ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:詩

 
  昔ポエム
 
 
  御国への希望
 
来世に寄せる望みは儚(はかな)い
見えない何かは やはり見えない
天国は見えない
地獄は見たくもない
今度生まれてくるときは・・・
この世には生まれてきたくない
しかし
召されて死んで
御国に至る希望に生きる
ほかにない それでよい
死後の世界など分からない
御国がどんなところか
知らない しかし
希望は抱(いだ)かれるとき
常に現在形である
 
 
 
  エゼキエル書 (抜粋)
 
わたしは生きている
わたしは悪人の死を喜ばない
むしろ悪人が
その道を離れて生きるのを喜ぶ
 
義人の義は
彼が罪を犯すときには彼を救わない
わたしが義人に
彼は必ず生きると言っても
もし彼が
自分の義を頼んで罪を犯すなら
彼の総ての義は覚えられない
 
と主は言われる
 
正しいと思ってすることも
それが自分の義か
主の義であるか
を考えることは大切である
それを考えれば答えは
「わからない」 よって
もし自分の義に過ぎないのならば
主の義に導いてください
もし罪を犯したのならば
お赦しください という
祈りに至るから
 
私は主の羊
主の牧場(まきば)の羊
心安らかに荒野(あらの)に住み
森の中に眠りたい
 
 
 
  年を経て
 
僕にも二十代、十代があったんだよ、と
自分でも信じられないから
心に叫ぶのでしょう
 
今は違う若さから
成長してきた人々の間にいて
全然知らない人生の結実を垣間見ている
 
同じような風景でも
違う生き方の中で
たとえば空も
それを見ている人が
それを見ている間
その人の意味をもつものなのでしょう
 
忘れられない場面
重ねて
遠く
別の人にはまた別の
忘れられない出来事
 
心の層に積み重なって
見えないものは見えないまま
関わっている
人の動き
 
ある日 誰でもいい
人の笑顔が
妙に懐かしく思えるときがあります
 
 
 
  残照
 
窓からこぼれてくる
残照を
拾おうとしている
 
拾おうとした
あの日
抱きしめた偶像が
崩れていくのを拾おうとした
真っ白になった目の前で
ぽたぽた落ちて広がる
失った熱を引きずって
ぬるりと臭気の中で
足場がなくなるのを
切り裂いたものだと知った
 
もう二度と真っ白になれない
残照
残したもの
もうとっくに沈んでしまった
もう暗い
もう遅い
もう遠い
今は
あの山の向こうにでもあるんだろうよ
あの日壊れたものは
今も壊れたままだけどね
 
 
 
  黒い土
 
やっと見つけた黒い土を
しばらく見つめたのち
手に掬(すく)って
握りすぎて指の間からこぼれないように
持って帰って鉢(はち)に入れた
何も植えずに毎日水をかけた
ときどきは目を閉じて触ってもみた
日光に明るく照らされて土
寒い季節が終わる頃
知らない小さな芽を出してきた
未熟な緑
切り取らず
切り取られず
踏み付けず
踏み付けられず今度は
たくましく生きられたらと
語りかけた芽の下に
古い友人が眠っている
 
 
 
  こぴぺ
 
つめたくなでられる
ネガになる
みやすい
やすやすと
きえる
あらわれる
けされる
はられる
もどせる
としをとらない
でんし
おぼえる
わすれる
としをとる
ひと
ネガになる
もどせない
きかない もう・・・
フリーズ
 
 
 
 (抜粋)
 
 とても小さくて
 どこへ行ったのだろう
 とても小さくて心細そうだったのだけれど
 傷心のうちに隠れて見えないのだろうか
 闇の中に潜んでいるのか
 遠くからの光に吸い込まれたのだろうか
 光の中に散乱したのだろうか
 大きさも重さもない点の存在が
 広く広く果てもない波動に同期して
 焦点に向かって終息したというのか
 それとも収束と発散を
 宇宙と木陰を
 高慢と心貧しさを
 一筋の清らかな
 直線でも曲線でもなく
 時空とも呼べないところへ
 透き通ったまま通り抜けて行ったのだろうか
 水とも火とも
 あれは〇○○と
 名付けられる前に
 
