何も持っていません。その異常な精神で、人を騙して、操ろうとしてきます。精神の詐欺師です。粘着する人格異常者です。ゆえに、昔のことを持ち出して、言い訳になると思うのでしょう。
 
 
*例三
こちらは、「アブラハムと信仰義認 (アブラハムは義人と認められたのか?)」でのやりとりです
1. st5402jp2018年08月31日 04:37
一応キリスト者のつもりの私より、自由様は、立派な教理と解釈の説明をなさっておられるのに感心します。
加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
2. st5402jp2018年08月31日 04:43
アブラハムが、間違いを犯さない完全な義人ということになると、息子を殺すことも正しい、ということになりますが、神は殺そうとしたのを止めたわけですから、そのときの神の気持ちは軽々に分かると言ってはいけないならば、人間である自分が分かってないんだということで保留にするしかないのです。カルトは、誰にでも偉そうに語ろうとして、分かったことにしないと気が済まないようです。
 
楽山は、神の正しさを理解できないのではなく、神を知らず、神を、信仰を、奇跡を起こさないからという理由で否定してくる極めて幼稚な反キリスト・反信仰です。楽山は、希望を持ち得ない自分信仰者に過ぎず、深い思慮も分別も共感性も常識も持っておらず、荒らして快感を得る慮外者です。
 
 
3. 楽山 (自由)2018年09月01日 07:00
コメントありがとうございます。
でもこの記事は、みなさんの議論を読んだ後に書いたもので、もろに、後出しじゃんけんになってます。ですから、もしこの記事によいところがあったなら、それはみなさんの議論が良かったというですよ。
4. 楽山 (自由)2018年09月01日 07:01
おっしゃる通り、あちらの方は、分からないと言うことに抵抗があるみたいですね。
私が、とあるクリスチャンから「聖書は四十年、勉強してきたけど、まだ全然分からない」という話を聞いたというのに対して、そんなことは極々、内輪の話ならまだしも、外部には言わないものだ、分からないものを人に勧めることはできないから、それを言ったら伝道できなくなる云々と批判されてたと思うので。
5. st5402jp2018年09月02日 03:49
自由さん
>>内輪の話ならまだしも、外部には言わないものだ
>>分からないものを人に勧めることはできない
正直でないなら真実でもないし、何だか、企業戦略の話みたいで、おかしいですよね。
 
「外部に言わない」とは、気づかれないように騙してくる楽山の、保身と秘密の精神なのでしょう。「分からないものを人に進めることはできない」というのは、宗教も神も分からないなら否定するという楽山の自己愛~教祖気取りなのでしょう。実に、楽山は何も分かっていません。
 
 
6. 楽山 (自由)2018年09月02日 08:38
そこはすごく違和感ありましたね。どうも、分からないということに対して、自分とはちがう受け止め方をしてることは確かっぽい。
ちなみに自分の受け止め方はこんな感じですね。
「聖書は分からない ⇒ 聖書はとても奥深くて、そう簡単に『分かった』なんて言えない」
「神の心は分からない ⇒ 神は偉大であり、はかり知れない存在である。どのような賢者であっても、その心を忖度することさえかなわない」
「宗教的体験から、聖書の一節、神の心の一端を『分かった』と実感することはありえるし、これは尊いことではあるが、聖書全体、神のすべてを『分かった』とするのは危ない…」
7. st5402jp2018年09月03日 03:06
自由さん
ほぼ同意します。
聖書の一説については、あるとき分かったということはありますが、一生を通じて正しいか、神の前に正しいかは、やはり分からない。私の知っている世界と人生は、そのごく一部だ、という弁えを敬虔と呼んでいます。しかし、そのときの気持ちとして、大事にはします。
8. st5402jp2018年09月03日 03:08
大事にしているから、まあ、記事に書いたりもします。後日、間違いに気づいたり、それ以上に大事な理解が与えられたら、修正するのが成長だと思っています。
 
