ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自己正当化

 
  楽山の独り芝居(1)2
 
 神についての対話 1
 2020年06月21日 楽山日記
 を改めて批判。
 
 
楽山が、もろに攻撃を仕掛けています。それも、仮想のコメントの遣り取りを捏造しての話です。ここで、楽山は、コメント者として、自分に好意的で、尊敬してくれるような人物を想定していますが、楽山自身でしょう。つまり楽山の独り芝居が、また、今回は対話形式で始まったということです。
 
異常者は、懲りるということがなく、どこまでも、真実から目を背けて、だましてくるのです。罪悪感も羞恥心もなく、ただ、攻撃意欲だけが働いています。人間にも悪魔性に囚われる者がいるという宿命でしょうか。批判に答えられない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
もし、これが、どこかで交わされたコメントの遣り取りであれば、組織がある、同調して無条件に褒めてくれる仲間がいる、ということの証拠になるでしょう。既に、だまされた人たちが、そばにいるのでしょうか。
 
芝居仕立ての、楽山の詭弁を見てゆきます。
 
*まえおき
 最近は、本の感想を書くことが多かったが、たまには趣向を変えて対話篇というかたちで書いてみたい。
*はじまり(若者と老人の対話)
若者 「こんにちは」
老人 「こんにちは。ひさしぶりだね」
若者 「はい。先日はブログを読ませていただきました。おもしろかったです」
老人 「ありがとう」
若者 「でも申し訳ありませんが、正直な感想をいうと、どうしても同意しかねるというか、疑問に思えるところがありました。もっともこれは、僕の誤読のせいかもしれませんが…」 
老人 「なるほど(微笑)」
若者 「あれ? お怒りにならないんですか?」
老人 「そうだね。人はそれぞれ違った意見を持っているのが当たり前なのだから、私の意見に同意しないからといって別に腹を立てることはないさ」
若者 「そういうものですか」
老人 「そうだよ。それに巷には、相手の意見を誤解したまま、正確に理解しようともせず、ああだこうだ言う人は少なくないし、ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。それからしたら、きみのように、あれこれ言う前に、自分の誤読の可能性を考えたりして慎重な態度をみせてくれるのは、とてもありがたいことだ」
 
ここの最後の老人の言葉に、楽山の言い分が書いてあります。楽山は「ひどいのになると相手の意見を聞くより先に、『あいつの言うことはなんでも否定してやれ!』と前もって決め込んでいる輩もいる。」というのは、私に当てつけています。
 
極めて初歩的な、人間なら分かるはずの誤解も、自己愛絶対のために曲解して、中身云々よりも的外れの自説を言い続けてきたのは、楽山その人であります。
 
それと、当たり前のことですが、私は、前もって決め込んだりはしません。この記事もそうですが、私は、楽山の記事に反応して、そのたびに病的な作為だと感じて、批判記事を書いています。
 
自分の誤読の可能性を、全く考えず、にもかかわらず、批判に、反論も弁明も出来ないのは、楽山です。このような、意地の悪い当てつけだけを向けてきます。
 
お仲間以外、誰も褒めてくれないから、自分で自分を褒める訪問者の芝居をしているのでしょう。殆ど児戯に等しい楽山の学芸会なのです。
 
ここまで崩れるほどに、高慢を守ろうとするカルト的思想の思い込みは、人間を、そして自身をも、破壊してゆきます。
 
*神のことは分からない
若者 「そう言って頂けると、とても話がしやすくなります。ありがとうございます」
老人 「どういたしまして。それで疑問に思ったところというのは、どの部分についてなんだい」
若者 「神についてです。あなたは神についていろいろ書かれていますが、僕にはどうもあなたの真意がどの辺りにあるのかが分からないのです。あなたは一体、神とは何だと考えているのですか」
老人 「……」
若者 「どうしました?」
老人 「どうって質問にこたえたんだよ」
若者 「こたえた? 口を閉じたまま、何も話さなかったじゃないですか」
老人 「私は、神とは不可知であると思っているんだ。人には神のことは分からないとね。だから私には、神とは何かと問われれば、沈黙でこたえる以外にはこたえようがないんだ」
 
