ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:訂正不能

 
  滅裂な訂正不能2
 
 2020年06月07日
 『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』レザー・アスラン著、白須英子訳
 楽山日記(LD)
 
 
前に否定されて、何も返せなかったのに、また「心の理論」のことを、前と同じように持ち出して、同じ主張をしているようです。もはや、妄想化しているのかもしれません。ひどい詭弁しか、楽山は、書けなくなっています。その評価も無視しますから、これで、言い得たと満悦する病気です。
 
『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』を読了。同著者の『イエス・キリストは実在したのか?』も面白かったが、本書もそれに次ぐくらい面白い。
 
人類が神を生み出す、という題から、既に、人が神を作ったみたいな、無神論前提だろうということは分かるわけです。それを面白がるわけですから、真剣味などないということです。
 
その本を読んで、この記事を書いている楽山は、クリスチャン芝居をしたり、キリスト教の悪口を言ったり、幼稚な疑問で神不在を言い張ったり、逆に肯定したりと、言ってることがメチャクチャな、反キリストであります。書いて自慢することだけはやめられない自我の奴隷です。
 
内容はといえば、まず序盤では宗教の起源について、さまざまな仮説を紹介している。人は夢で死者と会うことで死者は今も別世界で生きていると考えるようになった、自然の脅威を目の当たりにして創造主の存在を意識するようになった、宗教による連帯団結は生存に有利であった、宗教は願望の充足のために用いられた、
 
これは、宗教の起源ではなく、楽山が、宗教を否定するために、持ち出したものです。ここに書いてあることから生まれる宗教は、例えばシャロームの偽キリスト教や、キリスト教系カルトの発想であります。
 
夢は夢です。夢での不思議物語は、人間を生かす信仰にはなりません。死者と会う・・楽山の超常ホラー趣味に過ぎません。自然の驚異・・楽山の大袈裟に走る宗教観です。楽山の好みに過ぎません。個人の生き方と命のことを、何も書けないのが、楽山なのです。
 
自然の脅威は、脅威であり、自然の驚異は、驚異ですが、それが何らかの恐れを感じるものであっても、人間を支える信仰にはなりません。楽山は、宗教に恐れしか感じないので、本当の宗教と信仰を、まるで理解できないのです。それで、慢心しているから、害毒なのです。
 
連帯は連帯であり、生活様式に影響はあっても、それを信仰と呼ぶのは、楽山のような、信仰の心を全く持たない者です。「生存に有利」「願望の充足」・・楽山の生き方を表しているようです。
 
願望の充足は、必ずしも、宗教や信仰によってもたらされません。願望には欲望が含まれることがあるから、という以上に、神を、人の願望に従わせることは出来ません。
 
楽山のような足らざる者が、上のような軽口の悪口をあげて、宗教と信仰をおとしめても、宗教と信仰は、神に対して不遜で不敬虔の愚かな者によって左右されることはなく、信仰を必要としている人々の正直さに答えて、変わることのない神から、恵まれ続けるでしょう。
 
進化の過程で獲得された「心の理論」などが宗教を生んだ等々。ここでは著者はどうも最後の仮説を支持しているらしい。
 
私の記事「心の理論」
 
「心の理論」は、進化の過程で獲得されたと楽山が書いていますが、楽山は、それを、霊感が獲得されたかのように曲解して受け取って記事を書いていたのです。しかも、今回、それを、宗教の起源として書いているのです。
 
楽山は、単なる学習障害からの無知ではなく、妄想性障害か、故意の悪意の妄想として固定している無恥ということを考えるべき人です。あるいは、背後にカルト組織があるのかもしれません。楽山は、その指示を実行していて、それゆえに、責任を一切負わないのかもしれません。実態は不明です。
 
(ネットより)
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
「心の理論」はもともと、霊長類研究者のデイヴィッド・プレマックとガイ・ウッドルフが論文「チンパンジーは心の理論を持つか?」("Does the Chimpanzee Have a "Theory of Mind")において、チンパンジーなどの霊長類が、同種の仲間や他の種の動物が感じ考えていることを推測しているかのような行動をとることに注目し、「心の理論」という機能が働いているからではないかと指摘したことに端を発する(ただし、霊長類が真に心の理論を持っているかについては議論が続いている)。
この能力があるため、人は一般に他人にも心が宿っていると見なすことができ(他人への心の帰属)、他人にも心のはたらきを理解し(心的状態の理解)、それに基づいて他人の行動を予測することができる(行動の予測)。
 
霊長類とは書いていますが、それは、ヒトやサルなどの動物の種類のことで、心霊現象や霊感とは何の関係もないことです。「心の理論」は、宗教の起源とは関係ありません。他者の正誤を見分けるという発達しうる知性のことです。楽山が、怠慢によって育て損なった能力です。
 
楽山が書いてくるのは、すべてが、書籍や聖書などの、他者がどうしたという話です。自分はどうだということを考えることが出来ないのです。それを、心の理論という心理学を曲解した話や、心的状態などという学術用語を並べて、もっともらしく見せても、底が知れており、無駄なのです。
 
楽山は、人の迷惑を省みず、聞かずに書いてきます。他者に迷惑かけることを、罪悪感がないために、全く気にしない楽山という異常人格だから平気で嘘を吐くのでしょう。楽山の妄想が、壊れた人格によって、訂正不能の妄想の方向に病理を深めているだけなのです。
 
中盤では一神教の起源について語られている。ユダヤ教は元来は多神教であり、「初代王サウルでさえ、息子をヤハウェにあやかってイェホナタン(ヨナタン)と名付けるのと並行して、他の二人の息子をバアル神にあやかってエシュバアル、メリブバアルと名付けていた」(p.149)し、エル(アブラハムの神)とヤハウェ(モーセの神)は別々の神(p.150)だったので、イスラエルがバビロニアに敗北したときには、「バビロニアの神マルドゥクがヤハウェより強かったというのが神学的結論」(p.139)となり、多くの人々が「名前もバビロニア風に変え、バビロニアの言葉を学び、彼らの神々を拝むようになった」(p.139)のであるが、その後イスラエルの敗北はヤハウェがマルドゥクに敗北したためではなく、すべてはイスラエル人を罰するためのヤハウェによる計画であり、「マルドゥクなど、そもそもいなかった」(p.140)とされて、神は唯一ヤハウェだけが存在するという考え方が生まれたという。
 
このように、字面だけゴチャゴチャ書いて、知ったかぶりをするのが、楽山です。国と神の名前を追うだけでは、聖書の理解など出来るはずはないのです。楽山には、聖書に共感するための人間らしい心がないから、こういうことをひけらかして、勉強家を気取ってきます。
 
また一神教については、ユダヤ教に先んじて、アクエンアテン、ザラスシュトラらの試みがあったが、そのどちらも長くは続かず忘れられるか変質させられてしまったとのことである。キリスト教については、初期には旧約の神と、イエスの神とは別個の存在だという考え方もあったが、「キリスト教会が唯一の司教――つまり、ローマの司教下の統治システムを法的に有効にしよう」(p.172)という意図によって、唯一神とは異なる多神教的な考え方は排除されたという。
 
唯一神信仰が、陰謀の産物であるかのように書いているのは、楽山が、唯一神信仰を必要としていないからでしょう。ならば、書かなければよいものを、自己顕示欲と、妄想のために、自分が勝ってるということにしないと気が済まないのでしょう。
 
何の役にも立たない、何の益にもならない、楽山の、独り芝居と独り言に、決して関わらないでください。上の2段落は、長い話を書けばよいというものではない、ということが分かるような、楽山という知ったかぶりの独り満悦悪です。理解していない者ほど、言葉だけ過剰になるのです。
 
楽山は、本を選んで、本を曲解して、都合の良い箇所を選んで載せているだけだと思います。何故なら、聖書についても、良いものを何も受け取らないまま、自尊から、分かってるんだという高慢だけで、書いてくるからです。過剰で無意味なプライドのゴミ捨て場になっている楽山ブログです。
 
