ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:訂正不能

 
  神様がしないこと2
    2013年02月25日の記事を再録+
 
 
相当に昔の記事の再録+必要なら修正・・ということです。
 
全知全能の神がしないことは何でしょう。最初は、「出来ないこと」という題でした。罪を認めず、悔い改めないで、かつ、傲慢な人は、救いを求めていないので、救われないでしょう。しかし、これは、必然か、裁きであっても、出来ないこととは言えないので、「しないこと」に改めました。
 
 
全知全能の神を創造すること。創造できたとしても、どちらも全知全能ですから、意思も判断も行動も同じになる。それは唯一神と同じことです。神は唯一であると同時に総てであるという言い方も出来るかもしれません。三位一体も、そういう受け取り方をしています。
 
 
全知全能の絶対者である創造主、神は、御自身が造った人間を含めた被造物を壊すのに、これこれこういう訳だからね、云々と、いちいち説明する義務はないのです。
 
これには例えば、
聖句「神は生ける者の神であって死者の神ではない」は、生ける者に対してだけ発せられた言葉であって、神は全知全能の絶対者であるから死者も統べられる。ただ、どう統べられるのかは、地上では、分からないということだろうと思います。
 
ゆえに神は、人知を超えて、死者を含めて、すべての者を救う・・ということが言えそうに思われます。つまり、死は、壊されることではないのかもしれない、とも思います。しかし、このことに、地上での完璧な理解と説明は存在しないと思います。
 
死者の救いについての推測や想像としては自由ですが、それを結論や確信とすることは、これこそ生きている間が全てとしか思えない人間性から乖離して、人に分かりもしない神の意志と行為を、人が人知を超えて結論付ける、という、神の領域への、成り立たない越権行為と言うべきでしょう。
 
神の救いは、完全には、地上の人には理解できないのです。人には、神がすべての人を救っているとは思えないのです。神の幸いならば、キリスト者は、既に、潤い、温もり、共感、愛として受け取っていると思います。それは、絶対孤独からの解放という救いとして、人に起こります。
 
神への想いから離れられない人を、キリスト者(クリスチャン)と呼びます。
 
 
聖書を読むことも、聖書を文献的考察や歴史的背景から、また文脈から考えることも、一言一句を文字通り受け取ることも、神や聖霊について「感じた」「聞いた」「癒された」も、人の直感や霊感も、人の側の信仰の受け取り方、即ち、解釈に過ぎません。
 
私たちは、私たちの心で、言葉も、御言葉も、解釈して受け取っています。そして、生き方を判断し、努力し、生きています。
 
神の業(わざ)を、人が確認する根拠は人の側にはありません。人の確信は、神については不可と考えます。即ち、信仰は、確信ではないということです。
 
原初の信仰から原罪を覚え始めながら、信仰の言葉がどう生きてくるかを考え悩みながら、人である信仰者(キリスト者、クリスチャン)は、決して神の確信ではなく、罪深い心からでも、神への深い想いによって生きるのです。何が救いか分からないところで導きは進行しています。
 
キリストを好きになった原初の信仰から、すでに罪深い思いでした。しかもそれは絆(ほだ)されるように、否応なしに、私の自由意思を左右したように思えることがあります。
 
キリストは、赦される罪と、赦されない偽善を、区別しました。聖書には、神によって全ての人が救われるのではなく、キリストの敵となりキリストを殺した偽善者が赦されないことを伝えています。しかし、罪が赦され救われるためには、正直に祈ることだけが、必要十分条件であります。
 
今の時代にも、反キリストが、あざ笑いと、偽善と、幼稚な詭弁と、虚言をもって、言葉だけ丁寧に丁寧に、神を否定し、信仰者を侮辱してきます。彼らは、不正直で神を侮ることをもって、救いからは外されるでしょう。
 
しかし、信仰者ではなくても、神が、良心のある人を選んで、信仰を通さずに、何からの使命を与えることは、否定できません。救いの可否は、信仰の有無だけではないような気もします。
 
私は、自分の信仰観をブログに書いています。私という人間の意見に過ぎないので、訂正不能ではありません。もっと良い考えがあれば、感動とともに、修正するでしょう。30年以上、何度考えても、他に考えようのないことがあり、そこが変わることは考えられないので、書き続けています。
 
つまり、信仰は、訂正不能ではないけれど、変わることのないところ、変えてはいけないことが、やはり、あるだろうとは思います。そこを、外してしまうと、もはや信仰ではないようなことがあるのです。信仰は "愛" と同じことですから、言葉で完璧に表すことは出来ないのかもしれません。
 
 
絆される、絆

絆(ほだ)される、絆(きずな)
 
 
(2013年)
(2021年12月14日、再録+)
 
 
 
 バカとモンスター
 
いかなる道を選んでも
 
集団や組織の中で
しきたりや規則に染まりながら
(マニュアルは指針であって心ではない)
いずれ競争を強いられ
慣れる人もいるだろうけど
 
たとい孤高を目指しても
孤高は孤独な孤立なのだが
 
いかなる道を選んでも
 
論理に身を投じる人は
論理つまり理屈だけだと
人間離れしたモンスターになるから
論理バカを自覚することが救いになる
 
情緒に身を投じる人は
情緒つまり感情だけだと
感情的なモンスターになるから
情緒バカを自覚することが救いになる
 
「バカ」が
とても人間的ならば
 
専門は
専門バカを自覚することによって
改めて我に返り
人間に戻れるだろう
 
「バカ」を忘れて
専門の権威を自負するようになれば
「権威」というモンスターになる
 
「バカ」を自覚する人
自覚せざるを得ない人は幸いであり
 
自覚しない人と
自覚してるつもりだけの人は
災いであります
 
論理でも情緒でもなく
人間であること(ヒューマニティ)から離れず
人道からの道理を求めて止まない経過と結果が
たとい路上でも小屋でも豪邸でも
呆けた口笛のの自由な散歩だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
 
 
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  被害的・他罰的2の2の2
 
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   楽山日記(a)2019-11-21 に対する批判を加筆して再録。
 
 
実際は、 「st、shalom 問題」ではなく、 「st、楽山、shalom 問題」であり、最も大きな問題は、楽山の、無反省・無責任・訂正不能・自己愛性病質であります。
 
・shalomさんが、stさんのことを自他未分化と批判してた。
初めて聞く言葉なので、その意味ははっきりとはわからないものの、字面からゆくと、一理あるかもしれぬとは思う。
 
ここで、はっきり、私が自他未分化、ということに、「一理ある」と賛同しています。おとしめる発言の重大性を考えれば、「かもしれぬ」は、付けても付けなくても一緒です。婉曲表現を重ねながら、だんだん、シャローム寄りに導いてゆこうとする作為です。
 
「意味ははっきりとはわからない」のに「字面から」「一理あるかも」という楽山の破綻です。字面しか見ないことだけが、楽山に当てはまります。「かも」・・ボンヤリ言語です。まだ、通用すると思っているらしい。
 
シャロームこそ、人間としてあるべき分化・成長をしていないと思います。何故なら、神と自分の区別もつけていないからです。いつも神の啓示と聖霊の導きだと訂正不能に確信して、どこにも届かない妄想教を捏造し、教えようとします。
 
これは、神と自分の区別をつけず、自分の作為で神を利用して、都合が悪くなったときの、苦し紛れの逃げ口上なのです。信仰の始まりとして、神と人という区別をつけていない未分化は、決して信仰とは呼びません。
 
