ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自己愛性人格障害

 
  人からの自由3
 
 
正月早々ポップアップで作業を妨害した可能性のある楽山は、証拠がないじゃろ❔・とでも言って、しらばくれるかもしれません。しかし、思い当たる加害者は、楽山以外にいないのです。楽山は、犯罪衝動を抑制できない人だということを自ら証明しました。つまり、弁明不可の、危険人物なのです。
 
 
今回は、キリスト信仰の話です。前に書きましたが、キリスト信仰においては、他者からの自由、人からの自由という大きな恵みがあります。ただし、楽山のような、無反省、無責任とは全然、違います。できること精いっぱいする、それ以上できないなら、あとは神に任せましょうということです。
 
しかし、一歩間違えると、神はいつも自分の味方、自分の敵は神の敵、いつか神が復讐してくれる、というような、恐ろしい自己中心の怨念信仰に陥る危険があります。神に対する身勝手な曲解に基づくもので、個人の偶像崇拝であり、正体は、結局、自分信仰であり、一種のカルトであります。
 
例えば、自分について、これでいい・・を神にささげることは出来ません。これでいいかどうかは、神が判断なさることです。これしか出来ません・・を捧げるべきです。
 
愛と恵みばかりを強調して、神への恐れ、戒める神、懲らしめる神を自覚せず教えもしない説教を続けていると、身勝手な依怙贔屓の神信仰、ありがたや信仰の、他罰性に陥る危険があります。
 
そういうカルトに共通しているのは、自己中心、自尊の絶対化、無反省、無責任、無理解、訂正不能、学習不能、成長不能、良心・良識・常識欠如、そして、結果として、妄想の絶対化、理解力・共感力の喪失という人格の破壊です。
 
 
人からの自由、というのは、超人になることではないし、他者からの自由、というのは、他者を無視することではありません。この2つは、似たような意味ですが、カルト的思考という点では、大きな問題であります。この2つを、そのまま実践しているような、反キリストのカルトが現にいるからです。
 
 
 
  「妄想コメント」
  に追加して
 
その偽牧師は「罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい」「今、悔い改めないのは、悔い改めは神が与える」からだと言い、そのような詭弁で成り立つ信仰はどこにも存在しない、まず最初に自分が自分の自由意志で告白し悔い改めるのが信仰の始まりです。
 
悔い改めていないのは、神が何も与えていない証拠だと言うと「生まれながらの自由意志ではなく御言葉と御霊による自由意思」と言い出し、聖霊を自己正当化に振り回し、理解不能の造語的組み合わせをしてきます。その場で繕っただけの言葉遊びを聖霊によって正当化したつもりの偽牧師です。
 
このような妄想をキリスト教として言ってくることこそ、人間らしさから乖離した神がかりの超人意識であり、自分の思いつきが聖霊による神の啓示だと思いこみ、人間らしい自由意志を嫌い、人間を嫌って否定している証拠なのです。
 
そうして、こちらの言ったことを何一つ受け取れないほど理解力が欠け落ちて、妄想が固定してしまっている者がいるということです。人間が、人間離れしたら、人間的な情感の喪失と、人格の破壊によるところの、カルト的狂気に堕ちてしまうのです。
 
そこでは、人間離れした超人気取りが、神がかって、自分の言ったことを、総て、ほぼ自動的に、神の意志と思い込むということが起きていて、反省は皆無のまま、訂正不能になります。
 
そのくせ、好きなように言って、批判を受け取らず、理解も出来ず、しかも、それほど劣悪な精神を見せながら、世辞の丁寧語によって、いつも、まともな宗教指導者であると見せかけて、さらに、次の機会には、何事も無かったかのような白々しさで、挨拶を入れて、また、ゴタクを並べるのです。
 
自尊の絶対化、という、神が最も嫌う大罪を犯しながら、いつも、神の平安の中に守られています・・などと言うほどの、100%の背教と、180度の逆転が、恒常的に起きるのは、初期の信仰理解が、まるで成り立っていないからです。
 
まともに人の話を理解できず、自分の理解というより都合だけで、キリスト教の言葉を的外れの方向に振り回して、悦に入っている妄想的人格破壊の姿であります。それが、その者の中だけで終わらず、キリスト信仰として、広めようとするのだから、迷惑というより邪悪かつ有害であります。
 
 
キリスト信仰による人からの自由は、超人になることではなく、完全になることでもなく、また、ゆえに、神のしもべとして完全になるという詭弁でもなく、神に近づくことでもなく、他者より優位に立つということでもなく、優れた者になることではなく、ただ、人間としての一生を全うすることであります。
 
そのために、キリストの同伴を必要とし、主なる神を恐れ、主なる神に対してだけは正直となるためなのです。
 
キリスト信仰による人からの自由は、おもに、旧約聖書から、神という絶対の存在を知り、それとは違う不完全な存在としての自らを知ることです。見方を変えれば、自分と同じような不完全な他者に隷属する必要はないという意味で、人からの自由なのです。
 
そして、おもに、新約聖書から、キリストの御名によって、正直に祈ることを学びます。よって、他者の批判を無視することでなく、反省・自省・修正・学習したうえで、他者の執拗で悪質な言葉や、世俗の思い込みや先入観・固定観念から、自由になることです。
 
むしろ、神を恐れ、不完全な自分を知り、その違いと分別をわきまえ、主の慈しみを知るゆえに、恐るべき神への信仰が、人への恐れから解放し、ゆえに、人からの自由とも言えるのです。神を恐れ、主を愛するがゆえに、恐れることなく、人を愛するようになるという恵みです。
 
 (詩篇、口語訳)111:10
主を恐れることは知恵のはじめである。
これを行う者はみな良き悟りを得る。
主の誉は、とこしえに、うせることはない。
 (詩篇111:10、旧約聖書)
 
キリスト信仰による人からの自由は、キリストの御名によって、他者をないがしろにすることではなく、他者に誇ってよいことでもなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。だから、苦難に直面し、くずおれることなく、回復する力でもあります。
 
キリスト信仰による人からの自由は、この世の形骸に命を託すことのないように、カルトの誘惑や脅迫に支配されることのないように、欲望を貪るだけの餓鬼になることなく、人を貪る悪魔に魅入られることなく、・・ただただ、人間らしく生きるためであります。
 
キリストの同伴という慈しみによって、人が見捨てても、見捨てられた者となることなく、絶対孤独に囚われることなく、生きることを諦めることがありません。罪深いこの世の形骸に、ときに従うことがあっても奴隷とならず、いかなる人の奴隷ともなりません。支えるのは、正直な祈りであります。
 
打ちひしがれることがあって失望しても、絶望とはなりません。悲しんでいても、絶望に支配されず、キリストの限りない愛と共感に個人として結ばれ、誤りのない生き方の境地とかではなく、信仰は、過ちを犯しても、正直に祈り、悔い改めて立ち直れる道であります。
 
ゆえに、キリスト信仰の、"人からの自由" は、他者の思惑に振り回されることなく、どのような境遇にあっても、他者から独立し自立した人格の尊厳から、むしろ、同じ人間である他者を大切に思う心を育てるためであります。人間を生かす愛と共感を学ぶために、キリスト信仰があるとも言えるのです。
 