楽山の意図は、反キリストであり、神とは何かについて答えがないから、信ずるに値しないという言い分のようです。楽山のような自己愛だけの偽善者に、神の御心など部分的にも触れることはないでしょう。信仰を求める心ではなく、我欲が中心だからです。
 
神の沈黙は、神が、いちいち、ここはこうしなさいと教えてくれるわけではないという意味です。当たり前です。しかしながら、聖書から、人に比べて、創造主である神の大いなること、救い主キリストの共感性と愛に触れている人が信仰者になっています。
 
神は、不可知であり、基本的に、沈黙の神であることは、人間が、神に対して思い上がらないために必要であり、そういう神でなければ、人を救うことは出来ないだろうくらいは、推測するわけです。全知全能・絶対完全・永遠不変を、人は、知っているとは言えない、ということです。
 
しかしながら、楽山は、私が言ったことさえ利用して、分からないなら信じられないと、ここで、自己中心を正当化を書いています。今まで、キリスト信仰を、好きなようにおとしめてきて、こういうことを書くのは、楽山の底意地の悪い狡猾さを表すだけで、真に受けることなど出来ません。
 
実際、反省も、修正も、したことはなく、正しいだろ、と見せびらかしている自己顕示欲の臭さだけが漂ってくるのです。楽山に、謙虚な姿勢などありません。
 
謙虚な人であれば、もうとっくに、それまで書いてきたことを否定して反省の言を表しているはずだからです。楽山は、物事の必然というものが全く分かっていないために、そらとぼけて書いて、これで良し、と思ってしまうのでしょう。
 
独り芝居の独り納得、という、真実とは真逆のもの、楽山が何か書くたびに、それだけが明らかになってきたのです。これからも同じだろうと思います。決して近づいてはいけない人です。
 
*神について語ろうとするとき
若者 「なるほど。神とは人知では知り得ないと考えているんですね。でもそのわりには、神についてたくさん書いているようですが…」
老人 「よく読んでもらえれば分かってもらえるだろうけれど、私が神について意見を言おうとするときは、大概は、一つの仮定として書いているつもりだ。『もし神が超越的な存在であるなら××だろう』とか、『もし神が全知全能であれば〇〇であろう』という風にね。または『◇◇教では神は△△としているが、これから考えるなら~だろう』とかね」
 
楽山の自己正当化は成り立ちません。条件をあげ、それに合わないからと神を否定してきたのが、楽山ですが、そのような理屈で、神を規定することは出来ません。さらに、その条件は、実に、楽山の欲望を満たす幼稚なものでしかなかったのです。
 
キリスト者は、いかなる字面の矛盾も疑問も、キリストに与えられた癒やしを否定できないことを知っています。楽山は、恐らく、愛も共感も経験していないと思います。だから楽山が執着するのは、超常的な "霊" そして幼稚な小理屈の字面に過ぎないのです。信仰とは何の関係もありません。
 
つまり、とても、低次元で、神を対象として、神と取引をしている態度なのです。このことは、前にも書きましたが、楽山は、不都合を、ことごとく無視して、徒労と疲労だけを与えてきます。
 
ゆえに、悪だくみの知恵だけで、話を進めてくる楽山には、誰も近づいてはいけないと言ってきました。今回も、そのような、詭弁だらけの、反キリストが、醜さを全開にして、あがいているに過ぎません。
 
若者 「そう言われてみればそうですね。他にはありますか」
老人 「『自分には神とは××と感じられる』という言い方をすることはあるね。いわば先の語り方は神について理性的に語ろうという試みだが、こちらは感覚的に語ろうという試みと言える。後者については人はそれぞれ感性は異なるものだから、私とは異なる感性の持ち主であれば、当然に私とは異なる感想を持つだろうな」
 
「そうですね」と、芝居で言わせて、刷り込もうとしてくる楽山の悪意は、底知れないものがあります。楽山が言い、楽山が肯定している文章に、いったい何の価値があると言うのでしょう。
 
楽山は、一見、論理的なことを書いているように見せかけます。しかし、実際は、論理というものにも心が関わっていることを知りません。恐らく、こういう人は、人殺しが悪いという証明は誰にもできない・・みたいなことを言う人と同様なのでしょう。人間としての直感がないのです。
 
字面の理屈だけで物を言う、物が言える、と思っている勘違いの、恐ろしい表れを、楽山に見ることが出来ます。楽山の理屈は、いたるところで、壊れています。一方、楽山の書くことには、感動を与える要素が何もありません。共感がないからです。
 
それゆえ、今、共感し賛同する相手を仮想し捏造している、という悲惨な自慰の末路を辿っているのです。繰り返し、繰り返し、自らの理屈を、こすっては、自分だけで納得し満悦する楽山です。
 
若者 「ということは、あなたが神について語っている時は、『神は~である』というのではなくて、『神は××であるとすれば~である』『自分には神は~と感じられる」というように、仮定の話だったり、実感についての話だったりするということですね」
老人 「その通り。神は多義的であり、多面的でもあろうし、そう簡単には定義できないものだ。強いてそれをしようとするなら、神とは人には分からないものだとするくらいしかできないのではないかな」
 
条件や仮定など、楽山の理屈で、神を語ろうとすれば、すべて、的外れになるでしょう。このような堂々巡りのような、洞察力と直感力を欠いた、寸足らずの言い分に、惑わされないようにしてほしいと思います。・・ならば、・・、などという言い方で、神を表すことは出来ません。
 
神が分からないなら多義的かどうかも分からないはずです。楽山の視野は、楽山が語れば語るほど、狭くなってゆくようです。言い逃れできないところを、字面の理屈で埋めようとするからです。
 
信仰者でない楽山が、神について、信仰について、実感のある話など出来ないはずです。つまり、そのような当然の謙虚さすらも弁え得ないところに、楽山の病巣があるのです。
 
若者 「はい」
老人 「だから神については、『神とは~である』と断定的には語れず、『神が××なら、~であろう』『自分には神は~と思われる』という程度のことをしか言えない。そしてこの場合、誰かが『いや、自分には神は~ではなく、××と思える』と主張するなら、『それは違う』とは言えず、『ああそうですか。あなたはそのように感じ、考えるのですね』と応じる他ないんだ。神とは何であるか確かなことは分からないのだから、そうならざるを得ない」
 
この楽山の話には、暫定的であっても、正当性を、つまり真実を、追及する意志が欠けています。この楽山に従っていると、どこまでも、真実について結論が出ないということを、楽山自身が証明しているのです。
 
楽山は「あなたはそのように感じ、考えるのですね』と応じる他ない」と書いていますが、楽山は、実に、そういう考え方で、短絡して、あれも言えない、これも言えない、と考えて、ついには、賛成も反対も、はっきり言えなくなって、そこで、固定しているのです。
 
だから、楽山は、聞いても、どうにもならないような、無責任なことしか言えなくなっています。人の言うことも、聖書の言葉も、真っ当に受け取れず、真実もまた、受け取れなくなって、無視するようになって、結局、楽山は、曖昧で、何の役にも立たないようなことしか言えなくなっています。
 
語尾にこだわることが正確だと思っているようです。はっきり言って、総ての発言には、語尾に「と思う」が付いていますが、いちいち書くと文章が見づらくなるだけなので、省略されているのです。それで終わる話なのですが、字面にこだわる楽山の、神経症的な強迫観念が表れています。
 
厳密さを語っているつもりの楽山が、これまで無遠慮に語ってきたことには、偏見と妄想だけが表れており、整った理路が見られたことは一度もないのです。なんでもいい、なんでもよくない、という無為の虚構、それが、楽山の言であります。
 
さらに、楽山の文章の語尾には、曖昧な言い回しでごまかすところの、ボンヤリ言語の災いがしばしば見られるという事実を、楽山は、また、棚に上げて、無視しています。曖昧にして何も言ったことにならないで、責任を負わないのが、真実への糧になるでしょうか、全く、否であります。
 
もはや、それは、人間の言論ではないのです。受け取って、考えて、判断して、言動する、という、プロセスが、全く抜けているから、楽山は、責任を負わないのです。楽山には、言論の活性が見られません。それで、責任逃れだけを書いてきます。
 