元牧師を自認するシャロームは、神と人の区別をつけない真っ赤な偽牧師です。聖書を悪用する冒涜者です。常に、徹底的に拒否し、根こそぎ否定しなければいけません。楽山の成りすましの可能性も考えておかないといけません。
 
人間としての身の程を弁えないと、シャロームのように、神の立場から人を裁いて、ふんぞり返るようになります。そういう神と人の区別が、信仰も宗教も知らない楽山には分かるはずもないのです。同一性障害、自己愛性人格障害に、見られることです。
 
stさんは、楽山に対して、shalomさんと口を利くなとか、あれこれ命令してきて、楽山が独立した人格であることに、てんで気づいていないようだったので。
 
そう言ったかどうかは覚えていませんが、少なくとも、今は、楽山とシャロームには関わってはいけないと思います。シャロームも楽山も、独立した人格ではなく、受け入れれば、社会悪につながるような狂った判断に誘導してくる同じ穴のムジナとして同調していると判断しているからです。
 
・もう一つ、shalomさんがstさんのことを、自戒と他戒の区別がついてないとか批判してたことがあった。
そう言われて見れば、stさんが訂正不能はダメとかいうのは、訂正不能にならないようにしようという自戒というより、shalomは訂正不能だからけしからんと裁くことに使われてた。偽善とか、その他のことについても同様だ。
 
訂正不能にしてしまう人格障害だから、成長がなくなり、今に至っているのです。訂正不能を批判するのが、どうして「裁く」ことになるのでしょう。被害的とは、このこと。「けしからん」などと、感情的な言い方はしていないと思いますが。
 
私は学習を意識し努めています。ゆえに訂正可能です。楽山もシャロームも、こちらが訂正するような示唆や意見を言ったことが、一度もないだけです。このことも、何度か書いてきたのに、受け取っていないようです。
 
シャロームは、訂正不能の妄想を豪語し、楽山は訂正不能の偏見から理路にならない決めつけを、曖昧ボンヤリ言語で、一方的に並べるだけなのです。決して近づかないでください。彼らは、常に明らかに異常です。冷静を装いながら、理路ではなく、メチャクチャになる特徴の二人であります。
 
誰よりも、自戒が出来ず、他戒にもならない嫌らしい当てつけや、嫌がらせをしてくるのが、楽山とシャロームであります。今回もそうです。自己愛性パーソナリティ障害は不治の病のようです。読み返してみると、なおさら、楽山の卑怯さと狡さが、身にしみて感じられます。実に嫌らしい。
 
・shalomさんはお話し好きなようで、他のブログのコメント欄を訪問することがよくあった。でもそうすると、そこにstさんが突撃して、shalom批判を連投していた。
そういう場合、そこのブログ主さんは、shalomさんとは対話しても、stさんはスルーしてるようであった。
 
私は警鐘を鳴らしているだけです。シャロームは、他のブログの言い分を理解していないのに、他者の言葉にシャロームのゴタクを混ぜて、褒めあげるという卑しいやり方で悦に入るという常習の性癖があります。だまされないでください。
 
楽山とシャロームは、病的な自己愛からの、だまし好きであって、お話好きではありません。二人は、深い意味では、誰とも話が通じない者たちです。だから口数は多いでしょう。シャロームは、妄想からのベタ褒め讃美、楽山は、曖昧ボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語が特徴です。
 
・易坊さんはいつどや、stさんと楽山はさびしいんだと思うとか、友達を欲しがってるとかそんなふうなことを言ってて、私はいまいちピンとこなかったのであるが、今はstさんはそういうところはあるように思う。
 
実に、余計なお世話であり、同情とは全く別の、楽山の軽蔑のやり方でしょう。シャロームもそのような同情めいたことを言うことがありますが、結局、自分を高みにおいて、相手を哀れで未熟な者として下に見ることが目的です。
 
つまり、さびしいんだ、友達を欲しがっているんだ、という決めつけは、それだけ、相手にされない哀れなやつ、という、おとしめに他なりません。楽山は、今回も、婉曲的に、持ち前の嫌らしさを出してきました。
 
相手を、低く見なすための、一種の常套手段なのです。同情の言葉など通用しない状況でも言ってくることで、バレる嘘なのです。上から見下ろすことばかり考えて、ふつうに思いやることの出来ない、というシャロームと楽山の特徴で、ゆえに、一人による成りすましを疑っています。
 
二人とも、相手を低く見て、シャロームは教師として教えようとし、楽山は注意・忠告のような書き方をしてきますが、そういう上からの話は無礼だから控えるべきなのに、自分を見ることが出来ないために、分からないのです。親切ごかし、そして、偽善です。
 
話し合いをする上で、平等だという大事なことが分からない二人なのです。決して二人と話し合ってはいけないと思います。付き合い続ければ、異常・病気が体質として刷り込まれる可能性が高いです。自分を見ないゆえに反省せず、ゆえに他者の気持ちが全く分からない自己中なのです。
 
shalomさんと私が話をしてると、強引に割り込んできたし、人は人、自分は自分という風に、他に過干渉することもされることも回避する考え方に、猛烈に反発するのはそのせいかなと。
人恋しい人が、スルー推奨という考え方に賛同するわけもなかろと。
 
コメント欄では、そういうことはあるわけだから、それを異常と思うことが、むしろ異常です。答えられないものだから、今、いちゃもんを付けているだけです。私は、人恋しくても、楽山とシャロームに、それを向けることなどあり得ません。
 
スルーということで言えば、二人は、都合の悪いことを、スルーといって無視します。自分の都合の良いことだけを発言し、注意・批判をスルーするなら、交流も議論も成り立ちようがありません。
 
こういうことさえ、理解しないのが、楽山とシャロームなのです。都合の良いことだけ言って、都合の良い世辞しか受け入れないような相手と、いったい誰が交流し議論できるというのでしょう。
 
人は人、自分は自分、というのは、人格として独り立ちしていて、それぞれに、責任感のある人間同士に成り立ちます。楽山とシャロームは、人の気持ちも、人の迷惑も、何も考えてない者たちです。今回も、一方的主張で、私をおとしめています。それが、自己愛性人格障害という病気なのです。
 
・そんなこんなで、私の立ち位置は少しずつshalomさん寄りになって行ったのではあるが、私が、過干渉はよくない、人は人、自分は自分、人それぞれをよしとする記事を出したことが決定的となったようで、以降、私はstさんから、shalomさんと同軸だと判定され、批判対象とされるに至った。
 
楽山の宣伝と詭弁に合うような「そんな」も「こんな」もありません。人それぞれを、自己中正当化に使うのは、シャロームも楽山も、同じです。楽山やシャロームと荒らしの易坊を易坊類と呼んでいますが、一人による成りすましではないかという疑いがあります。
 
自己中心、無反省、無責任、訂正不能、罪悪感と羞恥心の欠如、災いを人のせいにする、人の言うことは聞かない、だけど言いたいことは言う、という点において、楽山とシャロームの二人は共通しており、同軸であります。ゆえに、許容してはいけない言論の妨害者です。
 
それ以降は、私もshalomさんと同じく、やることなすこと全否定されることになった。
ただstさんの楽山批判は、自分の見た範囲でいうと、私の意見を曲解、歪曲したうえで非難したり、私の内面を邪推したうえでボロクソ貶したりで、私怨まる出しで読むに堪えないものばかりだった。
 
全否定に相当することをしてきたのは楽山であります。批判に対して、反論も弁明も成り立ったことがありません。まるで根拠がなく反省が見られません。楽山の災いは、ずっと書いてきました。それでも、ここでも、記事を書き、正常人のように振る舞う楽山の、もはや腐敗臭です。
 
