ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自己正当化

 
  妄想詭弁全開3
 
 私の記事「無知と無恥」コメント欄
 シャローム(シャロム、shalom、あなた、彼)のコメント
   を改めて批判。
 
 
約10年間、批判対象となっている偽牧師の反キリスト、シャロームshalom のコメントを、もう一度、書いておきます。良心と常識の欠如が表れています。改めて読んでみると、書き足りないことが多々あり、加筆しておきます。似たようなことは、楽山にも言えるでしょう。
 
楽山とシャローム、そして、荒らしの易坊については、一人による成りすましを疑って、"楽山やシャロームなどの易坊類" と呼ぶこともあります。宗教と信仰を、妄想的に訂正不能に、勘違いして、先入観として固定している者たちです。
 
またしても、執拗に、言いがかりを書いてくるシャロームからのコメントです。
相変わらず、私の言ったことを、まるで受け取らないで、妄想を語るシャロームです。
崩壊が進んでいます。これでキリスト教のつもりか・・ってことを書いてきました。
 
 
1. st5402さん おはようございます
 2019年11月15日 09:12
「キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。」
st5402さんは誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、
完全ではないということが人間の罪の性質と考えておられるのですか?
そんなこと聖書のどこに書いてありますか?
 
神の性質との比較です。神は、全知全能・絶対完全・永遠不変・・、人は違う。聖書全体が、そのように書かれているわけですが、シャロームは、否定するのでしょうか。「聖書のどこに」?・・呆れます。聖書から人間の不完全を読み取っていない偽牧師だということを自分で表しています。
 
聖書を読んで、聖書の言葉から、現実を考え、自分の人生に広げてゆくのが聖書を読むことだと思っています。今までのことから、シャロームは、聖書の言葉だけで完結して、考えることをせず、意味や意義を実感に広げられず、言葉の合致だけで、超常神秘を語ったつもりになるカルト性です。
 
今さら、そんなことを聞くなんて、おかしいわけです。聖書から、何も考えないなら、聖書を読んだことにはなりません。シャロームは、いつ神相当の知性を得て、考えなくて済むようになったのでしょう。そう思っているなら、空想~妄想~誇大妄想だけが残るでしょう。
 
言葉だけ受け取って、込められた心を思わない者の、哀れな結末が、シャロームに表れています。だから、空っぽに満たされているシャロームです。しかも、それで、聖書を読んだつもりになって「どこに書いてありますか?」などと聞いてくるとは、呆れます。
 
神は全知全能として信じるということです。人との違いです。それを「どこに書いてありますか?」と聞いてくることが、シャロームが聖書を読んでいない証拠です。まず、聖書から、直観的に理解できないというのが、偽牧師で偽信仰者である証拠です。
 
聖書を通じて、神は全知全能の存在として表されています。そのことは、全知でも全能でもない人間にとっては、神が、人による分析や評価の対象とならないことを意味しています。聖書から読み取るべきは、神の詳細ではなく、人間の現実と真実であります。
 
私たち人間が、全知でも全能でもないことは、現実の経験から分かると思いますが、それを認識できない人がいるようです。シャロームも楽山も、信仰において必要な最低限の理解力が、信仰において致命的に欠損している証拠になります。
 
そういうことなら、あなたシャロームの妄想が、どんどん明らかになっていることも分からないでしょうね。恐ろしい人間離れの異常性です。シャロームのカルト性は明らかです。
 
あなたシャロームが、自分の言動を、神に結ぶ付けるのは、そういうところにあったのでしょうか。だとすれば、あなたシャロームは、われは神なり、と言っているようなものです。人間離れの神がかり妄想であることが、あなたシャロームによって証明されるわけです。
 
推測し予想したとおり、あなたシャロームは、頭も、心も、脳も、どんどん崩れてゆきますね。これで、まだ、聖書と信仰を教えるつもりでいるなら、説明しても分からないでしょう。こちらが言ってきたことを、まるで受け取っていないシャロームは、もはや、人間であることをやめているのでしょう。
 
問いつめだけ書いてくるのは、何の説明も説得力もない証拠です。
かといって、
あなたシャロームが説明すれば、恐らく全部、妄想をだらだら書くことになるのです。
とても醜いです。
 
 
聖書の冒頭の創世記1~3章すらよく読まれていないのではありませんか?
ほんとうに人間の罪の性質、その罪の共感から
本当に謙虚、謙遜、敬虔が生まれるのですか?
その共感をもとに信仰の道に入るのですか?
ほんとうですか?
 
このように、弁明せずに、問い詰めてゆくのは、荒らしやカルトや詭弁家の特徴です。聖書の創世記を読んで、シャロームは、罪の性質を理解せず、かえって、今まで現れてきたところの、訂正不能の、何でも赦される自己中信仰?を受け取ったのでしょうか。読解力がないようです。
 
罪を認めないあなたシャロームは、何も理解しておらず、何も受け取っていないということです。信仰は、パーティーでも、お祭り騒ぎでも、おまじないでも、大売り出しでもありません。シャロームの超常話の、共感など何もないところに、人間が信じられる良きものは、何もないです。
 
罪の認識からしか、信仰者の敬虔は生まれません。共感は、神と人、キリストと人、人と人の関係を結ぶためにあります。何の共感も必要としないところには、先ず、関係が生まれていないのです。
 
あなたシャロームは、人間離れのペーパーか墓標みたいになって、
書類の偽造のように、契約を捏造しているのです。
シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。
 
 
st5402さんの実体験からの言葉でしょうが、
あなたの考えは自分を正当化しやすいための合理化ではありませんか?
そういう考えが際限のない自家撞着の原因ではありませんか?
shalom!
 
自己正当化の権化であるシャロームは、自分が言われそうなことを、こちらに向けて書いてきます。これは、シャロームがよくやることです。「自分を正当化しやすいための合理化」?・・それで、何らかの正当性の担保になるでしょうか、全く否です。私は、神の前に、折に触れて、罪を告白しています。
 
罪の自覚は、自己正当化をしない方向にあり、ゆえに、反省を促します。あなたシャロームの醜い自己正当化を見ると、正反対なのが、よく分かります。
 
私は、愚にもつかないあなたシャロームの意見を、今はもう、まともに受け取ることはないですが、まだ、あなたの正体を知らない人が、影響を受けないことを祈るばかり。あなたは、悲惨な病原となっています。
 
天地と人間の創造の話を、思慮も良心もないために、「はなはだ良かった」と言う神の言葉にしがみついて、自分も良かったのだと、悪いところはないのだと、有頂天気分となり、人間の罪を、全部サタンのせいにして、聖書の教えとは真逆の無罪妄想に仕立てるつもりでしょうか。
 
そんなこと信じたらどういう人間になってしまうかも考えず、また、皆がそう信じたらどうなるかも考えず、自己正当化で悦に入るゆえに、学習も成長もなく、堕落し崩壊して、サタンのしもべに限りなく近づきつつある妄想の自家製の臓物が、あなたシャロームの偽信仰です。
 
これだけ言っても分からないでしょうけど、分からないなら人間として最小限の常識もないということです。まだ、撞着と書いてます。私の書いたこと、まるで読んでいない証拠です。問い詰めるが、問い詰めた対象の意見を読まない聞かない、これがピュアな疲労物質のあり方です。
 
どう‐ちゃく【×撞着】 の解説
[名](スル)
1 つきあたること。ぶつかること。
「忌諱すべき事に―することも」〈鴎外・渋江抽斎〉
2 つじつまが合わないこと。矛盾。「話の前後が―する」「自家―」
類語:矛盾(むじゅん)
 
楽山やシャロームなどの易坊類によく見られるのは、わざわざ難しい熟語や用語を、説明なしに書いてくることです。こんなに知っているんだアピールでしょうか、逆効果です。理解してもらおうという気持ちがないことの証拠になります。
 
人の言うことを聞かず、教えようとするだけなのは、シャロームが、他者をモノ化して、蔑んでいる表れです。他者を人間でない者として扱うことは、結局、そういう扱いをする人が非人間であることの証拠となります。議論など全くできないし、一方的な主張だけを出してくる人の特徴です。
 
信仰は人間のためにあります。信仰?を受け取ったつもりで、人間離れするなら、そういう信仰?は、元も子もないものとなるのです。そういう人間離れが宗教と信仰だと思っている楽山やシャロームは、つまり、何も知らないことを自ら証明しているのです。
 
