ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  まとめ芝居(3)2
 
 幸福の科学の基本教義について
 2020年05月31日
 楽山日記(LD)を改めて批判。
 
 
HSを辛らつに批判する楽山の、カルト臭い野望を持っている本性が、じわじわ表れてきます。
 
 
*霊的人生観
 自分の理解では、HSで言うところの霊的人生観とは人は死んだら終わりではなく、その本質は霊であり、永遠の生命を持ち、転生輪廻を繰り返しつつ、さまざまな経験を積み、霊性を向上させているという考え方である。ようするに、いわゆる霊性進化論であり、ダーウィンの進化論に強く影響された考え方である。(参考『現代オカルトの根源: 霊性進化論の光と闇』大田俊寛著。ちなみに本書は、UMA氏のレビューを読んで知った)
 
私のいちばん嫌いな超常の辻褄合わせです。根拠がありません。好ましい人間性がありません。「霊」「永遠」「天昇輪廻」「霊性進化論」・・こういう超常の話を楽山は好みますが、人間としての根拠や必要性を、まるで説明できないのです。
 
 
HSでは、進化論は間違いであり、ダーウィンは地獄に堕ちたとしているのだが、そんなことを言いつつもダーウィンの進化論の影響を受けた霊性進化論(霊的人生観)を信奉しているというのは、なんともおかしなことだ。でも考えてみれば、大川隆法は高橋信次を貶めつつも、その教えを流用しているのだから、こういうことには無頓着で、全然気にしない人なのだろう。
 
生物の進化論は、学説として信頼を得ていますが、霊性進化論は、証拠が何もありません。"霊"を付ければいいってもんじゃないのです。そこには、カルトにも宗教にも思想にも、もっともらしく設(しつら)えた妄想性神化論?が、いっぱい生まれてくるのです。
 
 
霊的人生観の弊害についていえば、それを信じれば信じるほど、四六時中、霊がどうした、過去世がどうしたと言ってばかりのおかしな人になってしまうということを指摘すれば十分だろう。自分が会員だったころのHSでは、心霊マニアや霊好きに堕してしまうのを戒めて、霊的人生観を持ちつつも常識をわきまえていなければならないと説いていたものだけども、それはあくまで建前であり、口先だけであって、実際には教祖から率先して霊がどうした、過去世がどうしたということばかり言っているのだから仕方がない。こういうHSを見ていると、怪力乱神を語らずという姿勢の大切さを痛感する。
 
零的尽生漢の楽山は、自分が使った言葉「怪力乱神を語らず」について説明する気がないようです。そういうのを、お高くとまる、自分は分かっているんだ、上から親切に教えるのではなく不親切に言い放って終わり、という、実にシャロームにそっくりな態度です。成りすましを疑っています。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず
【読み】    かいりょくらんしんをかたらず
【意味】    怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
 
まさに、超常と心霊について、霊が分かるっぽい自覚?から、説得力のない惑わしで、"乱神を語ってきた"ところの、人間性と共感性の欠けている楽山が、言っています。こういうところも、シャロームと似ています。
 
「心の理論」:幼稚な勘違い。
「奇跡について?」:幼稚な詭弁の行き詰まり。
 
楽山やシャロームなどの易坊類については、一人による3者の成りすましを疑っています。ネットでは証明できませんが、また、違うという証明も出来ません。
 
 
*信仰
『仏陀再誕』では、地上の仏陀である大川隆法への信仰が説かれている。つまりHSで説かれている信仰は、教祖崇拝、生き神様信仰、グルイズムなどと同じものである。これはいちいち批判するまでもなく、間違いであることは明らかだ。
 
自分を、霊が分かるっぽいと思い込んで、人間の理路も共感も無視して、様々な、嘘っぱちを、つまり、間違いであることが明らかなことを、得意げに書いてきた楽山も、訂正不能、学習不能、という点で、似たようなものです。
 
 
それにしてもHSは、唯物論を批判しつつも、社会主義共産主義にありがちな個人崇拝と同じ形態の信仰を持っているのだからおかしなものだ。社会主義国では、指導者を神格化して銅像をつくったり、肖像画を飾ったりして讃えているが、HSでも教祖の銅像を作ったり、写真を拝んだりしている。こういう両者をみると、人は信仰者であろうと、唯物論者であろうと、神から離れてしまえば、その次には人を神として崇めるようになってしまうのかもしれぬと思えてくる。
 
宗教だけでなく、政治もイデオロギーも、無条件信奉者が多数いれば、いくらでも強大なカルト思想集団になりうるということです。党派、派閥、など、御恩と奉公の関係が成立すると、ますます、様相は、封建的、独裁的、または、カルト的になるでしょう。共通してみられるのは、人間性の喪失です。
 
これらに共通する経過と結果は、自己絶対正当化と訂正不能と無反省と自己中と無責任と責任転嫁と他罰であり、合理性さらに人間的な共感性を欠いてくると、反社会的になりえます。その爪痕(つめあと)が歴史に残っているわけです。ゆえに、人類共通の、最も憎むべき罪であります。
 
 
こんなことを書くと、信者からは「わたしは神から離れていない」という反論があるかもしれないが、自分からみれば、神でないものを神とすることは神に背を向け捨てることであろうし、それなら神ではない大川隆法を神だとすることも神に背を向け捨てることであるとしか思えない。信者にとっては〈大川隆法=神〉だろうから、大川隆法を信じることが、神を信じることであり、大川隆法を信じないことは神を信じないことになるのだろうけれども、それはHS内部では通用しても、外では無理だろう。
個人的な感想としては、教祖崇拝、生き神様信仰というものは、信仰としてはもっとも唯物的、地上的、俗世間的であって、お世辞にも崇高とは言い難い信仰形態だと思う。
 
上のようなカルトの間違いと害悪が分かっているなら、楽山は、先ず、自分でブログに書いたところの、とても恥ずかしい"霊が分かるっぽい"妄想?を捨てるはずですが、そういう反省は書いていません。前に楽山の書いた、"とほほ"では、反省にも訂正にもならず、"ボク弱いんです芝居"にしかなりません。
 
 
*霊言
HSでは、霊言が本物である証として、さまざまな説明をしている。たとえば外国人の霊が日本語で語ることについて、総裁の言語中枢を活用して話しているとしたり、霊言をするには霊と波長を合わせる必要があるなど…。
ただこういう説明は、その時々の都合で変わることもあるのが胡散臭い。先頃の例でいえば、守護霊霊言の内容について現実との乖離が明らかになったとたん、守護霊霊言では本心が語られるという説明がブレていたのだった。(参考・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由)
こういうところからすると、HSで言う「霊言のしくみ」なるものは、霊言を本物らしく見せるための、はなはだ護教的な後付けの屁理屈にすぎないことは明白である。
 
誰よりも自分のインチキをまともに見せかけてきた楽山は、今までの楽山の記事と私の批判の経過から、キリスト教も、同じような見なしで巻き込んで、否定したつもりになっていました。楽山が、浅薄な思いつきで並べた神の条件に、神が従うはずはないのです。とても、見苦しい屁理屈でした。
 
キリスト教における三位、すなわち、神、キリスト、聖霊について、啓示や聖霊体験などの神霊直接体験を強調する向きがあり、それらは、自己顕示欲からの意図的な嘘であるか、自己暗示による陶酔気分からの有頂天発言であろうと思われます。
 
何故なら、キリストが救ったのは、傷つきやすいが人間らしい人々であり、一方、神人一体化の訂正不能の戒律主義に向かうのは、キリストの敵となったパリサイ人たちだったからです。一般の他者より上の者になりたがり、なっていると思い込んでいる心性は、カルトにも共通しているようです。
 
 
ちなみにHS以外においては、霊言の審査においては次の基準が用いられることが多いようだ。
①声が変わる
(少女が、野太い男の声で話す等)
②口に水を含ませたまま話をする
(参考「『イギリスの霧の中へ 心霊体験紀行』の感想 (1)」の中段以降、および追記)
③霊言内容と確認された事実が一致する
今のところ、大川隆法による霊言は、①②③のどの基準を満たすこともできておらず、この点からする到底本物とは言い難いと結論づけるしかないように思う。
一応念のため、①②はすぐに分かることだからよいとして、③について説明を加えるとすると、これについてよく言及されるのは佐倉哲氏のページだ。
・大川隆法の霊示 『内村鑑三霊示集』のウソ
仏陀意識で書かれたという『仏陀再誕』などについても検証されている。
・ブッダと大川隆法
 
このように、人間を超えた超常のしるしを求めるのは、今も昔も、変わることのない、人間の大きな、罪性、すなわち、罪の性質であります。つまり、その罪の性質によって齎(もたら)される結果として、一気に人間を超えようとする者は、ただただ、人間離れの化け物になってゆくだけなのです。
 
