ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:自己顕示欲

 
  楽山に交われば3
 
 朱に交われば紅くなる?
  (『ブッダの真理のことば 感興のことば』)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
古い記事です。楽山の白々しい嘘と、今も変わらない迷惑要素が表れています。削除していないから、成長のない楽山は、今も、そう思っているのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の災いです。
 
 
五 劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え。
[省略]
一一 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳)
 」
これは、「感興のことば 第25章 友」で見つけた言葉です。
 
楽山に交われば気が狂う・・と書いて置きます。理路が整わず、情感がなく、冷酷な楽山に交わると、話が通じない、遣り取りになっていない、何にも分かっていないのに、まともなつもりでいる、それは、自己愛性人格障害だからです。教祖というより発狂素とでも言うべきでしょう。
 
学ぶべきお手本を何一つ持ち合わせていないのに、上から、教える態度で、忠告する姿勢で、言葉だけ丁寧に語ってきて、結局、嘘と詭弁以外、何もなかった・・こういう人は、はっきり言って、要りません。誰でも持っているはずの共感性も良心もないのが自己愛性パーソナリティ障害NPDなのです。
 
 
若い頃は、朱に交われば紅くなると説教されると、反発を感じたものでした。けれどもこの年になってみると、これには一理あると認めざるを得ないという心境になりました。
 
「一理ある」と、楽山が言っても、楽山からは「一理」など受け取ることはないのです。世辞を言われて、いい気になっても、三歩歩けば忘れる人です。傍若無人が丁寧語を使って、ごまかしの人生を笑いながら過ごしているだけなのです。
 
 
また、これは友だけでなく、書物や宗教に関しても言えそうです。たとえばこんな風に。
・悪書を読み耽る者は堕落する。しかし良書に親しむ者はすぐれた状態に達する。
・邪教に近付く者は我が身を亡ぼす。しかし正しき信仰を得るものは正しき者となる。
人に限らず、書物でも、宗教でも、何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なことなのだと思います。
 
楽山を真に受ける者は堕落します。楽山に近づく者は、自分をを滅ぼすことになるでしょう。「何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なこと」・・楽山の嘘の始まりです。楽山は、「すぐれた状態」を知らず、「正しき者」を知らず、病気の自我によって、他者の良心を食い荒らす者です。
 
 
 
 信仰を意識しない生活
  (ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」片山俊彦訳)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の、罪も、偽善も、人の迷惑も、省みず、「意識しない生活」の話です。
 
 
もともと彼は非常に宗教的な人間だったために、かえって神を思考することが少なかった。神の中に生きていたので、神を信じるにはおよばなかった。
(ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」片山俊彦訳)
 
クリスチャンホーム(キリスト者の家庭)に育った人は、信仰に、さして疑問をいだかないで暮らしてきたために、のちに、現実の問題に接して疑い、信仰を捨てる人も出てくるでしょうし、信仰を見直して、余計なものを捨て、大事なものを得て、自分の信仰としてゆく人もいるでしょう。
 
 
自分は、いわゆる無宗教で育った
神棚と仏壇が併存していても大して気にせず
神社、仏閣、お墓では手を合わせて拝み
彼岸には団子を食べ
クリスマスにはケーキを食べる
そんな家庭で育った
 
このような、日本人に多い育ち方をしても、楽山のように、能力不足を努力で補う代わりに、人をだますことで慰めを得ようとするような者もいます。楽山は、体質として素因もあるでしょうが、性格として怠慢で、学ばないで、自己満足を選んで、人の精神を貪(むさぼ)ってきたのでしょう。
 
私も、クリスチャンホームで育ったわけではなく、上と似たような環境で、家には仏壇がありますが、聖書に接する機会を得て、罪ということ、人間は不完全ということ、キリストの愛と共感・・などを学んで、まじめに祈る人間にはなってきたようです。善人になったわけではありません。
 
 
無宗教とはいっても
無神論や唯物論に染まっているわけではなく
ただ単に特定の宗教を信じているわけではないというだけで
神、霊、あの世の存在は当たり前のように受け入れていた
 
楽山が最近言っているのは、無神論や唯物論が多いと思います。一方で、"仏様の心が分からないっぽい親戚に驚いた" 、仏様の気持ちが分かって、"仏様が喜んでいたよ" などと言い、霊能者気取りですが、霊能を示したことは一度もありません。洞察力も理解力もない人です。
 
楽山は、うまくいかない自分を、全部、人のせいにしてきたのでしょう。その分、ストレスはないでしょう。嘘と詭弁は復讐なのでしょうか。そうして、甚だ迷惑なだけの人物になっています。「神、霊、あの世の存在」を、当たり前のように浅薄な知識に貶めて、バカにしてきたのです。
 
 
今、振り返ってみれば
自分の半生の中では、この時期が一番よい生き方をしていたし
神様の近くにいたような気はする
それにこの頃は、なぜか運もよかった
そのせいか、上のロマン・ロランの文章にはとても共感できる
弱い人々、あるいは弱くなっている人々の貧血している生活は神の信仰を必要とする! 彼らは草木が太陽にあこがれるように神にあこがれる。死にかかっている者は生命にしがみつく。しかし、太陽と生命とを自分のうちに持っている者は、自分の外のどこにそれらをさがしに行くことがあろう?
(同上)
 」
 
信仰は、生命の光を、自分のうちに与えられ、気づいて、育ててゆくことです。ここでも、楽山は、反キリストであることが分かります。楽山が「自分のうちに持っている」のは、自分をも人をも欺いて、自己満足と優越感を貪るという下種の人生なのです。楽山が持っている太陽は真っ黒です。
 
 
無宗教だった自分は
もっとも弱っていた時期に幸福の科学と出会い、入会し
じきに退会することになったのだった
その後はしばらくの間は
幸福の科学の代わりになるものを探したが
これだという宗教には出会うことなく、今に至り
そのことに納得している
つまり元のさやに戻り、無宗教に落ち着いている
 
