ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自己顕示欲

 
  楽山の独り芝居(3)3
 
 神についての対話 3
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 
 
疲れたのか、楽山の理路の破綻が目立ちます。若者も老人も楽山です。楽山の自我であり、我欲であり、利己であり、自己優越の快感モドキなのです。これくらい、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は救いがたいほど思い上がるということです。
 
対話形式にするときに、独り芝居と言われることを予想しなかったのでしょうか、不思議ですが、理屈を言いながら破たんし、的を外してますから、あちこち、予測も抜けてくるのでしょう。宗教という重大なテーマに、サイクリングでもするような気やすさで出かけたのだから、転倒することになります。 
 
*神について知る方法
若者 「人には神のことは分からないという意見は分かりました。ただ正直言って、僕には、それはとてもさみしい考え方のように感じられます。人はどんなに努力しても、神のことを知ることはできないとしたら、堪らなくさみしいですし、残念です」
老人 「そうか。それだったら、きみは人は神のことを知ることができると考えたらいいよ」
若者 「えっ!? そんなことができるんですか」
老人 「できるというか、そういう考え方もあるにはあるね」
若者 「たとえば?」
老人 「たとえば、人には神性が備わっていて、本質的には神と同質であり、それによって神を知ることができるとか…」
 
楽山は、人に神性が備わっている、と言っています。神と人の違いが、まるで分かっていない人の、決定的な妄言です。楽山には、神も人も、相互に交流などできないから、扱う対象になるのでしょう。楽山が、いつか教祖にでもなって、神の位置に立ちたいからでしょうか。
 
 
若者 「あとは…」
老人 「人は自力では神を知ることはできないが、神からの働きかけによって神とは何であるかを知らされることがあるとか…」
 
神からの働きかけが、神からだと、どうして分かるのでしょう。楽山は、自らの神性を主張したいのでしょうか。教祖願望なのでしょうか。呆れた無理解による、恐れを知らない発言です。
 
神の導きかもしれないと思うときはあります。その場合には、それが否定されないあいだ、その正邪や善悪の最終的な判断を神に任せて、人は、そのことを考えて判断し行動し、経過と結果と気持ちを正直に祈って神に捧げるのです。
 
それが、信仰者の生き方であり、神と違う不完全な人間の生き方であります。実際には、そのときの陶酔気分であることもあり、我流の因縁付けだということもあります。やはり神の導きであったかという気持ちになることもあるでしょう。前もって知ることは、地上の人間には出来ないことです。
 
大事なことは、そこで、個人の信仰が、固定ではなく、反省と学習という真っ当な道であるかどうかが試されるのです。楽山に、今まで、見られたことのないものです。
 
楽山は、霊だけでなく、神も分かるっぽいと思っているのでしょうか。実際には、紙に書かれたものの表面的な意味としてしか受け取っていないし、ましてや、一般の書籍についても、実に気安く、他者の意見の断片を紙切れのようにしか利用して来なかった楽山であります。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の御方です。これらの中に、人間の手に負えるものは一つもありません。人に神性を備わっているなどは、反キリストの世迷言に過ぎません。
 
 
若者 「つまり人であっても、神を知ることができる可能性はあるんですね」
老人 「これらによって真に神を知ることができるかどうか、できたかどうかは証明のしようがないことだから、できるとも、できないとも断定はできないけれども、そういう可能性を含んだ考え方があるのは確かだ」
若者 「僕には、人には神のことは分からないとするより、こちらの考え方が合っているみたいです。なんだか、心にピッタリする感じです」
老人 「それなら、そちらの方を選択したらいい。というか、他人がとやかく言ったところで、きみの宗教的な選択を止めることはできないだろう」
 
神を知る、ということについて、断定はできない、と言いながら、知る可能性を含んだ考え方があるのは確かだ、と言っています。「可能性」なのに「確かだ」とは、滅裂に近いボンヤリ言語だと思います。だから、楽山にとってだけ「ピッタリする感じ」なのでしょう。
 
神を知るという言い方は語弊があります。聖書の記事から知り得ることはあるでしょう。しかし、それは、神の意志と行為や辻褄を理解するには、あまりにも拙劣で未熟な理解なのです。思い込み信仰やカルトの入り口になりやすいところです。
 
一貫性の無い理路、遠回しで何も示せない思慮、これは楽山の癖なのでしょう。私が、楽山に、何も書くな、と言いたくなる理由です。楽山の記事は、読者を、楽山の恣意に誘導する性質を、企みとして、必ず持っていると言ってよいのです。それが楽山の目的だからです。
 
 
若者 「そうですね。僕はこちらを選ぶことにします。…あれ、でも困ったな。やっぱり人には神のことは分からないというのも一理あるように思えます。どうも、どちらか一方だけを信じ、もう一方は完全に捨て去るということはできないみたいです。どうしたもんでしょう」
老人 「その点は、私もきみと変わらないさ。神は不可知と思いながらも、分かると思うこともある。人の心は揺れているのが自然な状態であろうし、その揺れを止めるのは仏陀でもなければ無理だろう」
若者 「それを聞いて安心できました。今日はいろいろな話を聞けてよかったです。ぜひまたお話を聞かせてください」
老人 「よろこんで」
若者 「わあ、よかった。それでは今日はありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう。さようなら」
 
「僕はこちらを選ぶことにします」という楽山は恐怖です。後で否定的なことを書いていますが、これもボンヤリ言語の印象付けでしょう。神を理解する立場は人間にはありません。楽山が今のまま自己中・無反省・無責任であるあいだ、神の恵みを感受する信仰にも、届くことはありません。
 
楽山は、人の心の揺れのを止めるのは仏陀でもなければ・・と言っています。どこから仏陀が飛び出してくるのでしょう。楽山の、まるで本気でない、気安さが表れています。結局、反キリストの楽山にとって、神も仏も、笑って済ませるような、オモチャに過ぎないということでしょう。
 
「一理ある」という薄い言葉理解で、神を判断している楽山です。最後は、楽山が、楽山に、礼を言っている場面ですが、恥ずかしくないのでしょうか、恥を知らないのでしょうか。詭弁だらけの自己主張~妄想。自己顕示欲はあっても、罪悪感も羞恥心もない独り芝居です。
 
反キリストの楽山が、神の信じ方を云々することで、この記事が、意地の悪い詭弁そして刷り込みだと分かるのです。どこまでも白々しいインチキで、楽山だけが、支持されているという妄想の世界に住んでいます。緩やかに発狂してゆく病気が、この楽山に典型的な体質的人格障害です。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
超常趣味であり、超常現象が好きで、霊が分かると思っている。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害と思う。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリを気取って、分かっているという我執から離れられないようです。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、あるいは、元信者かどうかも、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで、または、本の中の引用で、理解したと慢心する。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。責任を持って堂々と自分の意見を言うことが出来ない者ほど、凝ったつもりの、実際は、とても臭い芝居を用意するのでしょう。そして、バレていることにも気づかないのでしょう。
 
楽山の書いたものを読むのは止めたほうがいいと思います。嘘と詭弁だけは年季が入っているからです。理路を、ある程度、批判的に読めるのでないと、なんとなく、そうか・・などと受け取りやすい書き方をしてきます。そこに、楽山は、あぐらをかいてきたのでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
色あせた色褪せた独り芝居の果て

色褪せた色褪せた独り芝居の果て
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月27日、再録+加筆)
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  夢の肌
 
眠れない夜は
ひとつの世界
重なりあう思いに
乱れた欲望に
解き放たれようと
夢の肌を探る
天井と床の間で
さまよう視線が繰り返す
明滅のうちに
苦しみながら呼んでいる
ひとつの旅
光も闇も
夢と眠りの跡を
ゆるやかに流れ
消えて
忘れた言葉のような
弱々しい悔いと気分を残して
新しさにまだ気づかない
朝を迎える
夢の肌のあせるころ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはつまり、棒氏は、自分の失敗パターンを認識し、同じパターンにはまらないようにするという反省の教えを実践できてないということです。
余計なお節介かもしれませんが、守護霊がどうした、アンチがどうしたというよりも、まずは、心の教をきちんと学び、実践することをおすすめします!
午前6:55 · 2022年6月26日·Twitter Web App
 
