ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自己愛性人格障害

 
  詭弁に乗る楽山2
 
 これからの宗教と無神論(中村圭志氏のツイッター)
 2022年01月02日 楽山日記(LD)を批判。
  を再録+加筆して批判。
 
 
楽山という人は、キレイごとを書きながら、それを裏切ってゆく生き方をしている偽善者です。ウイルスでしょうか、私のPCのキーボードをブロックしました。現在、スクリーンキーボードを使っています。楽山は、怖い人です。言論者ではありません。サイコパスだと思います。
 
楽山は、他者の詭弁を利用するしかなくなっています。元々頭のまとまらない人です。理路は散乱し、多くの人格に成りすましているので、脳も精神も、マルチなHNと同様、乖離~分裂しているのかもしれません。楽山は、悪だくみを実行するので、精神病ではなく人格障害だろうと思います。
 
楽山は、体質的な精神病質(サイコパス、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害、NPD)だと思います。自己顕示欲が原動力であるため、その半端な言論の、虚言と自己愛と、罪悪感の欠如は、関わる人を病ませる可能性があるので、決して関わらないでください。
 
 
*偶然
 今年は、無神論についてもっと積極的に書いてみようと思っていたら、タイムラインに次のツイートが流れてきた。こういう偶然はちょっとうれしい。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
ドーキンスの無神論関連の本に関しては、アマゾンなどでは宗教信者からの否定的なコメントが書かれることがありますが、書き手に読解力がないことは明らかです。信者が相手にしないのに無神論を説くことに何の意義があるのか?との意見もありますが、やはり未来の世代を見据えての展開だと思います。
午後1:43 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
無神論が通ったら、未来はよくなるのでしょうか。はっきり分かるもの、例えば、物体や、その運動のようなものでないと信じない者たちは、恐れもなく物体のように神を考えるのでしょう。何故なら、宗教的感性がないからです。宗教的感性とは、謙虚な良心であります。分からないと言える心であります。
 
 
*無神論と向き合う信仰
これには同感だ。本当の信仰というものは、無神論から目を背けることではなくて、それを学び、理解し、乗り越えてこそ成立するものではないかと思う。
 
すごい詭弁です。否定しているのに、「理解し乗り越え」るなどと言っています。「本当の信仰」と言いながら、信仰を否定するのです。神の論も、神がいない論も、成立することはありません。神は、人の論で成り立ってなどいないからです。ましてや、楽山は、人の論も成り立ってもいないのです。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
現代における無神論の台頭には論理的な必然性があるので、信者がどのような心情をもとうとも、これに向き合わなければどうにもならないと思います。無神論に顔をそむけてどうにかなると思うのは、30年間何もしないでひたすら没落してきた平成の日本のようなもの、あるいは日本の保守のようなもの。
午後1:46 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
無神論は台頭しているのでしょうか。半端な理屈が半端な理屈を自画自賛しています。誰も褒めてくれないものだから、説得力のない「論理的な必然性」という言葉が浮いてきます。そして、神に「顔を背けてどうにか」しようと、没落するカルトの干物のように、強張って硬くなるのでしょう。
 
 
*宗教と論理
これは自分には理解が難しい言葉だ。とはいえ、宗教においても論理は無視できないということはわかる。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
宗教は第一に情念の問題ですが、情念だけじゃどうにもならないというのは論理の問題です。そして情念がころころ変わってきたというのは歴史の問題。これからの宗教学は、教団の調査などより、知性の歴史の勉強と、論理的思考にかかっていると思います。宗教信者にとっても、これからは論理の時代です。
午後1:48 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
「理解が難しい」のに「とはいえ」でつないで、逆の「宗教においても論理は無視できないということはわかる」のだそうです。こういうことで「理解が難しい」が嘘だと分かるわけです。楽山は、いたるところで理路が破たんしてきますが、元々、国語の勉強が成っていないのだと思います。
 
 
論理は、前提がなく積み重ねのない欲望からの結論を防ぐために、宗教でも必要です。宗教と信仰は、情熱ではあっても「情念」という言葉で済ませられるものではありません。こういう言葉で、無神論者は、心の問題を理解できないことを表し、やたら、論理、論理と、振り回すことになります。
 
 
この世のすべてを、論理で理解することは困難ではあろう。宗教は特にそうだろう。
ただそれでも明らかに論理に反する宗教の未来は明るくはないだろう。
 
良心の正論と直観がない犯罪者詭弁屋楽山の「未来は明るくはない」のです。「論理で理解することは困難」なのに「論理に反する宗教の未来は明るくはない」という詭弁で、理路を恣意的に捻じ曲げています。混乱させるために、大事なところでも曖昧な筆致を使うしかないのが楽山です。
 
 
論理によって結論が出せないものであれば信じることは可能かもしれないが、論理によって明確に否定されるものを信じることは無理だからだ。少なくとも私の場合はそうである。論理で判定できない論理を超えるものは信じられもしようが、論理的矛盾まみれの宗教を信じるのは無理だ。
 
信仰は、論理によって肯定も否定も結論は出せません。これは、基本的な信仰理解です。楽山には、その理解がないということです。ひどいですね。また、楽山の言う論理的矛盾は、空想の超常話の否定でしかありません。本質は、そこにはないのです。
 
つまり、楽山には、まさに、信仰を受け取るための飾らない「土の器」がないのです。そういう、ならず者たちが、超常より、さらに思い上がった超常気取りの屁理屈をもって、"無神論" という成り立たない傲慢の産物を掲げているわけです。信仰は、人を救うことがありますが、無神論は、誰も救えません。
 
無神論は無神論者が快感を得る遊び道具です。彼らには、独特の、勝ち誇ったような、平安からは程遠い笑い顔があります。醜いです。悪魔のように見えることもあります。正直言って、信じないだけでなく、否定して悦ぶ無神論者は、サディストだと思います。
 
論理によって明確に肯定できないものを、論理によって明確に否定だけできるという楽山の惨めな非論理的詭弁です。論理的にも心情的にも、嘘まみれ詭弁まみれの楽山を「信じるのは無理」です。論理、論理、などと振り回す者ほど、本当の論理も神も知らず、知らないという共感さえないのです。
 
心貧しい、即ち、虚心の信仰者は、理屈では知らない神に、人生の縁(よすが)になるほどに大切に想うほどの、温もりと潤いを与えられています。不完全で頼りない、この情緒は、理屈屋が干からびるほど唾を飛ばしても得られないような、信仰という命の賜物なのです。
 
 
*ドーキンス
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
というわけで、私は必ずしもドーキンスらの宗教観に全面賛成ではないのですが、ドーキンス抜きで宗教は語れないと思うので、しばらくは、(図像学だの死生学だの映画や小説の話だのと並んで)無神論の話を投稿していきますので、おつきあいくださいましな。
午後1:50 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
さて、この後どんな話が続くのか楽しみだ。
ちなみに自分の場合は、ドーキンスの宗教批判は若干遠く感じることがちょくちょくある。たぶん自分は日本的な宗教観を持っているのに対して、ドーキンスはキリスト教を念頭に置いて話すことが多いせいだろう。これは宗教的文化的背景が異なるのだから、致し方のないことであり、自然なことでもあるのだろうと思う。
 
「おつきあいくださいましな」という軟派言葉にだまされないでください。そして、楽山は、日本的な宗教観も、外国的な宗教観も、霊的な宗教観も、持っていません。また、楽山は、キリスト教を念頭に置くことなど出来ません。楽山は、大事なことを何もかも腐らせてゆく変質した粘性人格なのです。
 
この楽山という犯罪者の、みじめな荒らし人格は、宗教もなく、文化もなく、背景もなく、どこにも至ることもなく、自然な何ものでもなく、嫌いなものをロンリー的に否定したつもりの孤独な固陋(ころう)のナルシストで、自分の世界でだけ一人前を気取って慰めとしている独り芝居の大根役者に過ぎません。
 
楽山みたいな、心の芯にカビが生えた人格にならないように、どうか、楽山に関わらないでください。近づかないでください。楽山を正常な人間だと思わないでください。いちゃもん屋、雑言屋、夜店のインチキ、見世物小屋のペテン、そして犯罪者の、永遠に埒(らち)の開かない"lonely"ピエロなのです。
 
楽山は、"ウソッピ" 物語の、オオカミ少年です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
要は私は、人生論的な心の教えには共感、支持はするが、普遍的ではない党派的で偏った考え方には反発するってことです。
そうしてSNSでは、前者を話題にするより、後者を話題にする信者が多いので、勢い批判が多くなるということですよ😊
2023年1月11日
 
楽山は、普遍的な考えなど、何も持っておらず、その偏狭な妄想的偏見を振りまわして混乱を招くだけの荒らしです。気に入らないと、ウイルスなど卑怯な手段も使ってくるので、決して関わらないでください。自己愛性パーソナリティ障害NPD、そして、サイコパス、異常者です。
 
 
lonely-論理ー

lonely-論理-
 
 
(2022年)
(2023年01月19日、再録+加筆)
 
 
 
  陰・陽
 
木陰から
雲雀が飛ぶ
雲雀と気付かれぬまま何も告げずに
脇侍(きょうじ)を務めるのは
寂寞を捏(こ)ねる四十年(よそとせ)の落魄
 
白紙の涅槃(ねはん)を装丁する
風の産土(うぶすな)をたずねるように
 
ゆえに折れる木は燃える前から
当然として折れるであろう
 
表裏一体の巡る日の下で
遠く雷は感電して
細い折れ線を自らに向けるに過ぎず
砂塵よりも大量に散乱する光に打たれ
爬虫は狼狽(ろうばい)となって類を呼び
蠢(うごめ)くものは既に顕れており
 
たとえ雲が山陰に隠れても
木陰が木陰である間
惜しみなく
陰にも陽は射している
 
 
  失楽園
 
緑児(みどりご)は自ら進んで
血糊(ちのり)を見せることはない
 
大人はときに血糊を
見せざるを得なかったり
見て欲しくなったりする
失楽園
善かれ悪しかれ
知恵をつけた結果である
 
生きて楽園へ戻る道は
もはや何処にもないが
心有る人々には
姿なき幼児(おさなご)が
ときおり問いかけてくる
 
あなたはだれ?
なにしているの?
 