楽山は、ちっとも落ち着いていません。自己顕示欲の権化となって思考が散乱しています。自己顕示欲によって症例情報だけは豊富な自己愛性人格障害の見本として、気づかれないあいだだけ、いい気になり、結局は、人に多大な精神的疲労~人格破壊という迷惑をかけ続けているのです。
 
楽山は、自分を完全とするカルトであり、宗教と信仰の感受性がありません。かつ、まともな人間としての、共感も持っていません。そういう人間であるあいだ「宗教には出会うこと」などあり得ないのです。ゆえに楽山は、宗教を教条の辻褄でしか考えないので、信仰者と求道者の敵であります。
 
 
これは上の文章にそって考えれば
内なる太陽と生命を失っているときには宗教を求めたものの
今は内なる太陽と生命が蘇ってきたので
以前ほど宗教を求めなくなったということかもしれない
 
楽山の豪語です。「内なる太陽と生命」を持っているそうです。その時点で、自己愛性パーソナリティ障害NPDとして、迷惑だけをかける男となり、自分が神となり、ブレーキが効かなくなり、宗教を求めることなど、全く、なくなって、思い込みだけの自尊カルトとなるのです。
 
 
なんだか
ずいぶん都合の良い考え方であるし
遠回りしたようでもあるけれども
本来の自分を取り戻しつつあるようで、うれしい感じはする
宗教感覚は、人によっていろいろだろうけれども
自分にとっては無宗教が一番合っているようではある。
 
楽山の、ボンヤリ言語とトホホ言語です。「都合のよい考え方」で反省を装い「遠回り」で謙虚を装い、「本来の自分を取り戻し」たとは、病識の欠如を表しています。つまり、「人によっていろいろ」で自己中を正当化して「無宗教が一番合っている」という自己満足に浸っている醜態です。
 
無反省、無責任、自己中、訂正不能、霊能者気取り、インテリ気取り、怠慢、高等感情の鈍麻、罪悪感の欠如、嘘吐き、詭弁屋、悪いことを全て人のせいにするなど、・・どこが「合っている」というのでしょう。明らかな人格障害~人格崩壊を表しています。ここまで来てしまうのです。
 
人類の敵は、国家でも民族でも、文字に書かれた思想でもありません。自己愛妄想を身に着けて罪悪感を感じないところの、サイコパスです。精神病質、自己愛性~反社会性人格障害などと呼ばれるものです。楽山の、これからは、恐怖です。決して近づかないでください。
 
 
無理解を誇る病質

無理解を誇る病質
 
 
(2021年)
(2022年11月30日、再録+加筆)
 
 
 
 山上の垂訓について
 
(マタイによる福音書、口語訳)5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
(マタイ5:27-28、新約聖書)
 
守ることの不可能な教えに思えますが、十戒の拡大解釈であります。守れという道徳を言っているのではないということです。キリストは、厳しい教えを、守れとも、できるだけ守れと言っているのでもなく、罪なき者は一人もいない、という人間の例外なき罪性を言っているのです。
 
神は、正直な告白と祈りだけを求めておられます。教えをそのまま守ることは不可能とご存知だからです。間違っても、正直以外のものを、神に向けてはいけません。なお、信仰者においても、洗礼は、信仰の意志表示であり、生命保険ではありません。弁えるべき態度は、同じです。
 
 
 
  悪魔と基督
 
悪魔は密かに隠れて働きかけることを好むが
基督は常に顕れて意識されることを喜ばれ
またそのように導かれる
 
基督の負いやすい軛は
人間性の最も温かい部分に架けられ
ゆえに一度架けられた軛は人を捕えて放さない
それゆえ人が基督を忘れようとしても
温もりを求めないではおれないがゆえに忘れられず
死や狂気や悪しき謀に走ろうとしても引き戻される
人が人の都合で神を選ぶのではない
神が神の都合によって人を選ぶ
 
肉の心と体が動くとき悪魔は陰で欲望をけしかけ
知恵に悪知恵を吹き込んでそそのかす
意識できない悪魔を探そうとしても大方困難である
悪魔は隠れ住むことに巧みである
しかし基督は既に明らかな絆によって人を導かれ
御自身も明らかなることを好まれる
ここに明暗は分かれ、光と闇は分かれる
闇は光に勝つことはなく
闇は光が来れば消えるか更に狭く隠れるほかはない
 
このように肉の心と体が動くとき
更に深く潜む悪魔を見出そうとしても至難であって
父・御子・御霊の大いなる導きだけが頼みであり
強い軛によって私を放さないで下さい
という祈りによって明け暮れる日々は
人に与えられる分け前として
いかなる苦痛と苦悩の中にあっても
人が希望を楽しむのに必要であり十分である
 
※ 軛(くびき)、絆(きずな)
 
 
  最後の逃げ道
 
神様は必ず逃げ道を
用意してくださる
最初に聞いたのは映画でした
 
この世の富を得て幸福な者は
不老長寿を追い求める
一方で富から見放されて
幸福からも見放されたと
死ぬことを考える人がいる
 
今の世にあって
逃げ道があることを知り
祈り求める人は幸いです
 
しかし人には
富める者にも貧しき者にも
悪しき者にも正しき者にも
逃(のが)れることのできない
定められた時が来るのです
しかもそれは必ずしも
納得のいく訪れ方をする
とは限りません
生きるのが辛(つら)い人はいても
死ぬのが大好き
という人はいないでしょう
 
だからこそ知る人は幸いです
逃れようのない時にも
最後の逃げ道は
用意されているのです
 
御子を信じる者が
ひとりも滅びることのないように…
 
それは御国へ至る道
穢(けが)れた肉体が壊され
塵に帰るときも
御使いに「ごくろうさま」と
言ってもらえるかどうか知らないが
肩や首筋に溜まった
凝りが解(ほぐ)されるように
重荷は解(と)かれ
軽やかに安らかに
引き上げてもらえる
最後の逃げ道
 
