ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:荒らし

 
  楽山の詭弁と狙い
 
 論点整理(人の心がわからない)
 2022年03月24日
  を批判。
 
 
罪悪感の無い楽山は、何も言えないときでも、何か言って、反論したことに満悦します。引用も、私は忘れているのをよいことに、自分に都合のよいことばかり引用してきます。荒んだ心の形骸に、身をゆだねると、さわやかさを微塵も含まない陰険な企みに生きることになるのでしょう。
 
今の問題を語れず、反論も出来ない楽山は、4年ほど前の私のライブドアブログのコメント欄を掘り出してきて問題があると言いたいようです。一種の逃避ですが、楽山としては、記憶が薄らいで曖昧なところしか、恣意的な解釈が通らないからでしょう。
 
「>・・<」は楽山、
「>>・・<<」は、シャロームshalomです。
 
 
*自己中
st氏は、楽山は人の心がわからない、共感ができないと繰り返し書いている。
でも、st氏は過去にこんな問答をしている。
>>
私がstさんと話の内容がよく合うのではないかと紹介したブロガーの方とは初めはとても親密な交流がなされていたようですが、相手の方もstさんに困ったことを相談をしていたこともありますが、その後はその方もstさんの激しい批判とその方の個人情報を使っての人格否定、人格攻撃まではじめて、病的な状態に追い込まれてしまわれました。
<<
 
楽山との関わりが続くと、このような疲労、混乱から、人格破壊のような結末になること、以前から書いていますが、楽山は、以前から、自分に向けられることを、こっちに向けてくるという、卑怯な手段を取ってきます。楽山のように底まで汚くならないと、このような悪だくみは出来ないでしょう。
 
 
>>
今その方は自分のブログの過去の記事をよめないようにしておられます。stさん自身の宗教記事の初めにコメントを書いておられます。医師免許を持ちながら、医師を続けることができなかったことも、そうしたことはおそらくくstさんの個人的な背景に起因している考え方、生き方ではないかと私は思います。
<<
 
私は完璧な人間ではありません。偽牧師シャロームは、私の個人情報をバラして、おとしめることで、退かせようとしています。こういうのは、よほど悪意に満ちていないと出来ないことですが、楽山が、よく使う方法でもあります。底意地の腐ったシャロームのコメント、楽山の鬼畜の引用です。
 
 
>>
stさんは本来他の人と面と向かえば話すこともできないと書いておられますが、パソコンの普及によってブログはそんなstさんにとって、言葉や思いのたけを思いっきり吐き出す自由な時間、生き方を与えてくれたのでしょう。
<<
 
シャロームは、私の対人緊張症を、あげつらって、おとしめています。こういう人です。それを、悪意の楽山が、また掘りだして引用してきます。こういう人です。成りすましの可能性が高くなります。人間の情感を持たず、丁寧語で、ごまかしても、こういうところに、獣性は表れてきます。
 
頭も心も整理できない楽山は、人に向かって、思想や宗教について、話す理路を持たない人物です。にもかかわらず、ネットだからと、無責任と無反省で言いたいように言って悦に入り、他者を、どんどん、おとしめて、優越感を感じようとします。とっくに退場処分になってもよい人です。
 
 
>>
そのブログでの自分の自由な生き方、考え方が否定されるような考えには鬱積された怒りと批判がとどまることなく大量に吐き出され、ありとあらゆる批判、否定、攻撃となるようです。
2018/11/4(日) 午前 11:40[ shalom ] 
<<
 
冷静に書いているように見えますが、シャロームは、偽牧師です。「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」と書いたことで、バレました。前にも書いたことです。楽山が、今も、シャロームの言を引用するところに、楽山の病質が表れています。楽山による成りすましも疑っています。
 
 
>>
一旦批判が始まると相手が弱み、謝罪を示すまでとどまることはないようです。それをもって悔い改めだと考えておられるようです。
<<
 
論争になると、楽山は、際限なく、理路を混乱させて、雑言を浴びせます。そして、相手が参って疲労を表すと「疲れたんじゃないですか」と、ねぎらいの芝居をします。得意技のようです。楽山は、理路を崩すのが得意で、理路を組み立てることは出来ません。まともな議論など、したことはないのです。
 
だから、否定を言い、次は、肯定を言って、軸がないのに、それをもって、責任問題は生じないなどと言ってのけます。議論を、まるで理解していない証拠です。楽山とは、戯れにも、試験的にも、議論しようなどと思ってはいけません。楽山の議論は、いつも、罠(わな)なのです。
 
なお、謝罪は期待していません。それができる人とは思っていないからです。また、二人が謝罪しても、信頼度ゼロだから、本気として受け取ることは出来ません。もはや、早くネットから、いなくなってほしい二人であります。全否定される前に改めるべきでしたが、それだけはしない楽山です。
 
 
>>
自由さんはstさんの良き理解者になることができるかもしれませんね。わかりませんが。時間がある時、stさん自身で書かれた記事を日記などほかの記事もよく読んでみられるといいですね。
2018/11/4(日) 午前 11:45[ shalom ]
<<
 
楽山の冷静、シャロームの優しさ、いずれも、芝居です。楽山一人の成りすましも疑っています。本性は、罪悪感の無いサイコパスです。ゆえに、何を言われても、自分を責めることなく、反省することなく、何事もなかったかのように平気でいられるのです。高等感情が、無いのです。
 
 
>>
私がstさんと話の内容がよく合うのではないかと紹介したブロガーの方とは初めはとても親密な交流がなされていたようですが、相手の方もstさんに困ったことを相談をしていたこともありますが、その後はその方もstさんの激しい批判とその方の個人情報を使っての人格否定、人格攻撃まではじめて、病的な状態に追い込まれてしまわれました。今その方は自分のブログの過去の記事をよめないようにしておられます。
<<
 
