ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:詩篇

 
  詩篇88-再録+
 
 「わたしの親しき友は――暗闇のみ」(詩篇87)2020年05月09日
 旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)
 楽山日記(LD)を、改めて批判。
 
 
楽山のような、キリスト教が憎くて、偽善もバレてしまって、恨みと憎しみからの悪意しか持たない者は、こういう意地の悪いことをしてくるという例です。詩篇から不吉な文言を漁って、またキリスト教とキリスト信仰をおとしめたいようです。
 
ここにおいて、憂さ晴らしのために、"災いをもたらす"のは、楽山その人であります。楽山こそ不吉な男なのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者が、満悦気分で書いた醜い記事に過ぎません。
 
 
しばらく前から、聖書の詩編を少しずつ読んでいるのだが、「わたしの親しき友は――暗闇のみ」(詩篇87)という一節には、はっとさせられた。胸にズブリときた。訳者の解説を確認してから読み直すと、どうやら詩人は親しき友からも避けられる不治の病だったらしい。「全詩編中最も悲しい詩」といわれるのも頷ける。
 
ひどい形容です。楽山は「胸にズブリと来た」そうです。胸の中の悪意の沼にでも沈んでゆくのでしょうか。胸に突き刺さったのなら、こういう表現にはならないはずです。楽山は、作文の勉強が成っていないので、しばしば、見当外れの表現を使って、ボロを出しています。
 
私の使っているネットの口語訳聖書では、詩篇87は讃美であり、上のような一節はありません。たぶん詩篇88の「わたしの親しき友は――暗闇のみ」に似た一説は、18節「わたしの知り人を暗やみにおかれました。」とあります。訳による聖書の節の区分が違う可能性もあります。
 
(ネットより)
この詩篇の詩人は、「私は若い時から苦しんできました。今は死を待ちます。」(16節)と歌っています。この言葉に表されているように、この詩人は、若い時から病に苦しみ、その病が癒されることのないまま、死を待つ身となっている希望なき状況に立たされています。
この嘆きの言葉を述べる詩人には、慰めや希望の光は一条も差し込んできません。彼は、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(19節)とこの嘆きの祈りを結んでいます。ついに彼の深い嘆き、苦悩の問題は答えられないまま終わっています。この詩篇は答なき詩篇です。
 
まさに、命が終わろうとしているときの信仰の詩であり祈りなのです。何も良いことがなかったというときの、神に対しての告白に、信仰の凄まじい迫力が表れているのです。信仰を利益でしか考えず、何でもハッピーにならないと信仰ではないと思っている楽山には分からないでしょう。
 
この世の、どうしようもない苦難の中だからこそ信仰が必要なのです。まさに、そのような絶望的な境遇だからこそ、正直に告白し、神に救いを求めているのです。楽山のように利益と言葉面だけを追って神をけがすような浅ましい勘違いをしてはいけません。
 
信仰は、見た目の良い言葉だけを捧げている間は未熟です。叫びのような本音を捧げることによってのみ、苦悩と死に同伴する神を知ることになるのです。この聖句は旧約ですが、新約においては、同伴者が、他でもない、キリストになります。
 
信仰は命です。キリストは救い主です。安っぽいご利益の思い込みしかなく、深い意味を何も理解しないで信仰について書いているつもりの楽山は、実に、人間の正直な苦難に何の共感も持ち得ない、浅ましいクズだと思います。
 
 
また解説によると、「詩人の中心問題は「死」。死は詩篇において肉体の死よりも、神からの隔絶をいう」とのことである。とすると、「あなたは死者のために奇跡をなし給うや、亡霊は起き上がって、あなたをほめたたえようか」という一節は、墓の下の死者について言っているというだけではなく、信仰を失った者をも招いてくださるのかを問うているという解釈も無碍に却下されるとも限らないということだろうか。それともこれはいくらなんでも手前勝手でご都合主義に過ぎる考え方かな。
 
詩人の中心問題は、紛れもなく信仰です。だから、詩篇に載っているわけです。「あなたは死者のために奇跡をなし給うや、亡霊は起き上がって、あなたをほめたたえようか」に相当する口語訳は、私の聖書では10節になっています。未だこの世しか知らない人間の悲哀が表れています。
 
「信仰を失った者をも招いてくださるのかを問うている」・・ひどい曲解です。信仰のない者が、絶望だけになるなら、このように正直な感想を、神に向けて、救いを乞うたりはしないでしょう。楽山の白々しい嘘の信仰芝居とは違うのです。
 
 (詩篇、口語訳)
あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。
 (詩篇88:10、旧約聖書)
 
楽山は、根っからの反キリストなので、また、反省しないがために学習せず成長しない知恵足らずで深い理解が出来ないので、マイナスの文言が並んでいたら信仰の否定と思って悦に入る単純さです。まったくもって詩篇および聖書の逆説を理解できないわけです。
 
楽山は、詩篇88を読んで、大ごとだ、神否定の証拠だ、・・みたいに舞い上がってしまうような短絡だから、ボンヤリ言語でごまかしたつもりでも、キリスト教に対する悪意全開となって、滅裂で批判にもならないような、神否定の悪口を書いています。そういう文言を探していたのでしょう。
 
そういう、聖書も、あらゆる本も、虚心に読むということが出来ず、訂正不能の頭で、都合の良いところだけ受け取って自分を飾ることしか出来ない楽山は、まるで当然の成り行きのように反キリストになっているのです。真実の深みという深みに、楽山にだけは、縁がないのでしょう。
 
こういう、一見、現実に照らして、神に対して、嘆くような、否定のような文章は、聖書が扱っているテーマでもあり、私が読んだ範囲だけでも、ヨブ記や伝道の書などに、いっぱい書いてあります。それらを、ことごとく、我執で解釈して、神否定に結びつける楽山の安易さと怠慢が表れているだけです。
 
答えが謎解きや道徳みたいには、はっきり書いてないというだけで、これで、キリストを否定できると空想する楽山は、愚かであるだけでなく、極めて質(たち)の悪い、執拗にサディスティックに攻撃してくるだけのサイコパス人格であり、反キリストだと思います。
 