楽山は、まず、自分の失敗を認めない人です。楽山は「心の教をきちんと学び、実践すること」など、したことはないと思います。楽山は、まったく「余計なお節介」だけをしていますが、人のことを、とやかく言う資格などない人です。楽山は、宗教と信仰の、最悪の背教者そして偽善者なのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
そんなことができるってことは、自己陶酔、ナルシスっぷりは、ジャイアンを軽く超えとる(笑
午後8:15 · 2021年6月23日·Twitter Web App
 
OR批判のようですが、楽山は、相変わらず、他者を笑うことが生き甲斐のようです。笑止と言うべき自分を見ることだけは出来ない楽山です。つまり、病識も自覚もない楽山です。楽山こそが「自己陶酔、ナルシスっぷり」を表しているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己陶酔とナルシズムと不感不応の鈍感と薄情な独り芝居に生きている楽山は、恐らく感動も共感もしたことはないと思います。しかし、反省という言葉だけ使うのと同じように、感動という言葉も使ってきました。つまり、気安い見せかけと誘導の芝居には何も実感がないのです。
 
情けないほど、楽山には、宗教性が見られません。心に受け取る器がないようです。だから、楽山が聖書や本を読んだことにして書いても、何も糧にも参考にもなりません。嫌がらせをしたいだけのサイコパスだと思います。もっと悪くなるかもしれません。どうか楽山にだけは関わらないでください。
 
 
 
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  楽山の自己顕示欲
 
  『心經入門 彼岸からのメッセージ』平一著
  2022年05月19日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が書くものには、自己顕示欲だけしか表れていないことを指摘することが批判となっています。雑な文章を書いて、本を読んだことにしてきますが、批評としても感想としても実質のないのが特徴です。
 
ふつうは、身近な問題からでも、真実について考察するのが人間だと思いますが、楽山には、そういう気がないのです。無条件で、読書家のインテリを気取っても空しい限りです。楽山には、身近な真実の実感がないのだろうと思います。
 
 
*概要
この間、無性に未知のスピリチュアルな本を読みたくなったので、積読本の中から本書を選んでみた。
ただ残念ながら無学なので、生命の木などを用いて般若心経の意味を読み解いているという大枠は察することはできても、細部についてはちんぷんかんぷんである。自分の無知無学無教養を痛感させられてしまった。とほほ。
 
「ちんぷんかんぷん」なのに、感想を書いて、考察せずに、読書家気取りの自己顕示欲だけ満足したい楽山です。「自分の無知無学無教養を痛感」したなら、反省・勉強・学習するはずですが、その経過も結果も書けないまま、宗教書をよんだぞ・・という自己顕示だけはしてくる楽山なのです。
 
 
*出会い
が、そんな中で、この部分に関しては思わず膝を打ってしまうほど合点がいって愉快だった。
人は、ネガテブな状にいてポジテブを思い、ポジテブな状にいては知らず知らずにネガテブを思っているものなのです。
古き賢者方は、このような状を「陰極まって陽となり、陽極まって陰となる」と言っています。
(『心經入門』平一著、ブイツーソリューション、2018年、p.111)
 」
一つの思いを強く持つほど、それとは反対の思いも強くなるだとか、上がり切れば、あとは下るしかなく、下がりきれば、あとは上がるしかないという考え方は、それぞれ知識として知ってはいたが、迂闊にもその二つを関連付けて考えたことはなかった。
 
だから、どうなのか、つまり、経験談も、考察も、書けない楽山です。「膝を打ってしまうほど合点がいって愉快」と書いています。何が愉快なのでしょう。何が結論なのでしょう、何が思想なのでしょう、どこが書くに値する感想文なのでしょう。皆無です。
 
「ポジテブ」と「ネガテブ」、「一つの思い」と「反対の思い」、という問題に、「上がり切れば、あとは下る」「下がりきれば、あとは上がるしかない」と、安い物理みたいに上がり下がりとして書いています。しかも「関連付けて考え」ていません。
 
病質によって、気取りだけでインテリっぽく見せて、読書をしたことにして文章を書けば、読者は騙されると自己満悦から思い込んでいるのです。読者にヒントも何も与えない文章となっています。ただの知識不足ではなく、自分の都合のよいところだけをつまんで褒めるだけの駄文です。
 
恐らく、楽山は、自身の、ポジティブにも、ネガティブにも、全く気づいていないと思います。どれだけ迷惑をかけても、批判されても、相変わらず図々しく書いてくるところが、むしろ、病質の証拠となって積み重なってゆきます。
 
楽山はダークネスであり、公開できるようなネガもポジもありません。全てを煙に巻いて、明確な主張も思想も、また、一人前の人格も、持ち得ていないのです。だから、安易な肯定も、意地悪な否定も、みな自己を表すだけで、大人としての責任を負うことがないのです。
 
 
本書は自分には難しすぎたが、これに気付かせられたのは有り難い。感謝。本というものはその全てを理解できなくても、ハッとさせられる一文と出会えたなら、それだけで自分には満足ある。
 
「難しすぎた」のに、「気付かせられた」「ハッとさせられる」と言っています。あとは、「有り難い」「満足ある」と褒め言葉です。考察がないのです。楽山の文章に共通している受けねらいのインテリ気取りで、肯定を書き、否定を書き、その根拠を示さず、自己満足するだけの筆致です。
 
 
 
  映画『ゴースト・イン・ザ・ファミリー 新しい家族』
  2022-05-19 楽山日記(a)
   を批判。
 
 
書くものには、それを書く動機が表れます。楽山の書くものには自己顕示欲が表れ、顕示されたものが、楽山の不純な動機とともに、欲望と見栄以外何もないことを表します。自己愛妄想による気取りが加わって、いっそう悲惨になっています。
 
丁寧語が楽山の武器です。婉曲表現のボンヤリ言語と、謙虚芝居のトホホ言語で騙してきます。病的ナルシストは、犯罪傾向の強いサイコパスと同類です。今までの数々の偽り、ここで、まとも芝居、今さら、醜いだけです。
 
 
『ゴースト・イン・ザ・ファミリー 新しい家族』を見た。
あらすじは、深く心の傷ついている男の幽霊が、同じく傷ついている女の子と出会い、仲良しになり、やがて家族ぐるみの付き合いをするようになり、お互いに助け合い、前向きに生きてゆくというものである。登場人物はみんな良い人ばかりなので、安心して見れていい。
 
「みんな良い人ばかり」が、幽霊と仲良くできるでしょうか。楽山を「安心して」見ないでください。そんな幽霊より、どんな幽霊より、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は怖い人です。楽山は「助け合」うことが出来ず、助ける芝居で、傷つけてゆきます。
 
楽山のご馳走は、自身の優位性を感じることです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、うわべの謙虚そうな言葉に騙されないでください。楽山の害に遭うと、人格が弱って、鈍くなり、破壊される恐れがあります。出会わないことだけが幸運という楽山です。
 
 
こんな風に、幽霊と仲良しになって、みなで楽しくご飯が食べられたら幸せだろうな(笑
 
楽山は、自分が、自己愛性人格障害のために「みなで楽しくご飯が食べられ」ないものだから、人ならぬ「幽霊と仲良し」になりたいのだそうです。どういう、ご飯の食べ方をするのでしょう。人肉に食らいつく悪霊のホラー映画のようになりたいのでしょうか。それで「笑」って楽しいのでしょうか。
 
楽山は、幽霊と仲良しになって、いっしょにご飯を食べたいのだそうです。映画はフィクションだから、楽しめますが、楽山はリアルな病的ナルシストです。間違っても楽山と仲良しになってはいけません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、深く心を傷つける男だからです。
 
楽山は、一種の化け物です。だから、人々の間ではなく、幽霊とともに食事などという発想になります。実際には、霊が分かるっぽい?自覚の、超常心霊マニアであって、病質とともに、人間性を大の苦手にしている楽山です。だから、楽山は、人間的な情緒を、まるで感じることが出来ません。
 
 
ブレーキの効かない自己顕示欲

ブレーキの効かない自己顕示欲
 
 
(2022年05月21日)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
 
  罪のらくだ
 
「右の頬を打たれたら・・・」
左の頬をぶん殴ってやる
か逃げるだろう
「みだらな思いで女を見た者はすでに姦淫を・・・」
みだらな思いで女を見たことのない者は
性欲の異常か病気だろう
「敵を愛し・・・」
本当に敵と思ったら
愛せるはずはないものを
「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく・・・」
許せることもあれば
許せないこともある
許すべきではないと思うことさえある
許したつもりの心の裏側に
隠された軽蔑、あばかれるごとく・・・
 
