ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:訂正不能

 
  楽山の被害者芝居3
 
 楽山日記(LD)
 『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉
 占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著
 2020年07月13日 
  を改めて批判。
 
 
楽山は、今までもあったことですが、カルトの被害者を気取っています。しかし、楽山こそが、訂正不能、不感不応の、カルトだと思います。無神教カルトと呼んでいます。柔和、謙遜、中庸、とほほ、何でも平気で芝居してくるところに、楽山の恐ろしさがあります。
 
そして、それら楽山の芝居は、ことごとく、今までの経過において否定されています。それに対して、楽山は、何も答えられなかったのです。にもかかわらず、否定されたことを忘れて、また、平気で書いてくるのです。無節操と鈍麻の極みです。
 
 
本書は、1巻と同じく、中学生女子を主人公にした物語と、香山リカの解説という構成になっている。
物語のあらすじは、中学生女子はひょんなことから某カルト教団のことを知り、カルトの危険性について学ぶというものである。終盤、主人公の友人が、あやしげな占い師に騙されそうになる場面はスリルがあって面白い。
 
ドラマを見ている気分でしょうか。「カルトの危険性について学ぶ」のが「スリルがあって面白い」と書いています。実感というものを感じられず、分別も節操もなく、全くの興味本位で語ってきます。楽山は、どんなテーマでも、冗談半分でしかなく、本気がないのです。
 
 
香山リカの解説では、マインド・コントロールの手口について次のようにまとめてある。これはすごく分かりやすい。
・あなたを待っていました。ここに来たのは運命です、などと言って歓迎する。
・これまでの人生は間違っていたのです、などとその人の生き方や考え方を否定する。
・これを信じればすべてが救われます、と新しい価値観を与える。
(『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著、汐文社、2009年、p.45)
 
嘘と詭弁と婉曲表現と同情芝居で、人の心をもてあそんできた楽山が、マインドコントロールについて語る資格はないです。カルトの、大袈裟で安請け合いの説教と違って、楽山は、常識人を気取って仲介でもするかのように、優しい言葉遣いで近寄ってきます。もっと厄介な新手なのでしょう。
 
運命と言って歓迎、これまでの人生は間違っていた、新しい価値観を与える、こういう勧誘と脅しが、カルトの手口、ということを書いて、楽山は自らを、カルトに対峙する者、という印象を吹き込んできますが、いちばん、怪しいのは、今、楽山その人なのです。
 
何事についても、理解力に欠けているのに、遺伝子がどうの、超常がどうの、学者の本がどうの・・と書いて、知識があるかのように宣伝してきました。カルトもスピリチュアルも大好きで霊が分かるっぽい自覚?の楽山ですが、評論家気取りで書いてきます。
 
このように、意見の方向性が、バラバラなのも、楽山の特徴です。恐らく、カルト被害者に共感するように見せかけて、実際は、宗教と信仰を、軽い道徳レベルにおとしめたいのだと思います。そのリーダーか教祖になって、正義の味方として讃えられたい自己顕示欲が動機でしょう。
 
 
振り返ってみれば、自分がカルト宗教にハマってしまった時も、これと似た話を聞かされたのだった。たとえばこんな感じだ。
 
元HS信者でアンチHSを気取っていますが、この2年余りの経過では、楽山が常識人だとは、とても思えません。今までのことを訂正もしないで、ときによって、カルトの犠牲者を装い、カルトを「(笑)」を入れながら、批判めいたことを書いて面白がっているのです。
 
しかし、一方で、霊が分かるっぽいことを書いていましたし、また、霊言などを引用しています。宗教と信仰についての理解は、小学生レベルの、超常ホラー趣味以上ではありません。いちばん警戒するべき相手は、カルトと心霊の妄想にこだわっている楽山その人です。
 
 
「あなたには大きな使命があります。天上界において『地上に降りたならば、〇〇様の下に集い、その教えを広め、人々の幸福のために働きます』と誓って生まれてきたことを思い出してください。あなたが今、〇〇様と出会ったことは偶然ではないのです。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は、様々な詭弁で、キリスト教をけがし、自らを、まるで、学者であるかのように、刷り込んできました。その楽山が、白々しく、カルトの手口を言っているというのが、楽山の新しい手口なのです。実際は、楽山は、自分教の教祖です。
 
こうやって、楽山は、自分は違います、自分は大丈夫ですと、印象を吹き込んでゆくのです。このような騙し方は、まるで、悪魔の狡猾さに似ています。訂正も修正も学習もなく、平気で、なおも、だましてくるのは、良心のない悪魔性としか思えません。教祖願望の表れでしょう。
 
 
「自らの間違いを反省し、この教えによって自己変革をしましょう。この教えを知る前と、知った後で変わらなかったら嘘です。本当の自分に目覚めてください。
「現代社会では、唯物論という間違った考え方が広まっているために、多くの人々が死後、地獄に落ちています。今こそ、正しい教え…真理を明らかにすべきときです。これこそすべての人を幸福にする教えです。この教えに基づくユートピア建設を目指しましょう」云々。
 
反省、自己変革、変わる、これらは、楽山には、全然できないことです。ゆえに、それを、楽山は、カルトの説教に当てはめて批判し、責任を逃れようとしてきます。楽山の、いちばん大きな悪性は、自らの非を認めず、反省をせず、一切の責任を負わないことです。
 
キリスト信仰の反省は、罪深く不完全な自分を自覚して、世俗の騒音から、神の前に、正直な祈りをすることです。決して、楽山が言うような、正しくなることでも、真理を明らかにすることでも、ユートピアを目指すことでもありません。人間は、どこまでいっても、不完全です。
 
唯物論こそ、楽山が、その曲解によって、宗教をおとしめ、人の心を腐らせるために選んだ手段であり、それによって、逆に唯物論をもけがし、進化論もけがし、自己流に、自己中に、悪用し、人々から宗教も信仰も心も奪ってゆく手法なのです。
 
 
改めて思い出すと、こんな主張はカルト丸出しであり、陳腐この上ないものだ。これで騙される奴なんかいるのかよと思わないではいられない。でも、ほかならぬ自分がそうだったのだから恥ずかしくてたまらない。根がどこまでも、お人好しの理想主義者にできていたので、重要感を持たせられ、向上心を刺激され、世のため人のために働きましょうと持ち掛けられて、コロッとまいってしまったのだろう。
 
他ならぬ自分が、カルトに嵌ったなどと言っていますが、これも、恐らく嘘です。楽山は、だますほうであり、だまされるほうではありません。楽山は、自己中なので、他者の影響を受けません。楽山は、自分カルトの、霊も、科学も、分かっている、知っている、という妄想がベースなのです。
 
楽山は、恥知らずで、どこまでも、悪意によって、理想も宗教も信仰も科学も自己愛の下に置いて、けがす者です。楽山は、信仰なんか持たずに、向上心も持たずに、世のために働くこともせずに、怠慢を貪って、楽山の言うことを聞いておればよいと、自己満悦教?を広めたがっています。
 
 
結局のところ、宗教にしろ、占いにしろ、それによって、いい気分になったり、不安になったり、感動したりするなど大きく心を動かされたなら、そのまま突進するのではなく、ある程度の距離をとって冷静さを取り戻すことが大事なのだろう。結論を出すのはその後で十分だ。
 
ある程度の距離を取って、と言って、楽山が言いたい本音は、宗教否定であり、その矛先を、何度もキリスト教に向けながら、私の批判に答えられず、結局、自分は何でも知っている神?相当のものだということを、極めて狡猾な婉曲的表現によって、植え付けようとしてきます。
 
楽山は、悪霊のブタのように、崖に向かって突進する厄病神として生まれたのでしょうか。楽山は、自分以外とは、距離を取って、信じるな、と言っているわけです。楽山の宗教観は、小学校レベルの幼稚なものであり、そこになびいたら、知性も感性も破壊されるでしょう。
 
信仰には、距離を取るとか、信じ過ぎるとか、信じ足りないとかは、ありません。
 
聖書は、人間らしい、潤いと温もり、悲しみと愛を知る心がある人には、響くものです。
 
響くという共感性に、過ぎるとか足りないとかはないのです。
 
楽山には、心がありません。だから、何も響かないのです。
 
楽山は、自分の心無いカルト思想を基準に、宗教と信仰を語っていますが、はっきり言って、楽山については、本当の信仰に触れたことが一度もない、ということが明らかになってきただけです。だから、信仰を語っても、的外れだけがあらわになってきました。
 
 
宗教側は「天変地異が迫っている」「早くしないと大きな不幸が起きる」などと急かしてくるかもしれないが、そんな脅しに耳を貸してはいけないのだ。こういうことは当たり前のことだけども、宗教と出会って、「これは間違いなく本物だ!」と感動してしまうと、ついつい忘れてしまいがちなことではある。恥ずかしながら自分はそうだった。この点はよくよく反省したい。
 
「これは間違いなく本物だ!」とカルトを信じるのは、話の辻褄にだまされているだけで、本当の感動ではありません。人間らしい良心のない楽山の勝手な見なしに、だまされないでください。批判者を装って、自分の自己中妄想に染めようとしているのです。
 
「恥ずかしながら」「よくよく反省したい」・・楽山の反省芝居に、だまされないでください。こう書いておけばいい・・という軽さで書いてきます。楽山は反省したことなど一度も無いと思います。楽山は非を認めることができない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
楽山は、だまされるほうではなく、恐らく最初から、だますほうとしか言いようがありません。楽山は、悪意の、カルト、偽善者、自己愛性人格障害、教祖願望、霊能者気取り、有識者気取りを持つ、凶悪で狡猾なカルト煽動者です。
 
楽山の言語は、一見、物わかりのいいような語り口ですが、結局、理路は詭弁であり、情緒的感受性に欠けており、洞察のない屁理屈だけしか持っていません。満足するのは、楽山だけであり、誰も、何も、深くて良いものを受け取ることなどあり得ない、口先の虚偽につながってゆきます。
 
楽山の言は、ボンヤリ言語とトホホ言語と名付けていますが、柔和に見せかける婉曲表現と、謙虚を装う芝居で出来ています。この記事も、中庸(ちゅうよう)を気取っていますが、実際は、何も理解できないまま、自説だけを吹聴する、単方向の、軟派カルトの楽山の悪知恵に過ぎません。
 
楽山には、宗教を語る理路がありません、信仰を語る良心がありません。ゆえに、楽山の語る宗教と信仰には、節操も敬虔も、他にないという真剣さも、感動を呼ぶ説得力も、皆無です。平板で、通念的なことから始めて、いかがわしい超常の話を語ることで悦に入るのです。
 
楽山には、小学生レベルの、軽佻浮薄の思い付きしかなく、そこから、全く、成長していないのです。だから、読んでも、見栄と執拗さ以外には何もないので、疲労と徒労が残るだけです。付き合い続けると、楽山と同じような、ボンヤリして鈍い人格破壊に至る恐れがあります。
 
(ネットより)
けいちょう-ふはく【軽佻浮薄】
考えや行動などが軽はずみで、浮ついているさま。▽「軽佻」は落ち着きがなく、よく考えないで言動するさま。「浮薄」は浮ついて軽々しいさま。信念がなく他に動かされやすいさま。「佻」は「窕」とも書く。
 
楽山は、真面目に真実を追求するブロガーとも、趣味を書くブロガーとも、日常を書くブロガーとも、全く違う人種です。楽山ブログは、妄想的結論から始まって、詭弁から破壊に至る害毒日記です。
 
恐らく、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害のために、生きてゆくのに、芝居をするしかなかったのかもしれません。しかし、それは無責任であってはならず、無反省であってはならないものです。どちらも楽山は無視して、人を傷つけるだけのサディストになっています。
 
性悪の根腐れの楽山に声を掛けるなら、今までも、これからも、
 
・・あっちに行け・・だけです
 
人生を大切にしたいなら、決して、楽山に関わってはいけません。
 
 
※ 
 
楽山は、神がいるなら神が悲劇から救うはずだから悲劇は起こらないはずなのに、救われない悲劇が実際あるのだから神はいない、という言い分のようです。楽山の考える幸・不幸を、知りもしないし信じてもいない神に向けて決めつけています。こういう柔和の欠片もない確信が悲劇をもたらすのです。
 
信仰からではなく、心からでもなく、楽山は、物と好都合だけを欲しがる欲望の人です。そういう人が、声高に、無神論なるものを吹聴しています。人は、有神も、無神も、証明できません。信仰という形無きものは心の中で活きています。それが分からないのが、楽山のような心無き者たちです。
 
楽山の大きな罪そして偽善は、神に代わる救いを何も提供できないことであり、さらには、絶望している人に、神はいないぞと、傷に塩を塗るようなことを言っているに等しいということです。絶望を解決できず、いかなる救いも知らず、自説自慢だけで、口だけは減りません。
 
信仰者としては、どうしようもない地上の世界だからこそ、神という最善の絶対者を信じ仰ぐことが必要になるという動機であります。そして、救いがあるとは思えなかった人が、キリストの愛と共感に導かれて、祈りにおいて神の前の正直さだけを捧げて生きているのです。
 
神は、その全能を、人の卑しい欲望含みの思考で分かるように示すことは、なさらないのです。神の救いは、地上だけでもないかもしれません。例えば、地上以外のことについて、感性の貧困な楽山は、ホラー以外、何も希望を語れないにもかかわらず、神?とか霊について得々と語る偽善者です。
 
神と人を引き離そうとする反キリストの幼稚で次元の低い話に惑わされないでください。信仰者も、あの世の希望だけにすがっているわけではありません。理屈ではなく、既に、地上において、キリストの気高さへの憧れと共感という賜物を恵まれて、キリストを忘れられない人が、信仰者になります。
 
 
ずるっとだまして知らぬふり

ずるっとだまして知らぬふり
 
 
(2021年)
(2022年07月30日、再録+加筆)
 
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  秋の日・一
 
歩いているようないないような
振り返れば誰もいない
前を向き直しても誰もいない
そういうシーンが幾度となく繰り返されて
芝居は終わった
帰ろうと立ち上がれば舞台もない
出口に向かおうとすると客席もない
さわやかな秋の日だ
 
 
  台風一・上陸間近
 
台風は上陸するらしい
お前はもう終わりだ
おしまいだ
と言わんばかりに
 
風音が家を壁を窓を
軋(きし)ませる震わせる
時々金物か瓦か何か固い物が
ぶつかり合う音が聞こえる
 
外のバイクは大丈夫か
月極駐車場に置いてある車は
夏に除草剤を撒(ま)いた庭に
秋になって思いがけず
生えてきた草の中に
咲いていた赤紫の小さい花たちは
テレビは終夜放送で台風情報
 
外は荒れ狂っている
 
言わんばかりに
死の実感を持たないのは
お前だけだと
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
幸福の科学も、このタイプですね。
すべての宗教が入ってて、「俺様偉い」と。
>>引用ツイート
@rumrumrumrum
 · 21時間
もう一回、韓国の統一教会の
孔子とブッダとキリストとコーランが腰に手を回し合う像の写真を載せておこ。コーラン(本)と仲良くしてるキリストが不憫。
カルトって「全ての宗教がオールインワンで入ってます」みたいな思想好きよね。聞いてみたら、すっとこどっこいの「俺様偉い」の内容だけど。
<<
午後9:27 · 2022年7月28日·Twitter Web App
 
すべての宗教より「俺様偉い」と思っているのは楽山です。自己愛性人格障害の楽山は、宗教も信仰も見下ろす視線しか持っていません。伝統宗教もカルトも、同じ視線で見ています。霊言などの超常が宗教だと思っているのです。聖書も読み方も、頭の中だけの辻褄合わせだけで、心が無いのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
>>
唯一無二の真実を探し求める人は、世界をたった一つの固定された言葉へと単純化しようとします。
<<
これは耳に痛い言葉だ。新興宗教にハマって、「これこそ、本当の真理だーっ」と思いこんでしまった経験があるので。
>>引用ツイート
本ノ猪
@honnoinosisi555
 · 7月28日
「唯一無二の真実を探し求める人は、世界をたった一つの固定された言葉へと単純化しようとします。唯一無二の真実を宣言するということは、言葉を「急速冷凍」して、その結果、新しい意味が現れる可能性を狭めてしまうということです。」(伊藤守監訳『現実はいつも対話から生まれる』P49)
<<
午後9:08 · 2022年7月28日·Twitter Web App
 
