楽山の読書家気取り?
『読書有朋』渡部昇一、谷沢永一著
2021年11月06日 楽山日記(LD)
お題の本の読後感想文を、また書いてきたかと思ったら、読みたい本のリストをあげて読書家アピールして終わっている記事です。不十分で、インチキで、楽山の自己愛の自己中の体質だけが、無理に、分かるところが増えたと書かせているようです。
>
本書は、渡部昇一と谷沢永一による対談をまとめたものである。随分前に読んだときはお二人が話題にしているのは自分が知らないものばかりで全くといっていいほど話についていけなかったのだが、今回再読してみると前よりは分かるところが増えていてうれしい。
<
「分かるところが増えていてうれしい」・・どのように分かったのか、書けない楽山です。楽山の感想については、いい加減な筆致で短絡し妄想化して、殆ど読めていないことが明らかになってきた履歴があります。それでも、書いてくるところが、浅ましい性根なのです。
すごい厚顔無恥だと思います。書いても中身がないのに、書くことだけは止められず、書くことだけで気持ちよく慢心できる楽山の体質的人格異常を表しています。書くことに、心無い人格が表れ、見栄だけが、潰れた店の旗のように、埃っぽく風に揺れているイメージになります。
>
ちなみに本書中、自分が特に興味をひかれた本は次の通り。
『タイトル不明』幸田露伴著(「自殺は大なる権利なり」として乃木大将の殉死を弁護したものがあるらしい)
『実験論語』渋沢栄一著(中身は明治維新回顧録となっているらしい)
『新訳論語』穂積重遠著(著者は渋沢栄一の孫)
『近世畸人伝』伴蒿蹊著
『文芸の社会的基礎』『社会史的思想史』『歴史の暮方』『共産主義的人間』林達夫著
『スウィフト考』『エリザベス朝演劇講話』中野好夫著
『信仰の遺産』『カトリックの信仰』岩下壮一著
『近世日本国民史』徳富蘇峰著
<
本の名前だけ並べるブログ記事というのは、まあ、有名人の読書歴なら分からないこともないが、楽山が並べて、そうか、読んでみよう、・・なんて思う人はいないでしょう。私は、読書好きでもないので、こういう書き方はしません。楽山は、虚栄心を並べているのです。
読書家気取りの楽山は、精いっぱい、見栄を張っていますが。実際は、本から、都合のいい文言を拾ってきては、宗教をおとしめたり、自己中を正当化したりする材料にするだけなので、信頼してはいけないと思います。
自己愛によって理路が大きく偏っている楽山は、今まで、真っ当な本の感想を書いたことがありません。自分の妄想を正当化し、曖昧な言葉で断定し、偏見で宗教を否定するためだけに書いてきます。楽山には、深い情緒がなく、また、理路を組み立てることが出来ないのです。
>
これらの本は自分に読みこなせるかどうかは別として、一体どのようなものなのかいずれ中身を覗いてみることはしてみたい。『信仰の遺産』『近世日本国民史』は少し見たことがあって、自分には難しすぎたり、長すぎたりしたのだが、また近いうちに再チャレンジしてみよう。
<
楽山が「読みこなせる」とは思えません。あ、読んでないわけですね・・「いずれ中身を覗いてみる」・・つまり、覗いてみるだけなのでしょう。しかも、これからの話、いったい、どういう意図で、この記事、書いたのでしょうか。なんて、いい加減なのでしょう。呆れます。
根が怠慢で、いろいろな本についても、読むというより読んだことにしてきたわけですから、楽山は、それも面倒になったのでしょうか。ブログの文章を見ても、読者の気持ちなど、お構いなしに書いてくるので、何の糧にもなりません。こういう人とは、付き合わないほうがいいと思います。
楽山の読書障害は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から来ています。自己愛で都合のよいことしか注目しないので、客観性が全くない読み方で、人に勧めることも、解説めいたことを書くことも、できないし、してはいけない人です。
「近いうちに再チャレンジしてみよう」・・などという、いい加減な気持ちを言うより、読んでから、ひとつずつ、より詳細に書くべきですが、それも、雑で、短絡してしまう楽山ですから、読書について、人に語る資格はないと思います。

虚栄の残渣
(2021年11月08日)
送り・過ごし
いったい幾度の別れを
幾人の死を
送別・告別の礼を見過ごしながら
見送るのだろう
