ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自己愛性パーソナリティ障害NPD

 
  信仰と固定(再)3
 
 
人間が、神と関わることは、祈りであり、それが全てであります。
 
神が、人間と関わるのは、人間には、知る由もないことであります。
 
人間は、神の全能を知って、神の味方になるのではなく、神を恐れるべきなのです。
 
神を理解すること、神の意志を受け取ること、神の御心を行うこと、これらは、努力目標ではあっても、出来ると思ってはいけないことです。
 
人間が、その身の程を弁えず、神の御心を知って行っているという立場に立とうとすると、神のためにと勘違いして、やたら讃美しまくるようになります。発言がカルトに似て一方向になり、視野と思考が狭小化して、自由な思考が妨げられ同じ言葉が多くなり、声だけが大きくなります。
 
 
信じられることは、信じるようになることは、人間性で理解できて、人間性で共感できることです。それらが心を動かすからです。信仰を固定することは、動こうとする心を止めることであり、祈りによって折々に与えられる癒しよりも、固定して成長しない凝固と思考停止を願う反信仰であります。
 
聖書にはたくさんの奇跡が書かれていますが、人間が、神とキリストから受け取ることが出来るのは、人間の知性の範囲で理解できることであり、人間の感性の範囲で共感できることです。つまり、人間として、心の奇跡は、しんみりと受け取れますが、物や肉体の奇跡は信じ込んではいけないことです。
 
物や肉体の奇跡は、神のわざであり、人間の生き方とは異なるからです。人間を超えた物事を理解できるのは、人間を超えた存在になることですが、地上の人間である限り、人間を超えることはありません。その弁えが信仰の節操です。神を恐れるという言い方もします。
 
神や聖霊が教えてくれたからだ、と言うならば、超えた存在ではない人間に、教えたのが神や聖霊だと、どうして分かるというのでしょう。恐らく、大方は、その人の自己顕示欲だと思います。
 
そこにおいて人間は、神を恐れているか否か、神の前に敬虔であるか否かが表れてきます。神聖を知らない私たち人間が、神聖が教えたと言い張るのは傲慢です。神聖を振り回す人は、自らを神聖とする信仰自慢と人間離れの自分信仰です。
 
物や肉体の奇跡そのものを信じることは、人間を、人間らしい心の成長から遠ざけ、超常の超人願望に結びつける、という危険な方向を持つからです。人間が理解できて、感動できて、信仰になるのは、生きている人間の心を動かす言葉です。
 
物や肉体の奇跡を信じるのは、ご利益信仰に過ぎません。物や肉体の奇跡は、人知を超える神を恐れるためにあり、恐れるべきことであり、神にお任せするしかないことです。人知を超えている奇跡を、人知が理解することは出来ないのです。そういう奇跡は、人が生きる縁(よすが)にはなりません。
 
分からないことは神にお任せする。このことは、限りある人間の能力を思えば当然であります。物や肉体の奇跡は最初から分からないことであります。
 
したがって私たちは、奇跡で救われた人が、なぜ、いかなる経緯で救われるに至ったか、キリストが、なぜ、その人を憐れんだか、という、心の奇跡または魂の奇跡、それこそ軌跡、すなわち、人間の心で追えることを考えることが必要です。
 
信仰においては、物や肉体の奇跡そのものに拘泥してはいけません。物や肉体の奇跡で救われると信じるのは、まさに、キリストを試みた悪魔の誘惑にあるように、石がパンになる=物への奇跡、この世の栄華によって悪魔を崇拝=奇跡の実現で神ならぬ者への崇拝へ向かうことです。
 
現にそういう超常妄想カルトがいて、人を騙しているのがこの世界です。もはやそういう者は悪魔にしか見えません。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:3
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 
4:4
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 
 (マタイ4:3-4、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:8-9
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 
4:10
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
 (マタイ4:8-10、新約聖書)
 
 
知性と感性は、特別な才能ではありません。神が人に与えた賜物として、人間ならば誰でも持っているもので、その中に不完全ながら、思慮が含まれ、理路と分別が含まれ、良心と共感が含まれ、温もりと潤いが含まれ、かつ、成長しています。
 
人は、その賜物によって、聖書を理解し、信仰に至ります。人間の信仰理解は、完全な理解ではなく、心を動かすものを受け取ることです。
 
聖書は人の心を動かします。聖書から、そして、体験から、神とキリストに出会い、共感し、聖三位は、信仰の対象であって、敬って友だちのように仲良くする対象ではありません。信仰は、動かし気づかせるのであって、固定することではありません。
 
信仰は、固定した安穏ではなく、成長する共感なのです。信仰者は、訪れる様々の出来事や疑問に揺れながらも、去りがたい愛と希望と信仰に生きることになります。そこに不変の境地はありません。共感と学びと成長を促す道があります。
 
神を知ることは、人間が自らの罪深く不完全なる身の程を知ることです。キリストを知ることは、人間が、キリストからの共感の尊さを知り、自らが生きて共感を伝えることの尊さを知ることです。信仰は、超常が、超常ではない人間に共感することを知った人間が、そこに生き方を見い出してゆく道です。
 
 
※ 
 
神は、全知、全能、絶対、完全、永遠、不変の存在です。
人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、不完全、永遠ではなく限りがある、変わりやすい存在です。
つまり、神を知ることは、人間が自らを知ることです。神を信じることは、人間が神を恐れ、自らを弁えて生きることです。
 
神ならぬものを信じてしまうと、神を信じるために必要な知性も感性も損なわれてゆきます。心について考えない者が受け取るのは、手っ取り早く得をしたいがための奇跡と超常であり、あるいは知っていると自慢するために他なりません。
 
それゆえに、そういう者は、理解も共感もなく自己中心に、やたら讃美しまくって、奇跡の必然を自己暗示して、信じ仰ぐ希望ではなく、思い込み信じ込む固定観念となり、心を訂正不能にして、柔軟性と共感を失ってゆくでしょう。
 
