ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の手口2
 
 『神道からみた この国の心』樋口清之、井沢元彦著
 2020年08月05日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
イド(欲望)と、エゴ(自我)だけがあって、スーパーエゴ(超自我)のコントロールの利かない楽山は、中身のない記事で、確認したつもりになります。それが楽山の手口なのでしょう。
 
これは神道および日本についての対談をまとめた本であり、前に読んだことがあるものだが、内容はすっかり忘れてしまったので今回あらためて読み返してみた。特に印象に残ったのは次の箇所だった。
まず一つは、井沢元彦と樋口清之の会話は、井沢元彦が「逆説の日本史」などで書いている自説を披露し、それに対して樋口清之は慎重な態度で感想を述べるという型が多いことだ。このあたりは小説家と学者のちがいが明確にあらわれていて面白い。
 
知恵が足りないために説明できない者が、自己顕示欲を満たそうとして取る手段は、いっさい、説明をしない、ということです。有名人の名前だけをあげて、「面白い」、と言い、自分が、このレベルのことが分かるインテリなんです、というアピールをしてくるのです。
 
どういう「ちがいが明確に表れていて面白い」のでしょう。何も書いていない。アイデアもセンスもない楽山には、何も書けない、ということが、ここで既に、バレています。
 
二つ目は日本では信仰を統合、統括しないという話だ。たとえば火山の神、灯火の神、炊事の神などは個別に拝むが、火の神として一つにまとめたりはしないという。なぜかといえば「そんなことをしたら、ゼロになってしまいますから。すべてのものを統括したものというのは、実は、あるものであってないものなんです。ないものになっては困る」(p.40 樋口)ということであり、「火の神として一つにしたら、目の前の竈や灯火から、神様がいなくなってしまう」(p.40 井沢)からだという。
 
「信仰を統合、統括しない」・・楽山の自己中の話し方です。楽山は、書き方を正確に、みたいなことを、前に言っていましたが、ここでの主語は誰なのでしょう。事実でしょうか、当為でしょうか。さらに、人間が主語になれるでしょうか、否です。信仰の統合など出来ません。
 
神が・・ということなら、今度は、神を決めつけていることになります。言ってることが、ことごとく、成り立たない、それが、楽山の詭弁の成り行きです。人の口を利用し悪用するゆえに、部分で全体を決めつけて、自分の口を失っているのです。
 
さらに、人は、神を、まとめることは出来ません。日本を主語にして「一つにまとめ」るということは、元々、できないことです。神を、物か何かのように机上の対象物とする楽山のような、信仰に縁のない者だけが、まとめるなどと言って、無知と無恥をさらします。
 
自分は思想宗教の統合だとか、体系化だとかにはさほど関心はなく、そういうことはあまり性に合わない方なのだが、どうもこれは日本的な宗教感覚と無縁ではなさそうだ。
 
関心がなく性に合わないなら、なぜ、書くのでしょう。「日本的宗教感覚と無縁ではなさそう」などと、分かっているかのように、説明もしないで書く災いが、気持ちよくても、楽山に日本的感覚も、宗教感覚も、皆無です。
 
宗教感覚と言って、それを説明できないのは、分かっていると言いたいだけの自己顕示欲だからです。実際は、何も説明など出来ない楽山です。実に迷惑です。楽山は、書くことで、疲労だけをもたらします。つまり、エナジーバンパイアだということです。
 
三つ目は、皇族には知らないことを恥ずかしいとする考え方がないという話である。樋口清之は皇族のある方に講義をしたときに、その方は知らないことがあっても恥ずかしがる素振りを少しもみせなかったので、不思議に思ってその理由を問うてみたところ、皇族では「負けても知らなくても、悔しいとか恥ずかしいとは思わないのが、普通」(p.122 樋口)らしいことが分かったのだという。 
 
楽山は、負けたり知らなかったりすることが恥ずかしいのでしょう。知っている、分かっている、と思わせる詭弁と嘘だけを、ずっと書き続けています。しかも、誇り高い存在感など、一度も見られたことがありません。品のない執拗さだけで、言論にしがみついているだけです。
 
楽山は、ことごとく批判されているのに、無視して書き続ければ、説明をしなくても、刷り込みのように、いつのまにか、自分も、有名人と肩を並べるインテリ評論家だと見てくれるじゃろ・・とでも思っているのでしょうか。浅ましいことです。
 
この話はずっと記憶に残っていたものの、何の本で読んだのかは忘れてしまって、さっぱり思い出せずにいたのであるが、どうやら本書で読んだものだったらしい。長年のもやもやが解決できてよかった。こういうことがあると、やはり本は一度読んでおしまいにするのではなく、時々は読み返してみるものだとつくづく思う。神道のことは今回の再読でもやっぱりよく分からなかったのではあるが、それでもこの点について確認できたのは本当によかった。
 
そして、楽山は、説明も根拠も書かないまま、ほめています。「長年のもやもやが解決できてよかった」「確認できたのは本当によかった」・・自分はインテリだと確認できてヨカッタさんなのです。完全に読者を無視している自慢だけの記事となっています。
 
楽山は、何を「確認できた」というのでしょう。自己愛が確認するのは自尊過大の妄想だけです。楽山の「もやもや」のボンヤリ言語が目立つだけで、有名人の名前を出して、読んだ読んだと何も説明せずに、自分を高めようとする人も、珍しいでしょう。恥というものを知らないからです。
 
 
 幸福の科学とスピリチュアリズム
 2020年08月05日 楽山日記(LD)
 
 
浅薄な知識と、不感不応と、自己顕示の自慢という、楽山の腐った手口が、明らかになっています。
 
*共通点と相違点
「霊界からのメッセージ」氏のツイートを読んでいて思い出したのだが、幸福の科学(HS)も初期の頃は、スピリチュアリズム色が濃厚だったのだった。
サンポール氏の記事で、初期の教えを確認してみると、やっぱりそのようになっている。
・混ぜるな危険! ブログ・サンポール 『旧版・日蓮聖人の霊言』~幸福の科学・初期の教え
とはいえ、両者には大きな相違点もある。たとえば、スピリチュアリズムの方では、霊人の名前でなく、その教えの内容こそが重要なものになっていて、だからこそアメリカ先住民の無名の霊が、地上の欧米社会に向けてメッセージを送るという形になっていたりもするのだが、大川隆法による霊言の方はといえば、歴史上の偉人賢人など、有名人の名を冠したものばかりなのだ。この点については両者は正反対だといえる。
 