 
8. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月15日 15:23
「批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また・・・書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。」とのことですが、
早く終わりにしたければ、あなたに自由意思があれば、いつでも終わりにできるのです。終わりにするか、しないかはあなたの意志の決断にかかっているのです。
 
シャロームが、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと言って、自己中心だけの偽信条を、キリスト教として教えられてはたまりませんから、批判を続けてきました。シャロームが、キリスト信仰とは真逆のことを平気で記事に書いてくることから、私の批判は始まっています。
 
シャロームは、丁寧語とは裏腹に、信仰を、茶化しているわけです。批判を終わりにするかどうかは、私の意志によります。シャロームが、とやかく言うことではありません。それに、批判の継続は、シャロームが、納得のゆく弁明も反論も出来ないまま、嫌がらせを書いてくるから続いているのです。
 
現時点では、シャローム批判も、楽山批判も、記事が数えきれないほど多いので、もはや、資料となっています。この資料は、偽善者、異常者、詭弁家が、どういうだまし方をしてくるか、どう対処したらいいか、ということの参考資料ですから、これからも再録してゆくことはあるでしょう。
 
フォローしているブログも、信仰者のブログも、他にも多くありますが、批判しないブログがいっぱいあるのは何故か、ということを一度も考えないあなたシャロームだから、こうなっているのです。
 
しかも、批判を理解することが出来ず、執拗に、同じような超常話を書き続けるから、批判は持続するのです。あなたが、自分の異常性に気づかず、異常性をごまかして、吐き気のするような嘘の飾りの讃美言葉と言い逃れの詭弁を並べるあいだ、ずっと続くということです。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」とのことですが、8年間絶え間なく、書き続けているのはあなたでしょう。
それはあなたのブログを読めばだれでも理解できるでしょう。
私はコメントを未承認にしたり、時には削除したり、コメント欄を閉鎖したりしました。今も数多くのあなたのコメントが未承認のままミイラのように眠っています。間もなく消え去ります。
 
シャロームは、この記事の時点で、批判が8年間続いていることを、私のせいで起こっている異常事態と見なしているようですが、シャロームが、批判されるような記事を書いて、批判されて、反省も反論も弁明もできないで、なおも、嫌がらせだけを書いてくることのほうが、よっぽど異常事態なのです。
 
批判される必然を持っていて、あなたシャロームが自己満悦を書いて、いつもいつも排泄してきて、キリスト教のつもりで、福音をけがし、キリストをけがして、それが人間関係や受け答えにも出ているから、妄想は妄想だと言わなければならない必然があるわけです。
 
批判対象となる文章が無ければ、批判は生まれない、という当たり前のことが分からないとは驚きです。それで被害者意識しかないのは、自己中の訂正不能の特徴です。
 
シャロームが書き続けたので、批判対象となる文章が、今の時点で、約10年間続いてきたことが、資料化につながり、ゆえに、現時点では、批判対象記事引用+批判記事というあり方が可能になっています。ゆえに、批判のほうは、いつでも、かなり総合的にアップデートが可能となっています。
 
何も理解していないのに、何も気にしないで書いてくるのは、あなたシャロームに、反省がなく、学ぶ意志もなく、妄想だけがあるからです。それをキリスト教・キリスト信仰だと思われてはいけないのです。妄想に憑りつかれているのは、あなたなのです。今となっては、分からないでしょうけどね。
 
この人の言うことは、全部、間違っていて、正反対ですと、言わなければならない・・という私の課題が消えようもないわけです。言論の責任を負わないならば言論の自由もないのに、おかまいなしに、言葉の暴虐を尽くして、聖書も信仰もけがして平気でいられるシャロームは異常です。楽山もです。
 
あなたシャロームの、レコーダーのような、以前とまるで変わらない、反論にも弁明にもならない不平の集積されたゴミ置き場のようなコメント欄を見るのは、極めて不快ですが、シャロームの言ってることが妄想で、偽善だ、というアピールをしなければならないのです。最初からあなたが原因だからです。
 
無反省の偽善者は、批判を、促進するということです。批判のはじめから今に至るまで変わらない背教と、とんでもない妄想教理を、あなたは、示してきたわけだから、その責任を問われるのは、もはや宿命なのでしょう。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」と
他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのものです。
 
「他の人の責任」というのは、言うまでもなく、シャロームの責任ということです。シャロームは、おかしなことを書き続けている自分に対しては、全くの無反省であることが、偽善者、自己中、病的ナルシスト、サイコパスの特徴を表してきたのということです。
 
この引用部分の「他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのもの」が自己中と無反省の典型です。それは、無反省と自己正当化の、シャロームのほうです。しかも、平気で、神と聖書を悪用して、責任転嫁をしているのです。
 
根拠のない決めつけが、シャロームのお家芸として続いています。私は、シャロームと楽山を批判しています。神ではありません。アダムとエバの話は、人間一般の罪人の姿を表します。あなたは、また、間違えました。それが、修正不能になった偽善者の悲惨な経過です。
 
あなたシャロームは、いつもいつも偽善の典型だけを示してきました。今日のコメントは、妄想に憑りつかれて訂正不能になっている者の典型的な発言です。神は、あなたシャロームのような、不平ばかり言うような横暴な者の味方にならないことを、カインの話が示しているのです。
 
 
あなたの自由意思は罪の鎖につながれたまま支配されているのです。
イエスさまは私はあなたがたに自由を与えると約束されましたが、
あなたはその自由をイエスさまから受け取ってはいないのです。
 
自由意志を、自由ではなく、罪の鎖だと、逆説を言いながら、解説を書けないのもシャロームの特徴です。何も説明が出来ないのだから、説教など出来る人ではありません。主イエスが与えるのは、魂の自由と解放という救いであって、シャロームが言っている修正不能の自己中の自分勝手ではありません。
 
 
9. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年11月15日 15:25
コメントのおしまいに
「シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。」書いておられますが、
私からのst5402さんのブログ訪問やコメントは脅しであったり、嫌がらせであり、嫌がりそうなことなのですか?つまり荒しであり、
あなたの私のブログ訪問や無数のコメントも脅し、嫌がらせの類だった、荒らしだったのですか?私はそう判断しましたので、未承認にしたり、削除したり、コメント欄を閉鎖しましたが、あなたの意思に従うのではなく、それが私の意思による決断でした。
 
シャロームは「私の意思による決断」と書いて、また、正当であるかのように見せかけていますが、実際は、批判に何も答えられないまま、シャロームのブログを、まともなブログに見せかけるための、都合の悪いコメントを不可視化~削除する隠蔽操作なのです。
 
また自分が言われることを、こちらに向けています。この後、シャロームは、私のライブドアブログに、"名無しの猫" などという荒らしらしいHNで、似たような荒らしコメントを書いてきました。シャロームは、通らない文句を何度も言う荒らしです。荒らしの易坊と息が合うわけです。
 
そういうふうに、批判を受け取らず、未承認~削除という対応しかできないことが、あなたシャロームが、反論、弁明、説明が、全くできないということを明確に表してきました。反論も弁明も出来なくて言うだけは言う、という言論のやり方は、ありえません。
 
だから、あなたシャロームの意志も文章も異常です。何か言われて、答えることのできない者が、特徴的に、安易にとってしまう不許可による隠蔽という強制力は、言葉の操作上の暴力であり、自尊の過大な妄想が固定観念になったものです。その典型が、シャロームと楽山です。同一成りすましかもしれない。
 
 
あなたに荒らしだと指摘をされた人はかなりおられましたね。
そういう人にもあなたは荒らしだと逆レッテルを張り、成りすましだと邪推し、決めつけられましたので、皆さん離れて行かれましたが、
そうだったためしがありません。
 
私の批判対象となったのは、シャローム、易坊、楽山、そして、カルトと見なした自称ヨシュア、自称マグダラマリア、などですが、皆、批判されると、怒るか、嫌がらせを書くかしか出来ないことをもって、似たような一方的な自己正当化の者たちでした。
 
離れていったのではなく、最初から、つながりはなかったのです。キリスト教のつもりで、妄想を書いていたのです。人間としての身の程を弁えず、信じて神のように完全になる、という、とんでもない冒涜が信条なのです。
 
私について、どこでも荒らす者という印象を吹き込みたいようです。批判と荒らしは違います。それに、私は、たぶん大丈夫と思う150くらいのブログをお気に入りに入れています。シャロームとは全然違うブログの世界です。楽山、シャローム、などの、ブログは、独特のカルト臭があります。
 
批判を受け取らず、悪口と同様に、荒らしだから削除することをやっていたのは、あなたシャロームです。言い返せないのに、相手にせいにするのは、カルトの特徴です。
 
シャロームは、批判コメントがあると都合が悪いから、隠蔽・削除するわけです。つまり、シャロームは、見かけだけを保とうとするような、自己中の、それこそ、見掛け倒しなのです。
 
私は、根拠を、何度も何度も示してきました。あなたシャロームは、言論というものを全く理解できないから、あなたの発言に、その度に、批判を当ててゆくしかないということです。
 
こういうことは、前にも、何度も書いてきましたが、また、同じことを書いてくるあなたシャロームは、被害者を気取っても、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい・・という暴言を吐き、内省不能の、自覚のない惨劇とでも言うしかありません。毎日、罪を食べて生きているのでしょう。
 
 
いつでも遅いということはありません。
今は恵みの時、救いの日であるという言葉が聖書にはあります。
きっと、ご存知でしょう。
shalom!
 