分からないと、楽山は言いながら、キリスト教の神を、何度も否定してくる反キリスト・反宗教です。つまり、混乱させて、退かせるという楽山のやり方が始まるのです。実際は、神もキリストも聖書も、曲解して妄想を伝染する偽善者です。
 
 
9. 楽山 (自由)2018年09月04日 19:19
stさんのコメントを読んで、なんとなしに、仏教の筏の譬えを思い出しました。
ある男は、川を渡れずに難儀していたが、筏を使うことで無事に向こう岸につくことができた。
でも、このときに、いくら筏が役に立ったからといって、この後もずっと担いでいこうとするのはおかしなことであって、川を渡り終えた後は、筏はその場に置いてゆくべきであるという話。
これは、仏法(筏)にさえも、執着してはいけないということらしい。
分かったという気付きについても、これと同じことが言えるかもしれないと思います。
 
教訓を垂れたい楽山です。こういう説教好きなところに教祖願望が表れてきます。その実質は、ただのペテン師であり、知識にも思考にも感性にも捨てられてきた排泄物に過ぎません。柔和や中庸など持っておらず、自己顕示欲を満たして悦に入る悪意のネット浮浪者なのです。
 
 
お山のペテン師 陰険 陰険 陰険

お山のペテン師 陰険 陰険 陰険
 
 
(2023年01月11日)
 
 
 
 まだ終わってなかった(アマミ氏と遠江氏)
 2023年01月10日 幸福の科学とは何だろう?by 
  を批判。
 
 
*思ったこと
この手のやり取りを見ていると、議論になっているテーマについて意見をいうよりも、相手の心を悪く想像した上で、その人格を否定し、その意見を無効化しようする人が案外に多い。こういうのは傍から見ていても気分が良いものではない。
 
もはや犯罪者の楽山は、自分を表していることに、恐らく、一生気づかないのでしょう。楽山こそ、ただの自己愛ではなく、サイコパスであり、心がないために、他者の心を傷つけて、他者の意見を無視してゆく人です。最近では、今、最悪の状態にあると思います。
 
 
人の振り見て我が振り直せというし、自分も気をつけるようにしよう。
 
人の振りを見ず、我が振りを直さない楽山です。恐らく、今後、殺すか殺されるかの事態を招くのではないかと危惧しています。実に恐ろしい男です。私が出会った中で最低の男です。人間とは思えません。決して関わらないでください。楽山の日が早く落ちますように。
 
 
 
  満たされよ
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
 
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
 
それが邪悪の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
 
うちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と心に語りかけよ
 
力が抜けて
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
ゆるやかに へりくだり へりくだり
神のふところに消滅せよ
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした 
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱は ふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
雲がわき
雲が飛び
雑多な雲が流れ
千々に流れて
虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、ただの荒らしではなく、もっと凶悪な人物のようです。自己愛性パーソナリティ障害NPDというより、反社会性が強いようで、サイコパス(精神病質psychopath、反社会性パーソナリティ障害)で前科もあるのではないかと思います。決して近づかないでください。
 
 
 
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  不安をごまかす楽山
 
 
ウイルスらしいものが、ブログ下書きを書くのに、日本語入力変換を邪魔しています。楽山以外は心当たりがありません。思うようにならないと、嘘、詭弁、自己満妄想、無反省、無責任などの病質は、邪魔をしてくるようです。いったい、どういう世界に生存しているつもりなのでしょう。
 
 
 2023年01月08日
 幸福の科学は、大川隆法ファンクラブなのか? 宗教の本質とは?
  を批判。
 
 
*幸福の科学は、大川隆法ファンクラブなのか?
このツイートをしてから思いついたのだが、信者は教祖のファンであるならば、幸福の科学は大川隆法のファンクラブみたいなものだとも言えるかもしれない。
 
