ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:詭弁

 
  楽山の空想~症状2
 
 『小説 地球万華鏡』大川隆法著
 2021年09月21日
 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
   を改めて批判。
 
 
楽山は、結局、脱会とアンチは表札のようなもので、実は、ORのようになりたい、教祖になりたい、多くの自分の信者に崇拝されたいのでしょう。実質のないリーダー願望は、超常趣味を通して、結局、無神教カルト妄想へ向かいます。空想の故郷から、離れられないのでしょう。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、何でも、誰でも、上から見下ろして、自らの先入観の決めつけを客観のつもりで刷り込んできます。それを真に受けると、後に続く詭弁と嘘に、まんまと騙されてゆくのです。決して関わってはいけない男です。
 
 
*はじめだけ
 『小説 地球万華鏡』がツイッター上で話題になっていたので、はじめの三編ほど読んでみた。以下に感想を書いてみたい。
*あらすじ
まずは、はじめの三編のあらすじをメモしてみる。
第一話では、天災地変のことを天照大神、天御祖神の神罰と考えている人が、カエルやヘビになった人たちと会って問答してる。
第二話では、閻魔大王が現代人の宗教心のなさに苛ついている。特に不可知論にダメ出ししている。最後は一話目と関連をもたせている。
 
「カエルやヘビになった人たち」「閻魔大王」・・楽山の大好きな超常ホラー話のようです。お伽噺とも言えるでしょう。大人になれなかった楽山の、憩いのひとときなのでしょうか。それで、カルト批判を書くとは、どれだけの勘違いと嘘と虚妄に生きているのでしょう。
 
 
第三話の主人公は、著者自身がモデルらしい。心臓の病で重体となり、一人目の妻がどうした、再婚してどうしたとか書いている。後半は広瀬すずがモデルらしい霊がでてくる。最後は、すず霊とは前世で男女の仲だったのではないかと期待したのだが、そうではなく父娘の関係だったと分かって残念がるのがオチになっている。
 
結婚、女優、前世の話、男女の仲、・・楽山の夢想と願望が無意識に抽出されているような気もします。楽山の父子の関係はどうだったのでしょう。恋愛と結婚はどうだったのでしょう。こういうことを本にするORへの憧れでしょうか。羨ましいのでしょうか。どこがアンチHSなのでしょう。
 
 
*場面
上の三編を読んで脱力してしまったので、あとはぺらぺらと飛ばし読みするだけにしたのだが、その時に目に入った場面をメモしておく。
白人女性とホテルに入ったのだが、シャワーを浴びている間にお金を盗られた話。
ゲイは当時はホモと呼んでいたという話と、パンツを下ろされた話。
…ふう、自分はここらでぺらぺら飛ばし読みでも力尽きてしまった(笑)。
 
ぺらぺらと飛ばし読みしたところを、わざわざ書いてくるのは、「お金を盗られた」「パンツを下ろされた」ことでもあるのでしょうか。しかし、余計なことばかりですから、全体の感想文を、くだらないものにしてゆくでしょう。そういうことに気づかないようです。
 
 
*感想あれこれ
以上のことについて、自分はこんな感想を持った次第である。
大川隆法とその周辺の人々がモデルとなっているらしい作品は、HSウォッチャーにとっては面白かろう。
 
HSウォッチャー、まさに、楽山自身ではないかと思われます。自分を見ることだけは出来ない楽山は、他者を批判すれば、批判する資格がないことを指摘される立場です。ゆえに、古巣?に、回帰するような気分が動機なのかもしれません。居心地が、よかったこともあったのでしょうか。
 
以上の文章では、HS批判者の立場を守っている自分を見せるために、表面的な事柄について、ゴシップのように、いちゃもんのクレームをつけています。本質的な宗教と信仰の問題から、空想の方向に目を逸らしていることに注目するべきでしょう。
 
 
三作品については、小説としての味わいは皆無。名句のような趣、名歌のような情感もなし。
文体、雰囲気は、鼻につくところがある。
 
予測できそうなものです。予測したら見ないでしょうが、楽山は、もはや、ORの書いたものだから、何を言ってもいいだろうと思っているような気楽さで書いているのでしょう。「味わいは皆無」「情感もなし」という評論家気取りが、ブーメランで楽山を表していることに気づかない哀れさです。
 
つまり、以上の楽山の文章には、味わいがあるでしょうか、「名句のような趣き」があるでしょうか、「名歌のような情感」があるしょうか。皆無です。あったのは、ボンヤリ言語の曖昧さと、トホホ言語のわざとらしさだけだったのです。厚顔無恥の自己中だから書けることです。
 
 
「僕のユーモアは最高に機知がきいてるだろう」「僕の書くものはすごく面白いだろう」という得意気分が丸見えになっていて軽佻浮薄。どっしり腰を落ち着けて、よく考え、推敲を重ねようとする真摯さは感じられない。
 
楽山は、高慢が表れているORの筆致に、軽佻浮薄と書いています。私は、この四字熟語を、楽山に当てはめたことがあります。言いたいのは、上のような高慢は、誰よりも、楽山に当てはまるということです。しかも、楽山の場合、それをごまかす丁寧ボンヤリ言語付きなのです。
 
まさに、これは、深く考えてもおらず、推敲もしていない楽山の筆致のことです。そのまま、楽山の無反省・無責任に対応します。しかも、楽山は、その自己愛性人格障害から、おとしめ、だます意図をもって、書いてきたということです。自らの優越意識から悪意を表してしまう楽山です。
 
 
昼間、一般女性に対してさえ、「やあ、ねえちゃん」と呼びかけ、ニヤニヤ、ベタベタする昭和のセクハラオヤジの雰囲気があちこちに見え隠れしている。そういう人のギャグセンスと同質のものがある。
 
「やあ、ねえちゃん」・・この例示だけだと、ギャグセンスの問題ではなく、下品なだけのような気がします。例をあげないで、「ニヤニヤ、ベタベタ」「セクハラオヤジ」・・などと汚い悪口を並べれば、楽山の、文章のセンスが問われてくるのです。
 
 
神秘というけれど、自分が見た範囲ではどれもHS教義にそった物語になっている。マジックリアリズムの作家のような驚くべき発想、神秘、迫力はない。著者はラテンアメリカの作家の作品はまったく読んでなさそう。
 
(ネットより)
マジックリアリズム(英: magic realism)、魔術的リアリズム(まじゅつてきリアリズム)とは日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法で、主に小説や美術に見られる。幻想的リアリズム、魔法的現実主義と呼ばれることもある。
1940年代ヨーロッパから帰国したアレッホ・カルペンティエールやミゲル・アンヘル・アストゥリアスなどがラテンアメリカの文学表現として使い始めたことにより主にラテンアメリカ作家が好んで使う技法となった。
 
HS教組がHS教義に沿った話を書くのに、楽山の趣味に合わせることはないでしょう。また、ラテンアメリカの作品を読むべき必然がどこにあるのでしょう。楽山は自慢したいのでしょうか。むしろ、子供みたいに、自分中心に世界が回っている精神が表れているだけのようです。
 
 
不可知論、懐疑論に特にダメ出ししてるところは面白い。大川隆法は何でも分かる、知っていると言いたがるタイプだから、人の知には限界がある、分からないものがある、何も知ることはできないという考え方が好きでないのは了解できる。
 
「了解できる」の了解というのは、理解して了承するニュアンスを含む言葉ですが、楽山は、不可知が好きでない、即ち、知っている、というORの考え方に賛成なのでしょうか。教祖願望から、アンチではなく、擁護するようなことを言っています。
 
ここの引用も、今まで、訂正不能に、神聖の辻褄合わせが成り立たないから神はいないと、何でも分かっている妄想的自己愛から、いちゃもんをつけてきた楽山に、そっくり当てはまるのです。他者のことを言うが自分だけは見ない楽山の病質が表れています。
 
やはり、楽山は、オレなら、もっと知的で、優秀な教祖になれると教祖願望を夢想しているようです。しかし、楽山には、今まで、ずっと、他者に丁寧語でごまかして取り入ろうとしても、病的ナルシストの悪臭があるだけで、カリスマ的な非凡さも魅力も、皆無であります。
 
 
無神論者には「神も仏もあるものか」という単純な考えの人は多いし、そういう人はHSに関心を持たず、いちいち批判したりもしなかろうが、懐疑論者はHS教義を吟味し、細かい所までつつき回して矛盾点を暴き立てようとする傾向はあるだろうから、大川隆法が前者以上に後者を毛嫌いするのもある意味当然かもね。
 
「細かい所までつつき回して矛盾点を暴き立てようと」して、キリスト教と信仰を否定してきた楽山の言は、極めて幼稚な超常話の延長にある子供じみた駄々に過ぎませんでした。心の問題について、楽山は、ひと言も語れなかったのです。代わりに、わざとらしい感動芝居が臭かっただけです。
 
 
どうも大川隆法の本音は、法話よりも、詩や小説の方によく出ているようだ。一般の作家は作品とは一定の距離を保つから、作中人物と作者とが完全に重なるとは限らないのだが、大川隆法の場合は自分の考えをそのまま作品に出さないでいられないタイプらしい。
 
楽山は、体質的に、何か書けば、そこに自己愛性人格障害が表れてきました。つまり、楽山は、無反省と無責任に加えて、羞恥心と罪悪感と反省力の欠損が見られ、情緒を受け取れないために大仰な感動言葉や、「反省、とほほ」といったお情けちょうだい言葉を多用するしかないのです。
 
 
作品の完成度より、自己顕示欲を優先してしまっているのだろう。これはHS映画でも同じかな。HS映画の完成度を落としてでも、自分が表に出たがるとか。
 
まるで、楽山は自分のことを楽山が言っているようです。このようなピエロ的な成り行きに、病的ナルシストは、押し出され壊されてゆく必然なのでしょうか。ちなみに、楽山の書いてきた文章は、完成度を云々する以前の段階であり、症状であります。
 
 
とりあえず、今回の感想はここまで。
気力が回復したら、本書の続きを読んでみるつもりだけど、他の作品も、冒頭の三作品のようなものばかりかな。それとも「賢者の贈り物」のようないい話はあるかな。期待はできなそうだけど、きっとあるはずだと思うことにしておきたい。
 
楽山の感想文で、いい話は伝わってきません。何故なら、楽山が、反省せず、自己愛と自己中で、自分を高める方向にしか進めないからです。楽山の無反省は、今まで、見せかけだけの反省や痛いところなどと書いても、その前後で何も変わらなかったことが証拠です。
 
楽山の感想文は、いつも自己正当化と自己賛美のために書かれる、ということが、今回も、くずれた知情意によってあらわになっています。人格崩壊の秒読みが始まっているのでしょうか。文章の質などお構いなしに、書かずにはおれない楽山です。
 
 
脳天気 愚かさを知らない愚か

脳天気 愚かさを知らない愚か
 
 
(2021年09月23日)
(2022年10月03日、再録+加筆)
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑み
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに濡れ続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
 
  遭遇
 
前にも言ったような?
がデジャブではなく
物忘れの繰り言になるとき
言うのをやめる
ことを覚えるだろうか
記憶を
とりわけ記銘(きめい)を失うことは
日常をそっくり
超常の異土に変えてしまうが
経過の道のりが
日常であるか超常であるかは
経過させるものに任されており
足元から世界までをジャメブの
底知れぬ不安と不穏に落とし入れる喪失も
遭遇から終焉に至るまで
出くわす有象無象と有情非情によっては
穢土(えど)から冥土(めいど)への旅も
安堵から浄土までの邂逅(かいこう)である
これも前に言ったような?
 