「アメリカ先住民の無名の霊」の霊が語っても、それを代弁している人が、霊を信じていることに変わりないのに、どこが「大きな相違点」なのでしょう。現実離れの立場は、同じです。こういう常識的な理路さえ全く分かっていないのが楽山という自己愛性人格障害なのです。
 
有名人?の名を冠しても、検証不能な超常のお告げならば、正反対かどうか、どうして分かるのでしょうか。あるいは、HSの傲慢を言っているのでしょうか。ならば、なぜ、HS批判として、そういう書き方をしないのでしょうか・・つまり、自分を高めるのが目的だからなのです。
 
楽山は、字面だけで、一気に霊や超常に飛びたいだけなので、どちらも大好きなのでしょう。字面だけ難しい言葉を使ったり、複雑な言い方をして、自らの心霊主義を、専門家気取りで高めようとしています。本質を説明できないものだから、考えもせずに2つ並べて正反対と短絡するのです。
 
もしかしたらHS側は、その理由として霊媒の能力を問題にするかもしれない。スピリチュアリズムの霊媒たちは、霊的な認識力が充分でなかったために、霊言をする霊人の正体をつかみきれず、その名前も分からなかったが、大川隆法総裁は偉大な霊能者であって、霊的な認識力に優れ、霊言をする霊人がどのような存在であるかがはっきり分かるのだと。
 
霊媒という説明できない霊の話ばかりになっています。比較しているつもりなのでしょうか。正体をつかみきれるのでしょうか。超人?の話になって、楽山は饒舌になっています。中身、信頼度、説得力は、一貫してゼロです。霊能もないのに、他者の霊能力を話題にするのは、みじめなだけです。
 
でも百歩譲ってそれが事実だとしても、白人社会において有色人種の霊がメッセージを送るというシルバー・バーチの霊言と、日本社会において多くから尊敬されている偉人賢人の霊がメッセージを送るというHSの霊言とでは、その背景にある理念はまったく異なるということに変わりはない。
 
「百歩譲って事実だと」するそうです。そして、霊言の「背景にある理念」が、国によって、「まったく異なる」と言っています。何を根拠に?どう異なる?というのでしょう。文化が違うから、違うの当たり前じゃろ・・とでも言うのでしょうか。あきれます。
 
どちらも、根拠のないことだから、最初から最後まで、何も説明できはしないのです。空疎すぎます。
こういう楽山のような者を受け容れて、一生、泡を吹き、地団駄を踏み続け、踊らされる人生になってよいわけはありません。
 
楽山は、裸のインテリ気取り、王様気取り、実際は、何も独自の洞察など、組み立てられない人です。疲れるだけでなく、そのために、人格が鈍麻してしまいます。ゆえに、決して関わり合いになってはいけません。人生は、思いのほか、短いのですから。
 
一方は被差別者による霊言であり、もう一方は権威者による霊言であるというちがいは、その背景にある意図、理念、精神がまったく異なることを示しているのであって、霊媒の能力の問題で済まされることではないのだ。
 
被差別者というのは、霊能者だから差別されたということでしょうか。権威者というのは、差別するものでしょうか。ここで、楽山が、真偽について語らないのは、信じているのでしょうか、楽山は、どう済ませるつもりでしょうか。うさんくさい話に終始しています。
 
ちなみに、被差別者による信仰と、権威者による信仰は、背景云々よりも、その土台が異なるために、前者は被害者意識に、後者は威丈高になりやすいだろうと思います。どちらも、信仰においては、改められなければ、害毒になるでしょう。霊能を分析できないのだから、言っても空疎です。
 
*教えの改変
サンポール氏は、HSの初期の教えを紹介した後で、それがどのように改変されたかも記事にまとめてくれている。「法子の部屋」氏の記事の転載とのことなので、資料をまとめてくれた「法子の部屋」氏にも感謝したい。
・混ぜるな危険! ブログ・サンポール 続 『旧版・日蓮聖人の霊言』 ~ 『法子の部屋』はんによる検証
 」
この記事を見れば、誰にも一目瞭然だろうが、『旧版・日蓮聖人の霊言』から削除されたのは、宗教とは距離をおき、権威主義や偶像崇拝、他力信仰などには陥らず、内なる神を信じつつ、真理を学び、実践し、霊性の向上を目指すというスピリチュアリズム的な部分ばかりである。これらの教えは、教祖を崇拝し、教団の勢力拡大を目指す他力推奨型の宗教という現在の教団にとってはよほど都合が悪かったのだろう。
 
「内なる神を信じつつ、真理を学び、実践し、霊性の向上を目指す」・・さらに、楽山は、うさんくさくなってゆきます。楽山は、悪霊以外には、縁のない人です。
 
超常ヒーロー願望~評論家気取りの楽山は、できもしない誇大的なことを当たり前のように言って、疲労と人格破壊を自他に与えるところの、エナジーバンパイアに過ぎません。
 
「方便の時代は終わった」の目的については、建前上は信者らが混乱しないように、教義を整理し、エル・カンターレ信仰に一本化したということになっていたかと思うが、結局のところ、その実態は教団運営に不都合なスピリチュアリズム的な教えとの決別であったのだ。このとき、スピリチュアリズム的な教えに賛同していた初期会員たちの中から多くの脱会者が出たというのも相応の理由があってのことだったのだ。
 
楽山が、なぜ、このようなことを書くかといえば、自分は、霊が分かるっぽいスピリチュアルだから、HSとは違うから、正しいんじゃ・・と言いたいだけなのです。霊が分かる証拠を、まるで持っていない楽山が、スピリチュアルを弁護するのは、スピリチュアルにとっても迷惑な話だと思います。
 
実際には、楽山は、すでに現実を遠く離れて、超常の霊の世界に逃げていることが、この記事にも表れています。楽山は、今まで書いてきたように、自己愛性によって、自己正当化、自己顕示して、自らを、賽の河原の石積みのように、結局は、壊してしまうだけなのです。
 