終盤では、著者は一神教から汎神論的な信仰観を導き出している。神は唯一であり、不可分であるならば、神が創造を行う時、その材料は神以外のものではあり得ず、神自身であったことになる、創造の前には神のみが唯一存在し、不可分であれば当然にそうなる、とすれば神は神を材料として創造を行ったのであり、神と被造物とは別個のものではなく、同一である、つまりすべては神であり、神ではないものは存在せず、神はあらゆるところに遍在している云々。
 
すごい詭弁です。創造の材料も、被造物も、神だと、楽山という神がかりが決めつけて、汎神論に持ってゆこうとしています。ただの一度も、神に、キリストに、聖霊に、信仰に、巡り合ったことのない者の筆致です。
 
楽山の短絡~安楽思考は、神と被造物には厳然たる違いがあることを直観できないのです。主体と客体の区別もつかない誤認識は、それこそ、「心の理論」の育っていない病質者の症状を表しています。自他未分化~神と人未分化の我執だけで捏造した安い神細工(紙細工)です。
 
神の一神遍在論というのはあります。一人の神が、全能ゆえに、普く存在している、ゆえに、ひとりひとりの祈りを聞いておられる、という考え方ですが、学説に過ぎません。そもそも、神の存在のあり方を、存在の次元の限られている人間が解明することなど、ありえないのです。
 
本書全体を通読すると、著者の視点はテーマによって移行しており、宗教の起源については進化論的視点で語り、一神教のはじまりについては現実的政治的視点で語り、一神教から汎神論的な信仰観を導くときは宗教的神秘的視点で語っているようだ。
 
宗教を、インテリ気取りで、何学的視点で、などと言う楽山は、まず、しっかりした視点も論点も持っていません。何学を勉強しても、聖書に表された心を学ぶことがなければ、聖書を読んだことにはなりません。聖書学習の、最も避けるべき迷路を、楽山は徘徊しています。
 
今まで、楽山が書いてきたのは、幼稚な作り話か、詭弁か、いつまでも、小中学生レベルの疑問のままで、学習と成長による進歩がなく、そこで慢心してしまっているだけの、神否定の嫌がらせに過ぎなかったのです。まことに、自分を見ないということのもたらす堕落の惨劇であります。
 
楽山のようになったら正常に戻ることは困難かもしれない、と思わせる記事が楽山日記には満載です。自己愛性人格障害によって、整った説得力のある話が、まるで書けないために、自尊のためには、誇大的になり、妄想的になり、詭弁になり、寄せ集めの言葉だけになるという堂々巡りの末路です。
 
また一神教を突き詰めると汎神論に行き着くというのは、アニミズム的なものからはじまった宗教が、多神教から一神教へと移り、しまいにはまた元に戻っているようにもみえる。ものごとはなんでも円環をなすという話があるけれども、宗教もその例外ではないとすると、これもまた解脱すべき輪廻であり業であるということにならないとは言えなそうだ。
 
「一神教を突き詰めると汎神論に行き着く」・・どういう妄想でしょうか。わざと複雑なことを言ったり、しかもそれを説明しなかったりするのは、君らには分からないだろうね、という、救いがたい自慢・高慢・傲慢を表すこと、楽山は、全く気づかないのです。
 
一神教は一神教、汎神論は汎神論です。被造物まで、神に仕立て上げる楽山の混乱と迷走です。自己顕示欲によって人間性の器を潰してしまったあとに残るのは、原始反応の本能から、快楽原則のみから、自慢だけしてくるような、みじめさだけになります。楽なお山は、虫食いだらけです。
 
輪廻まで持ち出して、「ならないとは言えなそうだ」・・こういう婉曲表現が、ボンヤリ言語の典型です。楽山は、これで、決めつけでない柔和さを示したつもりなのです。言っていることの内容について、他者について、自身について、考えることが出来ないと、こういうゴミになります。
 
本書は宗教を信じ、かつ進化論や歴史的視点から宗教を判断することに嫌悪を感ずる人にとってはあまり愉快なものではないかもしれないが、その辺りのことにはこだわらず多角的視点から宗教とは何か、または神とは何かを考えてみたいという人にとっては興味深く、一読して損はない本であると思う。ちなみに自分は後者なので、冒頭に書いた通り本書は面白く読めた。
 
宗教は、信仰のためにあります。学問は、その糧になります。しかし、偏向した妄想的観念が支配している楽山のような者が、学問に関わり、本を読み、「こだわらず多角的視点」と言っているのは、まさに、楽山が、宗教憎しの妄想的確信の固まりだからなのです。
 
結局、楽山は、記事を書くことによって、神も人間も宗教も真実も、妄執からの針の穴を通して見ており、それで、通ったつもりの愚かなラクダになっていて、言い換えれば、全く多角的視点のない、妄執で出来ている、ということだけが、次から次への、明らかになるのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 
19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 
 (マタイ19:23-24、新約聖書)
 
この「富んでいる」は、単にお金だけでなく、楽山のように、自分は出来るんだ、分かってるんだ、知っているんだ、という、心を固定観念だらけで満たして固めている思い上がりを含んでいると思います。そういう慢心した人は、心を砕かれない限り、実に、信仰から遠いからです。
 
信仰とは神とは何かを考えてみたいという人にとっては、楽山のような無思考と偏見は、何の役にも立たないばかりか、同じ偏向を、ボンヤリ言語で、刷り込もうとする我執~企み~陰謀でしかないのです。どうか、楽山に、決して、近づかないでください。
 
もはや、私の、楽山批判は、恐らく、道に糞が落ちているを見つけて、糞を踏まないで、と読者に言っているようなものでしょう。楽山は、おびただしい病原を含んでいます。
 
楽山は、徒労と疲労と偏見と病質と絶望の宣伝者です。楽山批判は、楽山を変えるためではなく、楽山のような者に関わって訂正不能の偏見だらけになることのないように、楽山にだけは近づかないでほしいという気持ちを伝えるために書いています。
 
 
"楽山" というネーミングは、名所であるとか、縁起が良いとかで、ひょっとしたら、食堂などの施設の名前になっているかもしれません。これらは関係ありません。私が批判しているのは、自己愛性人格障害で偽善者の楽山です。
 
 
偏見は理路にならない

偏見は理路にならない
 
 
(2020年06月08日、同日一部修正)
(2021年06月11日、再録+加筆)
 
 
 
  無能の面
 
計算される数式の値として作表される片隅の一つのセルのように
あまりにも危うく日々に過ぎて
収まっては壊されやすい脆い仮面であるのかもしれない
 
歩みを止め足を踏む木彫りの面
古びた皺と凹凸は罅(ひび)と剥離を伴い
熱を押し殺し秘めた息を舞う
 
計算も予測も不能な傷の
責め際に割れかけて
なお私を離れぬ面
 
紐で括るか
内側で噛みつくか
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
他の人の「宇宙戦艦ヤマト」についての霊言みたいなHS話があったとかのツイートに反応している楽山です。笑えない世界に住んでいる楽山は、いつものように、笑いに飢えています。宗教・信仰と、趣味のお笑いを混同してきた楽山です。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·12時間
ヤマトの話が出てるね。
「宇宙戦艦ヤマト2199」だったら、今、gyaoで無料公開してるよ。
午後10:13 · 2021年6月9日·Twitter Web App
 
楽山は、なごみ、そして、笑いたいのでしょう。誰かを、笑いのネタにして、楽しむ趣味なのでしょう。今まで、楽山が、かき乱してきた命と宗教の問題からの、無責任な現実逃避もいいとこです。楽山は、現実問題は、何も解決していないのに、平気でいられる冷血の人です。
 
趣味と真実追求の深いテーマを混同して、同じ軸の上で、ヤジってきた報いを、楽山は受けるべきです。楽山の大好きな霊言や超常フィクションと、キリスト信仰の生き方と言葉を、混同し、問題を無視してアハハと笑う顔と、命を賭した救い主を、混同し、侮辱してきたのが、楽山です。
 
 
 
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  楽山の害毒
 
 
楽山の頭の中には、恐らく、反省と成長のための思考と感受のフリーエリアがないのだと思います。あるのは、ROMのように訂正不能の妄想的確信だけなのでしょう。その楽山の確信は、自分がバランスが取れていて、いつも正常で中立なことを言えている、というようなものなのでしょう。実際は、感性と思考の糧(かて)になるようなことを、楽山は、一言も言ったことなどないのです。
 