 
  超常現象
 
リンゴが落ちる
引力の法則に従って
しかし引力の法則が
明日も成り立つことを
今日のうちに証明できる人はいない
物理現象には法則があり
それはあらゆる時空において成立する
という証明できない前提の上に
物理学が成り立つように
リンゴが明日は逆さまに落ちる
と思う人がいないように
明日は必ずやってくる
法則の成立しない時空が部分的に
あるともないとも証明できないように
明日の中に自らが含まれることは
常に超常だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の興味は、日常にはなく、超常にあります。だから、宗教と信仰についても勘違いして、超常のこととしてしか考えられないようです。そのような考え方だから、奇跡や史実にこだわりますが、宗教と信仰の、いちばん大事なことについては、かすりもしないのが楽山です。
 
楽山は、最近、続けて、HS批判に見せかけた遣り取りを、だらだらと引用して長文の記事を、次から次へと書いています。自己顕示欲の集大成のつもりでしょうか。楽山の臭い見せびらかしを、誰が熱心に見るのでしょう。まとめることに失敗したデータが、床に散らばってゆくようです。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>
naru@自己愛人間被害からの脱却
@kokorodrugstore
自己愛人間は他者を過小評価&自分を過大評価することがデフォなので嫉妬深くなってしまうのですね。
>>>
仁科友里
@_nishinayuri
嫉妬って自分より下の人にいいことがあったときに起きるということがわかってるんだけど、これって結局嫉妬はする側の問題ってことだから(勝手に人を下にみて、勝手にショックうけてる)、嫉妬されたときに私が悪かったって思う必要ないんだよ。
<<<
<<
午前0:41 · 2022年10月2日
 
「他者を過小評価&自分を過大評価」・・むしろ、楽山という自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の宿命です。下に見る視線しか持っていません。楽山に「悪かったって思う必要ない」と思います。自分のために引用して、自分が斬られていることに、まるで気づかない楽山です。
 
 
>★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@9rBlzF7VUe4k5IA
さん
そうです。神は絶対とすると、運命論、決定論になります。
だから人の自由意志を最優先とすれば、絶対神を否定する無神論者にならざるを得ません。
そこまで人間中心になれず、絶対神を否定しきれないなら、神の絶対と人間の自由意志とを両立させようと、あれこれ悩むことになります。→
午前6:14 · 2022年9月26日
·Twitter Web App
 
神の絶対が、運命論や決定論になるとは、思考も視野も幼児並みに狭い楽山の見解~妄想に過ぎません。神の絶対とは、神の意志と行為を、人が、これがそうだとは確定できないということです。それを、運命だの決定だとと言う楽山は、決めつけに生きているからで、知恵が決定的に足りません。
 
自由意志を、何でも決定できることと思っている楽山の自己中に付き合ってはいけません。楽山は、信仰を何も分からない人です。神の絶対の下で、神が不可知ゆえに、人の自由意志は存在します。楽山は、もはや、結論だけを言い張ることしかできないようです。
 
神の絶対と人間の自由意志の両立を、楽山に聞かないでください。楽山は、コールタールのように鈍重で融通の効かない頭しか持たないので、発想と洞察のないセメントのような頭から、おかしなデマばかりを先入観として刷り込んでくる悪魔性の不能者です。相手にしてはいけません。
 
 
>★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん, 
@9rBlzF7VUe4k5IA
さん
ちなみに、この二つを両立させる考え方としては、「神は絶対で、全てを予定されているが、人には自分は救われるか、救われないか、どちらが予定されているかは知りようがないので、人にとっては未来は決定されておらず、したがって自由である」というものを読んだことがあります。
午前6:21 · 2022年9月26日
·Twitter Web App
 
楽山のように、辻褄合わせで納得してゆくような、信仰理解の道はありません。大事なことは直観的に直感的に共感をもって与えられるでしょう。組み立てられない理屈の積み木を重ねて、いつも、自分で壊してゆくのが、楽山です。楽山からは、いかなる真善美も生まれてきません。悪意だけのようです。
 
神について言われているのは、全知全能、絶対完全、永遠不変、ということです。これらの一つも、人には成り立たないので、人は不完全です。それを理解もせずに、我執の屁理屈を振り回す楽山は、語るたびに、ますます愚かになり、それを人前にさらすことになるでしょう。恥ずかしい人です。
 
 
 
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  楽山の褒め殺し2
 
 『〈仏典をよむ〉1 ブッダの生涯』中村元著、前田專學監修
 2021年09月20日  楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
宗教についても思想についても感性と知性を台無しにしてきて、腹いせのように、キリスト教をおとしめてきたために、報いとして批判を食らう楽山は、今度は、仏教を、褒め殺しにかかっているようです。いかなる宗教と信仰にも、人間らしいセンスを持たない楽山が明らかになっています。
 
 
*概略
本書は、NHKラジオで放送した中村元の講義をまとめたものである。全編にわたって、原始仏典の記述を紹介しつつ、その解説をするという体裁になっているが、一般にも理解しやすいように終始、平易に語られているところは有り難い。
以下に、自分にとって特に強く印象に残った箇所をメモしておきたい。
 
「終始、平易に語られている」本についての、大袈裟な「強く印象に残った箇所」という表現が、既に、ペテンくさいのです。つまり、楽山は、感動したと言っています。べた褒めモードになります。しかも、褒め殺しです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴なのでしょう。
 
 
*人はいかに生きるべきか
まず著者は、毒矢のたとえにからめて、ブッダの教えの方向性を次のようにまとめている。
解決のできないような哲学的議論に巻き込まれないで、ここに生きている人がいかに生きるべきであるか、その生きる道を明らかにするということをブッダは人々に教えたのです。
(『〈仏典をよむ〉1 ブッダの生涯』〈岩波現代文庫〉中村元著、前田專學監修、岩波書店、2017年、p.40)
 」
さらにブッダは、さまざまな宗教儀式にもこだわることなく、いかに生きるかということを重視していたとのことである。
 
「いかに生きるかということを重視」・・当たり前です。しかし、この感想文で、いかに生きるかということを、楽山は、書いているでしょうか。否です。実のあることを全く書けない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の症状が、楽山の実績なのです。
 
 
人間のほんとうの道を追求する、それがブッダの一生のつとめであり、課題であったということをいうのです。
(同上、p.157)
 」
両者をまとめると、霊魂がどうしたとか、宇宙観がどうしたとか、宗教儀式がどうしたとか、そんなことより、現実をいかに生きるかということの方が大事だということらしいが、自分はこれには賛成である。ただ自分は物好きなので、いまだにややこしい議論はすきなのではあるが…。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は「霊魂がどうした」とかいうことより「現実をいかに生きるか」に賛成だそうです。当たり前です。宗教もそのためにあります。楽山が、そうでなかったのなら、それは、楽山の責任です。実際には、現実を生きていない楽山です。
 
「現実をいかに生きるか」と言っていますが、ならば、今まで書いてきた、うるさいほどの霊の話は、どうでもよかったのでしょうか。楽山を真に受けないでください。楽山は、ただ、読書家をアピールするために、言っているだけです。
 
「ややこしい議論はすき」・・楽山は、議論などしたことはないと思います。屁理屈をこねて、相手を煙に巻いて、疲れさせることが好きなのです。だんだん正体が見えてきます。何も言えない、何も感じないが、読書家を気取るためだけに、もっともらしい飾り言葉だけを並べているのです。
 
嘘と詭弁が明らかになったという現実を無視して、現実を生きることとは真逆の、議論ではなく詭弁をもって、超常趣味の空想の世界から、自己顕示欲だけの、視野狭窄の、傍迷惑な、インテリ気取りからの妄想語りを止めない楽山です。
 
楽山は、賛成かどうか、という評価を書いています。つまり、楽山は、評価する人であり、至らぬところが当てはまる自覚のない人だということです。一言でいえば、評論家気取り、上から見下ろす態度、などが当てはまってくるわけです。自分に、真剣に、非を当てはめることが出来ないのです。
 
 
*教えの根本
著者によれば、八万四千の法門を貫いているのは慈悲であるという。
そこを一貫する精神は何かということになりますと、これは人々に対するあたたかい気持ち、人々の身になって考えるというその気持です。これが世の中を明るく保ち、なだらかに進めていくことになる。
これを仏教では「慈悲」と申します。
(同上、p.41)
 」
これはよく納得できる。別な言い方をすれば、慈悲のない教えはブッダの教えではないとも言えるのかもしれぬ。
またこの考え方からゆくと、本書とは別のとある本で読んだことだが、ブッダは生まれ変わりについては在家には説いたが、出家にはあまり説かなかったという話も了解できる。慈悲の精神によって、相手の信仰とその環境に合わせて方便を用いつつ導いたということなのだろう。
 