*まとめ
自分のイメージとしては、HSはスピリチュアリズムの要素が濃いと思っていたのだが、今回あらためて確認してみると、どうやらそれは間違いであって両者はまったくの別物であると結論付けざるを得ないようだ。
端的にいえば、初期HSはスピリチュアリズムと似た教えを説いており、同系統の運動に見えるところもあったが、実際にはその根本の精神はまったく異なっており、それだからHSは時が経つにつれて、スピリチュアリズム的な教えから離れ、典型的な教祖崇拝型の新興宗教という形におさまったということである。
スピリチュアリズムから離れた視点から見れば、HSは霊性進化論の一種ということであり、スピリチュアリズムの流れの中にあるように見えもするが、スピリチュアリズムの本流から見た場合は、HSは支流も支流であって、かなり道を逸れたものにすぎないのである。
 
楽山が、HSを教祖崇拝型の新興宗教と見なし、スピリチュアリズムを本流としていることを忘れないでください。私が言いたいのは、楽山は、「霊性進化論」などと言葉だけ書いても、平気で嘘を吐く人で、スピリチュアルとして、何か深い洞察を書いたことは、一度もないということです。
 
この楽山が、前に、キリスト教について、ひやかし、いちゃもん、一方で、ほめ言葉など、でたらめなことを書いてきたのです。そして、楽山は、説明力と説得力が皆無の嘘吐きの詭弁屋であることを、他でもない楽山自身の記事によって示してゆくことになるのです。
 
*判断ミス
恥ずかしながら、自分はHS会員だったころ、日本のスピリチュアリズム界の大御所らが、HSに合流してこないことがどうにも納得できず、不思議でもあったのだった。なぜそういう人たちはHSの霊言を信じないのだろうかと。
でも当時の記憶を掘り起こしてみれば、自分もはじめにHSの霊言集を見つけた時は、即、バツ判定したのだった。「これは偽物だ。偉人賢人や、神の名を名乗る霊に本物がいるわけもない」「本を売るために、有名人の名前を利用するなんて酷い奴だ」といった具合である。
 
「はじめにHSの霊言集を見つけた時は、即、バツ判定」したと言いながら、「大御所らが、HSに合流」すれば、偉い偉いと納得したのでしょうか。もはや、現実世界よりも、まとまりのないスピリチュアルの世界に、埋没したがる楽山なのです。楽山の底が、見えてきます。
 
でもそれにもかかわらず、後になって迂闊にも霊言集を手に取って読んでしまい、スピリチュアリズム的な箇所を見つけ、共感し、いいことが書いてあると判断し、ハマってしまったのだった。いわば、自ら進んで、木を見て森を見ない状態になってしまったのだ。霊言本のタイトルを見て偽物だと判断したときは、木を見ずとも森を見て正しく判断できていたのだが、その中身を読んでからは木を見て森を見ないようになり判断を間違えてしまった。
 
読解力と説明力のない楽山が、「スピリチュアリズム的な箇所を見つけ」るのだそうです。霊言集であれ、スピリチュアルであれ、「いいことが書いてある」と言うのは、既に、楽山が、現実離れ、人間離れして、超能力を欲しがっている証拠です。木も森もなく、楽山の精神は、砂嵐でしょう。
 
木も、森も、心も、見ることのできないために、一気に、心霊の安易さに飛びついた楽山の、「間違えてしまった」は大嘘で、実際は、自己愛から、間違いに気づいた自分を高めていることを見逃してはいけません。何を書いても、自己正当化につなげる自己愛性人格障害だからです。
 
有名人の名を冠した「××の霊言」という本があった場合、ふつうの人なら、うさん臭さを感じて見向きもしないだろう。でも自分は心霊的な方面について生半可な知識と興味があったがゆえに、そのような本を読みふけってしまい、ハマってしまったわけである。自分のことながら、まったく愚かにも程があるというものだ。
 
子供のときから霊が分かるっぽい自覚の楽山は、霊能者気取りです。だから霊の話が多いのです。「心霊的な方面について生半可な知識と興味があった」楽山は、生半可なら書くべきではないし、恐らく、興味本位の情報を知識と呼び、超常現象を悦ぶ子供のまま大人になっているのでしょう。
 
だから胡散臭いのは、楽山です。愚かさに気づくんですアピールをしながら、スピリチュアルを自分に当てはめようとしてきた楽山であることを見逃してはいけません。そういう、スピリチュアルを気取る姿勢は、霊についての記事の多さに表れています。今も、変わってはいないのです。
 
楽山から、良いものは生まれません。今まで、自己正当化以外何もないという記事ばかりだったからです。数々の、だまし言葉を経て、今は、超常大好き、現実大嫌いを、隠さなくなってきた楽山です。反省しているふりで、かえって、馬脚をあらわしています。
 
*第一印象を忘れないこと
巷では、「よく知りもしないくせに知ってるようなことを言うな」という考え方があるし、HS信者もこれと同様に、批判者に対して「HSを批判するなら、HSの本をすべて読破してからにすべきだ」と言ったりするけれども、どうも自分の上のような経験からすると、宗教に関しては、少々の知識があるよりも、さほどの知識も興味もない一般人の方がよほど正確に判断できていることが多いようだ。
 
「正確に判断」出来ているかどうかを、楽山が決めているのは、滑稽としか言いようがありません。楽山の字面の知識よりも、大切なのは心であります。しかし、楽山は、心にだけは、見向きもしないで、霊という超常に執拗にこだわり、中身のない妄想を並べてきました。
 
「一般人の方がよほど正確に判断できていることが多い」と言うなら、自己愛性パーソナリティ障害NPDで気取りだけの楽山には、黙っていなさいと言いたいのです。楽山は、秀でた人でも、一般の常識ある人でもないのです。
 
少々理屈を言えば、宗教というものはカルトであろうがなかろうが、宗教である限りは、その教えの中には多少はマインド・コントロール的な要素が含まれているものであるし、もしその教えを学んだ後で判断するとすれば、それは若干のマインド・コントロールを受けた上でのものになってしまい、本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた結論を出してしまう恐れがあるということだ。
 
本来の宗教にマインドコントロールは含まれていてはいけません。それは、カルトの特徴なのです。いかなる宗教も、洗脳やマインドコントロールが含まれることがあれば、それは、全くの不祥事なのです。それを当たり前に書いている楽山こそ、他者コントロールしたがる危険人物です。
 
「本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた」などと言っていますが、楽山の誘導に乗るよりは、はるかにマシなのです。含まれているのが当たり前のようなことを言って誘って、マインドコントロールを狙っているのは、まさに、楽山その人です。
 
考える宗教と、思考停止のカルトを一緒にして、「宗教というものはカルトであろうがなかろうが、宗教である限りは」「多少はマインド・コントロール的な要素が含まれている」と言っている楽山の言は、全くの無知と、さらなる悪意の詭弁であります。
 
「若干のマインド・コントロールを受けた上でのもの」「本来の自分が持っている価値観や常識による判断からズレた結論を出してしまう恐れがある」と言って、宗教をカルトと同様に見ている楽山こそが、最も危険なカルト妄想煽動者なのです。楽山の詭弁を決して受け取らないでください。
 
物事を判断する際には、その中身をよく調べ、吟味した後にすべきだという考え方もあれば、第一印象などの直観こそが大事だという考え方もあり、そのどちらが正しい判断方法であるのかはそう易々とは決められないのではあるが、それでもやはりこの件に関しては、自分は一番初めの印象、直観をこそもっと信じるべきであったとつくづく思う。
 
「易々とは決められない」と言いながら、「自分は一番初めの印象、直観をこそもっと信じるべきであった」というほうを勧めてくる楽山の狡猾な刷り込みの詭弁にだまされないでください。底まで腐っている楽山だからこそ、出てくる悪質な誘導です。
 
正常な人間は、学習する生き物ですから、第一印象も、経験と聖典からの学習も、どちらも、大切な学びです。そういう、学習し、反省してゆく気持ちと性質と能力が、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山には欠けているのです。
 
楽山が、いくら、詭弁を弄して、自己正当化を企み、暗示して誘導しても、最後に、自業自得で、見捨てられるのは、自己中が明らかになってゆく楽山なのです。
 
人ははじめは奇異なものに感じたものであっても、じきに慣れるものであるし、宗教もこれと同じではじめは気味が悪いと思っても、じきに慣れてしまい何ともなくなってしまったりもするものだ。だからこそ、その宗教をはじめて知った時に、どう感じたのかは大切であるし、これこそが本来の自分の判断であるとして記憶にとどめ、決して忘れないということが大事なのだ。
 
宗教は、奇異に感じることでも、気味が悪いものでも、慣れるものでもありません。人間らしく反省し祈り学習し成長する道です。楽山の、今までも、繰り返された楽山の宗教蔑視と、おとしめの詭弁であります。根腐れの遠吠えです。自分の第一印象はいいでしょう?・・と誘っています。
 
「はじめて知った時に、どう感じたのか」が大切で、それが「本来の自分の判断であるとして記憶にとどめ、決して忘れない」というのは、楽山が他者を破滅させるやり方ですが、楽山の破滅の様式でもあります。その通り、破滅しつつあるわけです。
 
楽山の大事は、決して大事ではありません。曲がったセンスで、自分を大事にしてくれぇ・・と言っているだけです。そうだな・・などと思ったら、楽山の奴隷になり、あらゆるセンスが、ますます鈍化してゆくでしょう。
 
そうではなく、信仰は、その後の学習によって、疑うべきを疑い、思考と経験を積んで、反省し修正し、学習し、成長して、深まってゆくのが信仰です。
 
 
楽山が、やさしい言葉をかけるのは、楽山の言を肯定的に受け取る人に対してだけです。反対意見に対しては、受け取らずに完全に無視するか、嫌がらせの悪口を言ってくるだけです。ですから、やさしい人だと思った人は要注意です。交流を続けると酷い疲労から奴隷的な人格破壊に至るでしょう。
 
楽山は、言論の世界から、一日も早く消えてほしい邪悪なエナジーバンパイアです。
 
カルト的な詭弁以外のことを、楽山は、何も言えなくなっています。
 
 
心無き詭弁の道

心無き詭弁の道
 
 
(2020年08月07日)
(2021年09月28日、再録+)
 
 
 
キーワード:嘘
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな君の住む国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
(昔々・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
真説八正道では、正信をはじめにおいていたと記憶していますけど、
よく考えてみれば、正信は、正念に含まれているだろうし、
信仰対象が正しいかどうかは、正見で判断するものだとすれば、
やはり一番はじめは正信ではなく、正見とすべきようにも思えます。
午後10:09 · 2021年9月24日
心機一転★こも楽山
余談ながら、儒教では、仁義礼智信としており、信は最後ですね。
午後10:12 · 2021年9月24日
 
正信も正念も正見も、仁義礼智信も、楽山に分かるとは思えません。楽山は、後も先もなく、何も信じていないから平気で裏切ります。何も念じていないから平気で嘘を吐きます。何も見えていないから、何でも、でっち上げて、刷り込んで、だまそうとしてくるのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
大川総裁は、仏陀在世の時は仏陀を、仏陀なき時は法につけと説いていたと思いますが、
仏典を確認したところでは、仏陀在世の時も、なき時も、法につけとありました。
この点については、大川総裁の教えは、HSの教えとしてはよろしいでしょうが、仏教及び仏典解釈としては間違いと思います。
午前6:43 · 2021年9月25日
(引用ツイート「人につかず法につけとは、仏陀の言葉。」など省略。)
 
楽山は、師もなく、法も守らない自己中で、好きなように、人に嘘を吐いて、だましてきました。楽山は、自分が師、自分が法のつもりです。師が目の前にいるのに法を考えるとは、どういう教えなのでしょう。楽山については、師ではなく、ペテン師なので、否定し続けることが肝要です。
 
心に響く何ものもなく、平板な理屈だけ受け取って、辻褄合わせだけで慢心し、ケチをつける楽山ですが、嘘と詭弁と自己中からの無視という酷い罪悪を経てきて、一切責任を負わないまま、いったい何が、楽山の手に負えるというのでしょう。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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  楽山の悪あがき
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
  (4)宗教および創造論批判
 2021年09月16日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の著しい勘違い~妄想投稿が続いています。恥という感覚がないので、平気でいられるのです。人のことなど何も考えない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので、楽山という人は、投稿を続けていられるのです。
 
