楽山の読書と詭弁
 
 『幸福なる人生 ウォレス伝』渡部昇一著
 2022年04月29日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
反対を書き、賛成を書いたから、責任問題は生じない、という、トンデモ無責任の楽山が、まだ分からないらしく、書いてきました。人格の病気で、罪悪感がないというのは、本当に不治なのだなと感じます。羞恥心もなく反省もしないので、お構いなしに、他者をおとしめてゆくのです。
 
 
*概要
本書は評伝とも、自伝ともいえず、何と言ったらいいかわからない本である。
 
だったら書くなと言いたいが、自分が何を言っているかが分からなくなったのでしょう。楽山の、おぞましい精神世界のようです。何伝であっても、楽山に読解力はありません。今まで、偏見だけを書いてきた履歴があるのに、自分を評論家だと思い込んでいるのです。
 
 
タイトルはウォレスの評伝のようだがそうではないし、本文はウォレス自身が語っているので自伝のようだがそうでもない。では何かといえば、「はしがき」で著者のご子息が語っておられることがもっとも近いだろう。
 
こういうゴシップ的な推理話から始めて、実質のある感想・意見は書けるんだと思い込むのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴なのでしょう。本の帯と表紙だけを見て書いているような思いつきを、評論家気取りで書いてきた楽山です。
 
 
この本は、そのウォレスがまるで今の日本人に、霊界から自分のことを語っているような形式をとっている。(『幸福なる人生 ウォレス伝』渡部昇一著、扶桑社、2020年、p.3)
 」
 
やはり「霊界から」が出てきます。楽山の興味は、大方、心霊と超常に向かいます。キリスト教についても、心理学の「心の理論」も、心霊の話として受け取って、幼稚な決めつけで書き得たと思い、その超常からの教祖願望によって、自己愛だけに生きているような、本当の人間関係を持ちえない楽山です。
 
 
端的にいえば、本書はウォレスの霊言という体裁のものなのである。ただし、いい加減なトンデモ本というわけではない。ウォレスの家系、幼少年期、青年期、当時の人々の暮らしぶり、社会情勢などが実に詳しく語られている。
 
トンデモは楽山なのです。批判に弁明できないのに、平気で、無視し続けながら、なおも、その文責を負わないまま、次を書いて、当たり前だと思っているのです。これは、精神病理でしかありません。こういう人は、言論から、まず、始めに追放するべき対象です。トンデモは楽山です。
 
 
時には、同時期の日本の状況についても触れていて、ウォレスの生涯と東西の歴史を立体的に把握できるように工夫がなされている。未完ではあるが、博学な著者による大作である。
 
「立体的」「博学な著者」「大作」・・これで中身が伝わるでしょうか。万事、こういう書き方です。ほめておけば、抵抗なく受け入れられるじゃろ・・という性根で書いているのです。醜いです。楽山の褒め言葉は、全て嘘ですから、真に受けないでください。自己愛者は、本気で人を褒めることはないのです。
 
 
ずいぶん前に著者が松下幸之助について書いた本を読んで感動した覚えがあるけれども、そのことも考え合わせると、もし著者が本腰をいれて、評伝、歴史小説などを書いていたら、いくつもの名作を仕上げていたに違いないと想像する。
 
楽山の「感動」は、例えば、あいまい検索の文字列の一致のようなものです。楽山には心がありません。情感や熱意をベースに読むことがないのです。だから、自説と似たようなことを書いておれば、褒めるのでしょう。おべっかを書かないといけないのは、何も受け取っていないからです。
 
 
*カトリックとスピリチュアリズム
ところで、前々から著者の発言から、スピリチュアリズムのことはよく承知しているとは思っていたが、本書を読むと相当に深く研究している気配が感じられた。貴重な文献も収集してそうでもある。
 