Vさんには、弱気が見られ、誰かの圧力がかかっているようでした。こういう人は、楽山やシャロームと付き合ってはいけません。楽山とシャロームには、いやらしい善人言葉を見せかけにして、言論者からは、ほど遠い卑怯さが、見られます。気づくまで、時間がかかったということです。
 
 
(当時の私のコメント)
誰のことでしょう。Vさんのことでしょうか。彼とは、物別れに終わって、ずいぶん経ちます。Vさんがやったことは、シャロームが間違っているということが、Vさんという人は哲学者なので分かるはずなのに、シャロームに大事なところで調子合わせをして、その間、私のコメントを隠したことです。そういう大事なところで逃げる行為は、3度目だったので、縁を切りました。
2018/11/4(日) 午後 1:27st5402jp
 
Vさんは、哲学者としての実質を持っていたようです。楽山とシャロームは、同一成りすましかもしれないが、共通しているのは、言論の、いろはも知らないということです。まるで理路になっていません。だから話を逸らして、迷路に誘導し、混乱させてくるのです。
 
楽山は、自己正当と他罰性の前提に立って、悪口だけを言い、根拠を示せません。ゆえに、あの人もこうだった、攻撃してくる、などと、平気で言えるのです。負の宣伝、プロパガンダに過ぎません。議論の実質には何も触れていません。
 
私は、いちいち、過去記事やコメントを掘り出すことはしていませんが、楽山は、利用できるものは何でも利用~悪用します。今の、最近の、無反省、無責任、自己中の指摘には、何も答えたことがないのです。この世の悪の卑怯な偽善性を体現しています。
 
 
st氏は、自分のせいで病的状態にまで追い込まれた人がいたと知らされても、一言の詫びもなく、自己弁護をするばかりである。
 
シャロームと楽山は、一方的に私のせいにしています。かつ、真っ当な説明も弁明も出来ません。手段を選ばず自己弁護に終始します。高等感情の無い病質だからできることです。これからも基本的に変わらないでしょう。自分の都合だけで、おとしめに利用しますから、決して相手にしないでください。
 
 
論争中の相手に対して厳しくなるならともかく、すでに交流が絶えて久しい人に対しても、「言い過ぎた」「申し訳なかった」の一言もないというのは、まったくどうかしてる。
こういう事例をみると、「共感がない」「人の心がわからない」というのは、st氏の投影、自己紹介だと判断せざるを得ない。
 
論争中の相手にこそ、間違ったら、訂正して「言い過ぎた」「申し訳なかった」も言うべきです。信頼できない相手と分かった時点で、一切の、謝罪は、してはいけません。そして、そういう判断を裏切ることなく、楽山は、書くたびに、病質の悪性を露わにしてゆくのを、今、見ています。
 
 
*甘え
ところで、st氏は上のコメントで、V氏がシャローム氏を支持し、st氏から離れたことを責めているが、思い返してみれば、私にも同じようなことを言っていたのだった。st氏は、私がst氏ではなく、シャローム氏を支持したことを怒ってた。
 
Vさんの話をしても、Vさんの発言はありません。Vさんには、弱気が見られ、誰かの圧力がかかっているようでした。シャロームと楽山については、シャロームは約10年前に、楽山は3年余り前に、とんでもない人と気づいて、真実の敵だと思っています。
 
 
こうしてみると、st氏がいう「共感がない」「人の心がわからない」というのは、結局、こういう意味なんだろう。
「どうしてシャロームの味方をするんだ。どうして私のことを分かってくれないんだ。あなたには人の心がわからないのか。人に共感するということができないのか」(要約)
これは甘ったれた考え方だが、孤立してる人がこう考えるのは已むを得ないことであり、可哀想なことではあると思う。
 
私が「どうして私のことを分かってくれないんだ」と思っていると?・・とても気持ち悪くて、吐き気がします。共感は、人間性の最も大切な心ですが、楽山には、自己主張に聞こえるとは・・人間性の欠けた病質者らしい感じ方です。楽山には、共感ということを直観的に理解する感性がないのです。
 
共感が直観的に分からず、楽山は、自己中の自己愛によるご贔屓を求めること・・だと思っているのでしょうか。小学校へ行きなさい・・と言ったほうがよさそうです。誰も、楽山のような変質者には、卒業証書は与えないでしょう。学ばなかった報いが、色濃く表れています。
 
楽山のように人の心が分からない者は、表面的な言葉で、人を騙せると思っています。私は、それを批判しています。楽山を変えるためではなく、誰かが間違って交流することのないためです。社交では分かりません。このように文脈もなく悪口の当てつけになる劣悪さから臭気のように暗示されます。
 
楽山が、シャロームのような偽牧師に味方すれば、仲間だろう、同類だろう、くらいのことは考えるわけです。その判断は、今も変わりません。楽山は、さわやかさというものが全くない、とても気持ちの悪い男です。いつまで腐れ続けて、悪臭を放ち続けるのでしょう。
 
ライブドアには、シャロームのいちゃもんコメントがあり、私は、それも批判しています。もうだいぶ前のことです。記事「楽山の三文芝居」HNは、名無しの猫、シャロームであることは、文章の表面だけ丁寧な筆致から、指摘しても、違うと否定しないことから、明らかなのです。
のコメント欄
楽山とシャロームの、憎悪は、増悪するようです。汚物を見るようで、見苦しい限りです。
 
楽山は、いくら批判しても、理路を理解できず、情緒を受け取れないので、不都合に対する敵意だけで、平気で、記憶が薄くなっている過去の文章をネタにして、詭弁を弄し曖昧な迷路に誘導しようとしてきます。良心の節操が皆無の楽山です。一般読者が楽山に近づくことのないように批判しています。
 
 
自己満足に過ぎないと思いますが、また、楽山の粗製乱造の記事が、多量にアップされているようです。断末魔だと思います。量で優っても、ずうっと質が最悪の楽山です。誰も見ないことを願って止みません。常識も、見境も、なくなってきたのでしょう。前と同様、私も、全部を読むことはしません。
 