 
希望は いつも 現在形

希望は いつも 現在形
 
 
(2022年07月03日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が出来ないことを「自分もそんな風です」などと、誰でもそうみたいに一般化できるでしょうか。否です。折に触れて反省、ときに謝罪は、人間らしさです。できないのは人間として異常なのです。それを「難しいんだよなあ」「人間の性」で済ませるのは、さらに異常~病気なのです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は、アンチを論破したら粘着されたと言うけど、現実はこうでしょ。
① 棒氏はアンチに噛みつくも、返り討ちにあってアカ削除
② 新アカつくってアンチに噛みつくも、またもや返り討ちにあってアカ削除
③ ②を繰り返す。
論破されて粘着してるのは、アンチでなく、棒氏の方だよ。
 
楽山は、誰を論破したわけでもなく、しかも、いちゃもんを宗教批判に見せかけながら、ネットに粘着しています。化かし合いを楽しんでいるのです。良心を傷つけることを楽しんでいるのです。浮いてきた垢として、一日も早く、削除されるべきは、楽山の嘘と詭弁です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は相変わらずだね。
年齢など、議題とは関係ない話に論点をずらしたり、慇懃無礼なやりかたで侮辱したり、アンチを論破したと嘘をついたり、粘着されてると被害者コスプレしたり…。
 
論点をずらして迷路に誘導して酷い疲労を与えたり、丁寧語や世辞で、慇懃無礼な言い方で、侮辱したり、平気で嘘を吐いたり、粘着されてると被害者面をしたりしてきたのが楽山です。そして節操もなく発作的に長い長い記事を書いたり、泡を吹くように、だらだら引用したりするのが楽山です。
 
楽山は、何の根拠もなくネットに寄生して、何の貢献もせず、人をディスってきたり、さらに、こちらが根拠をあげて批判しても、あざ笑って無視してきました。もはや、楽山の顔は、ひょっとこのように、人間らしさを失って、冥界のコメディアンならぬ受けない経読みの独り言師なのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは典型的な棒四季論法ですね。
棒氏は、自分にとって都合の悪い話題になると、
そんなことには無関心なポーズをとり、
上から目線で適当にあしらうようなことを言い、
早々に話を打ち切ろうとします。
 
楽山は、自分に都合の悪い話題になると、何事もないかのように無視し、「上から目線で」「あしらう」ようなことを言い、勝手に、話を打ち切ったつもりです。しかも、その後、批判者を粘着ストーカー呼ばわりして雑言を言いまくっておいて、何事もなかったような顔をします。楽山ブーメラン全開です。
 
 
 
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  さかのぼる矛盾4+
 
 
 さかのぼる矛盾4+
 再録++
 
 
いたはずの先祖から
幾千年の恨みの坂を
今をさかのぼり
いずれ上らねばならぬ
 
経験は否定できない
個人にとっては真実になりうる
経験から与えられ考えたことは否定できない
しかしあまりに
出る杭は打たれて
マイナスの経験が繰り返されると
あらゆるものから身を引くことが真実になってくる
信じて待ち望むことが罪に思われてくる
御国に至ることも辞退すべきではないのか
 
母は恵方巻きを買ってきた
母と私で2本ずつ
恵方ってどこにあるんだろう
恵方に辿り着く確信があるわけでもなく
母は縁起を担ぐ
担いでおかないと不安な気分になるのだろう
母は南のほうを向いて弱った顎で
ぉんぐぉんぐと食らいつく
のどに詰まらせはせぬかと母を気にかけながら
私はむしゃむしゃと食卓でむさぼる
 
恵方というか
御国に辿り着かせてくださいと
祈ることも傲慢に思えてきて
この世の生が苦痛とともに
早く終わりますようにと
祈る先に神はいないかもしれないが
神は的外れの罪の祈りを聞いておられることを
神ゆえに人がいて
人ゆえに神がいることを
諦めきれずに
大いに矛盾して
否定できない経験と
大いに矛盾して
呂律(ろれつ)の回らぬ祈り
 
とても運が悪く階段のように
道を逸れてゆく阿弥陀クジなのかもしれない
 
主よ
私はそんなに良い人間ではありません
 
先祖を裏切り
父を裏切り
母を裏切り
人を裏切り
自らの矛盾をさらに裏切り
 
唇を切れるほど噛みしめながら
一歩一歩
絡みつく情の杭と
曲がった知の釘を
怒気の足裏に踏みひしぎ
幾千年の坂を上る
 
 
※ 私の母は、現在、介護付き老人ホームにいます。
 
 
 
  宿命と使命
 
 
幾千年の坂など
上れるわけもないのに
 
上る宿命を感じている
 
その坂以外に道はないかのように
 
引かれるような
引き裂かれるような
 
私は母に似ているがコピーではない
私は父に似ているがコピーではない
という当たり前のことなのだが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みであるかのような
血の筋の末端に居て
 