主よ、あなたの教えを守らなければ
罪人なのでしょうか
御国へ至る道はないのでしょうか
 
主よ、許されて御国へ至る道を知らしめたまえ
まことに私は罪人です
繰り返し繰り返し
主の教えを破るばかりか
それ以上の罪を犯し
さほど金持ちではありませんが
針の穴に向かって突進する
愚かなラクダ
主よ、あなたに許されるより救いはなく
小さな針の前で途方に暮れて
とうとう針を飲み込んで
毒を飲み込んで、瀕死の
みすぼらしいラクダ
あるいはヒトです
 
 
  家の階段
 
数えきれない
数えることもない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
  どこへ
 
「はい」はどこへ行った
「いいえ」はどこへ行った
煙草片手に
小石混じりに糸を引く道
食の道行き辿り辿れば
見果てぬ先に数知れず
「はい」は胃炎に
「いいえ」は灰に
食の日月よ見上げれば
いつから満ち欠けて
みな我に返るというのか
吐き出すものは身に降りかかる
煙が気道をしめつける
「はい」をどこへやった
「いいえ」をどこへやった
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の書いてきたものは、誰にとっても、ヒントにも、糧にも、参考にもなりません。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による自己顕示欲への執着が、ちびちびと、お漏らしをしてきます。不潔な排泄を、いつまでも失禁してくるのも病質ゆえでしょう。
 
 
 
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  楽山の病質2
 
 「内村鑑三先生の憶ひ出」志賀直哉著
 2020年12月18日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
楽山が、書きたかったのは憶ひ出(思い出)ではなく、悪口だと思います。引用しておきながら、悪口を言う、このような分裂した筆致が、楽山の腐った持ち味です。
 
これは内村鑑三と師弟関係にあった志賀直哉の随筆であるが、内村鑑三にまつわる逸話が多く紹介されていて、頁数は少ないものの、なかなかに読み応えがあるものになっている。
ちなみにここで披露されている逸話のうち、いくつかを抜き書きしてみると、まず内村鑑三は何かの折に「僕は男よりも女の人にはよく好かれる」と笑っていたことがあったそうだ。こんな冗談を言う人だったとは少々意外である。
 
楽山が、どういう「読み応え」を感じていると言うのでしょう。志賀直哉の口を借りて、内村鑑三をネタに、冗談でおとしめる楽山です。こういうことを材料に、キリスト教を、おとしめ、冗談まじりに、侮辱してきた反キリストが、楽山その人です。
 
また、外国人が郷土の言い伝えを披露したときに、「余程馬鹿な先祖だな」といって相手に嫌な顔をさせたとか、日蓮とキリストを同列にして語る人について、「そんな事をいふ奴は博士ぢゃなくてバカセだ」と決めつけたとか、閔妃暗殺に関わった社会主義者が聖書研究会に現れたときは「〇〇さん、貴女はこれから来ないように……」と断っていたともいう。さらには、著者がクリスマス会で罪の意識について疑問を持つような話をした時には、「そんな話より、バラのさし木を作る話でもすればよかつた。その方が聴きたかつた」といったそうだ。これらの逸話は人によっては酷いと感じるかもしれないが、自分には内村鑑三の正直さ、率直さをよく表しているように思えて愉快である。
 
「馬鹿」「バカセ」「来ないように」・・このような悪口は、学者気取りの楽山に向けられるのが相応しいです。自分の立場を弁えないで、自分が言われることを考えもしないで、人の悪口を、別の人の口を借りて、わざわざ記事に書いてくる性根に、何か意義があるでしょうか、否です。
 
そして、内村鑑三の著作から引用してきた手前、後付けで、「正直さ、率直さ」などと、褒め言葉を書いて、それで、帳尻を合わせたつもりでいる愚か者が、この楽山なのです。逆の言葉を書けば、化学実験のように中和されるとでも思っているのか、本当に腐ってる。
 
否定と肯定を、同時に、反省と訂正なしで書けば、それは、矛盾というのです。それが分からないならば、小学生以下です。楽山は、どこで、どうやって、成長し損なったのでしょうか。楽山は、「正直さ、率直さ」を持たないので、これから「来ないように」と言われるべき人です。
 
楽山は、今日、褒めても、明日には、ボロクソにけなす、というような、気分易変に伴って、評価を180°変える人ですから、しかも、「愉快」と言っていますから、元々が、人をけなし、おとしめることに快感を覚えているだけの人なのです。そして、一切、責任を負わない人です。
 
聖書に関連した話としては、内村鑑三は、キリストはピラトから「お前はユダヤの王か」と問われて、「然り」と答えただけで、それ以上何もいわなかったところが大事だといっていたという。キリストは「然り、しかしその王の意味は」と細かく説明すれば命はたすかったかもしれないが、あえてそうはしなかったのだと…。著者の想像によれば、不敬事件の際の先生の態度は、この考えによるものだったのではないかとのことである。
 
けなした後で、「先生」と呼んでいることは、滑稽でさえあります。そして、楽山は、今までも、褒めた後で、けなすことは、しばしばあり、そのような気まぐれから出た言葉が、理路を拡散し霧散させてゆく特徴があります。
 
キリストを、楽山らしく、世間話で語る反キリストらしい筆致です。悪口を集めておいて、敬意の言葉だけ付け加えればバランスが取れて、中立だとでも思っているのでしょうか。それを書いて、評論や感想文になると思っているのでしょうか。
 
人の気持ち、読者の気持ち、常識的なこと、配慮する気配り、など、全く感じることが出来ず、鼻息以外、何も持っていない病質者の特徴です。楽山は、まともな文章が書けない人なのです。書いてくる大方が、真剣味のない、茶化しなのです。
 
自覚がなく、自尊だけ高い病的ナルシスト楽山が、どんな生き方をしているかが分かると思います。嫌がらせのように、書くことだけは止めない楽山に、まともな評価を、受ける資格も、与える資格も、ありません。
 
(ネットより)
内村鑑三不敬事件:
1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式[1]において、内村が天皇晨筆の御名(おそらくは明治天皇の直筆ではなくその複写)に対して最敬礼をおこなわなかったことが、同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであったが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。
 
この3年で、楽山は、神にも、人にも、不遜・不敬であることが明らかになっています。人のことを言えない立場でありながら、人のことばかり言う楽山は、真実の追求を目指す思慮深い人に、不敬・不快・迷惑・侮辱だけを与える病的人格の持ち主です。
 
よほどの誤った自信か、自尊過大の自己顕示を止めないのです、何度言っても、止めないのです。無反省・無責任・訂正不能の厚顔無恥であり、他者のことを何も考えず、いつ犯罪に走っても、おかしくないような病質者です。決して関わらないでください、近寄らないでください。
 
以上、この随筆で紹介されている逸話の一部を抜き書きし、簡単な感想を添えてみた次第であるが、本編ではこの他にも興味深い話がたくさん披露されているので、関心のある方にはぜひ一読を勧めたいと思う。
 
逸話だけで有名人を語ったつもりになり、安易すぎる感想でキリストをけがす楽山です。つまり、楽山にとって、キリスト教は「簡単な感想を添えてみた次第」で済むことなのです。興味本位というより最初から侮辱するために書いているのでしょう。罪悪感がないと、こうなるという例です。
 
このように、キリスト教をおとしめようとする者は、あれだけ引用してきた内村鑑三を、別の日には、ボロクソに言える性根を持っているということです。恐らく一生涯、冷静を装うだけの、ならず者、醜いピエロという正体が表れてゆくでしょう。
 
言うまでもないことですが、楽山は読書したとしても安定した感想を持てない人なので、楽山の感想文は全く当てになりません。気まぐれで、口から出まかせを書くだけの人なので、くれぐれも、決して参考にしないでください。
 
 
けなすときだけ上機嫌

けなすときだけ上機嫌
 
 
(2020年12月19日、同日一部修正)
(2021年12月22日、再録+)
 
 
※ 付録(2020年12月、2021年12月、再録+))
 
何とかなることを祈っているが、新型コロナは、2年経っても、治まるどころか、ひどくなっている。来年で終わるかどうかも分からないなら、医療が崩壊する可能性がある。そのことも併せて作用して、経済が崩壊する可能性がある。そうなると、貨幣価値も当てにならなくなる。
 
最悪の場合には、自殺、暴動、略奪、他殺、パニックなど、個人または集団による犯罪が多発するだろう。医療・医学がどうの、とか、経済政策がどうの、という議論では済まなくなる可能性がある。国民の生存権を直接守る政策が必要な気がする。
 
国家にとって、いちばん大切なことは、全ての国民が生き続けることだろう。どの都市でも区でも市でも町でも村でも、そこに行けば、食糧と飲料があり、眠る場所もある、という場所を設定し、そこへの連絡と物の輸送のライフラインを保持する具体策が必要な気がする。
 
「生存権」
生存権を具体的に守るために法制度が必要ですが、末端におけるコミュニティの人間関係の役割が重要だと思います。支配や秩序だけではなく、人間力による節度ある助け合いが必要だからです。
 
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  自尊心
 
自尊心(プライド)の高い人は
自分を隠すのが上手です
とはいえ時には溜まったものを
吐き出すことも必要です
 
徹底して聞き手にまわり
貴女の言うことを記録にとどめます
それは合図(サイン)
 
自尊心の高い人は喋(しゃべ)りすぎると
恥をさらしたような
損をしたような気持ちになる
 
だからまもなく貴女が
面談を終わらせたい旨を私に告げたとき
私は目一杯の誠意
を込めて答えたつもりなのです
「はい。貴女がよろしければ」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
恥を知らない人は、恥ずかしいという気持ちが元々備わっていないのでしょうか。自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言えるのは、ペロッと舌を出すような軽さ、悪ふざけの類でしょう。
 
 
 
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  楽山の詭弁と正当化2
 
 『実践 快老生活』渡部昇一著
 2020年06月28日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
去年の記事ですが、楽山は、露骨に嘘を吐いてきます。しかも、著名人の名を借りる不遜もあらわになって、本当に、醜いさまが、バレバレになってきました。
 
*渡部節
佐藤優の対談本『読む力』で、渡部昇一が高評価されていたので、ひさしぶりに氏の本を読みたくなり、前々から読もうと思いつつも読めないでいた『実践 快老生活』を通読してみた。相変わらずの渡部節であり、超ど級の率直さがおもしろい。
たとえば今の時代は、孫子を持つ幸せだとか、結婚相手を選ぶ際に遺伝について考慮すべきということは、声を大にしては言い難いところがあるが、著者はそれをあけすけに語っている。こういうことができるのは著者の他には、石原慎太郎くらいしかいないのではなかろうか。
 
あけすけに言うのと、嘘を吐き、詭弁を弄し、有名人の名を利用して飾り、理路も情緒もお構いなく書くのは、全く違うんだな・・ということを、楽山を通して実感します。著名人さえも、上から見下ろして楽山が批評しているようなのは、実に見苦しいです。
 
*穏当な意見
とはいえ本書にはそれほど波風はたたないだろう穏当な話も多く語られている。健康のためには精神面だけでなく、栄養など唯物論的な見地からも注意すべきだとか、年をとっても詩歌などを暗唱して記憶力を磨くことができるだとか、一般の健康論をそのまま実行すればよいというわけでなく、自分の体調によって調整することが大切だとか、大方の人がなるほどと思える話もある。
 
通念的な理想の老後の話ですが、楽山は、精神面が壊れ、栄養を語って唯物論と言い、栄養を摂取する人間を語れず、人間の心を語れません。楽山が、「なるほどと思える話」を信用しないでください。「体調によって調整」などは当たり前で、さらに、誘導の詭弁と嘘が入ってくるからです。
 
気に入らないことをことごとく無視している楽山の記憶は嘘以外何もないのではないかと思われます。そして、自分の体調だけでなく、心の調整が狂っているために、大方の人を詭弁で陥れることだけに専念しているようです。良いことではなく良さそうに見えることを書いてだますのが楽山です。
 
論語の「七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」という言葉についての解釈もおもしろい。これは悟りの境地というよりも、加齢によって心身が衰えてくると、「矩をこえようと思っても、もうこえられない」(p.18)というものであり、孔子はそのことを、率直、正直に語ったのだろうという。たしかに怪力乱神を語らずという立場からすると、これは精神的神秘的な境地のことではなく、著者の言う通りのようでもある。
 
(ネットより)
どんなに立派な人でも、自分の行動を完全にコントロールできるようになるのは、七〇歳くらいになってからだ、ということ。
「七十にして己の欲する所に従えども矩のりを踰こえず(七〇歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準をはずれるようなことがない)」で終わっています。
このことばから、七〇歳のことを「従心」と呼ぶようになりました。
コトバンク七十にして矩を踰えず
 
楽山は、恐らくもう長い間、少なくとも一年余り、いかなる批判も無視して、自身の欲するところのみに従って、非常識なことばかり言ってきたのです。矩(のり)や法や徳は、楽山の欲せざるところなのでしょう。
 
ゆえに、楽山にとって大事なことは、自分でブレーキをかけられないのなら、もはや、一日も早く、楽山の欲せざるところが、記事を何も書けなくすることだけのようでもあります。楽山の文章から、嘘、詭弁、自己顕示欲、などを、あぶり出すことです。
 
しかし、そこにおいて、自由と勝手を、正直と恣意を、ありのままと欲のままを、すっかり混同した楽山が、人間の良心を捨てて、あるいは、良心に捨てられて、石を投げながら暴走し続けているのです。いい歳をして、大人げなく、へへん!、このやろう!、くらいは言っていそうです。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず(かいりょくらんしんをかたらず):
怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
 
楽山は、道に背いたことだけを、理性で説明がつかないようなことだけを、知ったかぶりで語ってきました。また、怪しげな、霊が分かるっぽい話や、不確かな、どっちつかずの、ボンヤリ言語の詭弁を弄してきたのです。
 
そうして、今回も、楽山の記事が、だまそうという意図でありながら、逆に、楽山を斬っている有り様です。楽山は、むしろ、君側の奸(くんそくのかん)のような体質であり、欲のために、丁寧語のアドバイスに見せかけて、他者を操り、虚偽と疲労へ誘導することを楽しみとする者です。
 
*知的正直
正直といえば、著者は知的正直について、「自分がおもしろいかどうかを一つの絶対的基準として読書を愛好してきた」(p.57)と語っている。これは漱石の「私の個人主義」における自己本位に通じる考え方であろうし、自分も大いに影響を受けた考え方だ。
 
正直ということに、知性が必要でしょうか。無視しない正直さだけがあればよいのに、楽山は、他者無視と、我欲の利己主義により、自己中だけを通して、大いに悪と偽善をまき散らしているのです。
 
楽山は、個人主義を、我欲の恣意と、混同しています。
 
読書に限らず、ものごと全般について正直な感想を述べると、傲慢だとか、生意気だとか言われて責められることもあるが、他人の機嫌をとるために自分の感想を偽ったところで仕方がないし、自分は自分という独立心を持ち、権威に盲従することなく、正直な思いを忘れないのは本当に大切なことだと思う。
 
 
楽山の、自己正当化のために、独立心を、我欲・我執の自己中と混同する詭弁です。我執により我欲だけで言動している者は、傲慢になります。他人の機嫌を取るのではなく、他人の意見を無視しているのが楽山です。
 
自分は自分という独立心は、正直で率直に物が言える人物に見られるもので、おぞましいことに、楽山は、独立心ではなく他者を無視して妄想的唯我独尊に生きていて、自ら権威者のごとく傲慢であり、嘘ばかりついて、詭弁ばかり弄して、正直の欠片もないのです。
 
*簡単に天国に行ける宗教
著者は宗教についても随分正直なようで、「宗教として信じるのなら、私はどちらかといえば簡単に天国に行けるものを信仰したい」(p.227)と語っている。これはあまりに正直すぎて笑ってしまうけれども、実際、真理とはシンプルなものだろうとは思う。
 
楽山の言う、簡単に天国に行ける宗教は、楽山のように、都合の悪いことを、ことごとく他人のせいにして、どんなに卑怯なことをしても、ヘラヘラ笑ってゆけるような天獄であり、楽山の妄想の中にしか存在しないところなのです。
 
今度は、シンプルな信仰を、何をやらかしても天国に行ける身勝手と、混同しています。自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、あらゆる思考と言葉の軸が狂ってしまっている楽山を相手にしてはいけません。
 
たとえば、三木野吉は真理については単純、明快、矛盾なしなものだと定義づけているし、晩年の釈迦は教団の内外の区別なしに法を説き、握り拳の中には何も隠していないと語ったという。丹波哲郎はスピリチュアルな教えを、「あかるく、すなおに、あたたかく」という、この上なくシンプルな教えにまとめているし、『近思録』には道というものは細く険しいものではなく、沢山の人が通ることができる大道だとしていたかと思う。
 