こんなに書いたぞ、全部見てみろ・・という楽山の自己満悦が、拙劣な理路と、鈍い心を押し切って、書きまくる衝動に打ち込ませています。悪い病人です。誰も信頼しないでください。関わると、とばっちりを食らいます。結局は、誰からも信頼されることはないのです。
 
 
無知なる闇

無知なる闇
 
 
(2022年03月27日)
 
 
 
  ぶらぶら
 
逆さになって
ひっくりかえった
夢を笑う
花を摘み
逆さにして
ぶらぶらと振る
何かを吹き
何かに吹かれて
みんな自分だったと
苦い実を噛む
濁った汁がしみて痛い
 
細かく雑草が揺れるほどの風
受けて少し逆流する
寒けが空っぽの気道を舞う
何を恐れている
それとも憎んでいる
咳き込むほどに渇き
荒れて
濁った痰に癒されるのは
肉体に似て
退いてゆくもの
しかし方角が違う
そちらへ行けば
逆さになって
ぶらぶらになって
 
後ろを向いた眼球を
旅人の姿に隠して
ぶらさがって
空へ落ちかかっている
この世を
そんなものだと
眺めながら
誰にも会わず
去っていったあいつ
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人道から外れ続ける楽山は、人間性を、元々知らないか、なくしたのでしょう。記事に書いたように、共感が分からなければ、愛も分かるはずはありません。楽山に近づく特に女性は要注意です。楽山は、知らない、分からない、理解できない・・ということが、病質者を通して、もたらす災いの資料です。
 
 
 
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  楽山こそこそと悪口
 
 st氏から粘着されてます。
 楽山日記(a)2022-03-17
 
 
今回、楽山は、アメブロのほうに書いていますが、どういう基準で決めているのでしょう。こそこそと逃げ隠れしながら、自業自得が招いた居心地の悪さを、私に「粘着されて」いると言って、自分は被害者、こちらが加害者という決めつけで、憂さ晴らししたいようです。反省だけはしない楽山です。
 
コメント引用は、画像になっているので、省略します。ヤフーブログ時代のコメントですし、楽山に都合のよいものしか載せていないようだから、今も、楽山自身が、通らない一方的な自己正当化をして、訂正不能の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと証明しているわけです。
 
*3年
 st氏が、私に粘着してくるようになってから3年が過ぎた。
 この状態は、まだまだ続きそうなので、ここらで、ことの発端について書いておこう。
 
批判を粘着としか受け取れない精神の貧困が固定している楽山です。3年批判しても、何年批判しても、変わらないだろうということは、最初の数か月で分かっていたことです。誰も、精神を傷つける病質者の楽山に関わらないように、邪悪な楽山の情報を敷衍(ふえん)するために、批判しています。
 
*挨拶するな
まずst氏が、私に粘着しはじめた切っ掛けは、私がシャローム氏と話をしたからだった。
st氏はシャローム氏を敵視し、糾弾していたので、そんなシャローム氏と話をする私のことが許せなかったらしい。(自由=楽山です)
 
楽山は、シャロームshalomと話をしたのではなく、シャロームに賛同したのです。シャロームは、偽牧師です。「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」という発言で、バレたので、約10年批判して、今は所在不明です。楽山、シャローム、易坊の3人の、楽山による成りすましも疑っています。
 
*アドラー心理学
次に私は、アドラー心理学に関連して、「人は人、自分は自分」という記事を書いたのだが、これがst氏の逆鱗に触れたのだった。
 この記事内容は、シャローム氏の持論と重なるところがあり、そこが気に入らなかったようだ。
 
「人は人、自分は自分」は、節操のある大人について成り立ちますが、楽山のように、反省せず、責任を負わず、詭弁を弄し、平気で嘘を吐くような病質者には、決して成り立つことはありません。加えて、今回も同じクレームしか言えない楽山は、理解力が病質のために鈍麻して学習と成長がありません。
 
*正月
 決定的だったのは、2019年の正月だった。シャローム氏の挨拶に返事をしたら、シャロームの仲間だと糾弾された。
 
実際、シャロームに賛同したのだから、シャロームの仲間だという判断になるのは当然です。あるいは、楽山の成りすましかもしれません。今までも、多数のHNを使って、人をだまし、おとしめ、荒らしてくることで満悦するのが、楽山の趣味のようです。とても卑怯で汚い男です。
 
*モラハラ?
この後は、何を言っても否定される状態になった。
 
楽山は、反省して改めることもないので、楽山の悪意に満ちた嘘と詭弁を批判して、楽山に近づかないように、読者にアピールすることが必要です。何度も書いてきたことですが、楽山は、被害者意識に凝り固まっていることが分かります。今に始まったことではないのです。
 
「女性ですか」という質問に答えたら、それは「明確な質問ではなく、疑問です」と怒られる始末。
以上。これが、st氏から、つきまといを受けるようになった理由である。
 
「女性ですか」・・これは、覚えていませんし、意味が分かりません。楽山は、分かるように書くことが大の苦手で、いつも、曖昧にしか書けません。それを、ボンヤリ言語と呼んでいます。何度も何度も、同じことを言ってきます。大事なことは、反省して改めるか、退くことです。
 
*付記
ちなみに、この記事はツイッターなどに書いたことを補筆修正したものである。
また、ここで紹介した会話はヤフーブログのサービス終了とともに消されてしまったのだが、その内容は以下に保存したので、興味のある方は御覧ください。
 
どう「補筆修正」したのでしょう。詳しくもなっていないし、説明にもなっていないし、分かりやすくもなっていないし、根拠もなくて、いつもの悪口に過ぎません。最近は、ほぼ同じ不平不満を繰り返すだけになっています。
 
