ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:評論家気取り

 
  楽山の反宗教3
 
 『アメリカの宗教右派』飯山雅史著
 2020年08月08日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の反宗教思想は、まず、宗教の本質を全く理解していないのに、宗教を客観的に見ている自分を気取ることから始まり、それが、楽山のスタンスになっています。そういう自己満悦の立ち位置は、どこにも正当に存在しない悪意の産物です。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、悪意と無恥が見抜かれても書き続ける厚かましい男です。自己満足だけに生きて、周りを見ず、受け止めず、考えず、反省しないと、成長できないまま、これだけ図々しくなるのです。
 
 
この本は、アメリカの宗教事情に興味があったので、タイトルにひかれて読んでみたのだが、序盤ではアメリカの宗教史のような体裁で、長老派、バプチスト、メソジストなど各教派の成り立ちや社会的歴史的な立ち位置について語られている。
また過去の大きな出来事としては、20世紀初頭に進化論などの近代科学や高等批評という聖書分析とどう向き合うかという議論がなされ、それらを受け入れる主流派(多数派、近代主義者)と、あくまで聖書の言葉をそのまま読もうとする原理主義派、両者の中間に位置する福音派にわかれた(プロテスタントの大分裂)のだという。
 
聖書は、文献としても分析されることはあるでしょう。その結果は、信仰を考える上での資料となりますが、信仰そのものには決してなりません。つまり、楽山が挙げているような○○主義派などは、派生した思想であって、信仰ではありません。楽山の宗教観は、見当違いで出来ています。
 
宗教は、思想となり、教条主義となり、イデオロギーとなって、多くの弊害を生んできました。しかし、それは、人間の不完全性から生まれた罪の性質であり、宗教そのものの意義を損なうものではなく、むしろ信仰を受け取る人間の側の修正を促す必要を表しているのです。
 
楽山のような者が、手持ちの、半端で偏った、偏見と先入観に満ちた知識で決めつけて否定することこそが、信仰を最も損なう害悪です。楽山の知識は、宗教と信仰を語る上で、何の役にも立たず、ただ、楽山の攻撃性を満足させるだけのために積まれているものです。
 
人間には、不完全であるゆえに、罪の性質を常に持っています。そこから、様々な過ちを犯します。信仰者も例外ではありません。しかしながら、それゆえにこそ、逆に、赦しと救いにつながる宗教、そして、心と命を支える正直な祈りの信仰が必要になるのです。
 
その罪の性質を、自らに少しも認めようとせず、ゆえに、何の共感もなく、悪い材料だけを持ってきて宗教をおとしめているのが、楽山であります。聖書においても、心無い者は、悪魔としての役割しか持ってはいなかったのです。
 
そういう悪意だけの役割を、自己愛という魔物を原動力に実践しているのが、楽山であり、善に見せかけた悪意の存在であります。まさに、その類似は、聖書にあるところの偽善者であり、一見まともに見せかけていても、心を失った嘘と詭弁と教条の悪鬼なのです。
 
 
千年王国については、主流派や福音派はキリストの再臨は千年王国の後だとする後千年王国説の立場をとり、人々の努力によって千年王国は達成可能とするなど楽観的だが、原理主義派はキリストの再臨は千年王国より前だという前千年王国説の立場をとり、人々の努力によっては千年王国は実現できず、人々は「ただ、悔い改めてキリストの審判を待つしかない」(p.61)として悲観的傾向が強いという。
 
「悔い改めてキリストの審判を待つ」のは、原理主義ではなく信仰者の使命であります。楽山は、これを「悲観的傾向」と言っています。何も分かっていない証拠です。楽山の自己愛からは、何でも一気に解決して安穏になるのが信仰なのでしょうが、それは楽山の欲望であり、信仰ではないのです。
 
悪意だけの楽山が批判をしようとすると、人間的な欠陥が表れてきます。すなわち、人間離れと現実離れの話しか言えないということです。誰が、千年王国と再臨があるから・・という理由だけで信仰をもつ、などという幼稚な動機でキリスト者になるでしょう。愛も共感も知らない楽山です。
 
それぞれが、悲観的傾向ではなく、現実の悲しみから、救いと癒しを求めているのであって、楽山の空想話などは、たとえば、靴の端にゴミが付いているからお前は悪者だ、と言っているようなものです。誰が、千年王国の立場を待つというのでしょう。楽山の固陋(ころう)の嘘八百です。
 
楽山は、人の信仰を、ゴミも靴も人格も、いっしょにしている妄想者なのです。そして、一方で、楽山は、何の努力もしないし、自らのゴミにも罪にも不完全性にも、全く気づかないという、すっとぼけの病的ナルシストなのです。
 
ねじけて腐った根性で、読書家と批評家を気取っている楽山は、理解力と共感力の欠如から、また、何をやってもうまくいかないという現実の当然の不都合な成り行きから、怨念の固まりになっているだけのルサンチマン(負け犬根性)で、宗教と信仰を、訂正不能の我執から貶めているだけなのです。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
 
ルサンチマンは、多く、カルトのベースとなる心性です。そして、努力せずに、一気に、偉い人~悟った人~バランスのとれた人~ひとかどの人物のつもりで自慢したがる根性です。アンチを気取る楽山は、むしろ、そういうカルトの性質と符合しています。
 
 
中盤以降は宗教と政治のかかわりについての記述が増え、宗教右派は1960年代の行き過ぎたリベラル傾向に対する反発から活動を活発化させ、政治的影響力を強めたものの、近年はピークは過ぎてやや停滞気味になっているとしている。本書は2008年の出版なので、この部分は現在でもそのまま受け取ってよいかどうかは慎重であらねばならぬが、さて著者の見解は妥当だったというべきかどうか…。
 
楽山は、宗教と信仰そのものの本質について、まるで語る言葉を持っていないために、超常のことゆえに誰も否定できない想像~空想話か、このような、政治との関係をもって、専門用語を使う評論家気取りで、現象だけを論(あげつら)って、宗教を批判しているつもりになるのでしょう。
 
本質を知らずに、ここでは政治の話をして、悪口だけを刷り込んで、広めようとしてくる楽山には、反宗教・反キリストの、悪意だけの、いちゃもん屋という評価しかありません。何度も、何度も、人の顔に、首筋に、鼻くそをなすりつけてくるような汚らしさは、嫌悪感と疲労をもたらします。
 
ひょっとしたら、それが目的かもしれません。もはや、人間としての、一人一人に大切な、好ましいプライドや、正常な尊厳など、楽山には欠片もなくて、ゆえに、他者にも、それらを認めなくなったのでしょうか。悪い噂だけを言いふらして自己満悦する醜いサディストぶりが表れています。
 
宗教の政治への影響には、色濃く、人間の不完全であるゆえの罪性が表れてきます。しかも、それは一部の極端な例として明らかになるでしょう。楽山の言は、悪い例だけを挙げて貶める詭弁であり、楽山の暇つぶしや、いちゃもんの材料にはなっても、宗教批判の根拠にはなりません。
 
楽山の言に、いつも欠けているのが、そういう、物事の、"本質への洞察" なのです。これがないところには、共感も生まれず、いかなる批判も成り立たず、ただただ、程度の低い悪口にしかなりません。的を著しく外しながら、宗教と信仰を語る楽山は、ただただ、ノイズに過ぎません。
 
楽山が言っているのは、悪い霊というより、間違った例であり、一部でありながら極端な例ですから、全ての信仰が間違いということにはなりません。さらに、間違いは、いつも、人が犯すものです。その典型としては、偽善という最悪のものを、楽山その人が、今、次々に実行して、表しているわけです。
 
 
アメリカの宗教事情というと、中絶反対のために婦人科医を殺害しただとか、レイプによる妊娠であっても中絶を禁ずる法律がつくられただとか、進化論を学校で教えるのに反対する人々がいるなど、驚かされるニュースが多いし、よく分からないところがあるのだが、本書を読んでその背景がいくらか見えてきたようでありがたい。引き続き同一テーマの書籍を読んでみたいと思う。
 
楽山は、進化論を支持し、同じような無信仰カルトとでも呼ぶべきものたちの記事を載せています。自分に理解できないものだから悪いという幼児性が、楽山の宗教観ですから、言論として、成り立つことはないのです。
 
こういう人間とは思えない蛮行に走る事件が起こることはあります。人間らしい宗教と信仰ではなく、カルト化している場合です。そして、体質的に、批判されて返せないものだから、執念深く、悪口だけを、的外れに書いてくる楽山は、カルト的煽動者と言えるでしょう。
 
どういうカルトなのか、いつまでも、失禁のように続く無反応と無責任の記事が、いずれ、それを表してゆくでしょう。楽山は、宗教にこだわると、こんなことになるんだよ、という、悪い例だけを挙げて、いかにも煽動家らしく、宗教荒らしとして煽(あお)っています。
 
しかし、一方で、世辞のように、言い訳のように、キリスト教を褒める話も書いてきました。この否定したり、褒めたり、という相反する2つのことから、楽山の言は、信頼度ゼロとなり、どちらも嘘であり、残っているのは、過大な自尊からの我執の衝動的な発露でしかないと分かるのです。
 