楽園の住人に問われても
楽園を追われ
忘れてしまった大人たちは
それゆえそのとき
むしろ悩んだり悔いたりする
 
血糊が減ることはないのである
一方で人々はしばしば
血糊に因縁話を付け加えながら
地上の楽園を探し求めて
赤児(あかご)を自慢の腕に抱き
善かれ悪しかれ
やがて知恵を吹き込んでゆく
 
いずれにせよ
血糊が減ることはないのである
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
とある新興宗教の信者だったので、これはよく分かる。
こうしないと悪霊に憑依され、地獄に堕ちる
ああしないと天変地異が起きて大勢亡くなる
などと何度も何度も聞かされました😅
引用ツイート
naru@脱・自己愛被害
@kokorodrugstore
1月14日
あなたをコントロールしようとする人は、あなたに「言うことをきかないと悪い」かのように思わせます。道徳や良心の話を持ち出して罪悪感を煽ったり、宗教ならば信仰心がどうとか呪いがだのバチが当たるなどと言うでしょう。
惑わされないでください。
相手はあなたをコントロールしたいだけです。
 」
午後9:31 · 2023年1月15日
 
「悪霊」に「天変地異」❓❓❓超常言葉が並びます。いずれにしても、超常の呪いで脅迫するのはカルトで、霊が分かるっぽいと言って自分のほうが正しいとばかり、宗教と信仰を先入観で節操もなく全否定するのは楽山です。楽山に道徳はありません。あれば、ウイルス攻撃など出来なかったはずだからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の病質の大方はバレています。批判を書いても、感情的に、この野郎などとは思わず、批判するにあたっては、それこそ人間性の深みを持たない存在困難者くらいに、文章に表れた筆致や文脈を観察することが必要です。病質者・犯罪者と、まともに付き合ってはいけません。
 
 
 
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  自己愛の偏向
 
 公平とはどういうことだろう?(批判者の存在価値)
 2023年01月17日 幸福の科学とは何だろう?
   などと言う白々しい凶悪犯、楽山を批判。
 
 
ふてぶてしく厚かましい楽山が、また書いてきました。罪悪感も良心も持っていない証拠です。たとえば、恥ずかしいとか、まずいことをしたとかを、全く考えない、感じない、訂正不能の自己中サイコパスの生存方法なのでしょうか。犯罪者楽山を、このまま許してはいけません。
 
新年になっって早々に、人のPCを妨害・破壊してきたネット犯罪者の楽山に、公平を語る資格はありません。騙されないでください。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、サイコパスです。良心も罪悪感も持たない異常者です。騙されないでください。
 
楽山の詭弁が全開のようです。一言も成立せず、人格未熟の悪あがきだけが見苦しい楽山です。こういうインテリ気取りの虚言癖を真に受けると、共に人格の鈍麻~破壊に向かう可能性もあるので、決して関わらないでください。病識もなく他者の人格を平気で破壊する変態です。
 
 
*まえおき
 先日、公平について考えさせられる出来事があった。
 これは大切なことだと思うので、自分の考えをここにメモしておきたい。頭の中で考えただけでは、すぐ忘れてしまうので…。
 
「忘れてしまう」というのは本当です。楽山は、自分の罪も悪も都合の悪いことは、すべて忘れてしまうか、無視します。そして三文芝居で善人を気取ります。すべて悪意によるもです。実際は、無視して、平気でいられるほどの自己中の病質なのです。無反省で無責任です。成長できない人なのです。
 
 
*えこひいき
 まず自分が、公平について強く意識するようになったのは、小学生時代だった。教室内では「先生は優等生をえこひいきしてる」という声があって、私もそのように考えていたのだった。
 
楽山は自分だけを依怙贔屓(えこひいき)して、自己正当化をしてきますが、嘘だらけの弁明、成り立つことはありません。自分を省みて反省することがなく、全て人のせいにします。恐らく子供の頃から問題を起こしてきたと思われます。楽山の言うことは、全て三文役者の芝居です。
 
 
*偏向マスコミ
 次は青年時代である。政治に興味を持ち始める年頃になると、マスコミの偏向がやたらと気になりだし、テレビ、新聞を見る度に、いつも腹を立てていたのだった。
 
楽山の政治思想は、右翼、ネトウヨです。A級戦犯を讃える男です。民主主義を嫌い、さらに、何主義でもなく、利己に凝り固まって、知性も、感性も、育て損なった病質者です。全ての良心を、危険な思想に陥れることが、楽山の快感となります。真実追求の議論からら追放されるべき人です。
 
 
「マスコミに中立公正な報道を期待しても仕方がないのではないか。そもそも人には中立公正な判断なんてできないのだ。それならマスコミ各社がそれぞれどういう理念によって判断していのか旗幟鮮明にして報道するのならそれでよしとすべきではないか。仮に一社の報道が偏向していても、さまざまなマスコミの報道を確認、比較するなら、その偏りに惑わされる危険は少なくなるだろう。実際多くの人はそれを実践しているだろう」云々。
 
「中立公正な報道を期待しても仕方がない」・・自分の自己中を正当化する詭弁の誘導です。楽山には、旗幟(きし、のぼり、立場)などありません。詭弁、刷り込み、印象操作などによって、人を操って、満悦する変態です。決して真に受けないでください。約4年、批判を続けています。
 
 
*ブログの方針
この考え方は、いまでも有効だと思っていて、当該ブログもその立場で書いている。「一つのテーマについて、自分は自分の意見を書く。自分自身は公平中立な意見を述べているつもりでも、おそらく偏りはあるだろう。けれども仮に意見に偏りがあったとしても、同じテーマについて他の人は異なる意見を書くだろうから、それによって偏りは無効化されるのでさほど問題にはなるまい。むしろ多少の偏りがあった方が、意見の多様性という観点からはプラスになるだろう」と。
 
「自分は自分の意見を書く」「異なる意見」「偏りは無効化される」と言っていますが、楽山の魂胆は、印象操作であります。印象は残るので、無効化は、されません。好き勝手に発言していい理由にはなりません。こういう詭弁の自己正当化を成り立たせてはいけないのです。
 
「多少の偏り」ではありません。洗脳に近いものです。楽山は、そういうやり方で、キリスト教を否定したことから、ペテンがバレてきました。言ったら、言いっぱなしで、反省もせず、責任も負う気ももない、言論失格のサイコパスなのです。決して関わらないでください。
 
 
*批判の必要性
ちなみに上の考え方は、少し視点を変えると、こうも言える。「仮に、Aという宗教団体が存在したとすると、A教団は自分たちの正統性を主張し、信者もそれに同調するだろう。こういう状態は、いわばA教団について肯定的情報だけが流れている偏った状態である。これを是正するにはA教団について否定的情報もあった方がよい。A教団にとって、肯定的、否定的どちらの情報も存在してこそ、中立公正な判断が可能となり、社会全体の利益にもなる。このためには信者ブログとアンチブログは、どちらも必要である」云々。
 
賛否はあったほうがよいが言ったことには責任が伴う、という常識が欠損している、ある種の発達障害であり、人格が自己の思いつきが固定した妄想レベルのままなのです。Aとか書いても無駄なのです。何ごとにつけ、学習と成長が見られないまま、大人のつもりだけの、理路未発達の偏向者が楽山です。
 
 
教団にとっても、信者にとっても、アンチは煙たい存在かもしれないが、教団に興味を持った人が、さまざまな情報を得て、多角的視点から判断できるようになるためには、それは必要なのだと思う。おそらくはアンチの存在価値はここにある。
 
楽山は、アンチではありません。ネットにおける精神の詐欺師です。あらゆる宗教と思想の敵です。自己の妄想的な悦楽を求めるだけの未熟者~破綻者です。笑いと怒りの感情はあるが、しんみり悲しんで反省する心を持たない精神の病質です。
 
 
*両論併記
 次に、両論併記について書いてみたい。
 自分は公平性の担保のためには、両論併記が必要だと考えてきたのだけれども、それとは違う考え方もあるようだ。
マスコミが一つの問題に対し、必ず賛否両論を併記するのは中立性を担保するための免罪符であり、同時に自分たちの本音を隠す手段でもある。社会に多様な声があるのは当たり前だが、一つのニュースに対する市民の賛否両論の分量は、つねに同じではない。これに対し、マスコミが各種の声にほぼ均等なスペースを割く慣習は、かえって不公平だ。
〈省略〉
第一歩として、まずは賛否両論を併記して中立を装う慣習を改めよう。責任を持って堂々と自分たちの考えを主張するジャーナリズムに生まれ変わってこそ、オピニオンリーダーとしての誇りを維持することが出来るのだ。
 