信仰者は、幸不幸、喜怒哀楽、絶望希望、全て正直に、本気で、本音で、祈るということです。聖書の詩人は、そういう祈りこそが、総てを統べられる神に届き、神によって受け取られることを、たとえ苦難から臨終に向かうときも、絶対孤独からの解放があることを、知って書いているのです。
 
楽山は、快か不快かだけの原始本能の人です。極めて迷惑です。悪意の原始反応だけで思い上がった学者気取りの、何もまともに考えていない人で、世辞と嘘と詭弁だけの楽山は、小学校の道徳でも学んだほうが、まだマシでしょう。楽山こそ、まさしく "手前勝手でご都合主義" の権化であります。
 
カルト的な思想というのは、有神無神を問わず、でっち上げの妄想から出発しているので、自分で文句を言って、それに自分が斬られる、というのは珍しくありません。そのことを、本人は、理解できないために気づかないという醜態です。聖書をけなす楽山は、実に、自らの醜さを体現しているのです。
 
温もりも潤いも感じさせることが出来ず、教えるためのインテリジェンスの欠片もない、自己愛性人格障害の楽山は、否定の文言を、詩人が、神に向かって叫んでいることを考えないのでしょう。信仰を捨てたのなら、神に向かって祈りません。楽山のように悪口を言うだけでしょう。
 
 
と、ここまで書いて思ったけれども、ここで語られている悲しみは、多分に激しさを秘めている感じがする。日本の古典にある悲しみは、激しいというよりも、静かで乾いている雰囲気があるので、この辺りはやはり異文化ということなのだろうか。自分は優劣を問題にしたいわけではないけれども、どうもこの質的な相違に無頓着ではいられないのだから我ながら面倒な性格だ。
 
「静かで乾いている雰囲気」などありません。信仰の叫びなのです。楽山は、面倒な性格なのではなく、人間らしい知性と感性の欠落です。信仰者が、いつも讃美だけを書いてくるとでも思うのでしょうか。信仰者は、本気で、神に対しているのです。
 
世辞だけを悦ぶ楽山は、日本の古典の静かで渇いている表現が、いっそう、深い悲しみを表すことも知りません。聖書を「異文化」で済ませる浅はかな楽山を相手にしないでください。
 
楽山は、義務を果たさず権利を主張し、責任を負わず自由を行使します。シャロームと同様の、全く文責というものを負う気のない、自己愛性人格障害の自己中が表れているのです。
 
既に、どこかで、身勝手な悪口を否定されたのではないかと思います。ひょっとして、キリスト教の教会にでも行って、未熟な自説を否定されまくったのではないかとさえ感じます。それで、恨みに燃えて、詭弁だけを学び、似たような偽善者シャロームと世辞のつきあいを始めたのでしょう。
 
しかし、そこは、仲間ぼめによって、怨念を培養し、自己中を貪食し、悪意と敵意を増幅して、良心を捨て去るところなのです。あるいは、シャロームと楽山は、同一人物の成りすましではないかとさえ思います。この世への怨念だけを潜熱のように深く抱えているところが一致しています。
 
 
楽山の記事は、ネットの口語訳聖書では、87章ではなく、次の88章と思われます。
11~12節は、むしろ、人間的共感のために、私のお気に入りです。
 
 (詩篇、口語訳)
第88篇 1-18
聖歌隊の指揮者によってマハラテ・レアノテのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌、さんび。エズラびとヘマンのマスキールの歌
88:1
わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。
88:2
わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。
88:3
わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。
88:4
わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。
88:5
すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。
88:6
あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。
88:7
あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって
わたしを苦しめられました。
88:8
あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。
88:9
わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。
88:10
あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。
88:11
あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。
88:12
あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
88:13
しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。
88:14
主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
88:15
わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅しにあって衰えはてました。
88:16
あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅しがわたしを滅ぼしました。
88:17
これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。
88:18
あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。
 (詩篇88:1-18、旧約聖書)
 
11~12節が、特に、逆説的に、正直な気持ちの発露として、好きです。つまり、いつくしみは・・、まことは・・、神の義は・・、そんなはずはない、主よ、どうか救い出してください、という、世辞の讃美では済まない、なりふり構っていられない本気の叫びであります。
 
迫害が迫っている状況なら、讃美も、迫力と勇気に満ちたものになるでしょう。しかしながら、そこそこ平穏なときに、讃美ばかりを勧めるのは、大仰な感じがして、信仰自慢に思えて仕方ないです。
 
人生において、私たちを信仰に向かわせるのは、讃美ではなく、どうしようもない悲しみだったはずです。この詩篇は、本音をそのまま叫んで、神に委ねようとしているから、好きなのです。
 
私たちは、いつも讃美したくなるほどの立派な信仰など持ってはいないのです。悔いること、改めること、望むこと、求めること、叫ぶこと、それらより、讃美が優先するとは、思えません。讃美するのが信仰・・ではありません。
 
讃美すれば、神様は、ごきげんよろしいのでしょうか、違うと思います。正直以外、神には、通用しないのです。祈るごとに、唱えるごとに、飾りは飾りだと、偽りは偽りだと、神様によって、すべて、見抜かれているのです。
 
こういう、逆説的だが、率直で正直な言葉が削除されずに聖書に載っているところが、私のお気に入りであり、共感であり、感動なのですが、嘘吐きの楽山には分からないのでしょう。正直な本音の告白こそが、共感に満ちた聖書の宝なのです。
 
人間の悩み苦しみの本音が表されていなければ、楽山やシャロームのような世辞付き合いしか出来ない偽善カルトの宗教に過ぎないのです。本音の告白があり、考えさせるところが、聖書の持つダイレクトでダイナミックな深みなのです。
 
いつも讃美で溢れているわけではないのが、生きる人間のための聖書です。それを上回るだけの共感と癒しと慰めと救いがあるからです。楽山やシャロームのような異常人格は、それが分からないものだから、ここぞとばかり、いちゃもんだけを吐き出してくるのです。実に不潔です。
 