死が美しいと
思ったことはありません
けれど賜る死が必ずしも
悲しみだけではないことを知り
言うは易(やす)く
行うは難(かた)けれど…
祈り願います
 
御心は必ず成就するから
神様との約束は
必ず最後まで果たされるから
 
 
 
天国は、人間が感動するとき、どのような心境になるか、ということがヒントであります。ヒント以上の具体性を持って、地上の人が天国を理解することはありません。想像は想像であり、空想は空想であり、お伽噺はお伽噺以上ではありません。天国について、決めつけてはいけません。
 
信仰による慰めは一生を支えるものです。大丈夫と言ってくれる友人からの慰めとは違います。人の言葉で表されるものとは違います。また、魔法ではありません。人が神秘を理解することはありません。ぺらぺらと人の言葉で表して、分かったつもりの反キリストがいますが、何も分かってはいないのです。
 
心貧しいとは、心に先入観がないということです。心の貧困な反キリストや無神教カルトが何を豪語してきても、信仰を持っている人は空しさしか感じません。彼らが全く心に響かないことを信仰のように述べても、そういう反キリストの言は、野辺に放置された骨にも足りません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「だよなあ」「なんでしょうかね」は、楽山のボンヤリ言語です。丁寧を装う詭弁であり奇弁であります。自己愛に有頂天になり続ける災いの人が、分かったつもりになっているだけなのです。だから、平気で嘘を吐き、後悔せず、反省せず、無責任のまま、書く続けてきたのです。
 
 
 
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  詳細不明の楽山
 
 『「人間」らしさの構造』渡部昇一著
 2022年09月18日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
自己実現について書いています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が自己実現するなら、恐ろしいことになります。自己中が自己実現するなら、妄想世界か犯罪にしかならないからです。楽山に必要な自己は、檻の中にしかないと思っています。
 
「頑張ろうという気分になることができるのはよい」「人の心を元気にする良書だ」・・相変わらず、月並みな褒め言葉です。あとは、記憶違いの話が、半分以上で、合わせても短く、中身が、極端に貧困な記事になっています。書いて発表できることに呆れます。加筆する気なのでしょうか。
 
 
*元気が出る本
 本書では、生きがいとは自己実現であり、そのためにはまず内なる声に耳を傾けることが肝要だとしつつ、これを実践して生きがいを見つけ、自己実現を成し遂げ、幸福になった例を数多く紹介している。
 
楽山が自己実現を語るとき、それは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の欲望を表すことになるので、信頼度はゼロです。どうか騙されないでください。楽山は、無反省、無責任の、嘘と詭弁で書いて、人を丁寧語で、たらしこむペテン師です。
 
そういう人だから何を言われても書いてくるのです。罪悪感がないのです。楽山と付き合えば、それで楽山は悦に入り、受け容れた人は精神を破壊されるでしょう。何の罪悪感も感じていないからこそ、3年以上批判されても、平気で書いてくるのです。書くほどに醜い楽山ですが、自覚は皆無です。
 
 
現実はそう甘くはなく、誰もが本書の事例のように成功できるとは限らないだろうが、それはそれとして本書を読めば自分も内なる声に耳を傾け、頑張ろうという気分になることができるのはよい。これは人の心を元気にする良書だと思う。
 
「それはそれとして」という、とても、いい加減な言い回しを見逃さないでください。書くことが面倒くさくなっているのでしょう。ならば書かなければいいのに、病質のために、書かずにおれないのです。そうして、恐らく、一生涯を、他者に迷惑をかけることに費やしてゆくのでしょう。
 
楽山は、頑張ったことはないと思います。頑張って整っている芝居だけを覚えてきたのです。だから「頑張ろうという気分になることができるのはよい」などと平気で書いてきます。「人の心を元気にする」ことは、楽山には出来ません。病質のために、思いやる能力がないからです。
 
だから、平気で、自分の罪を自覚しないまま、勧めたり、アドバイスみたいなことを言ったりできるのです。他者がどうなろうと、完全に無関心でいられるという一種の感情鈍麻であり、その流れで、自己正当化はしても、罪悪感は感じず、反省も後悔もしません。厚顔無恥の典型でもあります。
 
 
*記憶違い?
ところで、久方ぶりに本書を再読してみて、なにやら自分はしょうもない記憶違いをしていたような気がしてきた。
これまでは、「内なる声を聞け」という教訓はスピリチュアリズムの本で知ったとばかり思っていたのだが、もしかしたらそれは記憶違いで、実際は本書で知ったのかもしれない気がしてきたのだ。本書で「内なる声」について何度も何度も繰り返し言及しているのを読んでいたら、そう思わないではいられなくなってきたのだ。
 
楽山は、内なる声を聴くことはありません。内なる罪を自覚しない者が、内なる声に耳を傾けることはないのです。自分を上において、人に、下を眺めるように、アドバイスするスタンスは、実に、身の毛のよだつホラーと言ってよいでしょう。楽山は、スピリチュアルでも何でもない、欲望の動物です。
 
 
「内なる声」の大切さについては、スピリチュアリズムの本でも、本書でも、どちらでも説かれているから、はじめにどちらで読んだかはどうでもいいことではあるが、今回再読するまで本書のことはすっかり忘れてしまっていたのにはいささか動揺せずにはいられない。やはり再読は大事だと改めて思った次第である。
 
楽山には何の関係もない「内なる声」について、楽山は知っているかのような嘘を吐いています。何度、本を読んでも同じだと思います。内省の一つもしたことはないのです。それをごまかすために、反省芝居や、読書家気取りで、自尊過大の醜い自我を表してゆきます。もはや人間ではない者の所業です。
 
この読書感想文も、詳細不明です。この短い記事で、楽山は、何が言えたと思うのでしょう。書いたから伝わったと思い込むのでしょうか。楽山は、独り、自我の妄想部屋に棲んで、発信だけは続けていて、その発信は、本人にも、他者にも、何の参考にも糧(かて)にもなりません。よく平気でいられる。
 