語尾は、表現であって、人間の言うことには、「と思う」は、いつも付いています。楽山は、そこに異常に執着することが大事だとして、カチンカチンのガラクタを作り上げ、何も言えなくなっている楽山という無為を実践してきたのです。まさに、生産性がゼロなのです。
 
いわば、楽山は、反論も弁明も出来ずに、駄々を捏ねるように独り芝居を演じているのです。楽山を、理論家などと、決して思わないでください。楽山は、大事な理路から、最も遠いところをふらふら歩いている偏向した詭弁思想の持ち主です。どこまでも空回りだけし続けるでしょう。
 
若者 「ああ、今回、お話を聞けてよかったです。お陰様で、ようやく納得できました。実はあなたの語る神について、少々、違和感を覚える部分があったのですが、それはどれが正しく、どれが間違っているということではないんですね」
 
楽山は、また、「お話を聞けてよかったです」と、独り芝居のセリフを言わせて、自分で、自分に、お礼を言っています。内容が貧弱な分だけ、滑稽でしかありません。高慢な、教える姿勢が、体質なのでしょう。
 
「どれが正しく、どれが間違っているということではない」・・その判断なしに、生きてゆけるつもりでしょうか。何でもあり、に帰着する楽山は、有害なカルト思想伝道者です。そして、これこそが、ボンヤリ言語の特徴なのです。楽山は、ますます混乱してゆくでしょう。
 
善悪・正邪の判断は、誰でも、生きる上で避けられないことです。そこで、信条を固定しないことが必要なのであって、楽山のようなボンヤリ言語を受け入れてしまうと、楽山のように、何も判断できなくなり、人間性を失ってしまいます。楽山の言は、ひどい屁理屈と言っていいでしょう。
 
善悪の判断を絶対化しないことのほうが大事であり、キリスト信仰者には、正直な祈りという告白の時と所があり、反省を促されることになり、ゆえに、成長が可能になります。つまり、曖昧が正しいとする楽山には、成長がないというであり、まさに、それは、文章に表れてきたのです。
 
老人 「その通りだ。きみが神についてどのようなイメージを持っているのかは分からないが、人には『神とは~である』と断言することはできないのだから、誰かが描く神のイメージは正しく、他の誰かが描く神のイメージは間違いだということは言えないだろうね」
 
また「その通りだ」と言う台詞で、変質した自己を肯定しています。なんて、わざとらしい芝居なのでしょう。神について、聖書以上には知らなくても、神は我が主である、という告白することで、生きている多くの信仰者を、楽山は、軽口で否定しているのです。
 
私は、宗教と信仰を考えるときの一つの視点として、多くの人が信じたらどうなるか、ということを考えます。楽山は、神をイメージでとらえたつもりになり、間違いだとは言えないと言っています。このような人は、訂正不能で、無反省、無責任である分、とても危険です。
 
楽山の記事に表れてきたところの、自己愛、自己中、無反省、訂正不能、これらから生まれてくるような、いかなる思想も信条も意見も、結局、社会悪につながる要素だけを持っていると判断しています。あってはならないあり方を、楽山は、毎回、示してきたのです。
 
自己愛と自己中によって、反省せず、自分のために平気で嘘を吐くような孤独に硬直した楽山のような人が、神の名を使って、一人前のように社会参加してくるのは、恐ろしいことです。しかも、それを、キリスト信仰に絡めて来られたのでは、たまったものではないのです。
 
楽山のような人を肯定したら、ゆくゆく、広まれば、この世は、偽善者だらけとなり、何も定まらず、混乱し、地獄と化してゆくでしょう。そういう楽山だから、私は批判をしています。楽山は、まともな理路も、まともな感性も、まともな良識も、持ち合わせていない病質者です。
 
楽山は、まともに文章を組み立てることが出来ないのです。だから、近づけば近づくだけ、だまされるか、疲労するか、になってしまいます。真実の追求において、楽山は邪魔になるだけの疲労物質でしかありません。このようなことも前から書いてきました。
 
にもかかわらず、楽山は、あの手この手で、まだ、自己正当化を主張しています。病識の無い異常者だからでしょう。私は、楽山の書いてくることに、批判を当ててゆくだけです。
 