楽山の記事について、私の批判が曲解・歪曲であるという根拠と例示などを上げての説明を、楽山は、一切していません。何を、勝手にまとめて、根拠もなく、言っているのでしょう。それも、言い逃れであり、無根拠の誹謗中傷以外、何も出来ないことの証しです。
 
楽山の文章は、ストレートな批判より、さらに罵詈雑言よりも、はるかに質(たち)の悪い、当てつけと嫌がらせで出来ています。そこが分からない楽山だから、丁寧に書いておけばよいという気安さで、人を侮辱しているのです。
 
ボロクソ節の豪語は、シャロームの得意技です。私怨ではなく、社会悪につながる危険があるから、批判し、二人のことを広く知らせる必要があるのです。極めて偏った人格の二人です。丁寧語に騙されないでください。
 
stさんのshalom批判を見てるときは、stさんの文章をここまで酷いとは思わなかったけど、こういうのは自分が批判対象になると、どこが曲解、歪曲、邪推かよくわかるし、その酷さをはっきり認識できるもののようだ。そういうわけで、今は前以上に、shalomさんに同情しているし、当初はshalomさんに批判的で厳しすぎたようで申し訳なく思う。
 
酷さを認識できるなら、根拠を説明できるはずですが、楽山は、まともな理路を組み立てることが出来ないので、根拠を示せず、このように、決めつけて文句を言うだけになっています。つまり、どこまでも、ストレートではなく、とても汚いということです。
 
そして、「酷さをはっきり認識できるもののようだ」と書いていることに注目してください。「はっきり」と言いながら、「もののようだ」と、やわらげて、あとで、断定していないから責任問題は発生しない、などと言うのが楽山です。楽山のボンヤリ言語と呼んでいます。
 
これが、恐らく体質的な人格の異常からの作為と悪意の誘導であり、結論であり、ずっと訂正不能であり、ときに悪口の機関銃みたいに書いてくる楽山の正体なのです。一切、根拠が示されていません。一見、分析しているふりの丁寧語にだまされないでください。
 
楽山から見て、酷くない文章というのは、楽山の文章なのでしょう。しかし、私から見れば、楽山の文章は、自らの人格破壊を表し、他者に人格破壊をもたらすだけの劣悪な文章です。真摯な中身が何もないような楽山の文章は、気取っているだけのイカサマの粗悪品なのです。
 
批判というものは、自分に向けられたとき、不当に思われ、被害的、他罰的になりやすいものです。そこを自覚し反省し克服できる人が、真実の追求に向いています。楽山の言っていることは、真逆であり、楽山の好む議論?は、空っぽの世辞の世界でしかありません。
 
楽山は、自分が批判対象になって、ますます、その反応に理解力のなさが目立ってきています。今回の記事も、最近の記事も、それを表しています。省みる姿勢が何も感じられません。特徴的な丁寧語によるボロクソ節を言うことに躍起になっている楽山です。
 
・以上、この件についての顛末はこのようなものである。
こんなことを書くと、ますます恨まれて粘着されるだろうことは予想されるけど、このようなことは何回も繰り返されてきたようだし、今後、面倒に巻き込まれる人が出ないように記事にしておいたつもりである。
もちろんこれは私から見た顛末であるし、相手には相手の言い分があるのだろうから、この問題に興味がある人は、相手方のブログも確認してみたらよいと思う。
 
楽山の理路は、相手のせいにし、相手を責める一方向に固定された前提から、駄々を捏ねているだけの子どもだましです。「粘着」するような魅力を、楽山は一切持っていません。楽山には、真実追求のテーマを扱うブログの世界に、いてはならない人です。
 
「相手には相手の言い分があるのだろう」という、相手の言い分を、受け取って、考えて、返すのではなく、上から否定し、悪口だけを並べてゆくのが、楽山・シャロームの議論?なのです。つまり、相手の言い分は勝手にあるだけで、受け取らないという無関心と無視を表すことになります。
 
楽山という面倒は、全く自覚のない粘着性の訂正不能の自己愛性の病質者ですから、誰も関わらないように、相手にしないように、近づかないように、心から願って、批判し続けています。
 
・ついでに、この件での教訓を書いとくと、
ネットストーカーとか、
他人を攻撃せずにはいられない人とか、
サイコパス、人格障害とか、
その手の知識は前もって知っておいた方がよいということ。
これ、ほんと、大事。
 
このように、気に入らない相手には、自分が言われそうな見なし、ネットストーカー、攻撃だけする人、サイコパス、人格障害、などと、逆に、決めつけてきます。自分が言われそうなことを何の根拠も示さないで相手に当てはめて、まともに返したつもりなのです。
 
思慮がないというか、結論だけというか、話にならない人です。こういうことが、ずっと続いてきたのです。楽山とシャロームに対して、善人芝居と詭弁と嘘という偽善の予備知識は「ほんと、大事」です。
 
しかし、この二人は、慣れているようですから、だまされないためには、相手にせず、関わらず、近づかないのが、いちばんでしょう。楽山は、本当に大事なことを全く知らないと思います。自分の決めつけや思い込みが災いだということを認識できないのです。
 
恐らく情緒面にも欠陥があり、冷静な理路を読み取り組み立てる判断も出来ないのだろうと思います。自己愛と自己中は、結局、本人の人格破壊をもたらします。現在進行中です。このことは、哀れではありますが、もともとの体質が、そうなのかもしれません。
 
少なくとも、私が関わってから、私がトホホ言語と呼んでいる反省芝居を時にするようになりましたが、一度も、真実味のある内省的なところを見せたことがないのです。つまり、その前と後で、何も変わらないので、芝居だとバレてしまいます。
 
やさしげで砕けた言い方に惑わされないでください。楽山は、自分が、上から目線という高慢な自己中体質に当てはまることを認めたくないから、逆に、そういう丁寧語で書いて、ごまかすしかないのです。楽山・シャロームの丁寧語は、悪と偽善をカムフラージュする処世術です。
 
よくも知識が必要などと言えたものです。楽山は、子供じみており、一方的で、自画自賛のインテリ気取りで、話の分からない駄々っ子なのです。かといって、やさしく接すれば、それだけ、思い込みを強くするだけでしょう。
 
楽山は、言葉を覚えるだけで、その意味も使い方も理路も分かっておらず、感性的享受もない人です。恐らく何ごとにも本気で感動したことはないと思います。言葉だけで、深みがありません。本を読んでも、都合のよい字面を探しては引用して、著者の見解を、恣意的に悪用してきました。
 
今までは、それで、だまされて受け容れてくれる人が多かったのでしょう。しかし、重大なテーマ、宗教、思想、人生などについて、楽山が語ることは、信頼できるものは何もないのです。決して、関わってはいけないと思います。
 
今回、楽山は、何を、だらだらと書いているのでしょう。あることないこと、ぶちまけて、私のせいにして、何が、よくなると思っているのでしょうか。憂さ晴らしと嫌がらせ以外の何ものでもない、いちゃもんと、ひねくれた一人前気取りの独り相撲に過ぎません。
 
私の批判対象は、今は、楽山とシャロームです。易坊はどうしているか知りません。ただ、3者の、一人による成りすましを疑っています。もっと多いかもしれません。
 
楽山は、今回、まとめて批判したつもりなのかもしれません。しかし、読んでみると、楽山が、いちゃもん、クレーム、文句、不平不満、という悪口だけで、正当な批判を、全然、区別できていないことが分かります。理路がなく、決めつけているだけです。
 