楽山の思考は、隠し事で出来ていると言っても過言ではありません。単純明快に暴露されてしまう詭弁、矛盾だらけで、いったいどうやって、スピリチュアルを語れるというのでしょう。凶悪な楽山は、今も、白々しい嘘をを吐いています。それで、言いえたと思う病質者なのです。
 
陰気臭くて、素直さ皆無の根性で、とても冷淡で、温もりも潤いもない人、それが楽山です。だから、安易な道ばかり、求めては、裏切ってきたのでしょう。本当に底の浅い軽薄な、だますことだけで長らえている人のようです。
 
「あかるく、すなおに、あたたかく」というのを、"何事もなかったかのようにヘラヘラ笑って、我欲だけに素直に、平気で悪意だけを熱して" 生きることと、混同する楽山の、自己愛性人格障害の自己正当化です。
 
こうしてみると、まっとうな宗教は救いについて複雑な条件をつけたり、凡人には分からない神秘について語ったりはしないだろうし、著者の宗教選びの基準はそうまちがっていないように思える。
 
真っ当な宗教は、伝道者に、楽山のような、霊が分かるっぽい自覚?や、超常の知識なるもの?によって宗教を論じるなどということを要求することはありませんし、ふつうの感受性があればよいのです。また、自己顕示欲だけの者には、宗教も神も縁がありません。
 
また、神秘は神のものであります。人は人の節操を考えるべきです。ましてや、神を信じ仰ぐことは、神に対して、自身の下等な屁理屈を当てはめて、机上でもてあそぶような楽山には、これまた、全く縁のないものです。
 
ちなみに著者の弁によれば、カトリックの救いは次のようなものらしい。「カトリックの場合は、ごく単純化していってしまえば、終油の秘跡(サクラメント)を受けていれば地獄には絶対に行かないという教えである。だから私は、自分が死んだあとには確実に天国に行くと信じている」(p.228)。こういうシンプルな信仰を持てる著者は幸せだと思う。
 
このような儀式だけで天国に行けるという信仰は、自尊過大の楽山にとって、垂涎の的であり、また悪意ある揶揄の的でもあります。つまり、シンプルを、安易と、履き違える深みのない楽山のような者は、救いなど、本気で求めていないことが分かってくるのです。
 
*勇気と正直
本書を読んで改めて思ったことだが、批判をおそれず、真実と信じることを語るという渡部昇一の勇気ある正直さは本当に尊敬する。
 
批判を受け取らず、不都合な意見を全部無視して、嘘を吐き、詭弁を弄しているのが、楽山です。このように、楽山は、自己正当化のために好都合な字面を、本を漁っては書いてきますが、いちいち、的を外して、だんだん、失敗して滑りまくっているピエロとなってゆくのです。
 
涙の代わりに、見境もなく、弁えもなく、言葉を失禁して、迷惑なだけの楽山であります。
 
批判を恐れないことと、批判を無視することを混同し、著者に、見当違いの賛同をしています。
 
このように、楽山の理路は、ことごとく嘘っぱちであり、ボロボロなのです。これらの、多くの混同は、自己正当化の詭弁であり、恐らく、楽山の体質か作為であろうと思われます。
 
渡部昇一の本のおもしろさは、その知識と発想にあると思っていたけれども、それは表面的なことにすぎず、その底流にある勇気と正直さこそがその主因なのだろう。渡部昇一のおもしろさは、勇気ある正直さによって支えられている。
 
楽山の記事の低劣さは、その知識不足の貧相さにあるだけでなく、中身が表面的であり、底流にある怒気と欺瞞こそが、その悪意の主因となっていることでしょう。楽山の卑怯さは、これからも続きそうな、臆病者の不正直な言い逃れによって続いているだけの、見るも無残な地獄であります。
 
この見立てが当たりか外れかは分からないが、本書を読んで自分はそのように思った次第である。自分は生まれつき根がどこまでも臆病にできているし、渡部昇一とは考えが異なるところもあるが、この勇気と正直さは見習いたいと思う。
 
当たりか外れか分からないでも書いてくる楽山です。そして、反省しないのです。
 
いつの見立ても的を外れていて、何を読んでも自己正当化しか考えない楽山であります。楽山は、生まれ育ちが原因なのか、臆病どころか、厚顔無恥であり、今まで一貫して、勇気と正直さに真っ向から背いてきたのです。
 
楽山は、どういうわけか、勇気と正直さの代わりに、怒気と嘘を覚えたようです。よく読めば、実に、いつも、その悪意を湛(たた)えているのが、楽山日記なのです。また、妄想的に勘違いして、見習いたいと言っているのは、恐怖としか言いようがありません。
 
しかしながら、今回のように、自己正当化が見え見えのようになってきたのは、人格破壊が進んで、ネズミのようなドコモだましの子供だましの嘘吐きチェーンメッセージの根性を、隠しようもなくなってきたのかもしれません。
 
楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、悪用が白々しくなって、自己満悦だけになるでしょう。言葉を、ことごとく勘違い、または、わざと曲げて、言い逃れたつもりでも、もはや、内容がありません。殆ど自滅を暴露しています。
 
こういう者が、実際、世の中にいるのです。カルトには、特に多いと思います。シャロームもそうだったように、決して、珍しくはないのです。良い言葉を、良い意味にだけ受け取る社交を大事に思っている人は、簡単に、だまされてしまうでしょう。
 
楽山の卑怯さや詭弁や嘘が、どんどん、分かりやすく表れるようになっています。他者の人格を疲労させて破壊するものは、ついには、自分の人格を破壊してゆくのです。どうか、楽山には、決して、関わらず、近づかないようにしてください。
 
 
ウソッピ物語

ウソッピ物語
 
 
(2020年07月03日)
(2021年10月22日、再録+)
 
 
 
 『国家の品格』藤原正彦著
 2021年10月20日 楽山日記(LD)
 
 
新しい記事です。どういう品格を書こうとしたのかさえ分からない文章です。人間としての品格を欠いている楽山らしい投げやりな筆致となっています。
 
これは大分前に評判になった本だけども、先日ようやく通読することができた。
その内容は、戦後ながらく正義とされてきた民主主義、自由、平等、論理といったものを批判しつつ、日本的な情緒、美、武士道などを再評価しようというものであり、保守よりの自分としては気分よく読めた。
 
「民主主義、自由、平等」は、何らかの主張を含んでいますが、「論理」を並列する意味が分かりません。そして、批判するのだそうです。楽山が「日本的な情緒、美、武士道」を再評価するというのは、ネトウヨらしいのかもしれませんが、楽山は、保守ではなく、思想家でもなく、破綻者です。
 
こういう日本人論はいくつか読んでいるが、数学者が論理の限界を語り、情緒の大切さを訴えるというのは意外でもあり、説得力がある。岡潔の場合はあまりに独自性が強く、この世離れしすぎているようでついて行けないことが多いが本書なら自分にも理解できる。
 
楽山は、数学を理解しているとは思えませんし、情緒の大切さについては、何のセンスも持っていないと思います。その上で、「説得力がある」などという判定をするのは、自己愛性人格障害らしい傲慢か作為を表しているだけでしょう。
 
思想、特に、宗教と信仰には、人間的な視野と共感性は必須と言ってよいでしょう。この世離れして、霊能者気取りで、非常識な楽山が書いていますが、この記事の短い文章で、何を表し得たと思うのでしょう。「理解できる」という、その理解を、何も書いていないのです。
 
また本書は、文章が非常に整理されていて読みやすくなっているのも印象的である。これほど整理整頓が行き届いた文章は珍しいのではないだろうか。本書が多くの人々に読まれたのは、その内容だけではなく、文章がよかったためでもあるにちがいない。
 
理路も感性も整理されていない楽山に読みやすい本とは、絵本ではあるまいし、「整理整頓が行き届いた」と書いて、何を伝えたつもりになっているのでしょう。そして、「文章がよかった」と書いています。この舌足らずのまま、アップしてくるところに、病質が表れています。
 
不明が多すぎて、文章としては短かすぎて、感想にならず、また、見出しとしては長すぎて、真理めいたことを書こうとして、何も書けない楽山です。楽山は、ちょっと書いて様子をみて、続きを書くつもりでしょうか。いくら書いても、いっしょです。楽山の孤独で行方不明の思想と宗教です。
 