神の啓示が、もし実際、現象としてあるならば、受けた人間は、まず、恐れおののき、それを口にするのを憚(はばか)るでしょう。そういう恐れの心がない者に、神が啓示を与えない理由があるとすれば、それは、与えれば、たちまち、教祖に早変わりするのが自明だからでしょう。
 
ゆえにでしょうか、聖書では、啓示を受けた預言者は、キリストと使徒を含めて、大方、現世的には、利益ではなく、幸福とは言えない運命を辿っています。それが、神の与える使命というものなのでしょう。
 
 
ところで、この論点における自分のツボは、ダーウィンの霊言において、ダーウィン霊が人になりかけの猿を探していると言っていたことである。進化論は、猿が人になったというのではなく、猿と人は共通の祖先をもつということなのだが、大川隆法に降りたダーウィン霊は進化論のことをよく知らず、一般人にありがちな誤解をしているらしい。
 
楽山は、仏様が喜んでいたと親族に言って、笑われたものだから、それら親族を、霊が分からないっぽ過ぎると言い、ゆえに、楽山自身が、仏様の霊でも分かるっぽいという自覚を持っています。ということは、一般人ではありえないような、ずっと改めていない霊感の我欲を、棚に上げて、上のことを言っているのです。
 
「心の理論」:幼稚な勘違い
 
「よく知らず、一般人にありがちな誤解」という霊のことを、まず、楽山自身が改めないで、他者を批判する資格はないのです。そして、ここに、楽山の、一般人を軽蔑し、自分は一般人ではない、もっと高い位置にいる、という自覚が見え隠れしています。
 
 
また潮文社時代のキリストの霊言では、キリスト霊は最期の言葉について、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」などということを言うわけはなく、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」とはエリア、ラファエルを呼んだのだとしていたと記憶している。でもキリスト教の入門書を読めば、これは詩編22の冒頭句であり、それは嘆きから始まり、やがて神の讃美へと至る詩だという。福音書作者は、この冒頭句を提示することで、十字架上のキリストは詩編22を唱え、神を讃美していたことを示したということらしい。でもなぜか大川隆法に降りたキリスト霊は、こういうキリスト教では常識的な知識さえ持たなかったのだ。
 
ひどい白々しさです。楽山こそ、シャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という、キリスト教についての"常識的な知識"であるところの"罪を悔い改める信仰"にも真逆の、とんでもない反キリスト信条の味方を継続的にしてきたのです。
 
詳しいことは知りませんが、神、主、エリ、エール、エロイ、エロヒム、など、神を表す呼び名は、一つではありません。楽山は、知りもしないことを、本から拾ってきて、知っているかのように吹聴する癖があるので、信頼しないでください。
 
 
大川隆法が霊言と称するものは、このようにある程度の知識があれば、すぐにボロが出るものである。以前の霊言であれば、たとえ霊言のなかに事実誤認があったとしても、心の教え、人生論的な部分についてはよいところもあるという主張も成立し得る可能性はなくもなかっただろうけれども、最近の霊言は大川隆法への讃美やら、教団運営のつじつま合わせやら、過去世がどうこうというような護教的なものばかりなのだからそれも無理になっているのだから仕方がない。
 
ある時期、盛んでも、人間は、衰えてゆきます。それが、人間であり、人間の宿命です。そこで、次の世代に、良きものを伝えられるかが問われるわけですが、カルトや、楽山やシャロームなどのサイコパスには、良いものが何もなく、害毒だけが残るのです。
 
 
*まとめ
大川隆法は自分の教えによって、世界の宗教を統合するとしているし、信者もそれが可能だと信じているのだろう。実を言えば自分も信者だった頃はそれを信じていた。
でも神を信じ、霊的人生観を持ち、正しき心の探究を志し、愛知反省発展を実践するうちに、残念ながら大川隆法の教えでは世界の宗教を統合することは無理だと結論するしかなくなってしまった。信仰、愛、知、神、教義体系などについてはキリスト教の方がより徹底しており、深く緻密に探究しているし、思想性の幅広さであれば仏教が圧倒的だろう。
 
よく言うよ、とは、このことで、楽山は、神について、神がいるなら、どうして悪がいるのか、悪を放置するのか、などと、いちゃもんをつけて、どうしようもない本末転倒の、おとしめの文句を言ったことを、そっくり棚に上げています。
 
信仰は、神がいて、おいでおいでするから、人が信じるのではありません。神が、いかに沈黙していても、キリストの愛と共感を忘れ得ないのが、キリスト信仰者です。ゆえに、嘆きも正直に、祈りの場において、神に捧げることになります。
 
歯の浮くような讃美言葉で神に対して世辞を言うシャロームや、神がいるならなぜ悪があるかなどという現世の完全幸福の欲望だけからのいちゃもんを投げてくる楽山などには、信仰も信仰の理解もないと思うのは、愛に絆(ほだ)されるという人間の性質が、嘘吐きには無いからでしょう。
 
まず、どうしようもない悲劇に接した人々が、神なる御方を必要として、神がいないならば生きてゆけない、というほどの気づきが始まり、信仰が始まるのです。こういうこと書いても、字面概念思想?の楽山には、分からないでしょうね・・。
 
 
発展については宗教ではあまり語られていないというが、キリスト教系の光明思想や、自己啓発本などで十分に語られている。
 
(光明思想について、ネットより)
ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動である。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタント系カルヴァン主義への反発を背景に生まれた[1]。
ニューソートは、アメリカのメスメリスト[2](催眠治療家)・心理療法家フィニアス・クインビー[3]やクリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディの思想を中心としていた。アメリカの対抗文化の流れを汲むニューエイジの源流のひとつであった。ラルフ・ワルド・エマーソンの哲学を支えに徐々に社会に浸透していった[4]。
ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[5]。
その主張には、「そもそも『原罪』は存在せず、あらゆる人々がキリストの力を内包している」、「正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた」といったものが含まれていた。その教えを異端視する者がいる一方、従来の禁欲的キリスト教思想に疑問を抱いていた思想家、労働者、零細農場や工場の経営者らは触発された[6]。
「生長の家」の創設者谷口雅春が光明思想と訳しているように、気持ちを明るく保つことで運命が開ける、というポジティブ・シンキングや、イギリス出身の牧師ジョセフ・マーフィーの成功法則(日本でも著作がベストセラーになっている)などもニューソートの一環であり、いわゆる成功哲学の面がある。
心や思考の性向が健康や経済状態として表れる(思いは現実になる)という考え方(積極思考、ポジティブ・シンキング、引き寄せの法則)は、現代の自己啓発やビジネス書の源流であり、日本人への影響も大きい。
光明思想
 
「あらゆる人々がキリストの力を内包している」これは十分に、カルト臭い筆致だと思います。景気よく豪語して辻褄を合わせる者たちに、同意しないでください。原罪の自覚なしでは、キリスト信仰は成り立ちません。また、ポジティブシンキングは、反省を土台としなければ、自己中になります。
 
 
霊については最近のHSでは護教的党派的な見地からの主張が多く、ずいぶんと偏向したものになっているが、それよりはより普遍的な立場から語っているスピリチュアル系の本で学ぶ方がいいだろう。
 
人間理解と共感を深める努力と反省をしないならば、スピリチュアルも、キリスト教の教派も、有害です。人間を深く理解しようとするなら、罪がない、などとは、決して言えないのです。自分を見ることの出来ない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、罪の自覚がありません。
 
 
またすべてを統べる思想を目指すのであれば、唯霊論でも、唯物論でもない、それらを超えた立場を目指すべきであって、霊的人生観という唯霊論の立場に立ち、唯物論を否定しても仕方がない。
同様に、有神論と無神論のうち一方の立場に立っていても仕方がない。唯霊論でも唯物論でもなく、有神論でも無神論でもない、それらを超越した立場にでも立たなければ、それらすべてを統べることはできぬだろう。この意味でHSの教義には限界があるし、HSの教義は数ある宗教のうちの一つではあっても、すべてを統べるものになることは決してないのが現実である。HSの教えによって救われる人は当然いるだろうけれども、だからといってすべての人を救えるとは言えない。大川隆法がいくら自分の教えを誇ったとしても、こういう事実はいかんともしがたいのである。
以上、これが自分の現時点における結論である。〈了〉
 
楽山は、○○論というような難しい言葉を使いますが、楽山の理解は極めて短絡的で広害のない先入観でしかありません。楽山は、論理的思考にも、情緒的感性にも、適性がないのです。自己愛から、持っている自分を気取っているだけです。
 
カルトには、教祖が、権威主義から教えを、押し付けてくる硬派カルトだけでなく、楽山のような理屈に見せかけた軟派カルトと呼んでいるところの、一見、優しそうな言葉で、霊が分かるっぽい詭弁による誘導もあります。正体は、楽山の野望なので、硬派よりも見抜けないあいだは、より危険です。
 
「結論である」などと言えるほど、楽山の、思想と知性、宗教と感性は、いずれも、整っていません。話にならないくらい雑であり稚拙であります。今回、いくら長い記事を書いてもいっしょだ、ということが明らかになっています。
 