楽山は勝手に物が言いたいだけです。賛否両論の中に、嘘や詭弁が入ってはいけないのです。さらに、楽山と議論してはいけません。楽山は、思想家気取り、宗教家気取りで、自分を立派に見せたいという自己顕示欲しか持っていません。得意なのは、話を逸らして相手を混乱させる悪趣味だけなのです。
 
 
・日本のマスコミの両論併記の慣習はガラパゴス - JICA
ファクトに基づいているのはどちらか、そもそも並列にしていい性質のものなのか。
そう問いかけることは、必ず君の判断の手助けになるはずだ。フェイクニュース時代を生き抜くために、ぜひそんな習慣をつけてほしいと思う。 
 
楽山の意見は、成り立たない嘘と詭弁がメインで、そこを、気取りと丁寧語でごまかして、柔和を装ってきます。批判しても、言い方を変えてごまかします。議論など、出来ない、成立しない人なのです。気取りの筆致に騙されないでください。
 
 
・松原 耕二 - 第13回“両論併記の罠”に気をつけよう
どこかで、「カルトを批判するのに、いちいちカルトの意見なんか紹介する必要はない」という趣旨の発言を読んだ記憶があるのだが、上の文章を読むと、どうもこれにも一理あるように思えてきた。
カルトは違法行為や人権侵害を行うからカルトなのである。それを批判するのに、いちいち違法行為や人権侵害を正当化するカルトの屁理屈を宣伝する義務はあるまい。
 
楽山の意見をまともに読んではいけません。誰かが言いそうなことや、当たり前のことしか言えない人で、そこを、まともそうに、持論であるかのように、ねじ曲げてきます。正体が分かると、いかに徒労だったが分かり、異常な疲労を感じます。経験済みです。楽山は、無視するしかない病質者です。
 
 
とはいえ、根がどこまでも臆病にできている自分は、それでもやはり意見を主張するときには、反対意見も紹介しておかないと何となく気が引けてしまうのではあるが、この問題についてはもう少しゆっくり時間をかけて考えてみたいと思う。
 
また嘘を吐いています。楽山は、臆病どころか、誰よりも厚かましく傲慢な人格で、知情意が発達しておらず、まともに考えることも整えることも出来ない人です。その分、妄想や思いつきで、ごまかして、悪意で騙して、まともに見せかけようとするのです。
 
 
凶悪

凶悪
 
 
(2023年01月18日)
 
 
 
   (抜粋)
 
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
 
ちぎれてゆく紙の音
震え過ぎた紙の声
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が
神の声にも聞こえよう
 
人格の崩れゆくとき
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
 
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
白々しい詭弁で
キレイごとを書いてくる
 
サイコパスは居直る
 
どこまでも悪臭のゲロが
まだ物を言う
 
二目と見られぬ不感の貧相は
自らの腐敗を誇るほどに
心の失せてゆくままに
 
気づかないまま
また顔を出してくる
 
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の詭弁明2
 
 通知があったので見てみたけれど…
 (st問題を振り返る)
 2022年01月02日 楽山日記
  を改めて批判。
 
犯罪者楽山の被害は継続中です。相変わらずキーボードは打っても何も反応しません。スクリーンキーボ-ドで書いています。画面上の絵のキーをマウスでクリックします。片手操作なので遅くなります。画面の作業エリアは狭くなります。その分、楽山を赦さない気持ちが強くなります。
 
楽山は、人が困るのを見て、ニヤニヤ笑っているような筆致で書いてきます。その印象は、浮いてくる軽さであり、それは実感の無さでもあります。言葉だけ専門用語を好むようです。評論家気取り、丁寧語、世辞とか、論理に見せかけった迷路という罠もあります。得るものは何もありません。
 
それにしても楽山はどうするのでしょう。人のPC壊しておいて、逃げ続けるつもりでしょうか。いつまでも壊したままなら、私は、ことあるごとに犯罪者楽山の名前を出して、恨みを込めて、ことの次第を何度も話すでしょう。そうすると楽山の罪は、未解決の永遠の放屁になります。
 
 
楽山は時々やることですが、ブログ記事は長ければよいということではないという典型です。それと、私に問題があると固定しているので、st問題と言っていますが、私は、犯罪者楽山問題として、楽山を批判し否定し続け、楽山に近づかないように、読者に訴えてゆくわけです。
 
キリスト信仰は、論理で語れるものではありません。ああだこうだの辻褄合わせは醜いだけです。聖書を読んで、神とキリストを主と仰ぐ気になるかどうかです。しかも、完成するのではなく、信仰者として、人間として、学び、成長する道を知ることなのです。その深みを、楽山は全く知りません。
 
ブログとツイッターなど、楽山のネット活動は、誰にとっても、益はないのに、丁寧語や詭弁や謙虚芝居によって刷り込んで誘導してきます。真面目な人が読んで理解しようとして、楽山と遣り取りなどすると、トラウマになりそうなくらい病的な疲労を与えられるでしょう。関わらないでください。
 
 
*通知
ツイッターを見ていると、時々、st氏から通知が入る。
どうやら、コピペする時に「@komo266」の文字までしてるせいらしい。
 
「文字までしてる」・・意味不明。私からの「通知が入る」と勘違いしているのか。メールやコメントは書いていないし、楽山との双方向など、とうに禁忌です。楽山から直接のメールやコメントや、通知?が来ても、私は記事に書いて返すでしょう。悪い風評でも流したいのでしょうか。
 
楽山は、だんだん現実検討能力も低下しているようです。実感がなくなって離人症になりつつあるのでしょうか。それにしては、楽山の悪意は、嘘と詭弁とともに、治まることがありません。成り立たないのに、深みも成長もないことを書いてきます。ハッとすることのない、だらけた文章です。
 
通知?・・私は書いているだけで、通知?とか、するやり方を知りません。書いて公開しているだけです。ツイート自体を言っているのでしょうか、それは、ブログと同じく、私が気遣うことではありません。私の批判は、ブログが先で、メインです。ツイッターは、ほぼブログのコピペです。
 
ブログやツイッターの「@komo266」については、楽山のツイッターからコピペして書くこともあり、ツイートの文字数の関係で省略することもあります。楽山には、サーバーから通知でも来るのでしょうか。こちらからサーバーに何か要請はしていません。
 
理由を知りませんが、楽山は、3つの中のツイッターの一つをブロックされているようです。注意・警告・ブロックなのでしょうか。もし、サーバーからの警告であるならば、私は、「@komo266」を、できるだけ、入れるようにしたいと思います。
 
 
*st問題を振り返る
通知が入ったので、ひさしぶりにこの問題の発端を思い出した。
st氏から楽山日記にコメントがあり、話をするようになった
 
およそ3~4年前の、数か月の遣り取りがあったという話です。楽山は、相手の意見を考えて反論弁明するのではなく、無視して、嘘と詭弁を弄する人です。しかも、理解者を装う書き方をしてくるので騙されないように、関わらないようにしてください。数か月、私は騙されていたのです。
 
楽山の、分かっているような言い方と態度を真に受けないでください。上からの雑言なので、以前、とても異常な言い知れぬ疲労を覚えました。病質と直接の遣り取りをすると、異常な疲労を受け取ることになります。楽山には本気も誠意もありません。
 
楽山は、双方向の、議論、遣り取り、意見交換の出来ない人です。宗教についても、意見交換するのではなく、神不在の結論から組み立ててくるので、議論は成り立たず、疲労だけが積み重なります。それより悪いのは、信仰を全く知らないのに、神と信仰について知ったかぶりをする自己中であります。
 
 
st氏のシャローム批判を読んで、シャロームは悪い人だと思った
この後、シャローム氏とも話をするようになり、st氏がいうほど悪い人ではないと分かった
私がシャローム氏と仲良くしていたら、st氏は、シャロームと話をするな、話をするならシャロームの仲間として批判すると言い出した
こうしてみると、つくづくst氏は気の毒な人だと思う。
 
シャロームshalomは、楽山と同じ自己中であり、偽牧師です。の立場に立ち、同じような丁寧語を使って、上から決めつけてきます。ゆえに、今も、楽山の成りすましではないかと疑っているわけです。楽山は、三文芝居好きの大根役者です。
 
相手を、さんざん、おとしめて、「気の毒」と哀れみ言葉を書いてくるのは、傲慢からの軽蔑の常套手段であろうと思います。まだ通用すると思ってる・・。学習と成長がない者は、同じことを繰り返して自らの堕落と怠慢を表します。・・バレてるのに、よく書いてくるものです。
 
 
*同一人物?
 通知ついでにツイートを見てみると、どうやら最近は佐倉哲氏と楽山は同一人物だと疑っているらしい。<
 
ブログ記事に書いて、それをツイッターにコピペしています。シャロームについても同様ですが、佐倉哲と楽山は筆致と理路の欠陥が、よく似ているので、同一人物の成りすましをを疑っています。狂ったネットマニアの楽山は、他にも成りすましが多いのではないかと思います。
 
 
なぜそんなことを考えるのだろうか。佐倉哲氏の知力も人物も、楽山より遥かに上なのは誰の目にも明らかだろうに。
 
佐倉哲を褒めていますが、都合のよい人をベタ褒めするのは楽山の常套手段です。成りすましなら自分を褒めていることになります。佐倉氏が言っているのは、楽山とほぼ同じの幼稚な屁理屈です。佐倉氏のプロフィールは、どこにあるのでしょう。あっても、あの文章では、全く信用は出来ませんが。
 