「よく納得できる」・・嘘です。楽山は、温もりと潤いのない、冷酷な精神の持ち主です。楽山には、冷静な思慮がなく、他者の気持ちを理解して思いやる共感性がありません。いつも、世辞か、深みのない言葉で、やさしい人格を装う三文芝居が生業なのです。
 
「あたたかい気持ち」「慈悲」という言葉で、読んで感じましたアピールをして、書いているのは、「環境に合わせて方便を用いつつ導いた」という誰でも言いそうなことだけなのです。しかも、「別のとある本で読んだこと」だそうです。当たり前の、そして、別の本の話です。
 
「慈悲のない教えはブッダの教えではない」・・楽山は、今まで、議論に見せかけてきたが、疲労だけをもたらし、何の成果もないことによって、真の慈悲がなく、仏陀の教えに背いているわけです。体よく書いたつもりでも、今までの事実から、楽山の悪意と嘘と詭弁の特徴は表れてきます。
 
今までのことから、楽山は、「慈悲」、言い換えれば、思いやりとか、やさしさとかを、心で受け取ることも、施すことも、三文芝居のセリフで空しくしてきただけなのです。つまり、言葉だけを繰り返して、そこから広がることのない文章しか書けないのです。
 
 
*世界は美しい
仏教の考え方は、一切皆苦というように厭世的なものだと思っていたのだが、著者によれば死期の迫ったブッダは世界の美しさをうたっていたという。
みなに別れる、この世を去るということになりますと、そうすると、いまさらながらこの世の美しさに打たれて、恩愛への情に惹かれるのです。
(同上、p.148)
 」
 
楽山は、何が言いたいのでしょう。死は世界の美しさ、世を去るとき恩愛の情、・・その心は何も書いていないのです。このように、賛同し、感動したような、褒め言葉だけ並べて、読書家を気取る楽山の、一切は、ペテンの飾りで彩られています。楽山は、生よりも死を讃美したいのでしょうか。
 
楽山は、他者の言にも、他者の行いにも、他者の説法にも、感動したことはないと思います。感動を経た心が、何も書かれていないからです。今まで、ずっと、そうなのでしょう。ただ、自己顕示欲で、分かる人アピールをしてきただけなのです。
 
死は美と愛だというような引用を書いて、死と美と愛が伝わると思っているのでしょうか。だまして、何か、よさそうな人と思わせてきただけの人生が、いかに虚妄であるかということだけが伝わってきます。関わらないでください。皮を舐めて髄を知ってるふりをする香具師(やし)の楽山です。
 
 
著者は、自然の美しさ楽しさを語るブッダの言葉を紹介しているが、それは読んでいるだけで切なくなってくるものであるし、
 
「読んでいるだけで切なくなってくる」・・切なさを、具体的に表現し説明する器量のないのでしょう。「自然の美しさ楽しさ」では終わらない話のはずです。楽山が、いかに読めていないか、なのに、いかに感想をでっちあげているかということです。
 
小学校の作文でも、いい点数はもらえないでしょう。楽山は、そこにいる劣等生なのです。学者、宗教家、インテリ、評論家、様々な、楽山の気取りが、よく見せるためのだまし文句に過ぎなかったことの傍証になっています。感動芝居の大根役者、楽山に、どうか、だまされないでください。
 
 
これからするとブッダはこの世のすべてを厭い、離れようとばかりする人ではなかったようだ。
 
仏陀の教えや仏教の厭離穢土が、死にたがり精神ではないことは、それだけじゃ救いにならないのだから、常識的に誰もが知っています。一方、先入観と言葉のうわべだけで、インテリ宗教家を気取る楽山は、自己顕示欲だけの、嘘吐きの、詭弁屋の、幼稚な未熟者に過ぎないのです。
 
楽山は、読書できない人です。かつ、自己愛性人格障害によって、反省も学習も出来ず、分かっていると思われたい自己顕示欲から、人を惑わし、だますだけの、独り芝居の大根役者に堕ちているのです。読んだつもりだけの空っぽが、偉そうに繕っても、書いた文章が、恥ずかしい性根を表します。
 
 
そういえば、とある評論で梶井基次郎の自然描写の美しさをたたえつつ、死に近い人には自然はこのように見えるのだろうとしていたのを思い出す。ブッダの言葉にもこれと同じことがいえるのかもしれぬ。
 
死にゆくときの自然が美しいという話で、まるで、生よりも死を勧めているようになってはいけないのです。仏陀も評論家もこれと同じ・・ではないと思います。楽山だけが、小学校以下のレベルで、短絡して、とんでもないことを言っています。最も醜い生と死の穢土(えど)を徘徊している楽山です。
 
 
本書を読んで、ブッダは自然の美しさを解する人だったと分かったのはうれしい収穫である。
 
楽山は、仏陀が死にたがり屋で、自然の美しさが分からなかった人だと思っていたのでしょうか。いよいよ、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山に、人格崩壊の時が来ているのでしょうか。自己愛によって知性と感性を損なってきただけでは済まないようです。楽山は何も分かっていません。
 
 
乾いた砂の誉め殺し

乾いた砂の誉め殺し
 
 
(2021年)
(2022年10月02日、再録+加筆)
 
 
 
  夜
 
夜である
昼よりも静かだと思ってはならない
昼の騒ぎよりも
より騒がしい思惑が
入り乱れて飛んでいる
あるいは欲望が
壁を突き破ったり隠れたりする
夜には夜の苦しみ
夜には夜の夥しい挨拶
 
夜は悲劇を
喜劇をのせて音もたてずに流れてゆく海のよう
生も死も同じなのだ
生けるものも死せる者も
動物でさえ屍のまま
声もあげずに
乱れた問いを投げかけてくる
 
いったいいつまで笑っていればいいの
泣いていればいいの
暗闇から海のように
大河のように流れる裏の広さから
答えられなかった問いが
問われなかった夢が
叫びを押し殺してゆく
沈黙の
騒然とした夜である
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 鳴く
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省する気がなく、それを「人間の性」として一般化しても自己正当化は出来ません。何か書くたびに、気取りと嘘と詭弁と悪意と偽善の、楽山の病質が明らかになってゆきます。批判を書いても、楽山が何も受け取らないことが、楽山の自己愛性パーソナリティ障害を、逆に、明らかにしてゆくのです。
 
 
 
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  楽山の汚物噴射2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(5)その他
 2021年09月18日  楽山日記(LD)
 
 
人の口を悪用すること、餓鬼のごとく、噴水状嘔吐のごく、水溶性下痢のごとく、爆発性放屁のごとく、人の迷惑を省みない痴態、楽山の汚染拡大、もはや、人間の、節操も、マナーも、礼節も、節度も、恥も、失った臓物の悪臭です。インテリ気取りの終末は、我欲の排泄物となっています。
 
 
*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみたい。ただし今回は特定のテーマは決めず思いの向くままに書くつもり。
 
楽山の、思いの向くままとなると、ますます節度は期待できません。前にも書いたと思いますが、思いつき次第、勝手な解釈のみで、狂犬が吠えるように、よだれをまき散らしてきます。その中身は、オレは偉いんだ、オレは偉いんだ、分かっているんだ、・・という虚妄以上のものではありません。
 
 
*相対主義という無責任
真実は確かにそこに存在する。それは意見の問題では無い。今日、相対主義という、真実は互いに矛盾していようと見る視点によって幾つも存在するという古風な考えが根付いてしまっている…多文化社会を尊重して促しているように聞こえるかもしれないが、実際は単なる責任逃れを誤魔化してるに過ぎない
 」
 
人の考えを古風と蔑む人は、自分の考えは新しいと思っていて、その見なしに、おびただしい偏見が含まれていることに気づきません。神学とか教会とか教義とかに執着して、宗教と信仰について欠くことの出来なかった心の真実と切実を理解しなかった人の怨念を感じます。
 
 
価値観だとか、モノの見方であれば、人それぞれということにはなろうが、真実に関してであれば、人それぞれというのは無責任と言われても仕方がないかもしれぬ。
真実を確定できない状態であれば、さまざまな意見があるのは当然ではあろうが、真実が確定された場合は、真実は人それぞれ違ってよいとするわけにもいくまい。
 
「人それぞれ」によって、自己正当化をしていた楽山が、今度は「人それぞれというのは無責任」と言っています。責任を負わない者は、今までの自分の発言も記憶していないようです。しかも、真実が確定された場合」と言っています。どういう真実を確定したいのか、末恐ろしいことです。
 
進化論は、客観的に確定されたものではなく、仮説として、ある程度の信頼を得ているということです。全てが説明されるわけもなく、論であり思想であり、近未来の予想が出来るような法則や公式があるわけでもないでしょう。楽山は、妄想を語り、そのブーメランよって、歪み続けるのでしょうか。
 
全ては遺伝子の利己主義によって定まるといっても、遺伝子が、いったい、どう具体的に、利己的になって、人間の真実と未来を照らして教えてくれるというのでしょう。全く別の分野を混同した乱暴な短絡だと思います。無知な者ほど、真実の不確定性を悪用して、妄想を刷り込んできます。
 
楽山は、「人それぞれ」「確定できない」などという言葉で、だから自分の言い分も正しいと、自己正当化を企んできましたが、ここでは、「よいとするわけにもいくまい」と言っています。楽山の言は、定まらないのが特徴で、真実に近づくような、はっとさせるものなど、一度も見たことがないのです。
 
信仰は、客観的に確定されたものではなく、個人によって、生きるに不可欠だから信じられているということです。未来は未知であり、客観的証明など出来ないことは、最初から前提なのです。ゆえに、信仰を、固定した思想や信条や対象物や集団と見なす視野に、信仰は決して見えては来ません。
 
 
とはいえ、真実を確定することで激しい争いを生むことになるとすれば、真実よりは和をもって尊しとする判断もありえなくもない。
この辺りのことは、ホントややこしい
 
楽山の「和」は、ほんとに口先だけの何の役にも立たない真っ赤な偽物です。いい加減がいちばんじゃろ・・という無節操のことであり、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)のために、新しいことを受け入れない楽山には、そこで終わって、知識人ぶって、自慢するしかないからです。
 