いくら保存して、ねちねちと繰り返し書いてきても、楽山が、自身の問題を認識せず、いちゃもんや文句ばかり書いてきた履歴だけが表れてきます。まだ気づかないようです。これで、反論のつもりなら笑止です。楽山の粘着性による繰り言に過ぎません。
 
自分に当てはまる「粘着」などの悪口を、こちらに向けてくるのも、以前からです。同じことばかり書いてきて、進歩がないのも、病質によるものでしょう。誰も、関わってはいけません。近づいてはいけません。楽山は、危険物、害毒、疲労と徒労と人格破壊の病原の作用しか持っていません。
 
 
陰湿に愚痴だけを繰り返す鬱陶しさ

陰湿に愚痴だけを繰り返す鬱陶しさ
 
 
(2022年03月18日)
 
 
 
  影と陰
 
雨に濡れ風に飛ばされ日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰(かげ)の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋(う)もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見(もくろみ)は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠(わく)に括(くく)られた自分が
常に自分とは違うように
すでに語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
さらに自(みずか)ら死を選ぶことは
自らに纏(まつ)わる真偽
と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  ずっと・冬から春へ
 
景色はまだ冬枯れ
空は霞(かす)んで
でも今日は暖かいからと
あまり気が乗らないのに
バイクに乗って
春の陽気の散漫な光の中を
冬の陰気な無表情の顔が走っていた
鼻水が少し出てきた
冬なのか春なのかと
風はずっと揺さぶり続けていたから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
反省が「難しい」と言う楽山は、ときに「反省。とほほ」と書きますが、その前後で何も変わっていないことで、また「とほほ」のマンガのような軽さから、嘘だとバレてきました。自己正当化の保身のために苦情を並べても無駄なのです。被害者芝居も無駄なのです。罪にも恥にも気づかない楽山です。
 
 
 
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  避け所3
 
 
私は、神様を、分かっているわけでも、詳しく知っているわけでもありません。しかし、聖書には、神様についてのヒントとエピソードが書かれています。そして、神と人の違いと、キリストの人への洞察と共感が書かれています。
 
人間には、ヒントのようにしか、受け取れないということです。しかし、ヒントでありながら、人を生かす力を持っていると信じています。キリストの共感は、神の愛でありますが、人の心に響く共感だからです。人間は、関係において、共感性を得ることで、生き甲斐を見い出すからです。
 
「旧約聖書(口語訳)詩篇」から「避け所」という言葉を載せてみます。避け所は、悩み苦しむときに、苦痛から逃れるところですが、聖書においては、新たな生き方として与えられます。
 
 
36:7
神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。
人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
 
46:1
神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
 
52:4
欺きの舌よ、あなたはすべての滅ぼす言葉を好む。
52:5
しかし神はとこしえにあなたを砕き、
あなたを捕えて、その天幕から引き離し、
生ける者の地から、あなたの根を絶やされる。〔セラ
52:6
正しい者はこれを見て恐れ、彼を笑って言うであろう、
52:7
「神をおのが避け所とせず、その富の豊かなるを頼み、
その宝に寄り頼む人を見よ」と。
 
(ネットより)セラ:
本来歌唱を伴い、いくつかのものには調べの指定が注釈として残されている。ヘブライ語テキストに本来つけられた曲は失われているが、「セラ」「ミクタム」などの曲の用語が残されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9%E7%AF%87
 
57:1
神よ、わたしをあわれんでください。
わたしをあわれんでください。
わたしの魂はあなたに寄り頼みます。
滅びのあらしの過ぎ去るまでは
あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
 
142:3
わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、
あなたはわが道を知られます。
彼らはわたしを捕えようと
わたしの行く道にわなを隠しました。
142:4
わたしは右の方に目を注いで見回したが、
わたしに心をとめる者はひとりもありません。
わたしには避け所がなく、
わたしをかえりみる人はありません。
142:5
主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
わたしは言います、「あなたはわが避け所、
生ける者の地でわたしの受くべき分です。
142:6
どうか、わが叫びにみこころをとめてください。
わたしは、はなはだしく低くされています。
わたしを責める者から助け出してください。
彼らはわたしにまさって強いのです。
 
143:9
主よ、わたしをわが敵から助け出してください。
わたしは避け所を得るために
あなたのもとにのがれました。
 
 」
 
キリスト信仰は、祈りの信仰です。祈るとき、物理的にはどっちなのかか分からないけれど、神の存在を想い、神のほうを向きます。つまり、祈りを覚えます。仰ぐように見上げる人もいるだろうし、罪人らしく頭を垂れる人もいるでしょう。
 
神は総てを見ておられ、知っておられます。人は、神の前で、生きています。祈りは、人が、自発的に主体的に述べるところの唯一の、神への音信です。言い換えれば、神のほうを向くとは、神に祈ることです。
 
そして、祈りの時と所は、信仰者個人のための、避け所です。神の言葉と言われ、人の言葉で書いてある聖書を読んで、また、信仰生活の、折に触れて、祈りにおいて、主よ、守れそうにありません、主よ、守れませんでした、主よ、分かりません、ということを隠さずに、告白するのです。
 
聖書に書いてある完全なる神の性質は、私たち人間の視野では、理解したとは言えないことです。善悪、正邪、善行と悪行、真偽、偽りの排除、など、様々ですが、不完全な罪人である私たちは、限られた能力によって判断し、できることをするだけだということです。
 
全能ではない不完全な私たちは、身の周りしか、目が届きません。私たち人間は、自分の言動の影響を、最後までたどることなど出来ません。卑近なところでさえ、良いと思ったことが、何の悪気もないことが、悪く取られていたりもする、傷つけることもある、という具合です。
 
にもかかわらず、信仰の行為として、正しいことをするように勧められています。それで、私たちの意志と行為など、神の意志と行為に比べて、非力、ということだけではなく、不完全なのに、正しさを決めつけすぎているということです。
 