ここでも、そうです。「相当に深く研究している気配が感じられた」・・気配?、なんなのでしょう。褒めるには、それなりの、評価の実質を示さなければいけません。楽山にとっては、褒めておけばよいという判断なので、だんだん、形容が、霧散するような表現になります。
 
 
そこで疑問なのは、著者はカトリックの信仰とスピリチュアリズムとを、どのように整理していたのだろうかということである。スピリチュアリズムは教会に批判的なところはあるし、キリスト教とも矛盾するところもあるので、著者の理解に興味があるのだ。
 
いちばん矛盾してきたのは、楽山です。キリスト教を史実と超常奇跡の話にして、全く的外れで、理解などしておらず、しかも、平気で否定を書いてきました。だから、スピリチュアリズムと同列におけるのでしょう。スピリットは精神のことです。楽山は、人の精神を病気にするウイルスのような存在です。
 
 
たとえば、以前の記事でも触れたことであるが、著者は「私が知る限り、キリスト教で生まれ変わりを信じる人はいませんよ。これは絶対ない」と断言していた。これはつまりクリスチャンの著者は、生まれ変わりは信じていないということでもあるのだろう。
 
まさに、このことです。キリスト教について、生まれ変わりを問題にしています。楽山には、生きている間のことは、どうでもいいのでしょうか。信仰は、人が生きるためにあります。いくら考えても分からない超常や霊が中心ではありません。楽山は、まさに、ホラーです。
 
 
でもスピリチュアリズムでは基本的に生まれ変わりを真実だとしている。著者はこの矛盾をどのように解決していたのだろうか。この問題について触れた文章があるなら、ぜひ読みたいと思う。
 
生まれ変わりについて、こだわり、他の記事では、史実にこだわり、霊にこだわり、どちらも、キリスト教を否定するためのようです。一方で、楽山の精神は、無反省、無責任、嘘と詭弁、刷り込みと詭弁、幼稚な芝居心、努力せずに高みを誇るなど、最低の病質を表すばかりです。
 
楽山は、人をだます嘘と詭弁だけを性癖として身に着けてきました。楽山には、一般常識、良識、良心、共感力、冷静な理路、罪悪感、責任感羞恥心、など、いずれも欠けています。楽山の記事は害毒です。恥さらしになっていることに、楽山は、まるで気づかないのです。
 
 
 
もう一つ、楽山の無責任が表れている記事を再録しておきます。
 
 
 「幸福の科学」の自己責任論について
 2013年02月22日 楽山日記(LD)
 に対する私の批判記事↓
  ここで、改めて批判しておきます。
 
 
自己責任論は、私的な問題のみならず、
公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。
 
責任問題を、公的と私的に分けるのは、楽山の詭弁です。責任問題は、公私問わず、誰が責任者か、どういう責任かを、追及することです。楽山は、こう言う詭弁を、自己保身のために使ってきます。理路は滅裂に近いと思います。
 
 
たとえば、危険な道路で事故が多発しているとき、事故に遭うかどうかは、各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 
 
事故が頻繁なら放置されることはないでしょう。そして、楽山の責任も、最後まで追及されなくてはいけません。それに責任の問題について、「公的な問題を、私的な責任問題としてしまう」・・おかしいです。責任は、公私問わず、責任者が負うべきものです。
 
こういう詭弁を吹き込んでくるのが、楽山という無責任です。追放しても、またどこかで、悪さをするでしょう。その都度、その場から追放されるべきです。楽山の発言こそが、放置してはいけない「危険な道路」なのです。早く、言論の場から、いなくなってほしいです。
 
 
 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。何らかの問題が発生した場合、すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
 
それは、裁判が明らかにすることです。楽山が、いかに、責任を負う気がないかが表れています。事実とは限らないから、反論と論争になることはあるでしょう。気持悪いのは「双方に責任がある」と言っている楽山は、あらゆる発言において、一度も責任を負うたことがないのです。
 
 
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、反省の動機づけとして、あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。
 