今さら、こういうことを言って何になるのでしょう。楽山に騙されるファンが一人もいなくなるように批判記事を書いています。楽山ファンクラブは、何の実りもなく、騙し文句で、人格が壊されてゆくだけです。教祖願望をいくら抱いても、楽山は、結局、恨みの対象にしかならないのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者自ら、教祖と信者の関係を、歌手とファンの関係にたとえてる!
信者は、こういうたとえは嫌がるもんだと思ってたけど、そういうわけでもないんだね。
 
慕う相手のファンというのが、楽山には不可解なようです。楽山は、慕われたことがないからでしょう。楽山をしたう=楽山に騙されることになるからです。キリストを崇拝することは、多かれ少なかれ、キリストのファンになることかもしれません。慕うということが楽山にはないのでしょう。
 
楽山は、佐倉哲と同様に、信仰を、辻褄でしか表せないようです。心のない人には、慕う・・という心情も分からないのだろうと思います。いつも人を下に見て、上からしか物の言えない楽山です。正当な愛など分からないのでしょう。情緒が感受できず、言葉遊びにしかならない楽山です。
 
 
*本来の宗教
私見ながら、本来、宗教というものは、神と人との関係であって、人と人との関係ではないように思える。 たとえば、こんな風に。
 ○ 神(人を超えた、人ではない存在)を人が信仰する
 × 教祖(人)を人が信仰する
 
当たり前のことを、新発見のように書いてくる楽山です。嘘と詭弁だけの楽山が慕われることはないということです。また、人間は、人間に理解・共感できる範囲でしか本当の信仰は成り立ちません。楽山が超常を、いくら、いじくっても、それは、信仰とは何の関係もないのです。
 
 
上の信者の発言には違和感をおぼえるのだが、その一因はこの辺りにありそうな気がする。スターを神のごとく崇拝する熱烈ファンと、教祖を神のごとく崇拝する熱烈信者とには、たしかに共通項はあるだろうけれども、どちらも本来の宗教や信仰とは異なるものだし、それを宗教の本質であるかのように語るのはおかしいのだ。率直に言って、ここでたとえとして挙げられているのは、まっとうな宗教というより、いわゆるカルト宗教的な形態なのだと思う。
 
似たようなところはありますが、キリスト信仰の場合、キリストは目の前にはいないのです。憧れもあり、愛もあるでしょうが、人間としての限界があります。そこで成り立つ信仰とは何かを、クリスチャンは、一生のテーマとするのです。
 
さらに、楽山には、一般のファンの心理も理解できないほど、体験が未熟なのでしょう。何ごとにも真剣味のないのが楽山です。だから、ことさら、大きなテーマで豪語したいのでしょう。騙されないでください。インテリぶって言ったところで、楽山に実質は欠片もないのです。
 
 
 
 2023年01月08日
 今の時代に、宗教なんて必要なのだろうか?
  を批判。
 
 
*宗教なんて必要?
 ツイッター上で、次の議論が話題になっていた。
・あらゆる困難が科学で解決するこの令和の時代に、『宗教』は必要なのか?
 
あらゆる困難が科学で解決することはないでしょう。人間には心があるからです。こういう簡単なことを、いちいち、大仰に言ってくる楽山です。ゆえに、人間には宗教が必要であり、楽山には宗教理解が不可能になっています。自己愛性パーソナリティ障害NPDには、委ねる姿勢がないからです。
 
 
*私見
自分なりの考えを述べると、結局のところ、この問いには、人それぞれとしか答えようがないように思う。大雑把に言うと、心の慰めだとか、ものごとの意味だとかを欲する人には、宗教は必要だろうけれども、そういった欲求が希薄な人にはさほど必要ではないだろうと。
 
心のない楽山には必要ではない、というより、理解できないのでしょう。潤いと温もりが、楽山の心にはないと思います。乾燥して干からびた灰のような、心ではなく、辻褄合わせだけで生きているのです。そういう欠陥を自覚せずに、まともに言っているつもりの、この4年間が悲惨な資料です。
 
