ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:芝居

 
  楽山の鈍麻~不感
 
 
 『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』大川隆法著
 2022年11月12日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
楽山は、また、長いだけの記事を書いてきました。自称アンチHSの楽山のHS批判かと思いましたが、むしろ、賛同しているようです。楽山の、今までが、真っ赤な嘘だったということが明らかです。同時に、アンチ芝居と、賛同芝居によって、楽山が自己中を表している記事です。
 
楽山は、今後は、HS寄りとして活動するのでしょうか。ならば最悪の卑怯者です。やはり、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)は、自己中以外に何も持っていないことの証明と言えるでしょう。誰にでも尻尾を振って、また、裏切って、自己満悦できる人なのです。
 
 
*ひさしぶりの再読
『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』を再読してみた。旧版は以前よく読んでいたので、ところどころで懐かしい言葉と再会できて愉快だった。
今回も前記事と同じく、記事の前半にに共感できたところ、後半には共感できなかったところを書いてみる。
 
楽山の正体は、誰によっても迷惑ですが、今回は、ORを引用して「懐かしい言葉」と言っています。
 
 
*克己心
こういうわけで、まず本書ではじめに共感できたのはここである。  
克己心を持てること自体が一つの才能だと私は思います。
(『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』大川隆法著、幸福の科学出版、2003年、p.77)
 」
これは全くその通りだと思う。やる気、向上心があるという大切なことだ。
克己心が旺盛だと、やりたいこと、やらねばならないことが沢山あって、毎日が忙しくてたまらなくなるのだが、こういう日々が幸福というものなのだろう。
 
アンチHSのはずなのに、「全くその通り」と言っています。アンチではありません。宗教を、ここは賛成、ここは反対、という感想文で論じるのは間違いです。例えばカルトの、敬虔がなく、決めつけてくるという本質を、部分的に賛成か反対かで語ったつもりになる時点で、楽山は的外れなのです。
 
 
*魂の器
あなたが責任をとれる範囲が、あなたがどのような人間であるかを物語っています。自分はどれだけのことに責任を持っているか、あるいは責任をとれるかということが、自分の器を知る指標なのです。
(同上、pp.101-102)
 」
この考え方は、以前、本書を読んで以来、ずっと記憶に残っており、今でもよく思い出すものである。
これはアドラー心理学の課題の分離、個人主義などとは正反対の考え方であるし、やや自己処罰的傾向が強いので、モラハラ被害を招く危うさはあるものの、自己研鑽という視点からみればよい面はあるだろう。
 
また、大嘘を吐いています。無反省、無責任の、無神教カルトで、アドラー教宣伝者の、楽山が、白々しくも「責任」を語るのは、もはや、罪悪感自体が皆無であることの証拠になるでしょう。実際、楽山は、人を低く見てくるモラハラ人格であり、壊れ続けており、人間性を失っているのです。
 
 
*人それぞれ
世の人びとはさまざまな考え方を持っています。みなさんも経験があるでしょうが、こちらがあぜんとするような考え方を持っている人もいます。向こうからみればこちらがそうであって、まったく逆になるわけですが、こうしたことは実に多いのです。
(同上、p.121)
 」
これも本当にその通りだ。ものの見方、考え方は、それぞれ違っているのが現実である。
 
楽山は「人それぞれ」で自分の無責任の正当化を、してきたことがあります。人それぞれは、責任ある大人について言えることです。それができずに、また言ってくるのは、他者も、自分の過去も、起こったきたことも、何も気にしないでいられる劣悪な異常人格だからなのです。
 
 
事実関係についての話でさえ、他者と一致させるのは困難な場合もあるのだから、ましてや信仰、信条、主義、価値観などを他者と一致させ、共有しようなどというのは無理なことだ。大雑把に話を合わせることは可能かもしれないが、細部まで詰めようとすれば、お互いの間にはどうしても埋められない深い溝があることを自覚させられるだけである。
それだから、ものをよく考える人ほど孤独感を抱えることになり、場合によっては、死ぬか、狂うか、宗教に走るかしかないと思い詰めることにもなるのだろう。
 
楽山の孤独感は病質がバレたことによります。楽山は、元々病質のために、見せかけの交流しか出来ない人ですから、ずっと孤独で孤立しています。誰も楽山を真に好意的には理解することは出来ず、楽山が騙していただけなのです。自覚もないので、今も、まとも芝居をしているのです。
 
 
*学ぶべき人
気にいらないと思うと、その人から何も聴きたくない、何も学びたくないということになりますが、実際は、自分がきらいになる人や、自分と対極にある人のなかにこそ、学ぶことは多いのです。
(同上、p.125)
 」
恥ずかしながら、自分にも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという感情を抑えがたいときはある。ただ思想に関しては、そういうことは殆どない。以前は唯物論アレルギーみたいなものはあったが、最近はなくなった。
なので、自分が拒絶しているものにこそ、学ぶべきことは多いというのはよく分かる。
 
楽山は、対極にある私の意見を、ことごとく無視してきました。コメントの遣り取りを数か月した際には、不感不応で、同じことを繰り返すことしか出来ませんでした。楽山は、理路も、情緒も、理解できない成長不全の人です。
 
 
*開拓
知識の面では、これまで自分が関心を示さなかったところ、まったく無視していたところ、勉強しなかったところに、努力して少しでも手を伸ばしていくべきです。やがて新たな視点が得られ、大きな道が開けてくるでしょう。
(同上、p.163)
 」
これも共感できる。元々右寄りの考え方をしているなら、意識的に左寄りの知識を仕入れてみたり、霊的な方面に関心があるなら、あえてその反対の唯物論について学んでみるのも、新たな視点の獲得のためには有意義なことだ。
 
ORに「共感できる」そうです。楽山は、右寄りというより、A級戦犯に賛同するような記事を書いたのだから、ネトウヨなのです。また、楽山は、病質のために、学習するということが出来ない人です。「新たな視点の獲得」どころではなく、今も、視点など持っていないと思います。
 
 
*求不得苦
ここからは、本書中、あまり共感できなかったことについて書いてみる。まずはこの言葉である。
当時の私が欲しかったのは他の人の愛です。他の人にやさしくしてほしい。ほめてほしい。「あなたは素晴らしい」と言われたい。そうしたものが欲しくて苦しんでいた
(同上、p.19)
 」
正直言って、私にはこの感覚はよく分からない。私はどちらかといえば問題児で、幼少時から褒められることよりは叱られる方が多かったのだが、それでも称賛や優しさが欲しくて欲しくて堪らないという気分になったことはなかった。
 
過去形で書いていますが、楽山は、以前から、そして、今も、人を騙しているのであって、本当に褒められることは、全くないのです。「称賛や優しさ」が欲しくないのは、恐らく、高等感情の鈍麻によるものでしょう。自我に固まり修正不能になって、感情が鈍くなっているのです。
 
 
著者は幼少時から優等生だったそうだから、私よりもずっと褒められ、優しくされて育っただろう。それなのにこれほどまでに、称賛や優しさに飢えていたというのはよく分からない。
 
「分からない」というより、楽山には、そういう経験もなく、そういうことへの感受性も獲得していないということでしょう。それで、正当芝居をするのは、悪意であり、病質の症状なのです。優等生でないことは言い訳になりません。学校の成績云々ではなく、自分を見る洞察がないからです。
 
 
*損得勘定
そのため当初は、「そうしたことをして、何の得があるのだろうか」という気持ちがありました。
(同上、p.19)
 」
著者は「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という教えに対して、このような感想を持ったそうだ。
私は倫理道徳は損得勘定ではないと思うので、こういう考え方はよく分からない。親切というものは、そうしないではいられないからそうするのであって、それが得だからするのではないだろう。「人に親切にしましょう」というのに対して、「それに何の得があるのか」という問いがなされるというのは、それこそ唖然とさせられる思いがする。
 
また嘘を吐いています。楽山は、人を、愛したことも、生かしたことも、赦したことも、ないのです。今までの楽山の発言が、自己愛・自己中しか示していないことが証拠です。また、楽山は、深い情緒がないために、思想や信仰について、複雑な中身を理解できず、短絡~妄想で決めつけてきました。
 
 
*人の言葉
また、当時の私は、人がほめてくれても素直に喜べず、逆に、少しでも悪く言われると、とげが刺さったように感じて、二年も三年も、あるいはそれ以上も、刺さったとげが抜けないという状況でした。
(同上、p.21)
 」
私の場合は、他人から褒められれば、素直に嬉しくなる。たとえば、コンテストに入賞したら、だらしがない話ではあるが、にやにやが止まらなくなる。自分はまだまだだという謙遜はあっても、それでもやっぱり嬉しさは止まらない。人というのはそういうものじゃないかな。
 
また、嘘を吐いています。楽山は、騙したり、世辞を言うので、誰にも褒められることは、恐らくなかったと思います。素直さが全くないと思います。「人というのはそういうものじゃないかな」・・この口調こそ、楽山の芝居であり、見るたびに吐き気を催すインテリ気取りなのです。
 
 
悪口については、少しは気にするが、何年も苦しみ続けるというのはない。そういうものは時間が経つと、大体が笑いに転化されるもののように思う。女性から、きつい言葉でふられた時などは特にそうではなかろうか。
 