責任問題は、当事者にとって、決して、そのまま、曖昧に済ませてはいけない問題です。「反省」という言葉を書きながら、その前後で何も変わらず、反省することのない病質者の楽山には、責任者として、追放以外にないのです。楽山が、いかに、自分の庭で正当化しても、通りはしないのです。
 
 
自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。たとえば、宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、信者は自分を責めることはできても、教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。
 
責任を問えばマインドコントロールになるというのでしょうか。裁判、あるいは、批判によって、楽山のようなアンチ気取りの病的な偽者を、正常人の罪から区別することは、どうしても必要です。楽山の理屈は詭弁であり、自己中の言い逃れであり、全く成り立ちません。
 
 
既にいろいろなところで指摘されているように、自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。より詳しく言えば、自と他の関係において、自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
決定的な発言ですが、楽山は、いかなる不祥事においても、一切、責任を取りません。こういうことが出来るのは、人間が腐っているからです。しかも、この記事だけでなく、詭弁付きです。人を批判しても自分の責任を負わない害毒には、決して近づかないようにしてください。
 
 
また、他と他の関係について、第三者の立場から、どちらか一方に向かって、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
楽山の責任は、楽山だけの言動によるものですから、その責任の全てを負わねばなりません。軽口でキリスト教と良心をおとしめた責任です。さらに、言い逃れに、悪口と嘘と詭弁を弄してきた責任です。そして、今では、反省を全くしないというサイコパスの責任も加わります。
 
 
以上自己責任論というものはいつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず 毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う。幸福の科学の界隈では自己責任論によって他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので自分なりの考えを書いてみた次第である。
 
楽山が、いかに責任を逃れたいかが表れています。楽山は、今まで、いかなる責任も負う気がないということが明らかになってきました。他の人はともかくとしても、一度も責任を負う気のない楽山は、書けば醜い自己正当化の刷り込みにしかなりません。
 
 
ウソッピ物語 嘘っ屁の言い逃れ

ウソッピ物語 嘘っ屁の言い逃れ
 
 
(2022年04月29日、一部再録+加筆)
 
 
 
  うしなったよる
 
みそこなった このみちは
たれのみち どこへ つづく
みうしなった このよるは
たれのよる なにを つつむ
みすてられた このときは
たれのとき いつを かくす
みな ねむるころ
めさめる いまを さかいに
みとどけたい あしたを
くらやみの くさむらの
むしたちの こえと
むねにおちる しずくの おとが
なくしたものを ひろげながら
とおくへ くぎってゆく
 
 
  かえらないもの
 
もう そこには ないのですね
うつむいた ときから
もう そこには いないのですね
なぐさめようもなく
うなだれた ところから
ひとは みな かえってゆきます
たずねびとが みちに まよい
たびびとが よわきになった そのみちを
ふたたび あう やくそくも できないまま
みつからない ひみつを のこして
いいつたえと なぞの あけくれに
ひとは みな いってしまいます
ないものと いないもの もう
たれも さがしは しないのですか
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
本も読めていない。理路も組み立てられず、詭弁の悪用しかない。信仰も宗教も、まるで理解していないのに、書くことに慢心して、内省できず、ろくでもない記事だけ書いてきます。嘘と詭弁が明らかになった今では、意味など無く、否定するしかない楽山の老廃物です。
 
思慮と高等感情、楽山においては、さらに劣化してきました。楽山が、大きなテーマ、つまり、宗教、信仰、真実、などについて書いてくることは、まるで、楽山のハラワタに溜まった汚い老廃物を垂れ流してくるようなものです。楽山の汚らしさを、その都度、味わうことになります。こうはなりたくない。
 
私はキリスト者のつもりなので、信仰の記事やポエム的なものを書きます。絶対の正しさはないので、修正や加筆することも多いです。
 
楽山は、批判に全く答えることなく、悪口を衝動的に多量に書くか、無視するだけの訂正不能です。どう生きたら、こういう人間になってしまうのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング