ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:芝居

 
  まとめ芝居(3)2
 
 幸福の科学の基本教義について
 2020年05月31日
 楽山日記(LD)を改めて批判。
 
 
HSを辛らつに批判する楽山の、カルト臭い野望を持っている本性が、じわじわ表れてきます。
 
 
*霊的人生観
 自分の理解では、HSで言うところの霊的人生観とは人は死んだら終わりではなく、その本質は霊であり、永遠の生命を持ち、転生輪廻を繰り返しつつ、さまざまな経験を積み、霊性を向上させているという考え方である。ようするに、いわゆる霊性進化論であり、ダーウィンの進化論に強く影響された考え方である。(参考『現代オカルトの根源: 霊性進化論の光と闇』大田俊寛著。ちなみに本書は、UMA氏のレビューを読んで知った)
 
私のいちばん嫌いな超常の辻褄合わせです。根拠がありません。好ましい人間性がありません。「霊」「永遠」「天昇輪廻」「霊性進化論」・・こういう超常の話を楽山は好みますが、人間としての根拠や必要性を、まるで説明できないのです。
 
 
HSでは、進化論は間違いであり、ダーウィンは地獄に堕ちたとしているのだが、そんなことを言いつつもダーウィンの進化論の影響を受けた霊性進化論(霊的人生観)を信奉しているというのは、なんともおかしなことだ。でも考えてみれば、大川隆法は高橋信次を貶めつつも、その教えを流用しているのだから、こういうことには無頓着で、全然気にしない人なのだろう。
 
生物の進化論は、学説として信頼を得ていますが、霊性進化論は、証拠が何もありません。"霊"を付ければいいってもんじゃないのです。そこには、カルトにも宗教にも思想にも、もっともらしく設(しつら)えた妄想性神化論?が、いっぱい生まれてくるのです。
 
 
霊的人生観の弊害についていえば、それを信じれば信じるほど、四六時中、霊がどうした、過去世がどうしたと言ってばかりのおかしな人になってしまうということを指摘すれば十分だろう。自分が会員だったころのHSでは、心霊マニアや霊好きに堕してしまうのを戒めて、霊的人生観を持ちつつも常識をわきまえていなければならないと説いていたものだけども、それはあくまで建前であり、口先だけであって、実際には教祖から率先して霊がどうした、過去世がどうしたということばかり言っているのだから仕方がない。こういうHSを見ていると、怪力乱神を語らずという姿勢の大切さを痛感する。
 
零的尽生漢の楽山は、自分が使った言葉「怪力乱神を語らず」について説明する気がないようです。そういうのを、お高くとまる、自分は分かっているんだ、上から親切に教えるのではなく不親切に言い放って終わり、という、実にシャロームにそっくりな態度です。成りすましを疑っています。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず
【読み】    かいりょくらんしんをかたらず
【意味】    怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
 
まさに、超常と心霊について、霊が分かるっぽい自覚?から、説得力のない惑わしで、"乱神を語ってきた"ところの、人間性と共感性の欠けている楽山が、言っています。こういうところも、シャロームと似ています。
 
「心の理論」:幼稚な勘違い。
「奇跡について?」:幼稚な詭弁の行き詰まり。
 
楽山やシャロームなどの易坊類については、一人による3者の成りすましを疑っています。ネットでは証明できませんが、また、違うという証明も出来ません。
 
 
*信仰
『仏陀再誕』では、地上の仏陀である大川隆法への信仰が説かれている。つまりHSで説かれている信仰は、教祖崇拝、生き神様信仰、グルイズムなどと同じものである。これはいちいち批判するまでもなく、間違いであることは明らかだ。
 
自分を、霊が分かるっぽいと思い込んで、人間の理路も共感も無視して、様々な、嘘っぱちを、つまり、間違いであることが明らかなことを、得意げに書いてきた楽山も、訂正不能、学習不能、という点で、似たようなものです。
 
 
それにしてもHSは、唯物論を批判しつつも、社会主義共産主義にありがちな個人崇拝と同じ形態の信仰を持っているのだからおかしなものだ。社会主義国では、指導者を神格化して銅像をつくったり、肖像画を飾ったりして讃えているが、HSでも教祖の銅像を作ったり、写真を拝んだりしている。こういう両者をみると、人は信仰者であろうと、唯物論者であろうと、神から離れてしまえば、その次には人を神として崇めるようになってしまうのかもしれぬと思えてくる。
 
宗教だけでなく、政治もイデオロギーも、無条件信奉者が多数いれば、いくらでも強大なカルト思想集団になりうるということです。党派、派閥、など、御恩と奉公の関係が成立すると、ますます、様相は、封建的、独裁的、または、カルト的になるでしょう。共通してみられるのは、人間性の喪失です。
 
これらに共通する経過と結果は、自己絶対正当化と訂正不能と無反省と自己中と無責任と責任転嫁と他罰であり、合理性さらに人間的な共感性を欠いてくると、反社会的になりえます。その爪痕(つめあと)が歴史に残っているわけです。ゆえに、人類共通の、最も憎むべき罪であります。
 
 
こんなことを書くと、信者からは「わたしは神から離れていない」という反論があるかもしれないが、自分からみれば、神でないものを神とすることは神に背を向け捨てることであろうし、それなら神ではない大川隆法を神だとすることも神に背を向け捨てることであるとしか思えない。信者にとっては〈大川隆法=神〉だろうから、大川隆法を信じることが、神を信じることであり、大川隆法を信じないことは神を信じないことになるのだろうけれども、それはHS内部では通用しても、外では無理だろう。
個人的な感想としては、教祖崇拝、生き神様信仰というものは、信仰としてはもっとも唯物的、地上的、俗世間的であって、お世辞にも崇高とは言い難い信仰形態だと思う。
 
上のようなカルトの間違いと害悪が分かっているなら、楽山は、先ず、自分でブログに書いたところの、とても恥ずかしい"霊が分かるっぽい"妄想?を捨てるはずですが、そういう反省は書いていません。前に楽山の書いた、"とほほ"では、反省にも訂正にもならず、"ボク弱いんです芝居"にしかなりません。
 
 
*霊言
HSでは、霊言が本物である証として、さまざまな説明をしている。たとえば外国人の霊が日本語で語ることについて、総裁の言語中枢を活用して話しているとしたり、霊言をするには霊と波長を合わせる必要があるなど…。
ただこういう説明は、その時々の都合で変わることもあるのが胡散臭い。先頃の例でいえば、守護霊霊言の内容について現実との乖離が明らかになったとたん、守護霊霊言では本心が語られるという説明がブレていたのだった。(参考・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由)
こういうところからすると、HSで言う「霊言のしくみ」なるものは、霊言を本物らしく見せるための、はなはだ護教的な後付けの屁理屈にすぎないことは明白である。
 
誰よりも自分のインチキをまともに見せかけてきた楽山は、今までの楽山の記事と私の批判の経過から、キリスト教も、同じような見なしで巻き込んで、否定したつもりになっていました。楽山が、浅薄な思いつきで並べた神の条件に、神が従うはずはないのです。とても、見苦しい屁理屈でした。
 
キリスト教における三位、すなわち、神、キリスト、聖霊について、啓示や聖霊体験などの神霊直接体験を強調する向きがあり、それらは、自己顕示欲からの意図的な嘘であるか、自己暗示による陶酔気分からの有頂天発言であろうと思われます。
 
何故なら、キリストが救ったのは、傷つきやすいが人間らしい人々であり、一方、神人一体化の訂正不能の戒律主義に向かうのは、キリストの敵となったパリサイ人たちだったからです。一般の他者より上の者になりたがり、なっていると思い込んでいる心性は、カルトにも共通しているようです。
 