 
ちなみに自分はどうかと言えば、過去に近親者を看取ったときには、その近親者の人生に意味があったこと、天国で幸せにしていることを願わずにいられなかったので、宗教を必要とするタイプなのだと思う。
 
また白々しい嘘を吐いています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の感情に、人のために願うことなどありません。自分に都合よいように、あらゆる文脈を捏造してゆきます。楽山は、まとも芝居をして、成り立たない自分を露呈してゆきます
 
 
ただ、だからといって、宗教にどっぷり浸かるということはできない。人は死んだら無になる、天国も地獄もなく、神もいない、人生に限らず、一切の物事には意味も目的もないという世界観が成立しうることは分かる。
 
楽山らしく、分からないとは言えず、自分が無になる世界を、分かると言ってしまいます。誰も、自分の「無」など理解できません。また、見栄を張って、墓穴を深くする楽山です。安易に今の自分の虚無感が表れてしまいます。ずうっと、楽山は、言葉の苦し紛れの、お漏らしをしてきました。
 
 
この点、自分は宗教を必要としない人の感覚を理解できなくもないので、宗教を必要とするタイプではあっても、前近代的で単純素朴なそれとはいえない。我ながらこういうところは面倒くさい奴だとは思う。
 
楽山は「宗教を必要としない人の感覚」ではなく、自己満と教祖願望から、宗教をけなすタイプです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だと判断しています。4年間批判しても、反省することがありません。
 
昨日からウイルスらしいものによって、一時的に入力変換をフリーズさせることが繰り返されていて、日本語入力を邪魔しています。変なサイトにアクセスした覚えもないので、楽山を疑っています。楽山は、言論で返せないと、そういうことを平気でしてくる人なのでしょうか。
 
おかしなことが起これば、楽山が、真っ先に疑われることになります。そして、サーバーに報告されます。個人特定されるなら、楽山は、アウトです。ネット犯罪者、嫌がらせをする者として、履歴~前科が残るでしょう。注意・警戒して、楽山に関わらないようにください。
 
 
背筋の凍るようなウイルス

背筋の凍るようなウイルス
 
 
(2023年01月10日)
 
 
 
  愛して
 
二十代から数えて
四十年以上のの凹凸を噛んで
出来上がった顔が弱っている
さしのべた手をかすめて
わずかの小銭が通り抜けた
歪んだ顔を隠す
愛してもいないのに
 
二十年の空白を吸いきれずに
出来上がった変質者がふらついている
その辺り昔話でいっぱい
作り話でいっぱい
もう一杯と
暗い路地に足の裏を残しながら歩いていく
歩く後ろから世界は崩れていく
前は暗闇
 
どちらを選ぶか
どちらを選んでいるか十年後
路地に人影はなく
多くの足跡乱れて
入り組んだ空白から
もれた明かりが凹凸を噛む
愛してもいないのに
 
 
  括れない
 
童謡・メルヘン
風刺・断定・メタファ
皮肉・洒落・語呂合わせ
もっと決定的な括(くく)りが
未だ思い浮かばずにいるような・・・
すでに括っておいてだらだら
と宝探し
 
腸を下し
腸も括れず
首も括れず
考え過ぎて
考え過ぎで
いっそ考えない歌
そのまま歌えたら
正気も狂気も喜んで
そんなとき
変質者出没
と町内会のビラ
危ないな
独りだし付き合いないし
こもってばかりだし不潔だし
何かあったら真っ先に
疑われそう・・・
 
食って出して寝ろ!
はい!日夜そうしております
でもいつの間にか
道理で白髪頭
また探し始める玉手箱
昔々もらった気がする
 
 
  死んでいます

私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。言論の義務を守らない者に、言論の権利はありません。それを理解しない者が、「反省」しないことを「人間の性」と言って居直っています。笑いと怒りだけがあり、悲しむ心を持ちません。反省せず罪悪感もないサイコパスなのでしょうか。
 