楽山のような、これくらい書いておけばええじゃろ・・という算段で、ちょうどよい文章を適当に書いたつもりで、他者を、いなして、はぐらかして生きてゆく者は、結局、賛同者からも対立者からも、最も嫌悪される存在となってゆく定めなのです。
 
「気分よく読めた」「理解できる」「文章が非常に整理されていて読みやすく」「整理整頓が行き届いた文章は珍しい」「文章がよかった」・・このような、中身のない褒め言葉が、楽山の読書と感想なのです。中身を、全く表現できない稚拙な評論家気取りに惑わされないでください。
 
 
(2021年10月22日)
 
 
 
  創造
 
今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している
 
ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する
 
存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
楽山がブログに載せたまま、ずっと無視しているコメントです。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
このコメントは、毎回載せようかと思っています。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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  楽山の手口2
 
 『神道からみた この国の心』樋口清之、井沢元彦著
 2020年08月05日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
イド(欲望)と、エゴ(自我)だけがあって、スーパーエゴ(超自我)のコントロールの利かない楽山は、中身のない記事で、確認したつもりになります。それが楽山の手口なのでしょう。
 
これは神道および日本についての対談をまとめた本であり、前に読んだことがあるものだが、内容はすっかり忘れてしまったので今回あらためて読み返してみた。特に印象に残ったのは次の箇所だった。
まず一つは、井沢元彦と樋口清之の会話は、井沢元彦が「逆説の日本史」などで書いている自説を披露し、それに対して樋口清之は慎重な態度で感想を述べるという型が多いことだ。このあたりは小説家と学者のちがいが明確にあらわれていて面白い。
 
知恵が足りないために説明できない者が、自己顕示欲を満たそうとして取る手段は、いっさい、説明をしない、ということです。有名人の名前だけをあげて、「面白い」、と言い、自分が、このレベルのことが分かるインテリなんです、というアピールをしてくるのです。
 
どういう「ちがいが明確に表れていて面白い」のでしょう。何も書いていない。アイデアもセンスもない楽山には、何も書けない、ということが、ここで既に、バレています。
 
二つ目は日本では信仰を統合、統括しないという話だ。たとえば火山の神、灯火の神、炊事の神などは個別に拝むが、火の神として一つにまとめたりはしないという。なぜかといえば「そんなことをしたら、ゼロになってしまいますから。すべてのものを統括したものというのは、実は、あるものであってないものなんです。ないものになっては困る」(p.40 樋口)ということであり、「火の神として一つにしたら、目の前の竈や灯火から、神様がいなくなってしまう」(p.40 井沢)からだという。
 
「信仰を統合、統括しない」・・楽山の自己中の話し方です。楽山は、書き方を正確に、みたいなことを、前に言っていましたが、ここでの主語は誰なのでしょう。事実でしょうか、当為でしょうか。さらに、人間が主語になれるでしょうか、否です。信仰の統合など出来ません。
 
神が・・ということなら、今度は、神を決めつけていることになります。言ってることが、ことごとく、成り立たない、それが、楽山の詭弁の成り行きです。人の口を利用し悪用するゆえに、部分で全体を決めつけて、自分の口を失っているのです。
 
さらに、人は、神を、まとめることは出来ません。日本を主語にして「一つにまとめ」るということは、元々、できないことです。神を、物か何かのように机上の対象物とする楽山のような、信仰に縁のない者だけが、まとめるなどと言って、無知と無恥をさらします。
 
自分は思想宗教の統合だとか、体系化だとかにはさほど関心はなく、そういうことはあまり性に合わない方なのだが、どうもこれは日本的な宗教感覚と無縁ではなさそうだ。
 
関心がなく性に合わないなら、なぜ、書くのでしょう。「日本的宗教感覚と無縁ではなさそう」などと、分かっているかのように、説明もしないで書く災いが、気持ちよくても、楽山に日本的感覚も、宗教感覚も、皆無です。
 
宗教感覚と言って、それを説明できないのは、分かっていると言いたいだけの自己顕示欲だからです。実際は、何も説明など出来ない楽山です。実に迷惑です。楽山は、書くことで、疲労だけをもたらします。つまり、エナジーバンパイアだということです。
 
三つ目は、皇族には知らないことを恥ずかしいとする考え方がないという話である。樋口清之は皇族のある方に講義をしたときに、その方は知らないことがあっても恥ずかしがる素振りを少しもみせなかったので、不思議に思ってその理由を問うてみたところ、皇族では「負けても知らなくても、悔しいとか恥ずかしいとは思わないのが、普通」(p.122 樋口)らしいことが分かったのだという。 
 
楽山は、負けたり知らなかったりすることが恥ずかしいのでしょう。知っている、分かっている、と思わせる詭弁と嘘だけを、ずっと書き続けています。しかも、誇り高い存在感など、一度も見られたことがありません。品のない執拗さだけで、言論にしがみついているだけです。
 
楽山は、ことごとく批判されているのに、無視して書き続ければ、説明をしなくても、刷り込みのように、いつのまにか、自分も、有名人と肩を並べるインテリ評論家だと見てくれるじゃろ・・とでも思っているのでしょうか。浅ましいことです。
 
この話はずっと記憶に残っていたものの、何の本で読んだのかは忘れてしまって、さっぱり思い出せずにいたのであるが、どうやら本書で読んだものだったらしい。長年のもやもやが解決できてよかった。こういうことがあると、やはり本は一度読んでおしまいにするのではなく、時々は読み返してみるものだとつくづく思う。神道のことは今回の再読でもやっぱりよく分からなかったのではあるが、それでもこの点について確認できたのは本当によかった。
 
そして、楽山は、説明も根拠も書かないまま、ほめています。「長年のもやもやが解決できてよかった」「確認できたのは本当によかった」・・自分はインテリだと確認できてヨカッタさんなのです。完全に読者を無視している自慢だけの記事となっています。
 
楽山は、何を「確認できた」というのでしょう。自己愛が確認するのは自尊過大の妄想だけです。楽山の「もやもや」のボンヤリ言語が目立つだけで、有名人の名前を出して、読んだ読んだと何も説明せずに、自分を高めようとする人も、珍しいでしょう。恥というものを知らないからです。
 
 
 幸福の科学とスピリチュアリズム
 2020年08月05日 楽山日記(LD)
 
 
浅薄な知識と、不感不応と、自己顕示の自慢という、楽山の腐った手口が、明らかになっています。
 
*共通点と相違点
「霊界からのメッセージ」氏のツイートを読んでいて思い出したのだが、幸福の科学(HS)も初期の頃は、スピリチュアリズム色が濃厚だったのだった。
サンポール氏の記事で、初期の教えを確認してみると、やっぱりそのようになっている。
・混ぜるな危険! ブログ・サンポール 『旧版・日蓮聖人の霊言』~幸福の科学・初期の教え
とはいえ、両者には大きな相違点もある。たとえば、スピリチュアリズムの方では、霊人の名前でなく、その教えの内容こそが重要なものになっていて、だからこそアメリカ先住民の無名の霊が、地上の欧米社会に向けてメッセージを送るという形になっていたりもするのだが、大川隆法による霊言の方はといえば、歴史上の偉人賢人など、有名人の名を冠したものばかりなのだ。この点については両者は正反対だといえる。
 
「アメリカ先住民の無名の霊」の霊が語っても、それを代弁している人が、霊を信じていることに変わりないのに、どこが「大きな相違点」なのでしょう。現実離れの立場は、同じです。こういう常識的な理路さえ全く分かっていないのが楽山という自己愛性人格障害なのです。
 
有名人?の名を冠しても、検証不能な超常のお告げならば、正反対かどうか、どうして分かるのでしょうか。あるいは、HSの傲慢を言っているのでしょうか。ならば、なぜ、HS批判として、そういう書き方をしないのでしょうか・・つまり、自分を高めるのが目的だからなのです。
 
楽山は、字面だけで、一気に霊や超常に飛びたいだけなので、どちらも大好きなのでしょう。字面だけ難しい言葉を使ったり、複雑な言い方をして、自らの心霊主義を、専門家気取りで高めようとしています。本質を説明できないものだから、考えもせずに2つ並べて正反対と短絡するのです。
 
もしかしたらHS側は、その理由として霊媒の能力を問題にするかもしれない。スピリチュアリズムの霊媒たちは、霊的な認識力が充分でなかったために、霊言をする霊人の正体をつかみきれず、その名前も分からなかったが、大川隆法総裁は偉大な霊能者であって、霊的な認識力に優れ、霊言をする霊人がどのような存在であるかがはっきり分かるのだと。
 