このような信じ方が、思い込み信じ込むカルトの信仰?であり、自分で神を決めつけてしまう信仰です。そうなると、まず自分の人間性を破壊し、次には関わる人に作用して、他者の人間性をも破壊してゆきます。それは人間離れの心性を固定して、信仰のカルト化が始まってゆくプロセスなのです。
 
 
思い込み信仰

思い込み信仰
 
 
(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年06月06日、再録+加筆)
 
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
 
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
 
わからないと
なぜ言えない
 
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
思いも塞がってしまうのだ
 
わからないと
なぜ言えない
 
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  わかったと
 
信じて疑わない信仰は
何を信じてわかっている
信仰を信じられる自信があるというのか
 
投げかけられた笑みは
バケツ一杯ひっかけられた冷たい水だ
 
哀れみの施しを受けて
この身はずぶ濡れだというのに
たった一歩の歩み寄りさえできないほど
この身は凍りついたというのに
 
今も変わらない信仰で
明るく笑っていられるなら
わかったと信じていることが
試されるときまで
 
読み方が悪かったのではない
書き方が悪かったのだと
飲み込めない異物を
残したままにしておこう
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Megmix43
@hamayokomegumi
「幸福の科学を下支えするカルチャーは「努力・精進」です。」と建て前では「努力・精進」を謳っておきながら、「英会話ペラペラ祈願」とか「強力ダイエット祈願」とか「突然秀才になるための祈願」とか自助努力を否定する祈願ばかりなのは何故だろう?しかも成就率は金額に比例ww
午前8:21 · 2021年5月24日·Twitter Web App
https://twitter.com/hamayokomegumi/status/1396607209417547778
 
ツイート元ではなく、ずっと、楽山を批判しています。「努力・精進」をしなかったし、する気もないのが楽山です。ゆえに、霊とか、超常とか、自分の浅薄な結論で宗教を語っても、そこから進歩する生産性がありません。不都合を総て無視して、自己愛の自己満悦に浸る異常者だと思います。
 
そして、都合のよい文言を探しているだけなのに読書家気取りで、例えば「心の理論」という心理学を、心霊に結び付けて、霊が分かるっぽい自覚を語り、自分を霊能者や学者と同列に並べて、自己満足しているだけなのです。これだけ孤独な慢心に陶酔し続ける人は、正常だとは思えません。
 
楽山には、決して、関わらないでください。詭弁で、混乱させて、相手が疲れるのを、楽しむサディスト的な人格であり、まともに受け取っていると、こちらの、理路と感性が鈍麻してゆきます。この約2年半の間、楽山を読んできて、何か良いことの糧(かて)になったことは一度もありません。
 
※ 
 
人間は、何か分からないことに出会って、悩み苦しみますが、その袋小路や堂々巡りから、分からない自分、限界のある自分、不完全な自分を、自覚するときに、そのことを、正直に祈る相手を得ることは、恵みとなり救いとなりうるでしょう。
 
信仰は、超能力が身についたり、矛盾のない神聖の仕組みが分かったから信じることではありません。そういう思想は、むしろ、信仰とは逆で、思い上がりの原因になるだけでしょう。ゆえに、神聖が分からない・・ということは、信仰の動機にこそなれ、決して、信仰の否定にはならないのです。
 
楽山は、この点において、正反対の先入観を訂正不能に持っているために、神がいるなら悪を退治しないのはおかしいじゃろ・・などと言って、神を否定できた気分になるのです。この幼稚さは、思考力と感受性を育て損なって、異なる意見や批判を無視してきたからでしょう。
 
さらに、楽山は、信仰の代わりに、何か救いになることを提示できるかと言えば、何も用意してはいないのです。楽山の言ってることは、神義論・弁神論でもなく、もはや、論でさえなく、宗教嫌い以上に、自身の高慢からの、詭弁説教であり、病的ナルシストの症状に過ぎません。
 
極端なことを言えば、楽山の、元々の本来の人格が見えません。時々に、様々な、芝居、装い、偽装、詭弁、嘘、成りすまし・・を演じているのでしょう。本音というものがなく、虚偽の人格だけが豊富なのかもしれません。私は、楽山が表してきた偽りを批判していることになります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の文章は、真剣味がない、新しいものがない、深みがない、だるい、独創性がない、良さそうに思えても洞察がない、読む前と呼んだ後で広がるものがない、しばしば詭弁であり、幼稚な短絡であり、印象操作であり、刷り込みであります。
 
楽山に疑問を投げても何も返ってこず、楽山は、同じことを繰り返してきます。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、共感がないからです。議論は進まず、訂正不能の楽山の言に惑わされていると、人格も、響きを失い、鈍く乾いてゆきます。
 
 
 
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  教条主義2
 
 
繰り返す決まり文句は、心の面倒を見ない。
 
教条は、心の面倒を見ない。
 
教条化した思想は、心の面倒を見ない。
 
イデオロギーは、心の面倒を見ない。
 
そこにアクティブな波動がないからだ。
 
 
(ネットより)
きょうじょうしゅぎ
【教条主義】
権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。独断論。▷ dogmatism の訳語。
「教条主義」Oxford Languagesの定義
 
ここで、杓子定規とは、書いてある言葉を、文字通りに受け取って、人間として中身を吟味せず、その通りに守っていると思い込み、行動が、画一化、儀式化することを表しています。偽善の多くが、教条主義の所産です。そして、偽善は、悪が善のふりをすることで、悪よりも、悪性度が高い最悪なのです。
 
その典型例は、聖書のパリサイ人の戒律主義に見られます。パリサイ人は、定められたとおりに実行したと思い込み、慢心し、人間の心を忘れていました。よって、キリストにとって最悪の敵となったのです。
 