恵みの時、救いの日を、ずっと拒否し続けているのが、あなたシャロームです。恵みはいただいたつもりの妄想屋が、何も責任を果たさず、何も捧げず、弁えもない、という固まり方の厚顔無恥が、シャロームと楽山であります。議論というものが、何も分かっていないエゴの病なのです。
 
遅いも早いもなく、批判の必然は、あなたシャロームにあります。私は、キリスト者ですから、あなたシャロームが、詭弁をいくら重ねても、同じことを何度言っても、その都度、卑怯で汚いあなたシャロームに、改めて新しい批判を書く動機が生まれるだけです。
 
シャロームと楽山は、物品やその仕組みを理解するように、神と信仰を扱って、理解したつもりでいます。その決定的な不全を、シャロームは妄想的讃美で、楽山は曖昧ボンヤリ言語で、ごまかして、柔和を装う者であり、その口には、真実がありません。
 
しかし、一方で、批判対象とすることで、シャロームや楽山の言から、信仰者が、決して陥ってはならないところの、誤解、曲解、妄想、自己正当化、無反省、無責任、訂正不能、とは、どんなものか、ということを学ぶことが可能です。闇を見ることで、光を知ることもあります。
 
悪を認める罪人は信仰によって救われる可能性と希望を与えられますが、悪を善に見せかける偽善は、赦されることがありません。何故なら、善に見せかけることは、悪を認めておらず、罪を赦されることを自ら拒んでいるからです。卑怯が何を考えても、さらに卑怯になるという成り行きです。
 
 
偽牧師と反キリストの崩れ方

偽牧師+反キリストの崩れ方
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年12月02日、再録+加筆)
 
 
 
 (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁から澱までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
(灰汁(あく)、澱(おり)、益々(ますます)、
 貶める(おとしめる)、晒す(さらす)、
 鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう):
  = 霊魂がしくしくと泣くさま。鬼気迫って恐ろしい気配の漂うさま。)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省が大事なことだと分かっていないから反省しないのでしょう。そういう機能が、楽山の自我には、無い、あるいは、あってはならないことなのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。都合の悪いことはインプットされないのだろうと思います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ブログ記事をコピー)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  恥丸出しの深みの無さ
 
 『「孝経」人生をひらく心得』伊與田覺著
 2022年11月27日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
楽山の人生が、いかに、ごまかしで閉じてゆくプロセスであるかが、表れています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の悲惨な自己正当化のボンヤリ言語の例と言えるでしょう。本人だけが、書を読み、書を理解したつもりで、自慢しているのです。
 
 
*まえおき
古典名著はできるだけ目を通しておきたいと思いつつ、「孝経」はその書名はよく聞くにもかかわらず、一度も通読していなかったので、本文紹介とともにわかり易く解説してある本書を読んでみた。
 
思考の理路も、情緒面の感受性も、楽山に、古典が読めるとは、とうてい思えないのですが、感想文のつもりのようです。短くて、中身が薄く浅いのは、楽山が、実際には、読書障害であることを表してきました。感想の中身が書けないのでしょう。不親切で、浅はかな表現ばかりです。
 
 
恥ずかしい話であるが、「身体髪膚、之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」という言葉は前々から知ってはいたが、これが孝経の言葉だとは本書を読んではじめて知った。古典を読むと、有名な名言名句を再発見できるところは楽しい。
 
楽山は「前々から知ってはいたが」説明はしないのでしょうか。細かいところにも自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)は表れてきます。つまり、読んだ、読めるんだ、という読書家気取りの自慢だけなのです。「楽しい」では、小学校でも怒られそうです。見栄張ってもしょうがないでしょう。
 
髪膚
はっ‐ぷ【髪膚】 の解説
髪の毛と皮膚。転じて、からだ。「身体―」
毀傷
き‐しょう〔‐シヤウ〕【毀傷】 の解説
[名](スル)損ない傷つけること。
「彼も此も―せられたり」〈鴎外・藤鞆絵〉
 
 
*心に残った言葉
ちなみに、本書中で特に心に残ったのは、この言葉だった。
>>
「故に其の親を愛せずして他人を愛する者、之を悖徳と謂う」。
自分の親を愛さないで他人を愛する者を悖徳という。
「其の」というのは「自分の」。「悖」は「悖る」で、正しいあり方に反する。徳に悖る者を「悖徳漢」といったりします。自分の親を疎かにして他人を愛するような人は悖徳漢ですね。
(『「孝経」人生をひらく心得』伊與田覺著、致知出版社、平成21年、pp.135-136)
<<
毒親問題が広く認知されるようになっている現代では、どんなに人に親切にしたとしても、親孝行ができていなければ悖徳漢だとはなかなかに厳しく、暴論とも思えるのではあるが、一般論としては親不孝な状態ではいくら他人に親切にしても、おそらくは心の中から罪悪感は消せなかろうし、それならこの考え方はそう見当違いというわけでもなく、完全に否定されるものではないのだろうと思う。
 
はい‐とく【背徳/×悖徳】 の解説
道徳にそむくこと。「―行為」「―者」
 
音読み ハイ・ ボツ
訓読み もとる・ みだれる
意味
①もとる。道理にはずれる。そむく。「悖徳」 ②みだれる。「悖乱」 ③さかん。さかんに起こるさま。「悖然(ボツゼン)」 [類]勃(ボツ)
書きかえ
①「背」に書きかえられるものがある。 
 
はいとく‐かん【背徳漢・悖徳漢】
〘名〙 人倫、道徳にそむく男。背徳者。
楽山は、人に善意で何かを親切にしたことはないのではないかと思います。「親孝行ができていなければ悖徳漢だとはなかなかに厳しく、暴論とも思える」・・こういうところに、親不孝を正当化する楽山の詭弁が表れています。ゆえに、楽山には親不孝の経験がありそうです。あとは、いつもの自己正当化です。
 
「心の中から罪悪感は消せなかろう」・・楽山に、心からの罪悪感が表れたことはありません。偽っておいて「この考え方はそう見当違いというわけでもなく、完全に否定されるものではないのだろうと思う」という、極めて、婉曲的な賛同の辻褄合わせで、ごまかしています。白々しいとはこのことです。
 
 
親不孝の生い立ち

親不孝の生い立ち
 
 
(2022年11月28日)
 
 
 
  あの夜と病
 
幼いころ
母と汽車の旅
窓から見た
蒸気機関車の
機関室から吹き出す炎
あの夜とともに
 
母の背にいた
幼い頃ではなく
小学生の私がいた
痛くて足が動かなかった
 
癒えていた確かに
進学し就職した
それだけで孝行息子と
恵まれていると喜んでくれた父と母
 
確かに
耳の遠くなった父母に
今更の病は信じられないことだ
私も詳しく説明はできない
でも追い越し
やがて遮るだろう
 
この類(たぐい)は
自業自得のようでもあり
誰も責めようがない
親不孝に親不孝を重ねて
むしろ恥ずかしい
 
勝ったつもりか病よ
だがお前と私が同じ体にいる以上
お前も恥ずかしい代物(しろもの)だ
私が最後に意識を失うまで
勝負だ 言っておくが
私の恥は
お前の憎々しい喜びほど
軽くはない
 
消してみよ
あの夜を
 
 
 
 楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の思考が齟齬を来たし、元々欠落している感受性のために、いい加減で、拙劣な文章しか書けないようです。それだけ自己崩壊してゆきながら、なおも、自慢だけは忘れないという病質は、哀れではありますが、仕出かしてきた悪事を思えば、手加減は出来ません。なぜ、書くのを止めないのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  気づかない楽山
 
 2022年11月03日
 『秘密の法』大川隆法著
  を批判。
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、自分の無責任に気づきません。素の自己中の立場を、まともだと思い込んで、そこから、他者に向けて書いているので、書いた文章には、嘘と詭弁と無反省と無責任など、害毒がいっぱい表れてきます。
 
ここまで、白を切り、嘘を吐き、詭弁を弄し、なおも他者に影響を与えようとするのは、サイコパスとしか言えないと思います。楽山の発言は、信頼度ゼロです。平気で嘘を吐きます。リアルでどう生きているのかを思うと恐ろしいです。
 
 
*まえおき
『秘密の法』を読んだので、その中で賛同できた部分、賛同できなかった部分について、記事の前半後半に分けて書いてみた。
 まず以下が賛同できた部分である。
*触らぬ神に祟りなし
全体的に見ておかしいと思うものからは、やはり、距離を取ることが大事ではないかと思います。
(『秘密の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2021年、p.91)
 」
大川隆法総裁はここで、おかしいと思う宗教には近付かない方がいいとしているが、これには私も賛成である。
仮に、「この宗教は正しい」と確信を持って近付いたとしても、あとで「何か、おかしい」という違和感を覚えたなら、早々に離れた方が賢明である。
 
自分の「何か、おかしい」ところに気づかないのが、楽山です。生まれて一度も気づかないから、今のようになっていると思います。正しい宗教は、現実の個人の生活において、実感できることや知っておくべきことから気づきが得られることでしょう。楽山は、何も気づいいていません。
 
 
*責任
やはり、年齢相応に成熟して、自分のことは自分でできるようになり、あるいは、自分以外の人にも「責任」を負えるようにならなくてはいけません。
(同上、p.152)
 」
これもその通りだ。世の中で生きていくということは、その立場によって責任を負い、義務を果たすことを求められるということだろう。人の立場は、人それぞれ異なるので、その責任や義務の中身はそれぞれ異なるだろうけれども、責任や義務は世の中で生きている限りはついてまわるし、それらを果たしてこそ人は幸福を実感できるのだと思う。
 
楽山は、たとえば自分の言論について、全く責任を負わない人です。忘れるのかもしれませんが、否定を言い肯定を言ったから断定じゃないので責任問題は生じない・・と言っていました。丁寧語で、かつ、語尾をごまかす筆致もそのためだろうと思います。
 
 
*相性
世の中には「相性」というものもあるので、相性の悪い人もどうしても出てきますが、それはしかたがないことです。すべての人に愛されはしません。
(同上、p.160)
 」
 これもその通りだし、自分にもよく理解できる。世の中には、さまざまな個性を持った人たちがいて、それぞれ感性も、考え方もちがっている。それならその中に自分と気が合う人がいる一方で、合わない人もいるのは当たり前である。
 すべての人たちと仲良くするのが理想ではあるけれども、どうしても合わない人は敬して遠ざけるしかない。
 
また、自己中の自己正当化です。相性が合わないと発言の責任はないのでしょうか、違います。相性と責任問題は、全く別のことです。楽山のような嘘つきには、精神衛生上、関わるだけで、否定も肯定もない無責任ワールドの餌食となります。
 
 
*石橋を叩いて渡る
このように、自分自身を客観的に見て、平均率を見て、さらに、「細分化の原理」等を通して、「キャパオーバーでアウトになること」をできるだけ避けていくことが大事だろうと思います。
(同上、p.131)
 」
これはその通りだと思う。適度なストレスは必要かもしれないが、過度のストレスは避けた方がいいし、時には新たな挑戦をすることも大切だろうけれども、無謀な賭けは止めておいた方がいい。
 
楽山は、自分のストレスだけを避けようとします。ストレスを避けたいなら、何も書かないことです。言論は、双方が責任を負いながら進めることです。自分だけ、詭弁や嘘や論理遊びの迷路で遊んで、人にストレスを与えて笑っていられるのは、サディストです。
 
 
*学問
特に、あの世で長い間、地獄界とか裏側とかにいる人には、はっきりと勉強していない人も多いので、教学を続けている態度が、彼らの言葉や惑わかしを、ある程度避けることにもなるのです。
(同上、p.145)
 」
あやまちを防ぐには、人はいかに生きるべきかという意味での学問があった方がいいのはその通りだ。
学問があれば絶対に大丈夫だというわけではないが、ないよりは、あった方がずっと良い。
 
いかに生きるべきかは、学問だけの問題ではありません。そういう意味で、楽山が、キリスト教を、あまりにも幼稚な偏見で否定することを批判してきました。学問は、あった方が良い、という問題ではありません。言論に必須の条件である責任感と反省力を、楽山は、全く学んでいません。
 
 
*唖然
ここからは、賛同できなかった部分について書く。
まず私は、この発言はあまりに酷いと感じないわけにはいかなかった。
残念ながら、アッラーの神は向こうで応えたまわないのです。もう少し、“東”のほうに向かって呼んでいただければ光を送れるのですが、天上に向かって拝んでいるので、残念ながら聞こえていないことも多いのです。
(p.291)
 」
 これはつまり、至高神エル・カンターレである自分に向かって祈れということだろうか。冗談か、本気かわからないが、真面目に祈っている人たちに向かって、こんなことは言うべきではないだろう。
 
超常世界の解説と、超常マニアの楽山の批判です。おおよそ、常識からは乖離していて、読んで理解するのは不可能でしょう。なお、楽山は、真面目に祈ることなど、一度もしたことはないと思います。祈る人であれば、今までの、厚顔無恥は無かったはずだからです。
 
 
*神罰?
「これらが、なぜ同時に起きるのか」ということについては、今は内緒です。ただ、まったくの内緒でもなく、少しぐらいは分かるかもしれません。「エル・カンターレが下生しているのに、人類はたるんでいる!」という意味での自然現象も起きているかもしれないのです。
(同上、pp.302-303)
 」
これはさまざまな自然災害の例を上げたあとの発言だが、まるでそれらの自然災害は、エル・カンターレである自分を信じない人々に対する神罰であると言いたげである。
前々から疑問だが、神様が「自分を信じない者は懲らしめる」というのは、神様が奪う愛をしているということであり、これはHSの愛の教えからすれば大きな矛盾になるのではないだろうか。
 
奪うというなら、神は、必ず、人間の命を奪うわけです。それが、肉体の死です。しかし、老化の果てに、まだ、さらに永遠に生きるなら、そのほうが、想像を絶する悲劇でもあります。神の凝らしめは、楽山においては、すでに起きていることでしょう。楽山が、罪も罰も、不感不応なだけです。
 
 
*礼儀
高級霊が来る場合でも、今はわりと普通に話をしているように見えていると思いますが、私が霊道を開いた最初のころは、もう少し畏れ多く、「遠い高い世界から来るものだ」と思い、「こちらも人間として、高級霊を敬わなければいけない」といった気持ちもありました。ところが、悟りの内容が、こちらのほうがだんだん高くなってくると、逆転してくるような感じがはっきりと出てきたので、これも相対的なものにしかすぎないのではないかという気はしています。
(同上、pp.26-27)
 」
この発言の背後には、他者との関係を霊格の上下で判断し、上の者は下の者に礼を尽くさなくて良いという発想が見て取れる。
また高級霊と立場が逆転してきたというのは、悟りが高くなったからというより、悟りが落ちて傲慢になったというだけのことだろう。
私は、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という考え方に共感するので、より謙虚になり、相手を尊敬するようになるのでなくては、悟りが高まっているとは思わない。
 
楽山は、上下や、高い低いで、人間も神も判断しているようです。人間は、神より、明らかに低い存在であるのが、信仰です。そして、楽山の「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に、いちばん反しているのが、楽山その人であります。またしてもブーメランです。
 