霊媒という説明できない霊の話ばかりになっています。比較しているつもりなのでしょうか。正体をつかみきれるのでしょうか。超人?の話になって、楽山は饒舌になっています。中身、信頼度、説得力は、一貫してゼロです。霊能もないのに、他者の霊能力を話題にするのは、みじめなだけです。
 
でも百歩譲ってそれが事実だとしても、白人社会において有色人種の霊がメッセージを送るというシルバー・バーチの霊言と、日本社会において多くから尊敬されている偉人賢人の霊がメッセージを送るというHSの霊言とでは、その背景にある理念はまったく異なるということに変わりはない。
 
「百歩譲って事実だと」するそうです。そして、霊言の「背景にある理念」が、国によって、「まったく異なる」と言っています。何を根拠に?どう異なる?というのでしょう。文化が違うから、違うの当たり前じゃろ・・とでも言うのでしょうか。あきれます。
 
どちらも、根拠のないことだから、最初から最後まで、何も説明できはしないのです。空疎すぎます。
こういう楽山のような者を受け容れて、一生、泡を吹き、地団駄を踏み続け、踊らされる人生になってよいわけはありません。
 
楽山は、裸のインテリ気取り、王様気取り、実際は、何も独自の洞察など、組み立てられない人です。疲れるだけでなく、そのために、人格が鈍麻してしまいます。ゆえに、決して関わり合いになってはいけません。人生は、思いのほか、短いのですから。
 
一方は被差別者による霊言であり、もう一方は権威者による霊言であるというちがいは、その背景にある意図、理念、精神がまったく異なることを示しているのであって、霊媒の能力の問題で済まされることではないのだ。
 
被差別者というのは、霊能者だから差別されたということでしょうか。権威者というのは、差別するものでしょうか。ここで、楽山が、真偽について語らないのは、信じているのでしょうか、楽山は、どう済ませるつもりでしょうか。うさんくさい話に終始しています。
 
ちなみに、被差別者による信仰と、権威者による信仰は、背景云々よりも、その土台が異なるために、前者は被害者意識に、後者は威丈高になりやすいだろうと思います。どちらも、信仰においては、改められなければ、害毒になるでしょう。霊能を分析できないのだから、言っても空疎です。
 
*教えの改変
サンポール氏は、HSの初期の教えを紹介した後で、それがどのように改変されたかも記事にまとめてくれている。「法子の部屋」氏の記事の転載とのことなので、資料をまとめてくれた「法子の部屋」氏にも感謝したい。
・混ぜるな危険! ブログ・サンポール 続 『旧版・日蓮聖人の霊言』 ~ 『法子の部屋』はんによる検証
 」
この記事を見れば、誰にも一目瞭然だろうが、『旧版・日蓮聖人の霊言』から削除されたのは、宗教とは距離をおき、権威主義や偶像崇拝、他力信仰などには陥らず、内なる神を信じつつ、真理を学び、実践し、霊性の向上を目指すというスピリチュアリズム的な部分ばかりである。これらの教えは、教祖を崇拝し、教団の勢力拡大を目指す他力推奨型の宗教という現在の教団にとってはよほど都合が悪かったのだろう。
 
「内なる神を信じつつ、真理を学び、実践し、霊性の向上を目指す」・・さらに、楽山は、うさんくさくなってゆきます。楽山は、悪霊以外には、縁のない人です。
 
超常ヒーロー願望~評論家気取りの楽山は、できもしない誇大的なことを当たり前のように言って、疲労と人格破壊を自他に与えるところの、エナジーバンパイアに過ぎません。
 
「方便の時代は終わった」の目的については、建前上は信者らが混乱しないように、教義を整理し、エル・カンターレ信仰に一本化したということになっていたかと思うが、結局のところ、その実態は教団運営に不都合なスピリチュアリズム的な教えとの決別であったのだ。このとき、スピリチュアリズム的な教えに賛同していた初期会員たちの中から多くの脱会者が出たというのも相応の理由があってのことだったのだ。
 
楽山が、なぜ、このようなことを書くかといえば、自分は、霊が分かるっぽいスピリチュアルだから、HSとは違うから、正しいんじゃ・・と言いたいだけなのです。霊が分かる証拠を、まるで持っていない楽山が、スピリチュアルを弁護するのは、スピリチュアルにとっても迷惑な話だと思います。
 
実際には、楽山は、すでに現実を遠く離れて、超常の霊の世界に逃げていることが、この記事にも表れています。楽山は、今まで書いてきたように、自己愛性によって、自己正当化、自己顕示して、自らを、賽の河原の石積みのように、結局は、壊してしまうだけなのです。
 
*まとめ
自分のイメージとしては、HSはスピリチュアリズムの要素が濃いと思っていたのだが、今回あらためて確認してみると、どうやらそれは間違いであって両者はまったくの別物であると結論付けざるを得ないようだ。
端的にいえば、初期HSはスピリチュアリズムと似た教えを説いており、同系統の運動に見えるところもあったが、実際にはその根本の精神はまったく異なっており、それだからHSは時が経つにつれて、スピリチュアリズム的な教えから離れ、典型的な教祖崇拝型の新興宗教という形におさまったということである。
スピリチュアリズムから離れた視点から見れば、HSは霊性進化論の一種ということであり、スピリチュアリズムの流れの中にあるように見えもするが、スピリチュアリズムの本流から見た場合は、HSは支流も支流であって、かなり道を逸れたものにすぎないのである。
 
楽山が、HSを教祖崇拝型の新興宗教と見なし、スピリチュアリズムを本流としていることを忘れないでください。私が言いたいのは、楽山は、「霊性進化論」などと言葉だけ書いても、平気で嘘を吐く人で、スピリチュアルとして、何か深い洞察を書いたことは、一度もないということです。
 
この楽山が、前に、キリスト教について、ひやかし、いちゃもん、一方で、ほめ言葉など、でたらめなことを書いてきたのです。そして、楽山は、説明力と説得力が皆無の嘘吐きの詭弁屋であることを、他でもない楽山自身の記事によって示してゆくことになるのです。
 
*判断ミス
恥ずかしながら、自分はHS会員だったころ、日本のスピリチュアリズム界の大御所らが、HSに合流してこないことがどうにも納得できず、不思議でもあったのだった。なぜそういう人たちはHSの霊言を信じないのだろうかと。
でも当時の記憶を掘り起こしてみれば、自分もはじめにHSの霊言集を見つけた時は、即、バツ判定したのだった。「これは偽物だ。偉人賢人や、神の名を名乗る霊に本物がいるわけもない」「本を売るために、有名人の名前を利用するなんて酷い奴だ」といった具合である。
 
「はじめにHSの霊言集を見つけた時は、即、バツ判定」したと言いながら、「大御所らが、HSに合流」すれば、偉い偉いと納得したのでしょうか。もはや、現実世界よりも、まとまりのないスピリチュアルの世界に、埋没したがる楽山なのです。楽山の底が、見えてきます。
 
でもそれにもかかわらず、後になって迂闊にも霊言集を手に取って読んでしまい、スピリチュアリズム的な箇所を見つけ、共感し、いいことが書いてあると判断し、ハマってしまったのだった。いわば、自ら進んで、木を見て森を見ない状態になってしまったのだ。霊言本のタイトルを見て偽物だと判断したときは、木を見ずとも森を見て正しく判断できていたのだが、その中身を読んでからは木を見て森を見ないようになり判断を間違えてしまった。
 
読解力と説明力のない楽山が、「スピリチュアリズム的な箇所を見つけ」るのだそうです。霊言集であれ、スピリチュアルであれ、「いいことが書いてある」と言うのは、既に、楽山が、現実離れ、人間離れして、超能力を欲しがっている証拠です。木も森もなく、楽山の精神は、砂嵐でしょう。
 
木も、森も、心も、見ることのできないために、一気に、心霊の安易さに飛びついた楽山の、「間違えてしまった」は大嘘で、実際は、自己愛から、間違いに気づいた自分を高めていることを見逃してはいけません。何を書いても、自己正当化につなげる自己愛性人格障害だからです。
 
有名人の名を冠した「××の霊言」という本があった場合、ふつうの人なら、うさん臭さを感じて見向きもしないだろう。でも自分は心霊的な方面について生半可な知識と興味があったがゆえに、そのような本を読みふけってしまい、ハマってしまったわけである。自分のことながら、まったく愚かにも程があるというものだ。
 