シャロームのような楽山のお仲間や、楽山やシャロームと仲良しで、既に、楽山のボンヤリ言語やシャロームの丁寧語に染まって、すっかり、二人を無条件で贔屓しているような人については、何を言っても無駄でしょう。恐らく、似たような、破壊された人間の様相を表すのでしょう。
 
しかし、楽山やシャロームとの関係を断つなら早いうちがいいです。致命的な影響を受けないうちに、染まることのないように、冷静に、楽山から、離れてください。そして、二度と関わらないようにしてください。二人は、自分が何者か、まるで分かっていないのです。
 
私は、誰でも批判しているわけではない、という事実が、楽山がだらだら書いた長文を、全部、否定しているのですが、この二人だけは、それが分からないのでしょう。特別に悪質な二人であり、ふつうを装っても、結局、バレてゆく宿命を感じます。
 
シャロームの丁寧語や楽山のボンヤリ言語を聞くと、吐き気を催すようになっています。もう殆ど、生理的に、感知している悪意なのです。今回の楽山の記事で、楽山は、何か弁明か、批判返しをしたつもりなのでしょうか。全く理路がなくて、じめじめした陰湿な悪口だけになっています。
 
楽山は、文章の歯切れが悪く、掘り下げることが出来ず、判断することも出来ず、わざとらしい砕けた言い方で、柔和に見せかけて、ごまかしていますが、受けを狙って、わざとらしく、さらに陰気になってゆきます。
 
今回の楽山の文章に賛同する人は、かなり、自我の弱い人で、それこそ、楽山に騙(だま)されている御ひいき筋ということになるでしょう。楽山に影響されて、楽山と同じように、言葉の組み立ては出来ないのに執拗にねちねちと文句だけを言うような人には、ならないでほしいです。
 
そして、今後は、楽山の文章こそが、ブーメランのように、被害的で他罰的な精神が固定されて訂正不能になっている楽山を、逆に否定してゆくのです。そこには、楽山の異常性の証拠が、前にも増して、積まれてゆくでしょう。
 
自己中心が招く人格破壊は進行性です。シャロームにおいては、既に、如実に表れてきました。楽山が、正直であろうとするなら、間違っていたことを認めることから始める以外ないのです。正直とは、そういうことです。いくら、言葉面を、よさそうに、まとめても、無駄なのです。
 
 
問題は、楽山とシャロームなどの小さい二つの異常な個人カルト思想屋も、ひょっとしたら、大きなカルトと関係があるかもしれないということです。その辺は、なかなかネットでは分からないところです。同一人物の成りすましを疑っても、ネットでは証明できません。
 
気味の悪いのは、楽山とシャロームが、示し合わせたかのように、同調していることです。一人による成りすましも疑われますが、今のところ、主張内容の異常さは明らかでも、どういう関係で繋がっているのかまでは分かりません。
 
楽山とシャロームが、個人カルトに留まるのか、ゆくゆく社会問題となるのか、既に、大きな組織のメンバーなのか、そういったところも見てゆかねばなりません。この辺が、個人が批判してゆく限界なのかもしれません。
 
 
破滅の刃

破滅の刃
 
 
(2019年11月23日、同日一部修正)
(2020年11月29日、加筆して再録)
(2021年12月08日、再録+)
 
 
 
  測れない
 
測れない遠くで
破滅しているようなのは
こだまさえしているようなのは
ほんの少しの行き違いで
想い出に成り得なかったシーンが
しずかに自壊してゆくのでしょうか
ちょっとした選択の違いで
あり得なくなった未来の一コマが
消え去ってゆくのでしょうか
今破れるもの
今滅びるもの
今壊れるもの
今消えるものにさえ
気づきもしないでいて
気づくはずのないものが
最後の別れを告げるように
遠くで
でも測れない
ひょっとしたらすぐ近くで
名残を惜しんでいるのかな
もし少しでも手を振ってくれたら
ちぎれるほど手を振って返して
唇をかみしめたまま
そのまま果てても構わないのに
そのまま屍のように生きても構わないのに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。これほど、自らに危機意識のない人は珍しいのです。
 
 
 
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 「確信」2
 2018年04月30日
  かなり前に書いた記事、一部加筆修正。
 
 
確信をもって、ということが信仰でも言われます。
しかし私は、以前から、
神の意志について、どうして人が確信を持てるんだ、
と言ってきました。
 
神の意志について人が確信を持ったら
それは訂正不能になってしまう、という危惧であります。
 
人は神に比べて不完全なのだから、
人には訂正不能にしてよいものは何もない。
 
ましてや
神事を人が訂正不能にする?とんでもないと思うわけです。
そんな能力は人にはないから、
神のみを絶対と仰ぐなら、
訂正不能は信仰の敵だとさえ思うわけです。
 
言葉で言うなら、私は現時点の判断を語っています。
修正可能の一点をもって確信ではない
ということですが、
何らかの行為に結び付くときには、
今は他にないという一点をもって確信に近くなる、
という微妙さもあります。
 
つまり確信を持つことは
訂正不能にすることではない
と言いたいわけです。
 
このことを言うのは
広く一般に、人が
確信を持てと言われると
訂正してはいけない
と思い込む傾向があるからです。
 
ここで申し上げます。
確信を持て
と言われたとき
信仰者が考えるべき確信は、
信じ込み思い込むことではなく
何よりも
今これしかないだろうという確認です。
 
何かの決断のとき
このことを弁えておけば
結果の導きと
反省の祈りにおいて
私たちは
先へ進むことも
本来の道へ返ることも出来るでしょう。
 
訂正不能は反省不能に結び付き
神を心の偶像に固定することです。
 
修正可能は
いつでも神からの新たな導きに反応できるように
人間の側が弁えるべき節操であります。
 
弁える(わきまえる)
 
 
※ 
 
ここで、誤解しやすい一つの聖句をあげておきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
16:10
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 
16:11
だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
16:12
また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
16:13
どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
 (ルカ16:10-13、新約聖書)
 
10節は分かるけれど、11節の、不正の富に忠実ということが、分かりにくいところです。結局、13節の、二人の主人、即ち、神と富とに両方仕えることは出来ない、神に仕えよ、神を主とせよ、という教えに帰結するわけです。
 
神に忠実ということが、この世の富という観点から見れば、しきたりや馴れ合いなどに従わないことで不忠実や不正に見えることがあるから、そういうことに惑わされることなく、神に忠実であることを勧めています。
 
そのためにも、信仰者は、反省し学習できる人でなければいけません。人間は不完全ゆえに罪深いからです。楽山、シャロームshalom、易坊という3人は、忌むべき訂正不能のナルシストです。同一人物の成りすまし、即ち、今の、楽山ではないかと疑っています。
 
つまり、それは、詭弁屋のペテン師の反キリストである楽山のように、表面的な理解で教えてきて、その実は、利己のために、だまそうとする者がいるけれども、そういう者の甘い言葉に惑わされてはいけないという意味に受け取ります。
 
※ 
 
訂正不能と言えば、10年批判した偽牧師シャロームや、荒らしの易坊や、3年批判しているペテン師の楽山に、常態として見られることです。有頂天の慢心が著しく、何を言っても無駄、話にならない人、こちらの言うことを聞いていない、という人物になってしまっています。
 
また、"信仰に確信を得た" などという奇妙な言い方を聞くこともあります。これは、他に道はないという確認や決断としてはあり得ます。信仰は、神との関係です。しかし、確信は、人間がすることですから訂正不能にしてはいけないことです。
 