 
人からの自由b

人からの自由
 
 
(2019年)
(2021年)
(2023年01月24日、再録+加筆)
 
 
 
  問いと自由
 
なぜ生まれたのか
なぜ生きるのか
なぜ死ぬのか
土の上にも土の下にも
答は見つからないだろうし
その答を探そうとするうちに
問いの方が先に消滅する
ということは分かっている
 
水の上にも水の下にも
問うこともなく
答を求めたがることもなく
生きて死ぬ動物も植物も
子孫を残すという目的に
すべてを捧げ命を削っている
 
子孫を残すかどうかを選ぶという自由は
火の上にも火の下にも
クローンの時代のように残酷である
 
自らの遺伝子を残すことに
無条件の喜びを疑わない一方で
動物にも植物にも人間にも
種を残せない生と死があることは
遺伝子の皮肉だろうか悲劇だろうか
種に問いかけられることのない
自由だろうか
 
問いの自由の
木から落ちた猿よ
 
 
  培地
 
つけっぱなしの蛍光灯で
夜は明るすぎて
 
閉めたままのカーテンで
昼は暗すぎて
 
培地の中の生命体は
増えようがなくて
 
昨日も今日も
ずっと一つのまま
外へ出るのは自由なのだが
またすぐ戻ってきて明日も
よくて一つのままだとわかっていながら
0(ゼロ)になることを恐れている
 
一つ・・のあいだに触手を伸ばす
ペン先の呼吸
 
つけっぱなしの蛍光灯では
夜は暗すぎて
 
閉めたままのカーテン越しに
昼は明るすぎて
 
隠れてないで出てらっしゃい
まだ一つにもなっていないくせに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びても芝居、反省も芝居、言ってることの根拠は偏見、攻めるに守るに嘘を吐き、失敗にも罪にも偽善にも悪にも気づくことなく、不都合を自分の中で無かったことにして、平気で厚顔無恥のまま行進しているつもりのピエロには、出会うことが不幸、つまり、楽山に関わること自体が災難であります。
 
 
 
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  神と信仰メモ3
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。神の存在の証拠があるからでもなく、超常奇跡の成就を信じるのでもありません。個人にとって、生きるために必要だからなのです。この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲しいことがあるからです。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理を含む存在がいるのだろう。その御方は、人間に共感する御方であることが、聖書に書かれています。
 
そして、その御方、即ち、神は、今は隠れているけれども、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられるのだろう。私たち人間を無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至るのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者として、その御方を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのであります。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではないということです。
 
その存在を知ることは、超常奇跡の不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残る、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ばれるようになったのでしょう。
 
 
神を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈と知識だけで、超常のホラーのような物語におとしめて、机上の辻褄合わせで、神を良いとか悪いとか、存在とか不在とか、決めつける無神教カルトが、いかに、的外れであるかを分かってほしいと思います。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が全能者のあり方で神の前に正直な人を救うために、つまり、人を愛するために、摂理の存在を信じ、キリストに共感することが救いなのです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて人に与えるのは、人間には届かない完全な真善美ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、そのまま善しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 
無明(むみょう)に注ぐ光

無明(むみょう)に注ぐ光
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
信仰者は、神からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らない地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって告白し祈ることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年)
(2022年)
(2023年01月23日、再録+加筆)
 
 
 
 『易(えき)入門』黄小娥著
 2022年01月19日 楽山日記(LD)
 
 
やはり、楽山は、努力より、占いが当たることを望むのでしょう。短い記事ですが、さらに、褒めるだけの文章ですから、空疎としか言えない干からびた感想で、何のアドバイスにもなっていません。こういう文章を書いてくる厚顔が楽山の持ち味としか言いようがなく、ネットの屑となっています。
 
 
何年か前に易経に興味を持ち、いくつかの関連書籍を集めてはみたものの、どれも難しくてずっと積読状態になっていたのであるが、先日思い立って、それらの中でもっとも初心者向きらしい本書を開いてみた。
 
初心者に向けて、こういう本を読むとよい・・みたいな書き方をするのは、読解力のあるする専門家のすることです。楽山に、読書の勧めを書く資格はありません。あらゆる本を曲解して、キリスト教と信仰について、度外れた偏見を持つに至った楽山です。
 
 
一読して、本書が易の入門書として高く評価されている理由がわかった気がする。まず文章は平易で分かりやすいし、六十四卦の説明では冒頭に卦の意味を一言で提示してあって有り難い。実占のエピソードは、初版は昭和36年なのでいささか時代を感じさせるところはあるが、どれも印象的で記憶に残るものばかりである。おかげ様で未済まで興味を失うことなく読み進めることができた。
 
「易の入門書として高く評価されている理由がわかった」といって、専門用語の説明もせず、難しい書に見せかけても、「平易」「説明」「有り難い」と、「印象的」「記憶に残る」「興味を失うことなく」など、具体性のない陳腐な褒め言葉だらけです。いい加減な読書感想文の典型でしょう。
 
 
恥ずかしながら自分は、易経を読もうとして乾の途中で挫折したくちである。こんな自分でも最後まで通読できる入門書を執筆してくださった著者にはただただ感謝である。
『易(えき)入門』黄小娥著、裏
ちなみに、こちらは裏カバーである↑
著者紹介を読むと、著者は本当にすごい人のようだ。
 
らくざんは「すごい」ことを讃えます。楽山は、全く平均未満の知性と感性ですが、自分では学者に相当する助言者のつもりだからでしょう。そうして気取り、大仰に本を褒めて、評論家を気取り、その実質の欠乏を、ブログで日常的に漏らすことで露呈している結果と経過です。
 
楽山の記事に付き合うのは、時間の浪費です。それこそ、人生の貴重な時間を、どぶに捨てるようなものだと思います。批判以上では、楽山に関わらないでください。「ただただ感謝」「すごい人」・・読書感想文になっていません。感想を問われて「よかった」と言って、先生に怒られる小学生みたいです。
 
楽山は、故意なのです。一生懸命書いても、足らざれば、見せるのを控えるか、発表しないで置くか、むしろ、足らざる自分について考えるべきですが、楽山は、自己顕示欲から、人のためになるかのような、教えるような筆致で書いて、拙く短い文章では書けないテーマということに、気づかないのです。
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  約束のない地へ
 
無情でも無常でもなく
速度を測れる暇も与えず
出会ったものは皆お互い
それぞれ一目散に駆けてゆく
宝の地図を焼き捨てて
地図に名のある町を捨て
すべての飾りを脱ぎ捨てて
古びた預言を拭い捨て
もはや信じられるのは
されど信じられないのは
歌が止むときだけだ
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
 
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省と学習は、人間に必須です。それが出来ないならば、人間ではないと言ってもいいことなのです。なのに、楽山は、「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという、まるで実感のない、ふざけたことを言って、読者を巻き込もうとします。何も出来ないのに、教えたがります。
 
 
 
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  楽山の現実逃避
 
 『死は存在しない 
  最先端量子科学が示す新たな仮説』田坂広志著
 2023年01月21日 楽山日記
   を批判。
 
多くの嘘を吐き、多くの妄想をさらけ出し、多くの詭弁を弄して、人を騙すことしかできない楽山は、ほとんど衝動的に、無条件で、無理解でも、科学の名が付いた説に飛びついています。なおも自分は難しいことが分かると言いたいのでしょう。しかし、これも人格崩壊への症状なのです。
 