楽山は、たくさん読書をしていますというアピールとして様々な著者の名前を出して引用してきますが、読書というのも、楽山の場合、意味合いが正常とは違ってきて、自分のROMと同じような、少なくとも自分のROMで扱える都合のよい言葉を探すだけになっているのでしょう。
 
楽山の読書は、一種の、単純な一致で拾う検索のようなものです。本を通した深い意味の流れを受け取っておらず、特に、聖書において、顕著であります。楽山の主張には、自分と似たような文言を引用できるという自己満足と、自分の固定観念と反するゆえの反感しか表れていません。
 
楽山の文章には、短絡はあっても、正常な理路はありません。理屈めいたつながりを書きますが、その際、最も大切なところについて恐ろしく鈍感であり、無視されているのです。
 
 
無反省、無責任、無理解、無学習、無成長で生きてきたわけですから、楽山は、恐らく、何の気遣いも出来ない人でしょう。時と場合に、ふさわしくない発言ばかりする人でしょう。いつも、ピントも的も外れていながら、孤立しても、一人前の言動をしているつもりになるのでしょう。
 
そして、人間関係に気を使うことがなく、他者の反応云々によらず、何かをリードしているつもりになるのでしょう。だったら、ネットに載せたりせずに、何も言わずに、人を相手にせずに、誰もいない部屋の中で、独り言を言いながら、自己満しておればよいのです。実際、自意識とは裏腹に、独りであり、誰かに良い影響を与えることはないのです。
 
楽山の言論には、結論がありません。しかも、暫定的な結論も書かないことで、責任を回避できると思っているようです。このことは、誰かが、楽山の言を糧にしようと思うことを拒否する態度です。最初から、何の自信も責任感もなく、欲望だけで書いているということになります。
 
反省することがない楽山には、何かを理解するということがなく、何かを学ぶということがなく、成長するということがなく、感動を受け取ることも与えることも出来ないと思います。それでも続けるのは、自身の誤りと、与えている迷惑を認めず、恥を感知できないところの、病質が、駆り立てるように、働いているとしか言いようがありません。
 
実際、楽山の書く文章は、通念的なところを舐めているだけなので、世辞にはなるが、洞察と共感が皆無です。否定しにくい書き方をしますが、読んでも人間の心に響く何ものも生まれてくることはないと思います。つまり、無駄を与え続けて、読む人を疲労させるだけなのです。
 
 
楽山は、神と宗教と言えば、超常のお伽噺や奇跡物語としてしか受け取らず、ゆえに、そういう話としてしか表せず、人間の生き方に触れる中身が一切なく、ゆえに、多くの嘘の作り話によって、神を云々して、宗教を云々して、揶揄以上にはならないので、何の役にも立たない話になります。
 
つまり、それが宗教だと勘違いされては困りもの、ということを、学者気取りで書いているだけなのです。反省しないから、続けます。責任負わないから、いつも機嫌がよく、他者の迷惑を考えないから、平気でいられ、元気がよく、どんな迷惑も感知せず、まともだという自覚に無根拠に慢心します。
 
そして、結局、はっきりした主張がないから、その曖昧な理路の断片だけが、読者に残ります。それが、一見、楽そうに思えた人の間で、第2、第3の楽山的人格が伝染してゆく、という大きな弊害をもたらす恐れがあるのです。ゆえに、人格破壊の凶悪な疲労物質でしかありません。
 
私は、楽山によって、そういう悪質な疲労を味わったから、批判しているわけです。その結果、さらに明らかになったこととして、自己中で、自己満悦だけの、訂正不能で、罪悪感のないサイコパス的人格としか判断できないということです。
 
 
楽山とは、不完全で罪深い存在、という地上の人間の共感が成り立ちません。ゆえに、楽山の言う信仰も宗教も、何の意味もありません。決して関わってはいけない人です。
 
信仰は、完全なる神と、不完全な人との、決定的な違いを自覚したところからしか始まりません。
 
聖書は、いつも、その違いを伝えています。それを弁えなければ、たとえ、聖書を暗記しても、神学書を暗記しても、総ての本を読んでも、ひとかけらの信仰も生まれることはないのです。
 
楽山の言説は、信仰と宗教と思想の害毒です。
 
 
害毒

害毒
 
 
(2021年01月25日)
 
 
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  精神病理を当ててくる2
 
   「疲労性病原」コメント欄
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)のコメント
 
 
シャロームの、いちゃもんですが、いつも以上に、異常です。精神病理を持ち出してきました。シャロームは、精神病理の発信者ではなく、精神病理の対象者だと思っています。偽善者の精神病理みたいなものとして再録+しています。
 
1. st5402さん お久しぶりです。
 2019年12月19日 13:21
ブログ移行には以下のst5402さんの記事引用のようにずいぶん苦労されたようですね。
「ブログ移行の件:
前にFC2サーバーの移行ツールを使ってコピーしたが、カテゴリーと記事内のリンクが反映されなかった。
今回は、ヤフー提供のライブドアのツールを使って移行してみた。1時間かからないで、カテゴリーも記事内リンクも正常にコピーされたので、嬉しくなって、いくつかのブログにライブドアがいいとコメントを書いた。
早計であった。というのは、コメント欄が表示されていないことに気づいたからだ。設定をいじくってみたが改善されないので、サポートに問い合わせた。
最初に来たメールは自動返信なので当てにしない。2つ目のメールが回答だと思ったら、基本設定で何でもできる、という感じのCMみたいだったので、できないから問い合わせたのに・・と、少なからず、がっかりして、こんなメールは要らない・・と、今度はライブドアお勧めコメントを取り消すコメントをあちこち書いた。
早計であった。3つ目のメールが来て、見逃した設定項目「(コメントを)すべて受け入れる」をオンにするなど具体的なアドバイスが来て、それで、コメント欄を表示する小さいボタンが付くようになった。
ということで、今、記事を書いている。
これで、ブログとして私の需要を満たす機能がそろいました。
 」
 
シャロームは、ヤフーの紹介によるライブドアへの移行ツールを使って、私のヤフーブログを、ライブドアにコピーしたときの、私がサーバーに問い合わせた内容と、移行初期のトラブルについて、私の記事かコメントをコピペしているようです。この時点では、シャロームの意図も目的も分かりません。
 
2. st5402さん お久しぶりです。
 2019年12月19日 13:24
今、気になっているのは、これで、現時点で、計5つのサーバーに私のブログがあるわけだが、そのリンクをライブドアブログの記事の文末につけたところ、フォントがおかしくなった。そして、それを修正すべく、修正を繰り返すたびに、記事本文は何とか正常だが、他ブログサーバーへのリンクは、ますます小さくなり、ついには、糸みたいに細くなって、殆ど読み取れなくなってしまった。
 「これは、故意なのか、バグなのか、分からないが、」
こういうことも含めて、ヤフーからの移行先のメインブログにするか、バックアップにするかを決めるのだから、
 「故意だったら、こういうことはしないでほしいし、故意でないならばバグを直してほしい。」
引用おしまい。
「そして、それを修正すべく、修正を繰り返すたびに、記事本文は何とか正常だが、他ブログサーバーへのリンクは、ますます小さくなり、ついには、糸みたいに細くなって、殆ど読み取れなくなってしまった。」
 」
・・・・・・ことがどうしてlivedoorの故意ではないかと疑ってしまうのかおかしいと思えないのでしょうね。
 
その続きで、私が書いたライブドアブログの表示の不具合を書いています。だんだん、シャロームの、汚い悪意と作為が見えています。不具合について、私は、サーバーのせいか、バグなのか、と考えているのに、シャロームは、サーバーの故意と疑うのがおかしいと言いたいようです。
 
シャロームは、サーバーには、バグもないし、いたずら小僧もいないし、清廉潔白だと信じてなければならないと言うのでしょうか。シャロームが、ライブドアとサーバーの正義を信仰しているとは知らなかった。
 
このコメントを書いたシャロームの作為と悪意が明らかになってゆきます。シャロームの頭がおかしい、または、シャロームの精神が悪意に満たされているという状況証拠くらいにはなるでしょう。
 