このように、地上を生きる上において、訂正・修正が可能ということは、必須だと思います。今は、これしかないと、決断して実行しても、反省して、考え、修正も出来るようにしておく心の余裕が必要だと思います。誰も、神には、なれないのです。それを知ることが信仰です。
 
 
訂正不能の罪業・確信の罠

訂正不能の罪業・確信の罠
 
 
(2018年04月30日)
(2021年10月16日、加筆して再投稿)
 
 
 
 楽山の悪だくみツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
あなたはこれらの神々を信じますか?あなたが、人々がかつて信じてきた神々のうち、どれに関して「無神論者」なのかのチェックです。ぜひ信仰者の方々に試してあげてください。
午後9:52 · 2021年10月12日 (画像省略)
 
神なんて、こんなにいっぱいいるんだよ、いい加減だね・・とでも言っているようなリストが載っています。でも、画像が不鮮明で、良く見えません。いっぱいいるから当てにならないよ・・とでも言いたいのでしょうか。いかにも、楽山が好みそうな乱暴な話です。
 
楽山は、神を知りません。知性と理路において知りません。感性と情緒において知りません。考えることも、感じることも、できません。楽山は、いつも、超常のお伽噺か作り話で、神?を語ったつもりになります。楽山は、感動などの深い情緒を持っていないのです。
 
信仰者にとって、出会ったと思っている神が、そんなにはっきり確定できているわけではありません。何故なら、神は全能だとしても、私たち人間は全能ではないからです。だから、神に付けられた名前を並べて、どれを信じている?・・と聞くことにはほとんど意味がありません。
 
人間にとっての、神は、その意志と行為は、不確定です。だとしても、無神論者が何も福音をもたらさない現実において、神の全能の存在から、人の不全を知ることは、生きるために大切なことです。自らの人並み外れた不全を、知ろうともしない楽山のような者もいるからです。
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
 
  旧約・イザヤ・20~21
 
罪のために許されぬ者よ
主人の家の恥となり
死に失せて灰だけが残る者よ
家の鍵を失う者よ
開けて閉じることなく
閉じて開くことはない
腰には産みの苦しみ臨月のような痛み
屈んで聞くに堪えず
見るに堪えない
 
憧れた黄昏は
もはや戦きとなった
頭を禿にし
荒布を纏うがよい
かつて抜いた剣を捨て
張った弓を捨てて逃げて来るがよい
夜回りよ今は夜の何時ですか
夜回りよ今は夜の何時ですか
朝が来ます夜もまた来ます
聞きたければまた聞きなさい
また来なさい
 
--------------------------------------
※ 聖書をモチーフにし題名にし引用した作品は、必ずしも聖書のその箇所の内容と一致することを目的とはしていません。
 
屈む(かがむ)
戦く(おののく)
禿(かぶろ、(はげ))
纏う(まとう)
何時(なんどき、(いつ、なんじ))
 
 
 
 
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  楽山の背教の証拠(2)2
 
 「第八講 ヨブ愛の神に訴う」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年09月12日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、書けないところを、引用と、要約の "つもり" と、広がりのない表現で、ごまかしてきます。今までも、恐らく、これからも、楽山は、言論から、いちばん遠いところで、我田引水で引用して迷惑をかけることしか出来ないと思います。
 
楽山は、読書したつもりだけで、読み取ってはいません。信仰を持たない楽山は、信仰を否定するために都合のよいところを引用しているだけです。信仰も、神も、自己愛性人格障害の楽山にとっては、言葉の字面以上ではありません。
 
(ネットより)
がでん-いんすい【我田引水】
他人のことを考えず、自分に都合がいいように言ったり行動したりすること。自分に好都合なように取りはからうこと。自分の田んぼにだけ水を引き入れる意から。
 
「第八講 ヨブ愛の神に訴う」を読んだので、内容をメモ。 
ヨブは「友の提唱する所の神学の神、教会の神に反抗し」、「別に真まことの神を発見せんとする努力に入った」。
「そもそも時代の神学思想に反抗して、別にわが魂の飢渇を医やすに足るべき神を見出さんとする苦闘は必しもヨブに限らない、他にも類例が多いのである」
「人一人が神の絶大なる努力の結果として現われたるものにして、一人は大宇宙全体と匹敵する」
「神はその所作にかかる忠誠なる魂を決して棄てず、たとい一時彼を苦しむることあるも、しかして彼の生命断たるることあるも、神は復活の恵を以て彼を起し永遠の生命を彼に与えて彼をして最後のかつ永久の勝利を獲しむ」
 
教義・教理的な話です。「一人は大宇宙全体と匹敵する」などは大仰で語弊があるとも思われますが、書き記すにあたって、著者の、神を賛美したい情熱と志が表れているようです。楽山は、超常ホラーが好きな趣味だけで、こういう大袈裟な表現に反応するようです。
 
西洋では、ロッジ、ロムブロゾーら、科学者も、心霊研究など、来世についての研究をしている。
「第十章全部を心に置きて考うるにヨブは義の神に対して愛の神を求めているのである」
「神は義たるに止まらずまた愛なり」「神を義と見るは不充分である。ためにヨブは解決点を得ないのである」
「神を義とのみ見る時人の心は平安を得ない。罪を罰し悪をただし規律を維持するをのみ神の属性と見做みなす時、人はわが罪の報むくいを怖れて平安を得ない。この時キリストを通して愛の神を知るに至れば、神観一転化を経て赦免の恩恵を実感し以て光明に入るのである」
疑問、悩みがあるときは、焦らず、急がず、慌てず、希望を忘れず、神より答えがあるのを待つこと。
 
「希望を忘れず、神より答えがあるのを待つこと」で、楽山は、納得するのでしょうか。もし、そうならば、今日のような有り様にはならないはずです。恐らく、殆ど理解できないために、引用だけして、読んだことにしたいのでしょう。
 
おもに、旧約聖書は、神と人の決定的な違い、神の恐るべき全能、戒め懲らしめる神、などを語っています。旧約だけだと、超常的また教条的になりやすいというリスクがあります。
 
おもに、新約聖書は、キリストの愛と共感による赦しと救いを述べています。新約だけだと、信仰は、感傷的になりやすいリスクがあると言われます。
 
楽山は、教条主義的な解釈にも満たず、情緒的に感受することも出来ず、屁理屈に堕ちるだけのようです。つまり、最初から、楽山は、信仰を持つ意志などない人で、いちゃもん屋であり、自分を高めたいだけの偽善者だと思います。
 
さらに批判されて、弁明できないのに、成り立たないことを丁寧語で繰り返す行為は、宗教と信仰に対する明らかな嫌がらせの悪意ということになります。これによって、楽山の総ての丁寧語は、見せかけだけであり、見せかけだけの丁寧さを否定されます。
 
丁寧語を使うのは、そうすれば、冷静だと思われるだろうという狙いでしょう。楽山の意見は、ことごとく、思想のベースから成り立っておらず、かつ、進めてゆくほどに、さらに破綻しますが、お構いなしに不感不応の無反省と無責任のまま押し出してきます。
 
楽山は、内村鑑三の硬質な引用文と、楽山の自信ありげな丁寧語に、だまされる人が出てくることを狙っており、そのことを、こちらは危惧し憂慮して、批判を続けています。
 
しばらく読書を中断していたので、文章に慣れるまで難渋してしまったが、ゆっくり読んでいると徐々に文章のリズムになれ、その内容も頭に入ってくるようになった。こういう切り替えは、若いうちは無意識にやっていたけれども、年を取ってからはなかなかに難しく、けっこう時間がかかるからやっかいだ。ほんと、年は取りたくないものだ。
 