批判は、誰も楽山に関わることのないように警鐘を鳴らすためであります。楽山は、どこにでもいるような、ふつうの知ったかぶりではないのです。災いの発信元になる病原なのです。約2年間の批判を経て、楽山の底は、既に、見え透いたものになってきました。
 
楽山の放ってくる、いちゃもんについては、前から似たようなことが続いており、私は、批判してきました。今回も、楽山は、似たようなことを書いているだけです。恐らく、それこそ、こちらを疲労させるのが目的でしょう。楽山は言論者ではありません。楽山は体質的な病気です。
 
楽山が書くたびに、楽山の人間離れが明らかになりますが、憑りつかれたように、楽山は書いてくるのです。常識的判断が出来ず、流れも文脈も読めないのは、亡者と言ってよいと思います。霊能者気取りの霊が分かるっぽい楽山は、空想ホラーの世界で、独りヒーローを気取り続けるのでしょうか。
 
 
黄色い海に棲む者

黄色い海に棲む者
 
 
(2020年06月22日)
(2021年06月23日、再録+)
 
 
 
  すごい団欒
 
「じゃあ」と手を上げて
別れたあとも門の前で
頭をかきながら、うろうろしている
恋人を置き去りにして
娘は茶の間に飛び込んできた
「すっごいよかったよ」
 
「すごい」を連発している
娘の一日の話に
「すごい」を連発している
息子たちを見ながら
母さんは終始
微笑んでお茶を飲んでいた
父さんは
すごさがわからなくて当惑した
じいさんは、この家が
荒れ果てていくように思えて悲しんだ
隣の部屋に寝ていた
ひいじいさんは
ひ孫は外国語が上手になったのだと
安心して昇天していった
四世代にわたる
すごい夜の団欒である
 
 
  礼状
   「暗いのが多いんです」
   「じゃ、あたしも暗いのかな」
    と笑ってくれたある人に
 
一刹那、むき出しの
答えようのない問いに似た
恥ずかしいものを見せられて
よりかかるように、慰めの
ありもしない保証を求められたようだと
尊厳の海の中で
揺らめいていた陽光から
緩やかな海流を貫いた閃光が
冷たく結晶化した鋭い尖端で
よりかかりを切ろうとするのだが
それよりも早く
海の摂理は速やかに
剣先を包み込んで鎮め
切るまでもないと差し伸べられた光が
恥ずかしくない程度に
身を低みに下ろして
少しばかりピエロを演じて下さいました
 
 
(90年代か)
 
 
 
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  楽山の欺瞞(ぎまん)
 
 「第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年01月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、性懲りもなく書いてくるのは、批判を無視してのことです。だから、だいたい、同じようなことを書いてきます。無反省で無責任な楽山は学習し成長するということがないからです。
 
それにしても、この楽山の不感不応の執拗な書き方は、本能しかない実験動物のようです。かつ、何の貢献にも糧にもなりえない、ただの迷惑であります。
 
そして、楽山は、自己正当化という自堕落に満悦するのでしょう。自堕落に満悦するところと、嘘と詭弁を平気で書いてくるところが、信仰者ヨブとの決定的な違いです。
 
「第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十六章の研究
「「汝らは皆人を慰めんとてかえって人を煩わすものなり」は原語を直訳すれば「汝らは人を苦しむる慰者なり」となる。慰者とは名のみで実は人を苦め煩わす者であるとの意、強き嘲りの語である」
 
友人たちは、慰めようとして、教条を振りかざし、ヨブの心に触れることができませんでした。ゆえに、ヨブの心を煩わせるだけになります。
 
批判でもなく、嘘と詭弁で、人をだまし、キリスト教についての、幼稚な固定観念を植え付けて、反キリストらしい文章を書いているのが楽山です。
 
慰めようとして、結果が逆で、煩わすのではありません。楽山は、最初から、悪意をもって図り、キリスト教についての悪い印象を吹き込んでゆく反キリストですから、容認されることはありません。
 
楽山のことを柔和な人と思えば、その時点で、罠にかかっているということです。私も、数か月、だまされていました。
 
そういう履歴だけを、ブログを書くことで残してきたのが楽山です。楽山は、教条ではなく、もっともらしい言葉を選んで来ては、悪い印象だけを吹き込んでくる精神の詐欺師であります。
 