「新興宗教にハマって」は、かなり嘘くさいです。楽山は、真理=自分の思想、という見方です。つまり楽山は「世界をたった一つの固定された言葉へと単純化」して客観視だと思い込んでいるのです。その結果、心無いために、洞察も根拠もなく、言論を月並みな「急速冷凍」食品にして満腹しているのです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
kazu 訳あり3児育ててます(^^)
@kazu75543205
精神科から親子がポロポロ泣きながら出てきた。子に病名がついたらしく、母親が「今まで叱ってばかりでごめんね。そういう脳で産まれてきたからあなたは何も悪くない。そのままでいいよ。あなたはあなただからね。お母さんがいるうちは全力であなたを守るから!」と話していて、盗み聞きした私号(泣号)(泣汗マーク)
午前11:24 · 2021年7月19日·Twitter for Android
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
自分の精神的利益のために都合がよいと思ったら、人の迷惑お構いなしに引用してくる楽山を批判しています。楽山は、どこまでも正義の味方のふりをして、背伸びして、背伸びして、自分の言うことは意味があると思わせたくて、顎を外しかけています。
 
楽山が、これを引用するのは、「そういう脳で産まれてきたからあなたは何も悪くない。そのままでいい」というところでしょう。楽山は、自分も、こういう脳で生まれてきたから悪くない、そのままでいい、と言いたいのです。違いが分からないのは幼稚すぎます。
 
これまでも、言葉面だけ都合のよさそうな話を、本から、ネットから、引用してきた楽山です。反省と修正のための知性と感性が足りないことの証明です。言葉面だけで、直感がないのです。自分で弁明できないから、人の口を利用して、その目的は、自分の正当化・・なんて、呆れた話です。
 
不可抗力の過ちや病気と、悪意からの悪行は違います。楽山は、意志を持ち、その意志によって、嘘を吐き、詭弁ばかりを弄してきたのです。これが悪くないなら、この世は、悪人の天国になります。楽山は、だんだん、程度の低い詭弁を弄するようになっています。
 
過ちを認めて、親が責任を負うのと、楽山のように、非を認めず、無視して、無反省、無責任に、悪行を続けるのとは、全く違います。大人の年齢である楽山の責任を負うてくれる人はいないでしょう。この話を、お涙ちょうだいにおとしめて、楽山は、恥ずかしくないのでしょうか。
 
楽山が、他者を引用するとき、必ずと言っていいほど、楽山の都合に合わせた暗示か詭弁の作為が働いています。読者が読んで何となく良い話として受け入れることを楽山は狙っているのです。どこまで、いつまで、言葉の盗人家業を続けるのでしょう。最低だと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
罪悪感のない、真剣味のない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、楽山を批判しています。楽山が書けば書いただけ、その病理と症状が現れてきます。それでも書いてくれば、それが、無反省で無責任で無神経な、楽山という人格だという証明になってゆく経過です。
 
 
 
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  病質者対策2
 
 
凶悪カルト・サイコパス・病質者とは、具体的には、言うまでもなく、3年批判している楽山と、10年批判してきたシャロームshalom のような自己愛性人格障害者のことです。罪悪感がなく、いつも、社交の世辞であしらいながら、実際はバカにして、心で笑い、舐めている人です。
 
罪悪感がないために罪の意識がなく、悔いるという高等感情もなく、反省もせず、他者に優っているという慢心だけで、いつも自分が正しくて、まともだという捏造の立ち位置から、実際には、ねじ曲がった理屈と、平気で嘘を吐く習性をもって、壊れた理路の迷惑物質を投げてくるのが、楽山です。
 
恐らく、一生、治らないのでしょう。ということは、話し合う余地がないということです。つまり、楽山と話し合おうなどと思ってはいけない。楽山から何も受け取ってはいけない。楽山の言うことを何かの参考にしてもいけない。楽山の投げかける言は、楽山の仕掛ける罠(わな)です。
 
最初から、楽山は、惑わすために、あるいは、優越感と自己顕示欲のために、言い逃れのために、書いているだけだということを意識して、関わってきたら、追い返すか、逃げるしかないのです。世辞コメントなど書くと、楽山の思うつぼです。
 
他には、批判する気のある人の場合、楽山の書いていることの、卑怯な言い換えや、作為的な言葉と理路の選択や、常識に見せかけた一面的な視野狭窄の言を、決して真に受けることなく、一つ一つ指摘して、資料として警鐘とすることだけが、楽山という自己愛性人格障害者に対して出来ることだと思います。
 
楽山は不治の病と言ってもいいような欠損した人格ですから、はっきり言って、人間だと思ってはいけません。和解の余地を残してはいけません。今まで楽山が書いてきたことから、楽山には良心がありません。思いやり、共感、羞恥心がありません。平気で嘘を吐きます。
 
楽山は、人のために役に立つヒントになることを書こうなどとは、毛ほども思っていません。ただただ、インテリ気取りで、客観を装い、煙に巻くような婉曲的な言い方で言い逃れを向けてくるだけです。楽山の文章に主旨はありません。企みだけがあります。真面目に見せかけているのです。
 
ゆえに、楽山の文章を読むときには、症例を見ている、場合によっては、症状を記録するという姿勢が必要で、先ず、楽山の主旨を読み取ろうとすることだけはやめないと、病原からの疲労の罠に嵌ります。楽山に、主旨はありません。否定を書いて、肯定を書いて、責任を負いません。
 
批判においては、楽山の文章から、言い逃れの詭弁の細工や、意味の違う方向への言い換えで、ごまかしてくるところを、できるだけ見逃さず、指摘し、批判し、資料とするためだけに記録することに専念するべきであります。楽山を出禁にしてください。批判するなら記事に書くことです。
 
共感性のない楽山との、分かち合いや交流は、決してありえないことなのです。楽山について書く場合は、そのことを最初に弁えることが、自己愛性人格障害の害毒から身を守る唯一の方法であります。出入り禁止として、批判記事を書き、楽山の無法を知らせるやり方しかありません。
 
そして、それが、自己愛性人格障害者、病的ナルシスト、精神病質サイコパスに出会ったときの、心構えでもあります。楽山は、まともな人間ではありません。ふつうに付き合ってはいけない、資料にするしかないヒトなのです。そういう非人間は、多くはないが、いるということです。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教に、いちゃもんをつけて、神を否定してきましたが、その責任を負わず、批判にも答えず、スルーすると言って無視する卑怯者であることに加えて、宗教を否定しても、それに代わる救いや助けになるものを、何一つ提示する洞察力も共感力もない人です。
 
この自己顕示欲と自己愛だけで出来ている楽山のような病質者だけは、決して信頼しないでほしいです。中身の無さを、丁寧語で体裁を整えて、中庸芝居でで中立の人物を装う、これが、楽山の生き方・書き方・筆致なのです。
 
ちょっと注意して読めば、楽山が、誰でも言いそうなことを書いたから誰でも共感してもらえるじゃろ、という予定調和を書いているに過ぎないことが分かります。真実の追求とは、かけ離れた狙いで、ありきたりのことを並べて、好意を装うペテン師だからです。
 
 
楽山のキーワードとしては、無反省・無理解・無責任・無神経・嘘吐き・詭弁・偽善者、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、病的ナルシスト・罪悪感と良心の欠如・自己中心、高等感情鈍麻、反キリスト・反宗教、などを使っています。
 
 
悪は笑い、善は悲しむ、それが、この世です。ゆえに、悲哀が、最も高等な感情は、悲哀です。ゆえに、今悲しむ者は幸いなり(マタイ5:4)。
 
良心は、地上の悲しみを知っています。悪魔性は、地上の悲しみを知らず、感じず、笑いと快楽を求め、うまくいかないと怒り、怨念を燃やします。
 
笑いと怒りは感じても、悲しみを感じられない人格があります。それが、反社会性を内在する自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、精神病質サイコパスなのです。だから、いい気になるだけで、実際には、謙虚さが皆無なのです。
 
 
評価もなしに木に登るのか

評価もなしに木に登るのか
 
 
(2021年04月25日)
(2022年05月03日、再録+加筆)
 
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
 
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです

人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  潰瘍
 
手遅れの落花に目盛りを誤り
紙コップにビール注がれ
潰瘍の胃袋炭酸の重みに耐えず
発酵の流れ歯石のうちに語る
葉桜の下疝痛に舞え
充血の嘔吐の結膜
石鹸の剥離を繰り返し
乱脈の破砕の終末
タイル張りの手首を引き
酔い痴れて薄墨の彗星を探し
とても希薄な泡沫に帰すと
 
 
  はね
 
しずく はらい
あめの ぬくみ はねて
かえろう いまいちど
ひざかりの つみくさの
のはらの ゆめ まどろみ
あしたの つゆに あずけて
にたものどうしの わかれみち
はおと なく しののめに
とびたつのは ぬれて
ただひとひらの はね
ふきすさぶ くもの まつ
いつも ひとつの そらへ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
×徳あるものた上に立つ徳治制が望ましい
●徳ある者が上に立つ徳治制が望ましい
午後0:41 · 2022年5月2日
 