 
ちなみにHS以外においては、霊言の審査においては次の基準が用いられることが多いようだ。
①声が変わる
(少女が、野太い男の声で話す等)
②口に水を含ませたまま話をする
(参考「『イギリスの霧の中へ 心霊体験紀行』の感想 (1)」の中段以降、および追記)
③霊言内容と確認された事実が一致する
今のところ、大川隆法による霊言は、①②③のどの基準を満たすこともできておらず、この点からする到底本物とは言い難いと結論づけるしかないように思う。
一応念のため、①②はすぐに分かることだからよいとして、③について説明を加えるとすると、これについてよく言及されるのは佐倉哲氏のページだ。
・大川隆法の霊示 『内村鑑三霊示集』のウソ
仏陀意識で書かれたという『仏陀再誕』などについても検証されている。
・ブッダと大川隆法
 
このように、人間を超えた超常のしるしを求めるのは、今も昔も、変わることのない、人間の大きな、罪性、すなわち、罪の性質であります。つまり、その罪の性質によって齎(もたら)される結果として、一気に人間を超えようとする者は、ただただ、人間離れの化け物になってゆくだけなのです。
 
神の啓示が、もし実際、現象としてあるならば、受けた人間は、まず、恐れおののき、それを口にするのを憚(はばか)るでしょう。そういう恐れの心がない者に、神が啓示を与えない理由があるとすれば、それは、与えれば、たちまち、教祖に早変わりするのが自明だからでしょう。
 
ゆえにでしょうか、聖書では、啓示を受けた預言者は、キリストと使徒を含めて、大方、現世的には、利益ではなく、幸福とは言えない運命を辿っています。それが、神の与える使命というものなのでしょう。
 
 
ところで、この論点における自分のツボは、ダーウィンの霊言において、ダーウィン霊が人になりかけの猿を探していると言っていたことである。進化論は、猿が人になったというのではなく、猿と人は共通の祖先をもつということなのだが、大川隆法に降りたダーウィン霊は進化論のことをよく知らず、一般人にありがちな誤解をしているらしい。
 
楽山は、仏様が喜んでいたと親族に言って、笑われたものだから、それら親族を、霊が分からないっぽ過ぎると言い、ゆえに、楽山自身が、仏様の霊でも分かるっぽいという自覚を持っています。ということは、一般人ではありえないような、ずっと改めていない霊感の我欲を、棚に上げて、上のことを言っているのです。
 
「心の理論」:幼稚な勘違い
 
「よく知らず、一般人にありがちな誤解」という霊のことを、まず、楽山自身が改めないで、他者を批判する資格はないのです。そして、ここに、楽山の、一般人を軽蔑し、自分は一般人ではない、もっと高い位置にいる、という自覚が見え隠れしています。
 
 
また潮文社時代のキリストの霊言では、キリスト霊は最期の言葉について、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」などということを言うわけはなく、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」とはエリア、ラファエルを呼んだのだとしていたと記憶している。でもキリスト教の入門書を読めば、これは詩編22の冒頭句であり、それは嘆きから始まり、やがて神の讃美へと至る詩だという。福音書作者は、この冒頭句を提示することで、十字架上のキリストは詩編22を唱え、神を讃美していたことを示したということらしい。でもなぜか大川隆法に降りたキリスト霊は、こういうキリスト教では常識的な知識さえ持たなかったのだ。
 
ひどい白々しさです。楽山こそ、シャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という、キリスト教についての"常識的な知識"であるところの"罪を悔い改める信仰"にも真逆の、とんでもない反キリスト信条の味方を継続的にしてきたのです。
 
詳しいことは知りませんが、神、主、エリ、エール、エロイ、エロヒム、など、神を表す呼び名は、一つではありません。楽山は、知りもしないことを、本から拾ってきて、知っているかのように吹聴する癖があるので、信頼しないでください。
 
 
大川隆法が霊言と称するものは、このようにある程度の知識があれば、すぐにボロが出るものである。以前の霊言であれば、たとえ霊言のなかに事実誤認があったとしても、心の教え、人生論的な部分についてはよいところもあるという主張も成立し得る可能性はなくもなかっただろうけれども、最近の霊言は大川隆法への讃美やら、教団運営のつじつま合わせやら、過去世がどうこうというような護教的なものばかりなのだからそれも無理になっているのだから仕方がない。
 
ある時期、盛んでも、人間は、衰えてゆきます。それが、人間であり、人間の宿命です。そこで、次の世代に、良きものを伝えられるかが問われるわけですが、カルトや、楽山やシャロームなどのサイコパスには、良いものが何もなく、害毒だけが残るのです。
 
 
*まとめ
大川隆法は自分の教えによって、世界の宗教を統合するとしているし、信者もそれが可能だと信じているのだろう。実を言えば自分も信者だった頃はそれを信じていた。
でも神を信じ、霊的人生観を持ち、正しき心の探究を志し、愛知反省発展を実践するうちに、残念ながら大川隆法の教えでは世界の宗教を統合することは無理だと結論するしかなくなってしまった。信仰、愛、知、神、教義体系などについてはキリスト教の方がより徹底しており、深く緻密に探究しているし、思想性の幅広さであれば仏教が圧倒的だろう。
 
よく言うよ、とは、このことで、楽山は、神について、神がいるなら、どうして悪がいるのか、悪を放置するのか、などと、いちゃもんをつけて、どうしようもない本末転倒の、おとしめの文句を言ったことを、そっくり棚に上げています。
 
信仰は、神がいて、おいでおいでするから、人が信じるのではありません。神が、いかに沈黙していても、キリストの愛と共感を忘れ得ないのが、キリスト信仰者です。ゆえに、嘆きも正直に、祈りの場において、神に捧げることになります。
 
歯の浮くような讃美言葉で神に対して世辞を言うシャロームや、神がいるならなぜ悪があるかなどという現世の完全幸福の欲望だけからのいちゃもんを投げてくる楽山などには、信仰も信仰の理解もないと思うのは、愛に絆(ほだ)されるという人間の性質が、嘘吐きには無いからでしょう。
 
まず、どうしようもない悲劇に接した人々が、神なる御方を必要として、神がいないならば生きてゆけない、というほどの気づきが始まり、信仰が始まるのです。こういうこと書いても、字面概念思想?の楽山には、分からないでしょうね・・。
 
 
発展については宗教ではあまり語られていないというが、キリスト教系の光明思想や、自己啓発本などで十分に語られている。
 
(光明思想について、ネットより)
ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動である。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタント系カルヴァン主義への反発を背景に生まれた[1]。
ニューソートは、アメリカのメスメリスト[2](催眠治療家)・心理療法家フィニアス・クインビー[3]やクリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディの思想を中心としていた。アメリカの対抗文化の流れを汲むニューエイジの源流のひとつであった。ラルフ・ワルド・エマーソンの哲学を支えに徐々に社会に浸透していった[4]。
ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[5]。
その主張には、「そもそも『原罪』は存在せず、あらゆる人々がキリストの力を内包している」、「正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた」といったものが含まれていた。その教えを異端視する者がいる一方、従来の禁欲的キリスト教思想に疑問を抱いていた思想家、労働者、零細農場や工場の経営者らは触発された[6]。
「生長の家」の創設者谷口雅春が光明思想と訳しているように、気持ちを明るく保つことで運命が開ける、というポジティブ・シンキングや、イギリス出身の牧師ジョセフ・マーフィーの成功法則(日本でも著作がベストセラーになっている)などもニューソートの一環であり、いわゆる成功哲学の面がある。
心や思考の性向が健康や経済状態として表れる(思いは現実になる)という考え方(積極思考、ポジティブ・シンキング、引き寄せの法則)は、現代の自己啓発やビジネス書の源流であり、日本人への影響も大きい。
光明思想
 
「あらゆる人々がキリストの力を内包している」これは十分に、カルト臭い筆致だと思います。景気よく豪語して辻褄を合わせる者たちに、同意しないでください。原罪の自覚なしでは、キリスト信仰は成り立ちません。また、ポジティブシンキングは、反省を土台としなければ、自己中になります。
 
 
霊については最近のHSでは護教的党派的な見地からの主張が多く、ずいぶんと偏向したものになっているが、それよりはより普遍的な立場から語っているスピリチュアル系の本で学ぶ方がいいだろう。
 
人間理解と共感を深める努力と反省をしないならば、スピリチュアルも、キリスト教の教派も、有害です。人間を深く理解しようとするなら、罪がない、などとは、決して言えないのです。自分を見ることの出来ない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、罪の自覚がありません。
 