 
*死は存在しない?
とある筋から本書のことを知り、興味を持ったので一読してみた。どうやら著者の主張は、次のようなものであるらしい。
 
「とある筋」とは何でしょう。自分は重要な秘密結社にでも属していると言いたいのでしょうか。楽山の現実感覚が精神病理として、さらなる嘘と妄想に飛んでゆくような記事になっています。およそ、一般には、ましてや、楽山などには、理解できそうにもない次元の学説?を語り始めました。
 
楽山が「死は存在しない」ということに飛びつく心理~精神病理は、恐らく現実逃避だと思います。追い詰められて、何を考える知性もなく何を感じ取る感性もない者が、飛びつくのは、何にもしなくてもすべてが解決するような身勝手な夢の世界なのです。むしろ、このことから楽山の救いがたさが表れてきます。
 
 
この世界には、ゼロ・ポイント・フィールド(深層世界)というものがあり、そこには人々の経験や思いが全て記録されている。人が死にその肉体は滅んだとしても、このゼロ・ポイント・フィールドに記録されている当人の経験や思いは失われないので、この意味で人に死は存在しないことになる。
 
「ゼロ・ポイント・フィールド」(Zero Point Field)とは、端的に言えば、この宇宙のすべての場所に偏在するエネルギー場のことであるが、この場に、宇宙の過去、現在、未来のすべての情報が記録されているという仮説である。
(そしてそれは)「波動」として「ホログラム的な構造」で記録されているという仮説が、現在、注目されているのである。
引用:参考書籍 田坂広志「運気を磨く〜心を浄化する三つの技法〜」
 」
 
書いてある用語に、納得できる根拠と説明がありません。楽山には、さらに人間としての根拠がありません。唐突に記事に書いてきたのは、恐らく、少年少女趣味と同じような、あるいは囚人の赦免妄想のような、現実逃避規制によって、犯罪者の本能として、衝動的に飛びついているのでしょう。
 
 
ただしゼロ・ポイント・フィールドは単なる記録保管所ではなく、一つの意識体であるから、そこに保存されているのは記録というよりは、記憶であり、刻々と変化して行くものである。だからゼロ・ポイント・フィールドに遺された死者の思いは、固定的なものではなく、少しずつ変化して行き、次第にエゴを失い、やがてはゼロ・ポイント・フィールドの意識と同化することになる云々。
 
「単なる記録保管所ではなく、一つの意識体」・・だからなんだというのでしょう。理解に結びつく何かの実証があるのでしょうか。どこかにある記憶の話をして、具体性がどこにあるのでしょう。「ゼロ・ポイント・フィールドの意識と同化」して、何が現実に起こるのでしょう。
 
楽山が、様々なHNを使って人を騙し誘導するように、楽山の欲望が成就するとでも言うのでしょうか。もはや、何の具体性もないものに楽山はすがりつきたいのでしょうか。まるで思春期の憧れのように、楽山が憧れる対象は、ほぼ全部、遠すぎて届かず、楽山は、話す方法さえ分からない世界に逃げています。
 
 
これはあくまで自分の読解であるから、不正確なところもあるかもしれないのだが、自分としては著者の意見を大体このように理解しつつ、人の意識のコピーは残るが、オリジナルは滅びるというのでは仕方がないというさみしい心持ちがした次第である。
 
「不正確」と言いながら「理解しつつ」と見栄を貼っています。「意識のコピー」が分かるというのでしょうか。楽山の空想非科学妄想全開です。科学の「か」の字も理解していない楽山が、何をもって「さみしい」と書いているのでしょう。書けば、必ず自己顕示欲だけが表れる楽山の因業であります。
 
 
しかしおそらくはこういった感慨は自我にとらわれているが故なのだろうし、ゼロ・ポイント・フィールドの記録をコピーとするのは間違いで、それに同化しない部分こそ偽物の自分だと考えるべきなのだろう。
 
「自我にとらわれている」楽山の、自我は欲望に囚われて、真善美からは遠ざかるばかりであるのに、またしても、小便臭い理想か空想を飲み込んで、妄想に酔っている楽山です。はっきり言って、楽山には本物はありません。今までも、これからも、楽山のハリボテのような、人間性の偽物だけなのです。
 
 
*不思議な出来事
また著者は、さまざまな不思議な出来事についても、このゼロ・ポイント・フィールドによって説明している。たとえば、予知などは、人の意識がさまざまな情報を集積しているゼロ・ポイント・フィールドと同通することでおきるだとか、故人の霊と会うというのは、ゼロ・ポイント・フィールドに保存されている故人の記録を合成したものと会うことであるとか、心霊スポットとはゼロ・ポイント・フィールドと同通しやすい特定の場所なのだろうなど。
 
全部、空想の辻褄合わせに過ぎません。楽山の精神世界は、結局、このような、科学に見せかけた夢幻の世界なのです。それを、分かったかのように現実世界の他者に投げつけるのは止めてほしいですが、夢見る楽山は、せっせと、それを、涎(よだれ)のように垂れ流してゆくのでしょう。
 
 
こういう説明を読むと、ゼロ・ポイント・フィールド仮説を用いれば、大概の神秘現象は説明できてしまいそうだからおもしろい。
 
つまり仮説なのです。実証しようもない。しかし、楽山においてだけは妄想化して、楽山にとってだけ現実との区別がつかなくなってゆくのでしょう。証明できないものによって「神秘現象」を説明できるという矛盾に至って、今度は、楽山が流涎するのでしょう。どこまでも神秘になりたがる楽山です。
 
 
*疑似科学?
個人的な感想としては、本書は疑似科学系のスピリチュアル本であるように思う。自分は最先端科学については何も知らないので、本書に書かれていることについて、科学的な観点から、あれこれ論評する能力はなく、これはあくまで自分がそのように感じたということにすぎないのだけれど…。
 
科学も疑似科学も理解できないのに、今回のように、悦んでいるのは、我欲の本能が感じていることにだけ従ってきた楽山の生き方そのものではないかと思います。独りでならまだしも、それをブログに書いて、人を惑わせようとするのは、まさに、今までと同じ、楽山の我執の妄想人生に他なりません。
 
 
ただそれはそれとして、著者の提唱するゼロ・ポイント・フィールド仮説は実にユニークであるのは間違いない。他の書籍も読み、著者の世界観をもっと知りたいと思う。
 
どうして楽山は「論評する能力はなく」と言いながら、「ユニークであるのは間違いない」などと言えるのでしょう。楽山の言は、書くたびに、矛盾し続けます。そしてまた欲と悪に飲まれ飲まれて、人をバカにする詭弁に至るでしょう。悲惨な楽山の病質的因業が、また害虫のように湧いています。
 
 
架空にすがりつく者

架空にすがりつく者
 
 
(2023年01月22日)
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
自分は今正常ではないのでは?常識的な判断ができてないのでは?と思える人は、メンタルが不調でも理性が残っている人。これが「自分は絶対に正しい、間違っているのはアイツ、社会」などとなり、何事も他責で考えるようになったら、理性を失っているか、元々理性的な判断ができない人だと思っていい。
 」
午前9:43 · 2023年1月21日
 