*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみる。
*宗教と願望
不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、広まっていく。そしてこの願望本位の思考法というものは無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向を持つからである
 」
宗教とは何かといえば、結局のところ、願望充足のための手段ではなかろうか。たとえば、永遠の命が欲しい人は永遠の命を果実とする宗教を信じ、上昇志向が強い人は霊格向上を説く宗教を信じ、人類救済のために働きたい人は人類救済を説く宗教を信じ、霊能力に憧れる人は霊能力を獲得する方法を説く宗教を信じるといった具合である。
 
願望充足、あるいは、欲望、と言えば、否定しやすいじゃろ・・という楽山の願望(顔貌?)~欲望が表れています。深いところが全く見えない楽山です。救いとは、悔い改め、罪のゆるし、祈り、絶対孤独からの解放、などがメインであります。
 
それを、低次元の思い込みで、願望や欲望の充足と受け取ってしまうと、空想による気休めか、空想そのものによる陶酔感になってしまいます。それを、日々、書くことでやっているのが、楽山です。病質によって、実のあることを何も受け取らなかったために起こることです。
 
だから宗教によって知ることができるのは、神のことではなく、真理でもなく、人々はどのような願望を持っているかということになる。宗教とはこの世を超えた大切なことを教えるものというより、人の心の奥に潜んでいる欲望を集積したものだということ。
 
だから宗教によって知ることが出来るのは、救いであって、願望や欲望の充足や仮想の充足が目的ではないのです。そういうことを、楽山は、全く考慮しないか、できないために、決めつけて文句を言ってきます。その結果、言うことの次元が、どんどん、原始的に、かつ、乱暴になっています。
 
宗教が平和でなく、争いをもたらすことが多い遠因は、この辺りのことと関連がありそうに思う。
 
ここで、詭弁屋の楽山らしく、宗教を争いの元だという印象操作をしてきます。楽山は、こういうすり替えしか出来ないことで、既に低次元がバレていることに気づかないのです。
 
*トンデモ批判
私は何か特定の神あるいは神々を批判しているのではない。私はすべての神、そして、いつどこで考案されたもの、あるいは今後されるものであろうとも、あらゆる超自然的なものを批判しているのだ。
 」
この徹底ぶりは、いかにもドーキンスらしい。自分にはとても真似できない姿勢である。
超自然的なものを求めるのは人の性であろうし、この性向は人が人である限り、決して無くならないだろうけれども、それだけにドーキンスの言葉によって迷信や妄想の惑わしから目が覚める人も生まれ続けるだろうな。
 
あらゆる超自然的なものに反感を覚えるなら、著者は、楽山を凶悪な敵として、ボロクソに言ってもおかしくないでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山は、ネットでの引用は、バレにくいということを好きなだけ悪用して、自我を満足させて、実は、国際的な人類の敵になりつつあるのです。
 
超自然的な、即ち、超常を、何よりも大好きなのが、楽山です。だから、宗教と信仰についても、超常の空想からのストーリーや屁理屈しか言えず、心のテーマと問題を全く扱えずに書いて排泄してくるのです。どこまでも不潔な下水道にしかならない楽山です。
 
*正義と宗教
彼ら(テロリストたち)は悪によって突き動かされているわけではない…彼らは…自分たちが正義であり彼らの宗教が語りかけることを忠実に追究しているのだと感じることによって、突き動かされているのである。彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである
 」
正義と宗教が結びついた場合、どのような悲劇が起きうるかは、多くの人々が承知していることではある。
にも関わらず、この悲劇はなかなかなくならないのだからたまらない。
 
楽山のように、最初から、悪意をもって、宗教と信仰を悲劇の原因とみている者は、救われないばかりか、他者のための救いに至る道を閉ざして、悲劇を助長していると言えるでしょう。
 
捏造した妄想と嘘と詭弁を弄して、宗教と信仰をディスっている楽山こそ、救いがたい悲劇の種となっています。つまり、楽山は、決して、放置しておいてよい存在ではないのです。
 
*無知と教育
あなたが若い地球説の信仰者なら、あなたはバカなのじゃなくてただ無知なだけかもしれない。幸い、無知は治癒可能だ。科学本を読んでみると良い。
 」
ただ知らないだけなら学べば済むことであるが、学ぶことを拒否するのであればどうしようもない。
宗教には禁書を指定して信者の学びを妨害するところがあるし、信者は信者で自分は既に真理を知ったと思い込んでさらなる学びの意欲を持たない者がいるから残念だ。
 
楽山は、学習することが出来ない人です。自己愛性パーソナリティ障害NPDによる訂正不能のためだろうと思います。学者気取りで、学んだのじゃ、偉いのじゃ・・という三文芝居で、読者をだましてまで、自分を偉く偉く見せてきます。実際は、ゴミをまとって人間をやめているのです。
 
*創造論と天動説
創造論者は現代における、太陽が地球を回ると信じていた天動説支持者と同等だ。しかし、天動説ですら、ある程度の証拠に基づいていた。少なくとも、地球と太陽が存在してることは分かってるからね。
 」
そう言われてみれば、たしかにその通りだ。
天動説は、地球や太陽が存在するという事実から出発しているが、創造論は存在するかどうか分からぬ神は存在すると仮定した上での話になっている。
 
「たしかにその通りだ」などという楽山の誘導に乗らないでください。天動説にも劣るという言い回しで、宗教と信仰の愚かさを吹き込んでいます。なお、創造論が、神についてなら、そのような論は成立しません。神は、人の論理などには乗らない御方として仰ぐべき絶対者であります。
 
*万物の霊長?
大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーを出来損ないで見当違いの化け物とみなす一方で、自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。進化論者からみればそのようなことはありえない。一つの種を他の種より上に見る客観的根拠など存在しないのだ―ロバート・トリヴァース『利己的な遺伝子』の序文
 」
 
ここもそうですが、今までの著者の言い分は、昔からあるところの進化論と天地創造との論争のように思えます。しかし、科学でも、神学でも、神を語りつくすことは、決して出来ません。このことについて、どちらが真理であるかなどには興味も必要もないからです。
 
自分は以前は、人と動物は全然別ものであると考え、両者を同列に論じるのはナンセンスだと思っていた。ただ進化論について自分になりに調べるうちに、人と動物は断絶しているのではなく、連続していると考えるようになってきている。
 
