悲しみについて
 
 
悲しみを
楽しいことで打ち消すと
悲しみは消えるのではなく
心に潜伏するかもしれません。
 
悲しみを
心の履歴書の一頁としてください。
それが出来れば悲しみは
人生の履歴の記録になるでしょう。
 
悲しみは
隠したり抑え込んでしまうと
見えない傷として残ります。
 
悲しみは
無視するのではなく
無かったことにするのではなく
克服の記録として残すことで
思い出しても記録ならば
距離を置けるかもしれません。
 
脅しや恐怖と違って
 
悲しみは、成長の機会です。
 
 
 
  脅し?(再)2
 
 
宗教が
あるいは宗教を利用して人が
人を脅すというのは
例えば
このままでは大変なことになりますよ
といった恐怖と脅迫と強迫の文言で
カルトにおいて
おこなわれることだろう。
 
信仰において
人が人を脅すのではなく
神が人を脅すのでもなく
 
人は神を恐れるべきである
というのは
全知全能の御方と信じた神への
キリスト信仰の主軸であります。
 
 
信仰者は人間であり
明らかに全知全能ではなく
神に比べて
はるかに劣った存在であるから
神と人の関係を語る上で
神が上で、人が下
という節操を持たなければいけません。
 
神は、やさしい仙人みたいなお爺さんではありません。
 
悪口と同じ扱いで
キリスト教的な?批判禁忌をもって
批判されると
人が人を脅してはいけない
などと言ってくるのが偽善者です。
 
同じように
神についての疑いを
それは言ってはいけないと
威すのも同様です。
 
脅しは、悲しみではなく、邪悪な牙でしかありません。
悲しみに、脅しを当てる宗教は、カルトです。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)
4:25
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 
4:26
怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
4:27
また、悪魔に機会を与えてはいけない。 
4:28
盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。
4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
4:30
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。 
4:31
すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
 (エペソ4:25-32、新約聖書)
 
 
真実を語りなさい、ということから、真実を求めることの大切さを伝えています。
怒ることがあっても罪を犯してはならない・・ということから、復讐という恨みに基づく行為を戒めています。
 
悪い言葉を口から出してはいけない、というのは、悪意だけによる言葉、悪口だけを語ることを戒めています。批判は、相手の悪を指摘することです。怒りはコントロールすることが大事なのであって、悪を見ても怒らないようになってしまうのは、心の鈍麻と破壊であり、同時に、これこそ、偽善なのです。
 
悪口だけを言うこと、嫌がらせを言うこと、当てつけること、ケチを付けること、これらは、批判とは全く別物で、悪意だけの産物です。これを同質であるかのように言って、偽善者は、逆に、自分が批判されているにもかかわらず、批判禁忌をもって、おとしめてくるのです。
 
聖霊の証印は、人が、その凡庸なる善意によって、いちいち確かめることはできません。即ち、人は、その凡庸なる善意によって、批判禁忌を定めることは出来ません。つまり、結果を神に任せる信仰があれば、批判は禁忌ではないのです。批判禁忌は、むしろ、信仰を偽善化する悪口です。
 
パウロが言っているのは、一切の悪意を捨て去ることは、恒常的には、不可能と、痛いほど知っているからでしょう。背教の裏切りは、一度だけではない、ゆえに、悪意に支配されてはいけないと言っています。いけない、という説教であって、これを、戒律と受け取ってはいけません。
 
情け深く、あわれみ深いものとなり、互いにゆるし合う、これは、理想です。パウロの愛の賛歌と同じであって、それを否定形にしたものが、現実の有り様であることを忘れてはいけません。
 
聖書には、愛の賛歌をはじめとして、理想を述べられているところが多々あります。
理想は求めるべきですが、
当為(「べき」の付くこと)と事実を、区別してください。
すなわち、理想と現実を区別してください。
 
キリスト信仰は、善に、特に、自らの善に、のぼせ上がることではありません。キリスト信仰は、陶酔気分を与える信仰ではありません。のぼせ上がって高みから物を言う偽善者の口車に乗ってはなりませんし、自らが口車になってもいけません。
 
 
まず批判が脅しと違うのは
根拠と理由があって否定するということであり
 
批判対象が
神を恐れない言動であるという根拠を示して
指摘するにあたって
遠慮してはいけないということです。
 
人が人を批判してはいけないなら
このことは
人を批判する人を批判してもいけなくなり、矛盾します。
 
人が人に間違いを指摘しなくなったら悪がはびこります。
批判禁忌は、不完全な人から学習と成長を奪い、停滞と無関心へ誘う偽善です。
同時に、悪をはびこらせ、悪を放置して、実際には許容する罪でもあります。
 
今のキリスト教内外には、批判されないカルトとカルト思想が蔓延っています。
批判禁忌という偽善は、カルトが喜んで批判者に向ける常套手段です。
 
人が人を批判しなくなって
神への恐れを言わなくなっても
神は人を叱って脅してくださるか
というと
言うまでもないが
神はひょいひょい顕れて
いちいち手取り足取り
人を脅したり怒鳴ったり戒めたりはして下さらないのです。
 
 
現象としては
私たちは沈黙の神しか知りませんし
それで神を知ったと思ってはいけないでしょう。
 
神は恐るべき御方であり
悪魔が優しそうに誘惑してくるなら
一見、悪魔のほうが付き合いやすく見えることもあるでしょう。
私たちには神と悪魔の区別もなかなか出来はしないのです。
 