悪口も、正当な批判も、高等感情鈍麻によって、不感不応でいられるのが、楽山です。笑いに転嫁してゆくのも、共感のない楽山には、容易いことでしょう。いつも人を、下に見て、あざ笑っている病質です。それを、自慢げに語っているわけだから、人格の不全は、どうしようもないと感じます。
 
 
*愛の貸借対照表
そこで私は、「愛を与えた部分と、愛を与えられた部分とを、書き分けてみたらどうなるか」と思い、心の中で並べてみました(これを幸福の科学では「愛の貸借対照表」と呼んでいます)。
(同上、pp.23-24)
 」
これは方便だろうと思うのだが、愛を損得勘定で語っているようで、あまり良い気分はしない。
映画やドラマの中で、強者達が人の命を救ったり、救われたりしたのを、貸し借りで表現するのは格好良いが、真面目な顔をして「愛の貸借対照表」うんぬんはないだろう。
 
楽山は、高等感情がないために、出来の悪い辻褄合わせに終始して、いつも、論点から外れてきました。感じるべきことを感じられないのです。ゆえに、愛について、楽山が理解しているとは、到底思えません。楽山には、例えば心の痛みがなく、その冷酷さから、平気で痛みを与える人となっています。
 
 
*カトリック批判
カトリックの信者でも、霊やあの世を理解していない人がわりといるのです。こうした人たちの特徴は、二千年前のイエスの時代で時間がとまっているということです。そこで時間がとまってしまっているために、理解ができないのです。
(同上、p.122)
 」
HSでは、カトリックに限らず、伝統宗教を批判する際に、霊界の話が少ないことを問題視することが多い。HSは常々、人は如何に生きるべきかという心の教えの学びと実践ことが大切であって、霊界話にばかり夢中になる霊好きはいけないと戒めてはいるものの、伝統宗教を批判するときは、霊界話が少ないからだめだというのである。
こういうところをみると、霊界話より、心の教えこそが重要だというのはあくまで建前であって、本音は何よりも霊界話が大好きだし、それこそがもっとも重要だと考えているのだろうなと思う。
 
キリスト信仰は、人間としての身の程を弁えた心の共感を大切にする信仰です。楽山は、霊界、霊言、心霊にこだわる記事を、うんざりするほど書いてきました。今までの記事から、宗教を、霊の話だと曲解しているのが楽山です。しかも、ことごとく、本気ではなく、興味本位なのです。
 
 
嘘吐きは鈍くなる

嘘吐きは鈍くなる
 
 
(2022年11月13日)
 
 
 
  眠っていたい
 
今日と明日とは別の日なのに
今日と明日と区別のつかない日々を過ごしている
長い廊下のように
まっすぐなのに迷っている
夜もない
昼もない
肩に残る悔いをはらって
眠っていたい
好きなだけ
 
胴体の上に
眠ったような首をのせて
街中を歩いている
遊びもない
仕事もない
頭に残る悪い虫たちを
頭ごと、はねて
眠っていたい
好きなだけ
 
早朝の街中に
紙屑が転がってゆく
枯れ葉が転がってゆく
いつか風の中に
眠ったような首をのせて
要らなくなったものが
みな飛んでゆく
どこかへ集うように

要らなくなったものが
集まる場所
風の向こう
街の向こう
何もないもの
それさえ捨てて
眠っていたい
好きなだけ
そこで
 
 
  不眠と退行
 
もう遅いから
眠ろうとするけれど
眠りに入ろうとしているのか
黄泉に入ろうとしているのか
 
後頭部に住みついている
モヤモヤとしたしこり
ときに硬くなり激しく緊張して
沸き上がってくる怒りのようなものが
その理不尽を問うては責め続ける
顔と盲目と死を含んで
叫び声を誰にも聞かせない
 
お母さん
僕のお母さん
心配しないで
あなたは何もわかっていないこと
よくわかっているから
僕が相続したと思っている
泣き虫と笑い虫をありがとう
乳が欲しい
吐き気がする
乳が欲しい
もう遅いから
 
お父さん
僕のお父さん
なぜ戦争で死ななかったんだ
なぜあなたの息子は病気なんだ
見えないルールを作って
自分を厳しく律してきたお父さん
くわっと怒って自分で苦しんでいた
お中元もお歳暮も受け取らなかった
それが立派だったお父さん
なぜ今になって
長生きして欲しいのに耳が遠いんだ
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  ずだだ
 
ズダダダダ
私が何をしたというんだ
乱射される
首を振り
目をそらし
よけるのが精一杯だった
それにしても君って
不思議な人だ
言ってることが
聞かれてると思ってる
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の企み3
 
 講演会について(幸福の科学とキリスト教)
 2020年07月28日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、白々しくも、キリスト教を褒めています。このような、あざといことを、平気でやってのける楽山には、同情は禁物です。マイナスを言って、プラスを言ったら、ゼロだ、つまり、責任はないという幼稚な姿勢を持っています。実際は、いい加減で当てにならないということです。
 
キリスト信仰を、後追いで褒めればいいじゃろ・・なんてのが通用すると考えるのは甘いのです。少なくとも、人間なら反省が必要です。それを、ずっと、楽山は、言葉だけ反省と言って、反省したことになったと思う幼稚さなのです。楽山が何を書いても、そこには、人格の未発達が表れてきます。
 
楽山は、言葉だけ、反省、有り難い、などの褒め言葉を平気で使ってきます。実際には、他者を、あざ笑っている軽さが見られるので、褒めるのは三文芝居です。反省したり褒めたりする心性はなく、ペテン師は、だますために、言うだけならタダとばかり、嘘を吐くのです。
 
楽山は、批判をかわすために、キリスト教なんて最初から分かってる?という思い込みからの詭弁です。言葉だけ、好きなように細工してくる楽山の言を、真に受けないでください。嘘を吐くことに全く罪悪感がないのだろうと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の典型です。
 
 
以前、三浦光世氏の講演会を聴きに行ったことがあるのだが、その時に印象的だったのが、会場には老若男女、実にさまざまな人々がいたことである。体の不自由な人も多くいて、ここは幸福の科学(HS)とは全然ちがうと思ったのだった。自分はHSの講演会(90年代)で、体の不自由な人が多くいるのを見掛けたことは無かったので、この相違点はすごく印象に残った。
 
(ネットより)
三浦光世(みうら みつよ、1924年4月4日 - 2014年10月30日)は東京都生まれ、北海道出身の歌人。小説家・三浦綾子の夫であり、財団法人三浦綾子記念文化財団理事長、三浦綾子記念文学館館長を務めた。
正岡子規の影響により歌誌「アララギ」に入り、歌人として出発。1949年、キリスト教(プロテスタント)の洗礼を受ける。1959年に堀田綾子(後の作家になる三浦綾子)と結婚。闘病しながら作家生活を送った綾子を口述筆記などで支え続けた。綾子のデビュー作『氷点』のタイトル発案者であるほか、1926年の十勝岳噴火を題材に『泥流地帯』を執筆することを提案した。1966年に旭川営林署を退職。
1999年、妻綾子とともに日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
趣味は将棋で、アマ六段の腕前。2006年より社団法人北海道将棋連盟理事長を務めた。キリスト教関連の著書もある。日本キリスト教団出版局「信徒の友」歌壇選者。
2014年10月30日、敗血症のため死去[1]。90歳没。
 
自己中は、自分は知っている、分かっている、という自意識と自己顕示欲があるので、無根拠に説教をしたがり、インテリぶってきます。特に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、自己満悦の気分だけで書いてきます。丁寧語や読書家気取りに騙されないでください。
 
知らない人に、やさしく教えるのではなく、偽インテリの楽山は、心からの慈愛はなく、自分は知っている、あなたは知らないのですか、とでも言いたげに、自慢して得意になっているのです。こんな本も読みましたと自慢しているだけです。だから詳しい説明や解説が出来ません。
 
HSとの相違点を、「体の不自由な人も多くいて」「すごく印象に残った」という褒め言葉だけで、言い得たつもりになって、満悦するのでしょう。自己愛性は、言論の、あらゆる点と線と角度で、表れてきます。そうして、やさしく説いたつもりが、ピント外れになるのです。
 
事情が違うだけで、みな、平等であり、弱さという共感する立場から、他者を疎かにしないということであるのに、楽山は、憐れみの話にして傍観しているところに、どこまでも上から眺める立場しか持っていないことが表れてくるのです。
 
楽山は、未熟とか弱さとか傷とか欠点とか悲しみとかに全く共感できない人なのです。だから、自分については、成熟、強さ、正しさなど、芝居するしかないのでしょう。その高慢な精神を糊塗して隠すかのように「すごく印象に残った」という飾りをつけることしかできないのです。
 
楽山は、HSをネタにして、こき下ろし、ここでだけ、キリスト教をネタにして、持ち上げて、結局、自分はちゃんと分かってるんです、と言いたくて、実際は、愚かさを際立たせるだけで、滑っているのです。いくら書いても、何も良くならない自己中の世界に、楽山は、自我と肉体だけ生きています。
 
 
HSの教えには、病気の八割は悪霊憑依が原因になっているというものがある。心の中に悪想念が凝り固まっているから病気になるという考え方もある。白隠禅師の霊言では、何々の病気は前世で人を殺したカルマだとか、こういう性格だと痔になるとか、そんな風な発言が多くあった。大雑把に言えば、HSの教えは、心が正しいと健康で幸福になるが、心が間違っていると悪霊に憑依されて病気になり、不運続きになるということである(最近では、正しい信仰〈HS信仰〉を持っているとコロナにならないとか、信仰免疫とか言っているらしい)。
 
心という言葉から、恐ろしいほど、"霊" という言葉を使いまくった辻褄合わせです。霊が分かるっぽい?自覚の楽山は、多くを霊に結び付けてきます。このように、楽山個人カルトは、基本から、超常言葉を語ります。楽山が無視しているのは、人間の温もりと潤いです。
 
この "霊" というのが、楽山の子ども時代から、例えば仏様の心が分かると書いていたように、大好きな言葉なのです。宗教を怪談のように超常言葉で表して、温もりも潤いもないものとして、机上の字面の辻褄合わせだけの記事を、宗教を語るかのように書いてきたのです。呆れるほどの的外れです。
 
 
だから、HSでは病気の人の周囲は微妙な空気になる。信者仲間が病気になったときもそんな風になる。ものをはっきり言う信者であれば、微妙な空気をはねのけて、病気だったり、不運続きの人に向かって、心の間違いを注意することにもなる。したがって、HS教義をある程度知っている人が病気になったり、不運続きになれば、支部内では肩身が狭く、居心地の悪い思いをすることになる。
 
人間性を無視して、霊的な何ものか・・ばかり考えていると、派生してくるのは、現実無視と、さらなる超常現象解釈の拡張になります。結果から、霊?という魔法の解釈になり、救済とは逆方向にもなるでしょう。その間違いに気づかないのは、霊が分かるっぽい?自覚からの、楽山だからです。
 
楽山の因業は、霊が分かるっぽい自覚から、妖怪やお伽噺のフィクションに興味が偏って、人間性について感じることも考えることも出来ないことが、キリスト教についての、気味の悪い解釈や、誇大妄想的な、いちゃもんだけになってゆく過程と呼応しています。他者を批判しても、自分を見ない人です。
 
 
一応教義には例外事項も用意されていて、心が間違っていなくとも、悪霊に憑依されていなくとも、病気になったり不運な目に遭うこともあるとしているが、相当なご都合主義の性格でもないかぎりは、自分は例外であると信じきることは難しく、やっぱり肩身は狭く、いたたまれない気持ちにならずにはいられまい。
 
憑依のことを言っていますが、そうでないのは、例外と言い、それを、抵抗もなく、楽山は、使って「ご都合主義」と書いて、信じるのが難しいと、信じることについて整理できないのか、くどくどと混乱した文章になっています。ねじれたHS批判に、楽山の本性が現れてきます。
 
それは、楽山自身が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自分信仰というカルトだからでしょう。楽山の怪しさは、いたるところに表れてきます。元々が、霊能者気取りで出発している楽山は、霊が分からない人を蔑み、一方で、現実に必要な心の問題を無視してきたのです。
 
 
自分が「ヨブ記」に興味があるのは、多分このことが遠因になっている。「ヨブ記」を知るきっかけになったのは、三浦綾子のエッセーで、夫婦そろって体調を崩して床についているときに、知り合いから何かの祟りではないかと心配される一方で、他の人からはヨブ記を読むことをすすめられたという話を読んだことであるが、三浦綾子にヨブ記を教えてもらったのは本当によかった。おかげで、実際に「ヨブ記」を読み、次には内村鑑三の「ヨブ記講演」を読み、それによってHSで感じた違和感の正体に気づくことが出来た。
 
体調を崩したときに、ヨブ記が益になるのでしょうか。ヨブが回復したからでしょうか。人は、良いことを神のわざに、災いを悪魔の仕業にしたがりますが、ヨブ記の大きなテーマは、神は、人に、災難や不幸の意味を、いちいち説明しないのだから、恐れをもって神に任せよ、ということです。
 
前に、楽山は、ヨブ記のことを書いていましたが、到底、読んで理解しているとは思えない記事でした。解釈も拙劣で、神と人の関係を考えることが出来ていないと判断されるものでした。だから、「本当によかった」「気づくことが出来た」という単純な言葉しか書けず、それらは、全部、嘘でした。
 
楽山は、解説、説明、説得する、ということが出来ないのです。これは、才能や能力云々ではなく、自分に満悦していて、深刻に疑問を持って考察できず、考察と情緒を深める意志を持てない自己愛性人格障害NPDだからです。それで、クレームを付けたり、大袈裟に褒めたりするのでしょう。
 
 
前の記事で、キリスト教の本を読むことで、HSのマインド・コントロールから脱することが出来たことを書いたけれども、これもその一例であると思う。キリスト教はカルト対策に大きく貢献しているという話は聞いているけれども、こういう実体験からそれも納得である。
 
キリスト教とキリスト信仰を否定し、おとしめてきたことについて、その無理解によって、反省もしない楽山ですから「キリスト教はカルト対策に大きく貢献している」「実体験からそれも納得である」は、反省した、よかった、と同様、決して、真に受けてはいけない楽山の辻褄合わせに過ぎません。
 
まるで何かに誰かにゴマを擂っている感じの、世辞の印象です。楽山は、言動がバラバラになって、統合した人格を欠いたブログの流れになっています。結局は、解体に向かい、スクラップに、鉄くずに、ゆくゆくは、廃人になってゆくのでしょうか。
 
楽山は、自分はちゃんとわかってるんだと示したいようですが、実質がまるでなく、自らに溺れて、自らを見失い、あちこちから噴き出してくる矛盾に、その場その場で言い訳をする亡者であります。本人が気づかないところで、信仰ではなく、悪意と病気が進行しているのです。
 
反キリスト、反宗教の、病的ナルシスト、という評価は、後追いの付け足しの、おべっかや世辞や褒め言葉では覆ることはなく、破綻百出になり、むしろ、強化されてきました。今後も変わることはないと思います。楽山は、公害を弁明するのに必死な加害者のようです。
 
楽山は、反省していると思わせるために、よかった、気づいた、納得である、といった勢いだけの肯定の言葉を並べてきます。それで、いたるところに深みのなさが表れてきます。だまされないでください。今までのことから、楽山は、真逆であり、無反省と無責任の権化のような人です。
 
だいたい、知りもしないキリスト教を、けなし、そして、ちょろっと本を読んで、ほめる、なんてのは、ありえないことです。知識は、いくら積んでも、信仰を保証しません。信仰は、心の温もりと潤いに生まれるものです。楽山にはそれがないのです。思いやりと共感がないのです。
 
信仰は、共感と悲しみを知る心を持たない楽山には生まれません。楽山は、信仰を語ることなど出来ないと思います。誰も、本をちょろっと読んで、キリスト教とは・・云々、などと得々と語るような楽山のような悲惨な有り様になってほしくないと切に思います。
 
悪名が、よそに向くことを期待しているのか、誰かが、同情してくれるだろうと思っているのかもしれませんが、方向がバラバラで偽りに満ちた楽山の言は、流れを知っておれば、わざとらしく、白々しくて、書き続ければ、いずれは、誰もが気づくことになります。楽山は、早く、書くのをやめるべきです。
 
楽山は、まだ、何か、解説か評論のようなものが書けると思っているのでしょうか。楽山は、混乱と疲労と苛立ちと迷いしか与えてこなかったのに、頷く人に対しては、しめた!とばかり、みな、だましていいとでも思っているのでしょうか。
 
それに、何度も書いたけど、言論の責任をいっさい取ろうとしない態度で、言論は自由じゃろ・・とばかり、書いていいと思っていること自体、反社会的です。無反省で無反応であります。言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。
 
これは、社会人の当然のルールなのですが、やはり反社会人だから、正常な社会人たる自覚がないのでしょう。楽山は、ブログという囲いから発信すれば、安全に人をだませるとでも思って、高をくくっているとしか思えません。
 
キリスト信仰者は、神の前で、人から神への唯一の音信の手段として、精いっぱい正直に祈る人です。地上の人の世界では、神への音信は祈りだけですが、神の全知全能を思えば、神にとって私たちを知らない時と所はないという信仰ですから、私たちは、神の前で生きているということです。
 
その神の前で、キリスト教の信仰について、悔い改めることなく、故意に、悪意で、だますために、平気で、けなしたり、ほめたり、また、嘘を吐く者を、神が赦すでしょうか、否であります。楽山の、ふざけ芝居など、一日も早く止めてほしいです。
 
 
嘘が内燃する反信仰

嘘が内燃する反信仰
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月11日、再録+加筆)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
 
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
 
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
 
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
 
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
しかも区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
 
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
 
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ろうとして
迷うことも飢えることもある不自由
つまるところ
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
 
その両価性を循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな人々の国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
  恋・悪・夢・現実
 
ただ一度の恋
の夢なら何度も見た
恋の夢はいつも変
初恋の人が禿げていたりとか
しかし今日の夢は違っていた
 
その後に出会った人々の夢だ
悪い夢ではなかったのだ
夢はいつも変な脈絡だが
あとで手痛い目に会うような
冗談めいたお世辞も言われなかったし
高慢な自我の遠回しの攻撃も
きつい一言も露骨な悪意もなかった
 
むしろ快楽のような宴の夢だった
といって実際の彼らが格別
悪人というわけではなかったし
彼らの言動は更なるその後の成り行きに
具体的には何の影響も及ぼさなかったから
印象も薄く
彼らの夢は記憶する限り初めてだ
 
なのに目覚めた後の
顔を顰(しか)めたくなる脂汗のように
べっとりと付いてくるものは
また一日ゆがんだ放物線上に
投げ出されて落ち損ねて
また夢の裏側に目覚めるまで
付いて回り続けるのだろうか
 
洗面所に行って顔を洗えば
針のように刺してくる光の明確さ
これが現実だな
間違いなく
現実
だな
・・・
 
 
 
楽山が、シリーズもののように、書いているのですが
 
 「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
 2021年08月10日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。逐一批判はしません。
 
楽山は、また、似たような引用の記事を書いています。数年前の騒動とやらを、まとめたいのでしょうか。今問題なのは、楽山が、原因なのですが、その後始末の責任から逃れるために書いているとしか思えません。楽山は、それどころではない状況を無視するために他者のことを書いているのです。
 
今回は、他者からの引用のようです。例によって、記事の引用はしません。それにしても「>」が多すぎて、どこからどこまでが他者の発言なのか不明瞭になっています。記事の体裁だけ作りたいのでしょうか。あざとく、嫌味な、逃避だと思います。厚顔無恥&無知の策略です。
 
前からの疑問ですが、今さら、楽山に読者がいるのでしょうか。誰かが読むとは思えないような、不躾で、読みづらい引用で、自分の正体隠しが出来ると思っているのでしょうか。見苦しい限りです。自分の問題を無視して、他者のことばかり問題にして書きたがる体質が、剥き出しです。
 
 
 
楽山の成りすましが疑われる taka のツイッターサイトですが
 
去年の日付になっているのは引用元のツイートのほうで、リツイートは、掲載位置から見ても、最近であろうと思われます。
 
takaさんがリツイート
三浦春馬 & STAFF INFO
@miuraharuma_jp
·2020年1月29日
明るみになる事が清いのか、明るみにならない事が清いのか…どの業界、職種でも、叩くだけ叩き、本人達の気力を奪っていく。皆んなが間違いを犯さない訳じゃないと思う。 国力を高めるために、少しだけ戒める為に憤りだけじゃなく、立ち直る言葉を国民全員で紡ぎ出せないのか
午前1:33 · 2020年1月29日·Twitter for iPhone
 
楽山は、恐れを知らないようです。自殺した芸能人の、スタッフの言葉を、自己正当化のために、リツイートで悪用しているのです。厚かましさが、恥を忘れているようです。このように恥知らずの楽山が、何かの切っ掛けで、犯罪行為に走りやすい病質です。
 
楽山の場合のような、悪については、明るみに出すことが必要であり、隠すことが汚いのです。常識です。「皆んなが間違いを犯さない訳じゃない」・・詭弁です。過ちや間違いと、楽山の、故意に人を傷つけて快感を得るサイコパス的な罪は、当然、違います。後者は、許してはいけないのです。
 
正義を論じているふうな発言を選んで引用しているのが、楽山の隠れ蓑なのでしょう。楽山のような、罪を認めず、しらばっくれ続ける自己愛者に、立ち直る言葉や、励ましの言葉などは、当然、禁忌であります。故意・作為・悪意による悪だくみに対しては、批判なので、時効もありません。
 
楽山の無責任な自己愛性パーソナリティ障害NPDの体質が、表れていると思われます。殆ど、他者の言葉であること、殆ど、自分の意見を書かないこと、殆ど、放り投げて終わり、という投げ捨て投稿であることなどが、最近続けざまに書いている楽山ブログの投稿と共通します。
 
楽山は、まだ、だませると思っているようです。もはや、楽山が、常識人のような真似をすることなど、通用しないのですが、プロのペテン師なのでしょうか。ピュアな詐欺師のクリミナルマインドなのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
日常的に嘘を吐いている楽山は、だんだん演技的になって、俳優にでもなった気分なのでしょう。寒くなるような下手くそ芝居で、善人を気取ってきます。評論家を気取ってきます。生きていることに本音がなく、人のいるところでは芝居をするようになるのでしょう。現実には、嘘吐きでしかないのに。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはその通りだ。順調なら変える必要はなかろうが、行き詰まってるなら変革の時が来てるということなのだろう。
そういえば十代の頃、『風と共に去りぬ』で、国が滅ぶ時と興る時がチャンスだという話を読んだのが未だに記憶に残ってる。
 #本日の格言
ryuho-okawa.org
厳しい時代はチャンスの時代
厳しい時代はチャンスであり、思い切って改革をする時期なのです。 それをすれば、未来は、まだまだ、たくさん開けるのではないかと思います。
午後9:50 · 2022年8月19日·Twitter Web App
 
楽山には「順調なら変える必要はなかろうが、行き詰まってるなら変革の時が来てる」などと、他者に偉そうに言う資格はないのです。「滅ぶ時と興る時」・・自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のままの楽山には、興る時はありません。どんどん滅ぶ時が進行中です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「○○は認めがたいので、そのようには思ってはいません」
これはある意味、信仰の本質かもしれん。人は信じたいことを信じ、信じたくないことは信じないということ。一言で言えば、願望充足。
#本日の格言
ryuho-okawa.org
政治の理想
「ある民族が呪われていたり、生まれつき原罪を持っていて迫害されたりしなければならない」というようなことは認めがたいので、そのようには思ってはいません。それぞれに可能性を持っており、そういう意味での「平等性」は持っています。 ただ、「結果の平等」だけを目指すのが政治の理想だとは思っていません。目指すべきなのは、「機会の平等」「チャンスの平等」であると思うのです。
午後9:44 · 2022年8月19日·Twitter Web App
 
「人は信じたいことを信じ、信じたくないことは信じない」・・これは、楽山の本質です。楽山は、また不幸に他人を巻き込もうとしています。信仰を得たら、都合のよいことばかり起こるなどという幼稚さは、信仰にはならず、カルトになってゆきます。小学生レベルの偏見で信仰を否定してくる楽山です。
 
「一言で言えば、願望充足」というのは楽山の願望~欲望です。まともな信仰者は、全ての願望が上訴腐れるわけではないことを知っています。都合のよいことだけ信じるのは信仰ではありません。願望の中で御心に適うものを学習し成長することが信仰の目標でもあります。
 
願望~欲望の充足だけを信じるのは、楽山のような自己中のケダモノの所業であります。楽山は、信仰において大切なことを何も知らないので、あざ笑うかのように、足りない知恵と、無学を、一般則のように、振り回すしかない恥知らずなのでしょう。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
悟りを開くと、この世的なものに執着しなくなるというのは本当だと思う。
でもそうすると、高級時計の自慢したり、名誉にこだわって名誉毀損の裁判したり、霊言・講演回数や著書数を誇ったりするのは、悟れてないことになりそうだ。
ryuho-okawa.org
「真に知る」ということ
真に知るということによって、 この世的なる価値といわれるものが、 ことごとく、蜃気楼のごとく淡く、色が褪せて、 取るに足らないものに見えてくるのです。 そして、ただ一筋に、仏法真理の道を歩みたくなるのです。 そうならなければ本物ではありません。
午後9:39 · 2022年8月19日·Twitter Web App
 
信仰は「執着しなくなる」悟りではなく、最も大切なものに気づくことです。楽山には、その大切な気づきがないために「高級」「名誉」「霊言」などに執着するのでしょう。悟れていないどころか、何も気づかずに、何も知らずにいるのです。それは自らが「取るに足らないものに」なってゆくからでしょう。
 
楽山が執着しないのは、他者の心です。だから、思いやりもなく、共感もなく、反省もしないで、我欲を通そうとし、通るものだと思い込むのです。楽山の信仰についての見方は、全て、幼稚なお伽噺の蜃気楼と言ってよいと思います。それを平気で刷り込んでくる気が知れません。正気ではないのです。
 
 
 
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  楽山こそNPD加害者
 
 自己愛性パーソナリティ障害とは何だろう?(3)
 楽山日記(LD) 2022年08月20日
   を批判。
 
 
「>」~「<」は、楽山の言、「>>」~「<<」は、楽山の引用です。前の記事の続きです。
 
楽山は、攻撃性の勝っている病質者です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ですが、自分では理屈が得意と思っているために、インテリ気取りの屁理屈屋になるのでしょう。楽山の理屈は成り立たず、悲哀や良心などの情性が欠如していて、共感性もありません。
 
驚いたことに、楽山は、NPD批判を利用して、宗教のせいでNPDになったが、今は大丈夫と、自己正当化しましたが、大嘘です。むしろ、私は、アンチHSと称するようになってから楽山の記事を読み、楽山が自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと分かりました。
 