 
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @vincent20200110: リツイートしただけで地獄に堕ちると言われるかもですが、リツイートします。(ま、いいわ、今さら。さんざん信者から脅されてるけんね)。 
 」
 
なぜ、楽山は、これをリツイートしたのでしょう。脅されているのではなく、ネットで、嘘を吐き、詭弁を弄し、人をだまし、批判を無視して、リーダー気取りを続けている楽山は、罪と偽善の必然の結果そのものを無視して書き続ける悪魔の意志表示でしょうか。やはり犯罪者なのでしょうか。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  信仰の節操
 
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 加筆して再録
 おもに偽牧師シャロームshalom 自称ヨシュア、などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
  悔い改めは、神が与える。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、卑怯な罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰自慢、芝居的な讃美。信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア・マグダラマリヤ型)
  嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。
  キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない。
  キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない。
  キリスト信仰は呪術ではない。
 
● 頻りに讃美と感謝を繰り返し、さらに、自らの悲劇を語り、命をかけるなど大仰なことを言う。
  (自称マグダラマリア型、あるいは、魔女型)
 
 
● 情欲の聖句の「女」を「他人の妻」と書き換えて、キリストの言葉を、不倫はいけませんね・・という、安い道徳におとしめて、人間の根源と、救いの根源を、骨抜きにしてしまうのは、神に対する大罪であります。
● 神を「恐れる」を「畏れる」と書き換えて、神に対しては、恐れるのではなく畏(かしこ)まればいいのですよ・・ということにして、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
  (新共同訳の訳者たちによる聖書の曲解とキリスト教形骸化の過ちあるいは悪魔的な企み)
 
 
 
  《キリスト者も注意・警戒するべき言動》
 
 
「神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛」について、どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
 
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、ずっと神が愛してくれるというのは、妄想です。それは、陶酔感から罪の自覚を失って、神を侮り、むしろ、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
「ほめたたえよ」という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者やその傾向のある人は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
信仰についての発言を、大きく勘違いした的外れは、背教の暴言に等しいのです。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫神経症の症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、カルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それが敬虔であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえのキリストの共感と愛なのであり、それゆえの神の愛と寛容があり、それが、人を生かす赦しと救いなのです。聖書の教条ではなく、聖書の心を学ぶことが大切です。
 
不完全で罪深い自分を、神が憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への、人間が出来る唯一の捧げものが祈りであることを忘れないでください。人の行いなど、信仰の義において何の根拠にもならず、ただ、正直な祈りだけが必要十分なのです。
 
多くの信仰の恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~試練として、与えられているのです。悲しみは反省と忍耐のために与えられるでしょう。揺るがない信仰とは、思い込みの確信ではなく、共感であり、それが忍耐強い信仰を生み出してゆくのです。
 
正直に祈ることが悔い改めであります。悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。悔い改めは、信仰者の人生において、しばしば、必要です。洗礼を受けたから安心とか大丈夫とかではなく、洗礼を受けたから、祈りと悔い改めの信仰生活が始まるのです。
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。いつでも、正直に祈ることが出来ますし、神は、それを待っておられると思います。それが、神の寛容であり、永遠に変わることのない愛であります。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。ゆえに、悔い改めの祈りの機会は、それぞれの人の全人生にわたって与えられています。それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、いつでも、いつまでも、人には言えないことでも、正直な告白と願いを祈り、それを聞いてくださる御方がいるということです。願いの成就は、神に任されており、そこに、信仰者の使命と忍耐があります。その上で出来ることをするのが信仰者の人生です。
 