「この怨語を聴きたる三友は、ヨブを以て神を謗る不信の徒となしたのである」「しかしこれ冷かなる批評家よりもかえって神に近きを示すものである。かく神を怨みてやまざるは、神を忘れ得ずまた神に背き得ざる魂の呻きであって、やがて光明境に到るべき産みの苦みである。神を離れし者または神に背ける者は神を忘れ去る者であって、神を怨み得ないのである」
 
ヨブは、自己正当化をしましたが、神が表れることで、衝撃をもって、悔い改め、その信仰を回復しました。恨んでも、神に背き得ないのは、神を恐れる故であり、信仰の回復の兆しではあります。
 
そして、信仰と呼べるのは、悔い改めたからです。それは、ヨブが、楽山と違って、神を恐れる人であり、終始、真剣だったからでしょう。
 
そのようなヨブと違って、逆恨みで、いつまでも、いつまでも、神を、呪い続けているのが楽山です。信仰がないなら、とやかく言う資格もないのに、根っこに怨念だけを持って、信仰の兆しもないために、同類を増やしたくて、だますことしか思いつかないのが楽山です。
 
楽山は、ヨブとは全く逆であり、無反省・無責任・無理解・訂正不能の反キリストだと思います。どうか近づかないでください。楽山には、信仰もなく、信仰についての興味もなく、信仰につながる可能性も感じられません。
 
根拠は、今までの記事であり、信仰の「し」の字も理解していないのに、知ったかぶりで、低劣な理屈を捏ねて、神を否定し、かつ、その責任を負わず、かつ、反省もせずに、書き続けていることです。
 
この記事も、恨むのは忘れ得えないから、という逆説を利用して、楽山が自己正当化することが狙いなのでしょう。それによって、自己顕示欲を満たし、自分が高められることだけを求めるのです。
 
「神に対する怨言は、懊悩絶望の極にある心霊の乱奏曲である。かくの如き悲痛を経過して、魂は熱火に鍛われて、次第に神とその真理とに近づくのである。これ心霊実験上の事実である。この実験なき浅薄者流はこれを解し得ずして、エリパズらの過誤を繰返すのである」
 
楽山は、悲痛を経験していません。経験していたら、嘘と詭弁を弄したりしないからです。楽山は、少しも神と真理に近づいていません。繰り言のような、いちゃもんを書いて自己満悦を繰り返しています。この記事もそうです。心の底まで、狡猾な、反キリストです。
 
心霊実験とは何でしょう。心霊って実験できるものなのでしょうか。少なくとも、信仰において、心霊を振り回す人は、信用できないと思います。大事なのは、人間らしい心であって、霊でも、心霊でも、ないのです。
 
霊が分かるっぽい自覚の、信仰についても、何事についても、超常のことばかりで片づけようとするような、おふざけ評論家気取りの楽山が、自分と似たような文言を探しては引用して、文言だけで賛同芝居をして、あとは、神と人を揶揄して、遊んでいるだけです。
 
「人は神にも友にも棄てられしと感ぜし時は、大地に向って訴え、わが血に向って我の証人たれと願うほどに至るのである」
 
神に捨てられたと思うなら、何に向かっても、証人など求めたりしないはずです。ヨブは、神に捨てらたような気持ちになって、自己正当化によって失いそうになった信仰を、神によって取り戻します。
 
楽山は、元々、信仰の欠片も持っていないので、証人も、証拠も、根拠も必要なく、また、神など、どうでもよく、自己を飾りたいだけです。総ては、楽山の自己正当化のためでしょう。それ以外は、どうでもよいから、平気で、オモチャにして、平気で、嘘を吐くのです。
 
「二十節に言う「わが友は我を嘲る、されどもわが目は神に向いて涙を注ぐ」と」
 
 (ヨブ記、口語訳)16:20
わたしの友はわたしをあざける、
しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。
 (ヨブ16:20、旧約聖書)
 
友人たちは、信仰の理屈を語っているだけだったので、ヨブへは、あざけりになります。ヨブは、自己正当化を図って、神と議論をしようと言いました。その本心に涙があったとしても、神と議論できる人間などいないのです。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、新約聖書)
 