 
 前記事の続き。
 ここでも、この問題に関連したツイートと、簡単な感想を書いてみたい。
>>
モラハラ被害者の方が「私は自己愛性パーソナリティ障害なのではないか」と思い、バリバリの加害者が「相手こそが自己愛性パーソナリティ障害だ!!」とモラハラしながら言います。
<<
モラハラされる側は内省的で自分に問題があるのではないかと考え、モラハラする側は自己の問題を相手に投影するということだろうか。
 
気取りの勝っている楽山は、投影という専門用語を使っていますが、要するに、相手のせいにするということです。
 
(ネットより)
心理学における投影(とうえい、英: Psychological projection)とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るため(防衛機制)それを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きをいう[1][2][3]。
 
自己愛者が、いつも、傲慢な態度だとは限りません。現に、楽山のような、学者気取りで、かつ、謙虚を装って、丁寧語を使ってくる者もいます。この方が、やさしい丁寧語に騙される経過を経て、いっそう害毒は酷いのです。
 
 
>>
■自己愛的変質者
攻撃して自己陶酔を補給したい→攻撃できる材料を捏造して攻撃
■そうじゃない人
何らかの被害を受けたことに対して怒って反撃
さらに自己愛的変質者はこれらをひっくり返し、自分が被害者で反撃をしていると主張しながら被害者の反撃をさらに攻撃の材料にします。
<<
この他に、モラハラする人の無視は相手を罰し、コントロールするためのもので、そうでない人の無視は相手と距離をとり、離れたいためのものだという話を読んだ記憶がある。
両者の相違点を知るのは実に有意義だ。
 
今の楽山が、その例になります。しかし、丁寧語で、話を勧めてきます。楽山と遣り取りをすると、私は数か月でしたが、魂を抜かれるような疲労感を覚えます。正当な理路がなく、理屈っぽい脇道に持ってゆくからです。それに気づくことで、楽山の自己愛性人格障害が明らかになっています。
 
 
>>
■自己愛的な変質者が好む「カモ臭」とは?
・共感的
・自分よりも相手を優先する傾向
・献身的、自己犠牲的傾向
・怒らなそう
・真面目
・反省する傾向
・それでいてトロフィー的な要素があると最高
<<
残念ながら、これには思い当たるところがある…。すぐ人のことが可哀想になったり、怒って当然のときに「まあ、いいや」と思ってしまうのだ。
 とりあえずは判官贔屓の癖や、怒るべきときに怒れないところは直さねば。
 
楽山は、自分には共感性があることをアピールしています。しかし、自己愛者が見せるのは、そういう相手に対する見せかけの共感性で、大方、世辞と、白々しい台詞です。ですから、楽山が「思い当たるところがある」というのは、カモ臭と同時に、カモる臭でもあるのです。
 
共感があるふうを装う楽山ですが、何事についても、深いところを、全く語れないということが、思想・宗教・信仰などの、感性を要するテーマについて、明らかになっています。全てが、言葉だけの浅い概念だけで、理解したつもりになります。要するに、心がないのです。
 
 
>>
奴等に対しては
とりあえずでその場を丸く収めようとしたらアカン
とりあえずご機嫌をとる
とりあえず気を使う
とりあえず謝る
とりあえず、この場を収めるために。
これはな、絶対したらいけん
<<
 
直接の遣り取りなどで関わると精神を蝕まれるので、遣り取りを避けて、記事で批判するしかありません。半端ではなく、人格の病気ですから、人格を、根底から否定するという厳しい作業になります。そういう批判を支えるのは、冷静な、反人間性の指摘ということです。
 
 
「とりあえず、この場を収めるために」というのは、すごく身に覚えがある。気が立ってる人を落ち着かせるために…相手に譲歩してみせるとか。
これが大人の対応だと思って、そうできるように努力してたけど、とんだ見当違いだったようだ。まともな相手ならともかく、世の中には絶対そうしてはいけない相手もいるということか…。
 
慣れてくると、楽山は、笑っているのが分かります。軽く見なして、あざ笑うか、見え透いた労わりの言葉か、皮肉や当てつけでしょう。大笑いではなく、冷笑、得意顔、または、世辞の労わりのような笑いです。相手に対する優越感に浸っているからです。大人の対応ではなく、幼稚な優越感なのです。
 
 
>>
ナルシストが仕掛ける罠と言動パターン
①エンパス発見→確保→モラ発動
②揉め事起こし人格否定
③『こんなことされた』とタゲを不利な立場に追いやって被害者ヅラ
④フラモンと事実を嘘で塗り固めるスミアキャンペーン
⑤評判落とす
⑥タゲがメンタル不調→おかしい人/悪者扱い
⑦自己陶酔搾取完了
<<
 
今、まさに、被害者面をして書いている楽山です。実は、いつも、自己陶酔を求めているだけです。どんなときにも、メインとなるのは、自己愛であり、被害者芝居なのです。自らの演技に酔っているところもあるでしょう。バレてしまえば、とても、醜いのです。
 
 
この流れは目撃したことがあるし、中途までなら体験したこともあるのでよく分かる。
無慈悲な結論かもしれないけれども、たとえ可哀想に見えた人であっても、無警戒に近づき、同情、共感してはいけないのだと思う。
 
楽山は「可哀想に見えた人」が「無警戒に近づき、同情、共感」してくるのが、垂涎の的なのでしょう。注意を喚起するのではなく、不注意につけ込む楽山です。信頼度は、ゼロです。どこまでも、警戒されるだけの対象で、そういう人生になってゆくでしょう。
 
 
*補足
・エンパス → 共感力の高い人
・フラモン → フライングモンキー、ナルシストに操られてる人
・スミアキャンペーン → 組織的中傷
 
こうならないように、楽山批判を、約3年余り続けています。今回、楽山は、他の批判者を、逆に利用して、自己愛性人格障害ではないという言い訳の詭弁の刷り込みをしたいようです。事実は、真逆です。楽山のような、つまらない男を、しつこく批判するのは、欺きによる害毒が強いからです。
 
 
>>
加害者は被害者に全ての責任をなすりつけてスッキリしようとします(自動的・依存的に)。
そして、なすりつけるための行動があります。なすりつけるための行動がモラルハラスメントです。
<<
>>
今までハラッサーや取り巻き(フラモン)と接してきて、この人達には「恥」がありませんでした。
良心の呵責や罪悪感でいたたまれなくなるような感情は防衛機制で無くなるので、人間らしいそれらの後悔や謝罪が無いんですね。
だから腹の中で思っても普通やらないことをやれてしまうんです。
<<
 
楽山は、恥知らずです。3年あまり批判されて、何も答えられないのに、なお、書き続けことだけは止めません。このままだと、いつか、警察沙汰か、暴力沙汰になるのではないかと思います。自覚がないために、今、過ごせれば、明日も過ごせると思っているのでしょう。正当化できると思うのも病質です。
 
 
*恥知らず
ブーメラン発言を繰り返す人を見ていて、「なんで、こんな恥ずかしいことを繰り返すんだろう?」と不思議だったが、自分を守るために、自分の問題を相手に押し付けることに必死で、そんなことを考えてるどころじゃない状態だということか。
 
ただ、楽山が、感性が異常なために、必要なことに気づかず、「自分を守るために、自分の問題を相手に押し付けることに必死」になっているという醜態なのです。ひたすら、自己正当化を企んで、言葉をあれこれ細工して、良心をけがし、その結果、何も返ってこない世界へのめりこんでゆくのです。
 
 
こういう内面を知らされると、「すごく苦しいだろうなあ、可哀想に…」と思ってしまうのだが、こういう甘さが余計な面倒を背負い込む原因なのだろうな。気をつけねば。
 
ということは、自己愛性人格障害の楽山は、少しも苦しくないのでしょう。だから今も、正当化の企みを実行しています。それは、自己愛が妄想化して、そこに、どっぷり使っているからで、いつか、温水は、冷水に、そして氷結に代わってゆくのです。そのとき悔やんでも、もう、遅いのですが。
 
今まで、楽山は、好きなように自己愛者ぶりを表して、鼻高になり高慢になり、時には、とぼけて、自己陶酔の芝居もしてきましたが、ここに及んで、自己愛性人格障害批判に近寄って、正当化を図るとは、何とも、自尊も節操もない有り様になって、程度の低い保身に走る姿が、何とも悲惨です。
 
 
洞察なき退行

洞察なき退行
 
 
(2022年08月23日)
 
 
 
  不眠と退行
 
もう遅いから
眠ろうとするけれど
眠りに入ろうとしているのか
黄泉に入ろうとしているのか
 
後頭部に住みついている
モヤモヤとしたしこり
ときに硬くなり激しく緊張して
沸き上がってくる怒りのようなものが
その理不尽を問うては責め続ける
顔と盲目と死を含んで
叫び声を誰にも聞かせない
 
お母さん
僕のお母さん
心配しないで
あなたは何もわかっていないこと
よくわかっているから
僕が相続したと思っている
泣き虫と笑い虫をありがとう
乳が欲しい
吐き気がする
乳が欲しい
もう遅いから
 