総ての、時空を、善悪と真偽を、支配する神に向かって、私たちは、人としての限られた感覚と感情と思慮をもって善悪と言っているわけです。あらゆることにおいて私たちの善悪と真偽の判断は不完全であります。しかし、その判断に基づいて行動しています。
 
したがって、私たち信仰者は、自分で思っている以上に、神に対して罪を犯しています。罪と悪と偽善と孤独など、また、自分自身の怒り、憎しみ、恨み、様々の、心を惑わせ迷わせるものから解放されるのが、避け所であり、祈りです。
 
それは、その時の、絶対孤独からの解放と癒し、ゆえに、時々に寄り添うものであって、常に備わっているものではありません。時々の祈りに答えて与えられるものであって、恒常的に完全であるかのように人が誇るものではありません。
 
私たち信仰者は、神の前で生きているのに、それを自覚することに、しばしば失敗します。しかし、避け所にて、祈りを捧げるとき、そこは、地上の特定の時と場所ではなく、神の前です。神に対しては正直以外通用しません。私たち人間の正しさや善など、神の前に捧げるには恥ずかしすぎるのです。
 
祈りにおいて、神に捧げるべき誠は、ただ、正直以外にはありません。言い換えれば、精いっぱいの正直な告白というだけで、人間の心のうちを拾って聞いてくださるところの神、そして "神の前" なのです。
 
避け所(さけどころ、避け処)
 
 
避け所 祈り

避け所 祈り
 
 
(2020年)(2021年))
(2022年03月16日、再録+)
 
 
 
※ 楽山のリツイートですが、もちろん避け所にはなりません。垣間見えるのは地獄です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ひなこ
@hinacoccoro
·3月8日
おかしいものをおかしいと気づき、ダメなことをダメと批判することで地獄に落とすような神がいると思いますか?
私自身にもこの恐怖心は刷り込まれていましたが、
「自分のこの気持ちは決して悪ではない。こんなことをする神が本物であるはずが無い」と結論付けるに至りました。
 
批判すると、嫌がらせをしてくる人がいます。それが楽山です。批判を受け取る器が、自己中のために欠けているのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、身の程を知らぬ高慢から、粘着性の習慣的恐怖を植え付けて言動を制御し、人格破壊を招く者です。
 
「おかしいものをおかしいと気づき、ダメなことをダメと批判することで地獄に落とすような神」はいないと思います。ただし、楽山のような病質者を除きます。
 
神の前に人が出来ることは、神に対して精いっぱい正直であることだけです。神は、その正直さを見て信仰の義を与える御方です。
 
しかし、そういう、正直を全く持っていないのが、楽山です。そんなことをする人は、いかなることについても、本物の批判者であるはずがない、という気持ちで、楽山を批判するに至っています。3年余り、批判を続けて、分かったのは、楽山の根性は、荒らしに他ならないということです。
 
 
楽山の引用リツイート
返信先: @darknessZ96969さん
裏切ると阿鼻叫喚堕地獄への道避け難し、って何百何千回と唱えて信者は自分に刷り込んでますからね、相当怖いんだと思います。
午前9:44 · 2021年3月8日
 」
 
刷り込みは、本当に怖いです。それを常套手段として暗示的にやってくるのが、楽山です。学習機能がないので、同じことを繰り返し言ってきます。そうして、相手を消耗させ、疲れさせるのが、楽山のやり方です。そうすることで、刹那的な快楽を得ているようです。まともな人間とは、到底、思えません。
 
楽山のうちには、既に、人格崩壊という地獄があり、楽山は、それを他者に広めようとします。楽山は、そういう魂胆を隠して、正義を気取る変質者であります。他者のツイートや、本などを、好き勝手に、都合のよいところだけ、汁をすするように引用し悪用して責任を逃れようとします。
 
楽山は、リツイートだから、自分で書いてないからと言い逃れるのでしょうか。常識的思考が腐敗し変質し欠損している証拠です。引用者が、引用するツイートを選択する時点で、既に、引用者の思想が表れているのです。当然、引用の責任が、引用者に問われることになります。
 
批判目的でなく、他者の意見を引用すれば、それは、賛同を意味します。ゆえに、自分の意見と同様に、責任が生じます。このことは、本からの引用でも、リツイートでも、同じです。さらに、引用には、賛同した引用の内容とともに、引用元に対する責任も伴います。
 
誰もが、書くときも、引用コピーするときも、その責任を、当然のこととして負いながら引用しているのです。楽山は、発言の責任を負わないために、負えないために、リツイートならば、責任を免れるとでも思っているようです。社会人としての弁えもない無責任自己中なのです。
 
言論には、責任の逃げ道も避け所もないのです。楽山は、本からの引用や、リツイートなら、自分が書いたものじゃないからぁ・・という責任逃れの言い訳が成り立つと思っているのでしょうか。だとしたら、この愚かさによって、楽山は、正常な大人ではないということです。
 
言論の責任とは、間違ったら、それを認めて、はっきりと修正することです。しかし、楽山は、自尊が病的に訂正不能であるため、当たり前の責任感も罪悪感もなく、反省も修正もせず、詭弁と嘘で、ずっと、誤りなどないという偽りの立場を捏造しています。それは、とても醜いことです。
 
 
 
  (過去作)
 
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるなら
なぜ戦争で多くの人が死ぬのでしょう
私の中の詭弁は答えます
戦争は人が起こしたものだから
人が責任を取らなければならないと
 
戦争を起こすのはごく少ない人々
でも死んでいくのは戦場に駆り出された兵士だけではなく
武器も持たない女や子供や老人も死んでいくのです
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるのなら
なぜ地震や災害で多くの人々が死んでいくのでしょう
成人になったばかりの若者や
これからという働き盛りの人々や
逃げることのできない体の不自由な人々や
数多くの人々が死んでいくのは何故でしょう
 