 
*イエス・キリスト
世界に二十億人もの信者がいるといわれているキリスト教のイエス・キリストでさえ、幸福の科学のなかでは、一人の指導霊にしかすぎません。その現実を知ったときに、「幸福の科学という宗教が、どれほど大きな力を背後に秘めているか」ということを、どうか知っていただきたいと思います。 
(同上、pp297-298)
 」
イエス・キリストは神のひとり子ではなく、たくさんいる指導霊のうちの一人にすぎないと…。
私は自分の傲慢さを反省することがあるけれども、総裁を見てると、そんな自分がすごく謙虚に思えてくる。というより、総裁を基準としてみるなら、世の中には傲慢な人は一人もいないことになるのではないかと思う。
 
また、楽山は、嘘を吐いています。楽山は、決して謙虚ではありません。傲慢を反省することもないと思います。楽山は、特別に傲慢であり、不遜であり、他者を滅ぼす異常者です。このような嘘吐きは、早く滅びたほうがよいと思いますし、何かのリーダーになることなど、決してあってはならないことです。
 
 
*一番?
日本のなかでは、「戦後において最大に発展した宗教」として記憶されるでしょうけれども、まだ、それ以上のものではありません。しかし、やはり、世界的に知られる必要があるのです。
(同上、p.331)
 」
総裁は、幸福実現党の選挙結果を知らないのだろうか。それとも忘れてしまったのだろうか。
幸福実現党の選挙結果をみれば、HSは「戦後において最大に発展した宗教」とは言えないだろうと思う。
 
楽山は、このように、他者のことを、批判というより悪口で、貶めることはしても、他者に良い影響を与えることは決してありません。この3年以上のブログの言動が、楽山の言を否定します。またブーメランです。楽山が他者を批判することは、楽山が自分の言に殴られることです。
 
 
*金縛り
幽霊は横回転に弱いようです。金縛り状態では、縦には起き上がれないので体が動きませんけれども、幽霊は、横に回転する動きを止める方法をあまり知らないような感じがします。
(同上、p.49)
 」
総裁は横回転で金縛りを解いた経験から、この結論を得たそうだが、これは幽霊がどうこうとうより、横臥している人は、縦に起き上がるより、横に寝返りを打つ方が簡単だということではないだろうか。
また至高神エル・カンターレの本体であり、偉大な霊能者である総裁が、金縛りにあうというのはおかしな話である。
 
楽山は、幽霊話を引用していますが、楽山を、金縛りにするのは、恐らく、楽山自身だろうと思っています。病識のない精神障害は、放置すれば、患者を破壊してゆきます。楽山は自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)によって、思い上がり、ゆえに、破壊されてゆくのです。
 
 
*脱毛症
ある女性に妬まれて、髪の毛が抜けて、丸ハゲがいくつもできた女性に、来ている生霊を特定し、「生霊退散」を私が命じると、一、二カ月で、髪がボウボウと生えてくるのである。
(同上、p.336)
 」
生霊退散を命じてすぐに髪の毛が生えたというなら奇跡かもしれないが、症状改善に一、二カ月かかったというのは、病院での治療効果が現れるのにそれだけの時間がかかったというだけのことに思える。
また結界に守られ、総裁の傍にいる女性が生霊の被害にあったというなら、これもまたおかしな話だ。
 
こういう奇跡話に、楽山が、その期間がどうとか言って否定してゆくという判断は、すっかり超常現象が分かる、判断できるという安易な自覚になり、魔界の審判員にでもなった自覚なのだろうと思います。超常現象を語って、超常の霊能者気取りに陥っているのもブーメランでしょう。
 
 
*昇進試験?
 また、「天使系」の方だと、あの世でも何段階かの試験を受け、イニシエーション(秘儀)を受けないと、上に上がっていけないことが多いのです。
(同上、p.74)
 」
天使が試験を受けるというのは、まるで漫画のような話であるが、HS的には漫画が現実の天上界の仕組みを写したということになるのだろうか。
総裁は、まえがきで「本書では、不思議なエピソードや体験が満ちあふれている」と書いているが、自分にはそこに神秘性よりも、どうしても漫画っぽさを感じてしまうのである。この意味で、HSは宗教というより、スピリチュアルエンターテイメントであり、サブカルだといった方がいいのではないかと思う。
 
魔法のような神霊の秘儀を受けると言うのは、キリスト教にはありません。秘蹟と言われているのは、神の秘密であって、神の為さることを、人は解説など出来ないという身の程を弁えるべきです。このように、カルトを、カルトが、批判しているというのは、どこまでも成り立つことはないのです。
 
楽山は、サブカルチャーにもなりません。楽山の無神教カルトは、エンタにはなりません。害を及ぼすだけです。楽山のようになったら、おしまいです。関わっている人は、直ちに離れてください。病識のない楽山に対しては、批判者以外、関わらず、逃げることだけが必要です。
 
サイコパスに対しては、治療薬はありません。言動の範囲を最小限に限定してゆくしかありません。それよりも、サイコパスの影響を受けないように、情報を拡散することが必要になるでしょう。緊急避難信号が必要かもしれません。人格が有害なら、その人格の影響を少なくするしかないのです。
 
 
 
 『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤著
 2022年10月29日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
楽山は、しばしば、自分とは逆のことを勧めたり、そういうことが書いてある本を引用したりします。自分を悪から除外するための保身の悪知恵なんでしょう。醜い限りです。
 
 
*概略
「はじめに」によると、本書は、名言集としてまとめられ、好評を得た小冊子『天籟の妙音』に新たな内容を加えたものであるという。
目次を見ると、安岡正篤の言葉は、以下のテーマ別に整理されている。自己修養、人生の知恵、日々の心得、「人望」という財産、成功する人、心と体の養生、人間の品格、学び続ける人生…と。
 
3年以上見てきて、楽山は、自己修養をする気がなく、知恵がなく、心得もなく、人望は陰謀であり、騙しており、成功もしてはおらず、養生を乱すだけで、品格も学習も阻害するだけの、異常人格です。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の害を被らないようにする必要があります。
 
 
*熏習
名言集であれば気が向いた時にでも、つまみ読みしたらいいだろうという軽い気分でいたのだが、本書を開いてみると、膝を打ちたくなったり、思わす背筋を伸ばしたくなるような言葉が並んでいた。
心に書き写したいと感じた言葉のいくつかを、ここにメモしておきたい。
我々は、何のために学ぶのか。何のためでもない。学ばなければならないから学ぶのだ。学ばずにはいられないから学ぶのだ。学問の第一義は、道心の長養でなければならぬ、道徳の発揮でなければならぬ。
(『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤著、三笠書房、2007年、p.202)
 」
我々は学んで初めてその足らざるを知り、教えて初めて到らざるを知る。そこで自ら反り、強めるのだ。
(同上、p.196)
 」
中国の最も突きつめた哲学では、人間の意識の内にあるようでは駄目で、いわゆる無意識、無でなければならん。人にほめられるようではまだまだ駄目で、人が気付かないくらい偉くならなければいかん。こういうのが理想なのだ。
(同上、p.165)
 」
何でもこつこつ根気よく努力を続けてゆくと、たとえ愚でも、それはそれなりに味が出てくるもので、俄造りはどんなに器用に見えても、必ず駄目になるものだ。
(同上、p.25)
 」
自分にとって、本書の言葉は自らの至らなさを思い知らせつつも、もっと頑張ろうという前向きな気持ちにさせてくれる本である。これなら多くの人々が本書の刊行を希望したというのも納得である。
 
反省と学習の必要を説いている本のようです。「人が気付かないくらい偉くならなければいかん」というのは、目立とうとして自己主張するのではなく、目立たない努力が必要だということでしょう。勉強も学習も反省も努力もせずに、自己主張だけしてくる楽山は、この本に対する最悪の例であります。
 
 
散乱する我欲

散乱する我欲
 
 
(2022年11月05日)
 
 
 
  郷愁
 
椅子にうたた寝しながら
誰かの呼び声を聞いた
低く小さい声
やさしげな声だった
 
果てしなく続く
原野を旅していた
暖かいのに
太陽はどこにも見えなかった
空は青くもなく
雲があるわけでもなかった
起伏に富んだ
果てしない原野
誰の心の中だろう
 
金網の向こうに山が見えた
濃い緑に包まれた山々が
どこまでも続く金網は国境である
警備している兵隊はいない
金網をつかんで
もたれていると
人の形をした黒い影のようになった
なったのが見える
それでいてどこか眠たく
金網の
一体どちらが祖国であったかなどと考えていた
 
海辺の岩に腰掛けていた
何故か苛立つ心を抑えきれない
もっと冷たく激しい風を欲して
でも白波のない海に
遠く釣り舟が一そう
よく見えないのに知っているような気がして
 