お父さん
僕のお父さん
なぜ戦争で死ななかったんだ
なぜあなたの息子は病気なんだ
見えないルールを作って
自分を厳しく律してきたお父さん
くわっと怒って自分で苦しんでいた
お中元もお歳暮も受け取らなかった
それが立派だったお父さん
なぜ今になって
長生きして欲しいのに耳が遠いんだ
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは正論だろうけど、それだけに「お前が言うな!」と感じてしまう。
総裁が素直に間違いを認め、改めたことはあるのだろうか。不都合なことは、誰かのせいにしたり、無かったことにしてる印象しかない。
>>
#本日の格言
ryuho-okawa.org
判断は大きな価値を生む
判断は大きな価値を生みます。 特に、「判断が、常に、よい方向を向いている」ということが大事です。 時には判断を間違うこともありますが、「間違った」と思ったならば、素直に改めなくてはなりません。 正しい判断をするためには、知識や情報が大事です。「知は力なり」ということを肝に銘じてください。知識や情報を持たない者は判断を間違えます。
<<
午前11:16 · 2022年8月21日·Twitter Web App
 
間違っているから指摘しても、楽山は、同じことを書いてきます。何も変わらない訂正不能です。しかも、しつこくネチネチと遠回しな婉曲表現で書いてきます。他者のことを言う資格はなく、楽山自身が、間違いを「素直に改め」ることがありません。無反省の自己愛の病質のせいなのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDでありながら、その人格障害を批判する人たちに、まるで仲間であるかのように、逆に利用して、自己正当化を企んでいます。保証など、どこにもない世界で、身の程を知らぬ妄想です。跳ね返ってくるものを、未だ何も知らない病質者なのです。
 
 
 
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  偽アンチ:楽山の機関銃
 

 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 「アンチ論法」と「棒四季論法」2022年06月27日

 http://mmknky21.blog.jp/archives/15340373.html

   を批判。
 
 
楽山の発作的引用による投稿です。HSを批判しているつもりです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)である楽山には、反省することや共感することが出来ません。楽山の、上から評論家口調で語るのも、学術用語を好んで使うのも、自己愛という妄想の産物です。
 
HS側の意見は画像なので省略します。HSについては知識不足で、かつ、そこに楽山を批判する焦点はないからです。楽山はHSを批判していますが、その批判に、楽山が無視しているか、気づかない、病質的な欠陥からの悪意と作為が表れていると判断して書いています。
 
決して楽山と遣り取りをしてはいけません。とても異常な疲労を受け取ることになります。
決して楽山を味方と思ってはいけません。楽山は平気で裏切ります、逃げます。
楽山は異常者です。信頼関係を築くことの出来ない人です。
 
 
棒氏のアンチ論法の感想を書いとこう。
まず①について。
大概のアンチ諸氏は、信者の意見でも、まともなものはまともだとします。何でも反対ではない。
棒氏に反対意見が殺到するのは、他人にしたことは自分に戻ってくる、批判したら批判されるというだけのことです。
 
「まともなものはまともだとします」・・楽山の肯定は、世辞か、何らかの狙いがあってもことですから、真に受けないでください。楽山は、人のことなど、どうでもいいのです。自分を高めたいだけです。楽山には「他人にしたことは自分に戻ってくる、批判したら批判される」が起こりつつあります。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
②について
棒氏は、「誤読だ! 誤読だ!」と騒ぐくせに、文意についての質問には、答えをはぐらかして逃げてばかりです。
どこがどう誤読かの説明はしません。
ようするに、アンチに反対したいだけなのでしょう。
 
楽山は、自分に都合の悪いことには、屁理屈を並べるか、平気で無視してきます。無視の虫です。楽山は、正当な理路がないために、相手の理路が分からず、それを、ごまかし、疲れさせる迷路を用意しています。決して関わっていけない人です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
③について
棒氏は、ブーメラン発言ばかりするから、文意を入れ替えて返されるんですよ。
盛大なブーメラン発言をしておきながら、それを指摘するなというのは無理な注文だし、これを避けたいなら、人を責めるより、まず自分が気をつけることです(笑
 
批判したら、その批判が自分に向かってくる、というブーメランは、楽山に、ほぼ常態として表れてくる現象です。自分を見て反省するということが出来ないからです。「人を責めるより、まず自分が気をつけること」・・これは明らかに、楽山に向けられるべきことなのです。「(笑 」の嫌らしさ・・。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
④について
これは⑫と矛盾してますね。
アンチ諸氏は基本的に、相手の発言に対する感想を述べるだけです。事実から離れて推論に推論は重ねません。
どちらかというと、棒氏の方が相手の心理を邪推し、相手の発言とは真逆の結論に持っていきがちです。
 
楽山の推論は、結論から始まります。「真逆の結論に持っていきがち」・・楽山の場合、自己中の結論から始まるのです。「事実から離れて推論に推論は重ねません」・・これは、いけないことでしょうか。推論は、理路によって、新たな水路に至ることはあるでしょう。
 
問題なのは、事実~現実から離れて、話を捏ねまわすことです。楽山は、霊能者気取りから、また、学者気取りなどの、現実離れしたことが大好きで、現実離れしてゆく傾向があります。それが、楽山の、履歴なのに、よく他者のことを言えるものです。楽山から楽山へのブーメラン全開です。
 
「相手の心理」を推測することが、邪推であるかどうか分かる前提で、楽山は言っているようですが、言ってみなければわからないこともあるでしょう。反省は、いつも、後から必要なことです。反省という言葉だけ書いて、反省をしたことのない楽山に言われたくはないものです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑤⑥について。
棒氏は、アンチは嘘をついていると繰り返してますが、これまでのところ、一度もアンチの嘘を証明できてません。
棒氏は「アンチは必ず嘘をつく」という暴言を吐いてましたけど、そういう嘘、侮辱は止めるべきです。
 
楽山は、他者の嘘を証明できない人です。いつも、別世界の自己満ワールドから物を言うので、楽山の理路の、始まりも、途中も、結論も、信頼するに値しないものになっています。だから、私は、楽山と、直接の遣り取りはしません。楽山の地獄のような詭弁ワールドの影響を防ぐためです。
 
楽山には、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の病識が全くありません。いつも、気取って物を言うけれど、そこから学べるものは、欠片ほどもないのです。他者を、人を、悩ませ、混乱させるのが、楽山の唯一の生き方であり、生き甲斐なのです。どうか楽山から離れてください。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑦について。
HSの中にいるなら、HSの意見が主流だと勘違いするのも仕方ないかもしれません。
でも現実には、HSは少数派です。このことは幸福実現党の選挙結果からも分かるはずです。
HSは信じないのが多数派であり、一般の意見だというのが現実ですよ。
 
楽山と交わっていると、楽山の意見が、まともに見える人がいるでしょう。しかし、そこから汲み取れる真実も救いも、楽山は用意していません。楽山は、ただ、対立者に文句を言って、おとしめてくるだけです。説得力に見せかけている発言は、みな、自分自身を除外して言っているのです。
 
楽山には教祖願望、リーダー願望があると思います。元々霊能者気取りと、霊能を礼賛する性根があります。無神教カルトである楽山が信じているのは、いつか自分がリーダーになる欲望であり、そこに、救いとか愛とか共感とかの、人間らしい思いやりが、まるで無いのです。
 
リーダーの資格から最初に除外されるのが、楽山のような罪悪感のないサイコパスなのです。理屈屋の、いたずら小僧が、いい気になりたいために、思いやり芝居や、柔和芝居や、中立芝居をしているのが楽山です。高慢ちきとも言います。
 
(ネットより)
高慢ちき:
〘名〙 (形動) (「ちき」は接尾語) 年齢、経歴、実力などの点で、威張る資格がないのに、高慢であること。また、そのさま。また、その人をののしっていう語。
コトバンクより
 
楽山は、見せかけだけに生きている、とても惨めな人です。自分をコントロールできず、学者気取りで物を言い、よく読めば、恥ずかしい無理が、明らかになっています。拠るべき何ものもなく、その腹いせのように、通らない嘘と詭弁をぶつけて、あとは忘れて、責任を負わない人です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑧について。
一つ、二つの小さな難点があるからといって、全体を否定するのは大雑把すぎます。
でも、たとえ小さな難点でも、それが無数にあるなら、全体も駄目と結論づけるのは妥当でしょう。
ちなみに私は、演繹より帰納、合理主義より経験主義が好みです。
 
難点が、小さいのではなく、無数にあり、全体にわたっているのが、楽山です。そして「演繹より帰納、合理主義より経験主義」に見せかけてきます。実際には、バラバラな、その場しのぎの屁理屈に過ぎません。楽山の論理芝居に、騙されないでください。矛盾が矛盾を指摘する矛盾、それが楽山です。
 
楽山については、全体が身勝手で、難点というより、作為の矛盾、即ち、三文芝居の机上の辻褄でしかなく、生きている人間の実感がありません。本当と嘘を混ぜてくるのがいちばん厄介、という例になっているのが、楽山です。我が身を振り返ることのない自己中なのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑨について。
既に指摘されてるけど、棒氏はノルマ議論において、「ノルマはなかった」⇔「過去の一定期間の出来事」と意見を変えてました。
他の議論では、行き詰まる度に「どうぞ、ご自由に」と逃げることを繰り返してた。
論点ズラシと逃避は、アンチでなく棒氏の得意技ですよ。
 