徳のない楽山が、言葉だけ、訂正か、指摘を、書いています。正直さがない。反省しない。責任負わない。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のための自己中から来ています。つまり、自己満悦のために記事を書くので、学習と成長も見られません。楽山は、不変の厚顔無恥であります。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ざっくりまとめると、大川隆法総裁は自分こそが宗教的にも政治的にもトップに立つべきだと考えていたことがうかがえます。
自身が選挙に出たときも、国会を幸福党でしめて憲法改正し、大統領になる気満々だったでしょう。
初夏氏はそんなことはないといいたいらしいが、それは無理かと…。
午後0:39 · 2022年5月2日
 
ということを言う楽山は、自分がトップに立つべきだという教祖願望を表しているのです。そのための評論家気取りです。何かを書けば、自己愛からの尊大な自己満足・自己満悦が、そして、自己愛からの誇大妄想が、噴き出して、漏れて、表れてくるのです。楽山は、不変の厚顔無恥であります。
 
楽山には、まともな秩序の意識を持っていません。だから、憲法改正にも、独裁にも、賛成するでしょう。いちばん、大統領や、王様に、なりたがっているのは、楽山であります。その夢想が誇大妄想として固定しているので、隠したつもりでも、丁寧語とは裏腹に、不変の厚顔無恥を表してしまうのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、私の理解では、大川隆法総裁の主張はこうです。
・自分は地球における最高の権限を持っている
・自分の言葉が法となり、善悪を定める
・民主主義は衆愚政に陥る危険あり
・徳あるものた上に立つ徳治制が望ましい
・神近き者が上に立つのが天上界の秩序
・祭政一致であるべき
午後0:32 · 2022年5月2日
 
楽山は、自分が一番上だという誇大妄想を持っています。だから、いつも、上から見下ろす発言になります。指導者気取りです。楽山は、おびただしい言葉の破綻を見せておきながら、善悪を定めたいようです。他者のことを、とやかく言う資格は全くないのが、楽山です。
 
民主主義を憎んでいるのも楽山であり、ネトウヨとして、A級戦犯を讃える記事を書いています。楽山は、放置すれば、人々を詭弁で誘導して、衆愚へと誘導します。あらゆる徳に背いているのが、楽山です。神近き?楽山という自覚でしょうか、むしろ、我は神なり・・でしょう。。
 
楽山は、結局、王様気取りであり、その根拠が、自らの、霊が分かるっぽい?体験と、心霊大好き趣味なので、小学生並みの知恵で辻褄を合わせで記事を書いて悦に入るのです。楽山は、人間としての罪悪感も羞恥心も持たないので、サイコパスの性質が、書くことに表れてくるのです。
 
楽山とは、決して、議論や交流をしてはいけません。楽山は、論理?めいた迷路を用意しています。そして、気に入らないとテーマの実質から外してゆく人です。楽山の害を避けるには、出禁しかないのです。私はそうしています。楽山の思想は、ずっと詭弁だけです。悪知恵だけです。企みだけです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
3年余り、批判を当てても、同じように書いてくる慢心こそが異常です。その間、当てつけや悪口は書いてきても、真っ当な反論など、全く書けないのです。論理遊びの罠を仕掛けてきますが、理路が分からず受け取れないことからの詭弁に過ぎず、それがバレてからは、ただただ見苦しいだけなのです。
 
 
 
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  信仰と確信2
 
 
信仰と確信は対立軸です。信仰の反面教師が確信です。
 
信仰は仰ぎ、確信は見下ろします。
 
確信は、信条や信念と似ていますが、人が神の意思と行為についての疑問と不都合から目を逸らして無視するので、自己においても他者に対しても、自らの思考の欠点を無視してゆきます。
 
確信は、詰まるところ、思い込みを促進する自分信仰なのです。
 
※ 一時的な確信は、覚悟であり、一時的であるので固定した確信ではありません。
 
 
信仰に信条はない。信仰は疑問を排除しない。
 
目を見張ることはあり、瞬きはするが、わざと目をつぶったりはしない。
 
 
信条と呼ばれるものは、信仰の要となる言葉のヒントとして重要です。信条を覚えて思い込んで信仰が成立することはありません。
 
 
信仰は信じるところを論理のようには知りません。人間だからです。
 
確信は信じこむことの罪を知らない。人間でなくなりつつあるからです。
 
聖書は神の言葉と言われますが、読み取るほうの私たちは人の言葉しか持っていないことを肝に銘じるべきであります。人間の精神活動に絶対はありません。それを弁えることは、信仰において必須です。
 
 
信仰は信仰者にとって、対象ではなく、不可避であり、よってきたるところを知ることが出来ない。
確信は人の業であるのに、由来を聖書と神に、実は、己の信念に帰して、人ならぬ者になりたがる。
 
信仰は文章化しにくく、経験の情緒と思考によっても伝わるとは限らない。
確信は文章化しやすく明文化することによって宣伝され伝染されることを、むしろ欲望する。
 
信仰は信仰の罪深さを自覚し、しばしば痛感するが、
確信は確信の罪深さを自覚しないから確信なのである。
信仰は反省し、確信は反省しない。
 
 
固定を好む人によって曲解され、人の確信が「信仰」と呼ばれることがあります。
 
信仰は「信仰」と呼ぶことに不全感と恥じらいを伴います。
 
確信は確信であるから、堂々と「信仰」と名乗るだけでなく、他の信仰に対しては「ふっ、何を言っとる」と小馬鹿にしながら、ときには敬虔を装って慇懃無礼な態度で、押さえ付けてさえ来るでしょう。 
 
 
信仰は心を揺さぶり、次から次へと学習を求め、成長を促し、固定を許さないでしょう。
 
確信は安定を求め、固定し不動となることを誇ることになるでしょう。
 
信仰は恐らく確信を否定することによって、ようやくその一部を暗示のように表現するのみでしょう。
 
 
信仰と確信は、罪深さによって同居していることもあります。内部にも対立軸があるということです。
 
確信は、常に、信仰を覆い隠して表され、人前で明らかと見られることを好む。
 
信仰は、常に、確信を打ち砕かれるところに、ひっそりと生まれるだろう。
 
 
20代の頃と今とで私の信仰を比べてみると、変わらないところと変わったところがあるように思われます。そのどちらにも信仰とは別のものが含まれていると思います。
 
溺れる者が藁(わら)をつかめば、藁は曲がるからです。
しかも曲がった藁は自分の持ち物になるからです。
 
 
(2013年02月26日、同日一部修正)
(2022年02月20日、再録+)
 
 
信仰と確信

信仰と確信
 
 
 
昔々のポエム
 
 
  冬の終わり
 
吹雪の向こうに
耐えるように 朧(おぼろ)げに
眼差しを向けてくる
少女のような顔
幼くて泣きそうなのか 唇は
かすかに微笑んでいるようにも見えて
初恋の人でもなく
知っている人でもないのに
去りがたく 目を
そらすことができない
 
いつの想いに
吹かれて 顔
動かないのに確かに
遠ざかる方向を
こちらへ向けている
ここでは吹雪なんて滅多に
吹かないんだよ なのに
どこへ 君は
誰のために
雪に
風に
忍ぶ 面差(おもざ)し
 
思わず伸ばそうとした手の先に
最後のように寒気(かんき)
触れて 巻いて 不意に
鳥だろうか ふと
横切って いつの影も裏切って
ここでは
吹雪はないんだ
 
 
  塒(ねぐら)
 
見てわかる星座は三つだけ
オリオンと
玄関先から
晴れた夜には
北斗七星かカシオペアか
どちらかが見える
やあ見える
北極星だ
便利な星座を覚えたものだ
ということは
我が家は北向きだ
 
田舎
という理由だけではなかったか
他の団地より安かった
最初案内された所は
もっと安かった
片方が崖
それを言ったら
家は道路寄りに建てますから・・・
遠慮しといた
 
この家だって
私にとっては塒(ねぐら)に過ぎなくなったが
住む人が住めば立派なマイホーム
私は塒の方を選んだはずだ
 
学生時代のアパートを思い出す
狭い路地の行き止まり
ベニヤ板の壁に
ナメクジが這い上がってくる部屋
高い窓を開ければ墓場だった
この立派な塒が望みだったはずだ 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違いを訂正しないでいると、間違いが身に着いてきます。そして、何か言うときに、間違いが出てしまいます。嘘吐きになるわけです。嘘吐きになると、バレたときに人に恨まれます。バレないように詭弁を工夫するようになり、凌げる場合があり、凌ぐために繰り返して、・・日常ペテン師の誕生です。
 