名も無き送り
名も無き過ごし
尊い人々
私の死を見送る者はいない
私は死にながら
生きながらにして見過ごされるのだ
無名と無礼とウソに
日々を年月を送り過ごして
過ちという過ちに送り出されて
列
いつか加わるであろう
同じ列に
とりとめのない思いを抱き
通じない言葉を話し
散乱したベクトルを持ち
悪しき者には
容易に切り捨てられ
しかし団結することのない
ひとつの群れ
やがて口を閉ざし
あきらめて並んでいる
長い長い列
いつか加わるであろう
同じ列に
曲がった背中と
突き出た口唇の影に
疲れを残しながら
ゆっくり歩いてゆく
列の先には
さびしげに横たわる
聖者が居るだろうか
青い霧の中に
道は向かっている
楽山のツイッターですが
>
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
·2時間
二人だけの問題なら二人で話し合えばいい。でもミニ教祖問題なら複数の人々が関わるので、どうしたって話が大きくならざるを得ない。
T氏はこの問題を後者と考え、注意喚起のつもりもあって公開で書いてるのだろう。
ていうか、これがミニ教祖問題だと気づいてない信者さんって案外多いのかな。
午前10:17 · 2021年11月7日
<
楽山は、話し合うということが出来ない人です。自分の言いたいことだけを言って終わりです。それが、いちばん、楽山の気持ちのいいことなのでしょう。しかし、そういうやり方は、自由と平等と高等感情からの思いやりなどに照らして、決して成り立ちません。
そして、楽山は、身近なことから、大きな話になるにつれて、自己愛の霊能者気取りの超常的な誇大妄想が表れてきます。教祖願望があり、他者を、丁寧語で刷り込んで、印象を植え付け、困惑だけを与えて、疲労させ、まいらせて、壊して、隷属させて、満悦したいのです。
>
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
確かに、A氏はものを言う時に「私見」であることを強調するので、自らの分を知り、謙虚と感じられる。
でもA氏は、HS職員の名前をよく出すので、その意見は私見でなく、HSのお墨付きがあると思わせるとこもあるんだよね。
ここは問題だと思う。
午前9:54 · 2021年11月7日
<
楽山は、人の悪口、キリスト教の悪口を言って、反省せず、責任を負わない人です。「意見を言ってはいけないのでしょうか」など引用して、言論の自由を主張しても、無反省、無責任では、成り立ちません。楽山は、言論の敵です。
>
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
コウさんが、アンチのなりすましにされとる。
他所では、魔のせいにしてる。
HSでは、「他の人のせいにしてはいけない」というけれども、魔やアンチのせいにするのは平気な信者さんは多いね。
午前10:08 · 2021年11月7日
<
楽山は、アンチと言ってきましたが、違うと思います。HSでもアンチでもなく、楽山は、教祖願望で、上から批評してくる人です。様々の「成りすまし」をしていると思います。ブログが少なくとも3つ、ツイッターが少なくとも3つあるようです。HNは、もっとありそうです。
そして、楽山は、間違ったことを刷り込んできます。さらに、不祥事を、すべて「他の人のせいに」する人です。関わらないでください。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ゆえに、決して反省しません。代わりに「反省」「とほほ」とか書いて済ませる人です。
楽山日記へのコメント再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な根深さが表れています。「だよなあ」で済む話ではなく、「人間の性」などでもなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。ふつう、楽山のようにはなりません。異常です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかないのでしょう。
(古い記事は載っていません)
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
ブログランキング