 
寒いのは書いたことにする詳細不明

寒いのは 書いたことにする詳細不明
 
 
(2022年09月19日)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  ありがとう
 
誰も読まない詩を綴り
誰も理解しない文章を書き
誰も聞かない歌を詠み
誰にも伝わらないもどかしさだけで
誰にも伝えられない痛々しさだけで
何を暗示したかったのだろう
寝起きの顔のまま
泥濘(ぬかるみ)の足取りで
伝わらないものか
伝わるものか
の足取りで 四角いポストに入れた
少し奥まで手を突っ込んで入れた
正直なつもりの
過ちを束ねて
この町の
ただ一度の一瞥にありがとう
そして帰ってゆく
自分の周りに
自分で作った格子窓から見るために
遠い国を
遠い国を
さようなら
 
四九八九、きゃんせる町、こどく市、もろはの県、ウソの国
 
 
「ウソの国」という言葉、結局は私が一生引きずっていく言葉・テーマなのではないかと思っている。
「天国はここにある、そこにあるというものではない。天国はあなたがたのただ中にある」という聖書の言葉がある。必ずしも天国との対比で考えてきたわけではないのだが、今のところ敢えて次のように言っておこう。
 
ウソの国はここにある、そこにあるというものではない。しかしわが身・わが心の内と外のいたるところにある。まずは自分の中に潜むウソを見つけることから、ウソの国への果てしない旅が始まる。私が考え、書いているところの、ウソの国は、神の国の、ネガなのかもしれない。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の書く文章は、精神年齢に合ったものになってゆくような気がします。思考が長く続かないのかもしれません。ちょっと書いて、すぐ嫌になって、そこで結論とする癖がついてきたのでしょうか。意地を張って長い文章を書いたら、嘘と詭弁と無駄話の大安売りの大迷惑になるでしょう。
 
楽山のような無神教カルトは、神の奇跡と事実にばかりこだわって、神の御心やキリストの共感には不感であるため、キリスト信仰から大きく外れた宗教観を持ち、それによって、的外れに神を否定しています。それはもう、とても乱暴な話であり、心を持たない強欲な人間離れに過ぎません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「謀略論に関心がある人」も、マイコンされやすいですね。
>>引用ツイート
紀藤正樹 MasakiKito
@masaki_kito
20時間
紀藤弁護士が教える「マインドコントロールされやすい人」の10項目 https://tokyo-sports.co.jp/entame/news/4446791/ 1)大学進学(2)新入社員(3)環境変化(4)新しいことにチャレンジしたい(5)社会に役に立つことがしたい(6)素直な性格(7)完璧主義(8)孤独(9)健康不安(10)マイコンに絶対かからないと思っている
<<
午前10:11 · 2022年9月18日
·Twitter Web App
 
注意してください。「謀略論に関心がある」楽山は、生業としてマインドコントロールしてくる人です。楽山は、仏様の心が分かるっぽい体験?から、霊能、謀略、右翼、無神教カルトに興味があるようで、そういう記事を書いてきました。しかし、読んで糧(かて)になる記事は一度も書いたことがありません。
 
楽山は、社会に役立つことがしたいのではなく、役立っているつもりかもしれません。実際は、有害な社会の敵です。霊能などに努力せずに到達しているつもりです。素直ではなく正反対のサイコパスです。完璧な自分を妄想しています。どこまでも病識も罪悪感もない人です。
 
 
 
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  楽山の独り芝居(3)3
 
 神についての対話 3
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 
 
疲れたのか、楽山の理路の破綻が目立ちます。若者も老人も楽山です。楽山の自我であり、我欲であり、利己であり、自己優越の快感モドキなのです。これくらい、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は救いがたいほど思い上がるということです。
 
対話形式にするときに、独り芝居と言われることを予想しなかったのでしょうか、不思議ですが、理屈を言いながら破たんし、的を外してますから、あちこち、予測も抜けてくるのでしょう。宗教という重大なテーマに、サイクリングでもするような気やすさで出かけたのだから、転倒することになります。 
 
*神について知る方法
若者 「人には神のことは分からないという意見は分かりました。ただ正直言って、僕には、それはとてもさみしい考え方のように感じられます。人はどんなに努力しても、神のことを知ることはできないとしたら、堪らなくさみしいですし、残念です」
老人 「そうか。それだったら、きみは人は神のことを知ることができると考えたらいいよ」
若者 「えっ!? そんなことができるんですか」
老人 「できるというか、そういう考え方もあるにはあるね」
若者 「たとえば?」
老人 「たとえば、人には神性が備わっていて、本質的には神と同質であり、それによって神を知ることができるとか…」
 
楽山は、人に神性が備わっている、と言っています。神と人の違いが、まるで分かっていない人の、決定的な妄言です。楽山には、神も人も、相互に交流などできないから、扱う対象になるのでしょう。楽山が、いつか教祖にでもなって、神の位置に立ちたいからでしょうか。
 
 
若者 「あとは…」
老人 「人は自力では神を知ることはできないが、神からの働きかけによって神とは何であるかを知らされることがあるとか…」
 
神からの働きかけが、神からだと、どうして分かるのでしょう。楽山は、自らの神性を主張したいのでしょうか。教祖願望なのでしょうか。呆れた無理解による、恐れを知らない発言です。
 
神の導きかもしれないと思うときはあります。その場合には、それが否定されないあいだ、その正邪や善悪の最終的な判断を神に任せて、人は、そのことを考えて判断し行動し、経過と結果と気持ちを正直に祈って神に捧げるのです。
 
それが、信仰者の生き方であり、神と違う不完全な人間の生き方であります。実際には、そのときの陶酔気分であることもあり、我流の因縁付けだということもあります。やはり神の導きであったかという気持ちになることもあるでしょう。前もって知ることは、地上の人間には出来ないことです。
 
大事なことは、そこで、個人の信仰が、固定ではなく、反省と学習という真っ当な道であるかどうかが試されるのです。楽山に、今まで、見られたことのないものです。
 
楽山は、霊だけでなく、神も分かるっぽいと思っているのでしょうか。実際には、紙に書かれたものの表面的な意味としてしか受け取っていないし、ましてや、一般の書籍についても、実に気安く、他者の意見の断片を紙切れのようにしか利用して来なかった楽山であります。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の御方です。これらの中に、人間の手に負えるものは一つもありません。人に神性を備わっているなどは、反キリストの世迷言に過ぎません。
 