本音もクソも分からなくなっている楽山と、その仲間の、白々しい嘘っぱちの讃美、讃美、讃美、そして酸味ばかりの、精神詐欺師で偽牧師シャロームの記事のようなものは、その吐物の臭気に、さらに吐き気を催すだけで、救いどころか、腐って漬物にもなりません。
 
楽山やシャロームなどの偽善者は、躓(つまず)いたら、石に、道に、道路作った人に、道路のある街に、文句を言う者たちです。そのくせ、彼らは、好きなだけ、道に唾を吐いて、人に嘘を吐いて、人を躓かせるのです。
 
分からないなら、分からないことについて偉そうに書くべきではない、ということを弁えず、文字通りに受け取って、洞察もなく、根拠もなく、キリスト教を否定してくるから、楽山の、単細胞の無理解は、迫害と言ってもよいほど、総てのキリスト者の敵となるのです。
 
次の詩篇の聖句を唱えることのできる人は、そんなに多くないと思います。
 
 (詩篇23:4、口語訳)
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
 (詩篇23:4、旧約聖書)
 
聖書と信仰によれば、神の戒めと懲らしめの、鞭(むち)は鞭だけではないことがあり、不幸は不幸だけではないことがある、杖の助けともなる、ということなのですが、その一番大事なところを、共感力と反省力が皆無の楽山やシャロームは理解していないのです。
 
どうしようもない悲劇があるからと神を否定するのではなく、どうしようもない悲劇があるからこそ、神を必要とするのです。人は、信仰によって、神と、正直な本音の付き合いをするのです。
 
楽山やシャロームの口車に乗ることの、決して、ないように、さらに、その前に、彼ら病原に、決して接近しないように、祈っています。拝。
 
 
 
楽山とシャロームなどの自己愛者は、いつも正しく、威勢の良いのが信仰だと思っているようです。その分、高慢になり、厚顔になり、傲慢になります。
 
例えば、精神的に健康で、謙譲の心を持っている人は、批判されると、しゅんとなって、書くことをやめて考えるでしょう。それ以前に、気の弱い人は、元々、楽山やシャロームのような厚かましい書き方はしません。
 
批判されて、どういうことかと尋ねてくるのは正常です。反論か弁明をするのも正常です。しかし、批判されても、何も答えないで、反論も弁明も出来ないまま、嫌がらせのように同じ否定の悪口を書いてくるだけなのが、楽山とシャロームです。
 
このような者たちは、決して、真面目に書こうなどとは思っていないと思います。遠回しであってもなくても、とても、いやらしい根性の持ち主です。だから、以前は説明もしましたが、受け取り方も主張も固定していて、まるで話にならないので、今は、直接の遣り取り~交流はしません。
 
そういう者たちが、知ったかぶりで、キリスト教とキリスト信仰を、説教~攻撃してくるならば、信仰者の務めとして、できる人が率先して、たとい悪と呼ばれても、こちらの言い分だけでなく、相手の外れ方も書かなければなりません。
 
 
信仰の叫び「

信仰の叫び
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月16日、再録+加筆)
 
 
 
  絆
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない想い
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  叫び
 
叫びがある
叫びになりたい
 
命ある人ではなく
命になりたい
夢見る人ではなく
夢になりたい
歌う人ではなく
歌になりたい
 
何を見つめたらいい
 
無意味な人ではなく
無意味になりたい
死ぬ人ではなく
死になりたい
 
叫びがある
叫びになりたい
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  椅子(いす)
 
他人(ひと)の作ってくれた椅子に
腰掛けていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
立ち上がり
椅子を打ち壊す
人は驚いていなくなり
誰もいなくなった
扉をあけ
扉を閉めた
長い廊下がつづいた
長い廊下が続いた
 
長い廊下の終わりには
錆びた扉がしまっていた
外では何やら
がやがやと音が聞こえた
戻ろうか と思っていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
あわてて扉をこじあけた
するとまたたく間に
彼をとらえた光の中に
彼はいなくなり
誰もいなくなった
 
彼のを行方を
たずねてはならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、詩篇も、聖書も、あらゆる本も、身勝手な自己愛からしか読んでいません。そこに、自尊過大からの他者無視という、お山の大将的な訂正不能の傲慢があります。ゆえに、平気で、大いなるものに対しても不平不満の果てに否定してしまうところの、無知と無恥の堕落した蟻地獄があるのです。
 
 
 
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  老化・・聖書抜粋2
 
   旧約聖書は、神と人の違いと関係を表しています。
   分かりやすくて情感に溢れる聖句を引用しておきます。
 
   誰かのために祈るとき、母のために祈るときでさえ、
   まるで遺言のように祈っていることがあります。
   
   人は、神の性質であるところの全知全能・絶対完全・永遠不変が
   成り立たない被造物です。
   限りある存在として、人は、悲しみのうちに救いを求めます。
 
詩篇22:1
わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
 
詩篇31:5より
わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。
 
詩篇39:4-6より
主よ、わが終わりと、
わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、
わが命のいかにはかないかを知らせてください。
見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。
わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。
まことに、すべての人はその盛んな時でも
息にすぎません。
まことに人は影のように、さまよいます。
まことに彼らはむなしい事のために
騒ぎまわるのです。
彼は積みたくわえるけれども、
だれがそれを収めるかを知りません。
 
詩篇49:7
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
そのいのちの価(あたい)を神に払うことはできない。
同10-11
まことに賢い人も死に、
愚かな者も、獣(けもの)のような者も、ひとしく滅んで、
その富を他人に残すことは人の見るところである。
たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、
墓こそ彼らのとこしえのすまい、
世々彼らのすみかである。
 
箴言30:8-9より
貧しくもなく、また富みもせず、
ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、
「主とはだれか」と言うことのないため、
また貧しくて盗みをし、
わたしの神の名を汚すことのないためです。
 
伝道の書7:14-17
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。
あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
 
イザヤ書46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。
 
詩篇56:8より
あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋(かわぶくろ)にたくわえてください。
 
詩篇119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
 
 
 