また、楽山のブーメランです。楽山は常識的判断が出来ているつもりの病質者で、不祥事を、全部、人のせいにしてきました。つまり、実際は、理性的な判断が、まるで出来ないのです。しかも、その自覚が全くありません。だから、こういうリツイートをしてきます。ブーメランの繰り返しです。
 
楽山は、対立する人に、指摘するつもりで、書いたり、リツイートしたりしますが、そこに、自分について省みるという機能を持っていないために、リツイートが、そのまま、自分に向かってくるのを感知できないでいます。こういう姿勢と結果は、楽山の常態なのです。だから病質なのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害のために、こういう姿勢しか持っていない楽山は、決して自分の非を認めず、自己主張を続けてきます。相手を責めて、疲労ばかりを与えてゆくのです。悪いことを、他者にだけ当てはめる楽山は、反省せず学習せず進歩しないので、誰にとっても迷惑な存在です。
 
4年くらい前にコメントの遣り取りをしたことがあります。楽山の言に反対意見を述べても、楽山は同じことを書いてくるか、話を逸らして、こちらを責めてくるだけです。つまり、議論をしても、全く、先に進みません。何の進展もない相手なので、議論から排除するしかないのです。
 
楽山は、自己満悦感だけに生きています。自分を肯定する人には、歯の浮くような世辞さえ言います。自分を肯定しない人には、相手が疲労して去るまで雑言ばかり当ててきます。百害あって一利ない人です。全否定するしかない人が現にいます。楽山には決して近づかないでください。
 
 
 
  蝋燭の日
 
学生の頃を思い出す
方程式は解けても
お金を出し合って買い物をしたとき
貸し借りや
お釣りの計算ができなくて誤解された
 
数学はできても算数はできない
それは今でも変わらず
暗算は苦手で
お釣りを確認しない
 
そういう人間が大学を出て
先生と呼ばれ小金持ちになった
夢があり希望があって
それは叶えられたのだ
 
それはマッチの火 蝋燭(ろうそく)の日
一人で持てる
少しばかりの贅沢を味わっている
 
あれが一つの伏線だったかと
学生の頃を思い出す
 
越えられなかった壁
直せなかった欠点を
数え上げれば切りがない
 
だとしても
すべては私の選択だった
 
選んだものの中に身を置いて
人間よりも機械に近しいかのようで
生産が受け身に代わり
欲望がだんだん下等になり
展望が鼻先のニンジンに変わり
同じ動作の反復が増えていく
 
だとしても
すべては私だ
まだ私だ
裁かれるように裁かれる
救われるように救われる
居るように居ない
古びた日記のせいにはしない
悪夢があり絶望があって
それは叶えられるだろう
だからマッチの火 蝋燭の日
一人で持てる
少しばかりの貧乏を味わっている
 
 
  夢より勝手に
 
まだ生きてたの
と言うのだ
かつての好ましからざる同僚が
まるで家畜を見るような目で
悪し様に言うのだ
もちろん夢の話だ おぞましい悪夢だ
いったいどんな思惑(しわく)が見させたのか
 
室温十四度の部屋で
汗をかいて目が覚めた
朝だ 夜は眠れたということだ
しかも晴れだ
何と裏腹な・・・こんな目覚め方
窓もドアも開けていないのに
蠅が一匹部屋の中を飛んでいる
 
まともなパターンの睡眠
悪夢のうちに取れましたと
日記に書いて落ち込んで
またベッドに入って
ふて寝して一日を過ごすか
 
嫌だな 夢にまで負けるなんて
気晴らしに出かけたからといって
どうなるものでもないが
二十日間ずっと眠っていたオートバイ
タンクの汚れをざっと拭(ぬぐ)って
起こして 逃げるとしよ
 
まとわりつく夢を振り切って
かつて衝突して骨折した防波堤のある
海沿いの道へ 晴れた春の海が
待っているということはないのだが
それで我が身の汚れが
拭えるわけでもないのだが
 
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
人間性から大きく逸脱して、無反省と無責任の無視の虫の道を進めると思っている楽山です。また新しくペテンの材料を見つけたようです。リーダー願望でしょうか。人を無視する楽山を無視してください。楽山の自己中の道は、道ではなく、地獄への通過点に過ぎません。羞恥心を持たない囚人の道です。
 
 
 
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  楽山の遠吠え2
 
 信仰観は人それぞれ(st氏と楽山の場合)
 2022年01月05日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
告白と反省: 楽山のウイルス攻撃と言ってきましたが、直接の原因は、ワイヤレスキーボードの電池をプラスマイナスを逆に入れたことだった可能性が濃厚となりました。申し訳ありませんでした。そういう入れ違いの状態でも、不完全ながら一定期間キーボートが作動していたのが不思議です。
 
楽山という人物についてですが、約4年の間、批判しています。いつか、何か、やらかしてくるだろうという思いがあったため、先入観が働いたのだろうと思います。それに、下記のように、変なポップアップが出てくるということもありました。思えば、すごい年明けを迎えたものです。
 
 
1月1日の記事より:
 
昨日スクショした荒らしのウイルスによる広告は、今も並んでいます。×印を押すと順繰りに別のが並んできます。画面表示および作業を邪魔しています。こういうことをする者は、良心も思いやりもないサイコパスでしょう。楽山の特徴に合致します。楽山が、仲間に頼んでやっている可能性があります。
 
マカフィーとセブンイレブンの広告が、同じポップアップで出るでしょうか。sossiotron.com と書いてあります。誰なんでしょう。広告をどうしても削除できません。消すと、また大きな広告が出てきます。いずれにしても、楽山が関わっている可能性が大です。偽計業務妨害に当たるでしょうか。
 
人の迷惑など全く気にしないで衝動的に凶行に及ぶわけですから、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の病的ナルシストは、サイコパスへ、そして、いよいよ犯罪者に成り下がってきたのでしょう。犯罪者楽山の可能性が大です。人間の成長と尊厳とは逆の経過です。
 
 」
 
 
その日のコメント欄:
 
1.
とある場所に書き込みした後、大晦日からsossiotron.comとセブンイレブン
でてきました。
画面右下の吹きだしをクリックして右上の「通知の管理」を
クリックしたら「通知とアクション」のウインドウが表示されますので
下のほうの「送信元ごとの通知の受信設定」のsossiotron.comの
ボタンをオンからオフにしてみてください。
謹賀新年2023-01-01 12:53:27
 
2.
>謹賀新年さん
謹賀新年さんへ。なぜ、HNを隠すのでしょう。
記事をアップしてから、何を押したのか覚えていませんが、消すことが出来ました。恐らく、コメントにあるようなことをしたのでしょう。
あなたは sossiotron.comさんですが。楽山ですか。それ以外の人ですが。楽山を知っていますか。
このようないたずらは違法です。あなたがなさったのなら、二度としないでください。
st5402jp2023-01-01 14:11:25
 
 」
 
謹賀新年さんは、楽山かもしれないと、今も疑っています。
 
 
 