否定できないものが
私を縛るだけでなく
私を導いているのかもしれない
 
神はご存知であるが
私は何も知らない
 
罪の系譜
病の系譜
 
私がどうやって
福音の系譜にいるかと言えば
 
もし信仰がなくて
福音の系譜にいなければ
今、生きてはいないだろう
という否定の否定でしかないが
 
コピーではない自由も
既に織り込み済みの
それこそ父よりも母よりも
神に信頼しようとするのは
 
父と母の性格の中で
良くないものを私は既に持っていて
良いものを持っているかは不明であり
そこから逃れたい気持ちでもあったのか
 
神への全面的な信頼は
父への母への
他者へのそして自分への
全面的な信頼を否定し
依存を否定したいのか
 
しかし
そういう既知と不明からの自由や
コピーではない自由よりも
否定よりも否定の否定よりも大切なことは
 
他者よりも自分よりも大きな存在の命のもとで
地上における自我の必死と必滅の理(ことわり)よりも
 
神の存在ゆえに
人のわざの絶対を否定したのちには
人のわざの相対を生かすことだろう
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを好むからだ
 
 
さかのぼる矛盾

さかのぼる矛盾
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月01日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
渡辺みき四つ葉のクローバー@統一教会二世
@poo88888888
信仰の強制は虐待です。
【スピリチュアルアビュース】を広めたい。
小さい頃からこれが当たり前だと思ってた。
私たち、なんも悪くないよね。
親は間違ってたの?私は神の子なの?私は誰?
「異質」な私達を放置してきた日本社会が憎い。
でもそれもきっと、この国ではしょうがないことなんだ。
 」
午後9:57 · 2021年4月26日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/poo88888888/status/1386665675440021506
 
信仰はいやだが、スピリチュアルはいい、楽山の好みそうなツイートです。真面目に信仰を学ぶ気がなく、勝手にスピリチュアルを気取りたいからでしょう。こういうツイートを、字面だけ利用~悪用するのが、楽山の体質的な特徴のようです。
 
少なくとも楽山が神の子?でも教祖?でもあるわけがないのは、ブログでもツイッターでも、底の浅いゴシップや、いちゃもんしか言えないような、つまらない人だということだけが表れてきたからです。
 
楽山の異質性と異常性は、高等感情の感受性がない、思慮が小学生のように拙劣である、反省し学習し成長することがない、などといった経過に表れてきました。楽山のリツイートが通らないのは、これを引用している楽山は?・・スピ系になりたい大嘘吐・・きということになるからです。
 
楽山は、罪悪感がなく、全く非を認めることがないので、いつまでもいつまでも、同じことをして、同じケチをつけて、同じスピリチュアル気取りでいられるのです。正常な人なら、目から火が出そうなほど、恥ずかしくなるところでも、笑っていられる異常人格です。
 
一つには、文章の読解が殆どできないからかもしれません。あるいは、鈍麻した感受性と感情によって、批判されても、何も感じず、馬耳東風でいられるのかもしれません。ひょっとしてこの楽山の自己中は、スーパー・エクストラ・アドラー心理学的カルトなのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「だよなあ」「なんでしょうかね」というボンヤリ言語で、楽山が言いたいのは、自分の罪を「人間の性」と、人間一般に拡張する詭弁によって自己正当化を得ようとする欺瞞であります。言論の世界に、二度と来てはならない悪魔性の偽善者が楽山です。3年以上、変わることはなかったのです。
 
どうか、中途半端に、楽山も人間だから赦し合いましょう、などと思わないでほしいです。楽山と人間、楽山の精神と良心は、水と油です。一致することはありません。言葉を見繕って並べて、自分を善人に見せかけようとする楽山の偽善芝居には、二度と騙(だま)されてはいけないと思います。
 
 
 
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  細い道2
 
 
信仰は、この巷では、細い管、細い道です。聖書を読んでも読まなくても、キリストの共感に共感できる人は少ないのです。信仰を信じ込むことだと思っている人は、一つの宗教を信じると、視野が狭くなると思っているのかもしれません。
 
信仰を曲解して視野が狭くなるのは、恐らく、信仰を勘違いして、豪語したり、戒律的だったり、夢想~妄想的なことばかり言って、それが信仰だと思っている人たちかもしれませんが、それは、宗教の間違ったあり方です。
 