惑わされないでください。そう言えばそうだなどと思わないでください。進化論は仮説です。創造論は宗教からの解釈に過ぎません。分からないと、なぜ、言えないのでしょう。
 
楽山は、進化のプロセスを知っているわけでもなく、勉強したわけでもなく、ヒトと動物の違いを学んでもいないのです。自己満足の材料を漁っているだけです。
 
そしてその結果、他人の不道徳な言動に腹が立つことが減ってきた。その人がそのような生き方をしているのは必ずしも向上心に欠け、精神性が低いせいというわけではなく、幾世代もの長い年月を経てそういう風に進化してきたのであり、本人の意志だけでは変えようもないことであるから、横から苦情を言っても仕方がないと思うようになったのだ。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、精神性が低く、「向上心に欠け」ていることを、個人の意志では変えようもないと自分を慰めています。しかし、この記事もそうですが、横から苦情ばかりを執拗に言ってくるのです。
 
「腹が立つことが減ってきた」・・嘘です。あらゆる感受性が鈍感になってきて、ますます酷いことになりつつあるとは言えるでしょう。しかし、楽山には根深い怨念があると思います。それは、しばしば、楽山が理解できなかった宗教と信仰に向かっているのです。
 
他の人の場合はどうかはわからないが、自分に関しては「人を裁くな」という宗教的な戒めを守るためには、人は動物とは根本から異なり、霊的に特別な存在だと信じるよりも、進化論的に考えた方がよいらしい。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 (マタイ7:1-3、新約聖書)
 
楽山の嫌がらせでしょうか。よくもまあ、この聖句を引用したものです。どういう誤読なんでしょう。この聖句は、動物は関係ありません。霊的も関係ありません。進化論も関係ありません。良心だけが必要です。人を裁けば、自分がさばかれるという意味が書いてあります。
 
つまり、人を裁けば、自分も同じように裁かれるということです。一般的には、人のことを言えたガラか・・という言い方もあります。まさに、楽山は、人格がメチャクチャなのに、人のことばかり言っています。楽山には、反省して、学習し、自分を修正する機能がないのです。
 
 
寒いくらい的外れ

寒いくらい的外れ
 
 
(2021年09月18日)
 
 
 
  二人の背教者
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々はとまどった。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が、狼狽し、つまずいた。
 
裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
 あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。しかしあなたは誰もが知るところで公然とそれを言って、神と信仰を否定した。
 
 全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。
 
 しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。あなたが彼らに会い説得し彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HS的には、悟りの高い人は、相応の実績を示し、世間からも評価されることになってたと思う。
ある意味、悟りの高低は客観的には語れぬが実証は可能ってことかな。
この点、Pさんはツイッター上では自画自賛はあれども、実績および評価に乏しく、悟りの高さは実証できてないですね 顔文字(ぐるぐる目の顔)
 
楽山は、悟りを、高低で表して、実証可能と言って、他者を批判しています。楽山が、悟りというものを、どう考えているかが、恐怖であります。何でも分かる超能力くらいの理解なのでしょうか。
 
悟りは、救いの表れです。偉くなることではありません。
 
楽山は、何か自力の境地のようなものを考えているようです。楽山は、今も、自力の達観のような悟りしか考えることができないようです。自分はどうなのかを、全く考えないで、他者の実績を測って評価し判定するとは、呆れます。
 
楽山は、本当に脱会したアンチなのでしょうか。大いに疑問です。しかも、自己正当化として、自画自賛が、いつも表れてきたのは、楽山こそ典型であり、世間からの評価も、学者気取りで見かけだけ装ってきた楽山において顕著なことであります。
 
信仰において、悟りというなら、それは、人間の心に響くこととして与えられ、高い低いということはありません。救いは、正直な告白の祈りにおける癒しと安らぎであり、孤独からの解放であり、生きるときも、死するときも、救い主の同伴という信仰の恵みを受けることなのです。
 
自分を見ないで、人をあざ笑う楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自分は既に完成しているという妄想なので、それで、反省もせずに、せっせと愚にもつかぬ詭弁の文章を投稿してくるのです。いつも、言い方を変えても、自己中の慢心が表れる物言い・・実に気色悪いです。
 
 
 
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 2021年08月14日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
起死回生でも狙っているのか、遺書のつもりなのか《それはないと思う》、楽山は、自分で、ろくなこと言えないものだから、他者の言葉を集めています。一方では、他者の意見を無視して、自分は分かっているという自己顕示欲の鬼です。
 
楽山のような人につかまって、人生を台無しにしないでください。何も持っていない人です。人のための言動などしたことのない人です。あらゆる善き人を気取って見せますが、気取りだけで、数か月、付き合えば、良いところなど、何も持っていないと分かる人です。
 
こういう人に引っかかっていると、さらに、言うことを鵜呑みにしていると、思考が妨げられて、理路が分からなくなるでしょう。妨げられた思考を、楽山と同様に、詭弁で、ごまかすようになるでしょう。精神機能が、無反省と無責任のために、全般に鈍麻するでしょう。
 
この一連の記事で、楽山は、自分の意見を殆ど書いていませんが、僅かに書いたことも、批判対象になるだけで、つまり、人生や思想や宗教の深みなど、全く理解していないのが分かります。にもかかわらず、賢者を気取って俯瞰しているつもりの、厚い厚い面の皮であります。
 
リンクは貼りません。楽山は、殆ど書いていないので、人の口で、よく思われようとする匹夫の浅知恵が見え見えであります。人を引用するためには、先ず、自分の不完全と弱さを晒さなければなりませんが、楽山は、自分を飾るために、こちらが震え上がるほど傲慢です。
 
楽山は、信仰とは、反対側に棲んでいる偽善者です。
 
引用元は、大方、HSの信者のようです。
 
リンクは省略して、一部を引用してみます。一貫して、楽山は、人の口を利用~悪用している事実は変わりありませんし、楽山個人の主張が成り立たないことについて、楽山自身が、どうしようもなくなったのでしょう。
 
私が、ブログ【癒し 天使たちのことば】を、肯定的に捉えている理由
もしも
原理主義者達が主張するように
『信者達の誰もが、高級霊のインスピレーションが降ろせず
高級霊のインスピレーションが降ろせるのは、総裁先生タダ一人だけ!』ならば
悪魔達は、大喜びだろうね?
それが、真実ならば
悪魔達は
総裁先生が
寿命で亡く成るまで
後、約二十年の間
じっと我慢するだけで良い
その後は、悪魔達の天下に成るだろう
 