記事の本題に入ります。
 
 
人それぞれ・・前にも楽山は書いたことがありますが、サイコパスでネット犯罪者の楽山が、自己中の正当化に使った言葉です。大人でなければ、成り立たないことを、楽山は、人を傷つける自分の自己正当化に悪用しています。楽山は、何か、悪口をたくさん書いて、私を疲れさせたいようです。
 
愚かな間違いと無理解と詭弁と嘘が、ちりばめられています。楽山の知能そのものが低下してきたのでしょうか。書いていることの次元が、地獄に落ちてゆくようです。決して、巻き込まれないようにしてください。楽山は、病質の定めのように、良心の欠片もないことを、自ら表してゆくのです。
 
楽山は、自分が言われそうなことを、相手にぶつけてきます。この記事でも、しばしば見られることです。恐らく、楽山の処世術なのでしょう。つまり、きわめて次元の低いところで、楽山は、黒く黒く世渡りをして、とても醜いインテリ評論家?の面(つら)だけを向けてきます。毎度、吐き気します。
 
 
*st氏の信仰観
st氏のツイッターを見たら信仰について書いてあったので、ここに保存し、個人的な感想も書いてみたい。
 
ということで、私の記事を引用するのですが、引用だけのようです。
 
 
 私の意見の引用
 
人の人格や尊厳をおとしめる発言を公開した場合は、「個人的な感想」では済まないことさえ、楽山は、自覚できない哀れな病質者なのです。
 
信仰は、論理や事実によるのではなく、キリストを好きになることであり、神とキリストを矛盾なく正しいと証明することではありません。信仰以外に、人間として生きるために必要な、心に響く言葉を提示できないなら黙っているべきです。
 
聖書からは、絶望を希望に変えるような、心を生かす言葉を見つけて共感することであります。それは聖書がなければありえなかったこととして記憶され、聖書と、生きることの間を、何度も往復する動機となります。
 
信仰は、聖書の一つの言葉で生まれることもあり、人によっても、状況によっても、違うことがあり、それは、教理や理屈を大きく超えて、救いと癒しというテーマに関わることです。だから、その経験のない人が、通念的な理屈で語る神は、読むに耐えないほど、拙劣なものになるのです。
 
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという傲慢が明らかです。また、信仰は、神を判定することではありません。キリストの教えに、生きた言葉を見つけた人は、それが、生きる縁(よすが)になるのです。不躾に神聖を並べて、自分の屁理屈で判定する、・・楽山に似てる雑言です。
 
神と神の言葉を、自分で決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。
 
このブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。偏見をもって、既に救われ癒されて生きている信仰者の信じる神とキリストに向けることは、即、侮辱となります。
 
 」
 
*st氏とHS信者との共通点
st氏のツイートを読んで、まず思ったのは幸福の科学(HS)と同じことを言ってるということだった。
HSではよくこんな事が言われている。
「大川隆法総裁の言葉に、心を癒やされ、救われた。これは神でなければ説けない教えだ。総裁は神だ」
「凡人の小さな頭で、総裁の本心が分かるはずもない。にもかかわらず、総裁を疑い、信者を惑わすのは罪だ。それよりは黙って自らの未熟さを反省すべきだ」
「信仰は尊いことだ。信仰を汚すことは許されないことだ」
こうしてみると、st氏とHSとでは信仰対象に違いはあるものの、思考回路は同じだと言っていいだろう。以前、st氏の信仰観を支持していたHS信者がいたが、さもありなんである。
 
キリストに「癒され」「救われ」、神の「本心が分かるはずもない」・・何がおかしいのでしょう。HSではなく、キリスト信仰です。当然のことを言っているのですが、言葉が似ているから、おかしいと言いたいようです。信仰対象が違います。楽山は、そんなことも分からないのでしょうか。
 
信仰対象が違うということは別の宗教だということです。どうして思考回路が同じという話になるのでしょう。楽山に、知能はあるのでしょうか。信仰を云々する思考回路がない人のようです。
 
「st氏の信仰観を支持していたHS信者がいた」・・違います。信仰観ではなく、楽山はとんでもない奴だということが一致しているのです。自己中楽山の恐ろしい詭弁です。
 
楽山は狂いだしたようです。なりふり構わず、理路も情緒もお構いなしに、嘘吐き楽山がディスってきます。ふつうは、こういうやり方は恥ずかしくてしないのですが、羞恥心がなく、混乱している楽山だからでしょう。凶暴な楽山です。
 
 
*st氏と楽山との相違点(判断)
次に改めて思ったのは、st氏と私との相違点である。たとえば、この部分だ。
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという罪が明らかです。また、信仰は、神を判定することではありません。
 」
神と神の言葉を、自分で決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。
 」
前の記事でも触れたことではあるが、st氏は、人には神のことは分からず、決めつけてはいけないとしつつ、自分自身はイエスと聖書とを神と神の言葉であると断定しているようだ。
 
断定ではなく、救いと癒しは、個人として否定できないということです。そういう体験のない人に向かって決めつけているわけではありません。「イエスと聖書とを神と神の言葉である」・・救いと受け取った人にはそうなるということです。我執の断定と、信仰の区別のつかない楽山です。
 
楽山の、意見に対する評価の前提となる理路の判断を、やみくもに断定しているのは楽山のほうであります。刀を振り回しているだけで、既に、落城しています。知能そのものが低下しています。理解も謙虚もないなら、キリスト信仰については黙っていろ・・ということです。
 
 
信仰者というものは、人には神のことは分からないと言いつつも、「これこそ真の神だ」「これが神の言葉だ」「神の御心はこのようなものだ」などと、さも自分は神のことを分かっているかのように断言しがちなものであるが、st氏も例外ではないということなのだろう。
 
楽山は、仕返しのように信仰を否定しています。「神のことを分かっているかのように」・・私は、何度も、神を完全に理解することは人には出来ないと書いてきましたが、楽山が読み取っていないことは明らかです。知りもせずに文句ばかり言ってくるのは、楽山のほうです。あまりに拙劣です。
 
信仰について・・聖書は神の言葉でありますが、私たち人間は、人の言葉しか持っていないことを自覚するべきです。つまり、人の理解は不完全だということを書いてきました。楽山が、それを、今さら「分かっている」と「断言」していると言うのは、人の話をまるで理解できていない証拠です。
 
 
ちなみに私はと言えば、人には神のことは分からないと考えているので、「これは神でない」とも、「これは神である」とも断言するつもりはない。個人的な感想を述べることはあっても、その判断を他人に押しつけようとは思わない。
 
「人には神のことは分からないと考えている」・・嘘です。仏様の心が分かるっぽいと書いていたのは楽山です。楽山は自分が神仏同等のように思い上がって、訂正不能になっているのです。信仰がないことを、視野が広くて正しいかのように思い込んで自慢しています。悍ましいかぎりです。
 
「感想を述べることはあっても、その判断を他人に押しつけようとは思わない」・・感想が、否定であれば、さらに、嘘と詭弁であれば、感想ではなく、悪口そして偽善です。楽山に、罪悪感が全然ないことが表れています。楽山は意見と悪口の区別もつかないほど、知能が低下しているようです。
 