3. shalomです。こんにちは
2019年12月19日 13:25
「これは、故意なのか、バグなのか、分からないが、」とは書いていますが、でも故意かもしれないという疑いがあるようですね。
だから次のように書いているのですから。
 「故意だったら、こういうことはしないでほしいし、故意でないならばバグを直してほしい。」と繰り返し書いているのですね。
 
つまり、故意である場合と、バグである場合を書いています。可能性を書いているのです。サーバーは正義の味方という信仰は持ちませんので。
 
この場合、被害妄想であるならば、他の可能性を考えず、サーバーが自分に意地悪をしている、というような決めつけの記述になるはずです。
 
そして、これを書いた後、だんだん、表示は改善され、事なきを得ているのです。それで、問題解決なので、実際、どうであったかは分かりません。
 
しかし、シャロームは、私のブログから、わざわざ、掘り出してきて、ネタにして、以下のような精神病理を語り始めます。
 
>こういう故意ではないかという疑いは被害妄想癖による思い込みですよね。
 
妄想は、確信に満ちて訂正不能なのが特徴です。つまり、故意ではないか、ではなく、故意に違いない、というのが被害妄想です。シャロームは、何を言っているのか。いちゃもんとして書いてくるコメント文章の次元がどんどん低劣を極めている。
 
妄想というのは、異常な確信に満ちています。つまり、シャロームが、私を「被害妄想癖による思い込みですよね」と決めつけて書いてくるほうが、妄想性は高いのです。
 
一事が万事、自分の思い通り、期待通りに人や物事がいかないと自分の思い通りに直したい、治してあげたいと思い、また故意に自分の邪魔をしているのであれば直せと要求したり、被害妄想を抱いてしまうようですね。昔も、今も・・・。
 
シャロームは、児戯に等しいこじつけを題材にして書いているようです。シャロームが被害妄想と書いているのは、シャローム批判を書き続けている私への当てつけなのでしょうが、シャロームのほうが確信度は高く、かつ、根拠が無く、かつ、私の問い合わせくらいの気持ちを、「直せと要求したり、被害妄想を抱いて」ということを書いて、誇張しています。攻撃的な作為と悪意だと思います。
 
ブログの表示の問題は、私の思い通りにはいきませんし、私が治すことなど出来ません。故意の悪戯ならという条件で正すように、バグならば是正するように、サーバーに問い合わせるのは何ら不思議はありません。
 
ネットでの、ライブドアというサーバーにおける、ブログ立ち上げ時の、軽いトラブルを、私は書いているのですが、シャロームの、とんでも精神病理学?では、妄想ということになるのだそうです。
 
今、私は、快適に、ブログ記事を、ライブドアブログで、また、他のサーバーでも書いているのですが、そういう今の状況を弁えもせず、おとしめるためだけに、異常な確信をもって、時が既に経っているのに訂正不能に、私を妄想患者だと決めつけて、シャロームは、にわか医者となって、笑えない無理なこじつけを書いているのです。
 
全く、迷惑であり、侮辱に他なりません。訂正不能・非合理・異常な確信という妄想の3つの条件を満たしているのは、どちらでしょう。
 
自分の批判、疑念を正当化し、自分に被害妄想癖が強いことを受け容れることができないので、自分の病的な性格を否定するために、執拗に他者への執拗な批判せずにはおられないようですね。
shalom!
 
これで分かるように、シャロームの、ここまでのサーバーの話は、自分が批判されていることへの当てつけなのでしょう。うまく言質を取ったつもりで、逆に、馬脚をあらわしているのです。
 
被害妄想癖が強いことを受け容れられる妄想家はいないと思いますが、そんなことより、シャロームこそが「自分の批判、疑念を正当化し、自分に被害妄想癖が強いことを受け容れることができないので、自分の病的な性格を否定するために、執拗に他者への執拗な批判せずにはおられない」人だということです。
 
根拠もなく、相手を妄想だと決めつければ、その決めつけが妄想だと言われること、予想できないのでしょうか。
 
シャロームの今回の妄想には、狙いはあっても、全然、根拠が成り立ちません。
 
一方、私がシャロームを妄想だと判断する根拠は、上の妄想の3要素を満たしていることです。作為だとすれば、とても、幼稚で、悪意に満ちた話です。未熟なまま訂正不能になっていることからは、むしろ、シャロームの精神年齢を疑いたくなります。
 
幼稚な、いちゃもんしかつけられないシャロームです。いよいよ、姑息な、意地汚い根性で、既に解決済みのちょっとしたトラブルをも、大仰に広げて、私を精神病に仕立てたい、また、こそこそ、何でもいいから、欠点を見つけて、けなしたい、という卑怯さが、あらわになってきました。
 
読んでいて、正常で健康な心とは、かけ離れたシャロームの崩壊ぶりが分かります。文章読解能力が、ここまで堕ちてくるとは、妄想カルトの固着した信条が、いかに、正常な思考力を奪い、健康な情緒を奪い、人格を破壊してゆくか、ということを表しています。
 
シャロームには、病識も自覚もないから、こんなに恥ずかしいことをしても、そのために恥をかいても、それを恥とは感じないと思います。これからも、酷い、そして、無意味な、コメントを書いてくるのでしょう。たとえれば、顔が排泄物だらけになっても、まだヘラヘラ笑って説教を垂れるようなものです。
 
 
捻じ曲がる病巣

ねじまがる病巣
 
 
(2020年01月05日)
(2021年01月07日、加筆して再録)
 
 
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  楽山の臭み
 
 「すべては神の御心のままに…」という祈り
 2020年12月06日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、二日間の後、また、書いてきました。次の記事も書いています。書くことに、依存症にでもなっているのでしょうか。またしても、他者の言葉を、恐らく無断で引用して、賛否を述べています。賛否を述べるだけで、根拠を書かないのは、前からあったことです。
 
新発見でもしたかのように、楽山は、書いていますが、結局、苦し紛れに、神にゴマを擂り、自己満足しているだけです。相変わらず、教える?態度で。
 
それにしても、楽山は、本当に厚顔なのだと思います。批判記事が、私のブログに山と積まれているのに、トップ記事でなければ気にならないようです。そういう浅い感受性だから、平気で、嘘を吐いても気が咎めないのでしょう。
 
*意味
「すべては神の御心のままに…」という祈りは、よく聞くけれども、その意味はこういうことだろうと思う。
「すべては神の御心のままに…たとえそれが私にとって幸いなものであっても、災いであっても、すべて受け入れます」
 
今ごろ、何を言っているのでしょう。ヨブ記を見れば、分かることです。しかし、誰もが、平気で、耐えられることではないのです。
 
楽山は、嘘を吐いても、罪悪感がないので、平気で、平然と、次の記事を書いてきます。
 
楽山が書くと、けがれると改めて感じるのは、このような神肯定の文章です。肯定するのだから文句はあるめえ、というような笑い顔が目に浮かぶようです。決して真に受けてはいけません。否定も肯定も、好きなように嘘を吐く男です。だから、言います。今さら何を言っている。
 
*テーマ
思うに、これこそが、「ヨブ記」のテーマではなかろうか。
たとえば、岩波文庫の注釈では、このように表現されている。
神のために神を信じきることが可能かということがヨブ記の主題である。
(『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳、岩波書店、2017年、p.167)
これはおそらくは、幸いを与えてくれるから神を信じるとか、災いをもたらす神は信じないというのではなく、自己の利害からはすっかり離れて、「すべては神の御心のままに…」という信仰のことをいっているのだろう。
 
ヨブ記が分かったかのような口ぶりですが、大事なところが抜けています。何ゆえ、神を信じ切るのか。そこに信仰の本質があるのです。
 
高等感情のない楽山の、こしらえ物にだまされてはいけません。狼と少年です。嘘を吐き過ぎた者の白々しいごますりの、エヘヘ言葉なのです。楽山は、キリスト教について、宗教について、一切、その初めから、理解が出来ていません。何故なら、今までの記事より、反キリストだからです。
 
*現状
こういう心境は、「神は人に幸いは与えても、災いは与えない。災いは悪魔によるものである」という風に、自己の期待願望によって神の御心を限定するのではなく、「神は人に幸いも、災いも与える」として神の御心に枠をはめることなく、すべてを受け入れる覚悟をしなければ到達不可能なのだが、自分はいまだにそこまで辿り着けていないのが現状ではある。
 