 
*的外れ
st氏は相変わらず的外れなことばかり書いてる。
佐倉哲氏は事実と論理によって意見を述べている。だからこれを批判するには、まず事実誤認や論理破綻を指摘することが肝要である。
これをせずに事実や論理を脇にどけて、自らの信仰観を開陳したところで的外れで、独りよがりなものにしかならない。事実と論理による議論と、好き嫌い、信じる信じないということは別の話なのだ。
 
「事実と論理によって」・・二千年前の宗教的事実は、確定できず、永遠に不明です。それは、話として、人の生ける糧(かて)になるか、その説得力があるか、という判断の理路になります。楽山も佐倉哲も、キリスト教を理解しているとは思えず、説得力は皆無です。子供の屁理屈遊びのようです。
 
楽山は何を言っているのでしょう。信仰は、キリストを好きにならないと成り立ちません。事実や論理だけでは決して表せません。「事実誤認や論理破綻を指摘する」だけでは信仰の肯定にも否定にもなりません。そういう主張は、有害無益かつ甚だ迷惑です。何にも分かっていない人の言です。
 
 
*分からないということ
st氏は、人には神や聖書のことは分からないと言いつつ、佐倉哲氏の神や聖書に関する判断は間違っていると言うことに何の矛盾も感じないようだ。
 
佐倉氏と楽山は似ていて、聖書の入り口で、既に大きく間違っているからです。楽山には、心の真実を受け取る器がありません。成長が止まっているために、小学生のような辻褄合わせしか考えられず、人間ならば持っている共感性も罪悪感もないのです。だから人間の言葉として成り立ちません。
 
信仰は、神を希望として、キリストの共感に支えられて生きることです。事実や論理で語れるものではありません。事実や論理を必須とするのは、大方、カルト的な思考しか持たず、感性の鈍い人か妄想家に過ぎません。楽山と佐倉哲は、教条だけ知ってるつもり?の人です。関わってはいけません。
 
普通に考えれば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、st氏にも神や聖書のことは分からないことになり、佐倉哲氏が神や聖書について何を書いたところで、その正誤は判断できないという結論になるだろう。
 
私が、分からないといったのを、何も分からない全否定だと決めつける詭弁です。聖書は、神の関わる書として、人が全てを理解するのではなく、そこから生きる糧を見つけるために読むのです。楽山は、心が無いゆえに何も受け取ることがないので、神と宗教について何も書くべきではありません。
 
こういうところを見ても、楽山は、読書が出来ない人だと思います。だから、これも、あれも、読んだ読んだと、都合のよい字面を漁っては引用して箔をつけたいのでしょう。そして、ますます、学習も成長も出来ない自分を表してゆきます。
 
 
またさらに踏み込んで言えば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、「人には神や聖書のことは分からない」ということさえも分かるはずがないことになる。つまり「人には神や聖書のことは分からない」ということは、それ自体が矛盾しているのだ。
 
楽山のような、全と部分を混同する気取りだけの詭弁屋は、命題として表層を取り上げて得意になりますが、聖書理解は、人間として、良き訪れ(福音)受け取ることです。したがって、ここで、楽山の辻褄理解と、聖書の命の理解が、全く別物だということです。楽山の悲惨な屁理屈です。
 
 
st氏はこういうことをすっ飛ばして、神や聖書のことは分からないものだとしつつ、佐倉哲氏など他人の神や聖書についての判断は間違っていると批判するのだからおかしい。
 
私がすっ飛ばしているのではなく、楽山が大事なことを、楽山の我執に従って、間違った受け取り方で、間違った否定を、間違った妄想として書いているに過ぎません。こういう屁理屈を相手にしていると、病的な人格破壊へ向かう疲労を味わうことになります。どこまで執拗な害毒なのでしょう。
 
 
*心象風景
st氏には、この世には良心のない人がいっぱいいるように見えているらしい。こういう考え方をしているのであれば、被害妄想が強いのも仕方ないのかもしれないなと思う。
 
「良心のない人」は人格障害からの少数の悪です。楽山は、良心未発達の自覚がないことが表れています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。「この世には良心のない人がいっぱいいる」のではなく楽山に良心がないのです。一般化の詭弁で理路が破綻しています。
 
 
*願望
これは、st氏がどういう願望を持っているかが、よく分かるツイートだ。
st氏は自身のことを「単一の信仰者」としていることからすると、これは願望だけでなく、独りぼっちで孤立している自身の投影もあるのだろう。
 
こういう侮辱で傷つけようとする楽山の悪意です。私は「独りぼっちで孤立してい」ます。しかし、楽山の、この発言は、孤独に生きる人への侮辱です。しかも、私の言論が、その投影だと言っています。心理学の用語を、気安く使って、人を見下しながら、楽山は、自らの墓穴を掘ってゆきます。
 
 
また、st氏は上の文章のように、ちょいちょいおかしな文章を書いている。以前は、意図的に詩的に凝った書き方をしているのだろうと善意に解釈していたけれども、改めてこの手の文章を見てみるとどうもそんな単純なことではないかもしれないな。
 
例示できないですね。詩は好きだから書きます。楽山は、感傷的な詩を書いていましたが、感性を鍛える学習をしていないので読めたものではなかったです。なのに、身の程を弁えず、思いやりもないために、他者すなわち私の詩をけなしています。楽山は、書けば、ほぼ全部、おかしな文脈になります。
 
 
*現実
st氏はまた的外れなことを書いている。正解はこうだ。
×「長期に渡って批判されても平気なのはおかしい」
○「長期に渡って誹謗中傷され続けたら、その異常性には誰だって気付くし、無視するようになるのは当たり前だ」
 
批判と誹謗中傷を同一視する詭弁です。批判を無視するのが当たり前だと言っています。楽山は、自分の言う通りでないと、誹謗中傷と見なして、無視が当たり前、と思って生きてきたのでしょう。ならば、従わない人を、ことごとく悪と見なすわけだから、もはや頭がおかしいとしか思えません。
 
箇条書きと、○×で、理屈を並べて、私からの批判を、誹謗中傷と印象付けたい楽山です。こういう自己愛からの無理解だから、私の批判は、楽山を変えるためではありません。
 
楽山という変質者に、誰も近づかないように、楽山の偽善と詭弁の有り様を、ずっと書いています。
 
 
ところで、マリア氏はこの間こんなことを書いていた。
相手にすると、だめなのよね。
一人相撲させるしかない。
 
楽山は、対立すると、他者の言を借りてでも、おとしめてきます。私は、楽山に相手にされることなど、とうに諦めています。楽山の独り相撲に、決して付き合わないように、一般に、また特に、クリスチャンに、呼びかけたいのです。けっして、楽山を、相手にしてはいけないと言うためです。
 
 
(まだ追いかけて批判してた - マグダラのマリアの部屋)
ヤフーブログ時代を振り返れば、とあるクリスチャン氏やmine氏のようにコメントにはすべて返信する人であっても、st氏のことはスルーしていただろう。易坊氏、こうさん氏、ヨシュア氏など、st氏と議論した人たちであっても、みんな去って行っただろう。
st氏はもういい加減、現実に気付いてもいい頃ではなかろうか。
 
自称マグダラマリアと自称ヨシュアは、キリスト教に似せた偽クリスチャンのカルトです。神の教えを守って完全になるという真逆の勘違いがありました。呪いをかけたつもりで、あと何日..とか言う人です。易坊は荒らしです。こうさんも荒らしです。私のヤフーブログを荒らしてきました。
 
こういう人たちも、楽山の成りすましの可能性があるのです。根拠は、みな自己中発言~暴言しか言えないからです。保身のために、神もキリストも利用して、命懸けみたいな白々しい筆致で大仰なことを書くこともあります。
 
いくら、返しても、返す文章に、書くたびに、自己中が表れていること、楽山は、気づかないのでしょう。他者のことを言っても、自分を振り返ることのない病質者の特徴です。こういう筆致、そして、この現実、楽山だけは、気づかないのです。人格障害というのは悲惨です。
 
 
*自己愛
ところでst氏の自己愛の強さは、ツイッターをチラ見しただけですぐ分かる。
ブログ更新のお知らせをツイッターで流すだけならまだしも、st氏は自己のブログ記事をツイッターにコピペして、拡散、保存している。一回だけならまだしも、記事更新のたびにそんなことを繰り返しているようだ。しかも長文記事をそうしてる。よほど自分が大好きなのだろう。
 
邪悪で哀れな自己中である楽山の情報を敷衍(ふえん)したいのだから、ブログからツイッターにコピペしています。拡散したいのです。楽山に何を責める正当性があるというのでしょう。ここにも、全ての規範を自己愛性人格障害の視野からしか判断できない楽山が表れています。
 
 
そういえば、st氏はシャローム氏からコメント削除されたことを、何年にもわたって怒り続けていたのだった。論争中にコメント削除されたら怒るのも無理はないけれども、何年にもわたって怒り続けるとしたらそれは病的にすぎるだろう。
 
大事な発言について、応答せず、承認せず、削除するのは、大いに、信頼を失わせることになります。論争中ならよくて、長期にわたるのは悪い、という性質の違いはありません。楽山は、こちらを「病的」だと言っています。自分が言われそうなことを相手に向けるのは、楽山とシャロームの常套手段です。
 
 
st氏の自己愛はこんな風に屈折したところがあるし、それだからいつものように自己の問題を他に投影して、楽山は自己愛性人格障害だと強弁することになっているのだろう。気の毒な人である。
 