子供のときから霊が分かるっぽい自覚の楽山は、霊能者気取りです。だから霊の話が多いのです。「心霊的な方面について生半可な知識と興味があった」楽山は、生半可なら書くべきではないし、恐らく、興味本位の情報を知識と呼び、超常現象を悦ぶ子供のまま大人になっているのでしょう。
 
だから胡散臭いのは、楽山です。愚かさに気づくんですアピールをしながら、スピリチュアルを自分に当てはめようとしてきた楽山であることを見逃してはいけません。そういう、スピリチュアルを気取る姿勢は、霊についての記事の多さに表れています。今も、変わってはいないのです。
 
楽山から、良いものは生まれません。今まで、自己正当化以外何もないという記事ばかりだったからです。数々の、だまし言葉を経て、今は、超常大好き、現実大嫌いを、隠さなくなってきた楽山です。反省しているふりで、かえって、馬脚をあらわしています。
 
*第一印象を忘れないこと
巷では、「よく知りもしないくせに知ってるようなことを言うな」という考え方があるし、HS信者もこれと同様に、批判者に対して「HSを批判するなら、HSの本をすべて読破してからにすべきだ」と言ったりするけれども、どうも自分の上のような経験からすると、宗教に関しては、少々の知識があるよりも、さほどの知識も興味もない一般人の方がよほど正確に判断できていることが多いようだ。
 
「正確に判断」出来ているかどうかを、楽山が決めているのは、滑稽としか言いようがありません。楽山の字面の知識よりも、大切なのは心であります。しかし、楽山は、心にだけは、見向きもしないで、霊という超常に執拗にこだわり、中身のない妄想を並べてきました。
 
「一般人の方がよほど正確に判断できていることが多い」と言うなら、自己愛性パーソナリティ障害NPDで気取りだけの楽山には、黙っていなさいと言いたいのです。楽山は、秀でた人でも、一般の常識ある人でもないのです。
 
少々理屈を言えば、宗教というものはカルトであろうがなかろうが、宗教である限りは、その教えの中には多少はマインド・コントロール的な要素が含まれているものであるし、もしその教えを学んだ後で判断するとすれば、それは若干のマインド・コントロールを受けた上でのものになってしまい、本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた結論を出してしまう恐れがあるということだ。
 
本来の宗教にマインドコントロールは含まれていてはいけません。それは、カルトの特徴なのです。いかなる宗教も、洗脳やマインドコントロールが含まれることがあれば、それは、全くの不祥事なのです。それを当たり前に書いている楽山こそ、他者コントロールしたがる危険人物です。
 
「本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた」などと言っていますが、楽山の誘導に乗るよりは、はるかにマシなのです。含まれているのが当たり前のようなことを言って誘って、マインドコントロールを狙っているのは、まさに、楽山その人です。
 
考える宗教と、思考停止のカルトを一緒にして、「宗教というものはカルトであろうがなかろうが、宗教である限りは」「多少はマインド・コントロール的な要素が含まれている」と言っている楽山の言は、全くの無知と、さらなる悪意の詭弁であります。
 
「若干のマインド・コントロールを受けた上でのもの」「本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた結論を出してしまう恐れがある」と言って、宗教をカルトと同様に見ている楽山こそが、最も危険なカルト妄想煽動者なのです。楽山の詭弁を決して受け取らないでください。
 
物事を判断する際には、その中身をよく調べ、吟味した後にすべきだという考え方もあれば、第一印象などの直観こそが大事だという考え方もあり、そのどちらが正しい判断方法であるのかはそう易々とは決められないのではあるが、それでもやはりこの件に関しては、自分は一番初めの印象、直観をこそもっと信じるべきであったとつくづく思う。
 
「易々とは決められない」と言いながら、「自分は一番初めの印象、直観をこそもっと信じるべきであった」というほうを勧めてくる楽山の狡猾な刷り込みの詭弁にだまされないでください。底まで腐っている楽山だからこそ、出てくる悪質な誘導です。
 
正常な人間は、学習する生き物ですから、第一印象も、経験と聖典からの学習も、どちらも、大切な学びです。そういう、学習し、反省してゆく気持ちと性質と能力が、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山には欠けているのです。
 
楽山が、いくら、詭弁を弄して、自己正当化を企み、暗示して誘導しても、最後に、自業自得で、見捨てられるのは、自己中が明らかになってゆく楽山なのです。
 
人ははじめは奇異なものに感じたものであっても、じきに慣れるものであるし、宗教もこれと同じではじめは気味が悪いと思っても、じきに慣れてしまい何ともなくなってしまったりもするものだ。だからこそ、その宗教をはじめて知った時に、どう感じたのかは大切であるし、これこそが本来の自分の判断であるとして記憶にとどめ、決して忘れないということが大事なのだ。
 
宗教は、奇異に感じることでも、気味が悪いものでも、慣れるものでもありません。人間らしく反省し祈り学習し成長する道です。楽山の、今までも、繰り返された楽山の宗教蔑視と、おとしめの詭弁であります。根腐れの遠吠えです。自分の第一印象はいいでしょう?・・と誘っています。
 
「はじめて知った時に、どう感じたのか」が大切で、それが「本来の自分の判断であるとして記憶にとどめ、決して忘れない」というのは、楽山が他者を破滅させるやり方ですが、楽山の破滅の様式でもあります。その通り、破滅しつつあるわけです。
 
楽山の大事は、決して大事ではありません。曲がったセンスで、自分を大事にしてくれぇ・・と言っているだけです。そうだな・・などと思ったら、楽山の奴隷になり、あらゆるセンスが、ますます鈍化してゆくでしょう。
 
そうではなく、信仰は、その後の学習によって、疑うべきを疑い、思考と経験を積んで、反省し修正し、学習し、成長して、深まってゆくのが信仰です。
 
 
楽山が、やさしい言葉をかけるのは、楽山の言を肯定的に受け取る人に対してだけです。反対意見に対しては、受け取らずに完全に無視するか、嫌がらせの悪口を言ってくるだけです。ですから、やさしい人だと思った人は要注意です。交流を続けると酷い疲労から奴隷的な人格破壊に至るでしょう。
 
楽山は、言論の世界から、一日も早く消えてほしい邪悪なエナジーバンパイアです。
 
カルト的な詭弁以外のことを、楽山は、何も言えなくなっています。
 
 
心無き詭弁の道

心無き詭弁の道
 
 
(2020年08月07日)
(2021年09月28日、再録+)
 
 
 
キーワード:嘘
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな君の住む国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
(昔々・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
真説八正道では、正信をはじめにおいていたと記憶していますけど、
よく考えてみれば、正信は、正念に含まれているだろうし、
信仰対象が正しいかどうかは、正見で判断するものだとすれば、
やはり一番はじめは正信ではなく、正見とすべきようにも思えます。
午後10:09 · 2021年9月24日
心機一転★こも楽山
余談ながら、儒教では、仁義礼智信としており、信は最後ですね。
午後10:12 · 2021年9月24日
 
正信も正念も正見も、仁義礼智信も、楽山に分かるとは思えません。楽山は、後も先もなく、何も信じていないから平気で裏切ります。何も念じていないから平気で嘘を吐きます。何も見えていないから、何でも、でっち上げて、刷り込んで、だまそうとしてくるのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
大川総裁は、仏陀在世の時は仏陀を、仏陀なき時は法につけと説いていたと思いますが、
仏典を確認したところでは、仏陀在世の時も、なき時も、法につけとありました。
この点については、大川総裁の教えは、HSの教えとしてはよろしいでしょうが、仏教及び仏典解釈としては間違いと思います。
午前6:43 · 2021年9月25日
(引用ツイート「人につかず法につけとは、仏陀の言葉。」など省略。)
 
楽山は、師もなく、法も守らない自己中で、好きなように、人に嘘を吐いて、だましてきました。楽山は、自分が師、自分が法のつもりです。師が目の前にいるのに法を考えるとは、どういう教えなのでしょう。楽山については、師ではなく、ペテン師なので、否定し続けることが肝要です。
 
心に響く何ものもなく、平板な理屈だけ受け取って、辻褄合わせだけで慢心し、ケチをつける楽山ですが、嘘と詭弁と自己中からの無視という酷い罪悪を経てきて、一切責任を負わないまま、いったい何が、楽山の手に負えるというのでしょう。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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