 
 
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  楽山の独り言2
 
 KENTO氏による楽山批判(5)(ネット上の議論についての反省)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年02月07日
  を改めて批判。
 
 
去年の楽山の記事です。何の説明にも弁明にもなっていないことを、的を逸らして、お互いさまみたいに言って、今まで同様、自己正当化してくるわけです。これが、病質者のやり方だと思ってください。悔いることなく書き続けるのは、後悔の念が湧かない、という病質の症状なのです。
 
深く感じるということがないために、いつも、いつまでも、書いてきます。書けば批判されて不快になるという条件反射付け以外なく、それ以上に、被害者を減らすために、楽山は有害だという情報を広めるために批判しています。楽山を自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と判断します。
 
 
*反省メモ
今回の議論についての、反省点をメモしておきたい。
メモしないと、すぐに忘れて、また同じ失敗をしてしまいがちなので(笑)。
 
議論は双方向のはずですが、楽山は、人の言うことを受け取って考えることが出来ません。つまり、議論はしていないわけです。さらに、楽山は、無反省なので、反省点のメモも、自己正当化だろうと予想がついてしまいます。まだ、まともなつもりで書いて、だませると思っているようです。「(笑)」が醜い。
 
 
*過去の教訓
まずは、ネット上の議論について、過去の教訓を思い出してみる。
リアルでの議論なら、長くても二、三時間で済む。でもネット上の議論は延々続く。他のことをする時間を奪われる。
 
何を基準に、二、三時間で済むと言っているのでしょう。真実の追求は、一生涯にわたることもあると思います。いつものことですが、根拠のない楽山の気安く甘い見方です。いかに、本気で考えていないかが表れています。楽山への批判は、世辞で終わらせないゆえに、永久に終わりません。
 
こっちの言うことを、まるで聞いていないのですから、しかも、自らを省みず、責任も負わないわけですから、「時間を奪われる」というのが、まず、被害妄想でしかありません。ふつう、無反省・無責任は議論で通用しない、ということが、楽山には分からないのです。
 
 
事実関係の議論なら結論が出ることもあるが、宗教・思想など価値観に関する議論は、水掛け論になり延々続く。時間を奪われる。
 
楽山が相手だと、水を掛け合うのではなく、楽山が勝手に掛けてくるだけなので、「時間を奪われる」というのは、気力を奪われるということです。これが、無反省・無責任を相手にするときに、まず、うんざりすることです。自分が被害者みたいに言っている時点でアウトであります。
 
楽山の掛けてくる水は、廃液であり、そこには、説得力や真実や、その糧になるようなものや、正直さが、まるで含まれていません。小便を引っ掛けられているようなものです。まともに受け取らないでください。すべて罠ですから、楽山に対しては全否定するしかないのです。それが、病質者というものです。
 
楽山は、ここでも、問題を、双方同じという方向に持っていこうとします。話し合う気がないものだから、このようなことを書いて、そっちも悪いということにするのです。みんな嘘さ♪・・という歌がありましたが、まさに、楽山は、疲労の上塗りをするサディストです。
 
 
意見の相違、対立だけならまだしも、それはじきに感情的な対立にすすみ、やがては恨まれて、延々粘着されることになる。そうならないうちに議論は止めるべし。
 
楽山は、最初から、単方向で言いたいだけで、議論する気がありません。体裁だけ、議論について話しているように見せかけています。したがって、止めるかどうかではなく、楽山と議論しよう、議論できる、などと思うことが、元々間違いです。
 
檻の中の猛獣が唸っている、あるいは、自動販売機が勝手に作動しているのに、それに向かって、しかし僕は・・なんて言っても、通じるはずはないのです。いつの日も、独り言に過ぎないのが、楽山です。議論を止める云々ではなく、楽山の言は、最初から、議論になっていないのです。
 
このように、「感情的な対立にすすみ」と言って、楽山は、自分の原因、即ち、無反省・無責任、高等感情の鈍麻、高慢、間違いを認めない、つまり、間違いを認める性質が全く欠如している人格です。このような、人間とは思えない精神病質ですから、どこまでも、非を認めず、平気でいられます。
 
全く違う人種なのです。まともな人間とは違うのです。普通に生きることの出来ない異常者なのです。楽山のような人、やり取りするだけで失うものが大きい相手、即ち、エナジーバンパイアを、相手にしてはいけません。楽山が近づいたら逃げるしかありません。このことを広めるためだけの批判であります。
 
 
人格批判は無視すべし。人格批判に反論すれば、議論は本題からどんどんズレてゆく。
人の意見は変えられない。好悪の感情も変えられない。議論によって相手が変わることを期待してはいけない。
 
楽山については、人格を中心に問題としてください。人格の病気なのです。楽山相手に、議論は、どこまでも、成立しません。総てがズレているのは、楽山です。広い意味での精神異常ですが、訂正不能なのは、基本的に、治療不能であり、それが、楽山という体質です。
 
自分で「相手が変わることを期待してはいけない」と言っています。つまり、お互いが、柔軟に話し合って、双方が、改善されてゆく、成長する、という議論や交流の方向性が、楽山には無いのです。それを、まさに、楽山が白状しています。
 
議論めいた言葉を使うのは、自己満悦のための手段であり、詭弁であり、成りすましであり、それが、楽山の体質なのです。そういう迷惑な企みが生き甲斐なのでしょう。ですから、楽山に、真剣味はゼロです。意義もゼロです。楽山と関わる時間は、人生の無駄~害毒になります。
 
 
悪口を書かれれば反論したくなる。でも反論を始めてしまえば、これで終わりということはなく、延々やりあうことになりキリがない。
 
自分勝手な気持ちで自己中に「キリ」を設定してはいけないのですが、楽山は、勝手に、終わりにして、食い下がれば、ストーカーと決めつけ、スルーと言って無視もするのです。こういう者を批判するときには、人格を問題とするしかないのです。まさに、人格に全ての問題があり、それだけが表れてきます。
 
楽山は、自分勝手が病気になると、こうなるという例なのです。誰も、楽山を相手にしないでください。批判するならば、人格を中心に批判するしかありません。総てが、そこから始まっています。あとは、何も成り立っていないということなのです。受け取っているように見えるのは、嘘であり、芝居です。
 
 
分かるヤツはすぐ分かる。分からないヤツはどんなに説明されても分からない。話が通じないヤツとの議論は、さっさと切り上げるべし。
 
先ず、楽山の書いた文章を分かる人はいません。分かったと思うのは、むしろ、だまされ、ごまかされている証拠だと思います。無反省で無責任で無神経に書かれた文章は、誰にも理解されることはないのです。「分からないヤツ」という乱暴な言い方に、楽山の傲慢が表れているのが分かると思います。
 
分からない、話が通じない、ということを、楽山が決めています。我執と我欲だけで生きているサイコパスの特徴です。だから、平気で、「さっさと切り上げる」と言うことができるのです。こういう人こそ、「分からないヤツ」であり、「話が通じないヤツ」なのです。
 
楽山が、アドバイスめいたことを言っても、決して受け取ってはいけません。精神衛生の問題として、さっさと切り上げて、というより、あらゆる個別のテーマについて、楽山の人格が問題であり、議論できない人であり、議論禁忌の相手であります。平気で、人を傷つけて、屁とも思わない病的人格です。
 
ただ間違っているだけではなく、それ以前に、議論できない病気の人格だということです。何を言って来ても、人格の欠損だけを指摘し続けるしかない相手です。あらゆる個別のテーマの議論において、楽山が言ってきたことは、有毒ガスと思っていたほうがよいと思います。ボンベが悪質なのです。
 
そういう人なので、楽山は、自分が悪趣味を楽しむために、人格批判禁忌を何度も言ってきました。治らないからです。インテリ気取りの、いい気持になりたいだけの、楽山の誘導の罠にはまらないために、相手にしないでください。いろんな言い回しを、しばしば使って、ごまかしてくるのが、楽山です。
 
 
その他いろいろ。
今回はこれらの教訓を破ってしまったところがあるので反省。
 
楽山は、反省しない人です。ボクって、ヨワくて、ごめんなさい、という、受けねらいです。気色悪いトホホ言語の反省芝居です。その虚偽については何度も何度も指摘してきたのですが、楽山には、欲望はあっても、教訓はないのです。教訓という言葉を言って、その都度、でっち上げてきた詭弁です。
 