これも同様に、自分が言われている自己愛を、こちらに向けています。違いは何でしょう。楽山は、全く根拠を示せないのです。結論で、悪口の言い張りだけだから、説得力など、あるはずもないのです。ゆえに、楽山が、こちらに向ける悪口は、楽山に返ってゆくブーメランとなってゆきます。
 
 
こう言っては何だけど、st氏は他人のことをとやかく言うより先に、まずは自分の問題と向き合った方がいいと思う。
 
これもそうです。何が「何だけど」なのでしょう。他人の中の、特に異常な楽山や所在不明のシャロームを批判しています。被害の自覚だけしかない楽山に、病識も罪悪感もないことが分かります。だんだん高慢の地獄が酷くなるようです。あわれです。
 
楽山は、キリスト信仰について、とんでもない詭弁でデマと偏見を宣伝しています。ゆえに、批判対象として、私が生きて書ける間は、批判が止むことはないでしょう。直接コメントなどで遣り取りなどは、病原である楽山に対して、私の精神衛生のために、しないのです。
 
 
◇◆ 追記 2022.1.2 ◆◇
*理由
ついでだから、st氏から長きにわたって誹謗中傷されても平気な理由も書いておこう。
まず一つは、何度も書いているようにst氏の書くことは的外れなことばかりだからだ。人は図星を指されると過剰反応してしまいがちだが、的外れな悪口は無視しやすいものだ。はじめは怒ったとしても、それが続けば相手にするのも馬鹿らしい心境になる。
 
自慢と高慢だけでの楽山は、お世辞のコメント以外は、的外れと感じるのでしょう。批判と悪口の区別もつかない人です。楽山には、反応できる「図星」はないです。楽山には、真実も図星も真摯な見解も、何もないから、無反省、無責任、無視、無理解でいられるのです。
 
 
もう一つは慣れの問題だ。議論慣れしていない人であれば、st氏の口撃にたじたじになる場合もあるかもしれない。でも自分の場合はそれなりの議論経験があるので、くだらぬ悪口には慣れてるのだ。
 
楽山は議論したつもりだけです。詭弁慣れ、嘘吐き慣れしているだけで、議論の、理路も、経験も、能力も、分別も節操もありません。無視だけを返してきます。楽山本人の欲望から、インテリ気取りで、独り芝居で、嘘と詭弁を今日も並べているのです。その高慢が臭いです。
 
「馬鹿らしい」「的外れ」「くだらぬ悪口」と進めています。中身はないが、楽山は、気持ちよいのでしょうか。楽山の言い分は、品のなさによって、マイナス言葉に置き換えられてゆくようです。楽山は、一切、根拠を示せないまま、偏狭な感情と結論だけの貧弱な文脈になってゆくようです。
 
「議論経験があるので」・・思い込みです。楽山の議論が成り立ったことはないと思います。「くだらぬ悪口には慣れてるのだ」と言うが、だったらどうして、こんな長くて、根拠のない嘘と詭弁の悪口を書いてくるのでしょう。人格崩壊が近づいているのでしょうか。だとすれば、ますます危険です。
 
その危険は、ウイルス攻撃となって、今年、新年早々、表れてきました。
 
 
あとは信頼というのもある。私はリアルの世界で高い評価を得ているわけではないけれども、幸いにある程度の評価はしてもらっている。
 
いったい、誰が、評価するというのでしょう。関わっている人がいたら、目を覚ましてほしいです。あり得ないと思います。だまされている人が今もいるのでしょうか。仲間褒めか、成りすましのことか。今も、世辞の丁寧語で、だまそうとしているのかもしれません。身の毛がよだちます。
 
 
だから社会に対して、見る人は見てる、分かる人には分かるという信頼感があり、たとえ誹謗中傷されても、世間の人たちがそれを信じてしまうのではないかと心配することもないのだ。
 
訂正不能の高慢が表れています。好意的に評価されることを自慢する楽山ですが、騙されている人が今もいるということです。誰からも信頼されなくなりつつあり、文章が、誇大で過剰で妄想的です。騙される対象がいなければ、騙すことは出来なくなります。まさにそれがこちらの目標なのです。
 
 
それから…承認欲求が希薄だということもあるかもしれない。自分はぜひとも人から好かれたい、そのために何かをしなければいけないという気持ちはさほど強くない。自分を評価しない人がいても、それは仕方がないと思える。たぶん親から十分に愛情をもって育ててもらったお陰なのだろう。
 
また、嘘を吐いています。魅力もなく権力もなく、だますことで満悦してきた楽山は、まるで、悪い政治家の語るリップサービスみたいです。目的もなく中身もなく、うわべの刹那的な承認欲求しかないのです。楽山は、こういう嫌がらせをしてくるほどに、我欲の権化です。
 
 
もっと考えれば、誹謗中傷されても平気な理由はもっと思いつきそうではあるが、とりあえずはこんなところである。
 
楽山が、批判に対して平気なのは、羞恥心、罪悪感、自責の念、共感、・・などの、受け取って反省するための高等な感性が欠如しているからだろうと思います。楽山は平気なのでしょう。何らかの公の強制力か、被害者の暴力的な復讐の対象にならないあいだは。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
嘘と詭弁の興奮

嘘と詭弁の興奮
 
 
(2022年)
(2023年01月17日、再録、加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いかに実態が暴かれても、これだけ白々しい嘘が吐ける楽山です。人間で在りたくないもかもしれません。楽山は、超常の預言者か教祖になりたいのでしょうか。私は、楽山の言が、全ての人によって、否定されることを祈り願いながら、日々、キリスト者として、できることをしているだけであります。
 
全能と言われる神は人に対して、できるだけの正直を求めておられます。正直ということを一切持たない楽山の異常な有り様は、反キリストそして偽善者の典型として検証されるべき大事な問題です。楽山の嘘と詭弁と偽善の有り様を知って、決して近づかないようにしてほしいです。
 
嘘を吐いて人をあざむき、詭弁で人をだまし、幼稚な屁理屈で自己正当化の言い逃れをしてくる楽山は、最低の男です。いちいち理路が捏造されています。ある意味、暴力を振るう乱暴者よりも酷いのです。暴力は、大方、その時その場ものですが、詭弁は人生の正道を歪めてゆくからです。
 
恐らく、楽山の周りの人も、そばにいる人も、楽山を、説得も、制止も、出来なかったのでしょう。約4年近く批判されて、ろくに返せないのに、まだ平気でいられるわけだから、いったいどれだけ、羞恥心と罪悪感が欠如しているのだろうと思います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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  楽山の害2
 
 
年が明けて、楽山がいかに悪意の人であるかが明らかになりました。ウイルス攻撃までやってくるとは、信じられない犯罪者です。前科もあるのでしょうか。犯罪者を相手にしていたとは恐怖です。自己愛性パーソナリティ障害NPDの、良心の無い表れです。決して関わってはいけない人です。
 
この4年しなかった具体的なウイルスによる妨害行為を、ついに楽山はしてきました。踏んではいけないサイコパスの獣道です。ブロガーではなく犯罪者の没落の底なし沼です。この世とあの世の、地獄への闇の道です。これからは、犯罪者として逃げるのでしょうか、白(しら)を切り続けるのでしょうか。
 
楽山は、今回、してはならないことをして平気でいられるサイコパス性を証明しました。なお、その上で、平然としてツイートを書いてくることで、さらにその態度が、罪悪感のない凶悪かつ凶暴性であることを自ら証明しています。そのことに全く気づかない情性欠如の犯罪者だということです。
 
平気で嘘を吐き、丁寧語で人を騙す性質は、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山の症状として組み込まれいるもので、前から指摘してきたことです。口だけでなく、今回、犯罪行為となって表れているということで、自己中病質の実害が、さらにエスカレートする可能性が大と判断しています。
 
楽山は、真実追求の言論と交流の場に、いてはいけない存在だと思います。
 
このまま、人のPCをぶっ壊して平気なのでしょうか。そういう人は、ふつうの顔は出来ないはずです。許されず、赦されない人になります。楽山は、真実追求の言論と交流の場に、いてはいけない存在だと思います。いずれサーバーに報告するしかないでしょう。
 
私は、キーボードが全く反応せず使えない状況なので、画面上のスクリーンキーボードを使って、マウスで、よちよちと入力して書いています。マウスでポイントするのはミスが多いですし時間がかかります。こういうことをさせて平気でいられることは根っからの病質の証明です。
 
楽山には、宗教の感受性がないと思います。御縁がないという言い方をしますが、楽山は、それ以上に悪質です。それが、今回の妨害行為によって明らかになりました。自分が理解できない宗教を否定しないではおれないという病質なのでしょう。私は、ただ、出来ることをしているだけです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
とある新興宗教の信者だったので、これはよく分かる。
こうしないと悪霊に憑依され、地獄に堕ちる
ああしないと天変地異が起きて大勢亡くなる
などと何度も何度も聞かされました😅(笑う顔、汗)
引用ツイート
naru@脱・自己愛被害
@kokorodrugstore
1月14日
あなたをコントロールしようとする人は、
あなたに「言うことをきかないと悪い」かのように思わせます。
道徳や良心の話を持ち出して罪悪感を煽ったり、
宗教ならば信仰心がどうとか呪いがだのバチが当たるなどと言うでしょう。
惑わされないでください。
相手はあなたをコントロールしたいだけです。
 」
2023年1月15日
 