楽山が、HSを斬ったつもりの、その刃で、楽山が斬られているのです。これは、嘘吐きや偽善者やカルトには、しばしば見られることです。偽善の妄想狂シャロームが、押し付けがましく、信仰?のきれいごとを並べるときにも、同じようなことがありました。"反しているのはお前だ" ということです。
 
なお、楽山やシャロームなどの易坊類には、一人による3者への成りすましの疑惑があります。ネットでは証明できないが、ネットでは否定することも出来ないのです。
 
 
メモ的に:
 
真の信仰は、人間らしい良心を促進して、絶対者である神に対する恐れと敬虔に人を導き、人に反省と成長を促します。正直な祈りだけが、救われる条件であること、そして、潤いと温もりが、すなわち、悲しみと愛が、信仰の、源泉であり、力であることを、今まで書いてきました。
 
信仰について考えると、聖書を読むということは、その中に書いてあることで、人間として受け取れるものを探し求めることであって、聖書に書いていることを全部信じ込むことではありません。"わからない" と言える勇気が必要です。
 
何故なら、心が動かさないことを信じれば、それは、命ではなく、教条的な概念の思い込み信じ込みに過ぎないからです。そういう信じ方をすると、疑問に対して、心からの信仰ではないために、まともな受け答えが出来なくなて、勢いだけになって、人間離れしてゆきます。
 
ですから、感動してもいないのに、つまり、本当に心が動くほどに理解してもいないことに、信じます、などとは、言ってはいけないのです。心が動いていない場合、一応、心に留めて、今後、考えてみます、ということに、とどめておかなければいけません。
 
知ったから、分かったから、信じるのではありません。心を動かし、心に残っていて、生きるのに必要だから、他にないものとして、受け取った、という信仰なのです。
 
 
まとめたつもりの砂場にいる

まとめたつもりの砂場にいる
 
 
(2020年)
(2022年06月04日、再録+加筆)
 
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  生き物戯作
 
雀が首を傾(かし)げるのを
見たことがあるかな
わしはある
と庭の椅子(いす)に腰かけた老人は
独り呟(つぶや)くのだった
 
日干しになりかけた雛を拾って
しばらく飼っておったからの
小雀まで育てて窓を開けてやったら
外をきょろきょろ見て
ぱっと振り返って
何度か首を傾げたのじゃ
そのあと一気に飛び立っていったが
あれからどうしたじゃろうなぁ
 
ちらりと空を見て老人は続けた
生き物は何でも知っていて
知らない振りをする
いつもの老人の繰り言である
 
死期が迫ると
それとのう分かるらしい
蛇に見込まれた蛙というが
蛙は食われることを知っていて
蛇を相手に最後の話をしておるのじゃ
俺の番が来たようだな
 
そのようだ
痛いのかな
痛くはないと聞いている
骨肉が砕かれる前すでに
魂は天に昇り始めるらしい
 
では一芝居お願いして
創造の主様のもとへ帰るとしよう
とか何とかな
 
草食動物が肉食獣に襲われるときも
一見必死で逃げるが
あれも芝居といえば芝居で
食われるときにはちゃんと観念する
わかるのじゃ死ぬべき時かどうか
腹が減っていなければ双方とも
長閑(のどか)なものじゃ
 
話す相手もいないのに
呆けた老人は続けるのだった
人は自らに近いものほど
より高等だと思っておるようじゃが
実はその逆でな
見える生き物の中で
いちばん賢いのは植物なのじゃ
彼らは実に悟っておる
だから首を斬られても
根こそぎ引き抜かれても
文句ひとつ言わず
抗(あらが)いもしない
まことに天命を弁(わきま)えて
予期してさえおる
 
老人は少しふらついた
ん?そろそろわしの番かの
背中が気持ちよう涼しうなってきた
目に見えぬバクテリアを黴(カビ)で
抑えたまではよかったがの
長い長い進化の歴史を
彼らは種の存続のみに費やしてきた
 
自然に敵(かな)うのは自然だけじゃ
バクテリアの持つ記憶に
人は勝てまいのう
そう言い終わると老人は
椅子の背に凭(もた)れて
眠りに就(つ)いてゆく様子である
老人の独り言である
誰も聞いてはいなかった
近くの木々が風に吹かれて
小鳥たちと一緒にざわめいていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
私は年寄りで、楽山は私より若いでしょう。楽山んは、私が死んでから、また好きなように書く無責任人生を謳歌するつもりでしょうか。しかし、楽山のような「保身だけの卑怯者」「魅力の欠片もない」人は、誰かに迷惑をかけ、傷つけるので、結局は、一生、批判にさらされてゆくでしょう。
 
ゆえに、批判を無視していると、そのうち批判が治まるということはないのです。むしろ、批判対象記事が増えてゆくだけなのです。人の意見を、当たり前のように無視してゆく自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の生き方は、結局、成り立たないということです。
 
 
 
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  ヒーロー気取り3
 
 事実は一つでも、その感想は人それぞれ異なる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月11日
 
 
楽山の典型的な詭弁と誘導の文章です。まるで、説教壇か山上で教えを垂れるような、しかも、ことごとく空っぽな豪語が結論となっているという空回りなのに有頂天楽山の排泄です。
 
 
最近は、「人それぞれ」ということを感じる機会が増えているのだが、本書にもそれらしいことが書いてあった。
同じ事実でも、人が違えばまったく違った感情を呼びさますし、また、同じ人にも、時が違えば違った感情を呼びさますのであるから、同じ事実が相反するような感情的説明を受けることは、明らかである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.228)
 」
これは本当にその通りだ。たとえば、一冊の本の感想は、人それぞれ違うのが当たり前であるし、同じ人でもはじめて読んだ時と、再読では、感想が違っても不思議ではない。いや、むしろ違うのが当然だ。
 
人それぞれ、というのは、偽牧師シャロームが、妄想信条を語るときに、よく言っていたことです。人それぞれだからと言って、自己中、嘘、妄想、など、邪悪なものを是とする・・なんてことは出来ません。同じ詭弁で言い訳をする楽山です。みすぼらしい限りです。
 
「人それぞれ」という曖昧な格言を、いつでも言える法則のように見なして、自分が何を言っても、「人それぞれ」だから、正しいという詭弁を作り出そうとしています。言葉の適用範囲を、物理法則のように、広げる詭弁です。こういうインチキが、楽山という嘘吐きを作り上げているのです。
 
楽山は、本の感想を例に挙げていますが、私は、感想レベルのことを言っているのではなく、常識レベルで、楽山について、おかしいと言っているのです。批判が理解できず、本の感想に喩えるのは、ますます、おかしい楽山を、定評としてルーチン化してゆきます。
 
 
これは書物だけでなく、絵画、映画、景色、料理…その他さまざまなことでも同じことがいえる。もちろん宗教思想についてもそうだ。一つの宗教思想についてそれを受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる。いったん受け入れても、その後で改宗、転向ということもありえる。これが現実である。
 
だから、楽山が受け入れなくても結構、むしろ、受け入れることなど期待していない。むしろ、楽山みたいな人がそのまま来てもらっては困るということです。
 
問題意識が、また、著しく的外れです。楽山は、公共の場で、キリスト教を、無理解のまま、全然成り立たない理由で否定してきたわけです。それが迷惑だと言っています。人それぞれではなく、楽山には、特別に理解力も、修正能力もないのです。
 
常識のある人なら、分かることが、楽山は分からない、というより、我を張って、ますます、話を違う方向に持ってゆくという詭弁です。鼻を突くような悪臭です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の災いと言えるでしょう。
 
 
こうしてみると、人の心というものは決して定まることのないものであって、少しも当てにならないものだということがよく分かる。
 
身も蓋もなく、楽山は、何を言っているのでしょう。迷惑行為を無常観で済ませるのでしょうか。問題が、定まらないのでも、当てにならないのでもなく、楽山が、無理解のくせに、意地を張って、言い逃れの詭弁を宛がっているということです。
 
こういうごまかしが通用すると思っている楽山です。冷静な知性も感性もなく、いちばん当てにならない楽山の言が、楽山の無責任によって、悪と偽善に拡散してゆく性質を持っています。ゆえに、人の心ではなく、楽山の言うことこそが、定まらない被害をもたらしてゆく独り芝居なのです。
 
 
一切は移ろい行くものであり、人の心もその例外ではないとすると、若干、もの悲しい心持ちがしないでもないが、どんなに悲しかろうが、寂しかろうが、これが現実なのだから、それを拒絶したところで仕方がない。一切は過ぎ去って行くのだとすれば、「一切は過ぎ去って行く」ということもいずれは過ぎ去って行き、その次には一切は過ぎ去って行くとも限らない状態が到来する可能性もあるのではないかと言えば言えそうでもあるが、これはただの理屈に過ぎないのだからどうにもならない。
 