 
*st氏と楽山との相違点(聖書)
個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。
 」
このブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。
 」
ここを読むと、st氏の考え方は、人が決めつけた理屈である教義教理は批判すべきものであるが、聖書については批判は許さぬということであるらしい。
 
違います。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、こんなに的を外してしまうのです。分からないのでしょうか。聖書を読んで受け取るプロセスで、必ず、解釈しています。それが、教理に結びつきますが、人の言葉が、信仰としては、絶対ではないということです。
 
つまり、楽山のように、聖書を読んでも、我欲と自己愛性の障害のために何も受け取れないものだから、理屈にならないことを、屁理屈で、いちゃもんを書いてくるのでしょう。理路も感性も拙劣です。こういう人に頼ると、人格を破壊される可能性がありmす、
 
楽山の、聖書とキリスト教に対する批判が、常識に非常識を、良心に悪意を、塗りたくるように、あまりに的を外し過ぎているので、批判対象となっています。ここまで、訂正不能の曲解は、妄想とでも言うべきもので、つまり、楽山は正常人ではないということです。楽山は、病識のない病人です。
 
 
私はどうかといえば、人が決めた理屈…教義教理には聖書も含まれると考えている。
 
聖書は、解釈されるのは当然のことです。しかし、楽山が言っているのは、聖書とキリスト教と信仰の否定を広めようという嘘と詭弁教の宣伝であり、ゆえに楽山は、屁理屈で聖書を捏ねまわして、何の収穫もない徒労を繰り返しています。それは、楽山に正常な理路がないからなのです。
 
 
*st氏と楽山との相違点
とはいえ私は、他人の信仰や行動をコントロールしたいとは思わぬので、他人に向かって「聖書について自分と同じ見方をしないのはけしからん」とは考えない。上の見方に反対して、「聖書は神の霊感によるもので、人によるものではなく、一つも間違いはない。批判することは許されない」と信じたい人は信じればいいし、言いたい人は言えばいい。
 
楽山が、間違いに気づかず、誰も救えないボンヤリ言語を発して、キリスト教と信仰を揶揄してくることは、常に、批判対象となります。同じ見方でないどころではなく、あまりにも、理路も感性もお粗末なまま、いちゃもんを言うので、批判しています。
 
 
もし私が、神について正しい判断をくだせるなら、他人の信仰について、ああしろこうしろと口出しするかもしれないが、そうではないのだから自分は自分の判断をしつつも、他人には他人の判断があることを尊重しないわけにはいかないのである。
 
楽山は、キリスト教について、既に、さんざん悪口を言い、否定してきたのです。洟(はな)を垂らして泣き止まない子供のように、楽山の判断は、すべて、炎症性の、だまし文句の詭弁に過ぎません。議論にも交流にもならず、疲労と徒労を与えるだけです。人に自分の病気を移さないでほしいです。
 
 
st氏は自分の意見を述べ、かつ他者もそれに従わなければ承知しないようだが、
 
違います。楽山の言っていることが、この記事もそうだが、理路も感性も成り立っていない侮辱だからです。妄想的な思い込みで、被害的で、他罰的で、結論しかないのが、楽山です。楽山は、同情も共感もなく、他者を傷つけてゆきます。そして、罪悪感がなく後悔することもない変質者なのです。
 
 
私は自分の意見を述べはするが、他者の思想や行動までも指図する気はないのである。他者に向かって「信じろ」「信じるな」「意見を言え」「意見を言うな」などと求めるつもりはないのである。また他人からそんな命令をされたところで、自らの自由を放棄する気はないのである。
 
指図どころか、人格を、おとしめ、疲労させています。楽山が、無反省で無責任だからです。言ってるだけだから・・は、言い訳にならないのです。公開しているわけですから、否定すれば否定した責任が、肯定すれば肯定した責任が生じます。その責任を、一切負わないから批判します。バカなのか?
 
キリスト教について、否定して、別の記事で、肯定めいた記事を書いて、両方言ったから、責任問題は生じない・・などということないのです。大人なら分かることです。言論の自由には、言論の責任が伴います。楽山は、この当たり前のことが、分からない人です。
 
 
前々から分かっていたことだけど、やっぱりこの辺りの考え方は、st氏と私とではまるきり違うようだ。
 
「まるきり違う」のは「ようだ」ではなく決定的で、こちらの意見を踏まえず、無理解のまま繰り返し言い張ってくる自己愛と自己中は、反社会性の病質だと思います。批判にも意見にもならない幼稚なことを言い、責任を負わない楽山との意見交換は成り立ちません。
 
 
*st氏と楽山との相違点(信仰)
上のツイートによると、st氏は信仰については批判すべきであるとしつつ、批判ではなく沈黙すべきであるとして矛盾したことを書いている。
 
批判するなら、批判として成り立つ文章を書くべきであり、責任も負うべきだということです。そういう当然のことが出来ていないから、書くなと言っています。やはり、人格崩壊による知能低下が進んだのか、楽山は、何を聞いても無駄で、何を書いても成り立たなくなっています。
 
 
これはどのような意図で書いているのかは判然としないが、信仰には、人によるものと、神の恵みによるものとがあるという見方があるので、前者については批判すべきだが、後者については批判はできないということは言えば言えるだろう。
 
ボンヤリ言語です。詳細をぼかして婉曲的に、否定しています。卑しいことです。人による信仰が、人が作ったものということなら、それは信仰ではありません。恵みを受けたことのない楽山は、人によるとか、神によるとか、書くことが、いかに無意味であるかも分からないのです。
 
 
ただ私はこれはあくまで理屈であって、実践はできなかろうと考えている。「この信仰は人によるものである」とする場合も、「この信仰は神の恵みによるものである」とする場合も、結局、どちらの判断も人が行うものである。人には神のことは分からないのだとすれば、「この信仰は神の恵みによるものである」という人の判断は必ずしも正しいとは言えないからである。
 
こういうふうに、ややこしく語るのは、楽山は自慢したいようだが、言葉遊びに過ぎません。楽山の詭弁の理路には、付き合うだけ、無駄な疲労がたまります。信じ仰ぐ、ということが、まるで分かっていません。百害あって一利なし、これが、楽山の言であり、楽山と付き合うことです。
 
信仰の成り立ちは、聖書を読むことから始まります。しかし、楽山が、神と言うときには、神を、恐ろしく幼稚な概念として、楽山が、既に、分かったことにして、訂正不能となっています。恐らく、楽山は、これからも、自分の思い込みにないことは、何も理解しないでしょう。
 
そして、楽山は、安っぽい理屈をこねて、人を悩ませ、苦しめ続けるでしょう。理解力も感受性もないのに、背伸びした楽山の自己愛がもたらす害は、相対する人に心の傷を負わせます。楽山を、決して相手にしてはいけません。幹が悪いのに、葉っぱがどうのというような屁理屈が、楽山の自慢です。
 
 
それだから人には「この信仰は人によるものだから批判すべきである」とも、「この信仰は神の恵みによるものだから批判すべきではなく、沈黙すべきである」とも、断言することはできないのだ。
 