論点がなく、あるように見えても、一切、責任を負わないのが、楽山です。否定を言い、肯定を言ったから、断定してないから、責任問題は生じない・・とは、楽山の発言です。その場その場で、責任を捨ててゆく楽山の人生に、付き合ってはいけません。楽山の格好付けは、もはや襤褸(ボロ)なのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑩について。
これは棒氏の誤読です。
アンチ諸氏は、過去の経験は、過去の経験として語ってます。またHS内で、大改革の号令がなければ、今もさして変わってないだろうとするの当然です。アンチ諸氏は経験と推論はきちんと分けて語ってますよ。
 
楽山の得意技は、自分が言ったことを、人の言ったことを、そっくり無視することです。いつも、その時の思いつきから言い始めて、過去を無視し、現在を否定し、未来を何も語れません。ゆえに、希望につながる感動が、まるでありません。その場しのぎなのです。
 
楽山を相手にすると、ふつうの理路が通じないことに苛立ち、疲労し、空しくなり、知情意が、そっくり鈍麻してゆきます。病原と言ったのは、このことです。病的ナルシストは、何も気にしません。都合の悪いことは、その感覚も、脳にも心にも残らないからです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑪について。
アンチ諸氏は、相手の発言をそのまま引用した上で、意見を述べてます。
一方、棒氏は、相手の発言を、歪めて要約した上で、否定してます。
ストローマン論法をしてるのは、棒氏の方ですよ。
 
(ネットより)
ストローマン(英: straw man)は、議論において、相手の主張を歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の主張そのものを指す[1]。ストローマン手法、藁人形論法、案山子論法(かかし論法)ともいう。
1.相手が示した意見を歪め、あるいは一部のみを取り出して解釈し、それを相手が発言したかのように言い返す。
2.さらに発言を引用する形で一見では否定しがたい持論を作り出し、自らの発言の正当性を補強する。
3.相手の意見に同調する不完全な擁護意見を持ち出し、充分な主張・再反論がされたようにみせかける。
4.発言の中から一見関係ありそうな問題や考え方を取り出し、さも相手側の意見はこれを象徴するものとして非難する。
ストローマン(Wiki)
 
楽山は説明をしません。公共お構いなしの怠慢ですが、学があると見せかけるためです。人は、だいたい自分の器に合わせて、生きてゆきます。多くの経験と学習がそうさせるのですが、自己愛者は、学習しないので、自我を拡大して、人より大きく見せて満悦するのです。
 
ストローマン(案山子(かかし)、藁人形)は、楽山です。両手を広げて、世辞を言い、おとしめてくるが、自分は少しも動いていないのです。いつも、圏外から、評論家気取りで書いて、インテリを気取り、独りで満悦する世界に住んでいます。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑫について。
引用は最小限に留めるのがルールです。
それなら引用スクショも最小限にするのは当然です。
にも関わらず、棒氏は「都合の良い部分だけスクショ」と、いかにも悪意でしているかのように決め付けてます。
棒氏はこういう邪推、印象操作が多いです。いい加減に止めて下さい。
 
スクショをどうのこうのと言っていますが、楽山は、呆れるような多数の記事を書いたり、偏見を根拠に悪口を言ったり、ルール外の、いかなる手段も使ってきます。個人情報の扱いには、十分、注意してください。楽山は、自分に有利なら、手段を選びません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、棒氏はいつものパターンになってますね。
①棒氏はアンチ批判の長文を書き連ねる
②アンチから論破される
③アンチを愚弄する捨て台詞を吐いて逃げる。自らのツイート削除
④しばらくすると、棒氏はまたアンチ批判を始めて、①②③を繰り返す
 
長文について、楽山に何が言えるのでしょう。楽山が削除しているものは深刻です。・・良心、反省力、責任感、思いやり、共感、修正機能、学習と成長、学者やインテリなど様々な気取り、等々、多くの良きものを捨ててきた楽山です。
 
似たようなことを何度も書いて繰り返すのも楽山の特講です。特に神否定については執拗です。代わりの救いを何も用意できていないのに、楽山は、助言者気取りで書いてきます。楽山のようになったら、人間は終わりだと思います。
 
 
*負けず嫌い
ツイッターをみてると、今も棒氏はアンチ批判を書き続けている。これを止めるつもりは、まったく無いらしい。なかなかの負けず嫌いだ。
 
楽山は「負けず嫌い」ではなく、一切の負けを認めない詭弁屋です。これは、自己愛性人格障害のベースにあり、症状を発現するところの、訂正不能の確信であり、しばしば、非合理で確信が強く訂正不能という妄想の定義に当てはまります。しかも、その内容は現実に影響するところ大です。
 
 ※
 
私は、楽山が書いた文章に表れるところの、私が考えてきた楽山の実像と異なるものや、楽山の体質的な精神の欠陥、そして、人の振り見て我が身を直さない楽山の病質などを、指摘して批判してきました。良心や共感のない者が、どのように暴走するかということを見てきました。
 
やたら長い、または、やたら数が多い、というのが、楽山の書く文章の特徴ですが、一方で、それ以外の文章には、何が言いたいのか分からない、実感のない、とても短い文章もありました。何ごとにも、自分の都合しか考えない自己愛性人格障害らしい筆致と内容と症状になっています。
 
まだまだ説明の足りないところがいっぱいあるでしょうが、神の前に、私は、修正可能の位置にいるつもりですから、楽山のような病的発作ではなく、できるだけ考えて、命があって書けるあいだは、こつことと批判を続けてゆこうと思っています。
 
 
乱心の装い

乱心の装い
 
 
(2022年06月30日)
 
 
 
  イザヤ書抜粋
 
イザヤ書46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。
 
イザヤ書54:7-8
「わたしはしばしばあなたを捨てたけれども、
大いなるあわれみをもってあなたを集める。
あふれる憤りをもって、
しばしばわが顔を隠したけれども、
とこしえのいつくしみをもって、
あなたをあわれむ」と
あなたをあがなわれる主は言われる。
 
イザヤ書57:15より
わたしは高く、聖なる所に住み、
また心砕けて、へりくだる者と共に住み、
へりくだる者の霊をいかし、
砕けたる者の心をいかす。
 
イザヤ書60:15
あなたは捨てられ、憎まれて、
その中を過ぎる者もなかったが、
わたしはあなたを、とこしえの誇(ほこり)、
世々の喜びとする。
 
 
  イザヤ書53抜粋
 
53:3
彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
 
一人称を用いるので恐縮ですが
 
お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って辻褄を合わせ
説明し納得させ了承を得る必要がどこにあるか!
 」
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
 
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
 
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書があります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間性を持たなず、良心を持たず、罪悪感を持たず、妄想的慢心に酔って吠えている楽山は、反省というものを一切しません。楽山は、いつもニヤニヤと笑っており、自信といっても妄想の炎から、的外れに指摘して、自らを省みずに、断罪したつもりです。
 
しかし、ブーメランとして、批判は楽山に帰ってくるのです。楽山に、ふつうの感受性があれば、自分の書いたもののために、立っていられなくなるでしょう。楽山には、当たり前の感受性が備わっていないので、亡者のように闇へ闇へと、燃え尽きてゆくのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山の弁神論?2
 
 神義論、弁神論についての対話 1
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 
 
弁神論は、神義論とも言い、神の正しさについて追究する学問のようですが、学問で、論理で、神の正しさが証明できる、ということについて、私は、気持ち悪いだけです。楽山のような、半端な知識を振り回す者は、弁神論が大好きなようですが、肯定も否定も成り立つことはありません。
 
対話形式の、信者も老人も、楽山です。楽山の悪意が発火しています。愚か者は、冷静な理路を通さずに、怒り始めています。これが、楽山の正体なのです。楽山の立場は、反キリストです。惑わされないでください。
 
 
*再訪
信者 「こんばんは」
老人 「どうも、こんばんは。息が荒いようだが走ってきたのかな」
信者 「走ってなんかいません。あなたのブログ記事に呆れたんです。いつにもまして酷い事を書いてますね。ったく、腹立たしくてなりません!」
老人 「どの記事のことを言っているのかな。そんなに立腹されるようなことを書いた覚えはないのだが…」
信者 「つまり、悪い事をしたという自覚がないんですね。最悪…」
 
「悪い事をしたという自覚がない」のは、楽山であります。今回もですが、キリスト教を、安っぽい屁理屈で、おとしめ、否定してくるようです。情緒面での共感性がない楽山の白々しい感情表現を入れた三文芝居です。
 
老人 「ともかく、私の記事のどこが問題なのか、具体的に指摘してほしいのだが…」
信者 「具体的に指摘したら削除しますか」
老人 「現時点ではそんな約束はできないが、話の内容によっては検討しないでもない」
信者 「随分と逃げ腰で、歯切れの悪い返答だこと(笑)。でも、まあいいでしょう。問題はここですよ。『神が存在するなら、なぜこの世界に悪があるのだろうか。この世にこれだけ悪があるということは、神は存在しないということを示しているのではなかろうか。そんな疑問を抱かざるを得ない』って何ですか。神がいないわけがないでしょう。何をバカなことを言ってるんですか」
 