考える前に結論が妄想となっているような楽山には、真実は、いつまでも、ややこしいままで、見過ごされてゆくのが都合が良いのでしょう。自己愛性人格障害者(自己愛性パーソナリティ障害NPD)にとってテーマについての感想は、ややこしいから本気では考えないという捨て台詞でしかないのです。
 
 
*進化論を教えること
ある物事は、ただ真実なのだ。それは選択や意見の問題ではない。あなたはご存じないだろう。それがどの場所よりも問題になる場所―学校―で、進化論を教えることは科学の教師にとってとんでもなくデリケートになってしまってる。
 」
上で触れている「真実」とは進化論のことだったのだろうか。それなら自分の考えは、ドーキンス支持ということになる。
正直いって、学校で進化論を教えるのは当たり前のことだと思うし、それを禁じるという発想はよく理解できない。
 
はっきり言って、楽山は、利用した誰の説も支持してなどいません。理路も、対立命題も、理解していないからです。理解したふうに悪用し、自分を高めて、忘れてゆくだけです。楽山を支配している自己愛性パーソナリティ障害NPDは、楽山に自分自身さえも忘れさせてゆきます。
 
その証拠が、一連の執拗な投稿であり、節操を失って、何の余裕もなく、何か書けば刹那的に難を逃れたかのような気休めになるのでしょうか。楽山は、今までと同様に、あるいは、もっと重症かもしれないが、独り言しながら洞窟の中をぐるぐる回っている危険な自爆霊であります。
 
つまり、何か新しいものを見出すわけでもなく、何かの役に立つこともなく、役に立てようとする意志もなく、人の口を利用して、書くということだけに執念を暴発させ、不完全燃焼して、有毒ガスを、まき散らしているようなものなのです。
 
「禁じるという発想はよく理解できない」というより、楽山は何も考えておらず、理解もしていません。全て自己中の欲望が空回りしてきただけです。否定と肯定を両方言って、断定していないから、責任問題は生じない・・という呆れた無思考が、楽山の言っていた信条なのです。
 
 
*意見
もちろん『コラーン』を読まないでイスラムについて意見を持つことは出来る。『我が闘争』を読まずにナチズムに意見を持つこともできる。
 」
その通り。誰でも何にでも意見を持つことはできる。でもその意見が的を射たものであるためには、それなりの基本知識はないより、あった方がよいだろう。
巷には慧眼の持ち主もいるだろうし、無関係の素人の意見を聞く必要がある場合もあるだろうけれども、そういう特殊の場合でもない限りは、まともな意見を持つためには一定の学びは必要だと思う。
 
自己中のために、基本知識からの思考を持ちえず、その欠陥を弁えず、口だけ出しゃばってくる楽山です。しかも、大方、他人の口真似に過ぎず、そのあと、引用し賛同し発言した責任をいっさい負わない男です。マックス卑怯者と言ってよいでしょう。
 
「誰でも何にでも意見を持つことはできる」・・責任を弁える常識人においてであります。無責任・無反省の楽山は、意見を持ってはいけないというより、持てないのに、吠えてくるのです。意見を述べるには、「基本知識」は、「あった方がよい」ではなく、必須です。
 
「一定の学びは必要」・・その学びができないし、学んでいないのが、楽山です。自己愛性人格障害のために、他者の反対意見を無視し、本を読んでも、都合のよいところを、つまみ食いしているだけなのです。楽山の粘着する臭い唾液にさらされるのは、迷惑というより疫病の感染です。
 
 
*生存戦略
遺伝子レベルでは、すべてが利己的である。だが、遺伝子の利己的な目的は、さまざまなレベルにおける協力によって達せられるのだ。
 」
 
遺伝子に、利己というものを付けるのは、そのままでは成り立たないから、比喩であるか、あるいは、嫌いな宗教は関係ないという意味の強意表現なのでしょうか。「さまざまなレベル」は、いい加減ということであり、楽山は、誰とも真摯に「協力」したことなど一度もないと思います。
 
 
宗教では多くの場合、利己心は罪悪とされることが多いのではあるが、進化論関連の書物を読むと、利己から利他が生じたとしているのは実に面白い。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、遺伝子の利己を、人間の利己心と混同しています。凄まじい誤読あるいはすり替えです。楽山が「面白い」と言うことは、刷り込みか妄想であり、有害な殺風景であります。
 
楽山は、今まで、どれだけ、疲労させるだけのインテリ気取りの文章を発信してきたと思っているのでしょう。既に、気取りしかないとバレているのに、楽山だけが気づかないのです。
 
 
とある本では、とある動物を観察した結果、群れのルールを守る個体は、群れの中の評判はあがり、交尾の相手を得やすくなる一方、群れのルールを守らない個体は、群れの中の評判が落ち、交尾の相手を得にくくなっていたことがわかったという。
 
公共という群れのルールを全く守っていない無反省・無責任の楽山が言っています。楽山が書いているようになるのです。というより、既に、なっているのではないでしょうか。孤独から孤独へ、楽山は、さまよい、どこにいても、自慢することだけは止めません。
 
 
要するに、遺伝子を残すという利己的目的の達成のために、社会道徳を守り利他的に生きるという戦略は有効だということあるし、さらにはこういう戦略が有効だということは、社会道徳を守り利他的に生きているフリをするという偽善的な戦略も有効ということになりえるということ。自分にはこういう考え方は実に面白く、かつ興味深く感じられる。
 
理路のない妄想醜態貧相の楽山の暴言です。社会道徳を守っても守らなくてもいいのだそうです。現実に自分が掛けている迷惑を自覚できない者の言い分でしょう。そして、「面白く、かつ興味深く感じられる」と、偽善を肯定しています。
 
偽善は、罪の隠蔽偽装の分、罪の中でも最悪の罪です。楽山は、急性増悪(シューブ)を迎えているのでしょうか。破局点(カタストロフィー)が近いのでしょうか。ヤケクソなのでしょうか。狂っているのでしょうか。
 
(ネットより)
シューブ【(ドイツ)Schub】 の解説
《シュープとも》病状が急速に悪化・拡大をみせること。肺結核で多くみられる。急性増悪。
 
(ネットより)
カタストロフィ【catastrophe】 の解説
《「カタストロフ」とも》
1 突然の大変動。大きな破滅。
2 劇や小説などの悲劇的な結末。破局。
3 演劇で、大詰め。
カタストロフィ(グー辞書)
 
 
*目的と手段
生物体はDNAの利益のために存在していて、その逆ではない
 」
 
また、利益という自然科学としては非科学的な表現を使っています。存続・保持のため、というほうがマシのように思えます。DNA(デオキシリボ核酸)は遺伝に関与する物質です。楽山は、DNAに擬人法を使っているのでしょうか。科学を知らない証拠でしょう。
 
 
アリをみていると、働きアリが不憫に思えることがあるが、個体単位でなく、群れ全体がDNAを共有しているという風にDNAを中心にしてみるとその感想は違ってくる。
 
こういう考え方は全体主義につながりやすい、という可能性を考えない楽山です。やはり、ネトウヨだからでしょう。一つ知ったと思うと、とてつもなく大きな話にしてしまう楽山の性癖です。だから、楽山が妥当な結論に達することなど、ありえないのです。
 
 
人に関しても、近親者と他人、人と動物…という具合に比較してみると、その愛着の度合と遺伝的な距離とは無関係ではないらしく思われる。
 
そして、楽山は、上の失言を、家族愛という方向に、言い逃れようとしています。詭弁と誘導と弁解のための、わざとらしい「愛」の言葉だけを並べて、整えたつもりの見せかけだけの文章にしています。誰にも愛着を感じることの出来ない楽山のとても醜い詭弁だと思います。
 
 
こういうことを考えると、自分が抱いている愛情だとか、利他的な思いと行動などは、本当に自分のものなのか、遺伝子の生存戦略によるものなのか分からなくなってくるのだが、この分からなくてもやもやさせられるところが実に愉快である。
 
楽山は、自分の情緒や意志が、自分のものではないと言いたいのでしょうか。今度は、自らの悪行を遺伝子のせいにするのでしょうか。しかも、それが「実に愉快」などといっています。人間の節操が崩壊して、簡単な道理も分からなくなってきたのでしょうか。
 
楽山は、欲と利己を強く持っていますが、「愛情だとか、利他的な思い」を持ったことはないと思います。高等感情の鈍麻を、言葉だけでごまかしてきた履歴が、理解していないことを表してきました。楽山は、もやもや・・が愉快なのだそうです。楽山は、人をモヤモヤ煙に巻くだけの男です。
 
悪いことをしても、遺伝子のせいで、自分のものではない、という、罪悪感の欠損を自己正当化しているわけです。自己愛性人格障害を持つ病的ナルシストは、人格そのものが、有害であります。いつも、もやもやした嘘と詭弁の文章を書く楽山です。理路を組み立てることが全く出来ないのです。
 
 
*強がり
最愛のものたちと再会できる死後の世界というアイディアは、強い慰めになりうるだろう。私にはそうではないが。
 」
自分はこういうアイディアによる慰めを感ずる質なので、そうではないというのは強がりに思えてしまう…見当外れの想像かもしれないが。
 
最愛の者たちがいるとは思えない楽山ですが、死後の超常の世界を「慰めを感ずる」としているのに、唯物論に賛同し、宗教と信仰を否定している、という、矛盾だらけで一定しない情緒不安定を呈しています。見当外れの空想の断末魔になってゆくでしょう。なお、死後の世界は、誰も知りません。
 
楽山は、人生において、人を人とも思わない見なしを繰り返しておきながら、死後の幸福を想像することが慰めになるのでしょうか。また、嘘を吐いているか、あるいは、錯乱しつつあるということなのでしょうか。死後の空想に、何の善行も積まずに慰めを感じるのは、甚だしい異常です。
 
