ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:詭弁

 
  楽山の現実逃避
 
 『死は存在しない 
  最先端量子科学が示す新たな仮説』田坂広志著
 2023年01月21日 楽山日記
   を批判。
 
多くの嘘を吐き、多くの妄想をさらけ出し、多くの詭弁を弄して、人を騙すことしかできない楽山は、ほとんど衝動的に、無条件で、無理解でも、科学の名が付いた説に飛びついています。なおも自分は難しいことが分かると言いたいのでしょう。しかし、これも人格崩壊への症状なのです。
 
 
*死は存在しない?
とある筋から本書のことを知り、興味を持ったので一読してみた。どうやら著者の主張は、次のようなものであるらしい。
 
「とある筋」とは何でしょう。自分は重要な秘密結社にでも属していると言いたいのでしょうか。楽山の現実感覚が精神病理として、さらなる嘘と妄想に飛んでゆくような記事になっています。およそ、一般には、ましてや、楽山などには、理解できそうにもない次元の学説?を語り始めました。
 
楽山が「死は存在しない」ということに飛びつく心理~精神病理は、恐らく現実逃避だと思います。追い詰められて、何を考える知性もなく何を感じ取る感性もない者が、飛びつくのは、何にもしなくてもすべてが解決するような身勝手な夢の世界なのです。むしろ、このことから楽山の救いがたさが表れてきます。
 
 
この世界には、ゼロ・ポイント・フィールド(深層世界)というものがあり、そこには人々の経験や思いが全て記録されている。人が死にその肉体は滅んだとしても、このゼロ・ポイント・フィールドに記録されている当人の経験や思いは失われないので、この意味で人に死は存在しないことになる。
 
「ゼロ・ポイント・フィールド」(Zero Point Field)とは、端的に言えば、この宇宙のすべての場所に偏在するエネルギー場のことであるが、この場に、宇宙の過去、現在、未来のすべての情報が記録されているという仮説である。
(そしてそれは)「波動」として「ホログラム的な構造」で記録されているという仮説が、現在、注目されているのである。
引用:参考書籍 田坂広志「運気を磨く〜心を浄化する三つの技法〜」
 」
 
書いてある用語に、納得できる根拠と説明がありません。楽山には、さらに人間としての根拠がありません。唐突に記事に書いてきたのは、恐らく、少年少女趣味と同じような、あるいは囚人の赦免妄想のような、現実逃避規制によって、犯罪者の本能として、衝動的に飛びついているのでしょう。
 
 
ただしゼロ・ポイント・フィールドは単なる記録保管所ではなく、一つの意識体であるから、そこに保存されているのは記録というよりは、記憶であり、刻々と変化して行くものである。だからゼロ・ポイント・フィールドに遺された死者の思いは、固定的なものではなく、少しずつ変化して行き、次第にエゴを失い、やがてはゼロ・ポイント・フィールドの意識と同化することになる云々。
 
「単なる記録保管所ではなく、一つの意識体」・・だからなんだというのでしょう。理解に結びつく何かの実証があるのでしょうか。どこかにある記憶の話をして、具体性がどこにあるのでしょう。「ゼロ・ポイント・フィールドの意識と同化」して、何が現実に起こるのでしょう。
 
楽山が、様々なHNを使って人を騙し誘導するように、楽山の欲望が成就するとでも言うのでしょうか。もはや、何の具体性もないものに楽山はすがりつきたいのでしょうか。まるで思春期の憧れのように、楽山が憧れる対象は、ほぼ全部、遠すぎて届かず、楽山は、話す方法さえ分からない世界に逃げています。
 
 
これはあくまで自分の読解であるから、不正確なところもあるかもしれないのだが、自分としては著者の意見を大体このように理解しつつ、人の意識のコピーは残るが、オリジナルは滅びるというのでは仕方がないというさみしい心持ちがした次第である。
 
「不正確」と言いながら「理解しつつ」と見栄を貼っています。「意識のコピー」が分かるというのでしょうか。楽山の空想非科学妄想全開です。科学の「か」の字も理解していない楽山が、何をもって「さみしい」と書いているのでしょう。書けば、必ず自己顕示欲だけが表れる楽山の因業であります。
 