それが思い出というものだ
呼びながら届かない
呼ばれながら行くすべもない
海鳴りよりも遠く
やがて眠りを誘うだろう
見つからない故郷(ふるさと)のように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、また雑な投稿を多数アップする衝動に駆られているようです。その分、中身は、単純に安っぽく空っぽになってゆきます。自分で考えなくなってゆく症状なのでしょう。整理して書くことが出来なくなってゆきます。言葉も乱れるでしょう。視野は狭小となり、考えもまとまらなくなるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の詭弁と正当化2-2
 
 『実践 快老生活』渡部昇一著
 2020年06月28日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
過去記事ですが、楽山は、露骨に嘘を吐いてきます。しかも、著名人の名を借りる不遜もあらわになって、本当に、醜いさまが、バレバレになってきました。
 
 
*渡部節
佐藤優の対談本『読む力』で、渡部昇一が高評価されていたので、ひさしぶりに氏の本を読みたくなり、前々から読もうと思いつつも読めないでいた『実践 快老生活』を通読してみた。相変わらずの渡部節であり、超ど級の率直さがおもしろい。
たとえば今の時代は、孫子を持つ幸せだとか、結婚相手を選ぶ際に遺伝について考慮すべきということは、声を大にしては言い難いところがあるが、著者はそれをあけすけに語っている。こういうことができるのは著者の他には、石原慎太郎くらいしかいないのではなかろうか。
 
あけすけに言うのと、嘘を吐き、詭弁を弄し、有名人の名を利用して飾り、理路も情緒もお構いなく書くのは、全く違うんだな・・ということを、楽山を通して実感します。著名人さえも、上から見下ろして楽山が批評しているようなのは、平気なんでしょうか、醜い老人への予約済みのような楽山です。
 
 
*穏当な意見
とはいえ本書にはそれほど波風はたたないだろう穏当な話も多く語られている。健康のためには精神面だけでなく、栄養など唯物論的な見地からも注意すべきだとか、年をとっても詩歌などを暗唱して記憶力を磨くことができるだとか、一般の健康論をそのまま実行すればよいというわけでなく、自分の体調によって調整することが大切だとか、大方の人がなるほどと思える話もある。
 
通念的な理想の老後の話ですが、楽山は、精神面が壊れ、栄養を語って唯物論と言い、栄養が必要な人間を語れず、人間の心を語れません。楽山が、「なるほどと思える話」を信用しないでください。「体調によって調整」などは当たり前で、さらに、誘導の詭弁と嘘が入ってくるからです。
 
人間として、気に入らないことをことごとく無視している楽山の記憶は嘘以外何もないのことを学習します。そして、自分の体調だけでなく、心の調整が狂っているために、大方の人を詭弁で陥れることだけに専念しているようです。良さそうに見えることを書いてだますのが楽山です。
 
 
論語の「七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」という言葉についての解釈もおもしろい。これは悟りの境地というよりも、加齢によって心身が衰えてくると、「矩をこえようと思っても、もうこえられない」(p.18)というものであり、孔子はそのことを、率直、正直に語ったのだろうという。たしかに怪力乱神を語らずという立場からすると、これは精神的神秘的な境地のことではなく、著者の言う通りのようでもある。
 
(ネットより)
どんなに立派な人でも、自分の行動を完全にコントロールできるようになるのは、七〇歳くらいになってからだ、ということ。
「七十にして己の欲する所に従えども矩のりを踰こえず(七〇歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準をはずれるようなことがない)」で終わっています。
このことばから、七〇歳のことを「従心」と呼ぶようになりました。
コトバンク七十にして矩を踰えず
 
楽山は、恐らくもう長い間、少なくとも一年余り、いかなる批判も無視して、自身の欲するところのみに従って、非常識なことばかり言ってきたのです。矩(のり)や法や徳は、楽山の欲せざるところなのでしょう。平気で超えてゆく、さらに踏みつけてゆく準備なのでしょうか。あとが怖い楽山です。
 
ゆえに、楽山にとって大事なことは、自分でブレーキをかけられないのなら、もはや、一日も早く、楽山ではなく常識人のの欲せざるところの記事を何も書けなくすることだけのようでもあります。つまり、楽山の文章から、嘘、詭弁、自己顕示欲、などを、あぶり出すことです。
 
しかし、そこにおいて、自由と勝手を、正直と恣意を、ありのままと欲のままを、すっかり混同した楽山が、人間の良心を捨てて、あるいは、良心に捨てられて、石を投げながら暴走し続けているのです。いい歳をして、大人げなく、へへん!、このやろう!、くらいは言っていそうです。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず(かいりょくらんしんをかたらず):
怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
 
楽山は、道に背いたことだけを、理性で説明がつかないようなことだけを、知ったかぶりで語ってきました。この安っぽさで、さらに、怪しげな、霊が分かるっぽい話や、不確かな、どっちつかずの、ボンヤリ言語の詭弁を弄してきたのです。
 
そうして、今回も、楽山の記事が、だまそうという意図でありながら、逆に、楽山を斬っている有り様です。楽山は、むしろ、君側の奸(くんそくのかん)のような体質であり、欲のために、丁寧語のアドバイスに見せかけて、他者を操り、虚偽と疲労へ誘導することを楽しみとする者です。
 
 
*知的正直
正直といえば、著者は知的正直について、「自分がおもしろいかどうかを一つの絶対的基準として読書を愛好してきた」(p.57)と語っている。これは漱石の「私の個人主義」における自己本位に通じる考え方であろうし、自分も大いに影響を受けた考え方だ。
 
正直ということに、知性が必要でしょうか。無視しない正直さだけがあればよいのに、楽山は、他者無視と、我欲の利己主義により、自己中だけを通して、大いに悪と偽善をまき散らしているのです。
 
楽山は、個人主義を、我欲の恣意と、混同しています。
 
 
読書に限らず、ものごと全般について正直な感想を述べると、傲慢だとか、生意気だとか言われて責められることもあるが、他人の機嫌をとるために自分の感想を偽ったところで仕方がないし、自分は自分という独立心を持ち、権威に盲従することなく、正直な思いを忘れないのは本当に大切なことだと思う。
 
 
楽山の、自己正当化のために、独立心を、我欲・我執の自己中と混同する詭弁です。我執により我欲だけで言動している者は、傲慢になります。他人の機嫌を取るのではなく、他人の意見を無視しているのが楽山です。楽山の「自分は自分」というのは、人に迷惑をかけて平気ということです。
 
自分は自分という独立心は、正直で率直に物が言える人物に見られるもので、おぞましいことに、楽山は、独立心ではなく他者を無視して妄想的唯我独尊に生きていて、自ら権威者のごとく傲慢であり、嘘ばかりついて、詭弁ばかり弄して、正直の欠片もないのに、それを「正直な思い」と言っています。
 
 
*簡単に天国に行ける宗教
著者は宗教についても随分正直なようで、「宗教として信じるのなら、私はどちらかといえば簡単に天国に行けるものを信仰したい」(p.227)と語っている。これはあまりに正直すぎて笑ってしまうけれども、実際、真理とはシンプルなものだろうとは思う。
 
楽山の言う、簡単に天国に行ける宗教は、楽山のように、都合の悪いことを、ことごとく他人のせいにして、どんなに卑怯なことをしても、ヘラヘラ笑ってゆけるような天獄であり、楽山の妄想の中にしか存在しないところなのです。そこで、砂を飲み、石を食うのでしょう。
 
今度は、シンプルな信仰を、何をやらかしても天国に行ける身勝手と、混同しています。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)のために、あらゆる思考と言葉の軸が狂ってしまっている楽山を相手にしてはいけません。
 
 
たとえば、三木野吉は真理については単純、明快、矛盾なしなものだと定義づけているし、晩年の釈迦は教団の内外の区別なしに法を説き、握り拳の中には何も隠していないと語ったという。丹波哲郎はスピリチュアルな教えを、「あかるく、すなおに、あたたかく」という、この上なくシンプルな教えにまとめているし、『近思録』には道というものは細く険しいものではなく、沢山の人が通ることができる大道だとしていたかと思う。
 
楽山の思考は、隠し事で出来ていると言っても過言ではありません。単純明快に暴露されてしまう詭弁、矛盾だらけで、いったいどうやって、スピリチュアルを語れるというのでしょう。凶悪な楽山は、今も、白々しい嘘をを吐いています。それで、言いえたと思う病質者なのです。
 