テレビとPCの画面はHD画質できれいなはずだけど、視力が衰えてきたので、だんだん違いが分からなくなっている。テレビだけでなく、時々視界の一部がちらついたり揺れたりするように感じることがある。まだ生きているという幸いは何なのだろう。
 
視野の歪みや欠損を脳が補って、一見まともに見えるように脳が作った映像を見ている。それが今の視界に他ならないのだから、他のもっと良質な世界を見ることはなく衰えて見えているであろう視界が総てになります。その世界で考えて、できることをして、生きて、・・わりと、のんき・・。
 
 
詩篇と老境

詩篇と老境
 
 
(2014年09月05日)
(2021年11月20日、再録+)
 
以上の旧約聖書の聖句は私のお気に入りなので、新約聖書の聖句もたくさんあるけれど、これからも再録するかもしれません。
 
 
 
 
  届かない老境
 
ひたひたと波
寄せては返す
老いの湖
浮かべるものはなく
自ら浮かぶ
注ぐものはなく
自ら湧き出づる
老いの泉
もはや何も持たぬゆえ
あげるものは
この姿だけ
写し取っておきなされと
老いの都
買うものも売るものもなく
あらゆる代価は水の泡にも値せず
家もなく道もなく
ここが家ここが道
よそよそしくも安らいで
眠りの中に起きている
その語らいは
よほど深い皺(しわ)を
河にでもしなければ
たどり着けない
老いの里
 
 
  無人の駅
 
迎えるためか
見送るためか
無人の駅のホームで
一人の老人が待っていた
 
ここは廃線が決まっていた
すでに汽車が通る予定はなかった
人にそう言われても
「だから行かなければ」と
老人は毎日
一人で立って待っていた
 
廃線が決まってからまもなくだった
砂利が敷き詰められた
もう線路はなかった
人にそう言われても
「だから見つけなければ」と
しゃがみ込んで老人は
まだ待っていた
 
かつて駅だった空き地
子供たちが遊んでいる
老人の姿はない
隣接した国道にバス停
バスが着いた
「セイリケンヲオトリクダサイ・・・」
 
駅とは呼ばれない崩れた廃屋
ホームとは呼ばれない潰されたコンクリート
埃にまみれた瓦礫や板の中に
伝言板らしきものが落ちていた
「コクウ ニテ 」
読める字はそれだけだった
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
注意しても聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。これは、正常では考えられない病質の反応です。
 
楽山が記事を書き、その大方に、私が批判記事を書き、それらに、一切、反論も弁明も出来ないならば、正常なら、記事を控えるものです。楽山が無反省に記事を書いてくること自体が、楽山の、訂正不能の自己愛性人格障害を証明しています。楽山の、もはや不可逆の病質的欠陥なのです。
 
 
 
 
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  いちゃもん2
 
   とこしえの御座 (詩編9:8)
   2019年07月27日 楽山のブログ、楽山日記(LD)
    改めて批判します。
 
 
楽山は、まじめに読んでもいない聖書に苦情を言っています。
 
主は裁きのために御座を固く据え
とこしえに御座に着いておられる。
(詩編9:8)
 
詩篇9:7のようです。
 
 (詩篇、口語訳)
9:5
あなたはもろもろの国民を責め、
悪しき者を滅ぼし、
永久に彼らの名を消し去られました。
9:6
敵は絶えはてて、とこしえに滅び、
あなたが滅ぼされたもろもろの町は
その記憶さえ消えうせました。
9:7
しかし主はとこしえに、み位に座し、
さばきのために、みくらを設けられました。
9:8
主は正義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれます。
9:9
主はしえたげられる者のとりで、
なやみの時のとりでです。
9:10
み名を知る者はあなたに寄り頼みます。
主よ、あなたを尋ね求める者を
あなたは捨てられたことがないからです。
 (詩篇9:5-10、旧約聖書)
 
このように、裁きと救いの聖句です。しかし、楽山は、永遠という長さにこだわっているようです。聖書の文脈を読まないで、気になった言葉だけで考えているようです。そういう自分を反省することもなく、聖書に文句を言うのでしょうか。
 
以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉は、けっこう好きだった。
でも近頃は、
そういうことを想像するだけで圧倒されてしまうし、
ふっと気が遠くなるような心持ちがする。
 
けっこう好きだった・・という趣味では聖書は語れません。圧倒されて・・というのは、どうやら、感動ではなく、安っぽく短絡した概念から気味が悪いという気持ちに近いようです。また、信仰を、おとしめるつもりでしょうか。
 
「圧倒されてしまう」「気が遠くなるような」・・楽山の、いつもの、大袈裟なだけの芝居のセリフだと思います。分からないことを、受け取れないことを、共感できないことを、ごまかそうとすると、わざとらしく大仰な言葉を使うしかなくなるのでしょう。
 
たとえば、とこしえという時間は、
宇宙の百倍の大きさの石があるとして、
一兆年に一度、鳥の羽根でかるく撫でることを繰り返し、
すべてが摩耗して塵になるまでの時間よりも、ずっとずっと長いのだろう。
そのくらいの間、神は御座についておられると想像したら、
あまりにスケールが大きすぎて、めまいがする。
 
聖書の、とこしえ、という言葉は、物理的な時空で語れないのは当たり前のことでしょう。楽山の、信仰に対する、いい加減なスタンスからは、「めまい」というのは、嘘だと思います。また、信仰を、おとしめるつもりのようです。
 
また、人が永遠の命を得たとしたら、
そういう時間を生きることになるのだろうし、
これも想像しただけで、足下がふらふらしてくる。ちょっと怖い気もする。
 
足下がふらふら、怖い気がする、・・嘘だと思います。信じるかどうかは、自由ですが、信じてもいないのに、いちゃもんだけは付けてくる楽山です。永遠の命を、時間と安易に決めつけて、永遠の時間を生きるなんて、想像もできないのに、「ふらふらして」「怖い気」がするでしょうか。
 
そんなわけで以前は、
とこしえ、永久、永遠という言葉には憧れを持ってたりもしたけれども、
最近はどうも、そういうことは想像することさえ躊躇してしまう気分になってきている次第である。
 