 
しかしおそらくはこういった感慨は自我にとらわれているが故なのだろうし、ゼロ・ポイント・フィールドの記録をコピーとするのは間違いで、それに同化しない部分こそ偽物の自分だと考えるべきなのだろう。
 
「自我にとらわれている」楽山の、自我は欲望に囚われて、真善美からは遠ざかるばかりであるのに、またしても、小便臭い理想か空想を飲み込んで、妄想に酔っている楽山です。はっきり言って、楽山には本物はありません。今までも、これからも、楽山のハリボテのような、人間性の偽物だけなのです。
 
 
*不思議な出来事
また著者は、さまざまな不思議な出来事についても、このゼロ・ポイント・フィールドによって説明している。たとえば、予知などは、人の意識がさまざまな情報を集積しているゼロ・ポイント・フィールドと同通することでおきるだとか、故人の霊と会うというのは、ゼロ・ポイント・フィールドに保存されている故人の記録を合成したものと会うことであるとか、心霊スポットとはゼロ・ポイント・フィールドと同通しやすい特定の場所なのだろうなど。
 
全部、空想の辻褄合わせに過ぎません。楽山の精神世界は、結局、このような、科学に見せかけた夢幻の世界なのです。それを、分かったかのように現実世界の他者に投げつけるのは止めてほしいですが、夢見る楽山は、せっせと、それを、涎(よだれ)のように垂れ流してゆくのでしょう。
 
 
こういう説明を読むと、ゼロ・ポイント・フィールド仮説を用いれば、大概の神秘現象は説明できてしまいそうだからおもしろい。
 
つまり仮説なのです。実証しようもない。しかし、楽山においてだけは妄想化して、楽山にとってだけ現実との区別がつかなくなってゆくのでしょう。証明できないものによって「神秘現象」を説明できるという矛盾に至って、今度は、楽山が流涎するのでしょう。どこまでも神秘になりたがる楽山です。
 
 
*疑似科学?
個人的な感想としては、本書は疑似科学系のスピリチュアル本であるように思う。自分は最先端科学については何も知らないので、本書に書かれていることについて、科学的な観点から、あれこれ論評する能力はなく、これはあくまで自分がそのように感じたということにすぎないのだけれど…。
 
科学も疑似科学も理解できないのに、今回のように、悦んでいるのは、我欲の本能が感じていることにだけ従ってきた楽山の生き方そのものではないかと思います。独りでならまだしも、それをブログに書いて、人を惑わせようとするのは、まさに、今までと同じ、楽山の我執の妄想人生に他なりません。
 
 
ただそれはそれとして、著者の提唱するゼロ・ポイント・フィールド仮説は実にユニークであるのは間違いない。他の書籍も読み、著者の世界観をもっと知りたいと思う。
 
どうして楽山は「論評する能力はなく」と言いながら、「ユニークであるのは間違いない」などと言えるのでしょう。楽山の言は、書くたびに、矛盾し続けます。そしてまた欲と悪に飲まれ飲まれて、人をバカにする詭弁に至るでしょう。悲惨な楽山の病質的因業が、また害虫のように湧いています。
 
 
架空にすがりつく者

架空にすがりつく者
 
 
(2023年01月22日)
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
自分は今正常ではないのでは?常識的な判断ができてないのでは?と思える人は、メンタルが不調でも理性が残っている人。これが「自分は絶対に正しい、間違っているのはアイツ、社会」などとなり、何事も他責で考えるようになったら、理性を失っているか、元々理性的な判断ができない人だと思っていい。
 」
午前9:43 · 2023年1月21日
 
また、楽山のブーメランです。楽山は常識的判断が出来ているつもりの病質者で、不祥事を、全部、人のせいにしてきました。つまり、実際は、理性的な判断が、まるで出来ないのです。しかも、その自覚が全くありません。だから、こういうリツイートをしてきます。ブーメランの繰り返しです。
 
