ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:詭弁と嘘

 
  イデオロギー2
 
 
ここでは、イデオロギーと題していますが、信条や教条など、思想が言葉や理屈で固定され、心の直感的共感を持たないものを意味しています。宗教にも、政治にも、あらゆる分野に深く関係する非人間的な固定・固着です。
 
(ネットより)
 
イデオロギー(独: Ideologie, 英: ideology)とは、観念の体系である。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。観念形態、思想形態とも呼ばれる。
 
通常は、政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。
 
世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における、哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては、階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。
 
 」引用終わり
 
 
イデオロギーは
心の面倒を見ません。
 
論理は
心の面倒を見ません。
 
言葉は
それだけでは
心の面倒を見ません。
 
だから
右も左もイデオロギーは
悲劇をもたらしてきました。
 
宗教も
言葉だけの
思想・信条・イデオロギーと化してしまえば
同様でしょう。
 
文字で固定されたものは
ときに
心を凝固させ変形させます。
 
言葉は
心を伝えるための
暗号に過ぎません。
 
聖書が神の言葉でも
読む私たちは人の言葉しか持っていません。
神の言葉だからと振り回す人は
心を失いつつあります。
 
人は人の言葉を絶対化してはいけません。
 
人は絶対ではないのだから
人は何も絶対化できないはずです。
 
思想、宗教、政治、総てにおいて
 
ときには
言葉によって表されたものが
心を解放することがあります。
 
そのとき
心は
様々な表現と
様々な伝え方を生み出すでしょう。
 
心が真理になったからではなく
心が目覚めてアクティブになるからです。
 
心の努力は
惜しむべきではないのです。
 
信仰は不変の平安の境地ではありません。
 
信仰は生きて学ぶ道です。
 
 
文字で表された言葉は、いつも、決して固定されない本質を暗示しています。
 
歌は、悲しいかな、ときに、心を伝え、動かして、流れ、去ってゆきます。
 
知情意が不可分であるように
思想と記憶と情感は不可分であります。
 
目を通して見せるものや
耳を通して聴かせるものは
心を動かし
記憶されることへの希望となります。
 
言葉が心を動かすのは
言葉によって表されたものを
心が受け取れた場合だけです。
 
心が動くのは
人間の心として受け取れるものだけです。
 
 
全知・全能・絶対・完全・永遠・不変、
これらは、人間の手には負えません。
神の性質を表していますが、人が神を理解するための言葉ではありません。
神に比べれば、はるかに不完全な人間自身に
限界があることを気づかせるための言葉です。
 
神の全知全能を人が理解することはなく
神の全知全能は人が自らの罪性を理解するために語られます。
 
人間が何を受け取れるかを考えるべきなのです。
 
勘違いしてはいけない。
神の全知全能という言葉は
人が全知全能そして神聖を得るためではなく
人が全知全能ではないことを知るために存在しています。
 
 
神の寛容は
悪や偽善をも赦すということではありません。
讃美の言葉なら、無難で正しいというわけでもありません。
神には正直以外通用しません。
 
神は
人に対して正しさや善を求めるのではなく、
神は
人の不完全と罪深さを知っておられるので、
御前に捧げられる祈りにおいて
精いっぱいの正直だけを求めておられ、
それだけをもって信仰の義とされる御方です。
 
神は、正直な告白の祈りを待っておられます。
 
祈りの言葉を間違えたら、また、祈ればよいのです。
それが、神の寛容と言われます。
 
 
神と人、共感と言葉、信仰と人の絶対、これらを同一のように語って、訂正不能に陥っているカルト的自己愛性パーソナリティ障害NPDがいます。
 
神と人の敵、楽山とシャロームを、十分に警戒して、近づかないようにしてください。
 
 
神と人、言葉と心

神と人、言葉と心
 
 
(2020年08月08日)
(2021年08月30日、再録+加筆)
 
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
(90年代か)
 
 
 
 「ブログ村騒動」発言集
 2021年08月29日 Comment(0) 楽山日記(LD)
 
 
今まで、楽山が、他者にかけてきた迷惑など、何とも思っていないのに、まとめたことにして、整理したことにして、ちゃんとやっているふうを見せないと、楽山は気が済まないのでしょうか。整えることを、いちばん、妨害してきたのは、楽山その人です。
 
*発言集まとめ
他所で、ひさしぶりにブログ村騒動の記事をまとめたので、ここにも保存しておこうと思う。
・「ブログ村騒動」発言集(ぽん吉論争)
・「ブログ村騒動」発言集(コウ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ガンレオ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピッポ論争)
・「ブログ村騒動」発言集(悪魔呼ばわり論争)
・「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
・「ブログ村騒動」発言集(外伝 破邪顕正)
・「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
・「ブログ村騒動」発言集(霊言論争)
・「ブログ村騒動」発言集(補選 中立的な意見)
・「ブログ村騒動」発言集(番外編 楽山論争)
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)ブログ村騒動とは何だったのか?
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)2【追記あり】
ちなみに、ブログ村騒動というのは、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内における信者同士の喧嘩のことである。これは数年に渡って断続的に続いた。主な参加者は、ガン、レオ、ぽん吉、ピア健、コウ(敬称略)などであり、ぽん吉、ピア健はこの騒動の途中で退会し、アンチHSとなったのだった。
 
ずらっとリンク(省略)が並んでいます。今まで書いてきた記事ですから、このように、楽山は、自分を責めることが出来ず、その分、それぞれの記事で、また、まとめて、ここで、他者を責めてくる人です。他者のHNを、並べて、さらし首でしょうか。
 
楽山が言いたいのは、"自分は悪くない、自分は悪くない、分析すればですね、あれが悪い、これが悪い"、などと自己中に言い続けて止まないということです。つまり、楽山という人は、どこまでも、他罰的で、共感性がなく、自分を省みない人なのです。
 
どうか、楽山と付き合わないでください。楽山と付き合って、何も、良いことはないと思います。そして、後になって、上の一覧と、それぞれの記事として、ネチネチと悪者にされてゆきます。この間、反省は、皆無です。これほど、非人間となるのは、自己愛性人格障害としか考えられません。
 
楽山に対するには、楽山の執拗さと同じように、逐一批判をもって、終わることのない批判を続けるしかないのです。楽山に対して、病んで、または、逃げて、黙り込む人にもならず、批判し続ける人にもならないためには、関わらないこと以外にはないのです。
 
楽山には、罪悪感がありません。もし、生存をかけて闘っていた戦国時代であれば、信頼への裏切りは決して許されることはなく、はりつけ、やりぶすま、八つ裂き、さらし首、火あぶり、それ以上となったでしょう。今の時代に、個人は、批判と非難を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山の「反省、とほほ」は、"無反省、えへへ" だと思ってください。楽山は、臆病だから恐慌状態にはなっても、しんみり悲しむことも泣くことも出来ない人です。嘘と詭弁で世渡りして、言ってくることに、真実の欠片もない人格の形骸です。
 
ドラマなどで、ときに出てくるサイコパス(精神病質)というのは、反社会性人格障害の旧名です。罪悪感がなく犯罪性が高い人格障害です。サイコパスは、自己中で自己愛性なので、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害は、近縁の人格障害です。
 
楽山のような病質者は、逃げられない状況で説教をされると、頷くかもしれません。しかし、説教が終わると、さーっと立ち去って、また同じ悪さを、さっさと続ける、平気で繰り返す、という具合に、訂正不能の無反省を基調とします。
 
恐らく、表情は基本的には乏しく、感情は、根深い怒り憎しみと嘲笑いで、本当の思いやりの温もりと悲しみの涙という潤いが、欠落しているのだろうと思います。
 
つまり、感情に深みがありません。だから、反省、共感、理解、よく分かった、読んだ、などの、言葉だけの表面的な言い方を多用し、とほほ、かなあ、と言えなくもない、などと、曖昧にして、断定していないと、後で問われる責任を逃れているつもりです。
 
味も素っ気もなく生きていて、我執の自己顕示欲で出しゃばって言って、他者のことを書きながら、他者に関心はなく、他者を全く必要とせず、ただ、自己を受け入れさせようと芝居をするのが、自己愛性病質者の症状であり、目的であり、非人間性の生き甲斐です。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·3時間
私もそんな感じに考えてます。
信者は、現実の教祖というより、自分好みに理想化した教祖像を信じている
この両者の差異に気づき、理想像を維持できなくなったときは、教祖に失望し、信仰の危機となる…と。
午後7:00 · 2021年8月29日
 
楽山は、キリスト教と信仰についても、信じ過ぎてはいけない・・など、似たような決めつけをしてくる反キリストです。楽山は、自分の言うことはバランスが取れていて適切だと思い込んで訂正不能の妄想となっていることから、楽山には、教祖になりたい願望があるように思われます。
 