多くの思いは言葉で表され、言葉は伝達のための暗号であります。つまり、ダイレクトに心を伝えているわけではないことを弁えておく必要があるでしょう。
 
しかし、暗号である言葉に頼らなければ生きるのに支障をきたすことも明らかであります。口頭や書面で話が出来ない人は別の手段を工夫し、何とか伝達する手段を持つことになります。
 
人によって、時によって、状況によって、言葉の表すものは違ってきます。思想・哲学・宗教・信仰など、人文系では、特に、そうなってきます。真実と言っても、ある分野の正解であったり、それを目指す心がけであったり、努力目標であったりなど、当為と事実が混同している場合もあるのです。
 
神は偉大であるといっても、その偉大さを、人はつぶさに知ってはいません。神を信じているという意志表示に過ぎない場合があります。神の偉大さを知って信じるのではありません。しかし、神の偉大さに触れて信仰に至ることはあるというように、言葉による表現は、曖昧であることが多いです。
 
しかし、表現を変えてはいけないと思い込み、同じ言葉だから正しいと思い込むところに、教条主義は生まれてきます。そこで、失われるのは、人間的な情感であり、さらに、人間的な配慮であり、言い換えれば、良心の所産が、損なわれてゆくといってもよいでしょう。
 
すなわち、思いやり、罪悪感、悔いる心、反省、罪を認めること、などがあり、これらが欠けてゆくと、救いの教条と思ったことが、災いをもたらすこともあります。多くは、言葉を盲信することで、その込められた心を、損なってゆくのです。
 
また、教条主義に陥ると、直観的に、または、直感的に、おかしいと気づけることを、心が無いために、気づかず、言葉に沿っているから正しいと思ってしまうことがあります。典型は、やはり、パリサイ人です。神の言葉と言っても、受け取る人間は人の言葉しか持ちません。
 
また、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山のように、浅い屁理屈をもてあそんで、人間に人生に必要なことを汲み取れず、深みもなく、共感もなく、慢心して、繰り言のように言い張るということもあります。
 
人格においては、訂正不能の教条を持ってしまうと、自己満足の絶対化から、逆に、非人間的な言動が目立つようになります。論理性が、辻褄合わせになり、故意に合わせるために、的外れな理路になり、人間ならば分かるはずのことが分からなくなり、詭弁となって無理を押し通して破綻してゆきます。
 
実際は、浅はかで不自然な言動となって表れます。思想・宗教・信仰に関わる人々は、このことを、しっかり心に留めておかないと、自分の人格を損なうだけでなく、他者の人格を傷つけてゆくでしょう。教条主義に陥っている自己愛性の人格は、根拠に基づく説明や説教が出来なくなってゆきます。
 
いつのまにか、自分を、教条に沿っている自覚から完璧だと思うようになり、何事につけ自己正当化をして、修正不能となって他者の意見を聞かなくなり、教える立場の自覚から、受信をしなくなり、発信だけをするようになります。そうして楽山のような反キリストの教条主義が生まれます。
 
そして、人間らしい考え方や感じ方が出来ないので、生き方にも破綻をきたします。理路も情緒も、深く考えたり感じたりすることが出来なくなって、単純化しやすく、短絡しやすく、不祥事や欠点を、反省せず、ことごとく、他者や相手や、さらには、神のせいにする特徴を持ちます。
 
楽山もそうですが、教条主義者は、思いやり、共感、感動、罪悪感、反省力、修正能力などが欠けてゆき、学習せず、成長せず、批判や苦言に対する反応として、怒り、恨み、憎しみ、怨念などの陰性の感情が目立ってきます。そして、屁理屈遊びで、相手を負かそうとするのです。
 
その例は、やはり、聖書のパリサイ人ですが、卑近なところでは、長らく批判してきたところの、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、さらに、恐らく、多くのカルト教祖と信者も似たような自他の人格の変容~破壊を来たしやすいでしょう。
 
自己愛性人格障害が先なのか、狂信が先なのか、分かりにくい場合もありますが、どちらも、人格にとって、言動において、人間関係において、破綻をごまかしてくる場合が多いことに注意するべきです。つまり、悪を隠して善に見せかけるという偽善者なのです。
 
一見、柔和で、やさしい人柄に見せかけてくることが多く、自身もそう思っていることが多いようです。多くは、芝居がかっていて、問い詰めると理路の破綻から馬脚をあらわすことになるが、被害者によっては、だまされたまま、似たような人格になってゆくことが、大きな災いであります。
 
 
心が壊れてゆく教条主義と、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして狂信、などについては、今後も、考察を続けるつもりです。
 
 
心の中身がない

心の中身がない
 
 
(2021年04月17日)
(2022年05月04日、再録+加筆)
 
 
 
  言質(げんち)
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
 
  年を経て
 
僕にも二十代、十代があったんだよ、と
自分でも信じられないから
心に叫ぶのでしょう
 
今は違う若さから
成長してきた人々の間にいて
全然知らない人生の結実を垣間見ている
 
同じような風景でも
違う生き方の中で
たとえば空も
それを見ている人が
それを見ている間
その人の意味をもつものなのでしょう
 
忘れられない場面
重ねて
遠く
別の人にはまた別の
忘れられない出来事
 
心の層に積み重なって
見えないものは見えないまま
関わっている
人の動き
 
ある日 誰でもいい
人の笑顔が
妙に懐かしく思えるときがあります
 
 
  夏の朝
 
夏の朝まだ早く
外はまだ暗く
しかしぼんやりと夜明けの気配
まだ眠っている頭と心を
揺さぶるように告げるもの
 
もうすぐ朝だよ
すっかり明るくなった頃には
また汗と蒸し暑さの中で
悲鳴をあげる元気もなく
重たい体を持ち上げて
その時はっきり見えるものを
呪いたくなるだけだから
いま眠気の中に咲こうとしている朝に
力を抜いてご覧なさい
 