 
*希望?
われわれの脳は自らの利己的な遺伝子にそむくことができる地点まで進化したのである。われわれにそれができるという事実は、避妊具の使用によって明らかになっている。同じ原理はより大きな尺度で作用できるし、そうすべきなのである。
 」
避妊具の使用は、よりよい機会、環境において、よりよい子孫をより確実に残すための手段とすれば、利己的な遺伝子にそむくというより、あやつられていることになるのではあるまいか。
 
遺伝子に操られているということにしたい楽山です。全て遺伝子が悪いんじゃ・・ということにしたい楽山です。自分の遺伝子のせいにしても意味がないとは考えないのでしょうか。道理で、言うことが無責任になるはずです。楽山の病理が、解明された感じでしょうか。とても空しい。
 
 
*宗教からの自立
理性的な人々が、こう声をあげるときが来たのだ。もう十分だ!宗教信仰は自立した思考を妨げる、分裂的で危険なものなのだ、と。
 」
これはその通り。
宗教教義によって考え、判断している限りは、自立した思考はできまい。
 
宗教を全く理解していない楽山が、また、理性を持っているとは全く思えない楽山が、どういう自立した思考をするというのでしょう。深い理解など、今まで、一度も、楽山には見られたことがありません。精神病質によって妄想と偏見に捻じ曲がった我執だけを見せてきた楽山です。
 
信仰は、宗教教義によって判断するのではありません。信条や教義は、ヒントに過ぎません。信仰は、言葉で完全対応できるものではなく、楽山には出来ないところの宗教的感受性によって、人間性において、内省し、判断し、行動する人生です。
 
宗教教義に縛られているのは、楽山のほうなのです。そこを超えて信仰に至ることもなく、柔和になることもなく、宗教教義=信仰というところに固まって、そこから不平不満だけを吐き出しています。そういう固定した視野狭窄ほど「自立した思考を妨げる」のです。
 
楽山は、親族や友人たちなどの近い人たちにも問題を指摘されてきたのではないでしょうか。しかし、元々が自己愛性人格障害で病識がなく、正常な人間という自意識が我執となり、訂正不能となって、誰の忠告も聞かなかったのではないかと思います。ならば社会的責任など考えるはずもありません。
 
楽山は、3年半前から批判されていることを知っています。空想好きでウソッピ物語の楽山は、子供のときから、嘘を吐き続けていたのでしょうか、何か言われることにも慣れていると思うので、問いただし、改めさせることは、専門矯正施設でもない限り、無意味だと思われます。
 
楽山が、批判されていることを聞かれたら、"気持ちは分かるけれど・・やっぱ興奮しすぎじゃないかなあ" 、"精いっぱい反省しているつもりですけど分かってもらえない" というような言い方をしそうな気がします。こういうのが、楽山の、人格鈍化・ボンヤリ言語・トホホ言語、そして騙し文句なのです。
 
3年以上にわたる反対意見の無視と、その上での執拗な投稿が、異常性の傍証になるでしょう。言い返せないのに、正義の味方気取りで、問答無用に、問答無視で、投稿を続けているのです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)でなければ出来ないことだと思っています。
 
説得は無意味で、害を避けるには関わらないことしかなく、最終的な解決は、結局、何らかの強制力によるしかないのでしょう。楽山批判は、楽山を説得するためではなく、楽山という害毒がいることを敷衍(ふえん)し、楽山に近づかないように、注意喚起するために書いています。
 
 
神を決めつけるのはキリスト教系カルトです。
 
神の不在を決めつけるのは無神教カルトです。
 
キリスト信仰は、個人の、唯一の希望の同伴として、神に祈り、キリストを愛することです。
 
 
楽に山のような嘘を吐いてきた

楽に山のような嘘を吐いてきた
 
 
(2021年)
(2022年10月01日、再録+加筆)
 
 
 
  流れ星みたので
 
またひとり
この世の果てのような
草も木もない崖っぷちに立って
靴を脱ぎ
手を合わせ
誰かにあやまって
ひょいと飛び降りたとき
飛んできた花火が
ぐさあと首の後ろに突き刺さって
しばらく噴射しつづけたので
うっかり軌道に乗ってしまって
落ちつづけてる奴がいる
 
 
  鏡に向かって
 
裸を
鏡に写してみる
一瞥にも堪えないが
嫌なやつだとはもう言うまい
嫌いだとも言うまい
お前をみすぼらしくしたのも
汚したのも私だから
いつか割れるときまで
自ら光を持たない鏡よ
つくられたままの面の奥行きに
また私が表れるまで昼と夜を
少し歪めてもいい
受けた光をお前のやり方で
返せるだけ返してくれればいい
さらに歪めるかどうか
あとは眼の奥の生まれ育ちが
裸の責めを負うだけだ
 
 
  履き物
 
スリッパは
履く人の足になじむほどに
柔らかくなり汚れてきて
つぶれたり破れたりした
靴はいっときの化粧のように
磨かれて光沢を放つが
なじむほどに皺が増えたあげく
裂けて笑ったりもした
 
おおかた人の寿命よりも短く
人の重さを背負いながら
なじんだ末に捨てられる
のはまだいい方で
なじむこともなく
ある日下駄箱のもう片方を開けると
埃をかぶったままの
硬い顔が並んでいた
 
 
  ガラスの檻
 
道は檻へ続くと運転手は言った
留置場か刑務所か
しかし人はいないという
動物園か?
しかし誰も寄り付かないという
周りの緑が土に変わるが
汚れているわけではない
空気は澄んでいて涼しい
人通りはやがて絶えた
車が止まったとき
運転手がいないのに気づいた
ガラスのドアが目の前にある
それだけがある
開けて入ると
中は清楚な趣で
曇りガラスの窓を持つ
土色より薄く塗られた壁に囲まれて
檻というにはあまりに細い格子の中に
黒く低い像
頭を抱えてうずくまる
かきむしるように乱れた髪
細身で胸から脇腹は
やせて肋骨が浮き出ているが
こぶのように筋肉が
硬く盛り上がって
激しく体
自らを抱きしめようとして
突き上げる脈のまま凍り付いている
窓からの淡い日差しが
膝を折り像の影を
ひざまずいた影に重ねた
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
神仏であっても、人権侵害はゆるされないってことかな?
・経典の中の差別語問題 真宗大谷派が謝罪 書き換えられない文言、問われる解決のかたち
午前9:46 · 2021年9月19日
 
キリスト教だけでなく、仏教でも、何にでも、平気で口を出す楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、身の程を知らない男なので気にしないでほしいです。無反省で無責任で、無神経で無理解で、その自覚が全くない楽山の、ストレス解消の放言なのです。
 
無反省と無責任と無神経と無理解が、どれだけ、人権を侵害し、人格の尊厳を傷つけるか・・ということを、最悪の言論の事例で示してきたのが、自己愛性人格障害の楽山なのです。本人は、サイコパスらしい悪意だけで、罪悪感を、全く感じていません。だから、今も書いてくるのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これが信仰というものなんでしょう。
教祖が、ロシア上げ、ウクライナ下げをすれば、その通り信じ、それに反することはあらゆる屁理屈を用いてでも否定し、決して受け入れない。
>>引用ツイート
柴犬ka3mHe9xI1Cl
9月29日
幸福の科学の信者はロシアの言うプロパガンダの投票数を信じ込んでいるようです。本当に呆れる・・・ <<
2022年9月29日
 
「あらゆる屁理屈を用いてでも否定し、決して受け入れない」・・これは、以前より、嘘と詭弁と屁理屈だけの楽山の特徴です。また、楽山は恥をさらしています。人のことを言えば、楽山自身のことだというブーメランが、ずっと表れているのです。これが無神教カルトというものです。
 
楽山が、インテリ自慢や、キリスト教下げをして、それに反することは、聞く耳を持たず、理解できず、反論が詭弁になる、という成り行きが今までの3年余りでした。病質による変態なので、楽山が、何も語らなくなる日だけが、楽山問題の解決する日となります。
 
「これが信仰というものなんでしょう」・・信仰を、もろに否定し侮辱しています。だんだん直接的表現が増えてくるのは、抑えきれなくなったということでしょう。危険です。百鬼夜行ではなく、一鬼蛮行でしょうか。破裂でしょうか。隠せなくなってきたようです。
 
(ネットより)
ばん‐こう〔‐カウ〕【蛮行】 の解説
野蛮な行為。無教養で乱暴な行い。「酔余の―」
 
楽山は、相手の言うことを聞いて考えて返すということが出来ません。相手が反論すると、自分の主張を繰り返すか、話を逸らして理路の迷路のような詭弁を弄し、こちらの思考を混乱させてきます。その結果、楽山との遣り取りは、いかなる成果もなく、糧(かて)にもなりません。体験済みです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省しない楽山は、子供の頃から、嘘を吐き続けてきたのかもしれません。そういう人生では、真実の追求など、できるはずもないことです。これからも、楽山は、嘘と、理路の嘘である詭弁を、好きなだけ言って、結果、否応もなく、その報いを受けて、その恥辱に自家中毒し続けるのでしょうか。
 
 
 
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  楽山の背教の証拠(2)3
 
 「第八講 ヨブ愛の神に訴う」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年09月12日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、書けないところを、引用と、要約の "つもり" と、広がりのない表現で、ごまかしてきます。今までも、恐らく、これからも、楽山は、言論から、いちばん遠いところで、我田引水で引用して迷惑をかけることしか出来ないと思います。
 
楽山は、読書したつもりだけで、読み取ってはいません。信仰を持たない楽山は、信仰を否定するために都合のよいところを引用しているだけです。信仰も、神も、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山にとっては、言葉の字面以上ではありません。
 
(ネットより)
がでん-いんすい【我田引水】
他人のことを考えず、自分に都合がいいように言ったり行動したりすること。自分に好都合なように取りはからうこと。自分の田んぼにだけ水を引き入れる意から。
 
 
「第八講 ヨブ愛の神に訴う」を読んだので、内容をメモ。 
ヨブは「友の提唱する所の神学の神、教会の神に反抗し」、「別に真まことの神を発見せんとする努力に入った」。
「そもそも時代の神学思想に反抗して、別にわが魂の飢渇を医やすに足るべき神を見出さんとする苦闘は必しもヨブに限らない、他にも類例が多いのである」
「人一人が神の絶大なる努力の結果として現われたるものにして、一人は大宇宙全体と匹敵する」
「神はその所作にかかる忠誠なる魂を決して棄てず、たとい一時彼を苦しむることあるも、しかして彼の生命断たるることあるも、神は復活の恵を以て彼を起し永遠の生命を彼に与えて彼をして最後のかつ永久の勝利を獲しむ」
 