キリスト信仰は、人間の良心、すなわち、悲しみと共感に、たとえれば潤いと温もりに、人間を惹きつけ、働きかけるものなのです。
 
良心を持っていない人には、宗教が、ご利益の都合のよい超常現象か、念じて頷く自尊か、神と人の取引関係の仕組みに見えるのでしょう。そういう人は、人格障害の病質者として、現に存在しています。
 
信仰は、信じ込むことではありません。共感することです。その共感が忘れられないことになって、心も思考も、人間らしさを失うことはなく、むしろ求めて、人間として真実を追求する道を進むでしょう。
 
一部の、言葉だけの絶対化に走る教条主義が、わざわざ人間の器を狭くしている、というカルト的な事情は、二千年前と、まるで変わっていないのです。真の信仰は、信じ込むこととは全然違います。洗脳とは全然違います。
 
信仰に、そのような偏見を生み出したのは、一部の曲解している人たちです。それは、カルトの道であります。人が決めた道から外れると、とたんに、呪いのような言葉をかけてくるでしょう。そして、そのような、呪いのような決めつけは、宗教を自認している人だけではありません。
 
反宗教にも、そのような、偏見を与える者たちがいます。彼らは、自分の傷当てに、宗教をけなします。では、彼らが宗教の代わりになる救いを与えられるかといえば、何も提示できはしないのです。無神論は、見たところ、全く論ではなく、むしろ、無神教カルトと言ったほうがよいでしょう。
 
宗教をけなして、けなしっぱなしの者には、責任など負えません。まわりまわって、彼らが、ついには、けなされるのを、待っているだけの存在です。反宗教の煽動者は、せいぜい、宗教は、信じ足りなくてもいけないが、信じ過ぎてもいけない、などという、いい加減で中途半端なことを言ってきます。
 
実際、悩み苦しむ人に何の助けにもならないようなことを言って自慢してくる者がいます。その中に、自己愛性人格障害者・病的ナルシスト・サイコパスも含まれていることを知ってください。彼らは、自慢~自慰をしているだけなのです。
 
真の宗教は、悩みがないという自覚の人に信仰を勧めたりはしません。不安を煽ったりもしません。宗教と信仰を知るのは、何らかの悩み苦しみが生まれた時からでいいのです。何故なら、悩みのない人に、悩みから救われる道を伝えるのは意味がないからです。
 
 
細い道 道なき道

細い道 道なき道
 
 
(2021年03月15日、再録+)
(2022年03月21日、再録+加筆)
 
 
 
  細い管
 
 
まことに そこはかとなく
細い管の先で 出会うもの
泣いたり笑ったりの
デリケートなところを
もらっている
または
覗いている
 
求める主体も
求める対象も
人間
または
温もり
 
それを追うためだけに
彷徨う
または
遊ぶ
 
響き合うメロディやリズム
ふらちな首や手足が
貧乏ゆすりのように
合わせようとして
外れる
または
踊る
 
喜 怒 哀 楽
 歌 音 楽 快 不快 悲
顔を向け 背け 振る
受け取って
我流に
流す
または
楽しむ
 
自己中の自己満の自覚から
流してしまいたい欲求に
答えてくれよと
欲望
または
共感
 
導かれてリンク先
ヘビメタ 重金属
顔が分からぬ
メロディが分からぬ
歌詞が分からぬ
ノイズ
または
サウンド
 
ダンシン、ダンシン、20代
ディスコなんか行ったことないのに
飲み会、二次会、空いたスペースで
酔っぱらって踊っているタコのオレ
向かいの女の子が
きれいな笑顔で近づいてきて
怖じけて引いた
今も後悔
または
今も思い出
 
まぶしいライトの
デコレーション
ミュージック
点滅
または
煌めき
 
数分が重なって
一時間二時間
過ぎる
または
過ごす
 
まことに 
そこはかとなく
費やす時間の
傷当て
または
娯楽
 
 
(2020年)
 
彷徨う(さまよう)
煌めき(きらめき)
怖じける(おじける、怖ける)
 
 
  憂い
 
 
若者は虫歯が痛くなり
老人は歯が無くなる
 
若者は食べ物の味を気にするが
老人は食べ物の硬さを気にする
 
若者は肌の色と荒れを気にするが
老人は肌があれば気にしない
 
若者は前に足を伸ばして進むが
老人は前に倒れるのを
足をつっかい棒にして進んだことになる
 
若者はソファーの上に跳ぶことが出来るが
老人はソファーの上にいつも落下している
 
若者は慌ててトイレに駆け込むが
老人は慌ててトイレの前で濡れる
 
若者は疲れて眠るために
老人は眠るだけなのか知らないまま
目を閉じる
 
 
※ 
憂い(うれい)
慌てる(あわてる)
 