楽山は、そういう信仰のこと、神と人の関係が、聖書からも、全く理解できないので、涙をもって悲しむこともなく、そのポーズだけを真似て、「反省、トホホ」などと書いて、逆に、得意になっても、決して、神に向いて、涙を流すことなどないことが明らかになっています。
 
楽山の言は、乾燥大麻のようなものです。吸い込んで気持ちよくなると、癖になり、やがて、人格を破壊されるでしょう。心が無く、高等感情が鈍麻して、共感も持ち得ないために、芝居と嘘と詭弁で、だまして、つないでゆく蟻地獄にいて、人に対しても、蟻地獄となっています。
 
「友に棄てられて全く己一人となりし時、茫々たる宇宙ただ神と我のみあるの実感に入りて、初て神と真の関係に入り得るのである。しかして後また友誼を恢復して、これを潔め得るのである」
 
このような大仰な書き方をする必要はありません。このような書き方を好むのは、ホラーや超常現象や心霊現象が大好きな楽山の趣味であり、あくまで趣味であり、そこに中身は、まるでないのです。
 
信仰は、宇宙的境地の神の実感を与えられることではありません。人間に可能な共感を与えるものです。これら大仰な超常のことは、楽山やシャロームのようなカルト的反キリストが求めるものです。
 
キリスト者は、ただ、敬虔という身の低さをもって、神の憐れみを待ち望みます。楽山は、好みも、志向も、全く逆です。つまり、カルトが好んでやまない、自己優越感だけを求めているのです。特別の存在になって、注目を浴びたい、これだけが、楽山の無謀な野心であります。
 
「人は己の無力を覚るとき、強くして力ある我の代弁者を求めざるを得ないのである」
羽仁もと子がヨブは神を信じているからこそ恨み言を述べているとしていて、はっとさせられたのだが、この点についてはこの講を読んでさらに納得できた。
 
楽山は、己の無力を認めないからこそ、嘘を吐き続け、詭弁を弄し続けています。健常人には考えられないことで、病質的異常者であろうと思っています。
 
楽山は、己の無力を知ることも、神のほうを向くことも、祈ることも、芝居以上にならず、それでも自己顕示欲を抑制できないために、なお、恥ずかしげもなく書き続けて、結果として、己についての見苦しさの資料を増やしているだけなのです。決して、相手にしてはいけません。
 
そういえば以前、キリスト教批判の是非について、とあるクリスチャンに問うたら、批判するということは関心があるということだから無関心よりずっとよいとしていたのだった。
 
楽山は、悪口を刷り込んできます。ゆえに、楽山に対しては、全否定のためだけに批判しています。楽山のあり方は、信仰において、容認できる要素が、皆無であります。
 
楽山には、キリスト教に関心があるのではなく、嘘と詭弁によってキリスト教と信仰をおとしめる意図が、約2年にわたって、表れています。
 
熱心な信仰者のなかには、宗教批判したら、即、不信仰者だと決めつける人もいるが、事実はそれほど単純ではないということだろう。 
 
私も、キリスト教批判をすることはあります。キリスト教内外に、カビのように蔓延る教条主義や悪しき慣習や自己満足や固定観念に対してであります。しかし、楽山は、全く違います。約2年にわたる楽山の嘘と詭弁が証拠です。
 
楽山は、キリスト教を批判しているのではなく、侮辱しているだけです。楽山は、信仰者でもなく、不信仰者でもなく、恨みと嫌悪と自己満足のための反キリストです。
 
信仰は、命がテーマですから、楽山が、勧善懲悪のホラー映画につける感想のレベルの、みすぼらしい屁理屈で語るような、善と悪とか辻褄が合うとか合わないとかいった単純なものではないのです。分かったふうな、楽山の評論家気取りに、だまされないでください。
 
楽山は、厚顔無恥で薄っぺらな印象を吹き込む煽動者です。いずれ、大好きなホラーの世界に沈んでゆくでしょう。沈黙する神は、また、いつまでも黙っている神ではないのです。
 
 
欺瞞

ぎまん
 
 
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