教義・教理的な話です。「一人は大宇宙全体と匹敵する」などは大仰で語弊があるとも思われますが、書き記すにあたって、著者の、神を賛美したい情熱と志が表れているようです。楽山は、超常ホラーが好きな趣味だけで、こういう大袈裟な表現に反応するようです。
 
 
西洋では、ロッジ、ロムブロゾーら、科学者も、心霊研究など、来世についての研究をしている。
「第十章全部を心に置きて考うるにヨブは義の神に対して愛の神を求めているのである」
「神は義たるに止まらずまた愛なり」「神を義と見るは不充分である。ためにヨブは解決点を得ないのである」
「神を義とのみ見る時人の心は平安を得ない。罪を罰し悪をただし規律を維持するをのみ神の属性と見做みなす時、人はわが罪の報むくいを怖れて平安を得ない。この時キリストを通して愛の神を知るに至れば、神観一転化を経て赦免の恩恵を実感し以て光明に入るのである」
疑問、悩みがあるときは、焦らず、急がず、慌てず、希望を忘れず、神より答えがあるのを待つこと。
 
「希望を忘れず、神より答えがあるのを待つこと」で、楽山は、納得するのでしょうか。もし、そうならば、今日のような有り様にはならないはずです。恐らく、殆ど理解できないために、引用だけして、読んだことにしたいのでしょう。
 
おもに、旧約聖書は、神と人の決定的な違い、神の恐るべき全能、戒め懲らしめる神、などを語っています。旧約だけだと、超常的また教条的になりやすいというリスクがあります。内村鑑三は、はっきり書いています。「キリストを通して愛の神を知る」・・楽山は読み取っていません。
 
おもに、新約聖書は、キリストの愛と共感による赦しと救いを述べています。新約だけだと、信仰は、感傷的になりやすいリスクがあると言われます。旧約だけだと、パリサイ人のような戒律主義や、教条主義になりやすいのです。
 
楽山は、教条主義的な解釈にも満たず、情緒的に感受することも出来ず、屁理屈に堕ちるだけのようです。つまり、最初から、楽山は、信仰を持つ意志などない人で、いちゃもん屋であり、自分を高めたいだけの偽善者だと思います。
 
さらに批判されて、弁明できないのに、成り立たないことを丁寧語で繰り返す行為は、宗教と信仰に対する明らかな嫌がらせの悪意ということになります。これによって、楽山の総ての丁寧語は、見せかけだけだと分かり、心無い世辞として否定されるべきなのです。
 
丁寧語を使うのは、そうすれば、冷静だと思われるだろうという狙いでしょう。楽山の意見は、ことごとく、思想のベースから成り立っておらず、かつ、進めてゆくほどに、さらに破綻しますが、お構いなしに不感不応の無反省と無責任のまま押し出してきます。
 
楽山は、内村鑑三の硬質な引用文と、楽山の自信ありげな丁寧語に、だまされる人が出てくることを狙っており、そのことを、こちらは危惧し憂慮して、批判を続けています。
 
 
しばらく読書を中断していたので、文章に慣れるまで難渋してしまったが、ゆっくり読んでいると徐々に文章のリズムになれ、その内容も頭に入ってくるようになった。こういう切り替えは、若いうちは無意識にやっていたけれども、年を取ってからはなかなかに難しく、けっこう時間がかかるからやっかいだ。ほんと、年は取りたくないものだ。
 
「内容も頭に入ってくるように」なっていません。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、読書できない人です。つまり、自分に好都合な文言を漁っているだけで、それを読書と呼んでいるのです。
 
前から言っていますが、楽山は、まともな読書など出来ないので、都合の良い字面を拾っているだけという無理解が、ずっと続いています。だから、頭にも心にも入ってもいないと思います。何を「切り替え」たというのでしょう。ずいぶん前に言って批判されたことを、また言っているだけなのです。
 
 
この講義を読むと、内村鑑三はスピリチュアリズムのことを知っていたようだ。当時の知識人としては、これは当然か。
 
キリスト教でも、聖霊と悪霊など、霊という言葉は使いますが、使ったからといって、なんとなく神妙な気分になったとしても、神妙や神霊が分かったことにはなりません。人間の心を持たない楽山のスピリチュアリズムは、まるで地獄の虚妄の異世界から物を言っているような外れ方なのです。
 
ましてや、キリスト教の霊は、間違っても、楽山のような、親族のことを霊が分からないっぽいと言って、自分は霊が分かるっぽい?という自覚にのぼせ上がったスピリチュアルとか超常の霊能力?とかのことではありません。
 
このように、字面だけ引っ掛けて、神妙に見せかけて、自分を高めてくる楽山です。カルト性の欺きが酷いです。超常が分かるという楽山のスピリチュアリズムは、いかなる鋭さも発揮したことがなく、愚鈍な自己顕示欲のペテンに過ぎません。
 
 
ヨブは、神学の神でも、教会の神でもない、それらとは別の真の神を求めたというけれども、個人でそういう志をもち、実行するのはとてつもなく勇気のいることであったろうと想像する。
「神は義たるに止まらずまた愛なり」との言葉は、心に深く食い込むところがある。
 
「神は義たるに止まらずまた愛なり」・・義を弁えず、愛を共感できない楽山の「心に深く食い込む」のは、怨念だけです。人間が吐ける中で最も悪質な嘘ですから、決して受け入れてはいけません。楽山は、こういう嘘や詭弁を、今までも、呆れるほど平気で垂れ流してきたのです。
 
楽山は、"神学の神"、"教会の神" などと軽口で、気安く言っていますが、実際に憂慮されるのは、キリスト教の内外に、カルト思想を蔓延させようとする楽山の言のような汚染と公害の伝染が広がることでしょう。新コロナより、台風より、有害だと思います。過ぎ去らないで粘着するからです。
 
楽山は「神学の神」?も「教会の神」?も「真の神」も全く知りません。ヒントさえ持ちません。楽山を許容すれば、個人としても、集団としても、何を言っても、無視して、訂正不能に、同じことを刷り込もうとする無神教カルトの類が、ますます、人々を惑わしてくるのではないかと危惧しています。
 
「心に深く食い込む」・・こういう言葉だけのべた褒めを書いておくのが、楽山のイージーな書き方です。詳しい説明が何も出来ないのです。楽山は、"愛" さえも、字面だけ書いていると思います。言葉だけ書けば、その通りに思ってくれると、思っているのでしょう。ペテン師の特徴です。
 
書いて表現することの難しさを痛感している立場から見れば、楽山は、とんでもない悪意のピエロなのです。字面だけ書いて、世辞を返されるのが大好きな楽山です。したがって、広がりがないので、楽山の文章からは、意味も、感動も、共感も、生まれないのです。
 
愛は、おおざっぱには、共感より生まれる高等感情ですが、楽山が、それを、見せたことも、表したことも、説明したこともありません。言葉についての安易さだけが、楽山の書くものの特徴として表れてきました。まさに自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の特徴でしょう。
 
 
 【内部告発】HSUについて
 2020年09月12日 
 
 
自分自身を見ないで、人のことばかり言っている楽山。カルト批判どころではなく、楽山自身が、自己満カルトで、無神教カルトです。(記事の大部分、省略。)
 
 
傍から見ていれば、筋の通らない、おかしいことだらけだ。その時々で、自分に都合のよいことを言うだけで、自分の言葉の責任をとるつもりなんて無いのは丸わかりだ。
 
楽山の言こそ「傍から見ていれば、筋の通らない、おかしいことだらけ」であり、楽山こそ「その時々で、自分に都合のよいことを言うだけで、自分の言葉の責任をとるつもりなんて無い」ということです。自分が言われそうなことを、人に向けるのは、楽山の特徴です。作為なのです。
 
あるいは、楽山は、人を無視するし、自分を見ないので、自分の言葉が自分に返ってくるのが、分からないのでしょう。自己愛に凝り固まると、こうなるという見本のようです。こういう人にだけは、なりたくないものです。HSなどより、はるかに有害です。
 
(ネットより)
まる‐わかり【丸分(か)り】 の解説
対象となる事柄のすべてを理解できること。丸ごとわかること。
 
自覚というものがない人は、いつのまにか、相手を批判しているつもりのことが、ブーメランのように、自分に当てはまってしまうのです。このブーメランという言葉を、先に、使ったのは、楽山のほうです。にもかかわらず「丸わかりだ」と完全を誇るに至っては呆れてしまいます。
 
恐らく、同じことを言っても、自分を省みない楽山である前提を考えれば異常~邪悪としか言えない、ということが起こってくるでしょう。言うことが、大方、今までのキレイごとの発言と矛盾してくるから、嘘だと分かってしまうからです。
 
長い経過という文脈では、人のことを言う資格も器量もない楽山だから、無理してキレイごとを言っても、みな、嘘になります。既に、正体は、かなり悪魔的だとバレているので、何を言っても無駄なのです。楽山の言は、ことごとく、楽山の因業に過ぎません。信頼度はゼロです。
 
楽山は、すごい崩れ方を呈しています。楽山は、常識めいた書き方をしていますが、だまされないでください。彼の病巣は、もっと深いところにあります。獣性と偽善性と病原性を隠しての減らず口の記事3連発なのです。ゆえに、体質の異常と呼ぶしかないのです。
 
また、自らを見ずに、他を批判している楽山です。しぶといのではなく、無神経だから、平気で繰り返し書けるのです。嘘が分かりやすいカルトより、楽山が、いちばんの病原です。楽山発狂祖とでも呼ぶべきでしょうか。
 
楽山が、自身の有り様に気づくこともなく、何の努力もせず、真剣味もなく、正義の味方気取りで、正当な批判をしているつもりでいるのは、病質によって罪悪感がないためで、他のカルトより遥かに悪質だと思うから批判しています。楽山は、いつも、"つもり" だけの人です。
 