楽山が、悪夢のような、いい加減な空想話をしています。みんな、うつろいゆくものだから自分の悪も「どうにもならない」ということに結びつけて、これで、何か正当なつもりで投稿してくることが、風を追うような、塵に縋りつくような、霞に希望を託すようなものでしょう。
 
楽山の、うわべだけ仏教哲学風味だけど、繰り言のように腐った不平不満で人心をかく乱させる詭弁です。楽山の言は、ただの理屈ではなく、体質的な、自己愛、訂正不能、無反省によるところの、社会悪につながる恐れのある有害な詭弁であります。
 
「どうにもならない」と言っているように、楽山の言説は、何の役にも立たないのです。自分で言っているわけだから、身の程を弁えて、妨害と迷惑の無益な屁理屈の自己顕示をやめるべきですが、人格障害が酷くて、シンプルな反省すらも出来ない楽山です。
 
 
人それぞれという考え方は、各人の自由を尊び、個人を尊重するにはよいけれども、人と同じでいたい、確固たる地盤の上にいたいという願望を充足させるという点では少々物足りないところがあるだろうし、誰をも満足させるものではないのは事実ではある。
 
「人それぞれ」で、誰が満足するというのでしょう。いかに、楽山が、いい加減で、継続性のない精神で物を言っているかが、如実に表れています。楽山の言こそ誰をも満足させない、というのが事実であります。自由を害し、恣意を通そうとする楽山を許してはいけません。
 
 
世の中には万人を納得させる思想などというものは存在しないし、当然ながら、人それぞれという考え方もその例外ではない。ただし個人の尊重をよしとする今の世の中では、一つの思想、価値観で統一するのは無理であろうし、当分の間はこれがもっとも多数から支持される無難、穏便なものの考え方だろうことは確かではあるし、
 
「人それぞれ」は、思想でも価値観でもありません。曖昧な格言のようなものです。楽山のような怠慢なペテン師が、しかたない、しかたない、といって、努力を怠るところの敗北思想を敷衍(ふえん)しようとしています。
 
それにしても「多数から支持される無難、穏便なもの」とは、書く値打ちのないことでしょう。「人それぞれ」は、ある条件において格言的な意味を持ちますが、一般則とはなりえません。このように、楽山は、嘘っぱちをでっちあげて自己満足しますが、一方、何も実のあることを提示できないのです。
 
自分が満足しないだけであるのに、楽山は、「一つの思想、価値観で統一するのは無理」と、真実追求をあっさり放棄しています。楽山は、しばしば、このような短絡で、総てを言い切ったつもりになる病的ナルシストなのです。誰も、楽山を参考にしてはいけません。
 
「これ」つまり「人それぞれ」は、一般則としては、詭弁の材料にしかなりません。思いつきだけの無根拠の、「人それぞれ」だから、一つじゃ無理という話なのでしょうか。呆れます。「多数から支持される」と言っていますが、勘違いが妄想になっている楽山は、誰からも、否定されるべきです。
 
何だか、ヒーローか政治家の説教みたいな言い方になっているのが、非常に気持ち悪いです。それに、楽山の思想は、霊能者気取りで、上から下にアドバイスして、何も益がないという結果が、既に、文章のいい加減さに見えているのです。
 
これが、楽山の自己愛の、根無し、あるいは、根腐れ、とでも言うべき、底の浅さであり、説得力も、説得しようという気も、全くない証拠となるでしょう。未熟な子供が、未熟な意見を、声だけ大人の大声で演説している体であります。言い張ることは、こうも醜いという教訓です。
 
 
個人の尊重をよしとする今の世の中では、一つの思想、価値観で統一するのは無理であろうし、これより善い新思想が出てくるまでは、ますます人それぞれという考え方は広く、深く人々の心に沁み込んでゆくだろうと思う。
 
今度は、思想の誇大的気分のヒロイズムで、即、幼稚と言ってよいような、預言者?の演説でもあるかのような、もったいぶった大袈裟な豪語になって、その分、中身が、いっそう、空疎で悲惨なのです。何を言っているんでしょう。間違って説教壇に立った知恵足らずの有り様です。
 
「人それぞれ」というのは、特別な考え方でも思想でもありません。沁み込むような深いものでもありません。個人的な要素の強いことに、折り合いをつけるためにあるようなものです。だまされないでください。いい加減なことしか言えない自分を正当化しようする楽山の自慰行為なのです。
 
しかし、楽山は、何について語ってきたでしょうか。なにもまとまっていません。キリスト教について否定しただけです。人それぞれでやって行ったら、際限なく、カルトが出てくる問題なのです。楽山のカルト教祖願望の妄想だと思います。
 
しかも、楽山は、説教にならないのはもちろん、教養にもならない愚痴のようなことを、ねちねちと執拗に言ってきたのです。今もそうです。それこそ、帰る場所のない野良犬が口角からだらしなく垂らすヨダレに過ぎません。全く思想にも分別にもなっていないのです。
 
この部分は、特に、楽山のベースにある自己愛性人格障害と、いつかヒーロー・・みたいな躁的興奮気分が、垂れ流されています。裸の王様でしょうか。シャロームもそうでした。反省しない自己愛者の特徴だろうと思います。よく見てさえいれば、楽山ほど貧相な発言者はいないのです。
 
こちらとしては、楽山の言説が読者にとって、宗教・信仰にとって、害毒だという判断には、とっくに十分な根拠があるわけです。今もそうです。それでも言い張りをやめない楽山の丁寧語の排せつ物を、何やら一端(いっぱし)の思想と勘違いする人がいないように、批判しているだけなのです。
 
 
 宗教が人をつくるのではなく、人が宗教をつくる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月11日
 
 
楽山の正体は、風船か軽石のようです。外れ方が酷くて、中身がなくて、とても一般に供せられる質ではありません。丁寧を装っても、内容としては酷い外れ方なので、暴言・暴論と言ってもいいでしょう。楽山の思想のような解説者気取りは人を壊します。
 
 
「鶏と卵ではどちらが先か?」という話があるけれども、下のような文章を読むと、「人と神ではどちらが先か?」とか、「人と宗教ではどちらが先か?」というようなことをついつい考えてしまう。
幸福が現実に所有されている場合には、悪の思想は実在感をもつことができない。それは、憂鬱が支配している時に、善の思想が実在感をもちえないのと同じことである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.136)
 」
宗教のなかには、幸福感を強調するものもあれば、厭世的な気分を刺激するものもあるけれども、考えようによっては、こういう宗教の色合いは、人の心によって定められるということもありそうだ。幸福な人は幸福を強調する宗教を求め、厭世的な人は厭世的な宗教を求め、それぞれがそれぞれの宗教をより完全な形に熟成させていったのではなかろうかと…。
 
楽山の軽口です。「宗教をより完全な形に熟成させていった」・・宗教の完全な形、誰も知りません。楽山は、鶏と卵の話から、宗教は定まらないという曖昧な話に持ってゆきます。宗教の無理解が前提で、聞いても、何の足しにも、糧(かて)にもならないことばかりです。
 
「鶏と卵ではどちらが先か?」を持ち出してきました。鳥があるのは卵から成長するから、卵があるのは鳥が産むから、つまり、これは、循環論法という矛盾です。これを、主張の根拠みたいに上げてくること自体が、インチキだと証明しているのです。
 
これを、楽山は、以前、奇跡について語ろうとして、循環論法になって失敗しているのですが、循環論法が、よっぽど好きなのか、また、今度は、まともに宗教に当てはめようとしているのは、滑稽と言うべきでしょうか、いや、妄想に近い自己欺瞞です。欲と意地以外何もないのでしょう。
 
宗教は、一部の人々が、真実を追求して、いわゆる気づきをもって、真実の一部を収穫して、今までにない新しいこととして、人に問うことで始まるわけです。しかし、楽山は、今までの記事の流れから、宗教は人が捏造するつまらないもの、という印象だけを吹き込もうとしています。
 
安っぽい思想を捏造しているのは、楽山その人であります。ゆえに、楽山の言は、呆れるほど、何の感動も意外性もインパクトも面白味もない退屈なだけの代物です。楽山だけが、独りで、整ったつもりで、評論家気取りで、自画自賛しているだけなのです。
 
 
とすると、宗教の多様性は人の心の多様性によって育まれたのであり、宗教が人を導いているというより、人が宗教を導いているという方が現実に近いのかもしれない。
 
どっちが先?という鶏と卵の循環論法から、楽山は、人と宗教について、要素的な断片を述べただけで、人が先に宗教を作ったという循環しない結論を導いているつもりなのです。目に見えない真実というものを、楽山が、いかに見逃してきて、拙劣に、でっち上げているかを知ってほしいです。
 
人が宗教を作っている、という、悪い意味なのに、育んだ、導いている、などという、良い意味の言葉を使って、言葉の世界をけがしています。表れているのは、作文下手の楽山が、詭弁で迷路に導いているということだけです。
 