とこしえ、永久、永遠、という言葉だけに、何らかの興味を持つという、少年の興味から、卒業しないまま、「想像することさえ躊躇してしまう」ほど気分がよくないと言っていますが、永遠なんて、躊躇することではなく、もともと想像できないことでしょう。
 
暗に、信仰は成り立たない、でたらめなんだとでも、吹き込みたいのでしょうか。このように、楽山のような反キリストの魂胆は、ほのめかすことによって、信仰をおとしめ、曲がった印象を吹き込もうとしているようです。
 
楽山のような深みのない病質者は、いい加減な読み方しかしてこなかった自分について、何の反省もなく、軽口で言ってしまいます。結局、何が言いたいのかが分からないほど、記事を、ボンヤリ言語の弊害で満たしています。
 
はっきり否定せず、肯定せず、しかし、否定的な印象をすり込んでゆくやり方です。この記事、企んでいなければ、書く必要など、どこにもないのです。そう感じるから、そう書いた、というのでしょうか。そう感じたなら、そう書く前に、公開する前に、考えるべきです。
 
ふつうは、いい加減な読み方をしたという自覚があれば、いちゃもんは、遠慮して、書かないものですが、楽山は、自尊第一で自分の合理化の意味付けのために、考える前に、自己中のクレームを書いてしまうのでしょう。疑問を、疑問として処理できない体質が表れています。
 
考えもなく、欲求のおもむくままにするのは、欺いてばかりだったことがもたらす災いとして起こり得ます。まっすぐ問題に取り組む姿勢をなくしてしまったからでしょう。ピンと来なくなり、感動できなくなり、不快になるのです。
 
それは、すでに、心と理路の秩序を失っているところの、シャロームの、讃美噴射とボロクソ節に表れているのです。キリスト信仰は、教えられたことを鵜呑みにして、同じことを唱えると褒められるカルトとは決定的に違います。
 
永遠は、測れないし、人知では理解できませんが、あるとき、永遠を感じることはあるのです。楽山には、それがないから、辻褄合わせに走ってしまうのでしょう。次元が低すぎます。 
 
キリスト信仰は、自己愛に固まった者や、訂正不能になった者たちには決して分からないのです。彼らは既に分かったつもりでいるからです。つまり、楽山のような、いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになって、その思い上がりだけを表しているということです。
 
 
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、神の前に、分からないことを分からないと言う正直さが基本です。楽山は、そこから、最も遠いところに居て、いちゃもんだけをつけてきます。
(いちゃもん:言いがかり、難癖)
 
 
 
 
楽山の、いちゃもんです。聖書の短い聖句だけを引用して、前後の文脈など、お構いなしに、はっきり言って、子供のだましの、いちゃもんをつけているに過ぎません。
 
「ふっと気が遠くなるような」「めまいがする」「ふらふらしてくる」などと、山の上から景色を見ているような書き方をするのは、聖書の伝えようとする意味を、わざと、日常感覚の言葉を使って、的を外し、読者を聖書的な意味への道から遠ざけようとする悪意があるからです。
 
つまり、ブログ記事本文に書いてある言い方は、キリスト教って、おかしいね、という、刷り込みであり、この、ふざけた書き方によって、感想ではなく、作為の揶揄だと分かるのです。
 
楽山は、いつも、一見、ふつうに感想を述べているように見せかけます。一見、ふつうに見せる、これが、楽山のボンヤリ言語です。しかし、実際は、反信仰、反宗教、反キリストの楽山の企みであり
ここでは、キリスト信仰の言葉を、あざ笑っているわけです。
 
もう一度言いますが、キリスト信仰は、訂正不能になった者たちには決して分からないのです。何故なら彼らは既に分かっているつもりでいるからです。いちばん分からない人が、いちばん分かっているつもりになっているからです。
 
正直に祈る心を持たない者は、自己顕示するしかないのでしょう。しかし、聖句を、からかっても、何の解説にもならず、意地悪にヘラヘラ笑っている姿をあらわにするしかないという例です。大人のわざとらしい児戯は、実に醜いものです。
 
もう一度言いますが、
キリスト信仰は、人間として、感じ取り、考えて、
神の前に、分からないことを分からないと言う正直さが基本です。
 
信仰者が
神の前に祈るとき必要なのは
そのとき精いっぱいの正直さだけです。
 
それしか神には通じないことを、楽山は知る由もなく、神聖を侮(あなど)り、低め、笑いながら、結局、自分の見苦しい高ぶりだけを表すことになるのです。
 
自己愛の低次元に囚われたまま成長せず、幼稚な辻褄合わせをするしかなくなり、論者気取りだけでクレーマーとなり、知性の広がりも、感性の柔らかさも、自ら捨てて望まなくなり、気持ち悪さだけを表してしまう楽山です。
 
 
不正直の獣道(けものみち)

不正直の獣道(けものみち)
 
 
(2020年8月13日、リブログ+、同日一部修正)
(2021年08月24日、一部修正加筆して再録)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
 
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
 
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
 
区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ることもできるが
迷うことも飢えることもある不自由
 
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
その両価性に循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
(二千年代か)
 
 
 
 
ヤフーブログ時代に、私のブログをコメントで荒らした様々なHNが、スクショで残っています。楽山は、その様々なキャラが楽山だと証明できないことを利用したのでしょうが、一方では、それらが、楽山ではないと証明することも出来ないというネットの罠に嵌っているのです。
 
 
 
学校の先生が、いじめ被害者家族に言ったことは、驚きです。加害者とこの教頭は良心がないと思います。決して許してはいけません。人類の敵は、教育などの制度ではありません。人類の敵は、人間性のないサイコパスです。あらゆる世界に、楽山のようなサイコパスが増えていると思います。
 
サイコパスは、善悪の判断が出来ません。その場で、良さそうな屁理屈をでっちあげます。考えれば、人道に反することが常識で分かるはずですが、その常識そして良心がないのです。被害に遭っていない多数のほうを優先させて言い訳にする詭弁でした。一人の被害者が一大事なのです。
 