楽山には、到達不可能です。自己の欲望によって、人にも神にも枠をはめて、何も受け容れず、嫌がらせだけを言ってきました。今回も、さんざん悪態をついてきた後の、欲望の表れです。アプローチをちょっと変えてみたつもりでしょう。そこに、あくどさが、表れています。楽山は、詐欺師体質なので、こういう恥ずかしいことも、やってくるということです。
 
「いまだにそこまで辿り着けていないのが現状」・・何度も、何度も、そして、またしても、反省芝居。何ゆえ信じ切るのかを書かないで、分かったことにするのだから、嘘だと、芝居だと分かるのです。決して真に受けてはいけません。
 
こういうことは理屈では分かるけれども、心からそのように思えるところまでは行っていないのだ。こうしてみると、自分は今はまだ招かれてないということなんだろうな。とほほ。
 
「理屈では分かる」・・とんでもない。理屈では分かりません。信仰は理屈ではありません。
 
「心からそのように思えるところまでは行っていないのだ」・・どういうところだ。「心から」と書けば、言い得たことになると思っている。正常な人の悔いは、こういう場合、物が言えなくなるということです。
 
だから、楽山は、「自分は今はまだ招かれてない」などと言って、いったい、どこに招かれる時が来ると思っているのでしょう。
 
まだ招かれていないのではなく、黙らない限り、楽山に手招きしてくるのは、別のものでしょう。既に、受けているとも言えるでしょう。反キリストゆえに。
 
嘘の芝居のトホホ言語のペテン師、まだ、それが通用すると思っている。不感不応の恐怖。
 
 
  2020年12月06日
  自己流解釈(HS信者を見ていて思うこと)
 
 
何を思ったか、信仰の「し」の字もない反キリストの楽山が、聖書の読み方を教えようとしてきます。客観に見せかけた主観~妄想ですから、真に受けると、生涯、消えようのない傷になるでしょう。その傷にも気づかなくなるでしょう。真に受け続けると、楽山に似てくるからです。
 
楽山は、人を聞かないのだから、楽山を、聞かないように、読まないようにしてください。良心をクズのように扱う楽山を拒否してください。楽山の、鼻の曲がりそうな臭い芝居にだまされないように願います。
 
*自己流解釈
「ヨブ記」について、HS信者が感想文を書いていたので読んでみたのだが、正直言って自己流解釈に傾き過ぎているように思えた。
・神への全き信頼を持つ時に、災いをさえ、心静かに受け取るのかもしれない
・私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、
・人は神の前に正しくありえようか。人はその 造り主 の前にきよくありえようか 
 
災いを「心静かに受け取る」のは、一部の聖人か、でなければ、やせ我慢か信仰自慢の見せかけです。
 
楽山が、何の根拠もなく、評論や批判をして、インテリぶる自慢は、見せかけだけの大嘘です。
 
神の前に、正しくあり得る人はいません。ゆえに、キリストが十字架につくのです。過去の歴史ではなく、今も、それぞれの人の罪の故であります。
 
その最悪なる例が、楽山であります。なぜかといえば、神も人も、だましているからです。しかも、楽山は、それを楽しんでいるのです。まるで、聖徒たちの死体をカラスがつつくように。
 
楽山は、罪人にとどまらず、最悪の偽善者なのです。キリストを殺した群れの中で笑っている者の一人です。また、今日、嘘の理解を示して、罪と偽善を重ねています。
 
*基本設定
あれこれツッコミを入れても仕方がないので、論点を三つほどにしぼって書くと、まず一つ目は、災いはサタンの仕業で、神によるのではないとする解釈は無茶だということである。
 
楽山は、災いを神のせいにし、かつ悪魔の味方をしています。なぜでしょう。楽山は、自らに巣食っている悪魔に気づかないからです。無反省・無責任だと、こういう考え方になるのでしょう。
 
楽山に限っては、死ぬまで、悪魔の弁を、即ち、嘘、詭弁、ごますり、エヘヘ、芝居、などを続ける人だということが、これまでの言に、表れてきました。決して、真に受けてはいけません。関わってはいけません。近寄ってはいけません。
 
そもそも、「ヨブ記」の信仰観はこうだろう。
主は与え、主は奪う。
(ヨブ 1-21)
神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。
(ヨブ 2-10) 
 岩波文庫の注釈にはこうある。
ヨブに下される試練はヨブには知られないが神の意思に出たことで、ことに神と「敵対者」の間に賭けられた問題であった。
(『旧約聖書 ヨブ記』関根正雄訳、岩波書店、2017年、p.166)
 」
一部の表現、言い回しを根拠にして、こういう基本設定を拒否しようとするのは自分勝手解釈といわざるを得ない。
 
闘鶏でも見るかのように、見ている楽山の視点に注目してください。どこまでも傍観者の立場であり、自分の存在のテーマとして見たり考えたりすることが出来ないのです。だから、いつも、言葉の表面を繕うだけになります。
 
「こういう基本設定を拒否しようとするのは自分勝手解釈」・・楽山の基本設定は、自分は、中立で正しい、という訂正不能の自己愛の妄想です。
 
ここで、ケダモノの本性が現れています。自己愛・自己中から、一歩も抜け出すことがなく、自分以外を、劣っているものを見下ろす視線でしか見れないのです。
 
今までの経過といい、何も受け取らず、その場その場で、言い逃れ、自己満足だけで生きてゆける稀有なもの、もはや、人間とは思えません。
 
*HS的な解釈
憑依がどうしたこうしたというのはHSではよく言うことだけども、「ヨブ記」にはそういうことは書いていないだろう。HS教義をつかって「ヨブ記」を読んでも、そこから生まれるのは「ヨブ記」のHS的解釈にすぎず、それは本来の「ヨブ記」とはちがったものだ。
「ヨブ記」は、「ヨブ記」によって読むべきであって、HS教義によって読んでも仕方ない。
 
だったら、書くな、ということです。いつも知ったかぶりの評論家気取りです。内実は、実に安っぽい詐欺師でしかありません。どこまでも嘘でごまかせると思っている、こういう徹底した嘘吐きの偽善者は、聖書の話と比較検討しても稀でしょう。
 
このことは、HS本は、HS教義によって読まないと、本来の意味を読み取れなくなることを思えば容易に理解できるはずだ。
 
本来の意味を読み取るために、HSの本を、HS教義によって読むべきだと言っています。しばしば、批判したいのかどうかが、怪しくなります。
 
ひょっとしたら、楽山の教祖願望が表れているのかもしれません。恐ろしいことです。しかし、楽山を教祖とするくらいなら、死んだほうがましな人間世界というべきでしょう。
 
*友人たちの評価
ヨブの友人を高評価するのは自由ではあろうが、神の評価はこうなっている。
「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」
(ヨブ 42-7)
 」
神がヨブの友人たちをバツ判定したということは、「ヨブは正しい人だったが、神から試練を与えられ、そのことを理解しない友人たちから、あらぬ非難を受けてさらに苦しんだ」とすれば合点が行くけれども、「ヨブは自分自身の過失によって災いを受け、そのことを友人から指摘されると怒り、神を呪った」とすれば意味が通じなくなるだろうと思う。
 
恐ろしいことです。嘘吐き楽山は、ここで、神の判定を解釈しようとしています。楽山には、そのような器はありません。人も神も、バカにしてきただけの履歴からは、生涯、黙ること以外、人の世において、楽山の何も、正当ではありません。
 
また、だましに来ていると思ってください。楽山は、批判対象とする以外、意味はありません。楽山が、表れたら逃げてください。何か言ったら無視してください。問われても、何も答えないでください。楽山は、人からも神からも、何も受け取る意志がないからです。
 
普通の人ならば、聖書解釈はあってよいことです。考えることで、身につくことがあるからです。しかし、楽山のような、自己顕示欲のみによって、自己主張をする人からは、害毒しか生まれません。
 