私の中の詭弁は答えます
日頃の準備や行ないが悪いからだと
しかし人々は精一杯生きていたのではないでしょうか
一生懸命生きている人々がなぜ死ななければならなかったのでしょう
 
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるのなら
なぜ病のために多くの人が苦しみ
苦しんでも甲斐なく死んでいくのでしょう
なぜ体の病のために家族を残して死んでいくのでしょう
なぜ何も知らない病気の子供が死んでいかなければならないのでしょう
 
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるのなら
なぜ心の病のために自らが苦しみ
周りをも苦しめなければならないのでしょう
そしてなぜ人間の一番大事な精神を奪われてしまうのでしょう
なぜ自分のしていることがわからなくなるのでしょう
 
父なる神よ
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるなら
なぜこれらの不幸が訪れるのでしょう
 
なべて私の中の詭弁は答えます
試練であると
でも試練は生きて悔い改めるためではないのでしょうか
私はただ人の知恵では神の知恵はわからないと答えるほかないのです
 
父なる神よ
私はあなたに触れることの恐れのために
あなたを恐れるのです
全知全能の
父なる神よ
私は全知全能に耐えられないので
あなたを恐れ
いちじくの葉をもって逃げ惑うようにあなたを恐れます
父なる神よ
人の知恵では到底あなたの知恵を理解できないので恐れるのです
天国の何たるかを知らずさまようのです
 
父なる神よ
御心の天になるごとく
地にもなさしめたまわんことを
目に見るように
耳に聞くように
幼子のように裏切らない言葉を与えたまわんことを
一日も早くその日の来たらんことを
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
  生まれた責任
 
産んでくれと頼んだ覚えはない
と誰を責める
今を嘆くのは勝手だが
自らの責任において泣け
産んでくれるな
と頼んだ覚えもないのだ
 
 
神が、いつも期待通りに働くなら、神は人の従者ということになります。信仰者は、そのような神?については、真の神とは思いません。神は、肉を守るのではなく、何よりも大切な魂を守る御方です。そのために、肉体は与えられているのです。他でもない、信仰者が、生きるためであります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
二進法的な考え方があります。神は、人にとって、想像を絶する御方ですが、その御方が、完全に矛盾なく、都合よく人を守らないと、やすやすと、神の存在を否定してくるのが無神教カルトです。神に欲望成就を求める態度です。楽山も、その一人です。神への、とても幼稚な怨念が働いています。
 
つまり、この地上で、神が、いちいち矛盾なく期待する通りに救ってくれないと気が済まない、わがままな者たちがいるということです。このような者たちに、神が、前もって保証を与えるでしょうか、否です。この保証を求める我欲の姿勢が、無神教徒を、信仰者から分けているのです。
 
無神論という学術のような名前を付けて、神がいるなら証拠を見せろ、証明しろ、・・などといってきます。証明できたら、信じる必要はないということさえリカ利していないのです。楽山は、さらに、信じ過ぎてはいけないなどという程度問題にして、本音は、自らの、おぞましい教祖願望を成就したいだけです。
 
そのためには手段を選ばないということが、最近、明らかになりました。私のツイッターの「通知」欄に、勝手に書き込んできました。本性は、ネットの荒らしなのです。出禁だと言ったら、仲間か、なりすましか、今度は、違うHNで、まとめて荒らしてきました。楽山は、そういう無法者だということです。
 
楽山の本性がバレバレとなってきました。うすうす感じてはいましたが、楽山は、荒らしだったのです。しかも一人ではなく仲間がいる、あるいは、成りすましかもしれません。今までも、複数のHNを使っていた楽山ですが、もはや、荒らし以外の属性は皆無です。楽山のインテリ気取り、崩壊です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん
久しぶりに、st氏のブログを見たら、
シャローム氏が、楽山の読書感想文を批判するなら、その本を読んでからにすべきではないかと注意し、
st氏が、その必要はないと答えてる場面があった。
st氏は真面目に書いてるといいつつ、こういう手抜きをするからよくない。
 
楽山が読んだと言っている本については、正邪の判断はしません。楽山が邪悪だという批判です。その本を批判する必要はなく、楽山が自己中に曲解していることを批判することは可能です。上は、批判を受け取る気の無い楽山の逃げ口上で、難癖をつけているだけです。それに楽山の読書は言葉面だけです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん
読んでないなら、そのことを正直に明示した上で、控えめに感想を述べるのが普通なのに、st氏の場合はそれでも非難糾弾してくるからおかしい。
そういや、いつぞやは、HS教義の記事に、その知識なしに的外れの文句つけてきてたな…。
午後8:45 · 2022年3月13日·Twitter Web App
 
楽山を批判するのに「控えめ」などということはありえません。楽山の読解は、曲解、見当違い、歪曲などであり、さらに、楽山について、やさしく諭す書き方では、到底、表せないような悪意の詭弁があるので、控えめ、手加減、などの書き方は、最初に除外するべきことです。
 
楽山は、冷静と柔和を装う芝居の筆致なので、だまされてはならず、そういう装いを剥がしたところで、楽山の、ふてぶてしい妄想的な決めつけを見抜かなければいけません。「文句」をつけるのではなく、ほぼ全否定で臨むことが必要です。それが、病質者に対する批判のあり方です。
 
楽山を丁寧に書いて諭すことは無意味です。楽山が書けば、必ず批判を貼り付けてゆき、一般の読者に病質者の警戒情報を敷衍するために書いています。普通の批判の応答とは別の目的です。何故なら、病質者の楽山は、原始反応しかなく、全くテーマも批判も理解できないからです。
 
 
 