 
またすべてを統べる思想を目指すのであれば、唯霊論でも、唯物論でもない、それらを超えた立場を目指すべきであって、霊的人生観という唯霊論の立場に立ち、唯物論を否定しても仕方がない。
同様に、有神論と無神論のうち一方の立場に立っていても仕方がない。唯霊論でも唯物論でもなく、有神論でも無神論でもない、それらを超越した立場にでも立たなければ、それらすべてを統べることはできぬだろう。この意味でHSの教義には限界があるし、HSの教義は数ある宗教のうちの一つではあっても、すべてを統べるものになることは決してないのが現実である。HSの教えによって救われる人は当然いるだろうけれども、だからといってすべての人を救えるとは言えない。大川隆法がいくら自分の教えを誇ったとしても、こういう事実はいかんともしがたいのである。
以上、これが自分の現時点における結論である。〈了〉
 
楽山は、○○論というような難しい言葉を使いますが、楽山の理解は極めて短絡的で広害のない先入観でしかありません。楽山は、論理的思考にも、情緒的感性にも、適性がないのです。自己愛から、持っている自分を気取っているだけです。
 
カルトには、教祖が、権威主義から教えを、押し付けてくる硬派カルトだけでなく、楽山のような理屈に見せかけた軟派カルトと呼んでいるところの、一見、優しそうな言葉で、霊が分かるっぽい詭弁による誘導もあります。正体は、楽山の野望なので、硬派よりも見抜けないあいだは、より危険です。
 
「結論である」などと言えるほど、楽山の、思想と知性、宗教と感性は、いずれも、整っていません。話にならないくらい雑であり稚拙であります。今回、いくら長い記事を書いてもいっしょだ、ということが明らかになっています。
 
楽山が、HSを斬ったつもりの、その刃で、楽山が斬られているのです。これは、嘘吐きや偽善者やカルトには、しばしば見られることです。偽善の妄想狂シャロームが、押し付けがましく、信仰?のきれいごとを並べるときにも、同じようなことがありました。"反しているのはお前だ" ということです。
 
なお、楽山やシャロームなどの易坊類には、一人による3者への成りすましの疑惑があります。ネットでは証明できないが、ネットでは否定することも出来ないのです。
 
 
メモ的に:
 
真の信仰は、人間らしい良心を促進して、絶対者である神に対する恐れと敬虔に人を導き、人に反省と成長を促します。正直な祈りだけが、救われる条件であること、そして、潤いと温もりが、すなわち、悲しみと愛が、信仰の、源泉であり、力であることを、今まで書いてきました。
 
信仰について考えると、聖書を読むということは、その中に書いてあることで、人間として受け取れるものを探し求めることであって、聖書に書いていることを全部信じ込むことではありません。"わからない" と言える勇気が必要です。
 
何故なら、心が動かさないことを信じれば、それは、命ではなく、教条的な概念の思い込み信じ込みに過ぎないからです。そういう信じ方をすると、疑問に対して、心からの信仰ではないために、まともな受け答えが出来なくなて、勢いだけになって、人間離れしてゆきます。
 
ですから、感動してもいないのに、つまり、本当に心が動くほどに理解してもいないことに、信じます、などとは、言ってはいけないのです。心が動いていない場合、一応、心に留めて、今後、考えてみます、ということに、とどめておかなければいけません。
 
知ったから、分かったから、信じるのではありません。心を動かし、心に残っていて、生きるのに必要だから、他にないものとして、受け取った、という信仰なのです。
 
 
まとめたつもりの砂場にいる

まとめたつもりの砂場にいる
 
 
(2020年)
(2022年06月04日、再録+加筆)
 
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  生き物戯作
 
雀が首を傾(かし)げるのを
見たことがあるかな
わしはある
と庭の椅子(いす)に腰かけた老人は
独り呟(つぶや)くのだった
 
日干しになりかけた雛を拾って
しばらく飼っておったからの
小雀まで育てて窓を開けてやったら
外をきょろきょろ見て
ぱっと振り返って
何度か首を傾げたのじゃ
そのあと一気に飛び立っていったが
あれからどうしたじゃろうなぁ
 
ちらりと空を見て老人は続けた
生き物は何でも知っていて
知らない振りをする
いつもの老人の繰り言である
 
死期が迫ると
それとのう分かるらしい
蛇に見込まれた蛙というが
蛙は食われることを知っていて
蛇を相手に最後の話をしておるのじゃ
俺の番が来たようだな
 
そのようだ
痛いのかな
痛くはないと聞いている
骨肉が砕かれる前すでに
魂は天に昇り始めるらしい
 
では一芝居お願いして
創造の主様のもとへ帰るとしよう
とか何とかな
 
草食動物が肉食獣に襲われるときも
一見必死で逃げるが
あれも芝居といえば芝居で
食われるときにはちゃんと観念する
わかるのじゃ死ぬべき時かどうか
腹が減っていなければ双方とも
長閑(のどか)なものじゃ
 
話す相手もいないのに
呆けた老人は続けるのだった
人は自らに近いものほど
より高等だと思っておるようじゃが
実はその逆でな
見える生き物の中で
いちばん賢いのは植物なのじゃ
彼らは実に悟っておる
だから首を斬られても
根こそぎ引き抜かれても
文句ひとつ言わず
抗(あらが)いもしない
まことに天命を弁(わきま)えて
予期してさえおる
 
老人は少しふらついた
ん?そろそろわしの番かの
背中が気持ちよう涼しうなってきた
目に見えぬバクテリアを黴(カビ)で
抑えたまではよかったがの
長い長い進化の歴史を
彼らは種の存続のみに費やしてきた
 
自然に敵(かな)うのは自然だけじゃ
バクテリアの持つ記憶に
人は勝てまいのう
そう言い終わると老人は
椅子の背に凭(もた)れて
眠りに就(つ)いてゆく様子である
老人の独り言である
誰も聞いてはいなかった
近くの木々が風に吹かれて
小鳥たちと一緒にざわめいていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
私は年寄りで、楽山は私より若いでしょう。楽山んは、私が死んでから、また好きなように書く無責任人生を謳歌するつもりでしょうか。しかし、楽山のような「保身だけの卑怯者」「魅力の欠片もない」人は、誰かに迷惑をかけ、傷つけるので、結局は、一生、批判にさらされてゆくでしょう。
 
ゆえに、批判を無視していると、そのうち批判が治まるということはないのです。むしろ、批判対象記事が増えてゆくだけなのです。人の意見を、当たり前のように無視してゆく自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の生き方は、結局、成り立たないということです。
 
 
 
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  憐れみ病2
 
2014年04月30日の作です。
フィクションであり、実際にあった会話ではありません。じわじわと意見や見解ではなく、感情的な決めつけの当てつけだということが表れてきます。
 
 
某:
 A先生が心配しておられます。
 
私:
 私の書いたものを見せたのですか。
 
某:
 見せられませんよ、あんなもの・・
 でも神様はあなたを守ってくださいますから。
 
私:
 私の意見を知らずに
 A先生は私のことを心配しているということですか。
 それで「神様はあなたを守ってくださいます」だとすれば
 キリスト者が陥りやすい「憐れみ病」です。
 
某:
 憐れみ病?・・なんですか、それは・・
 あなたのことを心配して言っているのに。
 
私:
 なぜ心配するのでしょう。
 私の意見の内容を知ることもなく
 なぜ心配することが可能になるのでしょう。
 原因のない結果をもたらしているのは
 いったい何なのでしょう。
 
某:
 ですから、あなたがあんなことを書くから・・
 
私:
 「あんなこと」と言ったとき
 私は「憐れまれ心配される人」という
 見なしの行為が前提となっているということです。
 
某:
 いえ決してそういうことではありません。
 私としては
 とにかく隣人愛として考えているということです。
 
私:
 相手の結論だけ強く否定しても
 根拠がなければ、それで済んだことにはなりません。
 否定表現だけでは何の否定にもならないのです。
 
 「とにかく」は、めんどくさいときに
 それまでの話をぶった切る感情表現ですから
 自分の結論以外、何も語ってはいません。
 
 「憐れみ病」は
 やたら憐れむことが善だと思い込む病であり、
 人の憐れみが病んでいるとも言えるでしょう。
 
 憐れむ理由もなく他者を
 「神の恵みに気づかない人」として低め
 ゆえに自らを高くすることです。
 「悟らない人」「かわいそうな人」として
 ありがたい施しを感謝して受け取りなさい
 という態度を身に着けてしまう病です。
 