 
*今回の教訓
今回の教訓は、事実に関する議論と、評価に関する議論はきちんと分けようということ。
自分は、この議論は、盗用の有る無しという事実に関する議論だと思ったのではあるが、よく考えてみたらこれは事実に関する議論ではなく、評価に関する議論であり、ある意味、価値観に関する議論に踏み込んでいたのだった。
自分は迂闊にもこの辺りのことを見誤り、盗用問題の議論は、事実に関する議論だと思い違いをしていた。これは失敗。ひたすら反省。
 
評価や価値観に踏み込まない議論はないと思います。どうあるか、だけでなく、必ず、どうあるべきか、ということは問われているのです。ゆえに、論者の人格のあり方は、いつも問われることです。そこに議論についての真摯さが表れてくるからです。その点で、楽山は、既に、まったくの欠格です。
 
このように、楽山は、言葉と理屈をもてあそんで、混乱させて、大事なことから逸らせて行きます。理屈の迷路に誘って、自分は分かっているふうを装います。事実を挙げるのは評価のためです。楽山の論理は、悪意の偽りによって、ダメージと疲労を与える強毒性なので、相手にしてはいけません。
 
 
*評価に関する議論
ちなみに、この手の議論はHS界隈ではよくある。
たとえば、代表的な事例としては、「大川隆法は仏陀か否か」というものがある。大川隆法は存在するというのは事実に関する話だろうけれども、「大川隆法は仏陀か否か」というのは、評価に関する議論なので、大方の人々が仏陀ではないと判断し、それが事実であったとしても、仏陀であると言い張る信者に意見を変えさせることは困難だということになる。
「霊言は本物かどうか」という議論も同じ構図だ。大方は霊言は嘘だと判断し、それが事実であったとしても、「霊言は本物だ」という信者の評価を覆すことはできない。
 
信条を覆すことは出来ない、ということを、まわりくどく、あたかも、論理であるかのように、言っている楽山です。このような、論者気取りに、どれだけの人が、だまされてきたのでしょう。楽山は、分からないくせに、でっち上げの屁理屈を何行も書いて、疲労だけを与えてきます。
 
信条の問題には、心情が深くかかわってきます。楽山は、人の気持ちが分からないし、高等感情の、悔いる心や、罪悪感や、思いやりや、共感が欠如しているから、こういう書き方しかできないのでしょう。柔らかい布が必要な時に、トタン板をガタガタ言わせて、働いているふりをする手合いです。
 
 
HSから離れて、極端な例を挙げるとすると、殺人事件にもこれと似た構図がある。ある人がある人を死に至らしめたのは事実としても、それが殺人であるか、過失致死であるかの判断については、一方が正しく、もう一方は間違いであるとはっきり決めることは困難だ。大多数が殺人と判断する場合でも、過失致死だと言い張る人にその判断を変えさせるのは難儀だろう。
 
殺人か過失致死かは、はっきり決められないで済ませていい問題でしょうか。何のために捜査と裁判があるのでしょう。それで、警察や裁判所は成り立つでしょうか。楽山は、誰か、殺すか、殺す予定でもあるのでしょうか。楽山は、先回りして、弁解しているのでしょうか。とても危険です。
 
殺人か過失致死かは、犯人が判断することではなく、社会の要請に応じて、警察と裁判が判断することです。楽山は、よりによって、とんでもない方向へ話を持ってゆくようです。事の重大さというものが全く分かっていないと、こうなるのです。真剣には何の判断もせず、責任も負わない楽山が表れています。
 
 
したがって、ある論文には他の論文と同じ文章がいくつも発見されたという事実に対して、大方が盗用だと判断したとしても、盗用ではないという判断を完全に排除するのは無理だ。ことに大川隆法は仏陀であり、霊言は本物だと判断する人がそのように主張する場合にはそうなる。
 
「盗用ではないという判断を完全に排除するのは無理だ」・・まわりくどい言い方です。一般的に、悪いことを排除しないでおくことはないのです。人間は、努力の経過で出来ています。努力しない楽山は、自分の嘘がバレるものだから「完全」は無理だと、部分否定と全否定を混乱させているのです。
 
意見を交わすのに、反対意見を「排除」する目的で、書くでしょうか。排除されるべきは、双方向の成り立たない無反省と無責任の楽山だけであります。楽山の、こういう理屈を見ることで、楽山が、言論者ではなく、相手に、混乱を与え、あらゆる解決から遠ざける人だと分かるのです。
 
ちょっと考えれば、分かると思いますが、当たり前のことを、楽山が、いかに、もったいぶって言っているかということです。元々低劣な理路が無理をすると、このような、蟻地獄のような、堂々巡りのような、原始的な、実に、まわりくどい話になります。
 
恐らく、楽山には、自覚がないのでしょう。高尚なことを書いているつもりなのです。・・君らには分からないかなあ・・とでも言いたげに。腐った人間性が、偽りによって、詭弁によって、生き延びようとしています。決して許してはならないと思います。
 
 
こうしてみると、やっぱり評価に関する議論はやっかいだし、深入りしてもしょうがないということになる。
 
厄介なのは、楽山という人格だけです。自分で、こじらせて、自分で、言い訳して、自分で、納得してゆくような、孤独な作業に明け暮れるしかない楽山です。
 
評価に関する議論は、厄介ではありません。正常な人は、いつも、やっていることです。誰も深入りしてなどいません。楽山が、独りで、迷惑な、空回りをしているだけです。
 
 
まあ今回は、盗用問題を話題にし、ネット上に記録を残せたという点ではよかったとは思うが、自分の中では上の区別…事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か…があいまいになってたところは、やっぱり反省しなくちゃならん。今度は間違わないように注意しよ。
 
「まあ」という、いい加減さで始めて、当たり前になされている「事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か」を、「あいまいになってた」などと言い、またしても、オチャメを装った反省芝居で、「注意しよ」という、いい加減さで、まとめたつもりになっています。もうバレているのです。
 
訂正・謝罪は、一切ないことを、見逃さないでください。自分のための辻褄合わせです。そして、それが、楽山という人格の産物です。楽山という成り立たない理路です。楽山という詭弁です。楽山という悪意だけの口臭なのです。
 
楽山の言うことを、本気にしたり、まともに受け取ったりしてはいけません。楽山は、何か、テーマや議論の方向を限定して書いていたのでしょうか、否、思いつくままに、好きなように書いていただけです。それが、自己愛性パーソナリティ障害の症状なのです。
 
事実を言い、根拠と評価を言い、判断を言う、それが言論であり議論であります。それが、全く整理されておらず、できておらず、殺人と過失致死の話にすり替えてピントをぼかして、お茶を濁している楽山の作為です。まともなことは、ひと言も言っていないと思います。
 
楽山のような病的に自己愛だけが強い異常人格を相手にするのは、とても疲れる作業です。できることは、こういう、話にならない人がいるという情報を公開し広めて、決して近寄らないように警戒を呼びかけることだけでしょう。
 
楽山の納得は、誰の納得にもなりません。楽山の言論は、誰の言論にもなりません。そして、何の意義もなく、何の糧にもならないのです。ただ、やたら、病的な疲労をもたらしてくるだけです。腹が立っても、不治であるために、無視して、深入りしないようにしてください。楽山は不治の悪疫なのです。
 
 
絡みつく悪意

絡みつく悪意
 
 
(2021年02月08日)
(2022年02月12日、再録+加筆)
 
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
誰のものなのか
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
誰のものなのか
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
誰のものなのか
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
だまし言葉を、山のように使って、そして忘れて、反省は言葉だけ書いて、実際一度もしたことのない楽山です。楽山は、今まで、本当の好意も小さな親切もなかっただろうと思います。楽山の、化膿創のような根腐れを開いて見るのは、誰も楽山を相手にしないで済むようにという目的があるからです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
このたとえ話は、すごく分かりやすい。
以前、当てこすりを繰り返す相手に、度々、反論をしていたら、「しつこい」「粘着質」とレッテルを貼られ、悪者にされてしまったことがあったが、こんな風に切り返しとけばよかった…。
 
楽山の無理解は悪意の病質ゆえなのでしょう。「しつこい」「粘着質」は、まさに楽山の言論の筆致であります。しかも、ことごとく無根拠なのです。言われて当然であります。しかし、楽山は反省もせず、改めることも出来なかったのです。楽山が、他者に何か言うと、それは楽山に当てはまります。
 