カルトの脅迫めいた話を「笑(汗)の顔」で語る楽山です。どこまでも他人事だと思っているのでしょう。今になっても普通に話す常識人を気取っています。実際は、ウイルスで他者のPCを破壊した犯罪者です。このツイートの呪いとかの超常話は、カルトの話であって、宗教の本質ではありません。
 
 
 
  楽山の害2
 
 
この記事は、確定に至っておりませんので、今後、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
● 楽山の狡猾で執拗な詭弁:ボンヤリ言語による詭弁の刷り込み。
 
楽山の筆致は、深い洞察など何もないのに、読む側が批判する意志を持たなけば、気づかないうちに、そう言えばそうだけど・・みたいに、否定できないでいて、やがて、それが、受け入れ、肯定してゆくことにつながってゆくことになるような特徴があります。だますために書いているからです。
 
丁寧語、ときに若者言葉、曖昧表現、社交の世辞、などを使って、はっきり言わず、先入観的な内容や印象を、刷り込んでゆくところの、ボンヤリ言語は、特に感動したわけでもないのに、いつのまにか、受け入れてしまうという事態を生じます。
 
犠牲者は、ゆくゆくは、楽山に似た人格傾向が表れると思います。つまり、全体に、うすぼんやりした発言しかしなくなる危険があり、それによって、楽山と同じように、刷り込みによって、責任を回避しようとすることになるでしょう。
 
楽山の、不感不応による無反省と無責任と無理解と他者の無視と同じような人格像に陥るかもしれません。即ち、曖昧にネチネチ言い張ることしか出来なくなり、言葉の使い方にとどまらず、人格そのものが疲労し変質してゆく危険性があります。成長しなくなり人格破壊と言ってよいと思います。
 
似た言葉による詭弁の刷り込みもあります。例えば、「人それぞれ」「人は人、自分は自分」という言葉の妥当性からの、"自己中心" の正当化などがあります。実際は、いずれも大人の責任を持つ人の、個人の意志の尊重であり、楽山の自己中とは全く違います。
 
お笑いにも似ていますが、楽山のは、笑うどころか、極めて有害で人格破壊的な詭弁の一種であるところの「と言えなくもない」「・・そうである」「相通ずるものがある」「ならなかったのではなかろうか」「かなあ」「ていうか」等々の言い回しもあります。責任回避のための、捏造の婉曲表現です。
 
● 楽山の反省芝居:トホホ言語による謙虚芝居。
 
反省、および、反省を表す言葉、実際に "とほほ"、自己否定的な言葉、これらは、総て、楽山の三文芝居です。ゆえに、文脈において表現が浮いており、その前後においても、楽山は、何も変わっていないことが、流れの中で、判断の証拠となってきました。
 
つまり、楽山は、平気で、利己のために、嘘を吐く男です。こういうのは、読んでいく時の、何とも言えない違和感・不快感に気づかくことが、必要です。
 
楽山は、弱気など持っていません。弱気を表すのは、卑劣な受け狙いであり、ゆえに、極めて有害な、三文芝居による精神の詐欺行為であります。
 
つまり、楽山は、弱気どころか、真逆の、訂正不能の鉄仮面の、厚顔無恥であります。恐らく、高等感情の鈍麻から来ていると思われます。
 
楽山は、共感、深い、心から、などという言葉を、わざとらしく書いて強調することがありますが、前後の文脈から乖離しており、それまでの記事の流れとも矛盾しており、作為的な、冷淡な人格を隠すための嘘であり、楽山には、しんみり悲しむこと、共感すること、などの深い情緒の感受性が、欠落していると思われるので、真に受けないでほしいと思います。
 
楽山の理路は幼稚で、簡単な理路を組み立てたり読み取ったりすることも出来ないことが、錆びたオモチャを並べるような文章を書いていることに表れてきたからです。そのくせ、結果だけを、執拗に書いてくる筆致は、先入観に執着するだけで、訂正不能になっています。
 
楽山は、学習しないから成長せず、都合の良い材料を、他者の文章から探してきて、そのまま、繰り返すしかなくなっています。本を読んでも、新鮮な知識や情緒を受け取ることが出来ず、先入観の固定観念に合うもの部分だけを、自分の好みで拾って書いて強調するだけになるのです。
 
人間は、一生涯、学習し、反省し、成長する生き物です。そういう努力をしない者は、どれだけ、本の数を重ねても、どんな有名人の話を引用しても、努力したことにはなりません。
 
言論にしても、思想にしても、感想にしても、公表するだけで、賛否を問うて反省と学習をしなければ、思考の糧にすることがないわけですから、実際上、無意味で一方的な主張の繰り返しにしかならないわけです。それは、子供が、言い張って、聞かないのと同じなのです。
 
そういう者は、結局、よく思われるために、うわべを繕うことしか出来ず、そのために、数々の、嘘や詭弁や、権威や有名人の名前までも利用・悪用して、飾り、だますしか、なくなるのです。高名を悪用したとしても、ネットの片隅だから、迷惑行為など、バレないと、高をくくっているのでしょう。
 
それにしても、1年半~2年近く批判されて、まともに弁明できないくせに、反省もせず、修正もせず、嫌がらせのような返しを時々してくるだけで、答えにも返しにもなっていないのに、書くことだけはやめない高慢というのは、どう考えても、異常であります。
 
そう考えてゆくと、相当に、思想も精神も荒廃しているとしか言えない、というのが、今までの経過であります。つまり、飽くなき、無反省、無神経、無責任、無理解が、自己愛と自己中によって、無益な文章を書き続けている病質であろうと判断しています。
 
 
ネットですから、私は、楽山の書いた文章から判断しています。
楽山は、悪質な詭弁屋で、精神の詐欺師という判断です。
 
楽山については、既に、批判する前の、だまされていた数か月を、私は経験済みですが、結局おかしいと気づいた時も、その後の、それぞれの記事を読んだ時にも、いつも、吐き気がして、加えて、ただの意見の相違にとどまらない、とても異常な疲労感を覚えます。
 
自分への害だけを考えるなら、批判を書かなければ済むことですが、それでは、キリスト教の信仰を、ほしいままに、おとしめる者がいることを知りながら放置することになるので、やせても枯れても言論するキリスト者としては、看過できないということであります。
 
こういう場合に、神の導きに任せる、などと言うことは、できることがあるのに、それを放棄することになります。キリスト者の実践的務めは、ただただ、できることする、ということに尽きます。ですから、何かできることがあるのに、しないというのは、明らかに、神の前に、怠慢であります。
 
この記事は、私レベルでも、確定には至っておりませんので、今後、生きておれば、何度も加筆して再録することになりそうです。
 
 
 
  教えのパラドックス
    前に思ったこと、今思うこと
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
私が、最初、読んで思ったのは、厳しすぎて、守ることなど到底できない教えだということです。情欲をいだくことがなくなれば、子孫など出来ない、人類滅亡じゃないか・・と思いました。しかし、どう見ても、守るのが無理な教えを、キリストは、なぜ、言ったのでしょう。
 
これは、その通り守れという教えではないということです。人々は、どうすれば天国に行けるか、どうすれば神のように正しくなれるか・・ではないのです。キリストは、信仰の救いは、どうすれば救われるという行為義認ではない、ということを言ったのではないか。
 
つまり、神への恐れが足りない人々に対して、何よりも、神のように正しくなることは出来ない、ということを言っているのではないかと思います。大きな結論としては、罪なき人は一人もいない、誰もが罪人なのだから悔い改めが必要なのだという意味ではないかと思います。
 
聖書では、正しいからではなく、正直に罪を認めた人や、救いと癒しを必要としているが罪に塗れていて諦めている人が、キリストによって救われています。一方、自分は正しいと思っている人は、キリストによって厳しく批判されているのです。
 
キリストは、この教えを、神のように正しくなりたいならば、こうでなくてはならないが、守れるか、守れないだろう、だから、誰にとっても悔い改めの告白と祈りが必要だ、と言っているように思えます。キリスト信仰の条件は、善でも義でもなく、神の前に正直に祈るかどうかなのです。
 
神の前で正直に祈る人は、悪意をもって、故意に不正や悪を目指すことは、しないということでもあります。
 
楽山は、その対極にあり、丁寧語を使っても、心は欲望だけのケダモノです。
 
楽山のように、慢心して凝り固まっているような病質者は、誰の助けにも参考にもならず、迷惑と害だけを振り撒いてゆきます。全ての価値観を自己満足の快楽でしか感じないのです。公共というものを何も気にしない人です。罪悪感と良心が育っていないサイコパスです。
 
嘘と詭弁でキリスト信仰を汚している楽山のような、一部の自己中体質の嘘吐きに、どうか、だまされないでください。関わらないでください。
 
 
だます だます

だます だます
 
 
(2020年)
(2023年01月16日、再録+加筆)
 
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
年が明けてから、楽山の犯罪性が明らかになっています。にもかかわらず普通を装っていられることから、サイコパスは罪悪感がなく反省しないということが、楽山を通して表れ、楽山の恐怖の本性を表しているのに、楽山だけが気づかないのです。楽山には決して近づかないでください。
 
 
 
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  楽山の無責任引用3
 
 言葉のズレ(幸福の科学と一般では、同じ言葉でも意味が違う)
 2020年12月22日 楽山日記(LD)
  を再録し、改めて批判。
 
 
楽山であろうと思われる犯罪者の妨害によるフリーズは、ウイルスかどうかもはっきりしないまま、改善しません。キーボードは全く使えなくなりました。犯人は平気なようです。罪悪感がないことは楽山と一致します。あるいは、そういう仲間でもいるのでしょうか。もはや、人間とは思えません。
 