 
メモ的に:
 
楽山は、現実に悲劇が起こっていることをもって、神がいるならおかしいという言い方をしてきました。この時、楽山は、神よりも上に立って、こともあろうに、神を見下し評価し裁く態度なのです。楽山にとって、神は、自分の欲望と都合に合わせる召使でないと気が済まないのです。
 
信仰者は、現実に悲劇が起こっていて、その原因も理由もわからず、人間として、自分でどうしようもないゆえに、より大きな存在を寄る辺とするために、神を、信じ、仰ぎ、希望とするのです。そして、罪と悲しみを正直に告白して祈ります。
 
 
因業の独り言

因業の独り言
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月30日、再録+加筆)
 
 
 
 (偶像)
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛る戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
  光と恐怖
 
刃物の鋭さは光 凍結への熱
刃先へ走る一瞬すでに眼を切っている
それを際立たせる闇
闇の殺意は鋭い
迫る恐怖に震え立ちすくむ足
否応もなく急がせる
 
光の殺意の鈍さは
ときにショーウィンドウの内と外
写真と人形を眺める恐れの傍観にも似る
 
恐怖は闇によって増幅される
それゆえ光によって鈍くなる
見えない周りに見てしまう
見える周りに見逃してしまう
 
刃物の眼は昼の光の最中(さなか)
いかにして開かれようか
 
泣いたり笑ったり怒ったり
表情をなくしたり借りてきたり
いかにして光の恐さを知りえようか
殺意と恐怖
熱と冷血
鋭さと鈍さ
光と闇
元々それ自体は眼に映らないものばかり
 
 
  偏頭痛
 
それはまさに
視野の中心から始まる
ふと見えにくいのに気づく
そのときはもう遅いのだ
ギラギラと光って
視界を遮る塊が
いびつな輪となって
ゆっくり広がるにつれて
突き刺すような痛みが
重く伸しかかる
青空は暗く傾き
地平線は割れ
散歩道は焦土と化し
くすぶり続ける煙が
あらゆる目的への歩みを
くびきのように抑え込む
口に含む薬の苦味
もう動けない
過ぎ去るのを待つしかない
そう過ぎ去るのだ
幾度となく忍びやかなる死の訪れは
まだ一度も殺意を成し遂げていない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、根拠もなく決めつけ、必然もなく言い張り、反省もなく思い込み、後悔もなく繰り返し、悔いることなく人を傷つけ、意味もなく笑い、冷血のうちに悦び、ブーメランの雑言を吐き、石のように不感不応で、何事も無かったかのように世辞を言い、それを、まともだと思っているパラノイア(偏執)です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これが信仰というものなんでしょう。
教祖が、ロシア上げ、ウクライナ下げをすれば、その通り信じ、それに反することはあらゆる屁理屈を用いてでも否定し、決して受け入れない。
>>引用ツイート
柴犬茶トラ
@qN2ka3mHe9xI1Cl
幸福の科学の信者はロシアの言うプロパガンダの投票数を信じ込んでいるようです。本当に呆れる・・・ twitter.com/JustBeBeliver/…
<<
2022年9月29日
 
本物も偽物も区別できない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、節操もなく書いています。「あらゆる屁理屈を用いてでも否定し」て来たのは、楽山その人です。無神経、無反省、無責任、不感不応の他者無視、なのに、インテリ気取りで書いてくる自己顕示欲の鬼畜です。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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  楽山の悪あがき2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
  (4)宗教および創造論批判
 2021年09月16日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山の著しい勘違い~妄想が続いています。楽山には、恥という感覚がないので、平気でいられるのです。人のことなど何も考えない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、楽山という人は、平気で投稿できるのでしょう。
 
 
*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみる。
*宗教と願望
不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、広まっていく。そしてこの願望本位の思考法というものは無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向を持つからである
 」
宗教とは何かといえば、結局のところ、願望充足のための手段ではなかろうか。たとえば、永遠の命が欲しい人は永遠の命を果実とする宗教を信じ、上昇志向が強い人は霊格向上を説く宗教を信じ、人類救済のために働きたい人は人類救済を説く宗教を信じ、霊能力に憧れる人は霊能力を獲得する方法を説く宗教を信じるといった具合である。
 
願望充足の手段と言えば否定しやすいだろうという楽山の陰気な顔貌~願望~欲望が表れています。深いところが見えない楽山です。救いとは、悔い改め、罪のゆるし、祈り、絶対孤独からの解放、など考えることが多いのですが、楽山は自分のイドのレベルに合わせて単純な願望充足だと決めつけます。
 
信仰によって、楽山が言うような願望が、はたして充足されるでしょうか。楽山が言っているのはご利益宗教です。それは、折々の願いの動機にはなって、人生を支える救いにはならないのです。楽山は、どこまでも、宗教、特にキリスト教を安っぽく語ってくる知恵足らずなのです。
 
低次元の思い込みで、願望や欲望の充足と受け取ってしまうと、空想による気休めか、空想そのものによる陶酔感になってしまいます。それを、日々、書くことでやっているのが、楽山です。病質によって、実のあることを何も受け取れないために起こることです。
 
 
だから宗教によって知ることができるのは、神のことではなく、真理でもなく、人々はどのような願望を持っているかということになる。宗教とはこの世を超えた大切なことを教えるものというより、人の心の奥に潜んでいる欲望を集積したものだということ。
 
だから宗教によって知ることが出来るのは、救いであって、願望や欲望の充足や仮想の充足が目的ではないのです。そういうことを、楽山は、全く考慮しないか、できないために、決めつけて文句を言ってきます。その結果、言うことの次元が、どんどん低くなり、原始的に、かつ、乱暴になっています。
 
欲望の集積というのは、宗教ではなく、楽山の自我なのです。宗教を貶したつもりで、ブーメランとして、楽山が楽山を表しています。なにせ、楽山には、他には何もないのですから。理性もなく、感性もなく、節操もなく、人と宗教を貶めることに集中して、自分を貶めて、破壊しつつあるのです。
 
 
宗教が平和でなく、争いをもたらすことが多い遠因は、この辺りのことと関連がありそうに思う。
 
ここで、詭弁屋の楽山らしく、宗教を争いの元だという印象操作をしてきます。楽山は、こういう、すり替えか刷り込みしか出来ないことで、既に低次元がバレていることに気づかないのです。短絡や詭弁が、日常語になっているようです。
 
争いをもたらしているのは、楽山のようなサイコパスが宗教に関わることから起こってきます。自己愛の病質のために、教祖願望があり、それこそ、神と同値になりたくて、神を対象物のように扱い、語り、自らの惨めさの代償としています。
 
そして、傲慢不遜となって、自分を絶対正義、他者を不全という決めつけで、上から見下ろして、愚にもつかぬ嘘と詭弁で、人々を操ろうとするのです。その醜い欲望を、丁寧語で糊塗して、印象を刷り込んでくるのが楽山です。決して関わってはいけません。
 
 
*トンデモ批判
私は何か特定の神あるいは神々を批判しているのではない。私はすべての神、そして、いつどこで考案されたもの、あるいは今後されるものであろうとも、あらゆる超自然的なものを批判しているのだ。
 」
この徹底ぶりは、いかにもドーキンスらしい。自分にはとても真似できない姿勢である。
超自然的なものを求めるのは人の性であろうし、この性向は人が人である限り、決して無くならないだろうけれども、それだけにドーキンスの言葉によって迷信や妄想の惑わしから目が覚める人も生まれ続けるだろうな。
 
まず、信仰は、超自然ではありません。一部の、自己顕示欲の強い妄想家が、超常話を豪語するかもしれませんが、信仰は、現実をどう生きるかという問題に、人間理解と共感によって、思いやりの温もりを与え、静かに反省する潤いを与えて、人生を支えるものです。
 
信仰は、楽山のような心の醜い者が悪さをするような生きにくい現実世界にあっても、勇気をもって生きるためにあります。超自然的なものを求める欲望の典型は、楽山です。ずっと、空想の超常に生きて、現実に生きていないのも、楽山です。
 
あらゆる超自然的なものに反感を覚えるなら、著者は、楽山を凶悪な敵として、ボロクソに言ってもおかしくないでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山は、ネットでの引用は、バレにくいということを好きなだけ悪用して、自我を満足させて、実は、人類の敵になりつつあるのです。
 
超自然的な力、即ち、超常を、何よりも大好きなのが、楽山です。だから、宗教と信仰についても、超常の空想からのストーリーや屁理屈しか言えず、心のテーマと問題を全く扱えません。空想を書いて排泄してくるだけなのです。どこまでも不潔な下水道にしかならない楽山です。
 
 
*正義と宗教
彼ら(テロリストたち)は悪によって突き動かされているわけではない…彼らは…自分たちが正義であり彼らの宗教が語りかけることを忠実に追究しているのだと感じることによって、突き動かされているのである。彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである
 」
正義と宗教が結びついた場合、どのような悲劇が起きうるかは、多くの人々が承知していることではある。にも関わらず、この悲劇はなかなかなくならないのだからたまらない。
 
楽山のように、最初から、悪意をもって、宗教と信仰を悲劇の原因とだけみている者は、救われないばかりか、他者のための救いに至る道を閉ざして、悲劇を助長していると言えるでしょう。神の敵、そして、下種の極みらしい発言が明らかになってきました。
 
義人はいないのです。信仰は、正義を得るのではなく、正義ではない不完全を自覚して生きる道です。捏造した妄想と嘘と詭弁を弄して、宗教と信仰をディスっている楽山こそ、救いがたい悲劇の種となります。つまり、楽山は、決して、放置しておいてよい存在ではないことを、自ら証明しています。
 
宗教と信仰の悪い例をもって、全体を否定する楽山の詭弁には、無神教カルトの教祖願望が潜んでいます。楽山がもたらすのは、救いではなく、疲労と徒労と人格破壊です。粘液のような悪意が、蛇のように首に巻き付いてくるので、決して近づかないでください。
 