前から言っていますが、楽山は、まともな読書は出来ないと思います。都合の良い字面を拾っているだけという無理解が、ずっとあります。だから、頭にも心にも入ってもいないと思います。何を切り替えたというのでしょう。ずいぶん前に言って批判されたことを、また言っているだけなのです。
 
この講義を読むと、内村鑑三はスピリチュアリズムのことを知っていたようだ。当時の知識人としては、これは当然か。
 
キリスト教でも、聖霊と悪霊など、霊という言葉は使いますが、使ったからといって、なんとなく神妙な気分になったとしても、神妙や神霊が分かったことにはなりません。
 
ましてや、キリスト教の霊は、間違っても、楽山のような、親族のことを霊が分からないっぽいと言って、自分は霊が分かるっぽい?という自覚にのぼせ上がったスピリチュアルとか超常の霊能力?とかのことではありません。
 
このように、字面だけ引っ掛けて、神妙に見せかけて、自分を高めてくる楽山です。カルト性の欺きが酷いです。超常が分かるという楽山のスピリチュアリズムは、いかなる鋭さも発揮したことがなく、自己顕示欲のペテンに過ぎません。
 
ヨブは、神学の神でも、教会の神でもない、それらとは別の真の神を求めたというけれども、個人でそういう志をもち、実行するのはとてつもなく勇気のいることであったろうと想像する。
「神は義たるに止まらずまた愛なり」との言葉は、心に深く食い込むところがある。
 
楽山は、"神学の神"、"教会の神" などと軽口で、気安く言っていますが、実際に憂慮されるのは、キリスト教の内外に、カルト思想を蔓延させようとする楽山のような汚染物質が広がることでしょう。新コロナより、台風より、有害だと思います。過ぎ去らないで粘着するからです。
 
楽山を許容すれば、個人としても、集団としても、楽山のような、何を言っても、無視して、訂正不能に、同じことを刷り込もうとする反キリストの類が、ますます、人々を惑わしてくるのではないかと危惧しています。
 
「心に深く食い込む」・・こういう言葉だけのべた褒めを書いておくのが、楽山のイージーな書き方です。詳しい説明が何も出来ないのです。楽山は、"愛" さえも、字面だけ書いていると思います。言葉だけ書けば、その通りに思ってくれると、思っているのでしょう。ペテン師の特徴です。
 
書いて表現することの難しさを痛感している立場から見れば、楽山は、とんだピエロなのです。字面だけ書いて、世辞を返されるのが大好きな楽山です。したがって、広がりがないので、楽山の文章からは、意味も、感動も、共感も、生まれないのです。
 
愛は、おおざっぱには、共感より生まれる高等感情ですが、楽山が、それを、見せたことも、表したことも、説明したこともありません。言葉についての安易さだけが、楽山の書くものの特徴として表れてきました。
 
 
 【内部告発】HSUについて
 2020年09月12日 
 
 
自分自身を見ないで、人のことばかり言っている楽山。カルト批判どころではなく、楽山自身が、自己満カルトです。記事の大部分、省略。
 
傍から見ていれば、筋の通らない、おかしいことだらけだ。その時々で、自分に都合のよいことを言うだけで、自分の言葉の責任をとるつもりなんて無いのは丸わかりだ。
 
楽山の言こそ「傍から見ていれば、筋の通らない、おかしいことだらけ」であり、楽山こそ「その時々で、自分に都合のよいことを言うだけで、自分の言葉の責任をとるつもりなんて無い」ということです。自分が言われそうなことを、人に向けるのは、楽山の特徴です。作為かもしれません。
 
あるいは、楽山は、人を無視するし、自分を見ないので、自分の言葉が自分に返ってくるのが、分からないのでしょう。自己愛に凝り固まると、こうなるという見本のようです。こういう人にだけは、なりたくないものです。HSなどより、はるかに有害です。
 
(ネットより)
まる‐わかり【丸分(か)り】 の解説
対象となる事柄のすべてを理解できること。丸ごとわかること。
 
このように、自覚のない人は、いつのまにか、相手を批判しているつもりのことが、ブーメランのように、自分に当てはまってしまうのです。このブーメランという言葉を、先に、使ったのは、楽山その人なのです。にもかかわらず「丸わかり」と完全を誇るに至っては呆れてしまいます。
 
恐らく、同じことを言っても、自分を省みない楽山である前提を考えれば異常~邪悪としか言えない、ということが起こってくるでしょう。言うことが、逐次、今までの発言と矛盾してくるから、嘘だと分かってしまうからです。
 
長い経過という文脈では、人のことを言う資格も器量もない楽山だから、無理してきれいごとを言っても、皆、嘘になるからです。正体は、かなり悪魔的だと、既に、バレているので、何を言っても無駄なのです。
 
楽山は、すごい崩れ方を呈しています。楽山は、常識めいた書き方をしていますが、だまされないでください。彼の病巣は、もっと深いところにあります。獣性と偽善性と病原性を隠しての減らず口の記事3連発なのです。ゆえに、体質の異常と呼ぶしかないのです。
 
また、自らを見ずに、他を批判している楽山です。しぶといのではなく、無神経だから、平気で繰り返し書けるのです。嘘が分かりやすいカルトより、楽山が、いちばんの病原です。楽山発狂祖とでも呼ぶべきでしょうか。
 
楽山が、自身の有り様に気づくこともなく、何の努力もせず、真剣味もなく、正義の味方気取りで、正当な批判をしているつもりでいるのは、罪悪感がないためで、他のカルトより遥かに悪質だと思うから批判しています。楽山は、いつも、"つもり" だけの人です。
 
 
メモ的に:
 
楽山は、現実に悲劇が起こっていることをもって、神がいるならおかしいという言い分をしてきました。この時、楽山は、神よりも上に立って、こともあろうに、神を見下し評価し裁く態度なのです。楽山にとって、神は、自分の欲望と都合に合わせる召使でないと気が済まないのです。
 
信仰者は、現実に悲劇が起こっていて、その原因も理由もわからない人間として、自分でどうしようもないゆえに、より大きな存在を寄る辺とするために、神を、信じ、仰ぎ、希望とするのです。そして、罪と悲しみを正直に告白して祈ります。
 
 
おぞましい輩

おぞましい輩
 
 
(2020年09月14日、同日一部修正)
(2021年09月19日、再録+)
 
 
 
キーワード:恐怖
 
 
 (偶像)
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛る戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
  光と恐怖
 
刃物の鋭さは光 凍結への熱
刃先へ走る一瞬すでに眼を切っている
それを際立たせる闇
闇の殺意は鋭い
迫る恐怖に震え立ちすくむ足
否応もなく急がせる
 
光の殺意の鈍さは
ときにショーウィンドウの内と外
写真と人形を眺める恐れの傍観にも似る
 
恐怖は闇によって増幅される
それゆえ光によって鈍くなる
見えない周りに見てしまう
見える周りに見逃してしまう
 
刃物の眼は昼の光の最中(さなか)
いかにして開かれようか
 
泣いたり笑ったり怒ったり
表情をなくしたり借りてきたり
いかにして光の恐さを知りえようか
殺意と恐怖
熱と冷血
鋭さと鈍さ
光と闇
元々それ自体は眼に映らないものばかり
 
 
(昔々・・)
 
 
 
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  楽山のよいしょ倒れ
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(3)信仰について
 2021年09月15日 楽山日記(LD)
 
 
病識がなく、自分を見ることの出来ない楽山が、いつものように、得意気に書いてきます。楽山の言は、論になっていません。言論に必要な、語る節操も、聞く耳も、持っていないからです。どれだけの有名人を巻き添えにして、詭弁を弄するのでしょう。病の根深さを思わずにはいられません。
 