 
若者 「つまり人であっても、神を知ることができる可能性はあるんですね」
老人 「これらによって真に神を知ることができるかどうか、できたかどうかは証明のしようがないことだから、できるとも、できないとも断定はできないけれども、そういう可能性を含んだ考え方があるのは確かだ」
若者 「僕には、人には神のことは分からないとするより、こちらの考え方が合っているみたいです。なんだか、心にピッタリする感じです」
老人 「それなら、そちらの方を選択したらいい。というか、他人がとやかく言ったところで、きみの宗教的な選択を止めることはできないだろう」
 
神を知る、ということについて、断定はできない、と言いながら、知る可能性を含んだ考え方があるのは確かだ、と言っています。「可能性」なのに「確かだ」とは、滅裂に近いボンヤリ言語だと思います。だから、楽山にとってだけ「ピッタリする感じ」なのでしょう。
 
神を知るという言い方は語弊があります。聖書の記事から知り得ることはあるでしょう。しかし、それは、神の意志と行為や辻褄を理解するには、あまりにも拙劣で未熟な理解なのです。思い込み信仰やカルトの入り口になりやすいところです。
 
一貫性の無い理路、遠回しで何も示せない思慮、これは楽山の癖なのでしょう。私が、楽山に、何も書くな、と言いたくなる理由です。楽山の記事は、読者を、楽山の恣意に誘導する性質を、企みとして、必ず持っていると言ってよいのです。それが楽山の目的だからです。
 
 
若者 「そうですね。僕はこちらを選ぶことにします。…あれ、でも困ったな。やっぱり人には神のことは分からないというのも一理あるように思えます。どうも、どちらか一方だけを信じ、もう一方は完全に捨て去るということはできないみたいです。どうしたもんでしょう」
老人 「その点は、私もきみと変わらないさ。神は不可知と思いながらも、分かると思うこともある。人の心は揺れているのが自然な状態であろうし、その揺れを止めるのは仏陀でもなければ無理だろう」
若者 「それを聞いて安心できました。今日はいろいろな話を聞けてよかったです。ぜひまたお話を聞かせてください」
老人 「よろこんで」
若者 「わあ、よかった。それでは今日はありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう。さようなら」
 
「僕はこちらを選ぶことにします」という楽山は恐怖です。後で否定的なことを書いていますが、これもボンヤリ言語の印象付けでしょう。神を理解する立場は人間にはありません。楽山が今のまま自己中・無反省・無責任であるあいだ、神の恵みを感受する信仰にも、届くことはありません。
 
楽山は、人の心の揺れのを止めるのは仏陀でもなければ・・と言っています。どこから仏陀が飛び出してくるのでしょう。楽山の、まるで本気でない、気安さが表れています。結局、反キリストの楽山にとって、神も仏も、笑って済ませるような、オモチャに過ぎないということでしょう。
 
「一理ある」という薄い言葉理解で、神を判断している楽山です。最後は、楽山が、楽山に、礼を言っている場面ですが、恥ずかしくないのでしょうか、恥を知らないのでしょうか。詭弁だらけの自己主張~妄想。自己顕示欲はあっても、罪悪感も羞恥心もない独り芝居です。
 
反キリストの楽山が、神の信じ方を云々することで、この記事が、意地の悪い詭弁そして刷り込みだと分かるのです。どこまでも白々しいインチキで、楽山だけが、支持されているという妄想の世界に住んでいます。緩やかに発狂してゆく病気が、この楽山に典型的な体質的人格障害です。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
超常趣味であり、超常現象が好きで、霊が分かると思っている。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害と思う。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリを気取って、分かっているという我執から離れられないようです。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、あるいは、元信者かどうかも、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで、または、本の中の引用で、理解したと慢心する。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。責任を持って堂々と自分の意見を言うことが出来ない者ほど、凝ったつもりの、実際は、とても臭い芝居を用意するのでしょう。そして、バレていることにも気づかないのでしょう。
 
楽山の書いたものを読むのは止めたほうがいいと思います。嘘と詭弁だけは年季が入っているからです。理路を、ある程度、批判的に読めるのでないと、なんとなく、そうか・・などと受け取りやすい書き方をしてきます。そこに、楽山は、あぐらをかいてきたのでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
色あせた色褪せた独り芝居の果て

色褪せた色褪せた独り芝居の果て
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月27日、再録+加筆)
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  夢の肌
 
眠れない夜は
ひとつの世界
重なりあう思いに
乱れた欲望に
解き放たれようと
夢の肌を探る
天井と床の間で
さまよう視線が繰り返す
明滅のうちに
苦しみながら呼んでいる
ひとつの旅
光も闇も
夢と眠りの跡を
ゆるやかに流れ
消えて
忘れた言葉のような
弱々しい悔いと気分を残して
新しさにまだ気づかない
朝を迎える
夢の肌のあせるころ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはつまり、棒氏は、自分の失敗パターンを認識し、同じパターンにはまらないようにするという反省の教えを実践できてないということです。
余計なお節介かもしれませんが、守護霊がどうした、アンチがどうしたというよりも、まずは、心の教をきちんと学び、実践することをおすすめします!
午前6:55 · 2022年6月26日·Twitter Web App
 
楽山は、まず、自分の失敗を認めない人です。楽山は「心の教をきちんと学び、実践すること」など、したことはないと思います。楽山は、まったく「余計なお節介」だけをしていますが、人のことを、とやかく言う資格などない人です。楽山は、宗教と信仰の、最悪の背教者そして偽善者なのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
そんなことができるってことは、自己陶酔、ナルシスっぷりは、ジャイアンを軽く超えとる(笑
午後8:15 · 2021年6月23日·Twitter Web App
 