 
信仰の節操と偽善

信仰の節操と偽善
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2023年01月06日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
こういう意見が出るほどに、自分が手を合わせてる神様に無頓着な宗教観は実に面白い。
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」とはよく言ったものだ。
引用ツイート
島田裕巳@2版出来『宗教対立がわかると「世界史」がかわる』晶文社
伊勢神宮のアマテラスは弟スサノオの前に軍装で現れたし、八幡神は武士が崇めた戦の神。神道と戦というのは深く結びついているので、どの神社に行っても、境内に神明社や八幡社があれば、軍神に参拝したことになる。
 」
午後8:10 · 2023年1月5日
 
「面白い」は嘲笑いでしょう。「神様に無頓着な宗教観」とはよく言ったものです。楽山は、神について知っているつもりなのでしょうか。楽山のように、幼稚な辻褄で神を否定し、人を傷つけてゆく慢心は、知識不足だけでなく、訂正不能の自己愛性からの病的な悪意の偏執です。
 
楽山は、笑うことと怒り憎むことはあっても、「涙こぼるる」ように悲しむ情感を持ちません。だから共感性もなく、神について物を扱うような安易な辻褄で知ったかぶりをします。楽山は、思い上がりの醜態から崩れてゆく人格を表し、慢心して良心のないインテリ気取りの末路にいるのです。
 
 
 
  悪い顔
 
また顔が悪くなった
と鏡の前で気づくか気にするか
また顔が悪くなった
という
顔が悪くなる瞬間というのは
何か嫌なことや
好(よ)過ぎることがあって
あるいは何もなくて
皮膚が乾くのだろうか
変色するのだろうか
顔の肉が強張(こわば)るのだろうか
弛(たる)むのだろうか
特に目や口の辺りの
しかし若(も)しも逆に
年齢相応ですが
少し顔が好くなりました
なんてことが
ないだろうけれど
仮にあるとしたら
身の毛も弥立(よだ)つ
を通り越して
人間は疾(と)うに死んだのに
人体だけ死に損なって
残ってしまったような
顔のどこかに責任が持てるだろうか
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見て、薄っぺらな感想しか書けない楽山です。楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、無視して反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、「ストーキングというより、因果応報」となってゆく自己中の必然です。
 
楽山は、他者を批判しますが、その批判が、不思議なくらい、楽山に当てはまってしまいます。それに、書いてくることも、大方、雑言の類で、何か生きるヒントになるようなことなど、一度も書いたことはないのです。書けば書くほど、楽山の言が、楽山を責めることになるブーメランです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山関連の罪と偽善: 無反省で謝罪しない。世辞か、嘘と詭弁。自己中。非を認めない。無責任で、弁明できない。理路も情感も未発達。笑いと怒りと憎しみだけで、しんみり悲しむ情がない。不祥事を人のせいにする。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)。
 
楽山の因業は、改まることがありません。いつも、楽山の通念的な言葉が表すのは、そういうことしか書けない楽山の体質的異常の証拠になってゆきます。反省せず、責任を負わないでいると、結局、同じようなことしか書けない無学習のもたらす貧相な悲喜劇だけを表すことになってゆきます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  悲しみと信仰3
 
お詫び:体調が良ければ、毎日、過去作+加筆修正を中心に書いてゆきます。現在、体調は、あまり思わしくないので、不定期発信になるかもしれません。その場合、日付間違いが増えると思います。
 
 
偽善者は、相変わらず、弁明が出来なくても何も感じないで、繰り返し言い張るだけのようです。
聖書でも現実でもネットでも、偽善者が悲しむのを見たことがないです。偽善者は悲しみの感情を持っていないのではないかと思うことがあります。
 
聖書でも現実でも、偽善者の感情は、得意げに笑うことと、怒りと憎しみだけのような気がします。深い悲しみは、抑制がかかって鬱になることもありますが、心が沈んで、激しさが涙になるなら正常で、出口があるということです。
 
悲しみはつらいけれど、心を潤し、心を濡らして、悲しみを洗い流す作用があります。泣けない時には人からも受容が必要です。出口がないと思ってしまう鬱の時には、時に任せて、耐えるだけでも意義があります。何よりも生きていることが大切です。
 