単純に言って、無反省と無責任で、訂正不能であれば、言論する資格はないのです。他にも、楽山の病質については書いてきましたが、病質のために、どこまでも舐めてかかって、まともな話は通じないし、交流ができない以上、だましてくるだけですから、楽山に未来はないと思います。
 
*つづき
前記事に続いて、ドーキンスの名言についての感想を書いてみたい。
 
一日も早く、楽山が何も書かなくなる日を待っています。あらゆる言論の害悪です。
 
*信仰と無責任
信仰とは、根拠について考え評価することからのご立派な責任回避の口実である。信仰とは、証拠の欠如にもかかわらず、あるいはそれゆえの、信念のことである。
 」
これらは随分と辛辣な批判だが、前者については、自分かかつて所属していた宗教団体では、長く信者を続けている人は、信仰の根拠について深く考えることを放棄した人ばかりだったことを思えば合点がゆく。
 
信仰の根拠は、心にあります。ゆえに、理屈屋に届くことは、永遠にないでしょう。一部のカルト批判から、信仰そのものへの批判と否定を企んでいる楽山は、自己愛性人格障害の宿命のように、人間として、どこまでも、偽物の標識を持って、廃棄される吊り橋へ向かっているようです。
 
後者については、司馬遼太郎も似たようなことを言っていたと記憶している。思想や宗教というものは、その出発点は空であり、嘘である云々と…。
率直に言って、信仰というものは本来あるのかないのか分からない神をあると断言するものであろうし、その根本は空言、もしくは嘘といわれても致し方ないものではある。
 
楽山は、また、有名人の口を悪用しています。楽山には、自らを空しくする"空" という思想は分からないと思います。私も、完全に分かったわけではないですが、分からないという自覚はあります。自覚がないのが、楽山です。だから、どこまでも、嘘吐きという評価しか生まれないのです。
 
*信仰批判
今こそ、信仰に対し批判をしていくべきときだ。
午後7:39 · 2021年9月2日
 」
 
シュプレヒコールでしょうか。信仰が人類の敵だという悪意の前提が見え見えです。
 
ドーキンスの言葉には共感することは多いが、さすがにこういうところは扇情的にすぎるようだ。
自分は、信仰は人の性であり、撲滅することはできぬものであろうし、それならば信仰にはさまざまな難点があるにしても、違法行為や人権侵害がない限りはさして批判する必要はなく、人それぞれ自由でよいとする他なかろうと思う。
 
このように、有名人の言を利用しながら、自分はそれよりも上だという満悦からの印象操作を忘れないのが、楽山です。それによって、全ての言論者の敵であることが明らかになってきたのです。書けば書くほど、楽山の我欲と傲慢と卑怯さが、あらわになるでしょう。
 
道徳や人間の尊厳を無視した訂正不能の妄想的な、宙ぶらりんの思い付きを、得々と語ってきたのが、楽山です。違法行為の取り締まりは警察の仕事です。楽山のような、節操と道徳に反する非人間には、徹底した批判を続けるしかありません。
 
楽山には独自の思想はありません。その時その場の、ちょうどいいものを、自分がひけらかすことによって、自分だけを高めているつもりなのです。楽山の、ボクはこんなに善い人アピールを受け入れてしまうと、楽山の従属物となって、自分を見失ったまま、良心を失ってゆく病魔が待っています。
 
楽山は、誰にも共感することはないでしょう。ただ、病気のエゴのために悪用しているのです。だから、人を人とも思っておらず、無視と裏切りは当たり前なのです。楽山は、無自覚に、無反省で無責任ですから、最終的には、何らかの圧力か強制力をもって排除されるしかないのです。
 
*信仰と癒やし、議論
それが「慰めになる」という理由で何かを信じようとする人を、どうして真剣に取り合えるというのだ。
 」
これには、その信仰は真実であるかどうかという議論と、その信仰による効果はどのようなものかという議論をごちゃまぜにしているがゆえの混乱がある。
 
楽山に、そういう分別があったなら、今までの単方向で訂正不能で、随時忘却によって責任逃れしながら惑わしてくるような災いはなかったはずです。混乱をもたらしているのは、他者を好きなように悪用する楽山その人であります。有名無名に関わらず、悪用の犠牲となってはいけません。
 
信仰に関する議論は、大雑把に言えば、①その信仰は真実であるかどうか? ②その信仰は真実であると感じられるかどうか? ③その信仰による効果はどのようなものか? というものがあり、それぞれまったく別の問題である。
 
信仰が真実であるかどうか、効果が何か、これは主観的な感慨であり、最終的には、神が裁くことです。しかし、真実と、真実であると感じることを、楽山は分けろと言っています。はっきり言えば、人間が言う真実は、皆、真実と感じることです。できないことを要求して、否定する詭弁です。
 
楽山は、箇条書きにして論理的に見せかけてきますが、信仰の、真実性も、感受性も、効果も、何も分かっていない楽山は、屁理屈でだましてくるので、決して相手にしてはいけません。楽山は、受け入れられるような文章の体を装うだけで、何度も言いますが、何の責任も負う気はないのです。
 
「別の問題」ではありません。信仰者は、その人生において無責任ではありません。いかなる罪も認めず、いかなる責任も負わずに済まそうとするのは、楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDだけです。こういう詭弁は、いずれ、想像を絶する重さをもって、楽山にのしかかるでしょう。
 
信仰は、その真実も、感受も、効果も、信じた者に暗示されるだけです。どうして、神の意志が、人に、手を取るようにわかるでしょう。本質的な不可知、未知、不明を、分かるものであるかのような言質によって、悪用してきたのが楽山です。頭がカチカチ山の楽山です。
 
それにも関わらず、信仰者の中にはこれらの問題をごちゃまぜにして、「この信仰によって大きな慰めを得たから、これは真実に間違いありません」とか、「この信仰は真実です。もし真実でないなら、これほど人々の心に訴えかけ、感動を起こさせるわけがないのです」とか主張する者が多い。信仰者は②③を持ち出すことで①について語っているつもりになりがちなのだ。
①についての議論が困難なのは、こういう混乱に原因があると思う。
 
だから、信仰には、信じるか信じないかの自由があるのですが、それを認識できない楽山は、全部を、いちゃもんの材料にしてしまうのです。一部の体験について、全部であるという言いかがりで責めています。つまり、信仰の自由の、最も凶悪な迫害者は、楽山であります。
 
信仰者は、相手を安心させるために、自身の体験を語ることがあります。それを揚げ足取りに悪用する楽山は、無知と無教養という揚げ足を取られて、さらに詭弁と嘘を重ねて保身を図ることで、人の世界で赦されず、神の世界ではさらに赦されない害毒の泥沼をさまよう者となりました。
 
*信仰は悪である!
本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。 信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。
 」
 
著者は、議論を許されなかった恨みがあるのでしょうか。前の記事のように人をマヌケ呼ばわりして許されると思うほうが無理でしょう。さらに、それを、楽山というペテン師に、まんまと悪用されています。クレームが来ないことをいいことに、楽山は、悪用の罪業だけを積み重ねてきました。
 
信仰についても、共感に基づく議論は可能ですが、楽山のような反キリストで訂正不能の変質者とは永遠に不可です。楽山は、糞尿を引っ掛ける者、今もそうです。善悪と正邪だけでなく、精神衛生において、楽山は極めて不潔です。
 