楽山は、人を操りたいのです。しかし、言うことは、ことごとく、嘘と詭弁であり、印象操作であり、刷り込みであり、誘導であります。そういう楽山の言から、私は、楽山が自己愛性人格障害であることを何度も書いてきましたが、楽山は、反論も弁明も出来ていません。
 
 
 
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  楽山メモのあとさき
 
 『青春詩集 愛のあとさき』大川隆法著
 2021年07月18日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
こういうのに、感想を書いて見せてくる理由が、よく分かりません。HS批判にはなっていないようです。楽山がアンチHSというのも疑わしいということでしょう。楽山は、自分は詩が苦手ですと言っているようなものです。なのに書いてくるのです。
 
*感想
『愛のあとさき』をざっと見たので感想をメモしてみたい。
 
メモと言いながら、いつも、何かを狙って記事もツイッターも書く楽山です。メモだから責任負わないと言っているのでしょうか。ここでは、詩が分かるんですアピールなのでしょうか。でも、詩は、一つも引用されていないのは、批評できないからでしょう。
 
本書の中でもっともよいと感じたのは、水晶のようにという作品だった。
前半は孤独な若者の詩、後半はスピリチュアルにハマった若者の詩といった雰囲気である。
 
いや、やはり、霊を絡ませてきました。ORの詩です。それにしても、中身の詩が一つも引用されていないし、楽山の、いい加減な言葉で、感想みたいな、まとまらない内容で、書いて、訴えてくるものが何もない、という変な記事です。
 
全体的に自己愛、自意識過剰、ナルシズム臭が強い。たとえていえば、役になりきっている舞台役者というより、役を演じる自分に酔っている舞台役者という感じ。
 
そのまま、楽山のことです。人のことを言えば、気が済むのでしょうか。
「自己愛」「自意識過剰」「ナルシズム臭」・・楽山に、いつも感じることです。
「演じる自分に酔っている舞台役者」・・楽山の三文芝居と符合します。
 
自己愛性パーソナリティ障害の楽山は、このようにして、他者を下に見て、批評することで、誰とも本当の人間関係を気づけない欲求不満を解消しているのでしょうか。自分が上だと言いたいのでしょうか。そのとばっちりのように、他者の良心を傷つけてきたのです。
 
オノマトペがやたらと目につく。
性愛に関する表現が多い。女性の描き方は、青年らしく女性を理想化してその聖性を賛美するというよりは、処女がどうとか、胸のふくらみがどうとか性愛がらみが多い。
 
なぜ、こんなことを書くのでしょう。対象をおとしめるためかもしれませんが、楽山が、この2年余りの間に書いたものには、性愛の話は、殆ど、なかったような気がします。対象が、つまらないことを書いていると言いたいのでしょうか。
 
預言者と神のちがいについて触れた最後の詩は、説明調になっており、詩というより説法のようだ。
巻末に掲載されている著者の商社マン時代の文章は、「幸福になれない症候群」など初期の文章と同じ文体に思えた。文章としては、最近の講演録よりは、こちらの方が上等だろう。
 
「幸福になれない症候群」というのは、ORの本にあるようですが、楽山に当てはまると思います。無反省で無責任で嘘吐きならば、まともな人間関係は気づけないからです。楽山は、自身をアンチと言いながら、上等と褒めているようです。
 
HS本の表紙はすきになれないものが多いが、本書はよいと思う。ただこの表紙は男性著者よりは女性著者の方が合っているのではなかろうか。
以上、本書を読みながら思ったことは大体こんなところである。
*「デザート」と「イチゴの日」
余談ながら、ツイッター上にて、本書の「デザート」は、筒井康隆の「イチゴの日」(『薬菜飯店』収録)と似ているという指摘があったので確認してみたら、本当にその通りだった。
ただし、「イチゴの日」の初出は、『小説すばる(昭和62年冬号)』だったらしい。
「デザート」は、1956年生まれの大川隆法28歳のときに発表(昭和59年)したのであれば、「イチゴの日」よりこちらが先だろう。
筒井康隆が一商社マンの自費出版本を読んだとも思えぬし、とすれば両作品に似たところがあるのは偶然ということのようである。
 
誰をも守ろうとしない楽山が、ORを擁護しているようです。そうでなければ書く必要のないことでしょう。そもそも、この記事自体を書く必要がどこにあったのでしょうか。また、自己顕示欲で、見栄を張っているのでしょうか。
 
以前、楽山は詩のようなものを書いて載せていたことがあります。お世辞にも上手とは言えませんでした。楽山に詩の感想は無理だと思います。あとさき考えないで、書けば、よく思われるとでも思っているのでしょうか。
 