やがて暑くなる夏の日だって
都会から田舎まで
夢見る若者から老人まで
健やかな者だけでなく傷ついた者まで
等しく朝の予感を用意してくれている
 
ぼんやりと見ている目が
静かに受け取る機会を与えられた
明け方の涼しいひとときを
心の薄明かりのゆえに
ただの薄明かりに過ぎないかどうか
動かなくてもいい
力を抜いてご覧なさい
 
寝ていてもいい
起きてもいい
たとえ朝もやの
霧の
低い雲の
水滴の
みずみずしさに触れなくても
見えない日記はすでに記している
 
ただこのひとときが
その傷と苦悩の中で
許されたことを
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の言うことは、とても幼稚な理屈で、かつ、とても曖昧なことが多いのに、そこに、詭弁を絡ませてくるから、冷静で柔和だと思って受け容れてしまう人が出てくるのです。そういう悪の実績があるのでしょう、楽山は、一人前の思想や宗教を語ったつもりになって、続けている嘘吐きとなっています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
英さんの話を読んで思い出したが、英さんは乱暴な発言が多いが、迷言もあるんだよね。たとえば、これとか↓
たぶん、東大での討論と、自衛隊駐屯地での割腹がごっちゃになったと思われる。
午後7:36 · 2022年5月3日
 
「乱暴」「迷言」「だよね」と、なじっておいて、相手の間違いを指摘しています。つまり、単なる記憶違いの指摘ではなく、傷つけて、おとしめたい、という病質からの悪意が表れています。楽山は、冷静を装いますが、人をバカにした態度は、表れてしまうのです。それが生き甲斐だからでしょう。
 
私は、楽山に厳しい批判を向けていますが、そこにあるのは、バカにしたいのではなく、真剣に怒っているからです。ゆえにこそ、感情を抑制して表現を考えます。おとしめたいのではなく、楽山には、堕ちてゆく、かつ、他者を落としてゆく病質があるという判断に基づいています。
 
 
 
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  楽山の読書と詭弁
 
 『幸福なる人生 ウォレス伝』渡部昇一著
 2022年04月29日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
反対を書き、賛成を書いたから、責任問題は生じない、という、トンデモ無責任の楽山が、まだ分からないらしく、書いてきました。人格の病気で、罪悪感がないというのは、本当に不治なのだなと感じます。羞恥心もなく反省もしないので、お構いなしに、他者をおとしめてゆくのです。
 
 
*概要
本書は評伝とも、自伝ともいえず、何と言ったらいいかわからない本である。
 
だったら書くなと言いたいが、自分が何を言っているかが分からなくなったのでしょう。楽山の、おぞましい精神世界のようです。何伝であっても、楽山に読解力はありません。今まで、偏見だけを書いてきた履歴があるのに、自分を評論家だと思い込んでいるのです。
 
 
タイトルはウォレスの評伝のようだがそうではないし、本文はウォレス自身が語っているので自伝のようだがそうでもない。では何かといえば、「はしがき」で著者のご子息が語っておられることがもっとも近いだろう。
 
こういうゴシップ的な推理話から始めて、実質のある感想・意見は書けるんだと思い込むのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴なのでしょう。本の帯と表紙だけを見て書いているような思いつきを、評論家気取りで書いてきた楽山です。
 
 
この本は、そのウォレスがまるで今の日本人に、霊界から自分のことを語っているような形式をとっている。(『幸福なる人生 ウォレス伝』渡部昇一著、扶桑社、2020年、p.3)
 」
 
やはり「霊界から」が出てきます。楽山の興味は、大方、心霊と超常に向かいます。キリスト教についても、心理学の「心の理論」も、心霊の話として受け取って、幼稚な決めつけで書き得たと思い、その超常からの教祖願望によって、自己愛だけに生きているような、本当の人間関係を持ちえない楽山です。
 
 
端的にいえば、本書はウォレスの霊言という体裁のものなのである。ただし、いい加減なトンデモ本というわけではない。ウォレスの家系、幼少年期、青年期、当時の人々の暮らしぶり、社会情勢などが実に詳しく語られている。
 
トンデモは楽山なのです。批判に弁明できないのに、平気で、無視し続けながら、なおも、その文責を負わないまま、次を書いて、当たり前だと思っているのです。これは、精神病理でしかありません。こういう人は、言論から、まず、始めに追放するべき対象です。トンデモは楽山です。
 
 
時には、同時期の日本の状況についても触れていて、ウォレスの生涯と東西の歴史を立体的に把握できるように工夫がなされている。未完ではあるが、博学な著者による大作である。
 
「立体的」「博学な著者」「大作」・・これで中身が伝わるでしょうか。万事、こういう書き方です。ほめておけば、抵抗なく受け入れられるじゃろ・・という性根で書いているのです。醜いです。楽山の褒め言葉は、全て嘘ですから、真に受けないでください。自己愛者は、本気で人を褒めることはないのです。
 
 
ずいぶん前に著者が松下幸之助について書いた本を読んで感動した覚えがあるけれども、そのことも考え合わせると、もし著者が本腰をいれて、評伝、歴史小説などを書いていたら、いくつもの名作を仕上げていたに違いないと想像する。
 
楽山の「感動」は、例えば、あいまい検索の文字列の一致のようなものです。楽山には心がありません。情感や熱意をベースに読むことがないのです。だから、自説と似たようなことを書いておれば、褒めるのでしょう。おべっかを書かないといけないのは、何も受け取っていないからです。
 
 
*カトリックとスピリチュアリズム
ところで、前々から著者の発言から、スピリチュアリズムのことはよく承知しているとは思っていたが、本書を読むと相当に深く研究している気配が感じられた。貴重な文献も収集してそうでもある。
 
ここでも、そうです。「相当に深く研究している気配が感じられた」・・気配?、なんなのでしょう。褒めるには、それなりの、評価の実質を示さなければいけません。楽山にとっては、褒めておけばよいという判断なので、だんだん、形容が、霧散するような表現になります。
 