 隣人愛と言われるが
 この「憐れみ病」は愛とは全く関係ありません。
 これは伝染病なのです。
 私を含めキリスト者なら誰でも
 犯しかねない慢性の過ちによって発症します。
 
 そういう性質ですから
 一度に一つの方法でスパッと切り離すような
 スマートな治療法も予防法もない感染症です。
 だから、人間には「常に(健全に)」は不可能で
 せいぜい慢性化しないように
 折に触れて考え直すしかないのです。
 
某:
 せっかく心配して言ってあげたのに・・
 
私:
 「してあげた病」という名前でもよいのですが・・
 伝道が伝染や宣伝になりませぬように・・
 
某:
 あなただって私をさげすんでいるでしょう。
 
私:
 「あなた「だって」」で
 ご自身の「さげすみ」の「憐れみ病」
 を認めたことになりますが、
 それは言葉の綾か勢いだとしても・・
 
 私は反対意見を言っているだけです。
 黙っていたら恐らく
 いかなる叫びも嘆きも届かなくなるでしょう。
 
 さげすんでも憐れんでもいませんよ。
 ・・少し怒ってるけど・・
 
 
馬
 
当時、2014年、うま(馬、午)年、私、うま年生まれの還暦、失礼・・
今、68歳です。
「馬」という漢字をぐにゃぐにゃっとして見ました。
・・落ち着かない「馬」?最終行の「怒ってる」からの連想で持ち出しました。
 
 
(2014年)
(2022年04月22日、再録+加筆)
 
 
 
  余言?
 
過去百年と、その前の百年を比べてごらんなさい
過去五十年と、その前の五十年を比べてごらんなさい
人類は急速に肥大している
人間の精神性は同じスピードで追いついているのでしょうか
今や人類は片手に自殺の道具、核兵器を握り
もう一方の手で完全に解明されないまま
遺伝子に手をつけようとしている、そういう時代なのです
 
人類は自らを殺す能力を持ちました
神様の御心はわかりません
しかし少なくとも自然は
急速に肥大した人類に
人類がしでかしたことの
責任をとることを迫ってきているのです
 
人類は滅びるのだろうか
いつかはね
人類の滅亡は近いのだろうか
自然が人を育んできた時代や
剣と鉄砲だけで争ってきた時代に比べれば
すでに自滅の手段を持ってしまったのだから
ありえないとは言えないが
それほど馬鹿ではないだろうと思いたい
 
彼ら、次の時代を担うべき人々は
今の時代を動かしている人々が
心配するほど愚かではなさそうだが
安心するほど賢くもなさそうだ
 
未来は
彼らが彼らの責任において
変えていくほかはないように用意されている
彼らを教育し
道を用意して
その上を歩ませようとすれば道を誤り
彼らを指導し
指さして
引き連れようとすれば離れるだろう
 
変えていかなければならないものは多いけれど
変え方を知っている者がいるだろうか
できることは努めて道を整えること
でもどう整えたらよいものか
 
あってはならないことだけれど
仮に人類滅亡の時が来るとして
隣人がみんな死んでいくのに
自分だけ助かろうと思うべきだろうか
むしろ自らの命を失っても
愛する人々が助かるように祈るべきではないだろうか
「命を得ようと思えばそれを失い、」…聖書の言葉だね
あるいは「天に宝を積む」ということか
 
救いであれ怒りであれ
神の力が人に及ぶことはあるかもしれません
人が人の都合で神を選ぶのではありません
神が神の都合で人を選ぶのです
人が神に近づくのではありません
神が人に近づくのです
 
だから神の知恵は人にはわかりません
人の知恵はどこまでバランスをとり
どこまで片寄ってしまったのでしょうか
 
不安と希望に伴われて努める人々
心も体も人間である
百%でもなく0%でもなく
その間にさまざまにいて
その間を揺れ動く人間である
 
いつの世にも
世の終わりまで
彼らとは呼べないほどに
彼らも我らも愛すべき
ただ 人 である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省は「実践するのは難しいんだよなあ」・・でしょうか。そう言って、一生、反省も謝罪もせずに生きてゆくつもりなら、人間ではないと思います。人間として生きておれば、反省するべきことは、いっぱいあります。ごまかしてばかりいると、自分をも、ごまかすことになります。
 
 
 
  落ちる
 
 
ストンでも
ドスンでもいい
落ちるとき
 
擬音語が
付くのは
落ちた先がある
 
こわいのは
音もしないで
落ちるとき
 
知らぬ間に
自分のまわりが変と
気づくだけ
 
落ちても
まわりのせいに
してきたから
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
なにやら、春氏と田中氏は、HSは洗脳もマイコンもしてないと言いたいらしいが、
大概の信者は、いつもいつもHSの方針に右に倣えするのだから仕方がない。今回でいえば、「プーチン擁護、ウクライナ非難」の方針に異を唱える信者なんてほぼいない。
これではHSではマイコンはないと言っても仕方ない。
午後10:22 · 2022年4月20日·Twitter Web App
 
アンチ芝居の楽山です。楽山は、偏見を、嘘と詭弁で刷り込んできます。悪意、敵意、裏切り、成りすまし、妄想、自己愛、・・悪いものしか表れてこない楽山です。にもかかわらず、他者のことを、上から見下ろして批判して快感を得る、真っ赤な偽物の正義の味方芝居です。
 
アンチ芝居なのに「HSではマイコンはないと言っても仕方ない」というのは、逆の意味にも取れそうな稚拙な表現です。元々が、宗教も信仰も、そして、日本語も、学習という学習を怠けてきた楽山です。いい気になって、今日も、粗雑な文章で、言い得たと思う生業(なりわい)です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
あと、アンチとも普通に話せる信者が多ければ、マイコンはなさそうに思えるけど、
春氏みたいに、退会者は落伍者とし、アンチとみれば全否定してくる信者ばかり目立っている現状では、
「HSはマイコンされてる信者が多く、異論は許さない閉鎖的な集団だ」というイメージを持たないことは無理だね。
午後10:26 · 2022年4月20日·Twitter Web App
 
「アンチと普通に話」・・対立軸が普通に話すのでしょうか。詭弁屋の楽山とは、決して普通に話ができるなどと思ってはいけません。言論の伝染性病原である楽山に対しては、出禁にすること、遣り取りしないこと、1ミリも信用しないこと、それが、必須になります。でないと汚染されるでしょう。
 
 
 
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  楽山の偽り2
 
 2021年02月25日
 楽山の「幸福とは何だろう?ブログ」
 大川裕太氏のこと(宏洋と広報チャンネル)
  改めて、抜粋して批判
 
 
楽山は、自説ではなくて批判なら、自分が書いてもいいだろうと思うのでしょうか。評論家気取り全開といっていい筆致です。誰に対する批判であれ、自己愛の身勝手さで書いている楽山には、理解も共感も生まれません。楽山の、約3年の履歴が、言論者~批判者としての楽山を否定しています。
 
「あるまい」「なかろうか」「難しいだろう」「有効な教訓だと思う」というようなアドバイス的な書き方をしている楽山は、反省もせず、責任も負わずに書いてくる人です。ありがた迷惑というより、ただの迷惑なのです。自己中は、人が自分についてくるという妄想でもあります。
 
楽山は、誰の忠告も、誰も批判も、受け取らず、聞かず、無視して、書いているということを忘れてはいけません。むしろ、このような受け狙いの丁寧語をボンヤリ言語と呼んで警戒しています。バランスがとれているように見せかける柔和芝居に、どうか、だまされないでください。
 