「メモしてみたい」というメモを、なぜ、公開して、人に見せようとするのでしょう。独り言でも自分のは価値があると言いたいのでしょうか。公開すれば、自分は詩は書けません、読めません、と言っているようなものです。
 
自己顕示欲が表れている以外、内容の薄い記事でした。他者のことを批評すること自体に、何やら、興味があるようですが、大方、何らかの欲求不満があるのではないかと思います。感想を書く目的と必然と動機が、とても曖昧です。ボンヤリ感想文とでも言うべきでしょうか。
 
批評でも批判でもなく、メモというのは、今まで、書いて自己顕示してきたから、書けないことを認めたくないのかもしれません。その割に、ずっと、理路も共感もないメモ的な文章を、学者や有名人の名前を出して、書いてくるのは、論評している気分に浸りたいのでしょうか。
 
 
詩の感想に詩が載っていない

詩の感想に詩が載っていない
 
 
(2021年07月20日)
 
 
 
  バザー
 
一人目は
粘液の滴(したた)る
目の粗い袋を持ってきた
ホームレスの
今は亡き人の形見だという
二人目は
汚れたハンカチを
行方知れずの
鬱(うつ)病者の残した物だと
三人目は
机に向かったまま頓死した詩人の
曲がって途切れた線
しか書かれていない原稿用紙を
四人目は
描きかけて破いた絵の切れ端を
五人目は
レンズの割れた眼鏡を
六人目は
底の抜けた柄杓(ひしゃく)を
七人目は・・・
 
バザーは日曜日に催された
セーターや上着
家具に調度品
その他いろいろ
晴れたこともあって
花が咲いたように
家族連れで賑(にぎ)わったという
 
(90~2000年代か)
 
 
むかし思いついた替え歌の一部。
 
 ササエさん
 
おサカナくわえて街まで
出かけたが
ハダシでかけてく
陽気なササエさん
みんなが笑ってる
お日様も笑ってる
ルールルールル
今日も能天気
 
(さすがにハダカとは書けなかった)
 
 
 私の学生時代
 
ツタの絡まる校舎で
おんなじように絡まっていた
夢多かりしあの頃の
思い出をたどれば
懐かしい友の顔や
あんまり懐かしくない顔が浮かぶ
重いカバンを抱えて通ったあの道
夏の日の図書館の
ノートとインクとヨダレ
過ぎし日よ私の学生時代
 
 
(90~2000年代か。もちろんフィクションです)
 
 
  解脱
 
解脱という言葉がある。
仏教用語である。詳しいことは知らない。
辞書を引くと煩悩を超越して安らかな境地に至ること、とある。
単純にそういう意味として考えてみる。
 
ペテロやパウロを始め使徒・聖徒と呼ばれる人たちも
ひょっとしたら似たような境地にあったかもしれない。
彼らは伝道に生き、欲に生きなかった。
しかし欲が無かったわけではないだろう。
まして死ぬのはやっぱり怖かっただろう。
それでも殉教の覚悟で主の道を彼らが歩んだのは
主イエス・キリストの愛と縁が彼らの恐れに勝ったからであって
それは極めて人間的な反応であったと思われる。
 
彼らは自らの力で自分を越えたのではない。
彼らは自分の裏切りと罪をしばしば思い出した。
そして自分の無力を誰よりも知っていたはずである。
 
全てを悟っているという者に何を告げる唇があろうか
全てを知っているという者に何を聞く耳があろうか
また全てを悟り知っていると言う者が何を教え得るというのか
全てを知っている者がどうして自分以上のものを作り出せ得ようか
自分以下のものを作るのなら全てを知っている必要はあるまい
人の知恵にすぐれていればできることであろう
 
不全なる人に完全を教えても無駄であろう
教えて全てを知るようになるのなら
どうしてこの世に人が住めようか
もはや何も迷うこともない代わりに
もはや何も考えることもないではないか
 
何故に人は人であるのか
しばしば間違えたり
誘惑に負けて
赤子のように神様に試されてひっくり返り
こぶだらけ、傷だらけの者たちを
神に愛された人と呼ぶ
 
全てを悟り知っている者がいたとしたら
ただそのことだけで満足して
誰にも会わず誰にも語らずにいるであろう
これは煩悩よりも苦悩と罪に満ちた無為であり無である。
何故にこのようなことを私は言うのか
私の中にしばしば
いかがわしい解脱者・超越者への欲を見るからである
 
 
(90年代か)
 
 
 
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