また参考として書くと、内村鑑三の「ヨブ記講演」では、苦境にある人に面と向かって、それは罪の報いだというのは人情に反するし、罪の報いとして災いがあるとしても、災いのすべてが罪の報いとは限らないことは、イエス、パウロの例をみればわかるし、ヨブの災いは罪によるのでなく、信仰の試し、試練であろうとしたうえで、ヨブの友人たちには辛い評価をしていた。
 
楽山は、内村鑑三を読んだことにしたいだけです。内村鑑三の信仰を欠片も受け取ってはいません。言葉面を読んだだけでも、こういうことは書けるのです。無責任な野次馬として。
 
人は、しばしば、罪の報いと試練を、区別できません。だから、苦しい中でも祈りがあります。それは、人から神への唯一の音信です。楽山はそのような人間のあり方を全く知りません。
 
どこまでもどこまでも、神と人の上に立って、口の減らない楽山です。その報いは、神の手にありますが、私たちは、関わるべきではありません。楽山の不遇は、罪の報いであり試練であります。そして、それに対して、楽山は、高慢によって裁く者のように書いています。それで、終わりです。
 
誰の友人にもならない楽山、神さえも裁こうとする楽山、口だけは減らないで、ヘラヘラ書いてくる楽山、神を恐れない楽山の言うところ、誰かの言葉の表面を舐めただけの楽山、御心の深みと、心の深みを、全く理解していない楽山、楽山からは、信仰に必要な、いかなる共感も生まれません。決して、楽山の言葉を、批判以外の目的で、見ないように、読まないように、聞かないように、受け取らないようにしてください。
 
*まとめ
自分の直感に従って読むということは、必ずしも否定されるべきことではない。でもその場合であっても、基本設定や定説との距離は自覚しているべきであるし、先人の解釈に対する敬意も必要だ。それがなければ、ただの勝手気ままな自己流解釈とされても仕方がない。ここはよくよく注意すべき点である。
 
自分の直感によって読むということは、私たちは、いつも、やっていることです。さらに、反省することのない楽山が否定肯定を云々することではありません。楽山には、基本設定も距離もありません。全部、自分の汚い便器の中において処理しています。即ち、楽山は捨てるために、そして楽山の結果は捨てられるために、今は、得意になって自慢話をしているだけなのです。
 
楽山は、先人の解釈に対して、微塵の敬意も持っていないことを知ってください。いつも、物であるかのように、もてあそび、いじくり、曲げて、オモチャにしているだけです。
 
楽山は、いつも、勝手気ままな自己流解釈によって、反信仰と反キリストの心で、遊んでいるだけです。よくよく注意して、決して、楽山に近づかないでください。
 
恐怖度が、アップしてきます。信頼度は、ゼロ~マイナスです。何も受け取っていない楽山の自己愛のワールドは、関わる者を滅ぼすでしょう。
 
HSでは、仏典でも、聖書でも、なんでもHS式に解釈してしまいがちだし、仏陀は生まれ変わるものだとして仏教の根本的な設定さえも、ひっくり返してしまっている。だからその信者が同じようなことをするのも止むを得ないことではあろうが、これはある意味、法を曲げることであるし、慎むべきことであると思う。
 
楽山は、何でも、誰の文章でも、自己中ワールドで解釈しています。言葉面の、薄っぺらな辻褄合わせだけであり、心が無いために、教理に沿ったり、外したり、好きなように書いてきます。それを、解説であるかのように、もっともらしい嘘と詭弁で、だまして受け取らせようとしてきます。人をもてあそび、神をもてあそぼうとする報いは、いずれ、神に任せられます。
 
神を否定しているから、楽山は、平気で書いてくるのです。しかし、楽山は、他者の言葉を借りないと、物が言えなくなっています。元々、楽山は、自分の言葉だけでは、理路が成り立たないのでしょう。それが、今まで、明らかになってきたのです。
 
恐らく、あとで、責任を負いたくないからでしょうが、そういう無責任な述べ方は成り立ちません。賛否の意志を持っているから引用するのであって、引用した責任があり、賛否の責任があり、いかなる場合も、言論に、責任がないなどということは決してありえないのです。
 
書いたものから小細工の腐臭が漂ってくることで、楽山は、自らの腐敗を証明しています。
 
 
臭い

くさい
 
 
(2020年12月07日、同日一部修正)
 
 
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  楽山の身の程知らず
 
 「身の丈論争」を読む
 2020年12月03日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、また、とんでもなく長い記事を、ほぼ他者の引用だけで、書いてきました。まるで、高みの見物でもしているかのように、楽山は、ところどころボヤキ程度にポショポショ語っているだけです。それによって、楽山は、自分の責任から目を背けたいようです。
 
ここのところ、批判ばかり書くことになっています。全部引用する気には、到底なれませんので、かなり省略して、抜粋して、おもに楽山の書いた僅かな文章を中心に批判します。しかし、楽山は、ほとんど中身のある文章を書いていません。
 
*ブーメラン
こういう構造は、ますます酷くなっていると思う。
KKってさあ、世間への提言・批判を自分とこの教団に置き換えて 
考え直してみたらいいのにと思うことばかりなんだよね。 
内部は北朝鮮さながらなのに、欧米的な洗練が身についてると勝手に思い込んでる。
 」
*深いお考え
次は後編から要点抽出してみる。
これは自分にも、身に覚えがある思考法だ。
総裁が常々おっしゃっていることは
「疑うな」「小ざかしい人間頭で理解できると思うな」ですから 
つまり幸福の科学でいう確固たる信仰とは「疑うな、考えるな」ということです 
一体一万票のはずが全敗でも、考えちゃだめ、疑ったらだめ 
もう、おっしゃることや方向がコロコロと変節しても考えちゃダメ 
まぁそんな感じですよね 
まさに人間やめますか?と言われているようなもので、
わたしには無理というものです 
自分の我といわれればそのとおりですけれど、わたしには譲れない一線がありますから 
カトリックが変なことしだしたらやっぱりわたしはヤメますね
 」
そういえば、選挙の時は、1000万円のエルカンターレ像一体購入で、一万票入るという話を聞いたのだった。総裁が立候補する、やっぱり撤退する、でもやっぱり撤退を撤回するというすったもんだもあったのだった。
 
楽山は、自分の身の丈を考えずに、高みの見物です。HSでの過去の体験を語っていますが、HSが、いろいろな齟齬を来たしているのに、楽山は、自らには瑕疵がないかのように、ふんぞり返って、前から言っているように、評論家気取りなのです。この楽山が、腐った根性だけでコピペしながら、軽々しく口を挿むなどは、全く、宗教の敵としての振る舞いなのです。
 
*確固たる信仰心と道徳的行為
これは聖杯と剣氏の発言。まさに正論だ。
確固たる信仰心って何なのだろうか。それって盲信・狂信と何か違うのだろうか? 
少なくとも神学的な伝統から言えば「確固たる信仰心」とやらには盲信・狂信・ 
イデオロギーの物神化を疑うのが普通ですね。物理的属性を備えていない神の 
存在を人が感得できない、その存在を信じられないのは当たり前ですね。 
神の存在を疑う事と、神を畏れてよき人になる事は全く矛盾しません。 
よって思考や心情が逡巡するのはある意味当たり前なんですよ。 
それはその人が神についてしっかりと考えている事を意味します。 
 」
 
信仰は有無であります。信仰の中に、敬虔、謙虚、謙譲が含まれており、それは、不完全な人間が、完全な神を信ずるがゆえのことです。
 
信仰ゆえに、神を決めつけないことが、最低限必要とされますが、キリスト信仰における確固たる信仰は、そういう、人間としての身の程を知ることを意味しています。
 
ゆえに、確固たる信仰というのは、神の前に、正直以外、持たないことです。
 
言っておきますが、楽山の賛同して引用している『「確固たる信仰心」とやらには盲信・狂信・ イデオロギーの物神化を疑うのが普通』というのは、著しい偏見であり、そういうことになったら、もはや信仰ではないのです。
 
楽山という知恵足らずの勉強不足は、得意気に、キリスト教を偏見で語り、かつ、貶めてきます。
 
神と信仰について、自分はここは理解できるが、こちらはできない、ここは共感できるが、こちらはできないという具合に分けて考える性質で、それに対してLEO氏は傲慢だとか何とか立腹しているようでわけが分からなかったのであるが、聖杯と剣氏の書き込みを読んで合点が行った。ようは、LEO氏は神と信仰を丸呑みするかしないかという危うい断定に陥ってるということなんだろうな。
 