したがって、楽山の言は、「当てこすり」、そして、相手を悪者にして決めつけることです。それ以上の「反論」など、一度も出来たことはありません。理路の整わない楽山は論理など全く持っていません。ゆえに「反論」も出来たことはないのです。もはやブーメランに振り回されているだけです。
 
(引用リツイートに書いてあったこと:)
自分がルール違反を繰り返すのを棚に上げ
 」
 
無反省、無責任、無視、詭弁、嘘など、言論のルール無視、および、マナー違反を繰り返してきたのは、楽山です。またしても、自分が言われそうなことを、他者の言を悪用して、批判者に向けています。今までの経過が、楽山を既に否定しているのです。どこまで汚い詭弁屋なのでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「本人が変わるかどうかは本人の問題。」
宗教信者には、他人に対して改心を強く迫るなど過干渉気味な人が多い印象があるせいか、
信者さんがこういう課題の分離というか、個人主義的な発想をしているのを見ると、すごく意外だし、新鮮な感じがするなあ。
 
悪と偽善に対しては、批判と告発があり、「過干渉」とは言いません。個人主義と、自己中心とは、違います。反省と学習と成長のない楽山は、苦し紛れの断末魔的な詭弁を弄しています。
 
(楽山が引用したリツイートです)
本人が変わるかどうかは本人の問題。
あの世には閻魔も赤鬼もいますから、この世でどうなるかに拘泥しません。
われわれが為すべきは、惑わされる人を減らすため、周りに啓蒙したり警鐘を鳴らすこと。
これは同時代に生きるわれわれの責任でしょう。
 」
 
引用元は書いています。「為すべきは、惑わされる人を減らすため、周りに啓蒙したり警鐘を鳴らすこと」・・楽山は、視野狭小のために、墓穴を掘っているのです。「同時代に生きるわれわれの責任」・・まさに、そういうことです。楽山が自分に都合の良いことしか受け取っていない証拠です。
 
 
 
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  固定観念2
 
 私の記事「先入観から固定観念」
 加筆して再録。
 
 
書かれた文字や言葉で平板な宗教概念しか受け取っていないことを指摘しても、宗教や信仰を知っているような固定観念からの見なしを語る癖をやめない楽山です。楽山の本質は、無宗教ではなく、反信仰・反キリストだと思います。
 
信仰は自分を空しくすることですが、楽山は、他者も、宗教と信仰をも、自己中心に、自己の下に、見ているということが表れているからです。
 
 
  ふりだしに戻る(抜粋)
  2019-12-30NEW !
 
思想宗教は、青年期以降にいろいろ凝ったり、かぶれたりもしたが、結局はもとの無宗教に戻ってしまった。自分にはやはり特定の思想宗教によって定められた教義や価値観に則って考え、行動することはできない。
 
宗教は信仰のためにありますが、信仰は、教義や価値観に従って考えたり行動したりすることではありません。メニューの中から、気に入った思想内容を選んで信じ込むのが信仰だと思い込んでいて、いつも、自己中心の思想からしか見ない楽山のような人には、届くことのないものです。
 
一巡した後で、元に戻ったというのは、そう珍しくはない話だけども、どうも自分もあらゆる面でそうなっているらしい。元に戻ったというところだけをみると、それまでのことは無駄であり、徒労にすぎなかったようにも思えてくるが、ずっと同じところにいたのと、いろいろなところを巡って還ってきたのとでは、大分ちがうだろうし、経験という点では益があったと思いたい。
 
「あらゆる面で」「元に戻った」なら、楽山には、成長がないということです。その原因は、体質的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による無反省と無学習ということになります。実際、楽山には、そのような、嘘と詭弁の証拠だけが明らかになってきたのです。
 
楽山の一巡は、いろいろなところを巡って、自らの固定観念という基準で、気に入った商品はありませんでした、というような受け取り方ですから、信仰とは、かけ離れた物見遊山の散歩をしてきたに過ぎないので、そう告白されても、意味はないと思います。
 
楽山は、信仰とは関係のない所を、堂々巡りしているだけなのです。そのような態度では、救いも恵みも気づくことはありません。そのことに、まるで気づかずに、我執によって、ペンを控えることをしないのが、楽山の高慢の表れです。そういう人の心には信仰は生まれません。
 
 
  罪の意識を利用して、人を操る?
  2019-12-30NEW !
 
加藤諦三さんの本はあんまり読んだことはないが、ツイッターに流れてくる言葉を読んでると、なるほどと思えるものは多い。たとえば、これとか。
(加藤諦三bot @心理学@katotaizobot )
相手の言うことに逆らったり、抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう時には、相手は要注意人物である。多くの人は罪の意識から相手の言いなりになる。そこが相手の付け目なのである。<
 
「抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう」なら、まず、自分の理非を考えるべきですが、楽山は、ダイレクトに、「相手は要注意人物である」と言っています。これこそが、楽山が、自己正当の妄想者である証拠です。つまり、要注意人物の楽山が、要注意人物と批判しているのです。
 
キリスト信仰では、罪の意識は、神に対して持つものです。楽山のような、人をだます詭弁屋に、罪の意識を持ってしまうと、隷属しかなくなります。決して、楽山を、まともに聞いてはいけません。
 
こういうことは考えたことはなかったけど、過去を振り返ってみれば、「これを断ったら可哀想かな。冷たすぎるかな…」とか、「前にも断ってるし、そう何回も断るなんてできない」なんて考えてしまって、断りたいのに断れないという困った状況になったことはあった。
 
困った状況になるのは、楽山が、相手の意見を平気で無視して、受け取って、考えて、必要なら反論か弁明をするということが、全くできない無反省だとということを表しているのです。
 
上のツイートのような見方を知ってみると、それこそが相手の狙いだったのだろうか。考えてみれば、そういう時の相手はやっかいな人が多かった。申し訳ないけどできないと断ると、怒って噛みついてきたりとか…。
 
「怒って噛みついてきたり」・・被害者意識しかないのが、楽山の特徴です。これは、だますための芝居です。楽山の自己中、自己正当化、不祥事は、全て、人のせいにするという病質の表れです。どんどん白々しさが明らかになってゆきます。
 
「冷たすぎるかな…」・・「かな」ではなく、楽山は、共感からの思いやりのない冷たい人です。それを隠すために、「かな」とか「断るなんてできない」と書いて、思いやりのあるふりをして、そのあと「やっかいな人」と書き、相手を「怒って噛みついてきたりとか」などと、結局、否定するやり方です。
 
宗教を、ホラー映画の超常や、世辞や社交の関係でしか考えない楽山です。真実の追求という大きなテーマにおいては、しっかり受け取り、真剣に返すことが大事になりますが、楽山は、趣味や道楽としてしか見ていないのです。その上での理屈遊びなので、何も実はないということです。
 
楽山は、人を思いやることができない人です。約3年間の言説に見られたのは、どこまでも自分基準で物事を訂正不能に決め受ける狭量だけです。
 
「可哀想かな」「何回も断るなんてできない」なんて、真っ赤な嘘の芝居でしょう。「断りたいのに断れない」・・いいえ、気に入らないことは、総て平気で無視してしまう人です。
 
この楽山の記事は、自分が無反省・無責任であることを指摘されて、弁明できないために、相手を、いじめっ子のような立場に、おとしめて、つまり、上から見下ろして、同情を引き、かつ、相手を否定するために書いている詭弁の悪口に過ぎません。
 
なんだか、そういう狙いで圧迫してきていたのだとすると、断ることに引け目を感じていたことがバカみたいだ。よし、今度からは、断る時には余計なことは考えず、きっぱり断ることにしよう。
 
このように、結論は、断ること、無視すること、聞かないこと、否定することに、全く、引け目を感じないことの、自己正当化になっています。こうやって、何か言われると、肝心なところは無視して、まわりくどく、相手をおとしめてくるのが、楽山の常道ですから、相手にしないでほしいと思います。
 
断るか否かの前に、上に書いたような、思想を、まるで品物でも選ぶような態度なら、宗教も信仰も語る資格はないということです。楽山には、知らない、分からない、という謙虚ということに相応しい自覚が欠けているからです。まさに、無反省の自己中の産物です。
 
大きなテーマについて、勝手なことを書いて、責任は負わない、反省はしない、ということでは、いかなる話し合いも交流も成り立ちません。
 
否定を書いて、あとで、肯定のようなことを書き、どちらとも断定していないから責任問題は発生しない、などと言っていたのが、楽山です。つまり、楽山は、非常識で病的な精神から、病的疲労を与えるだけの人として、批判して楽山の情報を積み上げ、相手にしてはいけないことを広めるしかないのです。
 