OR批判のようですが、楽山は、相変わらず、他者を笑うことが生き甲斐のようです。笑止と言うべき自分を見ることだけは出来ない楽山です。つまり、病識も自覚もない楽山です。楽山こそが「自己陶酔、ナルシスっぷり」を表しているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己陶酔とナルシズムと不感不応の鈍感と薄情な独り芝居に生きている楽山は、恐らく感動も共感もしたことはないと思います。しかし、反省という言葉だけ使うのと同じように、感動という言葉も使ってきました。つまり、気安い見せかけと誘導の芝居には何も実感がないのです。
 
情けないほど、楽山には、宗教性が見られません。心に受け取る器がないようです。だから、楽山が聖書や本を読んだことにして書いても、何も糧にも参考にもなりません。嫌がらせをしたいだけのサイコパスだと思います。もっと悪くなるかもしれません。どうか楽山にだけは関わらないでください。
 
 
 
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  楽山の自己顕示欲
 
  『心經入門 彼岸からのメッセージ』平一著
  2022年05月19日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が書くものには、自己顕示欲だけしか表れていないことを指摘することが批判となっています。雑な文章を書いて、本を読んだことにしてきますが、批評としても感想としても実質のないのが特徴です。
 
ふつうは、身近な問題からでも、真実について考察するのが人間だと思いますが、楽山には、そういう気がないのです。無条件で、読書家のインテリを気取っても空しい限りです。楽山には、身近な真実の実感がないのだろうと思います。
 
 
*概要
この間、無性に未知のスピリチュアルな本を読みたくなったので、積読本の中から本書を選んでみた。
ただ残念ながら無学なので、生命の木などを用いて般若心経の意味を読み解いているという大枠は察することはできても、細部についてはちんぷんかんぷんである。自分の無知無学無教養を痛感させられてしまった。とほほ。
 
「ちんぷんかんぷん」なのに、感想を書いて、考察せずに、読書家気取りの自己顕示欲だけ満足したい楽山です。「自分の無知無学無教養を痛感」したなら、反省・勉強・学習するはずですが、その経過も結果も書けないまま、宗教書をよんだぞ・・という自己顕示だけはしてくる楽山なのです。
 
 
*出会い
が、そんな中で、この部分に関しては思わず膝を打ってしまうほど合点がいって愉快だった。
人は、ネガテブな状にいてポジテブを思い、ポジテブな状にいては知らず知らずにネガテブを思っているものなのです。
古き賢者方は、このような状を「陰極まって陽となり、陽極まって陰となる」と言っています。
(『心經入門』平一著、ブイツーソリューション、2018年、p.111)
 」
一つの思いを強く持つほど、それとは反対の思いも強くなるだとか、上がり切れば、あとは下るしかなく、下がりきれば、あとは上がるしかないという考え方は、それぞれ知識として知ってはいたが、迂闊にもその二つを関連付けて考えたことはなかった。
 
だから、どうなのか、つまり、経験談も、考察も、書けない楽山です。「膝を打ってしまうほど合点がいって愉快」と書いています。何が愉快なのでしょう。何が結論なのでしょう、何が思想なのでしょう、どこが書くに値する感想文なのでしょう。皆無です。
 
「ポジテブ」と「ネガテブ」、「一つの思い」と「反対の思い」、という問題に、「上がり切れば、あとは下る」「下がりきれば、あとは上がるしかない」と、安い物理みたいに上がり下がりとして書いています。しかも「関連付けて考え」ていません。
 
病質によって、気取りだけでインテリっぽく見せて、読書をしたことにして文章を書けば、読者は騙されると自己満悦から思い込んでいるのです。読者にヒントも何も与えない文章となっています。ただの知識不足ではなく、自分の都合のよいところだけをつまんで褒めるだけの駄文です。
 
恐らく、楽山は、自身の、ポジティブにも、ネガティブにも、全く気づいていないと思います。どれだけ迷惑をかけても、批判されても、相変わらず図々しく書いてくるところが、むしろ、病質の証拠となって積み重なってゆきます。
 
楽山はダークネスであり、公開できるようなネガもポジもありません。全てを煙に巻いて、明確な主張も思想も、また、一人前の人格も、持ち得ていないのです。だから、安易な肯定も、意地悪な否定も、みな自己を表すだけで、大人としての責任を負うことがないのです。
 
 
本書は自分には難しすぎたが、これに気付かせられたのは有り難い。感謝。本というものはその全てを理解できなくても、ハッとさせられる一文と出会えたなら、それだけで自分には満足ある。
 
「難しすぎた」のに、「気付かせられた」「ハッとさせられる」と言っています。あとは、「有り難い」「満足ある」と褒め言葉です。考察がないのです。楽山の文章に共通している受けねらいのインテリ気取りで、肯定を書き、否定を書き、その根拠を示さず、自己満足するだけの筆致です。
 
 
 
  映画『ゴースト・イン・ザ・ファミリー 新しい家族』
  2022-05-19 楽山日記(a)
   を批判。
 
 
書くものには、それを書く動機が表れます。楽山の書くものには自己顕示欲が表れ、顕示されたものが、楽山の不純な動機とともに、欲望と見栄以外何もないことを表します。自己愛妄想による気取りが加わって、いっそう悲惨になっています。
 
丁寧語が楽山の武器です。婉曲表現のボンヤリ言語と、謙虚芝居のトホホ言語で騙してきます。病的ナルシストは、犯罪傾向の強いサイコパスと同類です。今までの数々の偽り、ここで、まとも芝居、今さら、醜いだけです。
 
 
『ゴースト・イン・ザ・ファミリー 新しい家族』を見た。
あらすじは、深く心の傷ついている男の幽霊が、同じく傷ついている女の子と出会い、仲良しになり、やがて家族ぐるみの付き合いをするようになり、お互いに助け合い、前向きに生きてゆくというものである。登場人物はみんな良い人ばかりなので、安心して見れていい。
 