楽山の世界は異常です。言葉の意味・概念・イメージが、浅く硬く固定されて訂正不能です。だから学術用語を使っても、歪曲され平板な意味になって、真に受けてはいけない場合が殆どです。楽山は、サイコパスに近い自己愛性パーソナリティ障害NPDだと思います。やはり危険人物でした。
 
ウイルスについて楽山から違うという弁明もないようですし、さらに、ここまで黙っていて、こちらに言われてから、違うと楽山が言ってきても、それは、今さら信用することは出来ません。今からは、ほぼ正式の呼称として、闇に隠れる犯罪者楽山と呼ぶことが多くなるでしょう。凶悪です。
 
 
信仰は、自分の罪を認めることから始まりますが、楽山には、それがありません。だから、楽山は、人のことばかり書いてきます。導いている立場を気取って、発言の大方が詭弁というやり方で、さらに自己愛と自己中を深めてゆくのです。
 
楽山の過去記事ですが、楽山は、堂々とは何も言えず、せいぜい、当てつけか、悪口を言いふらし、あとは、コピペで記事を書いたり、冷静・柔和に思わせるための嘘の芝居で、忠告めいたことを書く、というくらいしか出来ないのでしょう。
 
楽山は、また、自分の卑怯な性質をごまかすために、記事を書いてきました。しかし、その大部分が、他者のサイトからの引用となっており、そのことが、かえって、楽山が、自分では何も書けないことを露呈してゆきます。
 
 
*言葉のズレ
信者と一般人の言葉のズレについて、Togetterにまとめられていたので、ここにも保存しておきたい。
・一般とは違う幸福の科学の言葉 - Togetter
 」
全体的にみて、皮肉、風刺が効き過ぎてはいるが、たしかにこんな風なのだからおかしい(笑)。
 
おかしい楽山が、何かを、誰かを、おかしいと笑うことを、信頼しないでください。楽山は、いかなる他者に向かっても、おかしいと言う資格はありません。楽山は、自己中心の見なしで、おかしいと言っているだけです。また、ゲームのように面白がっているだけです。
 
楽山に、知性や理性があるなどと思わないでください。心の無いところに、知性も理性も感性もありません。知性ではなく無知が、理性ではなく無理が、そして不感不応があるだけです。楽山は、お山の上にふんぞり返って、人を下に見て、面白がっているだけです。
 
心の無い者には、知性と理性の代わりに、ごまかすための、世辞、嘘、詭弁、妄想、自己愛、自己中があるだけです。それらは、総て、無知によるものであり、無理にこしらえるもので、かつ、無恥によって、後悔せず、反省せず、責任を負わず、ズルズルと言い続けるだけなのです。
 
 
*一例
特に印象に残ったものを、ここにも保存しとく。
 
楽山の記録は、楽山によって恣意的に選択・操作されて出来てゆくものですから、保存せず、破棄してください。いかなる問題を解決するのにも、役には立たないと思います。楽山の印象は、無責任な忘却化、偏見となってゆくだけでしょう。
 
以下のまとめは、別サイトに書いてあるもので、楽山は、何事も、まとめることが出来ません。だから、時により、状況により、言うことが、ころころ変わります。楽山の情緒不安定と高等感情鈍麻によって、楽山の忠告めいた文章は、汚染されています。近づかないでください。
 
 
「悪魔」
(一般)特定の宗教文化に根ざした悪しき超自然的存在や、悪を象徴する超越的存在
(HS)大川隆法や教団に批判的な者、またはおかしいと思ったことをおかしいと口に出して言う者
『嘘』
【一般】
事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽?(いつわ)?り(デジタル大辞泉)
【HS】
幸福の科学に対する批判的な言説。
一説によると大川隆法無謬性信仰を元に、総裁や法を批判するとしたら嘘だからという前提に立つ。
 
何やら、分類しているように見えますが、超常の話です。理路も感受性もない楽山は、現実の大事なことを書けないのです。いつも、楽山は、人をだますために言うだけです。楽山には自己を訂正する機能が全くありません。自己愛に凝り固まっているからです。
 
物知り顔に、楽山が言うのは、他者の文章から無断で持ってきたものか、自前の、嘘と詭弁に他なりません。真実という意味では、人のことなど、興味もなく、遊び道具に過ぎないので、何の責任も負う気がないのが、楽山です。
 
 
『地獄』  
【一般】宗教的死生観において、複数の霊界(死後の世界)のうち、悪行を為した者の霊魂が死後に送られ罰を受けるとされる世界  
【HS】
長いものに巻かれず、勇気をもっておかしいものをおかしいものを言った者が死後に集う場所
 
どちらの意味でも、神も宗教も知らない楽山は、ホラーとしてホビーとしてしか考えることのできない人です。何も信じることがなく、自分以外を、寄る辺とすることが出来ないからでしょう。自己愛絶対に生きる楽山は、宗教と信仰に、生涯、縁のない人であることを表しています。
 
 
『社会的信用』
【一般人】
しばしば融資の可否を決める指標となる。収入安定や前科無しなどで測る。
【HS】
教団が大川隆法総裁の霊言に「ある」と主張するもの。
イタコ芸の回数や出版数、お金を出して新聞に広告を載せた実績などで測る。 
 
楽山に前科があるかどうかは知りませんが、楽山には、他者の心をもてあそび傷つける性質があるので、一般の信用も、HS流の信用も、ないということです。現実を無視して、超常を語っておきながら、責任も負わないし学習も修正も出来ないなら、いったい何を信用しろというのでしょう。
 
 
『自由』
【一般】義務や制限に縛られないこと
【宗教者】欲望・煩悩に惑わされないこと
【HS】大川隆法総裁が許した範囲内で選択できること
『宗教弾圧』
【一般】
個人や集団がもつ信仰を理由に、その個人や集団を差別・迫害すること。
【HS】
幸福の科学に対して他者が批判的なことを述べること。
「批判される=弾圧されている=権力側が恐れている=HSが素晴らしい証拠」と脳内変換させる途中の段階。
 
自由と、自分勝手を、混同しているのが、楽山です。社会道徳を知らず、責任とか反省とかについての知識も弁えもないことが、楽山の言動に、この約3年間、表れてきました。だから、何度も、無反省・無責任と書きます。これからも、書くことになります。
 
こういう人は、結局は、信頼されません。それを全く無視して、書くことをやめない病質が、楽山にはあります。楽山が、書けば書くほど、書いたことが批判記事とともに資料として蓄積することに、楽山は何も危機感をいだかないのでしょう。我欲に固定して、学習不能だからでしょう。
 
 
『守護霊 霊言』
【HS】一人にひとりずついる「守護霊」の話。地上に生きている人の「潜在意識」であり、「本心」「本音」そのもの
【一般】大川隆法総裁が生きている有名人に成り済まして行う、通称「イタコ芸」
『証拠・証明』
【一般】質を重視。因果関係も重視
【HS】数量を重視。霊言は数出しているので証明済み。
因果関係は、都合の良いように設定すればそれでよい。
 
楽山は、親戚が霊が分からないっぽいのには驚いた、と記事に書き、楽山自身は、霊が分かるっぽいつもりのようです。しかし、楽山の言う霊とは、宗教的なものではなく、ホラーや超常の趣味の言葉であり、何も努力しなくても備わっている霊であり、怠慢な楽山を、空想と妄想で満たしています。
 
 
『常識』
【一般】
健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。
【HS】
大川隆法や幸福の科学を批判せず、その言説や活動を尊く正しいものとして共感と賛同の意を以て耳を傾けること。あるいは受け入れること。
 
楽山が「普通の知識や思慮分別」を持っているなら、無反省・無責任ではなかったはずです。つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山には、普通の、良識や、高等感情がなく、ゆえに、罪悪感もなく、人に悪を当てはめる快感だけを求めているのです。
 
楽山は、自分信仰、自己絶対の思い込みが前提にあるので、他者を信じることがありません。丁寧語も、霊性・柔和を装うための手段に過ぎません。ゆえに、正当な理路の組み立てが出来ず、詭弁に走って、まともに見せかけたり、世辞を糊塗することで、ごまかしているのです。
 
ゆえに、楽山は、他者の言うことを受け入れることは、世辞以外にはなく、逆に、いつも、他者を、楽山の安い天秤に乗せて、評価・批評し、扱い利用したがるのです。楽山の言動は、総て、気取りによる病的なナルシストの症状だと思います。
 
 
『信仰の自由』
【一般】どの宗教を信じるか、または何も信じないかも含めて自由なこと
【HS】どの宗教を信じるかの自由。信じない自由は含まれない。
尚、大川隆法総裁が仏陀であることは、「前から知っていた」と「今知った」しかあり得ない。
 
楽山は、自由と、自分勝手を、混同して、キリスト教を、好きなように、何度も、けなして、訂正もせず、反省もせず、責任も負わないで、書き続けている約4年の流れです。これだけ批判されても、楽山は、平気でいられるだけの高等感情鈍麻による厚顔無恥です。
 
信頼度は、ゼロであり、自由など重要なテーマについて、楽山に問うのは無駄であり、また、楽山は、問うことに答えられる何ものも持ってはいません。批判目的以外で、楽山を対象にしてはいけません。決して楽山と遣り取りをしてはいけません。恐ろしい疲労が待っているからです。
 