 
*双方の動画を見て思ったこと
広報チャンネルの「確証がないのに変なタイトルをつけて名誉棄損してる」という主張は正論だと思う。タイトルの最後に「?」をつけておけば、確たる証拠もなしに何を言ってもいいというわけでもあるまい。
 
確証もなく、根拠もなく、初歩的な理解もなく、確たる証拠もなしに、キリスト教の悪口を、印象操作と詭弁で広めようとしてきた厚顔無恥の楽山は、誰に対しても、アドバイスできるような人ではありません。楽山が使う批判の言葉は、楽山に返ってゆきます。
 
 
ただ広報チャンネルは、本人でもないのに女性問題はないと断言して大丈夫なのだろうか。こういうことは秘め事であって他人には分からぬことであろうし、断言は本人にしかできないのではなかろうか。
 
もちろん本人でもないし、信者でもないのに、神はいないと、刷り込もうとしてきたのが楽山です。いい加減に信じるのが望ましい宗教、というようなことを言ってきたこともあり、全くの無理解で、著しく宗教と信仰の的を外したクレームで、いちゃもんをつけてきたのが楽山です。
 
信仰は有無であります。それこそ、髪の毛一本、神に、つながっていてほしいという願いが、信仰なのです。神と協力してとか、神の国の民の使命、などと、自分が高められたことを匂わせる信仰は、神の裁きを待つことになるでしょう。悲哀の河の、他にない寄る辺として、信仰はあるのです。
 
楽山の無知のシリーズには、批判を当てるしかありません。楽山は、自分についての、あらゆる問題を無視する人です。そして、他者の問題だけを、評論家気取りで言っては、自己満悦して、他者の評価に関わらず、批判されても、なお、スルー、つまり、無視し続けるという傍迷惑な性質を持っています。
 
 
教団内の自由恋愛については、宏洋氏の話に驚きはない。大川隆法の結婚相手は一度目も二度目も信者職員だ。その子供たちも、宏洋氏以外はみな、HSの信者や職員と結婚してる。このことからすると、大川家の面々は、信者職員を恋愛および結婚の対象としては見ていないと言い切ることは難しいだろう。
 
「信者職員を恋愛および結婚の対象としては見て」はいけないと、楽山は言いたいのでしょうか。そう見ているのが事実なのに、見ていないと言うことが間違いだと言っているのでしょうか。その楽山は、平気で嘘を吐いて、st問題とか言って、おとしめの言葉を返してくることしかできない人です。
 
そういう体質しか持っていないと判断しています。付き合えば、いつか、逆らって苦言を呈したときに、ひどい目に遭います。恐ろしい自分信仰を、バランスが取れていると思い込んで、さらに、責任逃れのために批判したつもりの悪口を言い、利用するときは賛同めいたことを言う、という、いい加減さです。
 
ネットの猥雑なワームの一人だと判断しています。批判に答えることなく、批判を受け取ることもなく、ふつうを装って、書いてくる楽山の、目的は、今も不明ですが、楽山については、主張も、結局、不明であります。恐らく、自己満足していないと気が済まないのでしょう。
 
楽山は、子供のときからの霊が分かるっぽい?自覚から、宗教を離れて自分の言に従うことを欲しているようですから、既に、カルト教祖願望があるのかもしれません。楽山はカルトの犠牲者ではないと思います。自分以外、自分の教祖願望と妄想以外、何も、信じていないからです。
 
楽山は、言っていることの責任を、いっさい負う気がない、ということだけは忘れないでほしいと思います。まともに反応できる心がないのです。過去には、心理学の話を、霊の話にすり替えて、成り立たない非合理の妄想を、分かったふうに、吹聴していました。感性も理路も整わない人です。
 
 
古い話ではあるが、フライデー騒動のときに、支部で「マスコミはお金と異性問題を攻めてくるから注意してください」という指導があったことを今でもよく覚えているけれども、こういうスキャンダルを聞くと、これは今でも有効な教訓だと思う。
 
楽山が、批判を無視して書いてくることを心に留めて、警戒してください。楽山は、大きなスキャンダルと萌芽として、準備状態なのかもしれませんし、上から物を言う立場に快感を感じているだけなのかもしれません。芸能ネタは、大好きのようですが、わが身を省みることをしない人です。
 
楽山の言は、スキャンダルではなく、一途に災いであり、不祥事なのです。楽山からは有益な教訓は出てきません。益を奪うものであって、益を与えられるものではないのです。徳を奪うものであって、徳を教えるものではありません。良きものを、楽山は、持ったことがないのです。その反動しかありません。
 
楽山は、柔和なインテリ気取りで書いてきますが、真実の追求に必要な節操も理路も弁えておらず、情感も共感も持ち得ない病質者です。ボンヤリ言語と呼んでいる婉曲表現の丁寧語と、トホホ言語と呼んでいる謙譲・反省芝居で、まともに見せかけてきます。
 
楽山において、バランスは、書く動機において、既に、壊れています。こういう楽山の見かけの腰の低さは、詐欺師の勧誘に似ているとともに、インチキ占い師や、インチキ商売の勧誘に、よく見られるものであります。さらに狡猾かもしれません。
 
こちらとしては、もはや、無理解と無責任だけをネチネチ返してきて過剰な疲労しか与えない楽山に対しては、直接のコメントの遣り取りをする愚を避けて、専ら批判記事をブログに書くことにして、偽善者の資料としているだけです。
 
 
独り芝居の明け暮れ

独り芝居の明け暮れ
 
 
(2021年02月26日)
(2022年03月03日、再録+)
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
 
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
 
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
 
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
 
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
狂ったように過去記事コメントをコピペして長文記事を書き続ける楽山。私は、確かに、勘違いをして、偽善者を褒め、のちに、批判した経験があります。楽山は、それを、次の記事のように、私を加害者として批判したいようですが、楽山は、いつも決めつけの結論だけで、根拠も説得力もないのです。
 
st問題資料集(4_3)st氏の過去、数人もの被害者?
私が、現在所在不明のシャロームを批判をして、それを、楽山は、シャロームが被害者だと言っています。その経緯から、楽山とシャロームが仲間か同一成りすましを疑って、現在に至っています。 
 
今の楽山は、コメントを書きまくる荒らしと同様だと思います。そういう書きぶりで、本性がバレることを考えないようです。多量の刷り込みだけの機能に期待している楽山は、相変わらず、人間の、最も見苦しい有り様を表してゆくのでしょう。発作的衝動かもしれないので関わらないでください。
 
何の資格もなく、人に上から教える態度を丁寧語でごまかして、たくさんの記事とツイートとリツイートを書いてくる。褒められると世辞を言い、批判されるとスルーすると言って無視する。この単純な二進法のような対応をするのが、楽山です。正常な理解力が極端に欠損しているのです。
 
 
 
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  楽山の読書くずれ
 
 「第二十一講 ヨブの終末」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月07日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、批判記事を書かれると、新しい記事を上に重ねて、自分の批判対象記事の場所を下げるのです。それで、目立たなくしたからと安心するのでしょうか。いかに、言論者としての自覚がないかということです。学習し努力してゆくという向上心がゼロなのです。
 
このところ、狂ったように記事を書き続ける楽山ですが、楽山自身の意見が異常に少なくなっています。前にもあったことですが、書けないものだから、他人の都合のいい言葉を漁り、例によって、誤解~曲解して、自己正当化しているつもりなのでしょう。この姿勢も、真実を追求する者として、アウトなのです。
 
「読んだので」「感想をメモ」・・感想文という文章になっていません。それで、メモと言っていますが、メモにさえ、反キリストらしい悪意も、宗教と自己中と自己愛性人格障害も、表れてくるのです。
 
何より、批判されたくないのか、殆ど引用だけです。自分の文章が書けない楽山は、書かないことよりも、書いたかのように見せかけることを選んでいます。そこが、また、病質を表す結果となっています。
 
読書感想文として成り立っていない記事が続いています。
 
「第二十一講 ヨブの終末」を読んだので、その要点と感想をメモ。
「第四十二章七節以下の研究」。
文学は「悲痛を以て終るは不健全の印である。喜びを以て終って、真に人生に徹せる健全なる文学というべきである」。
 