信仰は有無であります。それを、断定できるのは、神だけです。すなわち、人が、正しい信仰を持っているかどうかは、人は判断にとどまります。裁くのは、神だけです。
 
そういえば以前、ツイッター上にて、信者氏が「信仰がないのは動物と同じだ」と言い放って、ぷち炎上になっていたこともあった。これも危うい断定に陥っている例だろうな。
 
人間としての良心がないのは、動物と同じです。楽山は、自分では整ったことを書けないので、動物のように、都合の良い言を求めて、荒い息を吐き、よだれを垂らしながら、人の意見を貪り、また、人の意見を捨ててゆくのです。
 
*100パーセントの信仰
これは舞華氏の発言。こちらも正論。
大川隆法は神だと100パーセント信じて疑わないということは、見方を変えれば、「自分は神を認識できる。神かどうかを判断できる」ということであって傲慢なことだ。
 
楽山が、楽山の理屈で、神を否定するのも、傲慢以外の何ものでもありません。先入観だらけで、理路も整わないのに、神を否定したのは、楽山であります。さらに、それと相容れない、お祈り芝居をしたのも、楽山であります。実に、いい加減、というより、むしろ、何も理解していないのが、楽山なのです。決して、近づかないでください。最悪なのは、楽山です。
 
また、大川隆法を神だとすることは、「神とは大川隆法のような存在だ」と断言することでもあり、これは神に対する冒涜だろう。HS信者からしたら大川隆法は神々しく見えているのかもしれないが、傍からみたら「大川隆法と神様をいっしょにしたら、いかんだろう」ということになるのだからそういうことになる。
それから、100パーセントの信仰とは、言い換えれば完全な信仰ということであろうし、完全は神の属性で、人にはできないことなんだ。もしそれができるというなら、傲慢ということになるだろう。
100パーセントの信仰というのは、考えれば考えるほどおかしな考え方であって、ただのハッタリ、元気づけの言葉でしかないように思う。
 
楽山の悪質な言い分は、神の絶対を否定して、いい加減で済ませるのが、正しい信仰だという雑言であり、ゆえに、楽山には、何よりも信仰に必要な、神に比べて、不完全な人間の経験・謙虚・謙譲が全く育っていないのです。まさに、人間のレベルで、無反省で無責任な楽山は、既に、人間失格なのです。そのような楽山に、宗教を云々する資格も器量もありません。
 
*信仰とエゴイズム
これは聖杯と剣氏の言葉。
疑わずに100%の信仰を求めるのは
キリスト教圏ではカルトだけだ。 
 
キリスト教も一枚岩ではありません。キリスト信仰となると、人ごとに違うところもあるでしょう。しかし、キリスト信仰は、罪の性質、即ち、不完全な罪人である、という自覚がなければ、決して成立しません。これは、ある意味、試金石になるでしょう。
 
その自覚のない者は、不完全だが神が教えてくれる、などという者は、さらに、それを自慢する者は、キリスト信仰のベースにおいて、既に、キリスト者ではないのです。
 
こんな事はキリスト教圏の知識層では当然の議論だ。 
少なくとも今日宗教について学ぼうとする人間でおよそ疑える要素満載の 
神の存在をどうして前提とするのかは各自しっかりと考えておかねば 
ならない宿題なんだよ。神は存在する事に賛成するのか反対するのか、 
意見としては賛成・反対するが、科学的には不可知とするのか。 
君達はこういう知的伝統にも全く無知だから「信仰」ってのが根本的に 
分かっていないんだ。絶対的確信は狂信に過ぎない。
信仰とはもっと知的な精神態度なんだよ。
 」
 
神は、不可知とするとかではなく、不可知であります。何故なら、私たち人間は不完全で罪を犯す性質を持っていますが、神は、完全な存在として、人にとって仰ぐ存在だからです。
 
であれば、神を、その意志と行為を知っているなどというのは、恐れを知らないのであって、信仰者の発言ではありません。狂信というなら、そういう傲慢な信じ込みのことです。伝統がどうとか、という問題ではありません。信仰は、いつも、今、存在しなくては意味がありません。
 
神を思い信じるがゆえの言動においても、人は不完全であり、罪の性質があります。ゆえに、折に触れて、罪人には、正直な告白と祈りが必要です。
 
神を疑ってもなお神の 示したモラルに従って生きる事を自由意志に基いて選択した時、この世界に 
おける倫理的公準は向上したと言えるのではないかな。だからこそ神は神はこの世界を倫理的に完成させる作業を人に委ねられたと言えるんだ。 
 」
 
信仰は、倫理的言動を伴うけれど、倫理そのものではありません。また、歴史的にはキリスト教集団が促した戦争もあります。間違えば、人の確信が、人と世界を滅ぼすので、楽山のような、いい加減な許容の狭量で信仰は語れないのです。
 
即ち、疑いつつもなお、
倫理的に生きる事が重要なんだ。 
そして宗教の歴史が示すように、宗教の示すモラルに従って倫理的に 
生きていく中で、人は神の存在をあらゆる高邁なる価値の源泉の存在として 
感得する事に不自由さを感じなくなるんだよ。 
 」
 
「感得する事に不自由さを感じなくなる」・・神の御心を、不自由なく、感得することが出来ると思ってはいけません。それは、不可能だと考えるべきです。確認のしようがないからです。ゆえに、折々に人間に出来ることは、その時の判断に過ぎないので、正直な祈りと赦しが必要なのです。
 
信仰とはそうした知的作業が伴うものでモーセでもイエスでも大川さんでも 
いいが、誰かが言った事に飛びついて「おら信じるだ」とその人のいう事を 
無思慮に受け入れる事を信仰と言わないんだよ。第一それは 
①自分の信じたい事を言ってくれたから信じている可能性 
②それを信じることで自分に何らかの利得が生じる可能性 
をまるで否定しきれないんだから。 
すなわち自分のエゴイズムの投影を
「信仰」と称している可能性をちゃんと検証しなきゃだめなんだ。
 」
 
検証は出来ないと思います。ゆえに、神への唯一の音信である祈りと、神の赦しが必要なのです。
 
カルト的な人は、神の結論を知りたがります。それは、神の秘密、神秘なのです。
 
また、信仰は、神聖になるために必要なのではなく、人間の唯一の使命であるところの、まともな信仰者という人間になるために必要なものです。
 
ちなみに私は「神が存在すると考える」と問われれば「分からない」と答えるし「神を信じているか」と問われれば「思う」と答える。倫理的に向上を志して生きている人は価値の源泉としての神を受け入れる事はむしろ自然な事だと思うが、自然だからといってそれで「存在すると考える」根拠にする事はできない。
 」
 
人は、神の前に、倫理的に向上することが目的ではなく、不完全でも信仰が成長することを志します。信仰者になっても、罪人であることに変わりはありません。
 
だから、キリスト教系といわれるカルトは、道徳律を守っていると思われても、キリスト者とは言えないのです。どこかに、偽善が潜んでくるからです。
 
信仰に最も近い、人間の心のメソッドは、共感です。信仰を、理屈で語るのは、ある意味、危険であります。また、共感を捨ててしまった者は、信仰を理解できないでしょう。
 
存在の証明ができない以上神の存在の賛否はいつまでたっても不可知なままだが、
不可知な中にこそ
倫理的に神を選び取る事がクリティカルに重要で、
その倫理に賭ける態度を「信仰」と呼ぶのだ。 
そして「不合理なれども我信ず」という言葉はこういう不可知な中から 
信仰を選び取る煩悶が理解できないと分からない言葉なんだ。君らは 
一生わかんないんじゃないか。
 」
 
神を、この地上で、理解することは不可能です。そこで、信仰と、カルトの違いが表れるでしょう。
 
神の良さとか整合性を理解したと思い込んで信じ込むのがカルトです。
 
神は全知で全能で絶対で完全で永遠で不変だということを理解できなくても、イエス・キリストゆえに、合意し、希望をゆだねて、信じ、仰ぎ、祈りにおいて神の前に正直であることに努めるのがキリスト信仰です。
 