子供の宗教教育は程度問題ではなかろうか? その土地や民族の宗教的な文化伝統が自然な形で子供に伝わるのは必ずしも悪ではなかろうが、あまりに厳格な宗教教義を子供の頭に刷り込もうとするのは児童虐待であろうし、明らかに悪である。
 
程度問題ということを、いい加減かいちばん、という詭弁に誘導するのが、楽山です。信仰の真実も感受性も効果も、楽山は何も分かっていないからです。そして、強引に、児童虐待に結びつけています。悪魔性が明らかです。善を装う悪の姿が、これです。
 
信仰と議論については、まったくその通りだ。特定の信仰を絶対視し、その妥当性について議論することさえもゆるさないというのではあまりに高慢で独善的にすぎてまったくお話にならない。
 
楽山の、曖昧さと、いい加減さでは、病原となるだけで、誰も救うことは出来ません。楽山の言のベースには、何でも分かるつもりの傲慢があります。専門用語も、日常語さえも、理解せずに使いまくって、単方向に暴発を繰り返す悪魔性が、一日も早く消滅することを祈っています。
 
楽山の自己愛性パーソナリティ障害では、誰に教える資格もないと思います。本人が、それを自覚できないのも、この障害の症状ですが、巻き込まれる側にとっては、死活問題です。危険な圏内に入らないことだけが予防策となります。楽山こそ、全くお話にならない人です。
 
楽山の言は、質の悪い睡眠薬のようなものです。幻覚剤併用みたいなペテンです。むしろ毒物ですから、副作用として、知情意が鈍麻し、人格破壊が起きます。楽山と同じように、嘘と詭弁で人をだまして平気でいるような、うっすら、ぼんやり、どんよりした不感不応の自己中になるでしょう。
 
楽山は、アンチとしてカルト批判をしているつもりのようですが、宗教と信仰についての見識が、あまりに、杜撰(ずさん)で、視野狭小で偏屈で、未熟なのに、反面、自尊だけが過大であるために、妄想性にさえなっていて、自己愛性人格障害のインテリ気取りの迷惑症例となっています。
 
楽山は、何もうまくいかない人生だから、芝居を覚えたのでしょう。しかし楽山は大根です。さらに、嘘と詭弁と一体となるゆえに、ますます害悪となってきました。しかし、自我の弱い人は、だまされるかもしれません。それに味を占めた楽山が、好都合な言葉を漁り続けているという現状です。
 
肯定と否定を両方言ったら責任問題は生じないというのが楽山の言論の姿勢です。言論にプラマイゼロはありません。責任を負わず、反省もせず、訂正もしない体質的病質者が楽山です。何度も言いますが、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。楽山は、全否定され続けるのです。
 
 
だますために生まれたのか

だますために生まれたのか
 
 
(2021年09月17日)
 
 
 
  責める
 
書いた文字が
起き上がって
僕を責める
何と言って責めているのかわからないが
書けば書くほど責める
立ち上がった文字が
二人寄り三人寄って
言葉になって責める
しまいには
まわりいっぱいになって
うるさく責め続けるので
紙を破って
丸めて捨てる
書きかけの文章を捨てる
静かになった
と思ったら
捨てた紙の間から
はい上がった一人が
弱々しい声で言った
うそつき・・・
 
 
  さぐる
 
時を探っていた
恐らく一生わからないであろう
時間というものを加えた四次元を
三次元の頭で探っていた
 
寝床の中である
夢か現(うつつ)か
限りなく沈んでゆくようだ
限りなく、というもの
無限を枠に嵌(は)めるようなものだ
できるはずもない
頭も心も三次元であるかさえわからない
最近とみに平べったいから
潰れてぺちゃんこにならないうちに
自分を知りたかった
関りと拘(こだわ)りと無関係と無関心
で過ぎてきたことになって
今ここにいる自分を
 
自分の記憶の中にしかいない自分
それさえも忘れやすい自分
実体が欲しかった
眠りに落ちてから
底知れぬ旅に落ちてから
捕まえたかもしれない
でも目覚めたときの仕種(しぐさ)は
その記憶さえ消し飛んでいて
回る走馬燈の中の
残り少ない蝋燭(ろうそく)の
小さい炎に変わる前の
油の蒸気を探るようなものだ
 
 
(昔々・・)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
自分には自分の臭いは分からないというけど、Pさんもそれだね。Pさんからは自分教の臭いがぷんぷんしてるから、自分教といわれる。一字一句を吟味した上でそう結論づけてるわけではない。
一字一句にこだわってるのは、鉤括弧を多用するPさんの方ですよ。Pさんは自分教の教条主義者みたいです。
午前6:53 · 2021年9月16日
 
「自分の臭いが分からない」のも、「自分教」も、楽山にぴったり当てはまることです。アンチであるかどうかの問題ではなく、楽山は、異常者です。しかも、体質的な自己愛性パーソナリティ障害NPDです。無反省、無責任のままで、一生過ごせるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山が、誰かのことを言うたびに、ブーメランになって、楽山に返ってきていることに、楽山だけが気づかないのです。ここまで、自己愛性人格障害は、分からない人になってしまうということです。それこそ、"撲滅同盟" でも作らないと、解決しないことなのです。
 
また、楽山には、「一字一句を吟味」どころか、他者の意見など、都合が悪ければ、ひと言も受け取らないし、覚えてもいないでしょう。それで、人に対して何か意見や批判をすることなど、決して、できません。それさえ分からない人ですから、楽山を相手にしないでください。
 
人格障害というのは、昔、精神病質と呼ばれた体質の病気で、精神病と違って、有効な薬がありません。関わらないこと、相手にしないこと、批判するなら人格の異常を批判することが必須になるのです。批判するなら、不感不応の楽山には、不感不応の病質を指摘するしかないわけです。
 
人格を批判してはいけないというのは正常人の場合です。正常な関係性が成り立つ場合だけです。とうに、言論を慎んで、おとなしくしていることが必要な病質なのに、なおも、しゃしゃり出てくる楽山に対しては、病的な人格について、直接、批判してゆく以外ないのです。
 
楽山には、自慢できることも、他者が評価できることも、全くありません。それをごまかすために、婉曲的な屁理屈のボンヤリ言語という丁寧語を使い、同情を誘うためにトホホ言語という謙虚芝居や嘘の弱音や世辞を言ったりします。楽山は、まとものつもりだが、しばしば、寒気を感じます。
 
しばしば、作為的に、自分が言われそうなことを相手に向けてきます。上のツイートもそうです。病質のために、人に言っても、自分が言われても、実感と実質がないのです。だから、何を言っても言われても、平気で無視して、罪悪感を感じないでいられるのです。
 
楽山の言は、嘘と詭弁に満たされ、良心の欠損を表すだけです。楽山の言には、三文芝居のセリフはあっても、人間らしい温もりと潤い、つまり、思いやりと悲しみへの共感が見られません。乾燥しボンヤリして焦点を外した良さそうに見せるだけの言葉面はあっても、真実の欠片もありません。
 
ですから、楽山の言は、何の参考にも糧にもなりません。こちらとしては、体質的異常者の劣悪さを、資料とするために、批判を続けています。楽山が書けば書いただけ、それは、悪い言葉の例として、嘘と詭弁の具体例として、病質を表す資料となってゆくのです。
 
例えば、医者は、精神病でも、精神病質でも、ことを荒立てないことを優先します。説得して、表面的でも治まれば、それ以上は言わないでしょう。そういうことを、半端な知能で知っているところが病質者の狡さなのです。だから、丁寧語、世辞、甘い言葉・・などを多用するわけです。
 
 
 
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