楽山が「読んだので」というのを信用しないでください。自己愛性の人格障害によって、正しい読み方など出来ない人です。楽山にとって、美味しい言葉を、都合のよい文言だけをを、漁って引用することだけが、楽山の読書です。そういう無理解も曲解も、先入観と偏見と曲解という形で表れてくるのです。
 
付き合えば付き合うほど、人に、疲労と "悲痛" しか与えない楽山の文章は、書かないほうがマシなのです。楽山は、詭弁と嘘、そして、自己中方向しか持っていません。改める気がないならば、楽山は、公開しないで部屋で読んで、独り笑いしているほうが、公共にとっては、まだマシなのです。
 
七、八節によって、「エホバの審判三友人の上に下って、その愚は明示せられたのである。彼らは論理において精確なりしも、その根本思想において全然愚妄であったのである。これに反してヨブは所論支離滅裂なりしもその精神において正しく、その心は三友よりもかえって神と真理とに近かったのである」。
 
ここで、楽山が受け取る論理というのは、固くて訂正不能で柔和さに欠け、心が無いために共感性を欠いた楽山の教条からの理屈ですから、正しいということとは違います。教条は心の面倒を見ない、言い換えれば、人間の不完全な辻褄を満たしたように見えても、人間の心を満たせない空想なのです。
 
ヨブは「三友のすべての悪罵と無情とを赦して、彼らのために祈るに至った」。「愛は謙遜に伴う、大なる謙遜に入りし彼は大なる愛を現わし得たのである」。「わが心神の前に深く謙へりくだるに至って無情なる友をも、またいかなる敵をも愛し得るのである」。
 
ここに書いてあることと、正反対なのが、楽山です。無反省、無責任、無神経ということは、敵のみならず、味方になる人をも、軽視~無視し、疲れさせ、傷つけては、それに自己満悦する楽山の生業であります。へりくだる、ということが、欠損しているので、見かけの丁寧語をばらまいている楽山です。
 
ヨブ記のはじめと終わりだけを読み、悔い改めれば物的幸福を得るとし、物的恩恵に恵まれていないのは悔い改めをしていないからだとするのは早計である。また「災禍の下るはその人の信仰足らざるためであると見做す。かくなっては三友人と全く等しき愚妄に陥ったのである」。
 
楽山が宗教そして信仰について、悔い改めをしたら物質的恩恵が来るぅ・・というような原始的なご利益宗教を批判しているのですが、誰の信仰なのでしょう。楽山こそは、目の前の、書いた・・という満悦という快感だけを得ようと、空しい思い込みと曲解を並べているのです。
 
いくら時間をかけても、早計でしかないのは、楽山のほうです。言われそうなことを、逆に、言って、言い訳とするのは、シャロームも同様でした。
 
「ヨブ記のはじめと終わりだけを読み」・・楽山は、キリスト教をけなすためだけに書いていますから、本だけ読んで、聖書のヨブ記を、始めも、終わりも、直接は読んでいないのではないかと思います。だから、言い訳みたいなことで満たさないといけなくなるほど愚かな妄想に陥るのです。
 
それと、悔い改めなければ、生き方も、理解も、感動も、共感も、生まれません。楽山は、自分が悔い改めないことを、妄想的に、詭弁によって、正当化しようとして、また、墓穴を掘っています。楽山の掃き出すゴミが、楽山に帰してゆくブーメランは、今に始まったことではないのです。
 
「ヨブは後の繁栄にありても、必ず過去の災禍苦難を想起したことであろう。去りし妻のこと、失いし子のこと、雇人のこと、その他身の病苦と人の無情、いずれも彼の心に深く食いこんだものであって、到底忘るるを得ない事である。故に彼は新しき幸福に浴せしために、旧き禍いを忘れて満足歓喜に入ったのではない」。
 
高慢だったことを自覚せず、悔い改めないでいるあいだ、家族のこと、信仰のこと、人生のことは、旧き禍いではなく、忘れられない記憶となっていたでしょう。ゆえに、神の与えた試練だと気づいたときの喜びは大きかったわけです。
 
ここに至って、楽山は、ヨブの不幸が、幸福に変わったことを、単純に喜び賛同し、引用しています。楽山は、神が試練を与え、ヨブが悔い改めて、神によって立ち直った、というところを、書いていません。
 
神との関わりという聖書が伝えようとするいちばん大事なところを、楽山の得意なことですが、スルーしているのです。反キリストの楽山にとって、神が救ったことを認め賛同することは、論外なのでしょう。
 
楽山の論は、楽山の頭の中にしかなく、結論から始まる詭弁であり、正当には誰にも通用しないことが表れています。書けば、何でも、自己中の方向に、ねじ曲げるしかないのです。
 
こういうところに、詭弁屋で、悪魔性で、策を弄する楽山が表れます。ゆえに、聖書も、本も、楽山が読後感想として書いたことは、幼稚な自慢であり、一切、当てにしてはいけないということになるのです。
 
当初ヨブは「己に信仰がありて神に事えて正しき故、この幸福を以て恵まれていると」考えていた。「すなわち自己の善き信仰と善き行為の結果としての物的繁栄を認めた。これ権利または報賞として、幸福を見たのである」。しかしその後のヨブは「何ら値なき自分に、全く恩恵として幸福の与えられし事を認むるに至ったのである」。
 
自分は正しい、だから神についても言える、という、楽山は、その報酬として、自他の人格破壊を自ら選んでいるのです。人を巻き込まないでほしいです。
 
「値なき自分」「全く恩恵として幸福の与えられ」・・このことを、楽山は理解していないので、どこまでも、反キリストとして語り、ゆえに、その語る言葉が多ければ多いほど、破壊も進んでゆきます。最近、まさに、その通りになっています。
 
何の恩恵も与えられないのは、自らの罪と偽善が、自らを壊してきたからだと、気づく良心を、全く持たない楽山です。
 
キリスト教を理解しないで、キリスト教を批評していること、しかも、それを、公開して、評論家のように高みから神を見下ろすこと、いずれも、楽山の人間離れの神がかりのゆえであり、執念であり、我執であり、実に、生涯にわたって、救いを拒んできた者の因業として表れているのです。
 
ヨブの「前の状態は不信者のそれであって後は信者のそれである。不信者は物の所有を以て正当の権利と考う。故にそれにおいて薄き時は不平が堪たえない。しかし信者は僅少の所有物を以て満足する。これ一切自己の功によらず、全く神の恩恵によると思うからである」。
 
持ち物、欲望、地位、賞賛、そういった基準から、キリストの同伴、神との関わり、という信仰を得て、価値観が変わるわけですが、ヨブも、そして、私たち信仰者も、試みに会わなければ、なかなか気づかないことが多いようです。
 
楽山は、神の恩恵どころか、ただただ、自分で自分を肯定するしかない人生なので、反省することなく、学習することなく、一途に、自己正当化を図り続けて、ゼロに、マイナスに、なってゆくのです。
 
これは、非信仰者の人生だからということで済ませることは出来ません。平均80年の寿命を、何も良きものを受け取らずに過ごすのです。こうはなりたくないという不幸です。楽山は、神に文句を言ってきましたが、すべて、楽山の自覚しない自己責任なのです。
 
この講演はヨブ記の要点を簡潔にまとめてあり、かつよく納得できることばかりである。宗教的な話には独断的にすぎたり、飛躍がありすぎると感じることも少なくないのだが、本講演にはそのようなところがなくてすんなり心に響いてくる。要点をしっかり掴んでいるからこそ、このような話ができるのだろう。
 
「よく納得できることばかり」・・楽山は、キリスト信仰のベースがないのに、謙虚さがなく、分かるんだ根性そのままに、賛同しています。楽山においては、謙虚芝居が、高慢を表すことになります。
 
楽山が、こういうことを言うとき、大方、嘘です。いちばん大事な心の問題を理解できないという、約2年間の履歴があります。実際には恐らく生涯にわたる自己愛の慢心なのでしょう。自分を見ないものの宿命のようです。
 