「みんな良い人ばかり」が、幽霊と仲良くできるでしょうか。楽山を「安心して」見ないでください。そんな幽霊より、どんな幽霊より、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は怖い人です。楽山は「助け合」うことが出来ず、助ける芝居で、傷つけてゆきます。
 
楽山のご馳走は、自身の優位性を感じることです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、うわべの謙虚そうな言葉に騙されないでください。楽山の害に遭うと、人格が弱って、鈍くなり、破壊される恐れがあります。出会わないことだけが幸運という楽山です。
 
 
こんな風に、幽霊と仲良しになって、みなで楽しくご飯が食べられたら幸せだろうな(笑
 
楽山は、自分が、自己愛性人格障害のために「みなで楽しくご飯が食べられ」ないものだから、人ならぬ「幽霊と仲良し」になりたいのだそうです。どういう、ご飯の食べ方をするのでしょう。人肉に食らいつく悪霊のホラー映画のようになりたいのでしょうか。それで「笑」って楽しいのでしょうか。
 
楽山は、幽霊と仲良しになって、いっしょにご飯を食べたいのだそうです。映画はフィクションだから、楽しめますが、楽山はリアルな病的ナルシストです。間違っても楽山と仲良しになってはいけません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、深く心を傷つける男だからです。
 
楽山は、一種の化け物です。だから、人々の間ではなく、幽霊とともに食事などという発想になります。実際には、霊が分かるっぽい?自覚の、超常心霊マニアであって、病質とともに、人間性を大の苦手にしている楽山です。だから、楽山は、人間的な情緒を、まるで感じることが出来ません。
 
 
ブレーキの効かない自己顕示欲

ブレーキの効かない自己顕示欲
 
 
(2022年05月21日)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
 
  罪のらくだ
 
「右の頬を打たれたら・・・」
左の頬をぶん殴ってやる
か逃げるだろう
「みだらな思いで女を見た者はすでに姦淫を・・・」
みだらな思いで女を見たことのない者は
性欲の異常か病気だろう
「敵を愛し・・・」
本当に敵と思ったら
愛せるはずはないものを
「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく・・・」
許せることもあれば
許せないこともある
許すべきではないと思うことさえある
許したつもりの心の裏側に
隠された軽蔑、あばかれるごとく・・・
 
主よ、あなたの教えを守らなければ
罪人なのでしょうか
御国へ至る道はないのでしょうか
 
主よ、許されて御国へ至る道を知らしめたまえ
まことに私は罪人です
繰り返し繰り返し
主の教えを破るばかりか
それ以上の罪を犯し
さほど金持ちではありませんが
針の穴に向かって突進する
愚かなラクダ
主よ、あなたに許されるより救いはなく
小さな針の前で途方に暮れて
とうとう針を飲み込んで
毒を飲み込んで、瀕死の
みすぼらしいラクダ
あるいはヒトです
 
 
  家の階段
 
数えきれない
数えることもない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
  どこへ
 
「はい」はどこへ行った
「いいえ」はどこへ行った
煙草片手に
小石混じりに糸を引く道
食の道行き辿り辿れば
見果てぬ先に数知れず
「はい」は胃炎に
「いいえ」は灰に
食の日月よ見上げれば
いつから満ち欠けて
みな我に返るというのか
吐き出すものは身に降りかかる
煙が気道をしめつける
「はい」をどこへやった
「いいえ」をどこへやった
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の書いてきたものは、誰にとっても、ヒントにも、糧にも、参考にもなりません。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による自己顕示欲への執着が、ちびちびと、お漏らしをしてきます。不潔な排泄を、いつまでも失禁してくるのも病質ゆえでしょう。
 
 
 
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  楽山の病質2
 
 「内村鑑三先生の憶ひ出」志賀直哉著
 2020年12月18日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
楽山が、書きたかったのは憶ひ出(思い出)ではなく、悪口だと思います。引用しておきながら、悪口を言う、このような分裂した筆致が、楽山の腐った持ち味です。
 
これは内村鑑三と師弟関係にあった志賀直哉の随筆であるが、内村鑑三にまつわる逸話が多く紹介されていて、頁数は少ないものの、なかなかに読み応えがあるものになっている。
ちなみにここで披露されている逸話のうち、いくつかを抜き書きしてみると、まず内村鑑三は何かの折に「僕は男よりも女の人にはよく好かれる」と笑っていたことがあったそうだ。こんな冗談を言う人だったとは少々意外である。
 
楽山が、どういう「読み応え」を感じていると言うのでしょう。志賀直哉の口を借りて、内村鑑三をネタに、冗談でおとしめる楽山です。こういうことを材料に、キリスト教を、おとしめ、冗談まじりに、侮辱してきた反キリストが、楽山その人です。
 
また、外国人が郷土の言い伝えを披露したときに、「余程馬鹿な先祖だな」といって相手に嫌な顔をさせたとか、日蓮とキリストを同列にして語る人について、「そんな事をいふ奴は博士ぢゃなくてバカセだ」と決めつけたとか、閔妃暗殺に関わった社会主義者が聖書研究会に現れたときは「〇〇さん、貴女はこれから来ないように……」と断っていたともいう。さらには、著者がクリスマス会で罪の意識について疑問を持つような話をした時には、「そんな話より、バラのさし木を作る話でもすればよかつた。その方が聴きたかつた」といったそうだ。これらの逸話は人によっては酷いと感じるかもしれないが、自分には内村鑑三の正直さ、率直さをよく表しているように思えて愉快である。
 
「馬鹿」「バカセ」「来ないように」・・このような悪口は、学者気取りの楽山に向けられるのが相応しいです。自分の立場を弁えないで、自分が言われることを考えもしないで、人の悪口を、別の人の口を借りて、わざわざ記事に書いてくる性根に、何か意義があるでしょうか、否です。
 
そして、内村鑑三の著作から引用してきた手前、後付けで、「正直さ、率直さ」などと、褒め言葉を書いて、それで、帳尻を合わせたつもりでいる愚か者が、この楽山なのです。逆の言葉を書けば、化学実験のように中和されるとでも思っているのか、本当に腐ってる。
 