 
*無知と教育
あなたが若い地球説の信仰者なら、あなたはバカなのじゃなくてただ無知なだけかもしれない。幸い、無知は治癒可能だ。科学本を読んでみると良い。
 」
ただ知らないだけなら学べば済むことであるが、学ぶことを拒否するのであればどうしようもない。
宗教には禁書を指定して信者の学びを妨害するところがあるし、信者は信者で自分は既に真理を知ったと思い込んでさらなる学びの意欲を持たない者がいるから残念だ。
 
無神教カルトの奴隷となっている楽山は、何も学んでいないし、理解していない人です。つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、学習することが出来ない人です。そのために訂正不能になって、日常的に、醜態を演じています。
 
楽山は、奇妙な化粧をして、学者気取りで、実は、学んだのじゃ、偉いのじゃ・・という三文芝居で、読者をだましてまで、自分を偉く偉く見せようとします。実際は、ゴミをまとって人間をやめているのです。おめいているだけの、精神暴走族、あるいは、ネットという路上の狂人でしかありません。
 
何も学ぼうとしない楽山の「知らないだけなら学べば済む」という気安い誘い文句に乗らないでください。無信仰カルトの発想に、単純に賛同して、都合のよい文献を漁って、引用して褒めまくっています。自分の発想も意見も理路も感性も、どこまでも、まとまったことのない楽山です。
 
 
*創造論と天動説
創造論者は現代における、太陽が地球を回ると信じていた天動説支持者と同等だ。しかし、天動説ですら、ある程度の証拠に基づいていた。少なくとも、地球と太陽が存在してることは分かってるからね。
 」
そう言われてみれば、たしかにその通りだ。
天動説は、地球や太陽が存在するという事実から出発しているが、創造論は存在するかどうか分からぬ神は存在すると仮定した上での話になっている。
 
「そう言われてみれば、たしかにその通りだ」・・こういう賛同を示すしかない楽山です。まるで、太鼓持ちです。「存在するかどうか分からぬ神」だからと、愛と共感の感受性のない楽山が、いくら否定しても、不細工なピエロの失敗芸にしかならないのです。みにくいです。
 
無神教カルトは、科学をひけらかします。しかし、宗教と信仰は、科学ではありません。精神世界の救いの話であり、つまり、心の救いなのです。それ以上のことについては、神にお任せすることです。だから、科学的事実を持ち出してきても、話は何も進んでいません。
 
「たしかにその通りだ」などという楽山の誘導に乗らないでください。構造が単純すぎるのです。天動説にも劣るという言い回しで、宗教は愚かだと決めつけています。この根拠の薄弱な決めつけこそ、愚かなのです。いわゆる都合の悪そうな言葉面をもって否定する詭弁です。
 
なお、創造論が、神についてなら、そのような論は成立しません。神は、人の論理などには乗らない御方として仰ぐべき絶対者であります。人には見えませんし聞こえません。聖書と思いを含めた人生の出来事を通して、その存在を暗示しますが、自己中人格には受け皿がないのです。
 
 
*万物の霊長?
大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーを出来損ないで見当違いの化け物とみなす一方で、自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。進化論者からみればそのようなことはありえない。一つの種を他の種より上に見る客観的根拠など存在しないのだ―ロバート・トリヴァース『利己的な遺伝子』の序文
 」
 
ここもそうですが、今までの著者の言い分は、昔からあるところの進化論と天地創造との論争のように思えます。しかし、科学でも、神学でも、神を語りつくすことは、決して出来ません。このことについて、どちらが真理であるかなどは、ひどい徒労であり、関わっている間、人生は無駄です。
 
宗教と信仰を、科学で否定できるという考えが、まず、幼稚な無理解であります。科学をどんなに追及しても、愛に到達することは出来ません。楽山は、何か、物質的なもので愛を測りたいのでしょうか。それこそ、ひどい詐欺になるでしょう。つまり、楽山は、感性の欠陥を白状しているに過ぎません。
 
 
自分は以前は、人と動物は全然別ものであると考え、両者を同列に論じるのはナンセンスだと思っていた。ただ進化論について自分になりに調べるうちに、人と動物は断絶しているのではなく、連続していると考えるようになってきている。
 
惑わされないでください。そう言えばそうだなどと思わないでください。進化論は仮説です。創造論は宗教からの解釈に過ぎません。楽山は、動物に近い人です。だから、謙虚さが皆無です。分からないと気が済まず、結論の出ないことまで、分かったふうに唾を飛ばします。
 
楽山は、進化のプロセスを知っているわけでもなく、勉強したわけでもなく、ヒトと動物の違いを学んでもいないのです。自己満足の材料を漁っているだけです。無神教カルトに賛同して、そのメンバーになりたいのでしょうか。自分がいちばん偉いと思っている、とても醜い人。
 
 
そしてその結果、他人の不道徳な言動に腹が立つことが減ってきた。その人がそのような生き方をしているのは必ずしも向上心に欠け、精神性が低いせいというわけではなく、幾世代もの長い年月を経てそういう風に進化してきたのであり、本人の意志だけでは変えようもないことであるから、横から苦情を言っても仕方がないと思うようになったのだ。
 
人間の成長と人生を、進化論で片づけようとしています。人間は、一人一人違います。人生も、一人一人違います。腹を立ててもしょうがないですが、楽山のような体質的な傲慢な無理解に対しては、当然、怒りも覚えます。早く退散してほしいと思います。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状として「精神性が低い」ため「向上心に欠け」ていることを、個人の意志では変えようもないと、自分で慰めています。しかし、この記事もそうですが、横から苦情ばかりを執拗に言ってくるのは、楽山その人です。次元の低い八つ当たりなのです。
 
「腹が立つことが減ってきた」・・嘘です。病質の結果として、あらゆる感受性が鈍くなってきたということです。ますます、酷いことになりつつあるのでしょう。楽山には根深い怨念があると思います。それは、しばしば、楽山が理解できなかった宗教と信仰に向かっているのです。
 
 
他の人の場合はどうかはわからないが、自分に関しては「人を裁くな」という宗教的な戒めを守るためには、人は動物とは根本から異なり、霊的に特別な存在だと信じるよりも、進化論的に考えた方がよいらしい。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 (マタイ7:1-3、新約聖書)
 
楽山の嫌がらせでしょうか。よくもまあ、「人を裁くな」を引用したものです。どういう曲解なんでしょう。この聖句は、動物は関係ありません。霊も関係ありません。進化論も関係ありません。良心だけが必要です。人を裁けば、自分がさばかれるという教えです。
 
楽山は、批判と混同する詭弁で、批判するなと言いたいのでしょうか。誰も批判しなかったら、楽山には都合が良いでしょう。しかし、それは、邪悪な自己中の罪を養うようなものです。裁きは、最終的には神に任されます。その成り行きでは、楽山は、批判される・・どころではなくなるでしょう。
 
つまり、人を裁けば、自分も同じように裁かれるということです。一般的には、人のことを言えたガラか・・という言い方もあります。まさに、楽山は、人格がメチャクチャなのに、人のことばかり言っています。楽山には、反省して、学習し、自分を修正する機能がないのです。
 
裁くのは、地上では裁判所、最終と天上では、神であります。しかし、楽山は、この分別さえ持っておらず、自分を裁くな、好きにさせろ、と言っているわけです。楽山は、自分が特別に悪質であることに、指摘されても気づかない人です。だから私は、楽山に読者が近づかないように、批判しています。
 
 
どこまでも寒い人

どこまでも寒い人
 
 
(2021年)
(2022年09月29日、再録+加筆)
 
 
 
  二人の背教者
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々はとまどった。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。
 
他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が、狼狽し、つまずいた。
 
裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。
 
しかしあなたは誰もが知るところで公然とそれを言って、神と信仰を否定した。
 
全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。
 
しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。あなたが彼らに会い説得し彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い、信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば自分の信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HS的には、悟りの高い人は、相応の実績を示し、世間からも評価されることになってたと思う。
ある意味、悟りの高低は客観的には語れぬが実証は可能ってことかな。
この点、Pさんはツイッター上では自画自賛はあれども、実績および評価に乏しく、悟りの高さは実証できてないですね 顔文字(ぐるぐる目の顔)
 
楽山は、悟りを、高低で表して、実証可能と言って、他者を批判しています。楽山が、悟りというものを、どう考えているかが、恐怖であります。何でも分かる超能力くらいの理解なのでしょうか。
 
悟りは、救いの表れです。偉くなることではありません。
 
楽山は、何か自力の境地のようなものを考えているようです。楽山は、今も、自力の達観のような悟りしか考えることができないようです。自分はどうなのかを、全く考えないで、他者の実績を測って評価し判定するとは、呆れます。
 
楽山は、本当に脱会したアンチなのでしょうか。大いに疑問です。しかも、自己正当化として、自画自賛が、いつも表れてきたのは、楽山であり、見せかけだけの学者気取りも、楽山において顕著なことであります。楽山こそ、何らかの教祖願望ではないかと思われます。
 
信仰において、悟りというなら、それは、人間の心に響くこととして与えられ、高い低いということはありません。救いは、正直な告白の祈りにおける癒しと安らぎであり、孤独からの解放であり、生きるときも、死するときも、救い主の同伴という信仰の恵みを受けることなのです。
 
自分を見ないで、人をあざ笑う楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自分は既に完成しているという妄想なので、それで、反省もせずに、せっせと愚にもつかぬ詭弁の文章を投稿してくるのです。いつも、言い方を変えても、自己中の慢心が表れる物言い・・実に醜いです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、引用が多く、しかも、言葉だけ、べた褒めして、なぞるように、へつらいます。自分の文章が書けず、いつも、都合のよさそうなものに、飛びつくこと、なびくことしか出来ません。独立した人格ではなく、どこまでも、孤立した病質なのです。書くことで明らかになってきたのに、気づかないのです。
 
 
 
風珍について:ヤフーQ&A
 
徴兵が来たら、露者の人は、素直に応じて、獣と弾丸を受け取ってください。そして、一人または複数で、何処を、誰を、狙うべきかを、じっくり考えてください。他国にはどうしようもありません。世界大戦~核戦争になる恐れがあると思います。風珍は、人格障害だと思います。
 
 
 
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