 
そこで疑問なのは、著者はカトリックの信仰とスピリチュアリズムとを、どのように整理していたのだろうかということである。スピリチュアリズムは教会に批判的なところはあるし、キリスト教とも矛盾するところもあるので、著者の理解に興味があるのだ。
 
いちばん矛盾してきたのは、楽山です。キリスト教を史実と超常奇跡の話にして、全く的外れで、理解などしておらず、しかも、平気で否定を書いてきました。だから、スピリチュアリズムと同列におけるのでしょう。スピリットは精神のことです。楽山は、人の精神を病気にするウイルスのような存在です。
 
 
たとえば、以前の記事でも触れたことであるが、著者は「私が知る限り、キリスト教で生まれ変わりを信じる人はいませんよ。これは絶対ない」と断言していた。これはつまりクリスチャンの著者は、生まれ変わりは信じていないということでもあるのだろう。
 
まさに、このことです。キリスト教について、生まれ変わりを問題にしています。楽山には、生きている間のことは、どうでもいいのでしょうか。信仰は、人が生きるためにあります。いくら考えても分からない超常や霊が中心ではありません。楽山は、まさに、ホラーです。
 
 
でもスピリチュアリズムでは基本的に生まれ変わりを真実だとしている。著者はこの矛盾をどのように解決していたのだろうか。この問題について触れた文章があるなら、ぜひ読みたいと思う。
 
生まれ変わりについて、こだわり、他の記事では、史実にこだわり、霊にこだわり、どちらも、キリスト教を否定するためのようです。一方で、楽山の精神は、無反省、無責任、嘘と詭弁、刷り込みと詭弁、幼稚な芝居心、努力せずに高みを誇るなど、最低の病質を表すばかりです。
 
楽山は、人をだます嘘と詭弁だけを性癖として身に着けてきました。楽山には、一般常識、良識、良心、共感力、冷静な理路、罪悪感、責任感羞恥心、など、いずれも欠けています。楽山の記事は害毒です。恥さらしになっていることに、楽山は、まるで気づかないのです。
 
 
 
もう一つ、楽山の無責任が表れている記事を再録しておきます。
 
 
 「幸福の科学」の自己責任論について
 2013年02月22日 楽山日記(LD)
 に対する私の批判記事↓
  ここで、改めて批判しておきます。
 
 
自己責任論は、私的な問題のみならず、
公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。
 
責任問題を、公的と私的に分けるのは、楽山の詭弁です。責任問題は、公私問わず、誰が責任者か、どういう責任かを、追及することです。楽山は、こう言う詭弁を、自己保身のために使ってきます。理路は滅裂に近いと思います。
 
 
たとえば、危険な道路で事故が多発しているとき、事故に遭うかどうかは、各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 
 
事故が頻繁なら放置されることはないでしょう。そして、楽山の責任も、最後まで追及されなくてはいけません。それに責任の問題について、「公的な問題を、私的な責任問題としてしまう」・・おかしいです。責任は、公私問わず、責任者が負うべきものです。
 
こういう詭弁を吹き込んでくるのが、楽山という無責任です。追放しても、またどこかで、悪さをするでしょう。その都度、その場から追放されるべきです。楽山の発言こそが、放置してはいけない「危険な道路」なのです。早く、言論の場から、いなくなってほしいです。
 
 
 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。何らかの問題が発生した場合、すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
 
それは、裁判が明らかにすることです。楽山が、いかに、責任を負う気がないかが表れています。事実とは限らないから、反論と論争になることはあるでしょう。気持悪いのは「双方に責任がある」と言っている楽山は、あらゆる発言において、一度も責任を負うたことがないのです。
 
 
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、反省の動機づけとして、あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。
 
責任問題は、当事者にとって、決して、そのまま、曖昧に済ませてはいけない問題です。「反省」という言葉を書きながら、その前後で何も変わらず、反省することのない病質者の楽山には、責任者として、追放以外にないのです。楽山が、いかに、自分の庭で正当化しても、通りはしないのです。
 
 
自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。たとえば、宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、信者は自分を責めることはできても、教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。
 
責任を問えばマインドコントロールになるというのでしょうか。裁判、あるいは、批判によって、楽山のようなアンチ気取りの病的な偽者を、正常人の罪から区別することは、どうしても必要です。楽山の理屈は詭弁であり、自己中の言い逃れであり、全く成り立ちません。
 
 
既にいろいろなところで指摘されているように、自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。より詳しく言えば、自と他の関係において、自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
決定的な発言ですが、楽山は、いかなる不祥事においても、一切、責任を取りません。こういうことが出来るのは、人間が腐っているからです。しかも、この記事だけでなく、詭弁付きです。人を批判しても自分の責任を負わない害毒には、決して近づかないようにしてください。
 
 
また、他と他の関係について、第三者の立場から、どちらか一方に向かって、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
楽山の責任は、楽山だけの言動によるものですから、その責任の全てを負わねばなりません。軽口でキリスト教と良心をおとしめた責任です。さらに、言い逃れに、悪口と嘘と詭弁を弄してきた責任です。そして、今では、反省を全くしないというサイコパスの責任も加わります。
 
 
以上自己責任論というものはいつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず 毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う。幸福の科学の界隈では自己責任論によって他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので自分なりの考えを書いてみた次第である。
 
楽山が、いかに責任を逃れたいかが表れています。楽山は、今まで、いかなる責任も負う気がないということが明らかになってきました。他の人はともかくとしても、一度も責任を負う気のない楽山は、書けば醜い自己正当化の刷り込みにしかなりません。
 
 
ウソッピ物語 嘘っ屁の言い逃れ

ウソッピ物語 嘘っ屁の言い逃れ
 
 
(2022年04月29日、一部再録+加筆)
 