信仰者の罪は、いつも、人が、教えの本質を曲解して、犯すものです。
 
一部の極端な例を、宗教の本質であるかのように、こわいですね、とばかり言いふらす下種の根性が、分別を欠いた、楽山の生業なのです。
 
宗教と信仰のもたらす良きものを、その本質を、楽山は、いっさい知りません。知りえないものだから、いわれなき復讐のように、汚物を投げては、これが宗教だとばかり、いい気になっています。この見苦しささえも、無反省で高等感情のない楽山本人だけは、感じないのでしょう。
 
楽山の言うことを、その一面においても、いっさい信頼してはいけません。楽山は、空っぽの本質の、醜い性根の炎症性の腐敗性の浸出液として、詭弁と誘導だけは卑怯な方法を知っているのです。決して、関わらないように、近づかないように、警戒してください。
 
 
悪性浸出液の墓場

悪性浸出液の墓場
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年10月06日、再録+加筆)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  時間
 
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく
 
私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の醜さは、楽山が養ってきた体質~人格からもので、本人が直そうとしない限り、増悪はしても、治癒はしません。いつも半端で、心の弱い人を頷かせて侵食するペテンは、同時に、楽山の悪性をも増悪させているのです。その先には、固陋(ころう)の洞窟の独り笑いが待っているのです。
 
こ‐ろう【固×陋】 の解説
[名・形動]古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。「旧時代の―な人々」「頑迷―」
 
 
 
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  楽山のインテリ気取り2
  
 
 「ブログ村騒動」発言集(コウ論争)
 2021年08月06日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
プロデューサー気取りで、最初に、書く時の注意したことなど、同じパターンの、書き方も同じような前書きがあるのですが、後は、だらだら長い長い引用だけで、結局、自分の見解は、何も書いていません。書けば、批判されるからでしょうか。
 
どこまでも他人事として、自らの、議論での嘘と詭弁による欺きには何も触れず、後悔も反省もなく、上から見下ろして、人をネタにして楽しんでいる筆致が、楽山の特徴です。専門用語を好んで使うのも「と言えなくもない」など婉曲・曖昧な語尾も、楽山のボンヤリ言語の特徴です。
 
 
>この騒動における発言をまとめてみました。
 
何もまとまっていません。引用して並べただけで、まとめようともしていません。
 
だったら、記事自体を書くべきではないでしょう。資料としたつもりでしょうか。だったら、記事に納まるような量ではないはずです。私事を言えば、偽牧師シャロームは10年、楽山は3年余り、資料となり、どちらも、とても一つの記事で表せるものではありません。
 
私の記事に書いたと思いますが、楽山の原始反応なのでしょう。書けば批判される、書かなければ満悦気分に浸ることが出来ない、ということで、ずっと前からの習性として、他人の口を持ってきて、書いたという充足感を得たいのでしょう。前記事と同じく、数年前の論争だそうです。
 
読もうという気にさせない記事です。しかし、勘違いした人が、長い記事書きましたね・・と思ってくれることを期待しているのでしょう。そして、苦労しましたが、一助となればと思って・・みたいな謙虚なインテリ気分を味わいたいのでしょうか。まことに酸味に溢れる楽山です。
 
この異味と異臭は、楽山が、何も考えない、組み立てられない、書けない、責任負う気もないから、自分の意見を言うとボロが出るという現実と、楽山の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の内的欲求の間を、他人のコメントを並べればいいじゃろ・・と短絡した結果なのでしょう。
 
前置き以外は、うんざりするほど、引用が長々と続いているだけです。しかも、クリックで、さらに続きが見れるようにしています。楽山は、何をプロデュースしたのでしょう・・自分はこれらのコメントを把握している、と自慢したいのでしょうか。
 
昔だまされて食べたことのある、祭りの出店の、タコの入ってないタコ焼きみたいなインチキです。楽山は、コピペだけを並べて、べったら漬けにしています。これも、インテロ楽山の専門分野なのでしょう。しかも失敗して腐臭ばかりを垂れ流すべったら余言者、楽山です。
 
 
 「ブログ村騒動」発言集(ガンレオ論争)
 2021年08月07日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
その後も、楽山は、数年前の騒動について、執拗に、長いだけの、引用だけの記事を、アップし続けているようです。異様な長さです。狂ったのかと思いたくなるほどの、3つの、数年前の騒動の、引用だけ長い記事です。
 
楽山が勝手に無駄な体力を使っているだけで、これを読む人がいるのだろうかと思います。自己満足だけで生きている者は、こうなるのかと、楽山の症状を眺めています。今回は、楽山のコメントもあるようです。楽山以前のHNは「自由」でした。それにしても、分かりやすさからは程遠い編集です。
 
 
*かわいそう
この記事を読むと、コウさん、ピッポさんが気の毒になってくる。
ガンさんの批判の仕方は、コウさん、ピッポさんの発言趣旨や、言葉のあや、話の流れなどにはあまり配慮せず、一部の問題発言を切り取り、教義的にダメ出しをし、そこからさらに推し進めて、全人格をも否定するというやり方だからね。これでは二人があまりにかわいそうだ。
 
登場人物の人格は知りませんが、楽山について言えば、批判するべきは、まさに、楽山の人格であり、つまり、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、そこからの、詭弁、嘘、逃避、自己満足、無反省、無責任という、人間とは思えない異常性であります。
 
恐らく、人格異常は治らないでしょう。しかし、だからこそ、こういう異常者がいます・・ということを、批判記事として当ててゆくしかないのです。関わると引き込まれ、疲労し、鈍麻し、従属状態となるなどは、カルトと同じなのです。情報を広めて、予防するしかないのです。
 
楽山には、高等感情が欠けており、思いやりや共感が出来ません。その分、言葉だけ「かわいそう」と書いておくだけなのでしょう。今まで、何度も、そういう安いセリフを使ってきた楽山は、三文芝居の大根役者なのに、自分だけ、論者気分の、論客気取りなのでしょう。
 
 
その中の楽山のコメントを、一部抜粋してみます。
 
こういってはなんだけど、コウ、ピッポさんは自分の心にあることを、正確に、論理的に言葉で表現することはあまり得意そうではないし、議論に不慣れで、理論武装も十分でない。そういう人の発言を、趣旨、あやに配慮せず、問題視して、やっつけるのはどうかしてる。
もう少しだけでも、彼等の発言趣旨、言葉のあやなどを思いやってあげればいいのにと思う。
◇真理が素直に入ってこない人達の特徴|やすらぎのガンブロ
2016/9/26(月) 午後 8:43[ 自由 ]
 
見逃さないでほしいのは、ここに、楽山の、自己愛からの、オレは論客だ、という自慢が表れていることです。そして、思いやったつもりの人たちのことを、自分より低い人だという満悦の優越感を表しています。楽山は、そういうのが失礼だということを感じることができないのです。
 
「正確に、論理的に言葉で表現することはあまり得意そうではない」「議論に不慣れで、理論武装も十分でない」「思いやってあげればいいのに」・・楽山の同情は、見下ろして憐れんでやるということです。自分は上にいて、劣った者を、かわいそうにと、下に見る態度なのです。
 
しかし、相手が劣っていることを表すコメントは、誰よりも、自己愛のために反省せず学習せず成長しない楽山の特徴であります。理路も感性も情緒も、病質のために整わず、相手の欠点をあげつらっては楽しむサディスティックな趣味~生き甲斐なのです。
 
また、引用することになります。
 
「殴られるより悪いことがある」
 
(三島由紀夫原作映画「午後の曳航」セリフ字幕)
 
いつも優越意識がある楽山に哀れまれて、勝手に書かれて、ありがたがる人がいるでしょうか。楽山をまともだと思って楽山に関わっている人は、早く目覚めてほしいと思います。
 
 
ガンさんは、自分は悪口を言われた被害者と考えてるらしい。あれだけのことを書いといて、悪口を言い過ぎたという、やましさがないというのは中々、面白いね。
・・・
2016/7/26(火) 午後 9:59[ 自由 ]
 
楽山のインテリ気取りの婉曲ボンヤリ言語の皮肉・当てつけです。相手に「やましさがない」ということを、おかしいじゃないか・・ではなく、「面白いね」と言っています。下種がインテリを気取るときの、実に、白々しい、穏やかさを装った、くさい当てつけの皮肉の丁寧語です。
 
楽山は、インテリではありません。知識も、知性の理路も、感性の情感も、整っていません。だから、こういう言い方で書いて満足できるのです。本当の相手の気持ちを察することの出来ない人がやることでしょう。「悪口を言い過ぎたという、やましさがない」のは、楽山のほうです。
 
いよいよ、リアルに追いつめられたら、楽山は言うでしょうか、サスペンスドラマなどでよく見るの悪役のセリフ「君は、誰に物を言っているか分かっているのかね」。それとも、パニックでしょうか。支離滅裂になって狼狽するでしょうか。狼狽して引っ込んでほしいです。
 
 
今、私は、楽山という、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、反省せず、理解力がないのに自己満足で他者に意見したがる人の、正体を暴いて広く知らせるために、批判記事を書いています。誰も被害に遭うことのないようにしてほしいからです。
 
私は、インテリではありません。評論家でもありません。読書も苦手です。知識も乏しいです。しかし、不完全で罪深いから、人についても、自分についても、考えることは好きなほうです。
 
楽山に対しては、数か月の直接の遣り取りに危険と恐怖を覚えて、以後は、批判を続けています。
 
 
気取るほどにますます孤独

気取るほどに ますます孤独
 
 
(2021年)
(2022年08月18日、再録+加筆)
 
 
 
  欲しいもの
 
車を買った
新車である
しかも増車である
さらに外車である
といっても軽自動車である
 
大きい車体と大排気量で
ステータスを欲しがる人に
それを売ってくれる外車メーカーが
戯れのように試みに作った
無駄なスペースがなく
必要なスペースも足りない玩具?
 