楽山というHNは、中国の地名かもしれないが、実際は、落ちるための山、堕落する惨めさ、などと当てたほうがいいような不似合いなHNです。自主的に、あるいは、誘われて、楽山に加担する人も、楽山の味方になる人も、一人もいなくなることを、切に祈り願っています。
 
 
※ 
 
私は、神にだけは正直に祈ることを強調してきました。それは、人には嘘吐いてもいいという意味ではありません。また、誰に対しても絶対に嘘を吐くなという戒律を語るつもりもありません。
 
人間は、必ず、いつか、どこかで、嘘を吐きます。人間は不完全だからです。それが罪の性質だからです。完全に正直に・・というのは、人間には無理なのです。
 
ゆえに、神の前に "正しく" あろうとすれば、次第に、言い訳めいてきて、偽善に走りやすくなります。ゆえに、祈りにおいては、精いっぱいの正直のほうが、人間の信仰に適い、救いと癒しになると思っています。
 
人間にとっては、正義よりも、正直であることが信仰だと思うのは、神の前では、人間は、正直以上に正しくなどなれないからです。神に対して、人は、正直であろうと努めることで、精いっぱいなのです。
 
そして、神の前に、砕かれた魂をもって、へりくだり、正直に祈る人は、人の前でも、少なくとも、だますような悪意をもって、白々しい嘘を吐くことは出来なくなるだろう、という希望でもあります。
 
信仰は、良心を育てるためにあります。言い換えれば、良心のない楽山やシャロームのような偽善者にならないためにあるのです。
 
 
リアルでもネットでも、そういう悪意の企みの虚言で、だまし、刷り込もうとする者がいます。そういう者が、いちばん救いからは遠いのですが、そういう者こそ、救いとか、宗教とかを、説教したがるのです。彼らは、都合の悪いことを、隠して無視したり、人のせいにしたりします。
 
何故かというと、宗教とか信仰だと、厳格な資格試験もないし、ごまかし方が、いっぱいあるだろうと見込んで、舐めているわけです。その手の偽善者を批判しています。これは、私に批判が出来るあいだ、やめてはいけないことであります。
 
残念ながら、老化によって体調は劣化してゆくので、ずっと続ける・・というわけにはいきません。さらに、信仰を語る時には、必ず、自分自身の罪性を考えないわけにはいきません。
 
人を斬る刃は、自分をも斬ることになります。それは承知しているつもりなので、私の欠点をマシュマロで包んで隠すことはするまいと思っています。よって、知力衰え、めっきり忘れっぽくなってきましたので、鬼のように批判したり、弱音を吐いたりもします。折に触れて祈っています。失礼。
 
 
崩れ

くずれ
 
 
(2021年05月10日)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
この思考回路はなぞだ?
彼らの中では、こういうことは全部無かったことになってて、アンチの捏造にすぎないと思いこんでる?
引用ツイート
@kusaweod
意味分からん。事実じゃん。
こいつらにとっては都合の悪い事実は全部通報対象なのか?
 」
午前6:51 · 2021年5月9日·Twitter Web App
 
不正を批判しているようですが、楽山については、過去の失言も、無理解も、いちゃもんも、「全部無かったことになって」いるようです。楽山の思考回路は、謎というより、正気ではないのです。
 
信仰は一生を左右するものですが、自己愛性人格障害の楽山には、他のアンチの人々と比べて、真剣味や切実さが感じられません。
 
楽山は、まだ、誰かを批判できると思っているのでしょうか、まだ自身に正論が成り立つと思っているのでしょうか。・・モンスターならではの恣意的自己中思考回路です。良心がないから自省だけはしない楽山です。
 
(2021年05月10日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  見当違い2
 
 悟りとは何か?(『漱石全集月報』)
 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、二人の小説家の言葉を、単純と言っています。単純なのは、楽山です。
 
野村傳四氏によると、夏目漱石は悟りについて次のように言っていたそうだ。
私は途中、先生に「悟り」と云ふ事を御尋ねしたら、先生は言下に「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」と敎はつた事を明らかに記憶して居る。
(『漱石全集月報』岩波書店、1976年、p.355)
 」
これは「一切は過ぎ去ってゆきます」と言うように、目の前の現実をそのままを語っているだけで、言葉としては随分単純なものではある。
 
「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」の、同じ人間、過ちを犯す人間、という意味を、太宰の「人間失格」だったと思いますが「一切は過ぎ去ってゆきます」という時間の無常と言い換えが出来るでしょうか。
 
私は、前者を、同じ人間、後者を、過ぎ去って消えてゆく、空しい、という意味に受け取りましたが、楽山は、説明もしないのでしょうか。いつもながら、乱暴です。
 
さらに、「目の前の現実」を無視して、嘘と詭弁ばかり書いてくる楽山よりは、「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」も「一切は過ぎ去ってゆきます」も、人間としての、限界や悲哀という深い意味に結びつく言葉なのです。
 
楽山は、それが分からないのか、また、自分で広げて考えることが出来ないために、自分の未熟と不足を嘆くのではなく、「そのままを語っているだけ」「随分単純」と、小説家のほうをおとしめるという厚顔を表しています。
 
こういう、できない自分ではなく、できる人を低く見ることは、自己愛性人格障害であることの根拠の一つとなるでしょう。才能とか読解力とかで、ありもしない持ち物を、あると思い込んで批評する誇大妄想性の愚かさです。
 
でも自分はミジュクであるせいか、いまだにこの考え方を身につけることができていないのだから恥ずかしい。言葉の意味は分かっているつもりなのだが、どうにもこうにもこの言葉通りの思考ができないのだ。
 
上で、眉を潜めたくなるような誇大・尊大を、楽山は示しておきながら、ここでは、白々しくミジュクと書いてくる・・全て、芝居だという証拠であります。未熟の自覚があるなら、上の「そのままを語っているだけ」「随分単純」などと言う言葉遣いはしません。
 
楽山は、言葉の意味が分かっているつもりと言っています。違うんじゃないでしょうか。それと、これらの言葉は、思考を表しているのでしょうか。人生観だと思いますが。楽山は国語を語れない人のようです。しかも、傲慢です。だから、未熟ではなく、「ミジュク」という、ふざけた書き方をしてしまうのでしょう。
 
生まれつき、根がどこまでも理想主義者にできているせいか、
 
楽山は、利己主義であって、理想主義者ではないと思います。何故なら、宗教の理想も意味も、分からないのに否定し、あざ笑っているだけだからです。
 
いったん相手に惚れ込んでしまうと、極端に美化して神のような存在にまつりあげてしまったり、はたまた臆病で被害妄想の癖があるせいか、相手によくない印象を持った時には、その人は悪意に満ちたモンスターかなにかのように決めつけてしまったりして、ついつい相手も自分と同じ人間だということを忘れてしまうのだ。これは本当に反省しなければならぬ。
 
この部分は、人間としてアウトになるようなことです。こういう人になってはいけないということです。極端に美化、神のような存在、被害妄想の癖、悪意に満ちたモンスター、など、悪い例をボロクソに書いていますが、楽山は、これを、婉曲的に、批判者に向けたいのでしょう。
 
楽山は「ついつい相手も自分と同じ人間だということを忘れてしまう」と書いていますが、相手を人間とは思えないほど異常だと思うとき、つまり、無反省、無責任、不感不応、訂正不能、自己愛性、人間的配慮の欠損など、自己中に徹底している者に対しては、人間だからお手柔らかに・・ということは、除外されます。精神病質に対しては甘くなってはいけないからです。
 
無反省という実績しかない楽山が「本当に反省しなければならぬ」と書いています。このように、反省という言葉だけ書いてくるのが、楽山の特徴です。「ついつい」「忘れてしまう」「反省しなければならぬ」と書いていることが、楽山が、今まで、そうしてこなかった証拠になります。
 
謙虚芝居も、良識的センスが病質のために欠損して、ここまで、下手くそになると、バレるわけですし、バレた以上、楽山の立場など、どこにもなくなっているのです。何も書く資格のない人が、自己顕示欲と我執で書くと、こうも白々しいことになるという例です。
 