 2022年03月12日
 ほんと、ワガママな人だなあ。(st氏のツイッター)
  抜粋。
 
それにしても、st氏は、「批判はするが、反論リプは認めないということでしょうか」という一節に繰り返し反応してますね。
どんな言い訳をしようとも、この記事の冒頭に提示してあるように、st氏が自分はブログやツイッターに楽山批判を書くが、楽山は出入り禁止(書き込み禁止)とした事実は変えることはできないのに…。
 
楽山が、前にも言った「反論りプ」について、同じ発言を繰り返すのは、訂正不能の悪意が固定して、まともな反論をしてこないという証拠です。代わりに、傷つけて、相手が黙るのを待っているのです。ゆえに、楽山との直接の遣り取りは、精神衛生上、命とりになりかねないのです。
 
楽山は、悪意と加害以外の動機と作用を持っていないのです。ゆえに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、反社会性のサイコパスだという判断になります。いかなる精神病とも違って、精神病質は加害性が高いということです。その悪意が増強しています。近づかないでください。
 
言い訳の必要も必然もありません。楽山に、自サイトへの書き込みを許すことは、サイコパスの侵入を許すことになります。誰もネット上で廃人になりたくはありません。サイコパスの情報を広めることだけが批判の方法になります。害虫や毒ガスなど危険物を発見したら、その情報を広めるのと同じです。
 
私は年寄りで、持病もあり、体力も見た目も暮らしぶりもボロボロですが、真面目な努力をしているつもりです。楽山のようにだけは成りたくないです。楽山は、永遠に、明確に、出入り禁止です。
 
楽山サイト ← "ここに近寄るな!危険!" ということです。
 
できることなら、ネット全体に、そうしてほしいのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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  楽山の根腐れ
 
 ほんと、ワガママな人だなあ。(st氏のツイッター)
 2022年03月12日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  抜粋して批判します。
 
 
「だなあ」で済むような問題ではないのです。語尾だけ、おどけています。本文は、殆ど、自己正当化と他罰精神に満ちています。表面だけ、柔らかく見せたつもりでも、楽山は、かかえた闇の最悪の単方向の自我を曝しています。既に、そういう人だと承知しています。
 
楽山は、また、ツイッターをコピペして、自分に有利な文脈を捏造しています。このような卑怯な細工が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山の生業(なりわい)であり、楽山は、そういう作為の故意の悪意に生きているということです。今日も、厚顔無恥が全開です。
 
恐らく、断片的な意見であるツイートの中から、自分に都合のよいものを載せて、刷り込んでいると思います。楽山の、底知れない悪意と、性懲りの無さと、理路も文脈も弁えないで書くことに、良心の呵責も罪悪感もないサイコパスの性根を見逃さないでほしいと思います。
 
私のツイートは、楽山が既にコピペで載せているものもあるので省略します。それに付けた楽山の記事の文章に、楽山の体質が表れています。傍若無人であり、それを、いかにも被害者であるかのように書いてくる善人芝居です。怒らせて、乱したいのです。ここまでの狡猾な悪意は珍しいと思います。
 
 
*出入り禁止
前記事の追記でも触れたが、st氏は自身のツイッターに、楽山はコメントしてはいけないと書いてた。
これは理不尽な要求だが、こちらとしてはst氏に譲歩し、彼のツイッターにはコメントしないことにした。
 
楽山と直接の遣り取りをすることは、詭弁の迷路に嵌って、徒労~疲労~人格破壊の罠に落ちることです。経験済みです。それが、楽山の、人間性を失って、丁寧芝居、被害者芝居で、自己正当化を図る唯一の手段なのです。楽山は、決して関わってはいけない変質者だということです。
 
 
*メンション
でも、どういうわけか、st氏は、「@komo266」を入れたツイートをして、こちらの視界に入ってくるのだから、わけが分からん。
私宛のツイートをしていながら、反論コメントは禁止だというのは、さすがに自己中すぎるだろう。 
 
楽山批判ですから、楽山のHNを書くのは当然です。当たり前に、楽山の視界には入れようとしています。しかし、批判の主目的は、私のブログ・ツイッターに書いて、広く、楽山の赦しがたい悪の情報を敷衍することです。楽山を変えようとすることは既に諦めています。訂正不能の悪だからです。
 
楽山に反論コメントを赦したら墓穴を掘るようなものです。双方向の、まともな遣り取りなど、楽山は出来ません。楽山の汚い詭弁に直接さらされるのはごめんです。経験済みです。ゆえに精神衛生上、直接の遣り取りだけは避けています。楽山は、つまり、精神衛生上の加害者であり、精神の病原なのです。
 
 
*支離滅裂
そういえば、st氏は以前から、楽山と話をするつもりはないと言いながらも、自分を無視するのは許せないなどと怒ることが多かった。
今回もこれと同じだ。楽山は出入り禁止と言いながら、楽山の視界に繰り返し侵入してくると…。
いやはや、こういう人にはどう対応したらいいか分からんね。
 
「自分を無視するのは許せない」と怒った覚えはないです。楽山の、無反省、無責任、嘘、詭弁、などは赦せないということです。楽山の対応など求めていません。一般の読者への情報として書いています。楽山は体質的な根腐れのサイコパスなので、直接相手にすることは、自傷~自殺行為となりえます。
 
このツイッターのような、ふてぶてしい嘘の吐き方が、楽山の根底を流れ続ける犯罪心理クリミナルマインドなのです。呆れ芝居の良心のない攻撃が、3年余りの批判の流れの中で、しばしば顔を出してきました。しらばっくれて相手をおとしめる・・という筆致が、楽山の根腐れを表してきました。
 
 
◇◆ 追記 2022.3.12 ◆◇
*もう一つ
今になって気がついたけど、支離滅裂といえば、これもそうだ。
「 
楽山からの反論なるものは、反論ではなく中傷であり、論理ではなく詭弁であり、思考ではなく疲労物質です。寿命を縮めるような楽山は、ずっと、出禁です。
 」
これほどまでに楽山のことが大嫌いなのに、楽山のブログ、ツイッターを何年にも渡って追いかけないではいられないというのは、ほんと、どうかしてる。
 