この小さい車でステータスを気取れば
笑われるだけでなく
車を2台も持っているなんてと
顰蹙(ひんしゅく)も買うことになる
 
買わずに残しておけば
一年くらい暮らせる金額
今持っている車が壊れてから
次に国産なら
チャージャー付きのフル装備の
上級グレードの軽自動車が買えるが
というものが五体満足で
運転できる神経を持った状態で
はたして私にあるだろうか
 
欲しい物があり
それが軽よりも小さい軽であり
買うお金が今はあるから
買った
ただそれだけのこと
 
いつ終わるか先のことなど
わからない寿命・余命
については無視した
ただそれだけのことだが
経済的寿命と肉体的寿命
同期してくれたら・・・?
 
本当に欲しいものは他にある
と我慢しているものも
あるにはあるのだ
 
走行距離約千五百キロの
慣らし運転を終えて平均燃費は
リッター二四・五キロメートル
楽しめる贅沢(ぜいたく)な玩具は
剽軽(ひょうきん)なマスクをして
家の前に居座り
私を無視も注視もしない
 
※ ずいぶん昔のことです。スマートK、という500ccのサイコロみたいな軽自動車に乗っていたことがあります。2人乗りというより2人しか乗れない。価格はシビックより安い車です。リアエンジンで、シフトするたびに、軽いフロントがピョンコピョンコ上下して、風景も上下しました。6速AT/6速クラッチレスマニュアルフロアシフトを楽しんでいました。ターボが付いて、動力性能は、私には十分でした。独りだからできた遊びでした。50代前半で運転は車もバイクも止めています。現在、68歳。
 
昔の記事「鯛夢トンネル」スマートK(2010年9月)
 
 
  シンプルに
 
私はだんだん
シンプルになっていくようです
口数も少なくなりました
言葉もめっきり減りました
ああ太陽
ああ夕空
ああ星と星
といった調子です
身の回りは相変わらず汚れていて
身のうちには
たくさん傷や悔いや感動がありますが
もう深くはのぞけなくなりました
しあわせが浮いていくようです
それが私なのか何なのか
昔のことはだんだん忘れて
見るもの聞くもの遠のくようで
裏返し
と唐突に言ってみたり
口を開けてじっとしていること
ときどきできます
私はシンプルに
命になって
いつか少し笑って
目をゆっくり閉じて
いつか少し泣いて
あとは
あとは
おまかせします
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
よく読めば、楽山の筆致が、おふざけ半分であることが分かるでしょう。「人間の性なんでしょうかね」・・自分のせいじゃないよ、誰でもそうだろ・・という言い逃れです。いかなる発言にも責任を負わない病的な体質が滲み出ています。発言自体が、正常ではない、一種の非人間性を表しているのです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
自分には、「霊界は思いの世界なので、対象に思いを向ければつながる」という方が分かり易い。
墓や位牌など、ものを介してつながる霊存在は、物質界に近い低級霊…下手をすると地縛霊に過ぎないと思う。
ryuho-okawa.org
お墓の役割
お墓には一種の“アンテナ”のような役割があります。要するに、お墓参りをするなり位牌を祀るなり、そうした供養のスタイルを取ることによって、天上界や地獄界にいる亡くなった方と心が通じる交差点になるところがあるのです。その意味で、実は重要なものなのです。
午後8:09 · 2022年8月14日·Twitter Web App
 
楽山の霊の見方が表れています。「思いの世界」と言いながら、「低級霊」「地縛霊」と言っています。霊が分かるっぽい?と言っていた楽山の霊能者気取りが表れているので、見逃さないでください。理論家どころではありません。心の問題以上の、自らの超常的な霊的優位を自認しているのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはよく分かるわぁ。。
引用ツイート
naru
@kokorodrugstore
 · 17時間
モラハラ被害者の方が「私は自己愛性パーソナリティ障害なのではないか」と思い、バリバリの加害者が「相手こそが自己愛性パーソナリティ障害だ!!」とモラハラしながら言います。
午後7:14 · 2022年8月14日·Twitter Web App
 
楽山の「よく分かるわぁ。。」は印象操作です。楽山が言いたいのは「相手こそが自己愛性パーソナリティ障害だ!!」ということでしょう。読む人の心に、そういうことを「モラハラしながら言い」続けたいのでしょう。楽山に汚い霊が充満しているような気がしてきます。
 
 
 
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  まとめ芝居(3)2
 
 幸福の科学の基本教義について
 2020年05月31日
 楽山日記(LD)を改めて批判。
 
 
HSを辛らつに批判する楽山の、カルト臭い野望を持っている本性が、じわじわ表れてきます。
 
 
*霊的人生観
 自分の理解では、HSで言うところの霊的人生観とは人は死んだら終わりではなく、その本質は霊であり、永遠の生命を持ち、転生輪廻を繰り返しつつ、さまざまな経験を積み、霊性を向上させているという考え方である。ようするに、いわゆる霊性進化論であり、ダーウィンの進化論に強く影響された考え方である。(参考『現代オカルトの根源: 霊性進化論の光と闇』大田俊寛著。ちなみに本書は、UMA氏のレビューを読んで知った)
 
私のいちばん嫌いな超常の辻褄合わせです。根拠がありません。好ましい人間性がありません。「霊」「永遠」「天昇輪廻」「霊性進化論」・・こういう超常の話を楽山は好みますが、人間としての根拠や必要性を、まるで説明できないのです。
 
 
HSでは、進化論は間違いであり、ダーウィンは地獄に堕ちたとしているのだが、そんなことを言いつつもダーウィンの進化論の影響を受けた霊性進化論(霊的人生観)を信奉しているというのは、なんともおかしなことだ。でも考えてみれば、大川隆法は高橋信次を貶めつつも、その教えを流用しているのだから、こういうことには無頓着で、全然気にしない人なのだろう。
 
生物の進化論は、学説として信頼を得ていますが、霊性進化論は、証拠が何もありません。"霊"を付ければいいってもんじゃないのです。そこには、カルトにも宗教にも思想にも、もっともらしく設(しつら)えた妄想性神化論?が、いっぱい生まれてくるのです。
 
 
霊的人生観の弊害についていえば、それを信じれば信じるほど、四六時中、霊がどうした、過去世がどうしたと言ってばかりのおかしな人になってしまうということを指摘すれば十分だろう。自分が会員だったころのHSでは、心霊マニアや霊好きに堕してしまうのを戒めて、霊的人生観を持ちつつも常識をわきまえていなければならないと説いていたものだけども、それはあくまで建前であり、口先だけであって、実際には教祖から率先して霊がどうした、過去世がどうしたということばかり言っているのだから仕方がない。こういうHSを見ていると、怪力乱神を語らずという姿勢の大切さを痛感する。
 
零的尽生漢の楽山は、自分が使った言葉「怪力乱神を語らず」について説明する気がないようです。そういうのを、お高くとまる、自分は分かっているんだ、上から親切に教えるのではなく不親切に言い放って終わり、という、実にシャロームにそっくりな態度です。成りすましを疑っています。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず
【読み】    かいりょくらんしんをかたらず
【意味】    怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
 
まさに、超常と心霊について、霊が分かるっぽい自覚?から、説得力のない惑わしで、"乱神を語ってきた"ところの、人間性と共感性の欠けている楽山が、言っています。こういうところも、シャロームと似ています。
 
「心の理論」:幼稚な勘違い。
「奇跡について?」:幼稚な詭弁の行き詰まり。
 
楽山やシャロームなどの易坊類については、一人による3者の成りすましを疑っています。ネットでは証明できませんが、また、違うという証明も出来ません。
 
 
*信仰
『仏陀再誕』では、地上の仏陀である大川隆法への信仰が説かれている。つまりHSで説かれている信仰は、教祖崇拝、生き神様信仰、グルイズムなどと同じものである。これはいちいち批判するまでもなく、間違いであることは明らかだ。
 
自分を、霊が分かるっぽいと思い込んで、人間の理路も共感も無視して、様々な、嘘っぱちを、つまり、間違いであることが明らかなことを、得意げに書いてきた楽山も、訂正不能、学習不能、という点で、似たようなものです。
 
 
それにしてもHSは、唯物論を批判しつつも、社会主義共産主義にありがちな個人崇拝と同じ形態の信仰を持っているのだからおかしなものだ。社会主義国では、指導者を神格化して銅像をつくったり、肖像画を飾ったりして讃えているが、HSでも教祖の銅像を作ったり、写真を拝んだりしている。こういう両者をみると、人は信仰者であろうと、唯物論者であろうと、神から離れてしまえば、その次には人を神として崇めるようになってしまうのかもしれぬと思えてくる。
 
宗教だけでなく、政治もイデオロギーも、無条件信奉者が多数いれば、いくらでも強大なカルト思想集団になりうるということです。党派、派閥、など、御恩と奉公の関係が成立すると、ますます、様相は、封建的、独裁的、または、カルト的になるでしょう。共通してみられるのは、人間性の喪失です。
 