しんみりと悲しむことができるときには、悲しみは、その沈んだ思いのうちに、猛る思いを静めて、内へと向かう思考によって、やがて内省することもできるようになるでしょう。
それができないのは、人格障害の人で、人のせいにしてきます。
 
悲しみを知る人は、悲しく辛くても、やがて、悲しみが去ることを喜ぶことが出来ます。悲しみの克服というのは、悲しみは過ぎ去ることを知っています。人間は成長するからです。そうして意味のある未来が徐々に気づかれてゆきます。
 
悲しみを知らない人は、出口のない感情と思考のために、憤怒だけを、どこかにぶつけることになるのでしょう。悲しみの感情を知らない人がいて、悲しめない不都合に際して、怒り、憎み、恨んで、他者のせいにして鬱憤を晴らす場合があります。人格障害、サイコパスの場合です。
 
悲しみを知らない人は、不快な感情を処理するにあたって、焦燥感が強いあまり、他者を貶めるか、他者をあざ笑うことになるでしょう。そのような処理の方法は、他罰または責任転嫁となって表れるでしょう。特殊な人格~病理として注意が必要です。
 
 
負の感情の出口がない間、静かな思考に向かうか、それとも、停止と遮断に向かうか、衝動と攻撃性につながるか、という違いがあります。自分の感情をモニターできるか、正直に相談する相手がいるかどうかにかかっています。また、正直は祈りに通じます。自分を見ない人になってはいけません。
 
つまり信仰において、悲しみは、悔い改めにつながる大切な感情のように思います。人生において、悲しみは必ず訪れるものです。その時に、成長するか、成長をやめてしまうかが、決まるような気さえするのです。イエスキリストは、悲しむ人に、近づきました。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
 (マタイ5:3-10、新約聖書)
 
 
悲しむ人は、おごらないゆえに、心貧しく、うなだれるゆえに、慰められ、求める心があるゆえに、義に渇き、むさぼらないゆえに、憐れみを受け、余計なものがないゆえに、心が清く、一途であり、安らぎたいゆえに、平和を求め、悲しんだゆえに慰めを感受し、癒しが与えられるのでしょう。
 
悲しみを知ることが信仰と偽善を分ける、と言ってもよいほどに、悲しみは大切な感情なのかもしれません。悲しみを知らないのが、人格障害者、特にサイコパスです。
 
 
救いは悲しみから生まれる

救いは悲しみから生まれる
 
 
(2019年)
(2021年)
(2023年01月04日、再録+加筆)
 
猛る(たける)
鬱憤(うっぷん)
憤怒(ふんぬ)
焦燥感(しょうそうかん)
 
 
 
元日のコメントの遣り取りです。
 
1.
とある場所に書き込みした後、大晦日からsossiotron.comとセブンイレブン
でてきました。
画面右下の吹きだしをクリックして右上の「通知の管理」を
クリックしたら「通知とアクション」のウインドウが表示されますので
下のほうの「送信元ごとの通知の受信設定」のsossiotron.comの
ボタンをオンからオフにしてみてください。
謹賀新年2023-01-01 12:53:27
 
 
謹賀新年さんへ。なぜ、HNを隠すのでしょう。
記事をアップしてから、何を押したのか覚えていませんが、消すことが出来ました。恐らく、コメントにあるようなことをしたのでしょう。
あなたは sossiotron.comさんですが。楽山ですか。それ以外の人ですが。楽山を知っていますか。
このようないたずらは違法です。あなたがなさったのなら、二度としないでください。
st5402jp2023-01-01 14:11:25返信する
 
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  祈り・最後の誘惑
 
最後の最後が訪れたとき
耳元で囁(ささや)く者がいるだろう
イエスはキリストと呼ばれるほどに
偉大であったかもしれないが
そのイエスが
誰にも真似のできないことを行い
真似のできないことを言ったがために
お前はキリストの幻想に騙(だま)されたのだ
 