 
『脱カルト』
【一般】悪しき集団から抜け出て社会復帰すること
【HS】基本的には一般と同じだが、幸福の科学から抜けた場合のみ「転落」と言う
『発展』
【一般】
勢いや力がのび広がること。盛んになること。「都市の―」。次の、いっそう高く盛んな段階に移っていくこと。
【HS】
以前語っていたことと矛盾することを言った時の説明。「法は-する」。
 
「以前語っていたことと矛盾することを言った時」に、何の罪悪感もいだかず、反省も訂正もしないのが楽山です。否定を言い、肯定を言い、どちらも、言った責任を負いません。真に受けると酷い疲労だけが残ります。楽山は、言論や意見交換の場に、いてはならない人なのです。
 
 
『深い考え』
【一般】
表面的・短期的なことだけではなく、本質的・中長期的なことも含めて熟考すること。
【HS】
総裁の理解しがたい言動・行動を無理矢理納得するために使う用語。
「これは、主にーがあるに違いない」
 
楽山には「深い考え」は皆無であります。借り物、無断引用、理解しないまま引用しているもの、嘘、妄想、自己正当化など、邪悪なものだけで、言い逃れに終始します。楽山が、記事を書いて、あるいは、ネットに何かを発表して、さらに深まってゆくのは、「無理矢理」な人格の異常さだけです。
 
 
『目安』
【一般】当て。 目標。おおよその基準。また、おおよその見当
【HS】基本的には一般と同じ。但し「奉納目安」となった場合は、一般の「定価」とほぼ同義
『唯物論者』
【一般】
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する価値観を持つ人。
【HS】
①宗教や信仰、霊界、真理に関心を示さない人。暗に一般大衆を指す。
②幸福の科学を批判し、エルカンターレ信仰の意義を否定する人。
 」
 
楽山の唯物論と、信仰についての言は、どちらも、心を考えていない前提です。だから人間の言葉とは到底言えないものです。学者の引用で語りますが、楽山自身は、マンガ・お伽噺・ホラー映画レベルの辻褄だけです。分かってもいないのに学問や宗教の用語を使って見栄を張ります。
 
 
*反論
今のところ、このまとめに対する信者側の反論は、KENTO氏によるものだけのようだ。
2020-12-22 パスタ氏とジョニー氏は
https://twitter.com/KENTO00687971/status/1340789023216861185
(現在、消去されているようです)
 
引用サイトに書いてある、知らないのに語るな、というのは、楽山の無知と無恥に対して当てはまるでしょう。知らない人が、知らないことさえ知らないのが、いちばんの偽善の悪につながります。楽山が、そうです。理解も洞察も直観もないのに、言葉だけ執拗で煩わしいだけの出まかせ状態です。
 
 
ツイートを読むと、冒涜だ、悪口だ、HSのことを知らないんだという風に、大変に憤慨しているけども、まとめ内容は事実に反するという論証は一つもないことからみると、信者側から見ても、これらは事実であると認めざるを得ないということなのだろう。気の毒なことである。
 
「気の毒」と言って、さげすみ、楽しんでいる、愉快犯が楽山です。楽山こそ未熟なのに、他者の未熟を指して、「気の毒」≒ 才能がなくて悟らない人は哀れだ、というニュアンスを伴う言い方しか出来ないのです。まともぶる外道の乱暴者に、だまされないでください。
 
「論証は一つもない」と言っていますが、楽山こそ、論証も、根拠を示すことも、一度もなかったのです。自分を見ないで、人のあら探しをして、批判したつもりになって悦に入る楽山こそ、他者を、婉曲の丁寧語で、疲れさせ、かつ、貶めることしかできない、悲惨で、気の毒な人なのです。
 
 
*自己を客観的にとらえること
自分がHS信者だったころ、現代新興宗教事典のようなものでHSの項目を読むと、非常に不満に思ったものだった。ワイドショーでHSについてまとめられた動画をみても不満だった。そこに嘘はなくとも、「そんなんじゃない」という激情を抑え難かったのだ。
 
今も批判に対して、まともな返し、つまり、弁明や反論が出来ず、動機と根拠が、批判者についての、捏造の事実や、詭弁や、決めつけ~妄想に過ぎない楽山です。それと、恐らく、楽山には、激情も、情熱も、無いと思います。楽山にあるのは、欲求不満だけだと思います。
 
 
でも今にして思うと、この時の感覚は、録音した自分の声を聞いたときの感覚と似ているのかもしれないと思う。実際の自分の声は、自分が思っていたのと違っていたのと同様に、実際のHSも自分が思っていたのと違っていたので、そこに戸惑いが生じていたのだと。
 
楽山の感覚は今も同じです。こういう反省のような発言を真に受けないでください。無反省と言われたものだから、あたかも、反省しているかのような、過ちを認めたかのような、思いやっているかのような、楽山独特の芝居です。「反省、とほほ」とか言うこともあります。
 
反省文を書くときに、「とほほ」とか、書くでしょうか。こうかけばいいじゃろ・・という気安さで、言葉を置いているだけで、その前と後に、全く変化も成長も見られなかったのです。これは、中身のない大根役者、楽山の、低劣な、偽りの三文芝居なのです。
 
楽山の芝居や詭弁を、今まで楽山の言ってきたことが、ことごとく否定しています。真実の追求は「録音した自分の声を聞いたときの感覚」と言って弁明できることではありません。拙劣な比喩を書いているだけ、うまく表現できたと思っていることが恐ろしいのです。
 
言葉のズレではなく、体質的な欠陥ですから、治ることは期待できず、実際、約4年間、変わることなく、成長も改善もすることなく、続いています。自分を見ない楽山は、言論者・批判者には決してなれません。楽山は、いわば個人カルトであり、約4年間、嘘と詭弁と無理解しか残していません。
 
楽山の発言の、正当性の証拠が、今まで、ずっと無いので、言えば言うほど、無根拠の嘘の芝居になります。他者を、いつでもだませると軽く見ている証拠です。楽山は、発言が、ことごとく失言となって山のように積み重なっても、全部無視して、不感不応の独り芝居を続けています。
 
 
KENTO氏以外にも、上のまとめに反発を感じる信者もいるだろうけれども、この辺りのことに注意しつつ、事実は事実と率直に認め、反省すべきところは反省し、修正すべきところは修正したらいいのではないかと思う。
 
「反省すべきを反省」せず、「修正すべきを修正」しないのが、まさに楽山なのです。人のことを、とやかく言う資格はありません。注意、忠告、反省・修正を促すことが、自分で出来ないし、言われてもしない楽山は、実に、厚顔無恥となり、人格が悪魔性になってしまいました。
 
楽山の発言は、自己愛に慢心したベースからの出力です。これに頷けば、結局、人間性と共感性を破壊されて、腐った麩(ふ)のような中身のない、偽りの人格模様になるでしょう。どうか、自分の精神衛生のために、精神を侵す公害の楽山に、関わらないでください。近づかないでください。
 
前の記事で「信仰も棄ててしまえばあっけないもの」と書いた楽山は、あっけなく信仰について否定の結論を出してしまうほど考えることに怠慢で短絡的で、その精神から、学習しなくなったために、何を書いても熟練の欠片も生まれないゆえに、何も成り立たないという地獄に落ちています。
 
 
欠落の単方向

欠落の単方向
 
 
(2020年)
(2023年01月15日、再録+加筆)
 
 
 
  不眠と雨音
 
ときに強く
今にも屋根を天井を貫き
身を貫くかのように
上から下へ容赦なく叩きつけて
天からの怒りのようでありながら
絶え間なく打ち続く夜の雨音にも
トトンピチャピチャと撥ねる音
ボトリボトリと落ちて当たる音
流れる水の音が渾然(こんぜん)一体となって
響く夜のシンフォニーは単調ではない
 
絶え間なく落ちてくる水滴は
水となり水に叩かれ水となり
淀み
流れ
躊躇(ためら)うこともなく
変わり続ける夜のオーケストラは変調でもない
 
絶え間なく過ぎている時間にいて
外も内も変わり続けていることに
変わり果てた姿に唖然とするまで
気づかない壊れた楽器は
オーケストラになれない
 
眠れぬ夜のシンフォニーに
しばし耳を欹(そばだ)てて
眠れぬ夜の耳鳴りと区別しながら
もはや明日の目覚めと呼べなくなった
今日の睡眠を水に流している
 
 
  早朝の時間
 
眠れない夜ふと
とうの昔忘れたものに
眠らない夜の向こうから
呼ばれたような気がして
澱(おり)を覗(のぞ)いてみる
 
そう簡単に覗けるはずもなくて
深林のような
墓地のような
来たところから帰るところへ
明日の目覚めは望みません
と祈りさえしたくせに
 
一方では
いきれのような
ほとぼりのような
まだ足りない
まだ足りない
まだ尽くしていないと焦がれていて
いたたまれない時間がまだ残っている
と呟(つぶや)くほどにかすんでゆくから
習慣も癖も拡大しないと壊せない
崩せないフォントの往来だ
 
いってらっしゃいで帰ってくる
ただいまで出かけてゆく
集散も孤独も活動しないと死にきれない
早(はや)眠れない速度の早朝だ
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
神ノ義ヲ得ルコトガデキル
神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
人ハ生キルコトガ許サレテイル
人ハ生キルコトガ望マレテイル
人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
私ハ伝エルベキ
何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善と崩壊を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書いても、本当に反省することはないようです。心を持たず、無反省と無理解のまま、言葉だけ書いて済む世界など存在しないのです。
 
 
 
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