これらに共通する経過と結果は、自己絶対正当化と訂正不能と無反省と自己中と無責任と責任転嫁と他罰であり、合理性さらに人間的な共感性を欠いてくると、反社会的になりえます。その爪痕(つめあと)が歴史に残っているわけです。ゆえに、人類共通の、最も憎むべき罪であります。
 
 
こんなことを書くと、信者からは「わたしは神から離れていない」という反論があるかもしれないが、自分からみれば、神でないものを神とすることは神に背を向け捨てることであろうし、それなら神ではない大川隆法を神だとすることも神に背を向け捨てることであるとしか思えない。信者にとっては〈大川隆法=神〉だろうから、大川隆法を信じることが、神を信じることであり、大川隆法を信じないことは神を信じないことになるのだろうけれども、それはHS内部では通用しても、外では無理だろう。
個人的な感想としては、教祖崇拝、生き神様信仰というものは、信仰としてはもっとも唯物的、地上的、俗世間的であって、お世辞にも崇高とは言い難い信仰形態だと思う。
 
上のようなカルトの間違いと害悪が分かっているなら、楽山は、先ず、自分でブログに書いたところの、とても恥ずかしい"霊が分かるっぽい"妄想?を捨てるはずですが、そういう反省は書いていません。前に楽山の書いた、"とほほ"では、反省にも訂正にもならず、"ボク弱いんです芝居"にしかなりません。
 
 
*霊言
HSでは、霊言が本物である証として、さまざまな説明をしている。たとえば外国人の霊が日本語で語ることについて、総裁の言語中枢を活用して話しているとしたり、霊言をするには霊と波長を合わせる必要があるなど…。
ただこういう説明は、その時々の都合で変わることもあるのが胡散臭い。先頃の例でいえば、守護霊霊言の内容について現実との乖離が明らかになったとたん、守護霊霊言では本心が語られるという説明がブレていたのだった。(参考・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由)
こういうところからすると、HSで言う「霊言のしくみ」なるものは、霊言を本物らしく見せるための、はなはだ護教的な後付けの屁理屈にすぎないことは明白である。
 
誰よりも自分のインチキをまともに見せかけてきた楽山は、今までの楽山の記事と私の批判の経過から、キリスト教も、同じような見なしで巻き込んで、否定したつもりになっていました。楽山が、浅薄な思いつきで並べた神の条件に、神が従うはずはないのです。とても、見苦しい屁理屈でした。
 
キリスト教における三位、すなわち、神、キリスト、聖霊について、啓示や聖霊体験などの神霊直接体験を強調する向きがあり、それらは、自己顕示欲からの意図的な嘘であるか、自己暗示による陶酔気分からの有頂天発言であろうと思われます。
 
何故なら、キリストが救ったのは、傷つきやすいが人間らしい人々であり、一方、神人一体化の訂正不能の戒律主義に向かうのは、キリストの敵となったパリサイ人たちだったからです。一般の他者より上の者になりたがり、なっていると思い込んでいる心性は、カルトにも共通しているようです。
 
 
ちなみにHS以外においては、霊言の審査においては次の基準が用いられることが多いようだ。
①声が変わる
(少女が、野太い男の声で話す等)
②口に水を含ませたまま話をする
(参考「『イギリスの霧の中へ 心霊体験紀行』の感想 (1)」の中段以降、および追記)
③霊言内容と確認された事実が一致する
今のところ、大川隆法による霊言は、①②③のどの基準を満たすこともできておらず、この点からする到底本物とは言い難いと結論づけるしかないように思う。
一応念のため、①②はすぐに分かることだからよいとして、③について説明を加えるとすると、これについてよく言及されるのは佐倉哲氏のページだ。
・大川隆法の霊示 『内村鑑三霊示集』のウソ
仏陀意識で書かれたという『仏陀再誕』などについても検証されている。
・ブッダと大川隆法
 
このように、人間を超えた超常のしるしを求めるのは、今も昔も、変わることのない、人間の大きな、罪性、すなわち、罪の性質であります。つまり、その罪の性質によって齎(もたら)される結果として、一気に人間を超えようとする者は、ただただ、人間離れの化け物になってゆくだけなのです。
 
神の啓示が、もし実際、現象としてあるならば、受けた人間は、まず、恐れおののき、それを口にするのを憚(はばか)るでしょう。そういう恐れの心がない者に、神が啓示を与えない理由があるとすれば、それは、与えれば、たちまち、教祖に早変わりするのが自明だからでしょう。
 
ゆえにでしょうか、聖書では、啓示を受けた預言者は、キリストと使徒を含めて、大方、現世的には、利益ではなく、幸福とは言えない運命を辿っています。それが、神の与える使命というものなのでしょう。
 
 
ところで、この論点における自分のツボは、ダーウィンの霊言において、ダーウィン霊が人になりかけの猿を探していると言っていたことである。進化論は、猿が人になったというのではなく、猿と人は共通の祖先をもつということなのだが、大川隆法に降りたダーウィン霊は進化論のことをよく知らず、一般人にありがちな誤解をしているらしい。
 
楽山は、仏様が喜んでいたと親族に言って、笑われたものだから、それら親族を、霊が分からないっぽ過ぎると言い、ゆえに、楽山自身が、仏様の霊でも分かるっぽいという自覚を持っています。ということは、一般人ではありえないような、ずっと改めていない霊感の我欲を、棚に上げて、上のことを言っているのです。
 
「心の理論」:幼稚な勘違い
 
「よく知らず、一般人にありがちな誤解」という霊のことを、まず、楽山自身が改めないで、他者を批判する資格はないのです。そして、ここに、楽山の、一般人を軽蔑し、自分は一般人ではない、もっと高い位置にいる、という自覚が見え隠れしています。
 
 
また潮文社時代のキリストの霊言では、キリスト霊は最期の言葉について、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」などということを言うわけはなく、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」とはエリア、ラファエルを呼んだのだとしていたと記憶している。でもキリスト教の入門書を読めば、これは詩編22の冒頭句であり、それは嘆きから始まり、やがて神の讃美へと至る詩だという。福音書作者は、この冒頭句を提示することで、十字架上のキリストは詩編22を唱え、神を讃美していたことを示したということらしい。でもなぜか大川隆法に降りたキリスト霊は、こういうキリスト教では常識的な知識さえ持たなかったのだ。
 
ひどい白々しさです。楽山こそ、シャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という、キリスト教についての"常識的な知識"であるところの"罪を悔い改める信仰"にも真逆の、とんでもない反キリスト信条の味方を継続的にしてきたのです。
 
詳しいことは知りませんが、神、主、エリ、エール、エロイ、エロヒム、など、神を表す呼び名は、一つではありません。楽山は、知りもしないことを、本から拾ってきて、知っているかのように吹聴する癖があるので、信頼しないでください。
 
 
大川隆法が霊言と称するものは、このようにある程度の知識があれば、すぐにボロが出るものである。以前の霊言であれば、たとえ霊言のなかに事実誤認があったとしても、心の教え、人生論的な部分についてはよいところもあるという主張も成立し得る可能性はなくもなかっただろうけれども、最近の霊言は大川隆法への讃美やら、教団運営のつじつま合わせやら、過去世がどうこうというような護教的なものばかりなのだからそれも無理になっているのだから仕方がない。
 
ある時期、盛んでも、人間は、衰えてゆきます。それが、人間であり、人間の宿命です。そこで、次の世代に、良きものを伝えられるかが問われるわけですが、カルトや、楽山やシャロームなどのサイコパスには、良いものが何もなく、害毒だけが残るのです。
 
 
*まとめ
大川隆法は自分の教えによって、世界の宗教を統合するとしているし、信者もそれが可能だと信じているのだろう。実を言えば自分も信者だった頃はそれを信じていた。
でも神を信じ、霊的人生観を持ち、正しき心の探究を志し、愛知反省発展を実践するうちに、残念ながら大川隆法の教えでは世界の宗教を統合することは無理だと結論するしかなくなってしまった。信仰、愛、知、神、教義体系などについてはキリスト教の方がより徹底しており、深く緻密に探究しているし、思想性の幅広さであれば仏教が圧倒的だろう。
 
よく言うよ、とは、このことで、楽山は、神について、神がいるなら、どうして悪がいるのか、悪を放置するのか、などと、いちゃもんをつけて、どうしようもない本末転倒の、おとしめの文句を言ったことを、そっくり棚に上げています。
 
信仰は、神がいて、おいでおいでするから、人が信じるのではありません。神が、いかに沈黙していても、キリストの愛と共感を忘れ得ないのが、キリスト信仰者です。ゆえに、嘆きも正直に、祈りの場において、神に捧げることになります。
 
歯の浮くような讃美言葉で神に対して世辞を言うシャロームや、神がいるならなぜ悪があるかなどという現世の完全幸福の欲望だけからのいちゃもんを投げてくる楽山などには、信仰も信仰の理解もないと思うのは、愛に絆(ほだ)されるという人間の性質が、嘘吐きには無いからでしょう。
 
まず、どうしようもない悲劇に接した人々が、神なる御方を必要として、神がいないならば生きてゆけない、というほどの気づきが始まり、信仰が始まるのです。こういうこと書いても、字面概念思想?の楽山には、分からないでしょうね・・。
 