信仰は、このような言い訳めいた反省を勧めてはいません。神の前に正直であることは、ネガティブな言葉だけを当てはめて反省を装うこととは、全然、違います。自己愛性をごまかすために、妄想を癖という軽さで言ったり、気楽に「ついつい」と書いて反省したつもりになるのとも、全然、違います。
 
この違いは、楽山の虚偽によるものです。楽山の自己愛は、癖ではなく、病気なのです。それが、言い訳にも表れているということです。
 
楽山と太宰は、違います。太宰は嘆くべきことを嘆いていますが、楽山は嘆いたことなどない人だと思います。悲劇のヒーロー芝居でしょうか、気取りでしょうか。太宰や他の小説家を持ち出しては、最も恥ずかしい自分の下劣さを表してしまうのが、楽山の常となっています。
 
楽山が、次から次に書いてくる言い訳は、とても見苦しい詭弁ですから、成り立つことはなく、根拠もなく批判者を侮辱し、かつ、有名人の言動を恣意的に悪用する悪意の産物として、さらに批判記事という資料を重ねる結果と経過になってゆきます。
 
楽山は、時に、反省と書いてきますが、その前と、そのあとで、何も変わらない筆致であることと、自らを省みず人のせいにばかりする姿勢と態度が、まるで変わらないことをもって、逐一、見せかけだけだと、言い逃れだと、否定されてゆくのです。
 
そういうことも、楽山批判に組み込まれているのですが、楽山が気づかないということこそが、病的ナルシストの症状として記録されてゆくでしょう。
 
そういえば随分前に見たジョン・レノンのドキュメンタリーでとても印象的な場面があった。ジョン・レノンは自宅の庭内に忍び込んできた熱烈ファンらしき若者に対して、自分の姿をよく見ろ、他と変わらぬ人間だろうとか何とか言っていたのだった。
 
また、同じ人間、ということを言っています。どうやら、記事の文脈には、とても臭い作為があるようです。楽山は、同じ人間ではありません。「とか何とか」ではなく体質的異常者です。
 
どうも自分のことを英雄視したり、偶像化するなということらしかった。そしてその後は、しょんぼりしている若者に朝食は済ませたかを問いかけ、まだなら食べて行けと優しく声をかけていた。
これはヤラセ無しの事実だったのか、それとも脚本があったのかは分からないが、どちらにしても名場面であろうし、ジョン・レノンは「彼も人なり我も人なり」を悟り、身につけた人だったのだろうと思う。
 
ジョン・レノンの行為は、同じ人間ということなら、ヒーロー願望からは対極にあるでしょう。また、悟りと言うほどの、珍しい発想でもないでしょう。当たり前のことを、実践的に掘り下げたかどうかということでしょう。楽山は、格言を、誇大妄想で、勝手に結びつけています。
 
楽山は、違う人の言った言葉に勝手に結びつけて、まともぶって、都合のいい意味付けをして、また、著しい曲解によって、人をけがしています。どこまでも、教える立場に立てない楽山が、毎度毎度、話にならない文章を、気取って書いてくる厚顔無知に呆れます。
 
でも自分はこの場面を思い出すたびに、やっぱりジョン・レノンはすごいと、ますます神格化してしまっているのだからどうしようもない。自分がこれを悟るにはまだまだ時間がかかりそうだ(笑)。
 
ますます神格化、というのは、楽山の言葉の信頼度ゼロという私の立場からは、むしろ、楽山の、こんなに自分は特別なのに不当に扱われているという恨み、いわゆるルサンチマンを感じます。だから、こういう種類の文章に不似合の「悟る」などと書くのでしょう。
 
楽山の、人を上から見る「(笑)」は、苦笑いではなく、苦笑いを装うだけで、あらゆることを軽視して、掌か机上で軽く扱って、分かってるんだと言ってしまう尊大な態度なのです。そのような卑下の言葉をもって、改まるような自己愛性人格ではないということです。
 
ルサンチマンは、弱者に募る怨念、負け犬根性、負け犬の遠吠え、などとも言われます。
 
(ネットより抜粋)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
ジラールによればルサンチマンとは、乗り越えることのできない理想的モデルに対して誰もが抱く単なる嫉妬心にすぎない。
 
ルサンチマンは、意識されず、隠れていることが多いでしょう。楽山の今回の記事にも、隠れている、隠している、隠されている、とても暗いものがあるような気がします。暗い暗いところで悪意を燃やしている潜熱を、これまで、楽山は、性懲りもなく書かずにはおれない自己顕示欲によって、自ら醜い芝居の役者となっているのです。
 
楽山が隠している詭弁と誘導は、よく読まないと見えにくいが、とても邪悪な一方向をもって、病識も自覚もなく、人をおとしめてゆく攻撃的な悪魔性なのです。
 
 
闇の袋小路

闇の袋小路
 
 
(2020年04月23日)
(2021年04月30日、加筆して再録、同日一部修正)
 
 
※ 
 
 楽山のツイッターですが、国語の勉強もかねて。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福の科学では、公式でもこんな言葉遣いをするんですね 絵文字(にやにやした顔)
引用ツイート
幸福実現党政務調査会
@hr_party_prc
 · 4月22日
緊急事態宣言の発出とCO2の大幅削減を同時間帯に発表するとは恐れ入った感覚です。これはサービス業、製造業はじめ日本経済が何によって支えられているかを政治やマスコミが理解していないかの証しではないでしょうか。依らしむべしってか?「うっせぇわ」。
午前7:13 · 2021年4月25日·Twitter Web App
 」
 
また、楽山の、開き直りの、にやにや顔文字です。公開でも「こんな言葉遣いをするんですね」ということを、既に、おかしいと言ってるのに、わざとやってくる厚かましい病的な自己愛です。
 
今までの、詭弁と嘘の履歴からは、言葉遣いについて、何も言えない楽山が、何も気にせず、好きなように言っている。つまり、図々しく、憎まれっ子世に憚る、という例です。
 
(ネットより)
憎まれっ子世に憚る
【読み】 にくまれっこよにはばかる
【意味】 憎まれっ子世にはばかるとは、人から憎まれるような者ほど、逆に世間では幅をきかせるものであるということ。
「はばかる(憚る)」とは、「幅をきかせる、のさばる」ということ。
はばかり【×憚り】
[名]
1 はばかること。遠慮すべきこと。「大先輩に対して何の憚りもない」
2 差し支えること。差し障り。「実名を出すのは憚りがある」
3 《人目をはばかる所の意から》便所。
[形動][文][ナリ]「憚り様」に同じ。
「お酌は―だが先生に願うで」〈二葉亭・其面影〉
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
はばか・る【×憚る】 の解説
[動ラ五(四)]
1 差し障りをおぼえてためらう。気がねする。遠慮する。「世間体を―・る」「他聞を―・る」「だれにも―・らず自由に生きる」
2 幅をきかす。増長する。いばる。「憎まれっ子世に―・る」
3 いっぱいに広がる。はびこる。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教祖がこんな発言をするとは怖い、怖すぎる…顔文字(絶叫した顔)
 
教祖が殺人を正当化したというツイートに付けたリツイートですが、「怖すぎる」と言いながら、まるで他人事のように、ネタと同じように、真剣味の無い絶叫の顔文字で、怖がり芝居をする楽山です。
 
こう言っている楽山が一番怖いと思います。大袈裟に怖がって見せるのは、他者が怖がるのを面白がりたい心境の表れです。怖いのだからと、わざわざ顔文字を付けるのも同じでしょう。絶句、唖然、本当の恐怖、という心からの表現を持たないのです。
 
原始感情だけがあって、高等感情がない、つまり、共感や思いやりのない者が、下手に感情を表そうとすると、こうなるという例でしょう。また、病質を表してしまう楽山です。
 
 
楽山は、深い思考力と感受性に欠けていて、遠慮がないので、いっそう、憚るようなことをしてきます。憚りのある人を、差し障(さわ)りの大いにある人を、憚らせてはいけません。批判目的以外で、楽山を相手にしないでください。改めて、本当に、ひどい文章です。
 
 
{2021年04月30日}
 
 
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