信仰を持つ人々が作るのは、言葉で表される形式や儀式や組織や道徳律のような目に見えるものでしょう。しかし、宗教と信仰の本質は、目に見えないものです。
 
多様性と書いて済ませているのも、いかにも浅薄なのです。宗教の真実というのは、深い思考と情緒的感受によって、ヒントとなる気づきに到達するものです。楽山は、そういう深淵を全く経験していないし、まるで浅瀬で遊んでいる小魚のようです。信仰は、楽山が思い付きで書くのとは、全然、違うのです。
 
しかも、楽山は、自己愛ナルシズムによって、深淵から掛け離れた未熟さを認めず、神も、キリストも、高みから見下ろした風景の可視範囲の一部を見ている姿勢で、それで、いかにも、知ってるふうに決めつけてくる慢心した愚昧(ぐまい)の輩(やから)なのです。
 
 
ちなみに自分のことを書くと、自分はいつも厭世と理想の両方に足を乗せているように思う。
 
楽山は、どちらにも、手も足も乗せていないと思います。厭世も理想も、考えれば、深く遠いものです。偉そうに言ってる楽山だけが、浅くて、思い上がって、賢者のふりをしているピエロなのです。
 
 
それでいながら、「一切は過ぎ去ってゆきます」という方に傾いてみたり、「すべては愛と歓喜に満ちている」という方に傾いたりして、始終、重心を動かしている。
 
楽山に重心はないと思います。浅さ、軽さ、だけが目立ってきました。難しく気取って見せても無駄なのです。悔いる悲しみの代わりに不快感と不機嫌しか持っていないような楽山が、太宰の言葉を引用しても無駄です。楽山と太宰は、全然、質が違います。
 
しかし、人間失格は、楽山のほうに、そのまま言えてるかもしれません。楽山は言論者でも思想家でもありません。あまり長く勝手なことばかり言っていると、人間でもなくなってしまうでしょう。自己愛は、のめりこんで訂正不能になると、人格を破壊します。
 
 
宗教でいえば、あらゆるものを厭い離れる仏教的なものに魅かれるときもあれば、克己心をふるい立てさせる儒教的な方面に関心が強くなったりもするし、文学でいえば漱石の「硝子戸の中」「道草」「門」などの雰囲気に安らぎを感じることもあれば、武者小路実篤の楽観的な理想主義で元気をつけることもある。
 
楽山には、今までの文章を読んだかぎりでは、何もないと思います。刹那的に、良さそうな言葉と文章を書いても、それは、幼稚な詭弁なのですから、有名人に自分を喩えるなど、恐ろしく身の程知らずなのです。早くネットの言論の世界から去ってほしいだけの人です。
 
さも広く学んできたような書き方をしていますが、楽山は、病質のために、本を読んでも、都合のよいところを集めているだけなのです。そして、一定の主張を持たず、それが良いことだと思い込んで、両極端を、ふらふらしているだけなのです。
 
今回、説得力が、まるでないことが表れてきました。文学の名前を出して、もったいぶっても、つまりは、自分で何も組み立てられないことを表しているのです。しかも、謙虚さが全然なくて、ヘラヘラ笑って、気安く出てくるに至っては、実に気色悪いのです。
 
 
このように自分一人の心でさえも、その時々によって揺れ動くのであれば、様々な個性を待つ人々が何億、何十億と存在する世界に、その個性に応じて無数の宗教が存在するのも必然なのだろうし、
 
もったいぶったニセ賢者の台詞です。今回は、スケールが、前にも増して誇大的かつ大袈裟であることが目立っています。一人に、一つずつ、楽山の欺瞞・・でしょうか。冗談じゃない。
 
無数の宗教を、必然だと言って、無節操に無条件に許容してしまっています。あるいは、無数にあるのだから、信ずるに値しないと言いたいのでしょうか。歴史の中で、宗教は、少なくとも、楽山の一生よりは、重みがあります。何の思想も哲学も宗教もないのが、楽山の浅薄さ、かつ、空虚です。
 
 
これこそが宗教は唯一の真実に属するというよりも、人々の理想、願望、感性などに関わるものだということを端的に示しているのではないかと思う。
 
宗教と信仰を知らない楽山は、それらを、いい加減に信じるのが正常と言いたいようです。楽山の言うとおりになれば、宗教も信仰も滅びてよいことになります。唯一の真実など、楽山は、最初から見つける気はないということです。見つける努力もしていないことが、書いたものの短絡に表れています。
 
楽山は、おのれの怠慢ゆえに、一気に到達したいのでしょう。だから、カルト教祖願望を持っていると判断しています。真実が、そのような広い門を持っているでしょうか、否であります。広き門は、悪魔と地獄の入口であります。いい加減が正しいなどという宗教には何の価値もありません。
 
楽山は、自分が、いい加減で、知識も理路も感受性も整わないものだから、宗教が、いい加減だから、とっつきやすいと思ったのでしょうが、宗教と信仰こそが、詭弁や嘘や偽善を、最も嫌っていることを知らないのです。宗教を理解できない者が、いい加減じゃろ・・と居直っているさまです。
 
「理想、願望、感性に関わるもの」などと、理想もなく、願望は自己顕示欲だけで、感性など快楽原則だけの楽山に、言われたくないのです。当たり前の幼稚なことを提言のように言って、真理に関わってる風味を出そうとしてきたのが楽山と言えるでしょう。結果、空っぽ・・だけが表れています。
 
楽山は、努力したくなくて、既に分かっていることにしたくて、以前から、それに合うところの、ああでもない、こうでもない、という、ボンヤリ言語の世界に安住して、真実というテーマを、節操もなく、だだっ広く、錆びた工具にしています。
 
楽山の、気安さが、底の浅さが、ペテン師的な詭弁精神だけが、漏れ出ている文章です。目標へのフォーカスを持たず、偉いと思われたいだけの人のようです。今回は、楽山の体質が、かなり、はっきり表れてきたと思います。
 
 
有頂天の行方

有頂天の行方
 
 
(2020年04月12日)
(2022年04月17日、再録+加筆)
 
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
 
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  人知の支配
 
そこに立てば
すべてを見渡せるという
高い高い山の頂に
太陽に向かって
王はしっかりと立っていた
自らの統(す)べる国を見るために
 
眼下の町から遠い山と海
澄み切った絶景である
しかし王は不安だ
これがすべてか
 
振り返ると陽光に照らされ
鮮明に写し出された自らの影に
大地を踏んでいる足底の影がない
すべてを望む強者は満足しない
 
後ろを向き足を上げてみる
最後には思い切り両足で跳び上がった
全身の影が鮮やかに浮かび上がった
そして崖から落ちていった
 
どんなに強くても高くても
人知の及ばぬものがある
すぐ足下(あしもと)にさえ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、思い上がって、山頂から落ちてゆくのではありません。楽山は、すでに底まで堕ちているのに、気づかず改めず、山頂にいる気分で、嘘を吐き、詭弁を弄し、人を傷つけ、だましてきた報いを受けているのです。人で在ること、その当たり前に背くと、自他ともに破壊するという地獄です。
 
 
 
 楽山のツイッター、これも再録+加筆です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これ、わかるわあ。
といいつつ、自分はこれらをきちんと区別できてないときがある。気をつけねば…。
引用ツイート
怒りのジョニー
@swiwwproud
 · 4月13日
「個人的な感情(好き嫌い・快不快・怒り)」と「客観的な現実(卑近な出来事から社会問題まで)」をごっちゃにせずに切り分けることが大切で、それは立場に関係なく、等しく大人のマナーだと思うんですよね。 twitter.com/bakanihakaten3…
 」
午後7:17 · 2022年4月13日
 
楽山は、「個人的な感情」と「客観的な現実」を「区別できていないと気がある」と言っています。しかし、楽山は、それを一緒にして、決めつけてきます。「ことがある」ではなく、区別などしていないと思います。情緒を偽造し、現実を無視したまま、安穏として生きている楽山です。
 
感情と現実は、元々別次元のものです。主観と客観と言ったほうがよいでしょう。しかし、純粋な客観は、人間にはあり得ないと思います。物を見るということは、見る人の、感覚、イメージ、記憶、情緒と理路が、さらに言葉も、複雑に絡み合って、認識が生まれます。客観とは限らないのが人間です。
 
引用された文章は、感情的にならずに、冷静に見て、偏りのないように考えることを言っているのでしょう。だから、守るべき大人のマナーと言えるのです。楽山は、体質的に自己愛の自己中心からしか言動しないので、最初から偏っているのです。「わかるわあ」なんてありえない人です。
 
 
 
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  信仰の情熱3
 
 を再録+
 
 
既に前に、信仰は、言葉で表された教理や信条を思い込み信じ込むことではない、と書きました。では何なのだろうと考えます。
 
人間が、変わるのは、心が動くからです。便利だなあ、とか、なるほどなあ、では、人間は変わりません。心がふるえていないからです。なんとなく辻褄があったような気がしているだけで、感動がないからです。 
感動をもたらす信仰の体験とは何でしょう。一部の人々は、聖霊体験とか神の臨在とかを明言しています。超常の聖霊を明言できるというのはどういう人でしょう。超常が分かる人ではありません。超常が分かったつもりの人です。それは信仰ではありません。
 