教祖の教えが、人間にとって印象深いものならば、永遠性を持ってきます。例えば、キリスト・イエスは、今も、聖書を通じて、生き続けています。人間が生きるために必要不可欠なことであるならば、消えることはないからです。
 
教祖が、狂素に過ぎないならば、後遺症が残ります。オウムなどが、その例です。個人的に影響を受けて、自由になれないからです。楽山後遺症を残してはいけません。
 
教団は、タダの、能無し教団と成って
救済力は、全く無く
ただ
教団維持の為に、御布施を集め
形骸化した教えを、維持する為だけに
存在する事に、成ってしまうだろう
 
大方の人にとって、カルトは、嫌な記憶と記録になります。
 
教えが、人を生かすならば、形骸ではないものが、教団にいてもいなくても、書物等によって、残ってゆきます。つまり、そこに真実の永遠性があります。
 
日本の神々が
そのような事態を、望むハズも無く
せめて
数多くの、神社や神殿において
巫女や神主達が
衆生の、様々な要望に応じ
高級霊達のインスピレーションが
適切に降ろせる事が、望まれるだろう
今回、私が
ブログ【癒し 天使たちのことば】を
肯定的に捉えているのは
そのような、理由からだよ?
もちろん
総裁先生と
我々、一般信者とでは
霊格の差は、歴然だ
 
楽山という教祖願望においては、跡形もなくなくなることだけが望まれます。つまり、楽山の生きた数十年は、一生懸命、紙くずを食い散らかす期間に過ぎません。そして、人の心も、食い散らかしてきたのです。それが、楽山の、利のため、欲のためなので、生きるほどに醜くなります。
 
だから
巫女達が、受け取るインスピレーションも
あれが、精一杯だろう
総裁先生の様に
長時間の
神降ろしは
とてもでは、出来無い事が、ハッキリした
さあ!
これからが
弟子達の正念場だ!!
タダの、能無しで
今世の寿命を終える
【役立たずの職員】で終わるか?
それとも
適切に、高級霊達のインスピレーションを受け
総裁先生も感心するような、立派な仕事が出来るように成るか?
私は
世界中の
キリスト教徒達や
イスラム教徒達を
立派に感化出来る、弟子達を望む!!
ただ
彼らから
逃げ回るだけの
能無し信者は、必要とはしない!!!
『正義の法』は
誰に対して行えば、救済出来るのか
貴方の胸に手を当てて
良く考えることだ。
 
キリスト教も、一枚岩ではないですから、感化されたり、無信仰になったり、妄想作りに変貌したりはあるでしょう。現にあるような気もします。だから、宗教において、最も大事なことは、超常の奇跡がどうかではなく、人間一人を生かすかどうかです。
 
信仰は、地上にあるあいだ、地上の人間に対して、何が一番大事なことなのかを、問い続けるでしょう。聖書を通じて、キリストが問い続けているからです。
 
楽山のように、自分だけを大事にしている者は、問うこともなく、問われることもないので、だんだん近くなるのは、警察か、精神病院か、どこかの河原・・だろうと思います。
 
今日は、エルカンターレファイトのことについて、感じたことを書いてみたいと思います。
なぜかと云いうと、私は最近少し体が重く、何となく変だったが、巫女役の方もそのことに気づき、どうしてだろうと意識を向けてみたところ、誰かが数名で私達に向けてエルカンターレファイトをしているのを発見しました。
これは、主との約束事なので、行じると主の光の降魔の光が相手に届くことになります。
私達はその降魔の光をありがたく受け取ることにし、しかし、その中に混じっている「砂」の部分は取り出し、祈りによって浄化し、発信者にお返しさせて頂きました。
ただ、私達が気付くのが少し遅かったので、私の家族にその影響がでまして、緊急に病院へ行くことになりました。幸い軽くてすみましたが、私の力不足を、とても悲しく残念に思っています。
 
お大事に。・・楽山は、人間性を喪失して、人間を物扱いするペテン師になっているために、こういうことも書けないのか、乱暴に引用だけしています。
 
2014年の記事の引用のようです。楽山は、なつかしモードに入っているのでしょうか。それとも、古い記事なら反発もあるまいと計算しているのでしょうか。いずれにしても、楽山が、今、目の前にある問題から逃れようとしているのは確かでしょう。
 
「砂」と書けばご理解していただけると思いますが、もう少し詳しくお話したいと思います。
これは、爽やかな風のお話の中で、この風に砂塵が混じっているというところから「砂」を使ったものです。
砂は、「あまりよろしくない思い」と言う意味で前回の文章に使っております。
その思いが人を傷つけると、言っているのです。
このエルカンターレファイトを行じるにあたり、まず自らの心を点検し、この砂塵が混じっていないかどうかをよくよく点検する必要があると思います。
そして純粋な気持ちで行おうとしているのか、主の教えに反した心でもって行おうとしていないか、これを問う必要があるのではないかと思います。
ですから、エルカンターレファイトを行うにも、修業の観点を忘れてはならないのではないかと思います。
多くの経験をすることにより、主の理想に近づく、そして、人の役に立つエルカンターレファイトが出来るよう、常に常に努力が必要ではないかと思っております。 
 
砂が入っているというより、砂だけで出来ているのが、楽山だと思います。今まで、一度も、宗教と信仰の、実質の理解を表したことがありません。キリスト教と信仰について言えば、小学校レベルの屁理屈で否定したり肯定したりしたことだけです。嘘にまみれて、ざらざらしているだけなのです。
 
楽山も、楽山の記事も、決して信頼してはいけません。部分的には良いなどと思っているなら、その部分においても、一部を全部に見せかけるという詭弁を用いているのです。楽山の脳内理路が狂っているのか、作為の詭弁か、いずれにしても、関わってはいけない相手です。
 
 
砂でしょうか いいえ潟です

砂でしょうか。いいえ、潟(がた)です。
 
 
(2021年08月15日)
 
 
 