陰気臭くて、素直さ皆無の根性で、とても冷淡で、温もりも潤いもない人、それが楽山です。だから、安易な道ばかり、求めては、裏切ってきたのでしょう。本当に底の浅い軽薄な、だますことだけで長らえている人のようです。
 
「あかるく、すなおに、あたたかく」というのを、何事もなかったかのようにヘラヘラ笑って、我欲だけに素直に、平気で悪意だけを熱して生きることと、混同する楽山の、自己愛性人格障害の自己正当化です。楽山の真理は、どこまでも、楽山だけに都合のよい、実は、自他の地獄につながっています。
 
 
こうしてみると、まっとうな宗教は救いについて複雑な条件をつけたり、凡人には分からない神秘について語ったりはしないだろうし、著者の宗教選びの基準はそうまちがっていないように思える。
 
真っ当な宗教は、伝道者に、楽山のような、霊が分かるっぽい自覚?や、超常の知識なるもの?によって宗教を論じるなどということを要求することはありませんし、ふつうの感受性があればよいのです。また、自己顕示欲だけの者には、宗教も神も縁がありません。
 
また、神秘は神のものであります。人は人の節操を考えるべきです。ましてや、神を信じ仰ぐことは、神に対して、自身の下等な屁理屈を当てはめて、机上でもてあそぶような楽山には、これまた、全く縁のないものです。楽山は、神秘どころではなく、シンプルな人間性さえも分かっていないのです。
 
 
ちなみに著者の弁によれば、カトリックの救いは次のようなものらしい。「カトリックの場合は、ごく単純化していってしまえば、終油の秘跡(サクラメント)を受けていれば地獄には絶対に行かないという教えである。だから私は、自分が死んだあとには確実に天国に行くと信じている」(p.228)。こういうシンプルな信仰を持てる著者は幸せだと思う。
 
このような儀式だけで天国に行けるという信仰は、反宗教の自尊過大の楽山にとって、垂涎の的であり、また同時に、悪意ある揶揄の的でもあります。つまり、シンプルを、安易と、履き違える深みのない楽山のような者は、救いなど、決して本気で求めてなどいないことが分かってくるのです。
 
 
*勇気と正直
本書を読んで改めて思ったことだが、批判をおそれず、真実と信じることを語るという渡部昇一の勇気ある正直さは本当に尊敬する。
 
批判を受け取らず、不都合な意見を全部無視して、嘘を吐き、詭弁を弄しているのが、楽山です。このように、楽山は、自己正当化のために好都合な字面を、本を漁っては書いてきますが、いちいち、的を外して、だんだん、失敗して滑りまくっているピエロとなってゆくのです。
 
涙の代わりに、見境もなく、弁えもなく、言葉を失禁して、迷惑なだけの楽山であります。
 
批判を恐れないことと、批判を無視することを混同し、著者に、見当違いの賛同をしています。
 
このように、楽山の理路は、ことごとく嘘っぱちであり、ボロボロなのです。これらの、多くの混同は、自己正当化の詭弁であり、恐らく、楽山の体質か作為であろうと思われます。このことが分かっている人によって、楽山が一日も早く追放されることを願ってやみません。
 
 
渡部昇一の本のおもしろさは、その知識と発想にあると思っていたけれども、それは表面的なことにすぎず、その底流にある勇気と正直さこそがその主因なのだろう。渡部昇一のおもしろさは、勇気ある正直さによって支えられている。
 
楽山の記事の低劣さは、その知識不足の貧相さにあるだけでなく、中身が表面的であり、底流にある怒気と欺瞞こそが、その悪意の主因となっていることでしょう。楽山の卑怯さは、これからも続きそうな、臆病者の不正直な言い逃れによって続いているだけの、見るも無残な詐欺の路地裏であります。
 
 
この見立てが当たりか外れかは分からないが、本書を読んで自分はそのように思った次第である。自分は生まれつき根がどこまでも臆病にできているし、渡部昇一とは考えが異なるところもあるが、この勇気と正直さは見習いたいと思う。
 
当たりか外れか分からないでも書いてくる楽山です。そして、反省しないのです。
 
いつの見立ても的を外れていて、何を読んでも自己正当化しか考えない楽山であります。楽山は、生まれ育ちが原因なのか、臆病どころか、厚顔無恥であり、今まで一貫して、勇気と正直さに真っ向から背いてきたのです。
 
楽山は、どういうわけか、勇気と正直さの代わりに、怒気と嘘を覚えたようです。よく読めば、いつも、その悪意を湛(たた)えているのが、楽山ブログ&ツイッターだと分かるでしょう。また、妄想的に勘違いして、正直を見習いたいと言っているのは、もはや恐怖としか言いようがありません。
 
しかしながら、今回のように、自己正当化が見え見えのようになってきたのは、人格破壊が進んで、ネズミのようなドコモだましの子供だましの嘘吐きチェーンメッセージの根性を、隠しようもなくなってきたのかもしれません。楽山の、ビーズを切れやすい糸に通しただけの危険な辻褄が醜いです。
 
楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、悪用が白々しくなって、自己満悦だけになるでしょう。言葉を、ことごとく勘違い、または、わざと曲げて、言い逃れたつもりでも、もはや、内容がありません。殆ど自滅を暴露しています。
 
こういう者が、実際、世の中にいるのです。カルトには、特に多いと思います。シャロームもそうだったように、決して、珍しくはないのです。口先だけの良い言葉を、良い意味にだけ受け取る社交を大事に思っている人は、簡単に、だまされてしまうでしょう。
 
楽山の卑怯さや詭弁や嘘が、どんどん、分かりやすく表れるようになっています。他者の人格を疲労させて破壊する者は、ついには、自分の人格を破壊してゆくのです。どうか、楽山には、決して、関わらず、近づかないようにしてください。パニック状態になれば、何をするか分かりません。
 
 
 
 『国家の品格』藤原正彦著
 2021年10月20日 楽山日記(LD)
 
 
新しい記事です。どういう品格を書こうとしたのかさえ分からない文章です。人間としての品格を欠いている楽山らしい投げやりな筆致となっています。
 
 
これは大分前に評判になった本だけども、先日ようやく通読することができた。
その内容は、戦後ながらく正義とされてきた民主主義、自由、平等、論理といったものを批判しつつ、日本的な情緒、美、武士道などを再評価しようというものであり、保守よりの自分としては気分よく読めた。
 
「民主主義、自由、平等」は、何らかの主張を含んでいますが、「論理」を並列する意味が分かりません。そして、批判するのだそうです。楽山が「日本的な情緒、美、武士道」を再評価するというのは、ネトウヨらしいのかもしれませんが、楽山は、保守ではなく、思想家でもなく、破綻者です。
 
 
こういう日本人論はいくつか読んでいるが、数学者が論理の限界を語り、情緒の大切さを訴えるというのは意外でもあり、説得力がある。岡潔の場合はあまりに独自性が強く、この世離れしすぎているようでついて行けないことが多いが本書なら自分にも理解できる。
 
楽山は、数学や論理を理解しているとは思えませんし、情緒の大切さについては、何のセンスも持っていないと思います。その上で、「説得力がある」などという判定をするのは、自己愛性人格障害らしい傲慢か作為を表しているだけでしょう。
 
思想、特に、宗教と信仰には、人間的な視野と共感性は必須と言ってよいでしょう。この世離れして、霊能者気取りで、非常識な楽山が書いていますが、この記事の短い文章で、何を表し得たと思うのでしょう。「理解できる」という、その理解を、何も書いていないのです。
 
 
また本書は、文章が非常に整理されていて読みやすくなっているのも印象的である。これほど整理整頓が行き届いた文章は珍しいのではないだろうか。本書が多くの人々に読まれたのは、その内容だけではなく、文章がよかったためでもあるにちがいない。
 
理路も感性も整理されていない楽山に読みやすい本とは、絵本ではあるまいし、「整理整頓が行き届いた」と書いて、何を伝えたつもりになっているのでしょう。そして、「文章がよかった」と書いています。この舌足らずのまま、褒めまくりでアップしてくるところに、無恥の病質が表れています。
 
不明が多すぎて、文章としては短かすぎて、感想にならず、また、見出しとしては長すぎて、真理めいたことを書こうとして、何も書けない楽山です。楽山は、ちょっと書いて様子をみて、続きを書くつもりでしょうか。いくら書いても、いっしょです。楽山の孤独で、焦点もなく行方不明の思想と宗教です。
 