 
 
 
  楽山のリツイートですが
 
楽山は、また、他者の発言を借りて、言い逃れをしてきます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
山本芳久
@201yos1
「ヨブ記」の講座の準備の為に内村鑑三『ヨブ記講演』(岩波文庫)を読んでいるが、めちゃくちゃ面白い。ヨブの苦しみに肉薄していく内村自身が人生の中で味わった様々な苦難が、迫力のある文体を呼ぶ寄せ、稀有な作品となっている。人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。
https://iwanami.co.jp/book/b270884.html
>>>引用ツイート
山本芳久
@201yos1
 · 2月28日
【4月期オンライン講座のお知らせ】
新設講座「旧約聖書入門:「ヨブ記」を読む」を開講します。この世界に生きる誰もが避けて通ることのできない「悪」や「苦しみ」にはどのような意味があるのか。この根本問題に正面から取り組んだ「ヨブ記」を冒頭から丁寧に読解します。
https://nhk-cul.co.jp/programs/program_1225650.html
>>>
午後1:01 · 2021年3月14日·Twitter Web App
https://twitter.com/201yos1/status/1370948219975331841
>>
 
「人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。」・・そうです。私の主張でもあります。この発言において、引用元は、正当だと思います。楽山は、人間を、考えることすら出来ません。だから、超常のことばかりで宗教を語ります。楽山は、人間も、神も、まるで知りません。
 
神を努めて知る、ということは、人間を努めて知ることと同値であります。人について考えることなくして、神を知ることはありません。神を知ることは、聖書を読んで考えること、そこから、人間について考えることと同値であります。
 
神を知ることは、決して、人間を超えて、神聖や心霊になることではありません。ここを間違えている例が、超常信仰であり、楽山その人であります。
 
人は、この地上で生きる限り、神聖には成れません。人は、人と世界を見て、神聖にあこがれ、神聖に究極的な希望を託す身であります。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
楽山は、人間を知りません。その表れが、無反省・無責任・無理解・無神経となって表れています。人間を知らないから、楽山は、そのままでいられるのです。そして、性懲りもなく、また、人の口を借りて、言い逃れをしてきます。当然、楽山は、神も信仰も知りません。
 
楽山は、神聖も分かるんだ!・・と、妄想を叫んでいるようなものです。リツイートにしても、本からの引用にしても、利用~悪用されたほうは、たまったものではないです。冷静を装う文章は、狼狽に過ぎません。
 
(ネットより)
ろう‐ばい〔ラウ‐〕【×狼×狽】 の解説
[名](スル)《「狼」も「狽」もオオカミの一種。「狼」は前足が長くて後ろ足が短く、「狽」はその逆。「狼」と「狽」は常にともに行き、離れると倒れるのであわてるというところから》不意の出来事などにあわててうろたえること。「株価の急落に―する」「周章―」
 
楽山は、神を知りません。なのに「神をよく知る」者のように尊大な口を利きます。楽山は、屁理屈で、神?を、オモチャのように、もてあそんでいるつもりのようです。実際には、楽山が、救いからも聖書からも、はてしなく遠いオモチャの世界に戯れているだけなのです。
 
楽山には、真面目さ、真摯さが、どこにもありません。この2年間で、楽山が表したのは、そのような偽善と作為と悪意と訂正不能の自尊過大の凝固性だけの偽物でした。善人、学者、評論家ぶっている丁寧語に、だまされないでください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の本性が荒らしであることが明らかになっても、控えることのない厚顔で文句を言ってきます。仲間を頼むか、またしても成りすましによって、「素直に詫び」ることなく「嘘ばかり重ねる保身だけ」で「卑怯者」で「開いた出店を畳む」こともしない立枯(たちがれ)病となっています。
 
(ネットより)
立ち枯れ病はカビが原因で、植物が感染する病気です。初期であれば生育不良を起こしますが、そのまま進行していくと根が腐りますので、徐々に下から枯れていきます。
 
 
 
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  詩と信仰3
 
詩のようなもの2つ、宗教詩2つ+。
 
 
  好きです
 
悔いが作らせるような
悲しい歌が好きでした
 
自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです
 
小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
哀しい歌が今も好きです
 
(2002年07月12日、HPにアップ)
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
(1997年3月19日、HPにアップ)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
信仰告白より
不信仰告白のほうが
嘘が少ないからだ
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
 