 
発展については宗教ではあまり語られていないというが、キリスト教系の光明思想や、自己啓発本などで十分に語られている。
 
(光明思想について、ネットより)
ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動である。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタント系カルヴァン主義への反発を背景に生まれた[1]。
ニューソートは、アメリカのメスメリスト[2](催眠治療家)・心理療法家フィニアス・クインビー[3]やクリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディの思想を中心としていた。アメリカの対抗文化の流れを汲むニューエイジの源流のひとつであった。ラルフ・ワルド・エマーソンの哲学を支えに徐々に社会に浸透していった[4]。
ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[5]。
その主張には、「そもそも『原罪』は存在せず、あらゆる人々がキリストの力を内包している」、「正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた」といったものが含まれていた。その教えを異端視する者がいる一方、従来の禁欲的キリスト教思想に疑問を抱いていた思想家、労働者、零細農場や工場の経営者らは触発された[6]。
「生長の家」の創設者谷口雅春が光明思想と訳しているように、気持ちを明るく保つことで運命が開ける、というポジティブ・シンキングや、イギリス出身の牧師ジョセフ・マーフィーの成功法則(日本でも著作がベストセラーになっている)などもニューソートの一環であり、いわゆる成功哲学の面がある。
心や思考の性向が健康や経済状態として表れる(思いは現実になる)という考え方(積極思考、ポジティブ・シンキング、引き寄せの法則)は、現代の自己啓発やビジネス書の源流であり、日本人への影響も大きい。
光明思想
 
「あらゆる人々がキリストの力を内包している」これは十分に、カルト臭い筆致だと思います。景気よく豪語して辻褄を合わせる者たちに、同意しないでください。原罪の自覚なしでは、キリスト信仰は成り立ちません。また、ポジティブシンキングは、反省を土台としなければ、自己中になります。
 
 
霊については最近のHSでは護教的党派的な見地からの主張が多く、ずいぶんと偏向したものになっているが、それよりはより普遍的な立場から語っているスピリチュアル系の本で学ぶ方がいいだろう。
 
人間理解と共感を深める努力と反省をしないならば、スピリチュアルも、キリスト教の教派も、有害です。人間を深く理解しようとするなら、罪がない、などとは、決して言えないのです。自分を見ることの出来ない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、罪の自覚がありません。
 
 
またすべてを統べる思想を目指すのであれば、唯霊論でも、唯物論でもない、それらを超えた立場を目指すべきであって、霊的人生観という唯霊論の立場に立ち、唯物論を否定しても仕方がない。
同様に、有神論と無神論のうち一方の立場に立っていても仕方がない。唯霊論でも唯物論でもなく、有神論でも無神論でもない、それらを超越した立場にでも立たなければ、それらすべてを統べることはできぬだろう。この意味でHSの教義には限界があるし、HSの教義は数ある宗教のうちの一つではあっても、すべてを統べるものになることは決してないのが現実である。HSの教えによって救われる人は当然いるだろうけれども、だからといってすべての人を救えるとは言えない。大川隆法がいくら自分の教えを誇ったとしても、こういう事実はいかんともしがたいのである。
以上、これが自分の現時点における結論である。〈了〉
 
楽山は、○○論というような難しい言葉を使いますが、楽山の理解は極めて短絡的で広害のない先入観でしかありません。楽山は、論理的思考にも、情緒的感性にも、適性がないのです。自己愛から、持っている自分を気取っているだけです。
 
カルトには、教祖が、権威主義から教えを、押し付けてくる硬派カルトだけでなく、楽山のような理屈に見せかけた軟派カルトと呼んでいるところの、一見、優しそうな言葉で、霊が分かるっぽい詭弁による誘導もあります。正体は、楽山の野望なので、硬派よりも見抜けないあいだは、より危険です。
 
「結論である」などと言えるほど、楽山の、思想と知性、宗教と感性は、いずれも、整っていません。話にならないくらい雑であり稚拙であります。今回、いくら長い記事を書いてもいっしょだ、ということが明らかになっています。
 
楽山が、HSを斬ったつもりの、その刃で、楽山が斬られているのです。これは、嘘吐きや偽善者やカルトには、しばしば見られることです。偽善の妄想狂シャロームが、押し付けがましく、信仰?のきれいごとを並べるときにも、同じようなことがありました。"反しているのはお前だ" ということです。
 
なお、楽山やシャロームなどの易坊類には、一人による3者への成りすましの疑惑があります。ネットでは証明できないが、ネットでは否定することも出来ないのです。
 
 
メモ的に:
 
真の信仰は、人間らしい良心を促進して、絶対者である神に対する恐れと敬虔に人を導き、人に反省と成長を促します。正直な祈りだけが、救われる条件であること、そして、潤いと温もりが、すなわち、悲しみと愛が、信仰の、源泉であり、力であることを、今まで書いてきました。
 
信仰について考えると、聖書を読むということは、その中に書いてあることで、人間として受け取れるものを探し求めることであって、聖書に書いていることを全部信じ込むことではありません。"わからない" と言える勇気が必要です。
 
何故なら、心が動かさないことを信じれば、それは、命ではなく、教条的な概念の思い込み信じ込みに過ぎないからです。そういう信じ方をすると、疑問に対して、心からの信仰ではないために、まともな受け答えが出来なくなて、勢いだけになって、人間離れしてゆきます。
 
ですから、感動してもいないのに、つまり、本当に心が動くほどに理解してもいないことに、信じます、などとは、言ってはいけないのです。心が動いていない場合、一応、心に留めて、今後、考えてみます、ということに、とどめておかなければいけません。
 
知ったから、分かったから、信じるのではありません。心を動かし、心に残っていて、生きるのに必要だから、他にないものとして、受け取った、という信仰なのです。
 
 
まとめたつもりの砂場にいる

まとめたつもりの砂場にいる
 
 
(2020年)
(2022年06月04日、再録+加筆)
 
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  生き物戯作
 
雀が首を傾(かし)げるのを
見たことがあるかな
わしはある
と庭の椅子(いす)に腰かけた老人は
独り呟(つぶや)くのだった
 
日干しになりかけた雛を拾って
しばらく飼っておったからの
小雀まで育てて窓を開けてやったら
外をきょろきょろ見て
ぱっと振り返って
何度か首を傾げたのじゃ
そのあと一気に飛び立っていったが
あれからどうしたじゃろうなぁ
 
ちらりと空を見て老人は続けた
生き物は何でも知っていて
知らない振りをする
いつもの老人の繰り言である
 
死期が迫ると
それとのう分かるらしい
蛇に見込まれた蛙というが
蛙は食われることを知っていて
蛇を相手に最後の話をしておるのじゃ
俺の番が来たようだな
 
そのようだ
痛いのかな
痛くはないと聞いている
骨肉が砕かれる前すでに
魂は天に昇り始めるらしい
 
では一芝居お願いして
創造の主様のもとへ帰るとしよう
とか何とかな
 
草食動物が肉食獣に襲われるときも
一見必死で逃げるが
あれも芝居といえば芝居で
食われるときにはちゃんと観念する
わかるのじゃ死ぬべき時かどうか
腹が減っていなければ双方とも
長閑(のどか)なものじゃ
 
話す相手もいないのに
呆けた老人は続けるのだった
人は自らに近いものほど
より高等だと思っておるようじゃが
実はその逆でな
見える生き物の中で
いちばん賢いのは植物なのじゃ
彼らは実に悟っておる
だから首を斬られても
根こそぎ引き抜かれても
文句ひとつ言わず
抗(あらが)いもしない
まことに天命を弁(わきま)えて
予期してさえおる
 
老人は少しふらついた
ん?そろそろわしの番かの
背中が気持ちよう涼しうなってきた
目に見えぬバクテリアを黴(カビ)で
抑えたまではよかったがの
長い長い進化の歴史を
彼らは種の存続のみに費やしてきた
 
自然に敵(かな)うのは自然だけじゃ
バクテリアの持つ記憶に
人は勝てまいのう
そう言い終わると老人は
椅子の背に凭(もた)れて
眠りに就(つ)いてゆく様子である
老人の独り言である
誰も聞いてはいなかった
近くの木々が風に吹かれて
小鳥たちと一緒にざわめいていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
私は年寄りで、楽山は私より若いでしょう。楽山んは、私が死んでから、また好きなように書く無責任人生を謳歌するつもりでしょうか。しかし、楽山のような「保身だけの卑怯者」「魅力の欠片もない」人は、誰かに迷惑をかけ、傷つけるので、結局は、一生、批判にさらされてゆくでしょう。
 
ゆえに、批判を無視していると、そのうち批判が治まるということはないのです。むしろ、批判対象記事が増えてゆくだけなのです。人の意見を、当たり前のように無視してゆく自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の生き方は、結局、成り立たないということです。
 
 
 
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  ヒーロー気取り3
 
 事実は一つでも、その感想は人それぞれ異なる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月11日
 
 
楽山の典型的な詭弁と誘導の文章です。まるで、説教壇か山上で教えを垂れるような、しかも、ことごとく空っぽな豪語が結論となっているという空回りなのに有頂天楽山の排泄です。
 
 
最近は、「人それぞれ」ということを感じる機会が増えているのだが、本書にもそれらしいことが書いてあった。
同じ事実でも、人が違えばまったく違った感情を呼びさますし、また、同じ人にも、時が違えば違った感情を呼びさますのであるから、同じ事実が相反するような感情的説明を受けることは、明らかである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.228)
 」
これは本当にその通りだ。たとえば、一冊の本の感想は、人それぞれ違うのが当たり前であるし、同じ人でもはじめて読んだ時と、再読では、感想が違っても不思議ではない。いや、むしろ違うのが当然だ。
 