未来があったとしても
過ごす間は耐えがたく
過ぎてしまえば束(つか)の間(ま)に過ぎない
もうこの歳で
良い未来が待っているとは思えないけれど
そんなこの世の未来以上に大切な
現在の希望を失うことなく
自分の過去と人生を
思い込みの不幸で塗り潰(つぶ)さないために
死を視(み)ること帰するが如(ごと)し
その囁きに対して
永遠の友なるキリスト
我が慕いまつる主
イエス様になら騙されても構わない
父なる神の御手のうちに
壊されるのが望みである
と言えるほどの信仰だけを下さい
私を絆(ほだ)して下さい
そして離さないで下さい
悲しみだけではない時を
知るでありましょう
 
 
  祈りを知る
 
祈ったからといって直ちに
悲しみが喜びに変るとは限らない
苦しみが消えうせるとも限らない
でも奇跡的に変わるかもしれない
でももっと魂の奇跡として
悲しみや苦しみが
それだけではないものに変わる
祈る相手がいるという幸い・・・!
 
この世の人はそれを気休めと言い
心理的効果と言い捨てるかもしれない
聖なる働きと解釈するのも
否定し無視するのも
人の自由だ勝手だ
どちらも証明は出来ない
でも祈りは
生きた働きをもって返されるなら
証(あかし)としては
それだけで十分である
だから信じる
祈りが聞かれていることを
だから信仰する
すべては御心のままに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
しんみりと悲しむことを知らない人は、しんみりと深く考えることも出来ません。そして、罪悪感を感じないようです。ゆえに、自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言って、ペロッと舌を出すような軽さの悪ふざけをするのでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @PdoctorTomy: 他人が上手く行っているように見えるだけで、気に食わない人間っていっぱいいるのよね。
 」
おめでたい報告は、心から祝ってくれる人だけにしたほうが無難よ。 
 
心を傷つけることで快感を得る楽山が言っています。霊性の悪霊、現実的には、人に教え、人をバカにして生きている楽山です。罪悪感も責任感もなく、理路の周辺に雑言をばらまいて、インテリを気取っている身の程知らずです。悪意の共感、つまり、誘導です。関わらなければ無難ということ。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
@houndmen@tadamitsu824
犬ジジィ氏と忠光氏の議論を見た。犬ジジィ氏は批判リプを10以上もしながら、忠光氏が反論リプをつけるのをブロックしたのかな? もしそうなら、ズルすぎる。
ブロックするなら、忠光氏が犬ジジィ氏の批判に反論リプをつけ終わるのを待ってからにすべきだったと思う。
 
他者に「すべきだった」などと意見する資格は、楽山にはありません。双方向など、一度も成り立ったことのない楽山です。「ズルすぎる」などと非難する資格もありません。無反省、無責任、無視で、罪悪感欠如、羞恥心欠如の楽山です。厚顔無恥も甚だしい。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、アンチ批判をしていながら、アンチが反論しようとすると即ブロックする人がいる。
まるで、「自分が言いたいことを言えればいい。異論、反論は聞く必要なし。その機会を与える必要もなし」と考えてるみたいだ。
HSではこういう考え方を容認してるんだろうかと疑問に思うよ。 
 
キリスト教を侮辱しながら、批判されると、スルー・無視を決め込んだのが、楽山です。あらゆる言論の資格も能力もないのです。「異論、反論」を聞かず、批判すれば、悪口だけを返して、しまいに無視するしかない楽山です。楽山は、「疑問に思う」よりも、全否定するべき対象です。
 
楽山の反論は、相手を負かすことしか考えない嘘と詭弁です。分かったようなことを書きますが、楽山には真剣味がないのです。思いついた理屈遊びで反論しても、そこに、体験者としての実感はないのが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの特徴であります。
 
 
 
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