人の欲望の中には恐ろしいほどの超人願望があります。他者より神聖になった、あるいは、神聖に近い自分でありたいのです。そういう人は、自分が超人になったことを担保したいのです。その方向で宗教を考える人には、日常体験を疎かにする傾向があります。
 
宗教を超常として教える向きには注意してください。そこにあるのは超常ではなく、他者より上に立ちたがる欲望なのです。だから、どこか、非信仰者をかわいそうな人と思っています。自分は、出来ている、という自覚からです。
 
本当の信仰の体験は、人間の良心に響く深みをもって与えられます。そうでないと人間は動かないからです。それは欲望の成就ではなく、真実の人間の正直な姿に立ち返ることです。非人間性に囚われている心が、人間性に目覚めることを魂の奇跡と呼んでいます。
 
人間には、良い心である良心と、悪い心である悪意とがあります。それらは常にありますが、場合によって、どちらかが優位に立つことになります。それが、それぞれ善行と悪行に結び付きます。悪意は、さらに、偽善に結び付きます。
 
この世が偶然に支配され、自分についてもどうなるか分からないと思えば、もはや、何を楽しめばよいのだろうということになります。この世は偶然に支配されているように見えるけれど、その背後に大きな愛と善と平安の摂理が働いているならば、この世を生きることの意味が変わってきます。
 
日常を、駆け引きや、勝ち負けや、好き嫌いで過ごす自覚だけになることは、生き甲斐や生きる理由さえ奪うほどの虚無の恐怖に成りえます。そんなことのために人間は生まれてきているでしょうか。そうじゃない、そうじゃない、という叫びが、いつも、心の中で、響いているのではないでしょうか。
 
勝ちを求めて、人と争い、人に頼ることは、誤りというより儚いのです。自らを見てください。争う自分など、そんなに立派に頼られる人間ではありません。その自覚と共感こそが、人間の側に起こるところの、宗教、そして、信仰の始まりなのです。
 
人間は関係の中で生きています。他者を無視しては生きられません。他者を無視すれば、やがて自分が無視されます。ひどくなれば人間扱いされなくなることだってあるでしょう。どのような関係が、人生を預けてもよいほどに人間を支えるのでしょう。それは人間でも人間離れでもありません。
 
人間を不完全なまま支えてくださる御方を、私個人は慕っております。その御方は自らの完全の道ではなく、不完全な者に下される致命的な罪の報いの犠牲となって歩まれました。その御方の教えは、そのたぐいまれなる洞察と共感と慈愛とともに今に伝わっています。
 
その御方は、その生涯における目的の主旨として、こうしたら救われるという行為の条件を、条文のようには言いませんでした。取り引きを、人とも、悪魔とも、しませんでした。代わりに寛容な愛をもって、多くの人が忘れられないご自身の姿を表したのです。ゆえに、新約と呼ばれます。
 
 
多くの信仰者と、多くの偽善者が、この神という御方の名を呼びます。
 
信仰者は
自らの低さを自覚します。
 
偽善者は
自らを高めるために豪語します。世の中は偽ものだらけです。
 
どうか独り言のように静かに正直に、でもどうか本心で祈ってください。そのような祈りを、誰よりも聞かれる御方がいます。
 
 
信仰の情熱

信仰の情熱
 
 
(2020年01月31日)
(2021年02月03日、加筆して再録)
(2022年02月05日、再録+)
 
 
 
※追加記事、同日一部修正 :
 
 
  楽山の別ブログ
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(3)〈KENTO氏の主張〉
 2021年02月02日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判。
 
 
楽山の、無反省・無責任・無理解からの、無能力と、それをごまかす詭弁が表れています。楽山は、どうしても、見栄だけは張りたい、自分は一人前なんだ、という子供だましの子供なのです。
 
 
次のブログ記事では、咲也加氏の書籍と、盗用されたとされる側の論文との比較検証が保存されているので一読をおすすめしたい。
・【2ch】咲也加の卒論を検証してみた(8/4 修正、追加) - 幸福の科学元二世信者ルジェのブログ
 
このリンク付けた記事は一読できるようなものではなく、実に、詳細な批判になっています。楽山は、なぜ、書かないのでしょうか。・・書けないからです。理路も説得力もなく、通念的な言葉を並べて、しかも、自己愛・自己中のために、破たんするような楽山には、整った批判の文章など、書けないのです。
 
だから、人の文章をあげても、詳しく書くことができず、もっともらしい短文で済ませるしかないのです。ゆえに、この記事も、引用ばかりが多くて長い記事になっています。
 
楽山が自分で書けば、私に対する返しのように、一方的で、嘘と詭弁と被害妄想だけになります。書く能力がないのに、一人前を気取ろうとするから、こういう記事になってゆきます。
 
いっぱい貼り付けて、人の文章をリンクして、「一読をおすすめしたい」と書くしかない楽山です。ご機嫌取りの見え透いた褒め言葉で、自らの不全を表してしまいます。
 
 
この件については、私も、関係書籍、論文を直に調べたわけではないので断定的なことは言うつもりはないのだが、それでも意見を言う際には、ネット上に散らばってる資料くらいは、ざっと確認するくらいはする。
 
楽山は、暫定的にも断定できないのです。そのような理路を持っていないからです。賛同を書き、批判を書き、どちらも成立せず、それで、責任を取れない、でも、見栄は張りたい、それが、楽山です。
 
楽山は、いつも「ざっと」見て、放言して、終わりです。「ざっと」で「確認」とかできるわけがありません。楽山は、しっかりしたものを何も持っておらず、無反省・無責任なのに、評論家気取りなので、「さっと確認」という、いい加減な言葉で済ますしかないのです。
 
 
KENTO氏もせめてそのくらいはしてから意見を言ってほしいものだと思う。そうしたら単純な事実誤認はもっと減らせるし、その意見にももっと深みが生じ、説得力が出てくるはずである。この点、お願いしたい。
 
言ってることに何の深みもなく、説得力が皆無の楽山が執拗に気取って語ろうとしますが、楽山には、言葉で気取るしかありません。だから、評論家口調になるのでしょう。誰かに何かを要求する資格はないと思います。実に曖昧な言い方で、これが、楽山の、いい子ぶりっ子なのです。
 
楽山に関わり、楽山を、誠実だ、まともだ、と思うことは、詐欺師にだまされるのと同じです。むしろ、詐欺師を助けることになるとも言えるのです。それが、楽山の丁寧語の狙いだからです。どうか、楽山に、関わらないでください、近づかないでください。
 
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱はふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
 雲がわき
 雲が飛び
 雑多な雲が流れ
 千々に流れて
 虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、間違ったこと、失敗したこと、過ちを犯したことを、認めたことがありません。代わりに、実感のこもっていない、反省、とほほ、共感、といった言葉で済ましてきました。最初は、反省してるんだと受け取っても、前後をよく見れば、全然変わっておらず、嘘の芝居だと分かるのです。
 
 
 
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  楽山の現実離れ
 
 大川隆法と高橋信次
 2021年12月19日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
現実の問題を認識せず、自覚も病識もなく、自らの罪と悪と偽善に全く無反省で無責任な楽山が、他者の現実離れを批判しています。自らの嘘と詭弁と悪と偽善と無理解について何の反省もないまま、また、批判者を気取って、自己顕示しています。
 
*まえおき
大川隆法と高橋信次について他所で書いたので、それを再構成して以下にまとめました。
*まとめ①
思うに、大川隆法は高橋信次の教えをそのまま流用しているといっていいでしょう。
具体例を書くと、まず高橋信次は次のことを説いていました。
霊界は、四次元、五次元、六次元…と区分されるとしていた。
霊界には仙人天狗などの住む裏側があるとした。
九次元は、仏陀、救世主のいるところで、釈迦、キリスト、モーゼらがいるとしていた。カンターレ、リエントアールクラウドの存在も説いてた。
太古の昔に、宇宙人が地球に移住してきたとした。
波長同通と憑依の関係も説いてた。
本体1、分身5の魂の兄弟が生まれ変わりつつ魂修行してるとした。
大川隆法はこれらの教えをそのまま流用していることは、HS初期を知っている者であれば周知の事実です。
また枝葉を取り払った本質論でみれば、さらに両者の教えは同じことが明らかになります。高橋信次と大川隆法、どちらの教えも、人の本体は霊であり、輪廻転生をしながら霊性を進化向上させているという霊性進化論に根ざしてることは完全に一致してるので…。
 
楽山は、正すために書いてはいません。正す人は、反省もするはずです。楽山は、無反省に、他者を責めることに快感を覚えて、その偽善の立場を通そうとして、正義の味方の客観的な批判という嘘芝居と詭弁をインテリ気取りで書いているだけです。
 