 
 
  うしなったよる
 
みそこなった このみちは
たれのみち どこへ つづく
みうしなった このよるは
たれのよる なにを つつむ
みすてられた このときは
たれのとき いつを かくす
みな ねむるころ
めさめる いまを さかいに
みとどけたい あしたを
くらやみの くさむらの
むしたちの こえと
むねにおちる しずくの おとが
なくしたものを ひろげながら
とおくへ くぎってゆく
 
 
  かえらないもの
 
もう そこには ないのですね
うつむいた ときから
もう そこには いないのですね
なぐさめようもなく
うなだれた ところから
ひとは みな かえってゆきます
たずねびとが みちに まよい
たびびとが よわきになった そのみちを
ふたたび あう やくそくも できないまま
みつからない ひみつを のこして
いいつたえと なぞの あけくれに
ひとは みな いってしまいます
ないものと いないもの もう
たれも さがしは しないのですか
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
本も読めていない。理路も組み立てられず、詭弁の悪用しかない。信仰も宗教も、まるで理解していないのに、書くことに慢心して、内省できず、ろくでもない記事だけ書いてきます。嘘と詭弁が明らかになった今では、意味など無く、否定するしかない楽山の老廃物です。
 
思慮と高等感情、楽山においては、さらに劣化してきました。楽山が、大きなテーマ、つまり、宗教、信仰、真実、などについて書いてくることは、まるで、楽山のハラワタに溜まった汚い老廃物を垂れ流してくるようなものです。楽山の汚らしさを、その都度、味わうことになります。こうはなりたくない。
 
私はキリスト者のつもりなので、信仰の記事やポエム的なものを書きます。絶対の正しさはないので、修正や加筆することも多いです。
 
楽山は、批判に全く答えることなく、悪口を衝動的に多量に書くか、無視するだけの訂正不能です。どう生きたら、こういう人間になってしまうのでしょう。
 
 
 
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  神について語るには4
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが、神という御方を考えるとき、全知全能の神については、私たちの概念の箱には到底納まらないということを先ず言いたいのです。神と聖書について人間が持つべき箱は、修正可能な分かった "つもり" と、分からない保留の箱だけです。
 
したがって、「神」を概念や観念として言葉で考えることは、無理すれば、人が全能者を扱うことになり、教条主義という罠に堕ちるでありましょう。最悪の例を、一人は10年、もう一人は3年、批判しています。全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ、全能ではない人が、神の概念を語ることは困難であり、語るにあたって、少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのかということになりますが、恐れを持つということは、語るなということではなく、語る内容を言葉で決めつけてはいけないということです。どういう姿勢で神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく、導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど、神が人に及ぼした作用の、人における経過と結果から、推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、導きを受けた人のことを語ってもよいし、そういう人の様子や経緯から推測できることを語ってもいいでしょう。神そのものは、人によって捉えられるものではありませんが、神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については、人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから、人が聖三位について語るとき、最も多く語れる対象はキリストであります。人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については、なお人間の理解の届かないところにあります。キリストについて、物や肉体の奇跡を追いかけて、魔法使いの言行録みたいに語ってはいけないと思います。そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと、キリストが救った人々との交流から、救いとは何か、キリストが批判した人々との遣り取りから、救われないとは何か、こららのことを学ぶことは、決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで、自分に、そして人間関係に、さらに思考や感情に、そして人生に、どのような変化があったのかを語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの、信仰がどうあるべきか、信仰者がどう生きるべきか、などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として心が揺さぶられることは、キリストからの愛に、そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて、総じて、導きは祈りに帰してゆきます。祈りは、その日までの経過であり、その日からの出発点なのです。
 
 
神様のことは、徳の高いお爺さんか先生がいるから話を聞いて仲良くしましょう・・ではないのだから、会えば分かるわけでもないのだから、会って直接話を聞ける相手でもないのだから、信仰者は、善の代名詞みたいに気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように、自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして、形容だけ大袈裟にして、大真面目を装って嘘を吐いて、神の意志と行為を決めつけてよいわけもありません。
 
神聖について、人が持つべきなのは、確信ではなく、恐れであります。
 
人に起こることというのは、聖書からだとしても、よく語られる超常話が人を救うのではなく、つまり物や肉体の奇跡ではなく、人間であれば理解できるような、人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか、人間に共感できることだけが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが、聖書にはたくさんあります。そこに価値を見出した人は、理解できないことや疑問や矛盾は、人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は、自らの経験と思考の届きうるもの、すなわち、人間であれば理解できること、共感できること、それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは、こんな不思議の奇跡のわざが起こるんだ・・すごぉい!・・というような、奇跡の粗筋と一覧を覚えることではなく、主イエス・キリストが思いを共にして下さるという孤独からの解放を、人間らしい温もりと潤いの心で、聖書から学び、考えて、伝えてゆくことなのです。
 
ここでいう学習とは、聖書を読み、心に響いたことを、体験において考えてゆく作業であります。それは、その人の生き方の問題であり、人間関係の問題であり、人間とは何かという問題になります。キリスト信仰は、それらを、道徳としてではなく、良心の生き方と在り方して学ぶことなのです。
 
 
共感と学習の道

共感と学習の道
 
 
(2019年、2020年、2021年)
(2022年04月28日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
人間が持ちうる
最も良質な
精いっぱいの
神への告白は
讃美ではなく恐れである
 
神の全能への恐れと
それを憐れむキリストの共感が
キリストへの共感を生むとき
キリスト信仰は生まれる
 
 
 神への恐れ
 
人間は
神について確信的に知ることなど出来はしない。
神は偉大というのは
私たちには知りえないほど偉大だということだ。
神は永遠というのは
私たちには到達できないほど永遠ということだ。
 