いじめ被害者家族に対して、加害者にも将来があると責めたそうです。加害者には、反省しない限り、将来はありません。こういうことを言う教頭は、何の人道も分かっていません。その場で、ぶん殴られても不思議はないと思いました。これが、教育の現状なら絶望的です。
 
そして、その教頭は、よく考えてくださいと家族に言ったそうです。貴様が考えろ!・・ということでしょう。理路が、楽山の詭弁に、よく似ています。形式的で、人間として考えていない証拠です。うわべだけ理屈が通っているつもりのようだが、常識があれば、成り立たないのは明らかなのです。
 
(ネットより)
「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」
ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2021/08/post_245909.html
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  不感不応=無知2
 
 心に思ったことは現実になる?(詩篇108[109])
 2020年05月11日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、自業自得ということが分からないようです。また、訳の違いで検索しても一致しにくい聖句について、本任せで、解釈の根拠を示しません。そんなに、独りで、引用して、言いたいこと言って、それだけで満悦したのなら、人に見せずにやってくれと言いたいのです。
 
書くことで満悦したいだけの楽山の自己顕示欲という我欲の産物なので、私は、訳を気にせずに、楽山の聖句引用として批判してゆきます。それでも、楽山が書けば、積み重なった悪意と自慢と自己中の醜さは表れていますから、詭弁の資料となってゆくでしょう。
 
スピリチュアル精神世界の方面では、心に思ったことは現実になるとか、その思いに相応しいものが寄ってくるとかいうけれども、それと似た考え方が詩篇でも語られている。
彼は呪うことを好んだので呪いが彼にかかり、
祝福することをきらったので祝福は彼から遠ざかった。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.273)
 」
 
楽山は、とうとう、結論だけを投げてきます。聖句について、また、楽山のことも、ただの自業自得でしかありません。「心に思ったことは現実になる」とか・・ひどい解釈です。
 
 (詩篇、口語訳)109:17
彼はのろうことを好んだ。
のろいを彼に臨ませてください。
彼は恵むことを喜ばなかった。
恵みを彼から遠ざけてください。
 (詩篇109:17、旧約聖書)
 
これは、例えば、不正をする者に対して、復讐を神に祈り願い、かつ、神に任せる態度です。そうでなくても、例えば、楽山の不正に対する報いは、最終的には、神に任されます。人は、できることをして、神に祈るしかありません。
 
常識的には、訂正不能の悪の自業自得、ということだと思いますが、またしても、楽山は、心に思うと現実になるぞ・・というような、ホラー話として魔界の解釈をしているようです。人間的な見方が出来ない者は、そういう理路をでっちあげてきます。何でも超常的に見るのは、カルトには、よくあることです。
 
ごまかしに次ぐごまかしで、デタラメに次ぐデタラメの解釈で、聖書を恣意的に曲げて、自らへの批判をしにくくしたいようですが、批評として幼稚すぎて何の意味もありません。このようなズルをしているのに、幼稚だと気づかず、何の罪悪感も感じないのが楽山の程度の低さです。
 
楽山の言は、とうとう、誰とも議論などしたくない、例えば「オレは自分の書きたいことを書く、聞け。」・・とでも言ってるようなものです。
 
一般には、祝福することを嫌う者は、祝福しないのだから、あとは、無視するか、呪うだけになり、ゆえに、祝福されることもなくなるのは、当然のことであり、自業自得であり、それは、まさに、今、楽山のことなのです。
 
こういう法則性が現実にあり得るかどうかは、万人を納得させるべき形で証明するのは難しいことではあろうけれども、ただそれでも自分は根が迷信深くできているせいか、こういうことを信じてしまう方ではある。
 
何の法則なのでしょうか。聖書を読んで、どこかで起こっている現象と見なしているのでしょうか、そう信じてしまうのだそうです。ただの的外れの間違った思い込みです。楽山が聖書から何も良いものを見いだせないのは、当然のことです。
 
楽山は「根が迷信深くできている」・・根深い病理と病原性ですが、ふつう、反省の対象になることを、できているから仕方ない、とでも言い訳しているのでしょうか。そのまま、宗教の批評~批判をする資格などないということを表しているのです。
 
それだから、悲観的なことを口に出したり、思ったりすれば、それが現実になってしまうかもしれないので、そういうことは言ったり思ったりしないようにしよう、できるだけ良いことを言ったり思ったりするようにしようと心掛けたりする。
 
心に思うと現実になることを恐れるらしい楽山は、今まで、嘘と詭弁ばかりで、良いことを言ったことなどありません。楽山は、心から良いことを言うことを、心にもないことを良さそうな言葉を見つくろって言うことに、すり替えています。そして、読者に、混同させようとしています。
 
悪意による婉曲の、ボンヤリ言語の悪口と詭弁で、キリスト信仰に、嫌がらせをしているだけです。ナルシストは悲観的なことを考えることがないという無反省と自己満足の狭い部屋で、悪意と嘲笑いだけを育てている楽山の異常さがうかがえます。
 
井沢元彦は、日本では言葉に出したことは現実になるという言霊信仰があるために、危機について具体的に言葉に出して議論し、その対策を講ずることが難しく、したがって危機管理が疎かになりがちだとしていたし、これは一理ある意見ではある。
 
楽山個人のことにとどめておけばよいものを、大言壮語に結び付けてゆく自尊過大の誇大化を避けられない楽山です。かっこつけないと気が済まないようです。そして、批評家気取りで、引用した他者の発言を、一理もない楽山が、上から、一理ある、などと言っています。
 
曖昧な書き方しかできない楽山は、どう一理あると言うのでしょう。言霊信仰のほうでしょうか。言霊信仰によって危機管理が疎かになることでしょうか。楽山は、何の役にも立たないくせに、詭弁という邪悪な言霊をまき散らしてきました。
 
ただ自分はこれを承知しつつも、それでもやっぱり悪いことを考え、口に出すことには若干の躊躇があるのだから、我がごとながら呆れてしまう。もうちょっとでも頭を近代化して、合理的思考のできる現代人になりたいものだ(笑)。
 