「できないの」は、楽山です。神と人の区別なら、思い込み、訂正不能、先入観を排除するべきでしょう。しかし、楽山こそは、偏見に固定されて、自己中のために訂正不能になっている典型なのです。悪意は、批判にはなりません。救いの代わりに疲労を、平安の代わりに苛立ちをもたらすのが楽山です。
 
 
せいぜい、どちらの信仰についても、「自分はこのように判断しています」と言えるくらいであって、それを他人に押し付けることは無責任な行為でしかないのだ。
 
楽山を信用しないでください。楽山は、何も理解していないのに、成り立たない言い分を、繰り返し言ってきます。自己愛のために、理解することも理解させることも出来ない人です。楽山に関わることは時間の無駄です。関わらないでください。近づかないでください。
 
私は、楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと判断します。症状として、身勝手で、自己中で、無反省で、無責任で、妄想的確信があり、訂正不能で、温もりと潤いの高等感情と共感のない、羞恥心のない、そして、罪悪感のないサイコパス(精神病質)だと判断しています。
 
 
st氏は自己の信仰についての判断を他人に押し付けることに何らの疑問も感じていないようであるが、私はこのような考え方なので絶対にそんな風にはなりたくないと考えている。
 
こちらを無視して勝手に押しつけだと決めつけるのは、傷つけ疲れさせるのが目的です。根拠のない結論です。これが、他者を害して得意になるサイコパスです。一日も早くネットからいなくなってほしい存在ですが、信仰者としては批判できるだけ批判して、神の裁きを待つことにします。
 
良心のある人は、信仰者でなくても、宗教と信仰については寛容です。楽山には、良心がないので、自説を錆びた刀を何度も振り回して顰蹙(ひんしゅく)を買い続ける運命です。楽山は、宗教の代わりとなる救いを何も語れません。楽山は、無関係のホラーをネタにして、救いを邪魔する悪魔性です。
 
楽山は、聖書に書いてある、崖に突進して自滅する豚よりも醜い存在だと思います。豚は笑いませんが、楽山は、この世で一番見苦しいあざ笑いがベースにあり、そこから書いてきます。崖に向かいながら、笑っているのです。このような類人は、近づく者を崖に誘うでしょう。
 
 (マタイによる福音書、新約聖書、口語訳)8:32
そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
 
楽山は、キリスト信仰者を、奇跡を信じ込んでいる愚か者という解釈に短絡して、そこから一歩も出ることのない思い込みを見苦しく語り続け、人間の心の問題を何一つ語れません。楽山には、自分を見る目がないからです。そこで結論を吹聴する楽山は、欠陥人格を代表する恥さらしでしかありません。
 
楽山は、いずれ自暴自棄となって錯乱し何らかの犯罪を犯すでしょう。人間に起こるパニックは必ず周囲を巻き込もうとするので、人々が自分の人生を守るためには、楽山からは一斉に離れるしかないのです。楽山というHNとその性根を知って崖っぷちでガハガハァと叫ぶ楽山から離れてください。
 
 
偏見と妄想

偏見と妄想
 
 
(2022年)
(2023年01月21日、再録+加筆)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
しかも区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
 
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ることもできるが
迷うことも飢えることもある不自由
 
つまるところ
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
その両価性を循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる楽山は、人間であることをやめて、我欲から神を決めつけて、ゆえに魅力の欠片もないのに、人に迷惑をかけるだけの生業で、誰のためにも存在せず、それで、嘘と詭弁で人を騙すことに終始して、自分が、どれだけ醜くなって迷惑をかけているかも気づかないのです。
 
 
 
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  楽山の無神論漁り2
 
  「新無神論bot」を見てみた(1)無神論を支持する有名人
   2022年01月03日 楽山日記(LD)
    を改めて批判。
 
 
壊しておいて、後始末をせずに、知らぬふりをしている犯罪者によって、スクリーンキーボードとマウスによる遅々たるブログ編集の日々でありました。結局、Q&Aサイト閲覧、セキュリティによるフルスキャン、再起動などを繰り返して、よく分からないけど正常に戻りました。
 
正常に機能するということの幸いを味わっています。
 
 
自分の言葉が破たんして、何も言えなくなっている犯罪者楽山の常套手段は、有名人の言葉を引用して、こんな人も言っているよ・・みたいに、無神論を、論ではなく、印象として擦り込んでゆくことです。引用部分は、大方、楽山が妄想的に決めつけて快感を得ているだけなのです。
 
楽山の言説は、正当なキリスト教と信仰の本質に触れるものが一つもない曲解だけで出来ています。キリスト教と信仰は、堕落しても、立ち直りを喜ぶ神の寛容によって、いつでも改めることが出来ます。楽山は、無反省に詭弁と嘘と悪用だけを続けている亡者であります。
 
宗教と科学が同じ土俵に立つことはありません。楽山のようなインテリ気取りの反キリストのペテン師の企みに過ぎません。そういう者は、いつの時代にもいたということです。姑息をつないで、ごまかして生きているのが楽山です。
 
 
*まえおき
「新無神論bot」を見てみた。その感想を書いてみたい。
*ハリー・ポッター
僕は信仰は持たない。僕は無神論者だ。そして、宗教が立法に影響を与えようとしたときは、戦闘的な無神論者にもなるよ。―ダニエル・ラドクリフ
 」
これは意外だ。役柄と俳優本人は違うと承知してはいても、ハリー・ポッター役の俳優が無神論者だというのは意表を突かれた思いがする。
 
間違って権威主義になっている偽キリスト教はあるでしょう。戦闘は穏やかではありませんが、それに対する無神論者の闘いは、むしろ、人間らしいものだと思います。宗教が堕落し変質すると、人間離れ、現実離れして、サイコパス的恐怖になるのです。その典型のような楽山を批判しています。
 
サイコパス人格の楽山は、有名人とは全く違って、人を苦しめて快感を得るサディストとして、有名人を、安っぽいブログの小手先で悪用して我欲を満たしてだけです。だから追いつめられると犯罪行為に及んだのです。本質を見抜けず、字面の浅いところだけを舐めてきた破綻が表れています。
 
 
*アミダラ女王
私はあの世なんて信じない。この人生こそがすべてだと思ってるし、それが最も賢明な生き方だと信じてる。―ナタリー・ポートマン
 」
こちらも意表を突かれた。シャーリー・マクレーンや美輪明宏などの影響のせいか、芸能人にはスピリチュアルなことを信じている人が多いイメージがあるけれども、当然ながら必ずしも皆がそうだというわけではなく、結局は人それぞれということなのだろうな。
 
皆がスピリチュアルではない、❔❔当たり前です。引用部分は、自然に受け取れる意見です。生きている間が全て、・・当然です。何故なら、あの世があっても、地上を生きている私たちには、信ずるべき具体は確定できないのであって、今できることをして祈る姿勢に、何の変わりもないのです。
 
 
*ザッパ
キリスト教の神髄はエデンの物語に表れてる。あなたのあらゆる苦しみの根源は物事を知ろうとしたことだ。黙って問いを発することなく大人しくしてれば良かったと。賢くなったら痛い目に合わせるぞなどと主が語る宗教はなんと反知性的だろう?―ザッパ
 」
 