そこを取り違えた者たちが
神の言葉を代弁するかのように豪語するのは
"紙の言葉" をもてあそぶことに過ぎない。
 
机上で神をもてあそぶ者たちに惑わされないように
 
私たち人間は
お笑いのように
泣き笑いのように不全であります。
 
先ず
神を恐れることを学んでください。
 
次に
恥ずかしく、泣き、笑われる、私たちに
同伴し、寄り添い、共感し、共感を与える、キリストを覚えてください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が大事なことだと分かっているなら、いつでも、反省は出来ることなのです。それをせずに「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などと言っているのは、反省する気のない者か、反省ということを知らない者でしょう。育たなかったのでしょうか、反省と学習の精神が。
 
 
 
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  楽山のトンデモとインチキ2
 
 『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著
 2021年04月18日
 
 
(ネットより)
鹿嶋 春平太(かしま しゅんぺいた、1941年 - )は、日本の経済学者、宗教社会学者。明治学院大学名誉教授。本名・肥田日出生。 1965年慶應義塾大学経済学部卒業。71年同大学院商学研究科博士課程単位取得退学、明治学院大学経済学部専任講師。74年助教授。80年教授。日本広告学会賞を二度受賞。聖書研究家として鹿嶋の名を用いる。2011年定年退任。
ウィキペディア
 
楽山は、キリスト教と信仰をおとしめるために、インチキ本を勧めています。トンデモ本は、なぜ、インチキなのかと言えば、聖書を面白おかしい話に落として、信仰による救いを損なっているからです。楽山には、ご馳走なのでしょう。
 
批判に答えられず、いかなる弁明も詭弁で成り立たず、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の病質が明らかになってきて、もはや、ケダモノの荒い鼻息のように、開き直って手段を選ばず、侮辱の悪魔性に没頭する楽山です。
 
 
タイトルから聖書入門だと思って本書を読んでみたのだが、スピリチュアリズム的な考え方が多く紹介されていて意表を突かれた思いである。その例を上げるとするならば、まず著者はイエスの教えについて次のように記している。
イエスの教えようとするのは、徹頭徹尾「霊界の真理」です。
(『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太著、新潮社、1996年、p.81)
 」
 
霊界に心を奪われると、楽山のように、現実が見えなくなり、言動は狂い出し、言うことが変になり、あげくに、詭弁と嘘ばかりになって、さらに、開き直って、人に化けた幽霊が、本当の顔を表すように、みすぼらしく醜い素顔をさらすことになります。
 
 
イエスの教える真理は、霊界の真理です。そして霊界は人間には見えないから、見える物質界にたとえて話しているにすぎないことになっています。
(同上、p.230)
 」
宗教教義は霊界理論であり、宗教的に考えるのは霊界的に考えることであるともいう。
 
キリストの教えが霊界の理論だけならば、信仰に生かされる人はいないはずです。実際は、霊界に溺れた楽山のような人が、救われない者の醜態を、悲惨な例として晒しているだけです。キリストの教えは、人間への共感であり、理解であり、信仰は、キリストへの共感であり、神への正直なのです。
 
 
宗教形而上学理論の中心は霊界理論です。だから、宗教思考に導かれるというのは、霊界思考に入ることをも意味しています。
(同上、p.301)
 」
信仰とは神と波動を合わせることであり、それができれば神のエネルギーに満たされるという。
 
信仰は、霊界理論でも霊界思考でもありません。また、どうして、人間が、「神と波動を合わせ」られると言うのでしょう。生きている間の、あくまで、人間としての共感であります。楽山が、神のエネルギ-などと言うのは、いかにも、ペテン師らしい出まかせの発想です。
 
霊界思考に生きている楽山を見てください。これほど醜い人はいません。「神と波動を合わせる」などと言い出したら、おしまいなのです。宗教についての思考が、甚だしく偏っており、まるで成り立たず、偏見だけで、結論を出して、病識も反省もありません。
 
宗教と信仰について考えることは、人間について考えることです。それを、止めてしまった楽山は、もはや、人間らしい思考が何も出来なくなり、過大な自尊のために、歯をむき出して、臭い息を吐いて嘘っぱちの霊界話を捏造し、人生に復讐を企んでいるのです。つまり、人間ではなくなるのです。
 
 
バイブルにおける「信仰」とは、物理的イメージで言えば想像霊の意識波動に自己の意識波動を協和させることです。そして、それが一定以上に実現されると、神の力(栄光)は、その信仰を通して発揮される、というのが基本思想です。
(同上、p.251)
(*注 「想像霊」は「創造霊」の誤植と思われるが、ここでは引用元そのママにしておく)
 」
 
心の欠片もない言い分が続いています。信仰の物理的イメージだそうです。信仰に、人に分かる物理はありません。比喩としては拙劣すぎます。神の基本思想?などと言われて、それを悦ぶ楽山は、あらゆる人間の道から、人間の理解から、遠くなった報いを、今、受けています。
 
 
神もまた霊ですから、相応の意識をもっています。そして同時にそこからは「いのち」エネルギーが放射されています。それを自らの霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要、という図式なのです。不協和なら、浸透しないことになっています。
(同上、p.75)
 」
 
人間として受け取るべき信仰を、楽山は、低劣な霊の話にしてしまいます。こういう男が、いちばん信仰を駄目にするのです。神を対象にして、相応の意識を持っている、などと言える人間はいません。命は、エネルギーみたいに物理で論じることは出来ません。神は、人の論理の対象にはなりません。
 
「霊に浸透させるには、発射体と協和するような意識を保っていることが必要」「不協和なら、浸透しないことになっています」・・どういう捏造の霊界物語なのでしょう。学ぶことに怠慢な者は、でっち上げで、自分は分かるんだ、特別なんだ、などと吹聴してくるのでしょう。
 
宗教から、お伽噺に、空疎な造語と豪語に、そして、果ては、インチキ占い師らしい空想と妄想に堕して、最後は、路地裏の屍になるか、刑務所で一生を終えるのではないかと思います。楽山は、その中でも、気取りの話とは裏腹に、誰よりも危険な人物です。
 