人それぞれ、というのは、偽牧師シャロームが、妄想信条を語るときに、よく言っていたことです。人それぞれだからと言って、自己中、嘘、妄想、など、邪悪なものを是とする・・なんてことは出来ません。同じ詭弁で言い訳をする楽山です。みすぼらしい限りです。
 
「人それぞれ」という曖昧な格言を、いつでも言える法則のように見なして、自分が何を言っても、「人それぞれ」だから、正しいという詭弁を作り出そうとしています。言葉の適用範囲を、物理法則のように、広げる詭弁です。こういうインチキが、楽山という嘘吐きを作り上げているのです。
 
楽山は、本の感想を例に挙げていますが、私は、感想レベルのことを言っているのではなく、常識レベルで、楽山について、おかしいと言っているのです。批判が理解できず、本の感想に喩えるのは、ますます、おかしい楽山を、定評としてルーチン化してゆきます。
 
 
これは書物だけでなく、絵画、映画、景色、料理…その他さまざまなことでも同じことがいえる。もちろん宗教思想についてもそうだ。一つの宗教思想についてそれを受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる。いったん受け入れても、その後で改宗、転向ということもありえる。これが現実である。
 
だから、楽山が受け入れなくても結構、むしろ、受け入れることなど期待していない。むしろ、楽山みたいな人がそのまま来てもらっては困るということです。
 
問題意識が、また、著しく的外れです。楽山は、公共の場で、キリスト教を、無理解のまま、全然成り立たない理由で否定してきたわけです。それが迷惑だと言っています。人それぞれではなく、楽山には、特別に理解力も、修正能力もないのです。
 
常識のある人なら、分かることが、楽山は分からない、というより、我を張って、ますます、話を違う方向に持ってゆくという詭弁です。鼻を突くような悪臭です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の災いと言えるでしょう。
 
 
こうしてみると、人の心というものは決して定まることのないものであって、少しも当てにならないものだということがよく分かる。
 
身も蓋もなく、楽山は、何を言っているのでしょう。迷惑行為を無常観で済ませるのでしょうか。問題が、定まらないのでも、当てにならないのでもなく、楽山が、無理解のくせに、意地を張って、言い逃れの詭弁を宛がっているということです。
 
こういうごまかしが通用すると思っている楽山です。冷静な知性も感性もなく、いちばん当てにならない楽山の言が、楽山の無責任によって、悪と偽善に拡散してゆく性質を持っています。ゆえに、人の心ではなく、楽山の言うことこそが、定まらない被害をもたらしてゆく独り芝居なのです。
 
 
一切は移ろい行くものであり、人の心もその例外ではないとすると、若干、もの悲しい心持ちがしないでもないが、どんなに悲しかろうが、寂しかろうが、これが現実なのだから、それを拒絶したところで仕方がない。一切は過ぎ去って行くのだとすれば、「一切は過ぎ去って行く」ということもいずれは過ぎ去って行き、その次には一切は過ぎ去って行くとも限らない状態が到来する可能性もあるのではないかと言えば言えそうでもあるが、これはただの理屈に過ぎないのだからどうにもならない。
 
楽山が、悪夢のような、いい加減な空想話をしています。みんな、うつろいゆくものだから自分の悪も「どうにもならない」ということに結びつけて、これで、何か正当なつもりで投稿してくることが、風を追うような、塵に縋りつくような、霞に希望を託すようなものでしょう。
 
楽山の、うわべだけ仏教哲学風味だけど、繰り言のように腐った不平不満で人心をかく乱させる詭弁です。楽山の言は、ただの理屈ではなく、体質的な、自己愛、訂正不能、無反省によるところの、社会悪につながる恐れのある有害な詭弁であります。
 
「どうにもならない」と言っているように、楽山の言説は、何の役にも立たないのです。自分で言っているわけだから、身の程を弁えて、妨害と迷惑の無益な屁理屈の自己顕示をやめるべきですが、人格障害が酷くて、シンプルな反省すらも出来ない楽山です。
 
 
人それぞれという考え方は、各人の自由を尊び、個人を尊重するにはよいけれども、人と同じでいたい、確固たる地盤の上にいたいという願望を充足させるという点では少々物足りないところがあるだろうし、誰をも満足させるものではないのは事実ではある。
 
「人それぞれ」で、誰が満足するというのでしょう。いかに、楽山が、いい加減で、継続性のない精神で物を言っているかが、如実に表れています。楽山の言こそ誰をも満足させない、というのが事実であります。自由を害し、恣意を通そうとする楽山を許してはいけません。
 
 
世の中には万人を納得させる思想などというものは存在しないし、当然ながら、人それぞれという考え方もその例外ではない。ただし個人の尊重をよしとする今の世の中では、一つの思想、価値観で統一するのは無理であろうし、当分の間はこれがもっとも多数から支持される無難、穏便なものの考え方だろうことは確かではあるし、
 
「人それぞれ」は、思想でも価値観でもありません。曖昧な格言のようなものです。楽山のような怠慢なペテン師が、しかたない、しかたない、といって、努力を怠るところの敗北思想を敷衍(ふえん)しようとしています。
 
それにしても「多数から支持される無難、穏便なもの」とは、書く値打ちのないことでしょう。「人それぞれ」は、ある条件において格言的な意味を持ちますが、一般則とはなりえません。このように、楽山は、嘘っぱちをでっちあげて自己満足しますが、一方、何も実のあることを提示できないのです。
 
自分が満足しないだけであるのに、楽山は、「一つの思想、価値観で統一するのは無理」と、真実追求をあっさり放棄しています。楽山は、しばしば、このような短絡で、総てを言い切ったつもりになる病的ナルシストなのです。誰も、楽山を参考にしてはいけません。
 
「これ」つまり「人それぞれ」は、一般則としては、詭弁の材料にしかなりません。思いつきだけの無根拠の、「人それぞれ」だから、一つじゃ無理という話なのでしょうか。呆れます。「多数から支持される」と言っていますが、勘違いが妄想になっている楽山は、誰からも、否定されるべきです。
 
何だか、ヒーローか政治家の説教みたいな言い方になっているのが、非常に気持ち悪いです。それに、楽山の思想は、霊能者気取りで、上から下にアドバイスして、何も益がないという結果が、既に、文章のいい加減さに見えているのです。
 
これが、楽山の自己愛の、根無し、あるいは、根腐れ、とでも言うべき、底の浅さであり、説得力も、説得しようという気も、全くない証拠となるでしょう。未熟な子供が、未熟な意見を、声だけ大人の大声で演説している体であります。言い張ることは、こうも醜いという教訓です。
 
 
個人の尊重をよしとする今の世の中では、一つの思想、価値観で統一するのは無理であろうし、これより善い新思想が出てくるまでは、ますます人それぞれという考え方は広く、深く人々の心に沁み込んでゆくだろうと思う。
 
今度は、思想の誇大的気分のヒロイズムで、即、幼稚と言ってよいような、預言者?の演説でもあるかのような、もったいぶった大袈裟な豪語になって、その分、中身が、いっそう、空疎で悲惨なのです。何を言っているんでしょう。間違って説教壇に立った知恵足らずの有り様です。
 
「人それぞれ」というのは、特別な考え方でも思想でもありません。沁み込むような深いものでもありません。個人的な要素の強いことに、折り合いをつけるためにあるようなものです。だまされないでください。いい加減なことしか言えない自分を正当化しようする楽山の自慰行為なのです。
 
しかし、楽山は、何について語ってきたでしょうか。なにもまとまっていません。キリスト教について否定しただけです。人それぞれでやって行ったら、際限なく、カルトが出てくる問題なのです。楽山のカルト教祖願望の妄想だと思います。
 
しかも、楽山は、説教にならないのはもちろん、教養にもならない愚痴のようなことを、ねちねちと執拗に言ってきたのです。今もそうです。それこそ、帰る場所のない野良犬が口角からだらしなく垂らすヨダレに過ぎません。全く思想にも分別にもなっていないのです。
 
この部分は、特に、楽山のベースにある自己愛性人格障害と、いつかヒーロー・・みたいな躁的興奮気分が、垂れ流されています。裸の王様でしょうか。シャロームもそうでした。反省しない自己愛者の特徴だろうと思います。よく見てさえいれば、楽山ほど貧相な発言者はいないのです。
 
こちらとしては、楽山の言説が読者にとって、宗教・信仰にとって、害毒だという判断には、とっくに十分な根拠があるわけです。今もそうです。それでも言い張りをやめない楽山の丁寧語の排せつ物を、何やら一端(いっぱし)の思想と勘違いする人がいないように、批判しているだけなのです。
 
 
 宗教が人をつくるのではなく、人が宗教をつくる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月11日
 
 
楽山の正体は、風船か軽石のようです。外れ方が酷くて、中身がなくて、とても一般に供せられる質ではありません。丁寧を装っても、内容としては酷い外れ方なので、暴言・暴論と言ってもいいでしょう。楽山の思想のような解説者気取りは人を壊します。
 