例えば、神は、カインを殺しませんでした。カインが、弱みを見せたからです。神は、冷たい超常の存在ではありません。「物事を知ろうとしたこと」「黙って問いを発することなく大人しくして」・・これは神髄ではありません。人が受け取るべきは、キリストの洞察と共感であります。
 
「問いを発することなく大人しくしてれば良かった」「賢くなったら痛い目に合わせるぞ」・・これは楽山の姿勢であって、似たようなキリスト教を自認する偽物は、日本も外国も、ひどいことを言ってる人がいると感じます。神への服従は、人への服従ではありません。
 
恐らく、従属を強いる教派の長は、楽山に似ていると思います。誰も楽山のような者の従者にならないように、楽山にだまされることのないように、楽山批判を書いています。議論も意見交換も全くできない訂正不能の楽山がいるのと同様に、狂った病質的教派がキリスト教を名乗っているということです。
 
 
ザッパには前衛的なイメージがあるので、この発言に驚きはないし、共感できる。
自分には、人が知性を磨くことを喜ぶ神様は想像できても、それを禁ずる神様は想像できない。また女性を学校に通わせない、勉強させないという考え方も分からない。
今どき、宗教について疑問を述べたり、意見を述べただけで、「そんなことは言ってはいけない、黙っていなさい」と怒る人がいることもよく分からぬ。  
 
知性を禁ずる神というのは、楽山の悪質な偏見への誘導です。ここに書いてあることは、あってはならない人権問題でしょう。そういうのは、キリスト教でも信仰でもないのです。これがキリスト教だよ悪い奴らだね・・という印象操作を企む楽山が最悪です。キリスト教でも信仰でもないのです。
 
引用された人間の叫びと反キリストを区別でないのは、楽山が、冷血の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。楽山は、貧困な偏見の塊で、偽キリスト教系カルトと、キリスト教を、区別できないのです。何でもかんでもエゴのために悪用する楽山に関わらないでください。
 
 
*科学と宗教
権威に基づく宗教と、観測と理性に基づく科学との間には根本的な違いがある。そして科学が勝利をおさめる、なぜならそれは機能するから。―スティーブン・ホーキング
 」
スティーブン・ホーキングは無神論者だという話は聞いたことがあるので、この発言に驚きはない。
「権威に基づく宗教」というのは、その通りだと思う。大概の宗教は、「教祖様(神様)のおっしゃることに間違いはない」「教祖様(神様)を疑うのは傲慢だ。己の分を知れ」という考え方をするものなので。
 
科学は物質と人体に機能しますが、物質だけで、人体だけで、人は生きられません。また、科学と宗教と、どちらが勝利するかなどという問題こそ、サイコパスの所産であります。物質は勝利を目指さず、信仰は勝つことを求めず、神は既に勝っているからです。
 
 
*連戦連勝
ここにいるみなさんにお伺いしたいが、かつて我々が科学的解答を持っていながら、それが誤りだと判明し、今ではその最善の答えが宗教的なものであるようなことを、一つでも思い浮かべることができるだろうか?―サム・ハリス
 」
こんな事は考えたこともなかったが、言われてみればその通りだ。たとえば、「この病気の原因は、××菌だとしていましたが、それは間違いで神の怒りによることが証明されました」なんて話は聞いたことはない。
 おそらくは、これまでも、これからも科学によって宗教はどんどん隅の方へ追いやられていくことになるのだろう。「科学が発達して、神様は貧しくなった」という話があるけれども、これは本当だと思う。
 
「言われてみればその通りだ」というのが楽山のボンヤリ言語の誘導です。科学的問題を、宗教的なものが答えることはありません。また、宗教的問題を、科学が解決することもありません。科学は宗教を語れず、宗教は科学を語れません。そこを外れたら、科学も、宗教も、成り立たなくなるでしょう。
 
さらに、楽山は、自然科学と人文科学の区別も出来ていないようです。理路も弁えず、あらゆることを混同して、話を混乱させてゆきます。最も批判され、まず最初に追放されるべきは、我欲だけのサイコパス、楽山であります。
 
 
*新無神論とは?
当該アカウントのプロフィールでは、新無神論について次のように説明している。
新無神論とは自身が無神論者であることを積極的に公表し公に宗教批判を行う人々によって発展させられている新たな無神論の流れであり、組織宗教に限らず、あらゆる不合理な信念が批判の対象とされる。
 」
自分は宗教に批判的なところはあるが、無神論者ではないし、不合理な信念のすべてを否定しようとは思わないので、どうやらこの定義には当てはまらないようだ。
 けれども当該アカウントのツイートには共感できるものが多々あるので、これからもフォローを続けたいと思う。
 
「宗教に批判的なところはあるが、無神論者ではない」・・楽山特有の、断定してないから責任はない、という言い逃れです。詭弁は、断定より、悪質な悪そして偽善であります。サイコパス性を発揮し続ける楽山は、決して許してはいけない人~ヒト型動物です。無知の詭弁屋に過ぎません。
 
今まで楽山の引用で見てきたかぎりでは、新無神論は、「新」ではないと思います。「論」は、宗教と信仰を語れないと思います。楽山は、人間ではないと思います。人格障害は、しばしば、人間ではなくなり、ケダモノ以上に冷酷になります。近づかないでください。
 
楽山は、信じることの切実な欲求もなく、また、神を否定しても、別の救いを何も表せず、無神論の論の欠片も書けないでいて、何を引用で語りたかったのでしょう。引用された言葉は、人間性として理解できる範囲です。楽山の文章は、人間に理解できる何ものも含まない、悪魔性の企みに過ぎません。
 
楽山は、人格障害のために、最低限の正常な人格形成が出来ていません。楽山は自分が裸でタコ踊りしていることに気づけないのです。ずいぶん長く続けて、何の学習も成長もないのが、証拠でしょう。これからも、ケツ丸出しの、みっともなさを、出してくるのでしょうか。吐き気がします。
 
 
発情する偽善

発情する偽善
 
 
(2022年)
(2023年01月20日、再録+加筆)
 
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
結局、誰にも相手にされなくなるであろう訂正不能の嫌な奴、楽山は、ペテンを止めません。私は、こういう人間が一番嫌いです。ずっと前にも、少し前にも、丁寧語で、人を平気で傷つける者がいました。サディストと言っていいような、こういう人は、隔離された場所で生存するべきだと思っています。
 
どうして楽山のような者が、生まれて、生きているのでしょう。いかなる生産活動もできず、いかなる知性的または感性的な糧(かて)も産みだせず、参考となる経験談も、何も持っていない人格です。原因は、学習せず、反省しないからです。そして、怒りと笑いだけで、弱そうな他者を侮辱して楽しむ人です。
 
 
人類の敵は、国家でも民族でもありません。人類の敵は、サイコパスです。大きな災いの降りかかる時と所、必ずサイコパスが暗躍~支配しています。サイコパスは、自分の物質的または精神的利益を求めますが、それを与えることは遂にありません。他者は、利用する対象に過ぎません。
 
楽山は、理路を理解できず、組み立てることも出来ません。また、共感性もないので、私の批判記事を読んでほしいのは、当ブログを訪問してくださった楽山以外の人たちです。異常者についての一種の警鐘として書いています。時々書いている厳しい比喩表現だけが、楽山に向けて書いたものです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
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