「どこが問題なのか」に対して答えずに、「神がいないわけがないでしょう」と言って、頑な護教を示しています。注意してください。楽山に護教精神などありません。悪い例として、論(あげつら)いたいだけなのです。二人は、いずれも、楽山その人であります。楽山には神はいないのかもしれません。
 
勘違いしないでください。楽山は、無神教カルトです。「神が存在するなら、なぜこの世界に悪があるのだろうか」といったようなことは、神はいないということの根拠として楽山が書いてきたことです。神は信仰の対象です。信じる人は、決して、神に条件をつけません。
 
人の世界に、悪があるからこそ、悲劇が起こるからこそ、生きる支えとして、神を、キリストを、必要とする人がいるのです。悲劇が起こるから、と言い張って、楽山が、いつまでも、いつまでも、神不在の精神で生きるのは、楽山の勝手ですが、信仰者への侮辱ですから批判対象となっています。
 
 
*神義論、弁神論の前提
老人 「それは神は存在しないと結論付けているのではなくて、『神がいるなら、なぜ悪があるのか?』という問題提起だね。私は基本的には不可知論的な立場だから、あれこれ考えはしても、神は存在するとか、存在しないとか、断言はしない」
信者 「おやまあ、また逃げてますね」
老人 「逃げるもなにも、どうも誤解があるようだから、自分の立場を理解してもらえるように、説明しているだけなのだが」
信者 「言い訳がしたいなら、好きなだけ言い訳をしたらいいですよ」
 
老人も信者も、楽山です。醜い三文芝居で、結局、信仰者を侮辱してくるのです。理路が壊れていて、誰とも議論できないものだから、楽山が勝利するような独り芝居の対話形式で、捏造概念の神?を語っているだけです。その神?は、キリストの父なる神とは関係ありません。
 
 
老人 「そうかね。では、あと一つ、ついでに説明すると、この問題は、神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じるものだ。これを前提とすると、『神は全能であるなら、悪を止めることができるはずだ、それなのに止めないのはなぜだ?』『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問が出てくるということだよ」
信者 「いつもの屁理屈がはじまりましたね」
 
老人も楽山だということを忘れないでください。神の意志と行為を、人が解明することは出来ません。とんでもない決めつけで、楽山は、神をレイプするような大罪を犯しています。神の意志と行為と在り方は、人の論理を超えており、人が扱って答えが出ると考えることが背教であります。
 
楽山は、全能なら悲劇を止めることが出来るのに、止めないじゃないか、ゆえに、神はいないという理屈というよりクレームですが、神が全能をもって何をなさるかは、神に任されることです。祈り願うことは出来ますが、地上世界への執着からああだこうだの悪口は、反キリストの信仰無縁と同値です。
 
 
老人 「間違っていたら申し訳ないのだが、あなたが信じている神は、どのような神なのかな。もし前述の全能、絶対、完全な神ではなく、いわゆる多神教的な神々だとか、高級諸神霊というような存在を念頭において、この問題を考えているなら、それはちょっとズレてると言わざるを得ない。ここのところは、よく気をつけてほしい」
信者 「そんなことは、いちいち言われなくても分かってますよ」
老人 「そうか、それならよかった」
 
先ず、楽山は、不可知論的な立場ではありません。ただの、安っぽい無神教カルトです。しかも、とても下劣で、卑怯な詐欺師のような人物です。そこを棚に上げて、論者を気取り、一流を気取っているところの、反宗教の偽善者です。
 
私は、神の意志と行為を説明できる論は人間の側にはないと以前から言っています。神聖について、見える、説明できる、知っている、分かっている、という意見を、背教として否定する立場です。悲劇が起こるからおかしいではなく、悲劇が起こるから支えを必要とするのです。部外者は黙るべきです。
 
「神は全能、絶対、完全、善、正義である等とした場合に生じる」・・違います。問題は、その全能を、人知で理解しようとするから起こることです。さらに、分かったつもりの者は、かえって、分からないことだらけになるでしょう。それゆえに、ますます、神を貶(けな)すのです。愚連隊のようです。
 
何でも分かる、ということにしないと気の済まない楽山が、その思い上がりによって、上のような屁理屈いちゃもんを捏(こ)ね上げているだけなのです。楽山は、自らの、"完全"、に思い上がっているものだから、神に、信仰に、いちゃもんをつけてくる慮外者です。
 
楽山は、人間として罪深さを自覚できないので、とんがって吹聴し、結果、最悪の醜態を曝(さら)しているわけです。いくら、芝居の対話を作っても、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、楽山の嫌らしさ、きたなさだけが表れてくるのです。
 
「『神は絶対、完全なら、悪はどこから生まれたのか? 悪は一体どこから来たのか?』などの疑問」、呆れます。これは楽山などの自己愛の疑問であって、人間の疑問ではありません。人間として、人間の罪の性質を、自覚できない楽山です。神?として君臨したい妄想が表れています。
 
ゆえに、楽山は、多神教のようなと、いい加減な見方で、どうにでもなる神?を、「分かっていますよ」、と言っています。楽山は、神?を哀れみたいのです。この場合、楽山は、どういう立場でしょう、神の上に君臨するものという立場に舞い上がっているわけです。楽山には誰も近づいてはいけません。
 
楽山は、自己愛性人格障害の、恐ろしい顔を見せてきました。恐らく、この辺りの小理屈で、楽山は、何の学習も成長も進歩も反省もなく、一生涯、堂々巡りをすることになるのでしょう。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。かつ、責任を負わない精神不全者である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)を考える。
特に批判に対して不感不応。理解力がない。
理路が理解できない。理路を組み立てることも出来ない。
泡沫的屁理屈。噴霧される悪意。
反論や批判には無視と忘却で生きている。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、深い議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶(おとし)めてくる。
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、未熟で幼稚な疑問のまま、思考と感性の発育が止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。
 
情報化社会の現代は、聖書の時代と違って、迫害者や偽善者や反キリストが、それだと、すぐに分かるような時代ではありません。彼ら邪悪な者たちは、様々な、だまし方をもって、良心を攻撃してくるでしょう。
 
楽山は、否定か肯定か、はっきり言わず、キリスト者とも付き合い、ときには、世辞も言いますが、最後には、キリスト教は正しくないと言えなくもない、などと言って、裏切るでしょう。楽山は、自らが教祖になる企みを持ち歩いている狡猾な偽善者です。
 
人間らしい心があれば、誰でも、深い信仰に至ることは可能ですが、自己中で無反省の心無い者だけは、どんなに見せかけの知性を振り回しても、神を知らず、真のキリスト者にはなれないのです。
 
楽山は、人の意見を全く聞かずに自分の言いたいことだけを言うことに、恥も罪も感じないほど、それゆえに、また、ネットでもリアルでも、彼に出会うことは不幸としか言いようがないほど、疲労だけを与えて混乱させる人格破壊の加害者です。
 
・・怒鳴るより悪い、いやらしい言い方、というのが楽山には分からないんでしょうね・・
 
楽山ほど物わかりの悪い人も珍しいです。しかも、恐れを知りません。神に抵抗する勇者でも気取っているのか。しかし、表れているのは、楽山の救いがたい無知と無恥と、知性と感性の、ふしだらな倒錯だけなのです。このような楽山とは、交わること自体が不幸と言えるでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
いちゃもん屋の精神症状

いちゃもん屋の精神症状
 
 
(2020年)
(2022年06月28日、再録+加筆)
 
 
 
  肉声が伝える等々
 
肉声は文字と違って
同じ内容でも
声の高低・調子・表情・タイミング
などにより或(あ)る種の感情
悪意・好意・無関心
無関係でありたい気持ち
などを伝える
言っている人は気付かなくても
言われている人も気付かなくても
必ず流れている
ときには内容より
含まれた感情の方が重たいことがある
そして中にはその時に
あるいは後で思い出されて
脆弱(ぜいじゃく)な胸を打ったり刺したりする
当然敏感~鈍感な胸があり
耳があり口がある
鈍感な口は
内容以外に伝わるものがあることなど
知りも気付きもしない平気さで
日々悪意や好意を振り撒(ま)いている
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
誰のものなのか
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
誰のものなのか
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
誰のものなのか
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
  世捨て人の
 
世捨て人の夢見るものは
虚無のやさしさで
無為の速度で
自棄の靴紐を絡め
退廃の旅支度を過ごし
厭世の渡し舟を待ちながら
絶望の気道を開いて
暗黒の呼気を促し
怒気の吐息を拾い
悪意の杭を抜いて
憎悪の河に流して
せめて見送れるだけ見送ることだ
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、今も、ツイッターで、正義の味方を気取って、HS批判を書いています。一方で、自分を見ることせず、他者の批判だけするということが、成り立たないことを知らないのです。だから、楽山が元気であることが偽善を促進するわけですから、楽山周辺は、裏を返せば腐敗臭に満ちてゆくのです。
 
 
 
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