信仰・宗教・思想は、思い付きで世間話・辻褄合わせ・噂話・世辞・悪口を語ればいいような、どうでもいいようなテーマではないのです。
 
蛇足ながら、メタリカのドキュメンタリーを見てたら、ジェイムズ・ヘッドフィールドが歌うことをきっぱり拒否する場面があったのだった。自分は喉が痛い、もう限界だ、だからこれ以上歌うことは御免こうむると。
自分はどうも根がどこまでも優柔不断でお人好しにできているようで、取り付く島もないほどきっぱりした拒絶は気が引けるのではあるが、今度からはジェイムズ・ヘッドフィールドになったつもりで、断るべきことは断ることにしたい。
 
まず、ミュージシャンが歌うのをやめることをあげて、らくざんが反省せず責任を負わないことを、、同次元で語ることは出来ません。信仰を知らないのに信仰を語るという酷い詭弁の偽善です。楽山は、書けば、的を外してばかりです。楽山は、人が悪いどころではなく、明らかに害毒です。
 
楽山は、はっきりした意見を持てない人です。楽山は、決してお人好しではなく、悪意の人です。このように、信仰を、軽く扱って書いて、おとしめて、気持ちよくなりたいだけなのです。
 
 
  宗教の押しつけ
  2019-12-30NEW !
 
・海外「日本人はキリスト教徒的なのに…」 カトリック司教が語る日本での布教の難しさが話題に|パンドラの憂鬱
コメント欄を読むと、宗教の押しつけに対する嫌悪感はすごい。一神教もイメージはよくないようだ。
信者側からすると、私はこれで救われたという思いや、これこそ正しい宗教だという確信が強いほど、布教活動に熱心になるのだろうけど、一般人からすると、熱心に宗教をすすめられるほど、たとえそれが善意によるものであったとしても、押しつけと感じて迷惑するのだろうから、布教活動にまつわる問題はややこしい。
 
「一神教もイメージはよくないようだ」・・これは、明らかに、一神教の悪いイメージを刷り込む印象操作です。楽山が身に着けてきたことは、真実追求への深い思考ではなく、嘘と詭弁だけだということが、明らかになってきた約3年間でした。
 
楽山は、いつものように、反宗教・反信仰の宣伝に専念して、印象操作をしています。楽山は、一般人ではなく、宗教と信仰に強い偏見を隠し持っているので、宗教と信仰についても、一般にとっても、特別に、特殊に、有害だと思います。まともに交流も議論も出来ない人です。
 
一部の狂信者をもって、信仰全体を否定することはできません。批判には、信仰を、ある程度、人間として常識的に理解しておくことが必要ですが、このように、楽山は、宗教・信仰に、ケチを付けようと、悪い例だけを漁っているのでしょう。楽山の自己愛を満足させるためだけに考えている体質です。
 
実際のところは、信仰観は人それぞれであってそれを一つにまとめ上げることは不可能であろうし、もし仮に唯一の正しい信仰があったとしても、人がそこに辿り着くには各人に定められた時があり、その時が来るまでは周囲がいくらやきもきしたところでどうにもならず、その時を早く招き寄せようと焦って働きかけても相手の心を頑なにするばかりでかえってその時を遠のかせることになりがちでもあり、結局は周囲にできることはその時が来るまで見守り続けることくらいしかないのだから仕方がない。
 
楽山は、空想で、悪口を言っています。楽山の言うことは、宗教と信仰に、楽山のような者が、介入するときでしょう。楽山は、混乱と疲労を人に与えますが、理解もヒントも与えることはありません。いつまで、嘘と詭弁と妄想で、社会人のふりをするのでしょう。楽山の精神は、反社会的です。
 
信仰観?、楽山の場合、訂正不能の信条ですから、反信仰観であります。しかも、安っぽくて深みのないものです。楽山は、自己満悦感に生きているので、事実と言葉の選択も歪んできます。そのベースから、宗教も信仰も、余計なおもちゃと見なしているだけなのです。
 
宗教の強制や強制的態度は硬派カルトの特徴です。真実の宗教と信仰は、強制など出来ないことを本質とします。楽山などの、丁寧語を使う軟派カルトは、自己肯定の妄想的信条を持っており、楽山の文章には、いつも、表れています。ほのめかして婉曲的に誘導することを手段としているのです。
 
アドラー教にならって、自己中を広めている楽山は、カルトを批判しているように言っていますが、楽山のやり方は、ボンヤリ言語によって、"一般は・・ですよね的な" 印象を植え付けようとしているのでしょう。こういうやり方をしてくるのが、軟派カルトの特徴なのです。
 
高圧ではなく、空約束でもなく、印象を吹き込み、刷り込んでくるのです。この記事も、はっきり言わずに婉曲的な書き方をしています。これは、言論において卑怯なやり口ということになります。
 
楽山に「見守り続ける」などというスタンスはないと思います。書いたように、共感からの思いやりがないからです。楽山が何か書くたびに、楽山の冷酷な恣意から何ごとかを吹き込んでくるわけですから、楽山に見守られることは、人格の隷属と破壊を意味します。
 
こういう考え方は、心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者には受け入れがたいことだろうけど、自分はかつてとある新興宗教に凝り、伝道活動をした経験からすると上のようなパターンは多かったし、
 
「心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者」・・こういう大袈裟な書き方は、揶揄でしかありません。対象が見苦しいことを強調する書き方です。信仰熱心は、沸騰ではありません。楽山は、実に、質の悪い男だと思います。
 
このように、楽山が、硬派カルトを批判しながら、自身の軟派カルトの刷り込みをしたり、クリスチャン芝居をしたり、批判されても書こうという執念深さを思うと、楽山の発言は、とんでもない企みを持っている確信犯の企み、あるいは、パーソナリティ障害の不治の症状、と判断せざるを得ないのです。
 
そのせいか宗教とは距離ができた今は、宗教を信じている時に必要なことは、人を裁いたり、善導しようとお節介をすることより、まずは自分を律しつつ、相手を信じて待つことではないかとつくづく思うようになった次第である。ちなみにこれは、宗教の布教活動だけでなく、その反対のカルト信者に対する脱マイコン活動についても言えることだと思う。
 
楽山が、自分を律するなら、楽山は、去るしかないのですが、楽山は、無反省・無責任ですから、他者に対しても、誠意があるような芝居をするだけで、本当の真摯な態度を持ちません。だから「信じて待つ」などということは、最初からできない人です。
 
宗教を信じることが、害であるかのような誘導をしています。宗教・信仰は、いい加減でよい、という刷り込みをして、無信仰~反信仰を刷り込んでゆくのが楽山です。ゆえに、決して信頼せず、相手にせず、楽山を、批判しないのであれば、相手にしないのがいいと思います。
 
少なくとも、キリスト信仰においては、神の前の正直さにおいて、いい加減であってはいけないのです。そこを、楽山は、カルトしか知らないくせに、宗教の悪い例だけを挙げて、宗教全体を踏みにじっています。これは、カルト批判ではありません。双方向の批判を、決めつけの悪口におとしめる企みです。
 
自分を律するということが自己愛の強い楽山にはできないのだと思います。そして、硬派の高圧的態度ではなく、遠回しに、自分は一般人ですよ、という立場で、すりこみ、ふきこんで、ほのめかして、マインドコントロールしてゆくのが、軟派カルト楽山の手口のようです。
 
 
固定観念、固着

固定観念、固着
 
 
(2020年01月02日、同日一部修正)
(2021年01月15日、加筆して再録)
(2022年01月17日、一部修正)
 
 
 
  歌えない傷
 
モチーフモチーフと
擦り合わせる空白だけは持っている
涸れた乾いた干割れたと
よく効く軟膏を欲しがって
塗られたがる傷だけは持っている
すこぶる順調です
歌えないことをモチーフに
空白を合わせて塗り固めて
設(しつら)えた線路は
白い海に向かっていて
レールは汽車を乗せ
汽車には傷が乗り
傷は何も乗せていませんから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いつまでも、何年たっても、訂正不能の自己愛に執着して、人の意見を聞かない、そして、考えない、それで通用すると思っているのは、もはや、妄想の無自覚の信念とでも言うべきものです。経験から学ばず、こともの頭のまま、宗教と信仰に、とやかく言っても、迷惑~有害なだけで、何も収穫などないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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