 
「鶏と卵ではどちらが先か?」という話があるけれども、下のような文章を読むと、「人と神ではどちらが先か?」とか、「人と宗教ではどちらが先か?」というようなことをついつい考えてしまう。
幸福が現実に所有されている場合には、悪の思想は実在感をもつことができない。それは、憂鬱が支配している時に、善の思想が実在感をもちえないのと同じことである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.136)
 」
宗教のなかには、幸福感を強調するものもあれば、厭世的な気分を刺激するものもあるけれども、考えようによっては、こういう宗教の色合いは、人の心によって定められるということもありそうだ。幸福な人は幸福を強調する宗教を求め、厭世的な人は厭世的な宗教を求め、それぞれがそれぞれの宗教をより完全な形に熟成させていったのではなかろうかと…。
 
楽山の軽口です。「宗教をより完全な形に熟成させていった」・・宗教の完全な形、誰も知りません。楽山は、鶏と卵の話から、宗教は定まらないという曖昧な話に持ってゆきます。宗教の無理解が前提で、聞いても、何の足しにも、糧(かて)にもならないことばかりです。
 
「鶏と卵ではどちらが先か?」を持ち出してきました。鳥があるのは卵から成長するから、卵があるのは鳥が産むから、つまり、これは、循環論法という矛盾です。これを、主張の根拠みたいに上げてくること自体が、インチキだと証明しているのです。
 
これを、楽山は、以前、奇跡について語ろうとして、循環論法になって失敗しているのですが、循環論法が、よっぽど好きなのか、また、今度は、まともに宗教に当てはめようとしているのは、滑稽と言うべきでしょうか、いや、妄想に近い自己欺瞞です。欲と意地以外何もないのでしょう。
 
宗教は、一部の人々が、真実を追求して、いわゆる気づきをもって、真実の一部を収穫して、今までにない新しいこととして、人に問うことで始まるわけです。しかし、楽山は、今までの記事の流れから、宗教は人が捏造するつまらないもの、という印象だけを吹き込もうとしています。
 
安っぽい思想を捏造しているのは、楽山その人であります。ゆえに、楽山の言は、呆れるほど、何の感動も意外性もインパクトも面白味もない退屈なだけの代物です。楽山だけが、独りで、整ったつもりで、評論家気取りで、自画自賛しているだけなのです。
 
 
とすると、宗教の多様性は人の心の多様性によって育まれたのであり、宗教が人を導いているというより、人が宗教を導いているという方が現実に近いのかもしれない。
 
どっちが先?という鶏と卵の循環論法から、楽山は、人と宗教について、要素的な断片を述べただけで、人が先に宗教を作ったという循環しない結論を導いているつもりなのです。目に見えない真実というものを、楽山が、いかに見逃してきて、拙劣に、でっち上げているかを知ってほしいです。
 
人が宗教を作っている、という、悪い意味なのに、育んだ、導いている、などという、良い意味の言葉を使って、言葉の世界をけがしています。表れているのは、作文下手の楽山が、詭弁で迷路に導いているということだけです。
 
信仰を持つ人々が作るのは、言葉で表される形式や儀式や組織や道徳律のような目に見えるものでしょう。しかし、宗教と信仰の本質は、目に見えないものです。
 
多様性と書いて済ませているのも、いかにも浅薄なのです。宗教の真実というのは、深い思考と情緒的感受によって、ヒントとなる気づきに到達するものです。楽山は、そういう深淵を全く経験していないし、まるで浅瀬で遊んでいる小魚のようです。信仰は、楽山が思い付きで書くのとは、全然、違うのです。
 
しかも、楽山は、自己愛ナルシズムによって、深淵から掛け離れた未熟さを認めず、神も、キリストも、高みから見下ろした風景の可視範囲の一部を見ている姿勢で、それで、いかにも、知ってるふうに決めつけてくる慢心した愚昧(ぐまい)の輩(やから)なのです。
 
 
ちなみに自分のことを書くと、自分はいつも厭世と理想の両方に足を乗せているように思う。
 
楽山は、どちらにも、手も足も乗せていないと思います。厭世も理想も、考えれば、深く遠いものです。偉そうに言ってる楽山だけが、浅くて、思い上がって、賢者のふりをしているピエロなのです。
 
 
それでいながら、「一切は過ぎ去ってゆきます」という方に傾いてみたり、「すべては愛と歓喜に満ちている」という方に傾いたりして、始終、重心を動かしている。
 
楽山に重心はないと思います。浅さ、軽さ、だけが目立ってきました。難しく気取って見せても無駄なのです。悔いる悲しみの代わりに不快感と不機嫌しか持っていないような楽山が、太宰の言葉を引用しても無駄です。楽山と太宰は、全然、質が違います。
 
しかし、人間失格は、楽山のほうに、そのまま言えてるかもしれません。楽山は言論者でも思想家でもありません。あまり長く勝手なことばかり言っていると、人間でもなくなってしまうでしょう。自己愛は、のめりこんで訂正不能になると、人格を破壊します。
 
 
宗教でいえば、あらゆるものを厭い離れる仏教的なものに魅かれるときもあれば、克己心をふるい立てさせる儒教的な方面に関心が強くなったりもするし、文学でいえば漱石の「硝子戸の中」「道草」「門」などの雰囲気に安らぎを感じることもあれば、武者小路実篤の楽観的な理想主義で元気をつけることもある。
 
楽山には、今までの文章を読んだかぎりでは、何もないと思います。刹那的に、良さそうな言葉と文章を書いても、それは、幼稚な詭弁なのですから、有名人に自分を喩えるなど、恐ろしく身の程知らずなのです。早くネットの言論の世界から去ってほしいだけの人です。
 
さも広く学んできたような書き方をしていますが、楽山は、病質のために、本を読んでも、都合のよいところを集めているだけなのです。そして、一定の主張を持たず、それが良いことだと思い込んで、両極端を、ふらふらしているだけなのです。
 
今回、説得力が、まるでないことが表れてきました。文学の名前を出して、もったいぶっても、つまりは、自分で何も組み立てられないことを表しているのです。しかも、謙虚さが全然なくて、ヘラヘラ笑って、気安く出てくるに至っては、実に気色悪いのです。
 
 
このように自分一人の心でさえも、その時々によって揺れ動くのであれば、様々な個性を待つ人々が何億、何十億と存在する世界に、その個性に応じて無数の宗教が存在するのも必然なのだろうし、
 
もったいぶったニセ賢者の台詞です。今回は、スケールが、前にも増して誇大的かつ大袈裟であることが目立っています。一人に、一つずつ、楽山の欺瞞・・でしょうか。冗談じゃない。
 
無数の宗教を、必然だと言って、無節操に無条件に許容してしまっています。あるいは、無数にあるのだから、信ずるに値しないと言いたいのでしょうか。歴史の中で、宗教は、少なくとも、楽山の一生よりは、重みがあります。何の思想も哲学も宗教もないのが、楽山の浅薄さ、かつ、空虚です。
 
 
これこそが宗教は唯一の真実に属するというよりも、人々の理想、願望、感性などに関わるものだということを端的に示しているのではないかと思う。
 
宗教と信仰を知らない楽山は、それらを、いい加減に信じるのが正常と言いたいようです。楽山の言うとおりになれば、宗教も信仰も滅びてよいことになります。唯一の真実など、楽山は、最初から見つける気はないということです。見つける努力もしていないことが、書いたものの短絡に表れています。
 
楽山は、おのれの怠慢ゆえに、一気に到達したいのでしょう。だから、カルト教祖願望を持っていると判断しています。真実が、そのような広い門を持っているでしょうか、否であります。広き門は、悪魔と地獄の入口であります。いい加減が正しいなどという宗教には何の価値もありません。
 
楽山は、自分が、いい加減で、知識も理路も感受性も整わないものだから、宗教が、いい加減だから、とっつきやすいと思ったのでしょうが、宗教と信仰こそが、詭弁や嘘や偽善を、最も嫌っていることを知らないのです。宗教を理解できない者が、いい加減じゃろ・・と居直っているさまです。
 
「理想、願望、感性に関わるもの」などと、理想もなく、願望は自己顕示欲だけで、感性など快楽原則だけの楽山に、言われたくないのです。当たり前の幼稚なことを提言のように言って、真理に関わってる風味を出そうとしてきたのが楽山と言えるでしょう。結果、空っぽ・・だけが表れています。
 
楽山は、努力したくなくて、既に分かっていることにしたくて、以前から、それに合うところの、ああでもない、こうでもない、という、ボンヤリ言語の世界に安住して、真実というテーマを、節操もなく、だだっ広く、錆びた工具にしています。
 
楽山の、気安さが、底の浅さが、ペテン師的な詭弁精神だけが、漏れ出ている文章です。目標へのフォーカスを持たず、偉いと思われたいだけの人のようです。今回は、楽山の体質が、かなり、はっきり表れてきたと思います。
 
 
有頂天の行方

有頂天の行方
 
 
(2020年04月12日)
(2022年04月17日、再録+加筆)
 
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
 
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  人知の支配
 
そこに立てば
すべてを見渡せるという
高い高い山の頂に
太陽に向かって
王はしっかりと立っていた
自らの統(す)べる国を見るために
 
眼下の町から遠い山と海
澄み切った絶景である
しかし王は不安だ
これがすべてか
 
振り返ると陽光に照らされ
鮮明に写し出された自らの影に
大地を踏んでいる足底の影がない
すべてを望む強者は満足しない
 
後ろを向き足を上げてみる
最後には思い切り両足で跳び上がった
全身の影が鮮やかに浮かび上がった
そして崖から落ちていった
 
どんなに強くても高くても
人知の及ばぬものがある
すぐ足下(あしもと)にさえ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、思い上がって、山頂から落ちてゆくのではありません。楽山は、すでに底まで堕ちているのに、気づかず改めず、山頂にいる気分で、嘘を吐き、詭弁を弄し、人を傷つけ、だましてきた報いを受けているのです。人で在ること、その当たり前に背くと、自他ともに破壊するという地獄です。
 