楽山のような、これくらい書いておけばええじゃろ・・という算段で、ちょうどよい文章を適当に書いたつもりで、他者を、褒めそやす言葉だけで、はぐらかして生きてゆく者は、結局、賛同者からも対立者からも、最も嫌悪される存在となってゆく定めなのです。
 
「気分よく読めた」「理解できる」「文章が非常に整理されていて読みやすく」「整理整頓が行き届いた文章は珍しい」「文章がよかった」・・このような、中身のない褒め言葉が、楽山の読書と感想なのです。中身を、全く表現できない稚拙な評論家気取りに惑わされないでください。
 
 
ウソッピ物語の流す血と涙

ウソッピ物語の流す血と涙
 
 
(2020年)
(2021年11月02日、再録+加筆)
 
 
 
  創造
 
今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している
 
ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する
 
存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
楽山がブログに載せたまま、ずっと無視しているコメントです。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の無責任正当化
 
 『「原因」と「結果」の法則』
 ジェームズ・アレン著、坂本貢一訳
  2022年10月24日
   を批判。
 
楽山の、言い逃れです。嘘を吐き、詭弁を弄して他者を誘導し混乱させる悪行体質を、何やかやと、有識者の本を漁っては引用して書いても、何一つ信頼できる記事ではなく、かえって、恐らく今までも、まともな意見を発したことは一度もないのだろうという判断の根拠となってゆきます。
 
 
*概要
巷には「心が環境を決定する」という考え方もあれば、その反対に「環境が心を決定する」という考え方もある。どちらを支持するかは人それぞれであろうが、本書は前者を強く支持する立場で書かれている。
 
「環境が心を決定する」という考え方で、自分の無責任を正当化したいのでしょうか。逆のことを、それらしく語って、まともに見せているのは、自己の言動の責任を、負いたくないからです。その表れは、何を狙っているかは、短い文章の後半に出てきます。
 
「環境が心を決定するという考え方」は、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の主張でしょう。環境が悪いんだ、おれは悪くない、と言いたいのでしょう。しかし、自己愛性の性質を、認めようともしないところに、いつも病質は表れてきます。
 
 
したがって、本書では次のような言葉が繰り返し語られている。「完璧に清らかな人間には、苦悩はけっして訪れません」(p.35)
 
「完璧に清らかな人間」は存在しません。これぐらいのことが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山には分からないのです。しつこく自己正当化の記事を書けば書くほど、楽山の病質が明らかになり、その底意地の悪さが目立ってきます。楽山には一片の清らかさもないと思います。
 
 
「私たちに苦悩をもたらす環境は、私たち自身の精神的混乱の結果です。私たちに喜びをもたらす環境は、私たち自身の精神的調和の結果です。喜びは正しい思いの結果であり、苦悩は誤った思いの結果なのです」(p.35)、「私達は、自分が望んでいるものではなく、自分と同種のものを引き寄せます」(p.26)。
 
楽山の病質がもたらすのは、他者の「精神的混乱」であります。楽山自身には「精神的調和」はありません。どこまで白を切るつもりでしょうか。楽山には、自分に対する調和がなく、正しい思いがなく、楽山の苦悩は、楽山の自業自得である、という経過なのです。楽山は、自分の責任を負わない男です。
 
 
*自己責任論
これは自身の心がすべてを決定するという考え方からすれば、当然の帰結ではあるが、圧倒的なほど頑健な自己責任論であるため、自分自身の戒めとしてならともかく、他人に向けられたならば相当に危険な凶器となり得るだろう。
 
楽山の責任逃れの詭弁です。自己責任は、自分の言動の責任を負う、という当たり前のことです。ゆえに、知性と感性があり、反省、場合によっては謝罪、そして、修正、といった、自分の意志による日常が可能になります。それが人間に与えられた自由なのです。
 
責任を負わない者には、自由意志も自由行動もありえないのです。自分勝手にしかならないからです。人間には、反省力と責任能力があります。楽山は、言いっぱなしで、しかも、誘導の作為があります。この記事も、責任逃れの自己正当化です。
 
 
個人的には人の能力では物事の因果関係を正確に知ることは難しいだろうと感じているので、心と環境はどちらがどちらを決定するとはそう簡単には断言できないとは思うが、人の一生には自己責任を強く意識すべき時もあるだろうから、そういう状況にある人にとっては本書を参考にしつつ生きようとするのは有意義なことであるかもしれない。本書を強く支持する人がいるのは、この辺りに理由があるのではないかと思う。<
 
「人の能力では物事の因果関係を正確に知ることは難しい」・・ここで、楽山は「完璧に清らかな人間」がいないことを自分で証明しています。実際、楽山の記事には「自己責任を強く意識すべき時」が表れてことがありません。楽山は、言動の責任を負わない自己中心の病質者です。関わらないでください。
 
どこまでも責任逃れをしてくる楽山です。そのたびに、楽山の、無反省、無責任、無神経、無理解、執拗な自己正当化、悪意、ペテンの詭弁、虚偽性、偽善性、精神の腐敗、荒廃、狡猾さ、訂正不能、感情鈍麻、頑迷、視野の狭窄が、顕著に表れてくるのです。
 
 
どこまでも責任逃れしてくる化け物

どこまでも責任逃れしてくる化け物
 
 
(2022年10月25日)
 
 
 
  影
 
人ではなく
影ではないのか
そこに黒く
うずくまっているお前
少しく動いてはいるが
影ゆえに何も語らず
眼もなく
何かを見ているとは思われぬ
ただ影も影として
考えていることはあるとみえて
ゆっくり立って
戸口へ向かっていく
性分なのだな私も
そいつのあとを追って
あわてて床をはっていったのだ
 
 
  ボールペンⅠ
 
引き抜かれた芯は
細い裸のまま
ふるえる指先のふるえを受けてふるえる
書けない責任を負わされて
インクの残りを見るための
視線にすーっと舐められてゆく
いきなり激しいめまい
天井と床の間で振られ
さらに荒々しい熱い風
悪臭にさらされる
このような移動と臭いは好まないと
断るすべもないままに
次は強い圧力で
押しつけられる紙の上で
嘔吐して刻まれた溝に流す
「まだ使えるな」と
その身が尽きるまで続くのだが
外筒におさめられ
改めて押される速さに
右に左に上に下に
圧力は無理矢理に片寄り
やはりふるえる指先の
ふるえを受けて
刻んだ直線を歪ませる
 
 
  いやなやつ
 
今だから言うけど
(今になったら責任はないのかね)
昔のことは言いたくないんだが
(まさに言おうとしているじゃないか)
あの時のことなんだ
(あの時が一体いくつあるんだい)
つまらない些細なことなんだが
(そのわりに忘れもせずによく覚えているんだね)
確かに悔いは残るかもしれない
(確かに、で何故、かもしれない、だ)
愚痴を言うわけじゃないけど
(言うわけじゃないけど言うわけだな)
いい意味で殺したかったですね
(・・・・)
 
 
  生まれた責任
 
産んでくれと頼んだ覚えはない
と誰を責める
今を嘆くのは勝手だが
自らの責任において泣け
産んでくれるな
と頼んだ覚えもないのだ
 
 
  運命の紙
 
運命は常に初め隠れており
やがて必ず顕(あらわ)れる運命にある
「隠れているもので
 明らかにならないものはない」
予(あらかじ)め定められた結果の連なり
として諦めるか
未決の前に立ちはだかる障壁
として抗うか
定め あるいは宿命
一本の紙巻き煙草を吸うにしても
瑣事(さじ)の酷なことよ
何の気なしに指が動くほどに
気晴らし・気分転換・暇潰し・・・
動脈硬化・虚血性心疾患・肺癌・・・
喫煙と禁煙
愛煙と嫌煙
権利と義務 自由と責任
ニコチンかタール
子宮から骨壺
すべて綯(な)い交ぜに
どれかを放棄し
どれかを選択し
「隠れているもので
 明らかにならないものはない」
巷にいる限り
骨牌のように
巡ってくる
紙を巻け
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、実に白々しい言い訳の詭弁を書き続けています。反省能力がないのも自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の症状でしょう。それは、悔い改めることのない、反省することのない、罪悪感のない、サイコパシーpsychopathy を、如実に表し続ける経過となっています。危険です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