自分の見分の範囲でも、熱心な信仰者が、極端にエゴイストである場合は少なくないな。自分を正義の位置において、他人を悪者と決めつけて叩くことに躊躇しないとか。
 
皮肉のつもりのようだが、楽山が不誠実であるために、無反省であるために、無責任であるために、さらに、そのことについて、何の弁明も出来ないのに、何の成長もないために、楽山の記事に、私のブログで、根拠とともに、批判を貼りつけてゆくわけです。楽山は、根拠を示したことがありません。
 
「不合理なれども我信ず」というのは、不合理を承知の上で信じるという選択をしているのだから立派だ。これと比べて、HS信者の場合は、HSの教えは整合性があり、合理的なものだとしたうえで信じている人が多いのは残念。
 
ここで、「不合理を承知」を立派だと、楽山が言っているのは、宗教を、いい加減にしか考えないし、理解しようともしない楽山に、ただ、都合がよいからです。
 
正確に言うと、神は、人間から見ると、不合理に見えることがある、ということです。
 
極めて悪質な楽山の無理解が、気安く、神に、不合理というレッテルを貼ろうとするのを、見逃すことは出来ません。無理解な上に尊大なのが、救いがたい楽山です。
 
HSには議論ができる人が少ないのも、たぶんこれが一因だろう。エルカンターレ信仰の不合理性を自覚しないから、トンデモ論理をまっとうな理論だと思い込んで語り、大恥をかくことになる。もっと信仰について真剣に考えればいいのにと思う。
 
楽山は、信仰を真剣に考えたことなど、一度も、ありません。楽山の文章には、宗教など、いい加減で、どうでもいい、という考えしか、表れてきとことはありません。このように、楽山が、忠告めいたことを言うとき、それに、いちばん背いているのは、楽山その人なのであります。
 
*緘口令
これは信者氏と舞華氏の会話。
個人的に疑の心があってもいいが、それを公に言ったらダメなんだよ。 
それでは、人の信を奪うことになる。 
 」
そんなことないですよ 
あなたたちの信仰を奪うつもりはないし、そんな力ももちろんありませんけど 
おかしいことはおかしいと判断する部分は大事と言っているだけです 
100%疑いなしじゃ、そういう検証すら放棄じゃないですか 
 」
HSは自由を尊ぶ団体だということになっているけれども、それは建前にすぎず、実際には、疑問を持つことは禁じられているし、それを口に出すこともできない。
 
楽山には、いかなる宗教も、批判する資格はないと思います。楽山が最悪なのです。
 
楽山は、深みを感受することが出来ず、先入観的な概念しか持っていないので、こちらの批判にも、疑問にも、真っ当に答えたことは、一度もありません。学習によって訂正する気もなく、いつも、同じことを書いて、キリスト教と信仰を、揶揄するか、否定してきます。
 
もし口に出して、他の信者にも疑問を持たせることになったら、それは和合僧破壊という重い罪であり、地獄に堕ちるとされているからだ。だから、もし疑問に思うことがあったとしても、それは口に出すことなく、黙ったまま身を引いて、一人静かに反省せよということになる。
信者氏はこういうことを念頭において話しているのだろう。
 
楽山に意見を言っても、楽山には届きません。楽山は、無視と不感不応の石のような精神でありながら、分かったふうな丁寧そうに見える言葉づかいで、ネチネチと遠回しに侮辱するか、他者の言を借りるか、批判者を疲れさせるために、同じことを繰り返します。
 
両者は全然違うと思うけど、もっとも違うのは、イエスは十字架にかけられたときに、人々のために祈ったというところだね。
そのとき、イエスは言われた。「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
(ルカ 23.34)
 」
これと比べたら、大川隆法はいつも人のせいにしてばかりだ。高橋信次霊のせいで法を曲げられたとか。きょう子夫人のせいで救世活動ができなかったとか。きょう子夫人は口が臭かった、結婚したくないのに無理矢理に結婚させられたとか、恥知らずなことばかり言ってる。
こういうところは、両者はまったく違う。というか、両者を比べること自体が不遜であり、おかしなことだ。
 
楽山こそ、詭弁と嘘で、総ての不都合を、他者のせいにしてきました。うっかり、楽山を信頼してしまうと、楽山は、結局、総ての不都合を、信頼した人のせいにして、逃げるでしょう。責任を持つということが、まるで出来ない人なのです。
 
*HSを退会する人、しない人
・・
支部に通わず、活動に参加せず、HSとは無関係な一般人との交流も少なく、HS本を読むだけの信者は、自分の世界にどっぷりつかりきっていて、他からの影響は受けないわけだから、ずうっとそのまんまでいることが多いという印象はある。
 
楽山は、独りで、本を読んだことにして、意見を持っているかのように装い、分かっているかのような評論家気取りで、無反省に、無責任に、神と人のことを、自己顕示欲で侮辱してきたのです。また言いますが、最悪なのは、傍観者気取りの楽山その人なのです。
 
これに比べたら、支部に通い、活動に参加していれば、HS本に書いてあることと、HSの実態との乖離に気づかざるを得ないし、教団外部の人との付き合いがあり、率直な意見を聞かせてもらう機会があるなら、教団のおかしさに気づきやすいだろう。
 
楽山は、活動に参加すれば、教団のおかしさに気づくと、言っていますが、楽山は、一切の気づきを放棄した人だと思います。だから、楽山は、自身の、霊が分かるっぽい自覚?以外、どの宗教も、バカにしているのでしょう。宗教の味方などと、また、脱会者の味方などと、決して思わないでください。疲労と絶望が待っているだけです。
 
すべての日本国民を会員にしてみせると豪語したり、幸福実現党が選挙で圧勝するようなことを断言したり、地球規模の天変地異が来ると騒いだり…そういえば皇室は文化的存在としてなら残してもいいでしょうというような不敬発言をして、チャンネル桜で不興を買っていたこともあった。
霊言という形式をとると、一夫多妻とか、豊胸手術とか、放言といってもいいようなこともある。この無責任さは、まさに怖いもの知らずだ。
 
かっこつけた放言ばかりで、楽山の無責任さは、まさに怖いもの知らずです。楽山は、信頼に足る発言など、一つも出来ない人です。
 
楽山は、情緒も思考も育っておらず、批判した後、賛同めいたことを語って、それでチャラと思っているような、理路の初歩さえも理解できていない人です。それを補うかのように詭弁だらけになっていますが、そのせいで、記事の悪質さが酷いことになります。
 
大きなテーマについて、何かを言ったあとで、反省して訂正して改めるのではなくて、同じ流れの中で逆のことを言えば、どちらかが嘘、または、どちらも嘘、ということになるという常識が分からない人なのです。楽山は、発言の信頼度ゼロ、言論の世界に居てはいけない人です。
 
*的外れ
随分前のことだけど、匿名掲示板で信者と話すのに疲れてしまって、愚痴ったことがあった。「信者はいっつも的外れな反論ばかりしてくる。自分の真意はこれこれこういうことですよと繰り返し説明しても、さっぱり話は通じない。でもじきに、ようやく通じたという感触があると、信者は途端に黙って何もいわなくなる。でも少しするとまた同一人物らしき信者が、的外れな反論をしはじめる…。もう、やだ…」と。
すべての信者がこうではないのだろうけれども、言葉が通じにくい人は、ほんとやっかいだ。合わない人とは距離をおくべしという考え方があるけど、ネット上では多分これが正解だ。
 
的外れな応答は、楽山の常習であり、むしろ、故意に的を外して、はぐらかしたり、言い逃れしたりすることもあります。言論の責任、つまり、文責など、全く、考えていません。アニメや怪奇小説を読むのと同じで、遊びなのです。楽山から離れてください。
 
頼りがいのありそうな、物わかりのよさそうな、婉曲と詭弁の言い回しに、都合の良い人の言を出してべた褒めする楽山に、だまされないでください。無反省と無責任な体質のため、恐らく、何かを真剣に考えたことなど、一度もない人です。
 
 
身の程知らず2

身の程知らず
 
 
(2020年12月05日)
 
 
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