いつも悪意の企みしか考えていないという経過と結果しか表れていない楽山が言っています。合理的思考が出来る現代人になれるのは、反省と学習機能を持っている人だけです。本を読みましたという自慢からは何も生まれてはこないのです。
 
そして、また、冗談を言う文脈ではないのに、ズレた感性からの、真剣味のない「((笑))」です。楽山の、おふざけは、楽山の文脈と理路を、壊して、楽山を、孤独なピエロに変えてゆきます。
 
楽山は、他者の意見を無視する分、思慮が驚くほど浅く幼稚になり、エネルギーのない泥の飾りまみれになって、感動のない隙間を徘徊しているだけなのです。よく「(笑)」などと書ける。これは、偽善カルトのシャロームと同じ症状です。
 
 
 聖書と多神教(詩篇95-3)
 2020年05月11日
 楽山日記(LD)
 
タイトルは失念したが、何かの本で聖書は一神教だと思われがちだが、実際には多神教であるという指摘を読んだ記憶がある。先日、詩篇を読んでいて、ふとそれを思い出した。
まことにヤㇵウェは大いにして、いとほめらるべく
すべての神々の上に恐るべきもの。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.232)
 」
これは字面だけを見ると、神は複数存在して、ヤハウェはその上に立っているといっているようだ。自分には一神教の世界を想像するのは困難だが、こういう多くの神々と、その上に立つ神という形であれば大分想像しやすくなっていい。天照大神とその他の神々だとか、毘盧遮那仏とその他の如来菩薩という世界観と似てくるので。
 
字面を見るだけで書いてはいけないのです。
 
軽々しく好都合だからと思い付きで言ってくる、これは、まさに、自分を最上とする自分信仰の為せるわざであります。神聖の中の最上、あるいは、むしろ、異教の神々のこと・・厳密な解釈について、私はよく知りません。
 
私の信じる神は御一方なので、こだわる必要は感じません。
 
しれっと「神は複数存在して」と言うのが、情けない短絡による楽山の詭弁です。聖書での神々というのは、異教の偶像の神々のことだと思いますが、楽山は、この情ない話で、神が複数いるという話にして、おとしめてきます。この理解不足は、哀れです。なのに書いてくる陰気な楽山です。
 
ずいぶん前のことだが、さる匿名掲示板でHSを退会してキリスト教の洗礼を受けたという人が、神社に神はいない、何もいないというようなことを書いていて、びっくりしたことがあった。
自分はどうも根っからの多神教世界の住人のようで、神社仏閣、祠、山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ、畏れてしまう性質だ。唯物論や無神論に傾いているときであれば、その感覚は薄れるが、それでもまるっきり消失してしまうことはない。
 
「根っからの多神教世界の住人」と、いい加減宗教観の告白です。「山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ」と、まるで真剣味のない楽山の言う宗教観は、楽山に干渉しない人生観的な飾りのようです。自らの崖っぷちに気づかないからでしょう。
 
あらゆる自然や人工の物に、この世ならざる存在を感じると言っている楽山は、人間にだけは共感を持つことがないようです。キリストと父なる神に、芝居でなく本気で、祈ることも考えることも出来ない理由は、ここにあるのでしょう。楽山の言は、いつも、そこから書いてくるのです。
 
他者の、そして、人間の存在について何も感じられない楽山は、それを人のせいにして、代償行為的に、自然や物をあがめる、というより、上から "あわれんであげる" 方向に、人間離れして、さらに、霊が分かるっぽいなどと思い込み信じ込むようになったのでしょう。
 
自分は特別だと思い込んで人間離れしてゆく者には、キリスト信仰が芽生えることはないと言ってよいと思います。それは、人間として人格として異常だということです。
 
ちなみに、楽山は、自己愛が過剰なので、何も畏れてはいませんし、何を信じてもいないし、何をまともに感じてもいない、ということだけが、書くものに表れてきました。ゆえに、結果として、原始反応だけになって、知性も感性も働かないのでしょう。
 
人間の理路が組み立てられない楽山は、「唯物論や無神論に傾いている」でしょうか、否です。楽山の頭で扱うものが、物しかなく、神はいない、ということであって、「論」にはなっていないと思います。また、どこまでも、見栄を張って、分かっているふうの偉そうな物言いをしています。
 
だからキリスト教の神のみが実在し、その他の神は存在しない、神社には何もいない、空っぽだと信じ、それをリアルに感じることはできないし、それが可能だという人には驚いたのだった。
 
何を言っているのか不明です。神社には歴史と何があるのか、誰も知りません。だから、恐れをいだくのでしょう。説としては、散らされたユダヤ人が、中国、そして、日本に渡って、日本の宗教に影響したという説がありますが、信憑性は不明ですし、個人の信仰に影響するわけでもありません。
 
楽山が唯一感じるのは、なんでも感じているつもりの自我の満悦感でしょう。実際は、感じているのではなく、感じているつもりで思い上がる唯我独尊の慢心だけとなり、感じないことへの恐れがなくなり、情性の鈍麻と、修正不能の傲慢から、主張がことごとく的外れになってしまう定めなのです。
 
この辺りのことからすると、一神教と多神教世界の住民の自分との間にある溝は、想像以上に深くて、そう簡単に埋められるものではないらしい。
 
一神教と多神教をまとめてしまうことは元々されていないわけです。楽山が、宗教について何も知らないことを表しているだけなのです。結局、楽山の、自他未分化、神聖と自分未分化、ということです。そのことは「心の理論」の誤解~曲解に表れていました。
 
さらに、楽山は、恐れをいだくべき対象を考えられず、全部、自分の世界の持ち物扱いになっています。自分の貧困な枠の中で、あたかも、世界の真理を語っているかのように装い、その報いとして、自己愛だけの崩壊した精神となっているのです。
 
腹いせのためだけにキリスト教を攻撃し、嫌がらせする悪意だから理路も共感もなく書ける、ということに、楽山は、満悦できる人物のようです。書けば書くほど、楽山という病魔の根深さを感じます。壊れた人、楽山に、決して近づかないでください。
 