  一所懸命
 
森が町になって
町が焼かれて
火事が荒野をつくって
荒野が砂漠と呼ばれて
砂漠が山になって
固まっている
その上に黄色い人がいる
のが見えるくらいの小さい山だ
 
耕して種を蒔(ま)いている
穀物や野菜
果物まで植えている
のが見えるくらいの山だ
 
平地は誰かが持っていった
山をどうしようと持ち主の勝手だ
一所懸命とはこのことだ
 
山に家を立てる
道をつくる
車が走る衝突する
電気を通す感電する
水道を通す
プールができる
水があふれる溺れる
 
その上にビルが建って
コンピューターが置かれる
ゲームができる
町ができる
店が並ぶ
次々にビルが並ぶ
 
結局その中で温室栽培している
穀物や野菜や果物を
植えたり埋めたり掘ったり捨てたりしている
 
試験管を扱った手で
酒を掛けて祈っている
アルコールがガソリンに変わる
石油をまき散らす
余ったからだという
 
ここはどこだ
元々どこだ
黄色い人
ここは誰もいない
のが見えないくらいの山だ
 
(90年だか)
 
 
 
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 ※ 水害のニュースについて。広範な災害で、数十年に一度、経験したことのないような、命の助かる可能性のある方法を、とまで報道しながら、死者の報道が、数人というのは、どうなのだろう。 土砂や水に呑まれて、埋まっている人、沈んでいる人など、報道規制でもあるのだろうかと思ってしまう。発見が遅れるのは分かるけど。老婆心ながら、岐阜県の白川郷とか、大丈夫でしょうか。
 

 
  楽山は見物人
 
 HSUに違法行為はない!
 (『宏洋の言いがかりを完全論破』)
 2021年05月23日 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
動画は省略します。私は、宗教と信仰の敵、楽山を批判しています。
 
*HSU議論
宏洋氏のHSU批判に対して、与国氏らが反論していたので、ここに貼っておきたい。
・【ぼったくり】【脱税疑惑】HSU(ハッピーサイエンスユニバーシティ)の高すぎる学費が明らかに。『私塾』の授業料は非課税ではないので、脱税になるのでは?
・【嘘つき】『幸福の科学大学』が違法行為をやっています【イケハヤ】【ホリエモン】【堀江貴文】【中田敦彦】【HSU】【ハッピーサイエンスユニバーシティ】
・宏洋の言いがかりを完全論破 HSUは宗教修行を行う高等宗教研究機関 【宏洋氏に物申すシリーズ113】
 
また、人の口を借りているだけの楽山です。何かの試合を見ているスタンスなのでしょう。真に迫って批判が必要だという気持ちや、アンチに共感する心はないと思います。楽山を信用しないでください。真剣味もなく、自己顕示するだけの目立ちたがり屋だと思います。
 
*三つの論点
宏洋氏はHSUの脱税疑惑、学費比較、名称問題を論点しているが、広報チャンネルの反論は次のようになっている。
*脱税疑惑
まず脱税疑惑については、HSUは高等宗教研究機関であり、授業料はお布施(非課税)であるとのことだ。
*学費比較
宏洋氏の「学費比較」は不公正であり、印象操作だという。
*名称問題
HSUは「university」であり、「大学」とは名乗っていないから違法とはならないとのことである。
 
楽山は、HSの言い分を引用し、省略しますが動画を貼って紹介しながら、そのことについて、自分で批判していません。できないのでしょう。楽山を、アンチHSと見なすのは、間違いだと思います。精魂込めるという態度が、楽山には皆無であり、見物人・傍観者の立場しか表していません。
 
*公明正大、単純明快な正論に期待する
こうしてみると、広報チャンネルは、タイトル通り、宏洋氏の主張を完全論破したといえる。
 
楽山は、無反省、無責任ですから、他者の "完全論破" を判断することも出来ません。ただただ、自分を、まともに見せかける自己顕示欲の強情であり芝居に過ぎません。自分を、批評とかの出来る知識人と思わせたい楽山の、むしろ、欲望の表出であります。
 
ただ個人的な感想を述べると、学費比較については広報チャンネルに理があるとは思うが、他の二つについてはディベートとしては面白いけれども、その主張が現実社会で受け入れられるのは難しいのではあるまいか。法律論として通ることはあるのかもしれないが、一般人の多くはこういう理屈にはあまり良い印象は持たないだろう。議論では勝っても、その結果、社会的信用を失ったというのでは仕方ないし、広報チャンネルはこの点についても注意してみてはどうかと思う。
 
「ディベートとしては面白い」・・・楽山は、体質的に相手の言うことを少しも聞いていませんので、何を言われても反応しません。つまり、ディベート・議論・討論などは出来ません。人の口を借りて、人のことを揶揄して、議論に見せかけています。
 
「法律論として通ることはあるのかもしれない」・・・楽山は、法も、法の精神も知らないし、何より、反省・責任といった最小限の人道すら身に付いていないので、法律について、何か実のあることを言う、という能力はありません。
 
こういうのは、すべて、楽山の "気取り" です。人の、ときには本の、口を借りて、自分を上等に見せようとしてきますが、受けて答えるという反応が出来ないことは、今までに表れてきたことですから、もはや、また言ってる・・という空しさだけ、性懲りもなく空回りさせているのです。
 
「良い印象」・・・楽山の丁寧語や、学者口調に、だまされて、受け入れている人がいるかもしれませんが、印象は中身を示しません。だから、印象操作という詭弁を使う楽山のような者が、今もネットで存在しうるのでしょう。嘆かわしいことです。
 
それと、アンチを自称しながら、HSをサポートしてアドバイスをしているかのような筆致です。どっちの味方なのでしょう。楽山は、明確な立場というものを持てない人です。自己の主張も立脚点もなく、自己を顕示することだけを面白がっているのです。
 
楽山などいなくても、アンチは活動しているわけですから、楽山が書いていることは相手にしないでください。楽山が、アンチとHSについて、何か語っても、言った責任を負わないのですから、結局は、余計なお世話であり、障害にしかならないと思います。
 
楽山は、どこまでも単方向の自我の奴隷であり、誰の仲間にもなれない人です。平気で他者の意見を無視するような人ですから、こちらも議論や行動の仲間・戦力からは完全に除外して、徹底して無視してゆくしかありません。交流しても、節操のない楽山は、何も言ってないのと同じです。
 
 
末路の自己顕示

末路の自己顕示
 
 
(2021年05月24日)
 
 
 
  朝までの群れ
 
懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
 
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
 
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
 
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
 
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
 
細く丸く輪になって焼いて・・・
 
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
(旧作です)
 
 
 
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