信仰の危うさは、信仰者の成長を進めるためです。危うい時には、強く思い込むことではなく、人間として深く考えることが勧められているのです。
 
 (伝道の書、口語訳)7:14
順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 (伝道7:14、旧約聖書)
 
 
 
信仰には、詳しい知識・知性・知能などの特別のインテリジェンスが必要ということはありません。信仰に必要なのは、人間らしい心です。それだけが必要です。人間らしい心というのは、信仰者であってもなくても、成長可能な心ということです。
 
何かを訂正不能にした人間離れした心では、一生かかっても、理解ではなく、誤解しか生じません。訂正不能が続けば、曲解になり、妄想またはカルトに至るでしょう。カルト化したキリスト信仰を見ることは、実に、稀ではないのです。
 
 
今まで、何度も書いてきたように、キリスト信仰は、聖書を読んで、キリストを好きになった人が、キリストと父なる神に、生きる希望を寄せることであります。
 
したがって、神の完全性の辻褄など、分かりもしないことを、楽山のように、この世の先入観的な辻褄合わせで神を否定する屁理屈の輩などは、最初から、全く信頼するに足りないのであります。
 
 
大事なことなので、繰り返しですが、書いておきます。
 
信仰者になって、先入観だらけになってしまうようではいけません。信仰は、人間として完成するためにではなく、人間として少しでも成長するためにあります。
 
 キリストに愛される心の貧しさとは、先入観がないことです。
 キリストに憎まれる精神の貧困とは、先入観しかないことです。
 
 
大切なことは ひとつ

大切なことは ひとつ
 
 
(2021年)
(2022年03月19日、再録+)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、先入観と偏見しか持たないことが、この3年数か月、変わることなく表れてきました。反省は、今後のこととしても常に必要ですが、楽山が反省することは期待できません。楽山は、浅い笑いと根深い怨念だけになっています。
 
 
 
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  この俺が説教か
 
 
映画「ロッキー」
 
夜中に通りをうろついている子供に、ロッキーが「夜遊びするな、家に帰って勉強しろ」とか説教めいたことを言う。子供が大声でメチャクチャ悪たれ口を返して逃げてゆきます。それに対してロッキーが言った台詞。このやろうと怒って追いかけるかと思ったら、
 
「この俺が説教か・・」と自嘲するのです。
 
私は感動しました。自分を低くできる人は幸いです。
 
 
 自嘲
 
この俺が説教か
フッ・・と
自分を笑える人は幸いです
 
思いを述べるだけなら
人の欲求として当然であり
そっと差し出す気持ちがあれば
好ましいこともあります
 
しかし
自分の言うことが人のためになる
という訂正不能な
使命感さえ持ってしまうことがあって
それは結局
人が自分と同様になることが望ましい
という判断を繰り返すことになると気づかないまま
自分と異なるものを悪と見なして排除し
狂わせてゆきます
 
しっかりすることを岩石と勘違いし
うわべだけ柔和なことを語っているつもりだが
真面目でも自由に発言したら
お利口になれないのです
言動において既に横暴なのですから
 
何かを崇(あが)めることが
ときには人間性を失わせることがある
という例なのです
 
そういう人は
誰かが忠告しても無駄なようです
染み付いているからです
欠点ならば自覚も可能ですが
染み付いたものは自覚されにくいようです
だから「染み付いた」というのでしょう
 
そういう人に限って何度でも
救われた導かれたと
たやすく立ち直る特性を持っていて
過ちを正さず
同じ過ちを繰り返すことになるのです
 
この俺が説教か
フッ・・と
自分を笑える人は幸いです
 
 
低き身ゆえに 真実

低き身ゆえに 真実
 
 
(2011年06月30日)
(2011年07月01日、若干修正)
(2022年01月26日、再録+加筆)
 
自分の言うことが人のためになると思っていないか、少し思っていることがあるかもしれません。反省と自戒のない信仰は、無意味以上に有害です。
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに割れて
中央は欠損していた
 
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー
まあ、大昔、失恋の傷・・
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
誰が神を
神と名付けたか
誰がやさしい父を呼ぶように
神を呼んだか
流された夥しい血を
皿の上の相づちで受けながら
誰が気安く許される
罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」と一般化して自己正当化しようとする楽山の詭弁です。反省しない、責任を負わない、このような無責任言動は、「人間の性」ではなく、個人、即ち、楽山の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によるもので、病質であり、決して人間共通の罪で正当化は出来ません。
 
 
 
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