起こった現象の
どれが神の意志で
どれが神に逆らう意志であるか
神は、いちいち正解を教えて説明してはくださらない。
これが地上に表れる基本的な現象です。
 
神と人の関係において
神は、人が恐れるべき存在
ということが信仰の主軸であるから
人が信仰を伝えるときには
この関係も伝えなければならない。
 
批判を禁忌とすることは学習と成長を拒むことです。
誰もが批判せよということではなく
意欲があって批判する人を
批判ゆえに罪に定めるのは間違っているということです。
それこそ、逆に、人が人を裁く行為なのです。
 
やさしい神を慕うだけでは信仰になりません。
自分が負うべき使命を考える時を持ちましょう。
 
戒め懲らしめる神を恐れるならば
神を恐れないで嘘を吐く者たちを受容してはいけないのです。
 
これを私は
信仰の節操あるいは弁えと呼んでいます。
 
神よりも劣っていて
不完全で罪深い私たち人間は
直接、神に談判することなど出来ない存在です。
 
神を
どこかにいる徳の高い優しいオジサン
と同じように思ってはいけない。
 
全知全能の神に対して
ご機嫌取りの讃美や
世辞の誉め言葉や丁寧さは通用しない。
 
正直さ以外は何も通用しないのが神であります。
 
これが神への恐れであり
恐れると書いていたものを
「畏れる」などと書き替えてはいけない理由です。
 
 
その恐るべき神に祈るときには
愛のために命を惜しまない救い主
イエス・キリストの御名を通して祈ります。
 
キリストにおいて成就された救いとは
人への愛と共感と同伴であり
神への執り成しであります。
 
したがって
神の前に不正直や
ましてや故意に嘘を吐くことは赦されないが
 
神の前に
あるとき隠したり嘘を吐いたりしても
別のときに罪を認め、悔い改める者を
神は見捨てたままにはしないし
その機会は一生を通して与えられています。
 
そこに神の
人の正直さに対する限りない寛容さが表れています。
 
神は人に対して
真善美の高みに立つことを求めるのではなく
つまり善悪の善を条件とはせず戒律ともせず
 
神の前に努めて正直であることのみをもって
神が人を救うということが
キリストの負いやすいくびきであり
キリストの愛であり
キリスト信仰の芯となっています。
 
 
聖書を読んで
神に祈るとき
努めて正直であろうとする誠実な信仰があるならば
人の前でも
だますような白々しい悪意の嘘は吐けなくなる
ということをもって
神への正直な告白の祈りが前提であれば
神のほうを向く生き方は
悪ではなく、もちろん偽善でもなく、
真善美の方向に
完成はしないものの
導かれるだろうということです。
 
信仰は、キリストからの共感に、キリストへの共感を返すことです。
 
つまり、真善美は目標ではなく経過~結果に過ぎず、
 
つまり、信仰は、キリストを通して、神の前での、祈りの、正直さであります。
 
 
悲しみは、克服を通して、痛みから記録になってゆきます。
 
悲しみは成長のためにあります。
 
脅しは束縛のために利用されます。
 
 
悲しみは成長の機会

悲しみは成長の機会
 
 
(2019年)(2020年)
(2022年06月20日、再録+加筆))
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
  落ち込み
 
先の目処がない
見通しがない、見込みがない
人生の先に
何も見ることができない者が
見ているものは何なのでしょう
 
本当に落ち込んでいるときに
楽しい歌を聴くとよけい落ち込んでしまうもの
むしろまず悲しい歌でも聴いて
涙が湧いてくるような気持ちになって
気持ちが少し落ち着いてから
充分に休んだのち
少しずつ体を動かしたり楽しい歌を聞いた方がよいのです
 
軽い落ち込みなら元気づけでもよくなるでしょうが
本当の落ち込みは緊張と不安を伴っていて
こころゆくまで泣くことさえできないもの
だから涙の有無にかかわらず
十分な「泣き」を通して初めて
安らぎに似たものが生まれるのです
 
悲しい人
どうか ゆるされて
こころゆくまで
力が全部抜けてしまうまで
泣けますように
 
横たわる
この身の中にせせらぎの
川の流れを聞かしめたまえ
 
うなだれて
見つめる先とて無けれども
目には潤う微かな温み
 
諦めも青き炎か
見つめては
心の底の残り火にさす
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、しんみり悲しむという情がないのだろうと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)やサイコパスの特徴です。だから、言葉だけ、トホホ、などと書いてきます。言葉のうわべだけを追っても、そこに真実が得られないので、嘘と詭弁の細工に走るのでしょう。
 
ヤフーブログでの数か月の楽山との遣り取りの経験から申し上げますが、楽山は、こちらの言い分を全く理解せず受け取らず、反省もしません。そして、テーマと似て非なる迷路に誘導して混乱させてきます。何の糧(かて)にもならず異常な疲労だけを与えるのが、楽山の議論の処世術です。
 
楽山の言は、放射性の灰のようなものです。遣り取りを続ければ、放射能のように残留し、心は、灰をかぶって思考も感性も鈍くなり、気づかないうちに、反応性が低下して、似たような嘘と詭弁に逃げるようになったり、人格が壊れてゆく恐れがあります。楽山との遣り取りは精神衛生上、禁忌です。
 
どんなに、もっともらしく思えても、言論の責任を負わない楽山に、言論の自由を認めてはいけません。言論の義務を弁えず、嘘と詭弁で飾り、迷路で混乱させる楽山に、言論の権利を認めてはいけません。柔和と中立に見せかける楽山の欺瞞に満ちた言論は、いかなる場合も信頼度はゼロです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
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