 
 
 楽山のツイッター、これも再録+加筆です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これ、わかるわあ。
といいつつ、自分はこれらをきちんと区別できてないときがある。気をつけねば…。
引用ツイート
怒りのジョニー
@swiwwproud
 · 4月13日
「個人的な感情(好き嫌い・快不快・怒り)」と「客観的な現実(卑近な出来事から社会問題まで)」をごっちゃにせずに切り分けることが大切で、それは立場に関係なく、等しく大人のマナーだと思うんですよね。 twitter.com/bakanihakaten3…
 」
午後7:17 · 2022年4月13日
 
楽山は、「個人的な感情」と「客観的な現実」を「区別できていないと気がある」と言っています。しかし、楽山は、それを一緒にして、決めつけてきます。「ことがある」ではなく、区別などしていないと思います。情緒を偽造し、現実を無視したまま、安穏として生きている楽山です。
 
感情と現実は、元々別次元のものです。主観と客観と言ったほうがよいでしょう。しかし、純粋な客観は、人間にはあり得ないと思います。物を見るということは、見る人の、感覚、イメージ、記憶、情緒と理路が、さらに言葉も、複雑に絡み合って、認識が生まれます。客観とは限らないのが人間です。
 
引用された文章は、感情的にならずに、冷静に見て、偏りのないように考えることを言っているのでしょう。だから、守るべき大人のマナーと言えるのです。楽山は、体質的に自己愛の自己中心からしか言動しないので、最初から偏っているのです。「わかるわあ」なんてありえない人です。
 
 
 
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  信仰の情熱3
 
 を再録+
 
 
既に前に、信仰は、言葉で表された教理や信条を思い込み信じ込むことではない、と書きました。では何なのだろうと考えます。
 
人間が、変わるのは、心が動くからです。便利だなあ、とか、なるほどなあ、では、人間は変わりません。心がふるえていないからです。なんとなく辻褄があったような気がしているだけで、感動がないからです。 
感動をもたらす信仰の体験とは何でしょう。一部の人々は、聖霊体験とか神の臨在とかを明言しています。超常の聖霊を明言できるというのはどういう人でしょう。超常が分かる人ではありません。超常が分かったつもりの人です。それは信仰ではありません。
 
人の欲望の中には恐ろしいほどの超人願望があります。他者より神聖になった、あるいは、神聖に近い自分でありたいのです。そういう人は、自分が超人になったことを担保したいのです。その方向で宗教を考える人には、日常体験を疎かにする傾向があります。
 
宗教を超常として教える向きには注意してください。そこにあるのは超常ではなく、他者より上に立ちたがる欲望なのです。だから、どこか、非信仰者をかわいそうな人と思っています。自分は、出来ている、という自覚からです。
 
本当の信仰の体験は、人間の良心に響く深みをもって与えられます。そうでないと人間は動かないからです。それは欲望の成就ではなく、真実の人間の正直な姿に立ち返ることです。非人間性に囚われている心が、人間性に目覚めることを魂の奇跡と呼んでいます。
 
人間には、良い心である良心と、悪い心である悪意とがあります。それらは常にありますが、場合によって、どちらかが優位に立つことになります。それが、それぞれ善行と悪行に結び付きます。悪意は、さらに、偽善に結び付きます。
 
この世が偶然に支配され、自分についてもどうなるか分からないと思えば、もはや、何を楽しめばよいのだろうということになります。この世は偶然に支配されているように見えるけれど、その背後に大きな愛と善と平安の摂理が働いているならば、この世を生きることの意味が変わってきます。
 
日常を、駆け引きや、勝ち負けや、好き嫌いで過ごす自覚だけになることは、生き甲斐や生きる理由さえ奪うほどの虚無の恐怖に成りえます。そんなことのために人間は生まれてきているでしょうか。そうじゃない、そうじゃない、という叫びが、いつも、心の中で、響いているのではないでしょうか。
 
勝ちを求めて、人と争い、人に頼ることは、誤りというより儚いのです。自らを見てください。争う自分など、そんなに立派に頼られる人間ではありません。その自覚と共感こそが、人間の側に起こるところの、宗教、そして、信仰の始まりなのです。
 
人間は関係の中で生きています。他者を無視しては生きられません。他者を無視すれば、やがて自分が無視されます。ひどくなれば人間扱いされなくなることだってあるでしょう。どのような関係が、人生を預けてもよいほどに人間を支えるのでしょう。それは人間でも人間離れでもありません。
 
人間を不完全なまま支えてくださる御方を、私個人は慕っております。その御方は自らの完全の道ではなく、不完全な者に下される致命的な罪の報いの犠牲となって歩まれました。その御方の教えは、そのたぐいまれなる洞察と共感と慈愛とともに今に伝わっています。
 
その御方は、その生涯における目的の主旨として、こうしたら救われるという行為の条件を、条文のようには言いませんでした。取り引きを、人とも、悪魔とも、しませんでした。代わりに寛容な愛をもって、多くの人が忘れられないご自身の姿を表したのです。ゆえに、新約と呼ばれます。
 
 
多くの信仰者と、多くの偽善者が、この神という御方の名を呼びます。
 
信仰者は
自らの低さを自覚します。
 
偽善者は
自らを高めるために豪語します。世の中は偽ものだらけです。
 
どうか独り言のように静かに正直に、でもどうか本心で祈ってください。そのような祈りを、誰よりも聞かれる御方がいます。
 
 
信仰の情熱

信仰の情熱
 
 
(2020年01月31日)
(2021年02月03日、加筆して再録)
(2022年02月05日、再録+)
 
 
 
※追加記事、同日一部修正 :
 
 
  楽山の別ブログ
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(3)〈KENTO氏の主張〉
 2021年02月02日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判。
 
 
楽山の、無反省・無責任・無理解からの、無能力と、それをごまかす詭弁が表れています。楽山は、どうしても、見栄だけは張りたい、自分は一人前なんだ、という子供だましの子供なのです。
 
 
次のブログ記事では、咲也加氏の書籍と、盗用されたとされる側の論文との比較検証が保存されているので一読をおすすめしたい。
・【2ch】咲也加の卒論を検証してみた(8/4 修正、追加) - 幸福の科学元二世信者ルジェのブログ
 
このリンク付けた記事は一読できるようなものではなく、実に、詳細な批判になっています。楽山は、なぜ、書かないのでしょうか。・・書けないからです。理路も説得力もなく、通念的な言葉を並べて、しかも、自己愛・自己中のために、破たんするような楽山には、整った批判の文章など、書けないのです。
 
だから、人の文章をあげても、詳しく書くことができず、もっともらしい短文で済ませるしかないのです。ゆえに、この記事も、引用ばかりが多くて長い記事になっています。
 
楽山が自分で書けば、私に対する返しのように、一方的で、嘘と詭弁と被害妄想だけになります。書く能力がないのに、一人前を気取ろうとするから、こういう記事になってゆきます。
 
いっぱい貼り付けて、人の文章をリンクして、「一読をおすすめしたい」と書くしかない楽山です。ご機嫌取りの見え透いた褒め言葉で、自らの不全を表してしまいます。
 
 
この件については、私も、関係書籍、論文を直に調べたわけではないので断定的なことは言うつもりはないのだが、それでも意見を言う際には、ネット上に散らばってる資料くらいは、ざっと確認するくらいはする。
 
楽山は、暫定的にも断定できないのです。そのような理路を持っていないからです。賛同を書き、批判を書き、どちらも成立せず、それで、責任を取れない、でも、見栄は張りたい、それが、楽山です。
 
楽山は、いつも「ざっと」見て、放言して、終わりです。「ざっと」で「確認」とかできるわけがありません。楽山は、しっかりしたものを何も持っておらず、無反省・無責任なのに、評論家気取りなので、「さっと確認」という、いい加減な言葉で済ますしかないのです。
 
 
KENTO氏もせめてそのくらいはしてから意見を言ってほしいものだと思う。そうしたら単純な事実誤認はもっと減らせるし、その意見にももっと深みが生じ、説得力が出てくるはずである。この点、お願いしたい。
 
言ってることに何の深みもなく、説得力が皆無の楽山が執拗に気取って語ろうとしますが、楽山には、言葉で気取るしかありません。だから、評論家口調になるのでしょう。誰かに何かを要求する資格はないと思います。実に曖昧な言い方で、これが、楽山の、いい子ぶりっ子なのです。
 
楽山に関わり、楽山を、誠実だ、まともだ、と思うことは、詐欺師にだまされるのと同じです。むしろ、詐欺師を助けることになるとも言えるのです。それが、楽山の丁寧語の狙いだからです。どうか、楽山に、関わらないでください、近づかないでください。
 
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱はふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
 雲がわき
 雲が飛び
 雑多な雲が流れ
 千々に流れて
 虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、間違ったこと、失敗したこと、過ちを犯したことを、認めたことがありません。代わりに、実感のこもっていない、反省、とほほ、共感、といった言葉で済ましてきました。最初は、反省してるんだと受け取っても、前後をよく見れば、全然変わっておらず、嘘の芝居だと分かるのです。
 
 
 
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