「霊性進化論」は、恐らく、空論~せいぜい仮説でしょう。しかし、楽山は、真に受けて、真に受ける資質があることを、空しくアピールしたいのです。理屈の葉っぱを見せて、理路の根っこを何も持たない楽山の、出まかせの空論に、誰も惑わされることのないように願っています。
 
*まとめ②
思い出したけれど、初期HSに、元GLAの人たちが多く集まった理由の一つは、大川隆法が高橋信次と同じことを説いていたからでした。
今のHSでは、高橋信次は低評価されているし、現HS信者が大川隆法は高橋信次と違うと言いたい気持ちは理解できます。でも自身の信仰や願望に埋もれて現実を見失ってはいけません。現実は現実として認めなければならないのです。現実が分からなければ、現実と信仰の差異が分からず、結局は信仰さえも分からなくなるからです。
余談ながら、HS信者が議論に弱いのは、現実は現実として認めることができていないからだと思います。
 
楽山は何も「理解」など出来ないと思います。楽山は、無反省、無責任、無学習のために、「見失って」いるもので出来ているような精神であり、現実検討能力がありません。今までの経緯から、自己愛性人格障害の楽山は、正当な評論も議論もしたことはないと思います。
 
*まとめ③
大川隆法は高橋信次の教えをほぼ流用したから、元GLAの人たちが集まってきたのでしたが、その後、大川隆法はその部分を改変、否定したため、それらの人たちは去ってゆくことになりました。
大川隆法が改変、否定した高橋信次の教えは、こういうものです。
心の調和が大事。それなくしてペンダント、法具、儀式など意味無し。
疑問追求。疑って疑って疑いきれぬものを信じる。
人につかず、組織につかず、法につけ。組織の歯車になるな。
教祖崇拝はだめ。嘘のつけない自分の心、内なる神を信じよ。
ただ大川隆法はこれらの教えを改変、否定しても、次元論という世界観は変えていません。次元論を否定したら、大川隆法はは高次元の存在だという自らの権威の拠り所を失うことになるので、それはできないのでしょう。
その結果、大川隆法は高橋信次を否定しながらも、高橋信次の世界観、霊界観からは一歩も出られないということになっています。大川隆法は昔はもちろん、今現在も高橋信次の掌の上にあるということです。
(画像省略)
 
ごちゃごちゃと書いて、偉そうに見せるのは、楽山の、嘘っぱちの生業(なりわい)であります。楽山が、何かを分かって言っているなどと思わないでください。読書も作文も、だますためで、説得力は皆無です。高次元も低次元も、楽山は、語るだけの根拠を、学習していないのです。
 
*おまけ
山内氏のツイートによれば、『黄金の法』(旧版)において、大川隆法本人が、「私は、人間・高橋信次の遺した心の教えを土台として、さらに、これから五十年近い年月の間、正法神理を説いてゆこうと思っております」と書いていたようです。大川隆法は高橋信次の教えを流用しているというのは、私が言うまでもなく、本人がそのように宣言していたということです。
(画像)
ちなみに、この辺りの流れを整理すればこうなるでしょう。
大川隆法は、高橋信次の教えを引き継いだ。
その後、大川隆法は高橋信次を批判、否定した。
けれども、自らの教えの土台となっている高橋信次の教え(霊界観、心の法則など)までは排除できなかった。
大川隆法は、今現在も、高橋信次の霊界観、世界観によって立っていて、その影響から脱しきれていない。
こう見ると、大川隆法は他宗教を凌ぐ独自の教えを説いたわけではなく、高橋信次の教えを流用したにすぎず、その実態は高橋信次の没後弟子であり、分派にすぎないことがよく理解できるのではないかと思います。
 
(ネットより)
高橋 信次(たかはし しんじ、1927年9月21日 - 1976年6月25日)は、日本の宗教家で宗教団体GLAの創立者[1]。ハードウェアエンジニアとして会社を設立し経営者を務めた。
高橋によれば、人間はその内側に次元の異なる心や魂の世界があり[2]、その中心に「仏性神性を持っている」[3]。人間は「神の子として(中略)人々の心と心を調和させ、地上に(中略)ユートピアの実現を志すとともに(中略)盲目の人生での修行を通して、豊かな神の心を完成させることが大切である」[4]という。また、自然において安定した環境が保たれているのは「神の大慈悲であり、大いなる神の愛」[5]であるという。
 
楽山は、ORを批判する根拠に、ORが、別の、神仏への信仰を真似ていることを指摘しています。ならば、この、別の超常信仰を肯定しているのでしょうか。どちらも超常を規定する信仰ですから、結局、楽山は、小児期からの、霊が分かるっぽい自覚にのめりこんでいるということです。
 
だとすれば、楽山は、他者を利用して、結局は、自分が教祖にでもなりたいのだろうという推測が可能です。今までの経過から、実際の楽山は、反省も学習もしない嘘吐きの詭弁屋ですから、その薄汚れた精神から浅ましい欲望を貪っているに過ぎません。
 
楽山を受け入れないでください。楽山の理路めいた言説は、楽山と同じような自己愛性パーソナリティ障害NPDへ通じる、嘘と詭弁以外何もない空虚な精神崩壊への誘導の入り口なのです。楽山に関わらないでください。楽山を相手にしないでください。お願いします。
 
 
浅ましい飢餓

浅ましい飢餓
 
 
(2021年12月21日)
 
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘ばかり重ねる楽山に、だまされないように、楽山がネットに開いている嘘吐きそして高等感情鈍麻養成の出店を畳むしかなくなるように、誰も楽山を受け入れないように、祈り願っています。楽山の気取りは、異常であり、病気であり、不治なのかもしれません。被害は小さくないと思います。
 
 
楽山のツイッターと思われる taka のツイッターは、ブロックされているようです。楽山が、何か、ルール違反でも、やらかしたのでしょうか。原因は不明です。
 
ブロックされています
@taka84156681さんのフォローやツイートの表示はできません。
 
 
 
(近況)
今年4月より、老人ホームにいた母は、19日の夕方、熱発して、近医処方の薬では治まらず、救急車にて搬送され、総合病院に入院となり、駆けつけて昨夜、顔を見て、眠そうだが意識あり、翌20日午前中に、説明を受けるために行くと、当然、コロナ禍のもと、面会禁止で、主治医より、肺炎も疑われたが、今までも何度か繰り返してきた尿路感染にて、治療する旨、説明を受ける。我が家に、正月はあるのか・・という近況です。
 
 
 
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  楽山の混乱
 
 『夢判断、そして恐怖体験へ』を見た。
 2021年09月02日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
(ネットより)
「夢判断、そして恐怖体験へ」
大川隆法の企画による長編映画で、心理カウンセラーとアシスタントの女子大生が、人々の見る不思議な夢や心霊現象から、隠された真相を解き明かしていく姿を描く。
 
楽山の記事は、ほとんど、小学生の感想文です。どういう映画だろうと思ったら、ホラー、心霊の、しかもORの企画だそうです。楽山のホラー趣味、霊能者気取りが表れています。楽山は、本当に、アンチHSなのでしょうか。
 
*メモ
『夢判断、そして恐怖体験へ』を見てきたので、感想をメモしておきたい。
予告編…『83歳のやさしいスパイ』という新作は面白そう。観たい。
予告編…宇宙の法のエロヒム編。エル・カンターレ色が濃厚そうだ。昔々ある銀河での出来事という風な普通のSFにした方が面白くなりそうなのだが、HS教団からしたら伝道のためにはエル・カンターレ色を濃くしないわけにはいかないのだろうな。
フード、洋服、日本刀という組み合わせには違和感があるが、これは日本刀でなくてサーベルかな? いややっぱり日本刀? よくわからん。
 
「面白そう。観たい」「普通のSFにした方が面白くなりそう」・・興味本位だと分かります。しかし、HSの伝道だと言っています。つまり、カルト批判と、ホラー趣味が、ごちゃ混ぜになっている楽山の精神世界を表しています。宗教を、趣味で語る楽山です。
 
「サーベルかな? いややっぱり日本刀?」・・楽山が、隠しながら人に向ける物、そして、いつか、向けられるものの、表れている形象。
 
殺陣は相当に練習したのだろうな。
新選組には大勢で切り込むイメージがあるけれども、一人で誰かの屋敷に入って暗殺をしたりもしたのだろうか。しかも隊服を着て。
もともとのHS教義は、人は生まれ変わりの際に性別は変わらない、変えてはいけないという教えだった。女性は女性として輪廻転生を繰り返し、女性霊として進化してゆくものである、もし女性が男性のようになろうとするなら、これまで女性霊として相当の進化を遂げていたとしても、男性霊たちの一番最後から再スタートすることになる云々と。大川隆法はこういう話を熱く語っていたものだったが、生まれ変わりの際に性別が変わるのはよくあることなら、当時の説法は一体何だったんだろう。
 