 
人の信仰は、悪魔性に勝てるでしょうか。単独で勝てはしません。できることをして、結果を神に委ねるだけです。そうして、積み重ねられてゆくものが、必然的に、信仰においては神への捧げものとなり、受け取りは、いつも神に任されます。
 
 
魔性は、信仰に勝てるでしょうか。勝てるでしょう。人間的なエネルギーを、少しも使わず、消費しないのですから。しかし、そういうエネルギーは、神の前では、泡沫になると知っています。
 
楽山は、自分あての独り言の手紙でしかないものを、他者への悪口で満たして、公共の場に貼りつけ、かつ、何も受け取らず、自己満足の砂場に、怒気だけを積み重ねて、破壊の鉱毒を自らに満たしてゆくのでしょう。
 
シャロームと同様に、宗教についての偏見を訂正不能にして、否定の先入観を、公共の場に垂れ流しているから、楽山の言は、文責を負わない分、理路も共感もなく、短絡的に乱暴で、侵襲性のある誘導となり、とても有害なのです。
 
 
自己破壊のブーメラン

自己破壊のブーメラン
 
 
(2020年05月13日)
(2021年05月25日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
·15時間
やっぱり、こうしてツイッターをやる上で
・情報は漏らさない
・秘密は守る
・他人のプライベート等を詮索しない
って大事だよね。お互い、身バレのリスクとかもある訳だし。
とにかく信用第一!
午前9:49 · 2021年5月23日·Twitter Web App
 
ツイートに対しての反論ではなく、楽山批判です。なぜ、このツイートを引用しているかということです。「情報は漏らさない」「秘密は守る」「他人のプライベート等を詮索しない」・・楽山の秘密は、罪悪の秘密です。そして、何か悪いことに誘導する意図があります。
 
知らせなければ、だまされる人が増えるでしょう。いわゆる、悪の隠し事ですから、プライベートではなく、詮索ではなく、隠そうとする者を放置してはいけないから、公開して敷衍すること、即ち、広く知らせることが必要だということになります。
 
他者の口を、詭弁に変える楽山のリツイートです。楽山が隠しているのは、尊厳にかかわる個人情報や秘密ではなく、無視と無反省と無責任の、反道徳の罪悪です。どんどん暴露して明らかにして、楽山を裸にするしかありません。楽山は、信用してはいけない人です。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
幸福の科学における二世問題は、(略)幸福の科学学園や「ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ」という、無認可の”大学もどき”に2世の多くが通い、
そこで社会性や常識が身につかないまま「宇宙人」や「霊言」などの荒唐無稽な教義を刷り込まれ、反発する者は悪霊扱い、などの点が問題。
午前0:40 · 2021年5月23日·Twitter Web App
 
ツイートした人ではなく、リツイートした楽山を批判しています。楽山は、また、他者の言を、恣意的に、悪用しています。「社会性や常識が身につかない」典型は、楽山です。反省しないですし、発言の責任を負いません。大人なら弁えることを、楽山は、感じないし考えない人です。
 
楽山は、霊の問題に執着して、ふつう、なくてもいいし、結論が出るわけでもないような、霊の関連の記事が多いわけです。霊能があって霊が分かるつもりでいるのでしょう。ゆえに、霊言についても記事にしています。楽山にとって、他者は人間ではなく霊なのかもしれません。
 
つまり、楽山は、常識人ではなく、HSを批判しても、本当の批判になっていないのです。宗教と信仰についても、霊とかの超常の問題としてしか考えていません。現実の生き方に必要だとは思っていない、というより、楽山には、現実に向かう視線がないと思います。
 
つまり、楽山の考え方は、空想的なカルトに近いということです。超常の辻褄合わせに、執拗に、こだわって、日常の考え方と感じ方が、習得されておらず、したがって、現実の宗教と信仰について、何も、まとまった意見を書けません。お伽噺のヒーロー願望ではないかとも思われます。
 
 
 
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  矢印の人々2
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは
都合のよい出来事を奇跡に結びつける
 
「何度、奇跡に救われたことでしょう」
「私たちは、いつのときも安らかです」
 
自分に都合の悪い出来事
悲惨な死や自殺については
語ることが背教であるかのように
無かったこととして口を閉ざし
記憶から消してしまうかもしれない
 
彼らは強烈なベクトルを持っていて
いつも自分の味方をする神への信仰は
違うベクトルに対しては
びくともせずに、逆に
へし折って悔いることがない
 
そして彼らが優しさと呼ぶ口によって
冷やかに述懐して
気に入らない人に対して
「彼は少し、冷静さを欠いたようです」
と言った口は不感不応の
慇懃無礼な冷酷さだけが勝っている
 
言い古された言葉を並べただけで
納得し陶酔するような
彼らがこしらえた感謝のレセプターは
人間的感性のレセプターを押し潰すほど
強力な条件反射になっている
 
いつどこで起こる災いも不幸も
自分と同じ信仰を持たないからだ
という因果律を当てはめて
ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続ける
 
いつどこで起こす災いも不幸も
不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって
すべて「愛とまこと」の名の下に隠して
彼らは結束し増殖する
 
彼らの強さによって
何度人間性は潰されてゆくことだろう
 
彼らは実に
いつも単方向のベクトルを突出させ
固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくる
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さない信仰には、
昔から抵抗を感じているので
 
穏やかでない正気も狂気も
私は書いてゆくしかないようです。
 
 
(2011年09月28日)
(2019年04月25日、修正)
(2021年05月16日、再録+)
 
 
何を目指すのか。

何を目指すのか
 
 
※ 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない、と幾度も
心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなかったりしたとき
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
(ずっと前、一部修正)
 
 
 
 (詩篇、口語訳)26:2
主よ、わたしをためし、わたしを試み、
わたしの心と思いとを練りきよめてください。
 (詩篇26:2、旧約聖書)
 
 (詩篇、他ブログより)
主よ、わたしを調べ、試み
はらわたと心を火をもって試してください。
 (別の訳らしいが、興味あり)
 
※「はらわた」は、人が心に秘めたものでしょうか、加えて、「火」は、神の強い力に拠り頼む情熱的な信仰の意志のように感じられて、強いインパクトの訳になっています。
 
 
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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