否定と肯定を、同時に、反省と訂正なしで書けば、それは、矛盾というのです。それが分からないならば、小学生以下です。楽山は、どこで、どうやって、成長し損なったのでしょうか。楽山は、「正直さ、率直さ」を持たないので、これから「来ないように」と言われるべき人です。
 
楽山は、今日、褒めても、明日には、ボロクソにけなす、というような、気分易変に伴って、評価を180°変える人ですから、しかも、「愉快」と言っていますから、元々が、人をけなし、おとしめることに快感を覚えているだけの人なのです。そして、一切、責任を負わない人です。
 
聖書に関連した話としては、内村鑑三は、キリストはピラトから「お前はユダヤの王か」と問われて、「然り」と答えただけで、それ以上何もいわなかったところが大事だといっていたという。キリストは「然り、しかしその王の意味は」と細かく説明すれば命はたすかったかもしれないが、あえてそうはしなかったのだと…。著者の想像によれば、不敬事件の際の先生の態度は、この考えによるものだったのではないかとのことである。
 
けなした後で、「先生」と呼んでいることは、滑稽でさえあります。そして、楽山は、今までも、褒めた後で、けなすことは、しばしばあり、そのような気まぐれから出た言葉が、理路を拡散し霧散させてゆく特徴があります。
 
キリストを、楽山らしく、世間話で語る反キリストらしい筆致です。悪口を集めておいて、敬意の言葉だけ付け加えればバランスが取れて、中立だとでも思っているのでしょうか。それを書いて、評論や感想文になると思っているのでしょうか。
 
人の気持ち、読者の気持ち、常識的なこと、配慮する気配り、など、全く感じることが出来ず、鼻息以外、何も持っていない病質者の特徴です。楽山は、まともな文章が書けない人なのです。書いてくる大方が、真剣味のない、茶化しなのです。
 
自覚がなく、自尊だけ高い病的ナルシスト楽山が、どんな生き方をしているかが分かると思います。嫌がらせのように、書くことだけは止めない楽山に、まともな評価を、受ける資格も、与える資格も、ありません。
 
(ネットより)
内村鑑三不敬事件:
1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式[1]において、内村が天皇晨筆の御名(おそらくは明治天皇の直筆ではなくその複写)に対して最敬礼をおこなわなかったことが、同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであったが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。
 
この3年で、楽山は、神にも、人にも、不遜・不敬であることが明らかになっています。人のことを言えない立場でありながら、人のことばかり言う楽山は、真実の追求を目指す思慮深い人に、不敬・不快・迷惑・侮辱だけを与える病的人格の持ち主です。
 
よほどの誤った自信か、自尊過大の自己顕示を止めないのです、何度言っても、止めないのです。無反省・無責任・訂正不能の厚顔無恥であり、他者のことを何も考えず、いつ犯罪に走っても、おかしくないような病質者です。決して関わらないでください、近寄らないでください。
 
以上、この随筆で紹介されている逸話の一部を抜き書きし、簡単な感想を添えてみた次第であるが、本編ではこの他にも興味深い話がたくさん披露されているので、関心のある方にはぜひ一読を勧めたいと思う。
 
逸話だけで有名人を語ったつもりになり、安易すぎる感想でキリストをけがす楽山です。つまり、楽山にとって、キリスト教は「簡単な感想を添えてみた次第」で済むことなのです。興味本位というより最初から侮辱するために書いているのでしょう。罪悪感がないと、こうなるという例です。
 
このように、キリスト教をおとしめようとする者は、あれだけ引用してきた内村鑑三を、別の日には、ボロクソに言える性根を持っているということです。恐らく一生涯、冷静を装うだけの、ならず者、醜いピエロという正体が表れてゆくでしょう。
 
言うまでもないことですが、楽山は読書したとしても安定した感想を持てない人なので、楽山の感想文は全く当てになりません。気まぐれで、口から出まかせを書くだけの人なので、くれぐれも、決して参考にしないでください。
 
 
けなすときだけ上機嫌

けなすときだけ上機嫌
 
 
(2020年12月19日、同日一部修正)
(2021年12月22日、再録+)
 
 
※ 付録(2020年12月、2021年12月、再録+))
 
何とかなることを祈っているが、新型コロナは、2年経っても、治まるどころか、ひどくなっている。来年で終わるかどうかも分からないなら、医療が崩壊する可能性がある。そのことも併せて作用して、経済が崩壊する可能性がある。そうなると、貨幣価値も当てにならなくなる。
 
最悪の場合には、自殺、暴動、略奪、他殺、パニックなど、個人または集団による犯罪が多発するだろう。医療・医学がどうの、とか、経済政策がどうの、という議論では済まなくなる可能性がある。国民の生存権を直接守る政策が必要な気がする。
 
国家にとって、いちばん大切なことは、全ての国民が生き続けることだろう。どの都市でも区でも市でも町でも村でも、そこに行けば、食糧と飲料があり、眠る場所もある、という場所を設定し、そこへの連絡と物の輸送のライフラインを保持する具体策が必要な気がする。
 
「生存権」
生存権を具体的に守るために法制度が必要ですが、末端におけるコミュニティの人間関係の役割が重要だと思います。支配や秩序だけではなく、人間力による節度ある助け合いが必要だからです。
 
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  自尊心
 
自尊心(プライド)の高い人は
自分を隠すのが上手です
とはいえ時には溜まったものを
吐き出すことも必要です
 
徹底して聞き手にまわり
貴女の言うことを記録にとどめます
それは合図(サイン)
 
自尊心の高い人は喋(しゃべ)りすぎると
恥をさらしたような
損をしたような気持ちになる
 
だからまもなく貴女が
面談を終わらせたい旨を私に告げたとき
私は目一杯の誠意
を込めて答えたつもりなのです
「はい。貴女がよろしければ」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
恥を知らない人は、恥ずかしいという気持ちが元々備わっていないのでしょうか。自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言えるのは、ペロッと舌を出すような軽さ、悪ふざけの類でしょう。
 
 
 
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