批判するのは批判対象の楽山を変えるためではなく、身の毛がよだつような楽山という鬼畜の情報を一般読者に知らせるためだという批判の在り方が、楽山には分からないようです。楽山の知性と感性は正常人より酷く劣っています。だから、普通では考えられないような不感不応の嘲りが出来るのです。
 
楽山には、常識と良心からの反応ができません。こちらが「寿命を縮めるような」と書いても、「ほんと、どうかしてる」という、楽山特有の軽口の侮辱を平気で書けるのです。高等感情、つまり、思いやり、共感、羞恥心、罪悪感、などが、致命的に欠けている者の筆致です。
 
まさに「楽山からの反論なるものは、反論ではなく中傷であり、論理ではなく詭弁であり、思考ではなく疲労物質です。寿命を縮めるような楽山は、ずっと、出禁です。」ということです。批判を続けるのは、私の安全のためではなく、誰も、楽山の犠牲者になってほしくないからです。
 
楽山には、誰も関わってはいけません、近づいてはいけません。ましてや、コメントの遣り取りなどは、飛んで火にいる春夏秋冬の虫です。楽山は、誰の意見も心情も無視して書いてきます。楽山の害から逃れるためには、楽山が何を書いてきても、楽山を虫として無視して意識から削除することです。
 
楽山の丁寧語や冷静を装う芝居は、よく見れば、罵詈雑言の類だと分かります。客観や中立を装うのは、読者を誘導し、読者に印象を吹き込むための、楽山の企みですが、文脈と表現のあちこちに、楽山からの軽蔑と底知れない悪意は、ずっと表れてきました。自分を見ることだけは出来ない人だからです。
 
楽山は、他者の言うことを、マニュアルのようにしか見ていません。心が無いからです。ゆえに、マニュアルのように書いてきます。ときに、くだけた表現を使いますが、なごみの心を持たず、世辞と同じような芝居に過ぎません。結果として、自分に異常を感じることが出来ません。
 
そして、受け取って理解して反応して書くのではなく、自分が言いたいことだけを書きます。だから、永遠に、議論のプロセスにも結論にもなりません。楽山には、前もっての自分の結論しかないからです。楽山との議論は成立せず、楽山の自己満足だけが、楽山にだけ残る脳のプロセスなのです。
 
3年余りも批判されて、楽山の反応は、受け取って考えることがないのです。つまり楽山は単方向だけで、学習も成長もないのです。極めて時間の無駄なのです。それで、議論ではなく、こちらも、楽山の言を引用して批判することに専念しています。楽山との議論は、誰にとっても禁忌だと思います。
 
楽山は病的な自己中なので、客観的に自分を見ることができません。認識の中心が自我で満たされて、そこから離れられず、いつも上から裁く態度で見ている、それが、楽山の本能的な姿勢です。成長しようがない幼稚な妄想自我です。ゆえに、悔いることなく嘘を吐けるのでしょう。
 
 
悪意の 虚偽の 誘導 狼狽

悪意の 虚偽の 誘導 狼狽
 
 
(2022年03月14日)
 
 
 
  (拙作断片)
 
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
 
子供の靴下よりも
大人の袋や箱よりも恐いもの
悪意や誘惑のプレゼントを配っては
心の中にキーンキーン
キーンキーンと響きを忍ばせて隠しておくんだ
見えない足跡を残しておくんだ
 
 
  世捨て人の
 
世捨て人の夢見るものは
虚無のやさしさで
無為の速度で
自棄の靴紐を絡め
退廃の旅支度を過ごし
厭世の渡し舟を待ちながら
絶望の気道を開いて
暗黒の呼気を促し
怒気の吐息を拾い
悪意の杭を抜いて
憎悪の河に流して
せめて見送れるだけ見送ることだ
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記のコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山は、恐らく人格と能力の不足のために、小児期~思春期に、不都合を経験し、ルサンチマン(弱者に募る怨念)が蓄積して、他者無視そして不都合無視の、自己絶対が固定されたのかもしれません。それによって、内省、反省、罪悪感、共感性、などが、さらに欠損してゆくのです。
 
楽山が死んだとき悲しむ人がいるだろうか・・と思います。ネットで、インテリ常識人を気取っていますが、やっていることは、インチキ占い師やペテン師レベルでしかありません。いつか、公共において暴かれるでしょう。前に言っていた、責任問題は生じない、など、通用しないのです。
 
 
 
 ※
 
楽山の仲間でしょうか、私のツイッターの通知欄に、楽山ツイッターのタイトル画像と、楽山の発言を載せてきています。明らかな嫌がらせです。逆らう者には、そういうことをしてくる楽山です。楽山に関わることの災いを表しています。人としての品格の欠片もない楽山、下種の極みであります。
 
楽山は、マニュアルのようなアニマル、決まり文句を覚えても、その文脈を考えて書くことが出来ず、我欲の本能任せに、仲間を頼んで、ウイルスのような毒性をまき散らすヒト型肉食獣、または、人間界に巣食う悪性黒色腫のような、どこまでも汚い癌細胞なのです。
 
楽山の仲間ということは、早晩、楽山とともに堕ちてゆくのでしょうか。楽山の底知れぬ恐ろしさを思います。感じることも考えることもできない楽山の罠に堕ちることは、人間としての良心や真善美の感性から、限りなく乖離してゆくことを意味します。肛門周囲炎のような臭い熱を感じます。
 
今回のことで、楽山には、仲間がいる、または、だまされて同類になった人がいる、または、複数の成りすましをしている・・などという可能性が高くなります。どんどん悪の性根を表してくる楽山です。荒らし軍団の登場です。実に不潔です。最終的には、この中の誰かが、楽山をぶん殴るのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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