ホラー趣味に引っ掛けて、カルト批判が出来るでしょうか。映画の出来がどうこうと言って、宗教観になるでしょうか。そして、生まれ変わりの話です。楽山にとっては、宗教は超常ホラーと同じ扱いになっています。小学校レベルの空想、それが楽山の言説のベースです。
 
そのレベルで、キリスト教や神を否定してくるのですから、どれほど身の程知らずなのでしょう。楽山は、いかなる真実追求の言論の場に、リアルでもネットでも、いてはならないことを、自ら証明しています。自己愛性人格障害は、ここまで、分別がなく、恥も知らないということです。
 
ぶっちゃけ、当時の大川隆法は、「男は仕事、女は家庭」という性別による固定的役割分担を当然と考えていたものの、女性幹部登用が増えてきたので、それにともない考えを変えただけなんだろう、たぶん。
小さい頃はいろいろなものが見えた…これはちょっと分かる。
「あっ、金縛りだ! 来る! どうしよう!」というのはリアル。これも分かる。
 
楽山は、子供ではないと思います。おっさんでしょうか。何が見えて、何を感じてきたか、楽山の成育歴に、大人への成長の要素は無かったのかもしれません。未熟過ぎると思います。楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDが、趣味と現実を、空想と現実を、混同しています。
 
カウンセリングを受けた経験はないので確かなことは分からぬが、
 
楽山には、生涯にわたるカウンセリングが必要だと思います。それでも、自己愛性パーソナリティ障害NPDには効く薬がないので、治癒は望めませんが、誰かが、見続ける必要があるでしょう。あとは、強制力の是非になります。
 
カウンセリングを終えた人と、これからの人とを同時に部屋の中に入れるということはあるのだろうか? しかもカウンセリングを終えた人はそのまま居残り、センセのお手伝いをはじめるという…。HS映画の人と人との出会いのエピソードはいつも無理矢理な感じがあるけど、今回もそうだ。でもそこが面白い。
 
無理やりなのが面白い、と言っています。映画の感想なのか、HSの話なのか、ずっと混同されていて、区別されていないようです。楽山の言こそ、無理やりです。楽山は、大事なことの見分け・区別がつかない人なのです。書けば、体質は表れるということです。
 
同じ夢を何度も見るというのは分かる。自分にもそういう夢はいくつかある。夢を見ながら、「ああ、またここか」と思ったりして。
夢解釈に前世を持ち出すなら言いたい放題だ。どんなややこしい夢も、「それは前世の業です」で済ませられるなら楽ちんだ。
『心霊喫茶「エクストラ」の秘密』と同じ短編連作っぽい形式で通すようだ。話の区切りで黒画面にタイトルが出るところは、『呪怨』っぽい。
 
ホラー映画の話です。夢解釈に、前世、呪怨など、ホラーの話です。ホラー映画は、宗教ではなく、専ら、エンタとして作られます。それを利用して勧誘するカルトがあるのかどうかは知りませんが、誘導として、これは、まさに、楽山のフィールドワークというより "チャイルドプレイ" なのです。
 
楽山の考える宗教は、超常現象や呪いと一体化しているのでしょう。空想と現実が区別されない楽山が、まさに、現実のホラーです。もう一度言いますが、楽山は、子供ではありません。また、楽山は、これで、宗教や政治思想を語ってきたのです。一度アフガンに行ったら?レベル・・。
 
『シックス・センス』的な展開は、心霊ドラマではもはや定番だけど、やっぱり面白い。
エル・カンターレファイト炸裂。すごい効き目だ。
金縛り対策…個人的には、金縛り対策として色々試してみたことがあるけれども、一番効いたのはラジオをつけっぱなしで寝ることだった。音があると眠りが浅くなると目が覚めるので、熟睡と覚醒の間のうとうと状態の時間が減り、金縛りに遭う機会も減るんだろうと思う。
霊を呼ぶシーンは、大川隆法のそれよりリアル。
心霊写真を怖がられ、消されたから祟るって…祟られた人からしたら大迷惑だろうけど、傍から見てるとこの身勝手さはちょっとかわいい(笑)。
神社PR…顔は怖いが面白い霊だ。いや神様なんかな?
このエピソードを見てると、神社の境内で、神像のもげた首を転がして遊んでる子供を注意した大人が、祟られた話を思い出す。神様からしたら、せっかく子供と遊んでたのを邪魔した大人が憎たらしかったのだそうだ。
女子高生三人組は最強だな。神様や幽霊のことは、やたらと怖がったりしないで、明るく楽しくしてるのが一番いいのかもしれないな。
子供の霊はかわいそう。泣けてくる。一人ぼっちでウン十年もいたわけではなくてよかった。
こんな子供の霊に、「行かないでー」「遊んでー」とか言われたら、断るのに苦労しそう。
死んだことに気づいてない人に、すでに死んでることを納得させるのはほぼ無理だろな。だからこそ、生きているうちに、霊的真実を知っておく必要があるという理屈は分からなくもない。
 
うれしそうに夢中でホラーのストーリーを語る楽山です。こういうことが好きなのでしょう。「霊的真実を知っておく必要があるという理屈は分からなくもない」・・楽山は、アンチではないと思います。発育不全の幼稚な、ただの超常趣味のおっさんです。
 
映画の中で映画を見てる。こういう入れ子構造みたいな展開はすきだ。
冒頭の声は、伏線だったんだな。ようやく気づいたよ。
一気に年取ってる。時間を飛ばし過ぎのようにも思えるが、もしかしたら、これみんな昔のことを夢にみてたということか。
幽霊に心霊教育しとる。子供は素直だろうから成仏も早いだろうと思ったら、やっぱりそうなったか。この子だけでなく、他の子も同じように成仏したと思いたい。
120分は長い。やはり90分くらいが丁度いい。
この映画は事実に基づいて制作されていますって…。最近この言葉を入れるフィクション映画が多い気がする。
最後のEDの歌はいい。声もきれい。
 
一気に、超常趣味を語りまくる楽山です。「時間を飛ばし過ぎ」「幽霊に心霊教育」「子供は素直だろうから成仏も早い」・・こういう超常話がホラー映画の感想にとどまっていないところこそ、現実の混乱した精神が与える楽山のホラーなのです。
 
*まとめ
最後にまとめを書くと、本作はエル・カンターレファイトの場面や、大川隆法が出てくる場面は別とすれば、コメディ要素を含んだB級ホラーとしてはけっこう楽しめた。
主人公は好演していたし、いい人の雰囲気もあって好感をもってみることができた。先生役も清潔感のあるクールな雰囲気をずっと保っていてよかった。恨まれ男のおどおどした演技もうまかった。この人はちょっと福士蒼汰に似てるかも…。子役もよかった。演技に引き込まれて泣かされてしまった。この他の俳優陣も総じて演技は安定していた。脚本の台詞は、これまでの「幸福の科学」の映画と比べると、言い回しがこなれて自然になっていたので、これが俳優の演技がよく思えた一因になってるのではないかと思う。
 
前にもあった映画評論家気取りですが、宣伝用のHSの映画を、褒めまくっています。楽山は、決して、アンチHSではないです。以前から、ずっと、壊れて崩れてきたのです。つまり、楽山は、自分なら、ORより、もっとうまくできるのに・・と思っているのでしょう。
 
 
空想と現実

空想と現実
 
 
(2021年09月04日)
 
 
 
  ウソの歌
 
季節の歌は美しい
でも私の国に季節はない
ないものを歌えばウソになる
 
日常の歌はほほ笑ましい
ときに気づかなかった切り口に
はっとさせてもくれる
でも私の国に日常はない
ないものを歌えばウソになる
 
少しは肩の荷を下ろしたらどうだ
好きで背負っているわけではない
それに私の肩に荷と呼べるものはない
私は私を背負うことさえできないでいる
 
では私の国で何が歌える
何も歌えないところで
何が歌えるかを歌っている
だからしばしばウソになる
ウソの国を歌っている
だから季節だって日常だって
癒しだって絶望だって
大真面目に歌ってやる
 
 
  ありがとう
 
誰も読まない詩を綴り
誰も理解しない文章を書き
誰も聞かない歌を詠み
誰にも伝わらないもどかしさだけで
誰にも伝えられない痛々しさだけで
何を暗示したかったのだろう
 
寝起きの顔のまま
泥濘(ぬかるみ)の足取りで
伝わらないものか
伝わるものか
の足取りで 四角いポストに入れた
少し奥まで手を突っ込んで入れた
 
正直なつもりの
過ちを束ねて
この町の
ただ一度の一瞥にありがとう
 
そして帰ってゆく
自分の周りに
自分で作った格子窓から見るために
遠い国を
遠い国を
さようなら
 
  四九八九、きゃんせる町、こどく市、もろはの県、ウソの国
 
(昔々の・・)
 
 
 
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