 
聖書の記述…「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです」(コリント二 12.2)については、次のように説明している。 
これは今日の心霊科学でいうと「幽体離脱」ですね。
(同上、p.74)
 」
本書は、日本的なキリスト教理解の問題点を指摘し、その一例として遠藤周作、曽野綾子、三浦綾子の作品の難点を指摘するなど興味深い箇所もあり、学ぶべきところは多々ある。
 
楽山は、自分は特別だと言いたいために引用していますが、何も学んでいません。引用元も、何も学ぶところのないインチキだと思います。その傲慢ぶりは、楽山に見られる訂正不能の霊の引き寄せ妄想と、それこそ、同じ波長を持っているのでしょう。
 
つまり、楽山が、名のある小説家を、軒並み侮辱してきたのは、こういうベースがあったからでしょう。知が足りず情が曲がった者の意は、単純に、人間らしい知情意への復讐だということが分かります。もはや、既に、滅びているのです。誰も関わってはいけません。
 
 
けれども上のことからすると、これは一般的な意味での「聖書入門」というよりは、「スピリチュアリズム的解釈による聖書入門」とすべきではなかろうか。アマゾンのレビューでもこういう特殊さを指摘しているものがあった。スピリチュアリズムに馴染みのある人であれば本書の聖書読解に共感し信じる人も多いかもしれないが、一般の人は本書を読む際にはこの点について注意が必要ではある。
 
聖書は、人間として読むべきであり、スピリチュアル的解釈など存在しません。人間が、神の霊、即ち、聖霊を、いくら考えても、そのスピリチュアルは、如来の掌から逃れられない孫悟空のようなものなのです。楽山の低次元が、救いがたい捏造の霊界を語っています。
 
霊能者気取りが、魔人気取りと、肩を並べて、首を並べて、断頭台に座っているようなものです。決して、影響を受けてはいけません。神に対して人間としての身の程を弁えない者は、ここまで来るという例なのです。悪霊から悪例までの現実を、当てもなく、ふらついている楽山です。
 
楽山の霊性は、腐った料理にたかる蝿のようなものです。楽山の息は、できるだけ多くの人々を、伝染性の、人でなしウイルスに感染させることでしょう。楽山の人間性の崩壊は、ここまで堕ちてくるのでしょう。自らに呪いをかけている楽山ですが、自覚だけは、ずっと、ないのです。
 
霊と超常は、神に任されるべきものです。それを、人が云々するのは、神のごとき自らを自慢したいからに他なりません。言論と真実への冒涜です。霊が分かるっぽい楽山が、それこそ、欺瞞によって、捏造した神霊世界を、どうか、信用しないでください。
 
アマゾンカスタマーレビュー
偏っているからダメと断ずるつもりはありません。こういう本は、特定宗教団体や特定出版社から数多く出ています。これが好きな人もいるかも知れません。ただ、一般読者向けの「聖書入門」としてはあまりにも独断的で水準も低いというだけです。星二つは、その「トンデモ本」度に敬意を表したものです。
アマゾンカスタマーレビュー
 
「トンデモ本」に敬意を表すのでしょうか。信仰とは無関係です。楽山は、同じように敬意を欲しがっていますが、楽山という自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、いかなる癒しも、つける薬も、讃える名前もないのです。私は、著者にも楽山にも、敬意の欠片も感じません。
 
 
インチキはインチキを呼ぶ

インチキはインチキを呼ぶ
 
 
(2021年04月19日、同日一部修正)
(2022年04月23日、再録+加筆)
 
 
 
  どっちを選んでも罪
 
仮に極端な話ですが、既に百人を殺した者が目の前にいて自分を殺そうとしたとき、彼を殺すのが正しいかどうか。殺せば理由がどうあれ人殺しをしたことになるのだから、それは罪です。決して正義ではありません。
 
では殺さず殉教のつもりで殺されたとしたらどうでしょう。彼はさらに千人を殺すかもしれません。その中には愛する家族や隣人・友人も含まれるかもしれないのです。隣人を愛さなかったという、これも罪です。たとえ殉教であってもです。
 
つまり殺す・殺される、どっちを選んでも罪なのです。では実際どうしたらいいのか、語る口を私は持ちません。しかし何(いず)れかの行動を人はすることになります。極端な場合の話ですが、これは、人が罪人であることを示すための思考実験です。
 
しかし今の世に生きる限り、このような極端な場合でなくても何かを選びながら何かを切り捨てながら人は生きていくのですから、どっちを選んでも罪ということがむしろ多いように思います。罪を犯さない生き方などないと思います。
 
義人はいない、一人もいない。キリストは罪については厳しい見方をしておられました。罪を認めない者にはあくまで厳しかった。罪というものが、赦していただくほか救いがないということは、認められていない罪は赦しようがないからです。
 
人という罪にまみれた創造物は、神の前においては裁かれるだけの存在であるということです。ここにおいて私が言いたいのは人が天国というところに行けるとすれば、それは人が正しかったからではない。人間は、創世記が示すように、全(まった)き正義に生きることができる存在として創られてはいない。
 
人は神の裁きの場において、神に憐れまれることのみによって御国・天国へ行くことを許される。それ以外に御国へ至る道はないのです。そして、神に憐れまれる唯一の方法は、正直な祈り以外にはないのです。言い換えれば、それだけでよいのです。
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
 
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性なんでしょうかね」と、嘘吐きが、嘘吐きの言い訳に、嘘を吐いています。嘘吐きは、結局、何を言っても信用されなくなります。信用されず相手にされないことを、嘘と詭弁で慰めることは出来ません。そして、嘘吐きは、嘘に嘘を重ねて、ついには、自らの存在をも嘘にしてゆくのです。
 
 
 
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