楽山は、対立する人に、指摘するつもりで、書いたり、リツイートしたりしますが、そこに、自分について省みるという機能を持っていないために、リツイートが、そのまま、自分に向かってくるのを感知できないでいます。こういう姿勢と結果は、楽山の常態なのです。だから病質なのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害のために、こういう姿勢しか持っていない楽山は、決して自分の非を認めず、自己主張を続けてきます。相手を責めて、疲労ばかりを与えてゆくのです。悪いことを、他者にだけ当てはめる楽山は、反省せず学習せず進歩しないので、誰にとっても迷惑な存在です。
 
4年くらい前にコメントの遣り取りをしたことがあります。楽山の言に反対意見を述べても、楽山は同じことを書いてくるか、話を逸らして、こちらを責めてくるだけです。つまり、議論をしても、全く、先に進みません。何の進展もない相手なので、議論から排除するしかないのです。
 
楽山は、自己満悦感だけに生きています。自分を肯定する人には、歯の浮くような世辞さえ言います。自分を肯定しない人には、相手が疲労して去るまで雑言ばかり当ててきます。百害あって一利ない人です。全否定するしかない人が現にいます。楽山には決して近づかないでください。
 
 
 
  蝋燭の日
 
学生の頃を思い出す
方程式は解けても
お金を出し合って買い物をしたとき
貸し借りや
お釣りの計算ができなくて誤解された
 
数学はできても算数はできない
それは今でも変わらず
暗算は苦手で
お釣りを確認しない
 
そういう人間が大学を出て
先生と呼ばれ小金持ちになった
夢があり希望があって
それは叶えられたのだ
 
それはマッチの火 蝋燭(ろうそく)の日
一人で持てる
少しばかりの贅沢を味わっている
 
あれが一つの伏線だったかと
学生の頃を思い出す
 
越えられなかった壁
直せなかった欠点を
数え上げれば切りがない
 
だとしても
すべては私の選択だった
 
選んだものの中に身を置いて
人間よりも機械に近しいかのようで
生産が受け身に代わり
欲望がだんだん下等になり
展望が鼻先のニンジンに変わり
同じ動作の反復が増えていく
 
だとしても
すべては私だ
まだ私だ
裁かれるように裁かれる
救われるように救われる
居るように居ない
古びた日記のせいにはしない
悪夢があり絶望があって
それは叶えられるだろう
だからマッチの火 蝋燭の日
一人で持てる
少しばかりの貧乏を味わっている
 
 
  夢より勝手に
 
まだ生きてたの
と言うのだ
かつての好ましからざる同僚が
まるで家畜を見るような目で
悪し様に言うのだ
もちろん夢の話だ おぞましい悪夢だ
いったいどんな思惑(しわく)が見させたのか
 
室温十四度の部屋で
汗をかいて目が覚めた
朝だ 夜は眠れたということだ
しかも晴れだ
何と裏腹な・・・こんな目覚め方
窓もドアも開けていないのに
蠅が一匹部屋の中を飛んでいる
 
まともなパターンの睡眠
悪夢のうちに取れましたと
日記に書いて落ち込んで
またベッドに入って
ふて寝して一日を過ごすか
 
嫌だな 夢にまで負けるなんて
気晴らしに出かけたからといって
どうなるものでもないが
二十日間ずっと眠っていたオートバイ
タンクの汚れをざっと拭(ぬぐ)って
起こして 逃げるとしよ
 
まとわりつく夢を振り切って
かつて衝突して骨折した防波堤のある
海沿いの道へ 晴れた春の海が
待っているということはないのだが
それで我が身の汚れが
拭えるわけでもないのだが
 
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
人間性から大きく逸脱して、無反省と無責任の無視の虫の道を進めると思っている楽山です。また新しくペテンの材料を見つけたようです。リーダー願望でしょうか。人を無視する楽山を無視してください。楽山の自己中の道は、道ではなく、地獄への通過点に過ぎません。羞恥心を持たない囚人の道です。
 
 
 
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  楽山の遠吠え2
 
 信仰観は人それぞれ(st氏と楽山の場合)
 2022年01月05日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
告白と反省: 楽山のウイルス攻撃と言ってきましたが、直接の原因は、ワイヤレスキーボードの電池をプラスマイナスを逆に入れたことだった可能性が濃厚となりました。申し訳ありませんでした。そういう入れ違いの状態でも、不完全ながら一定期間キーボートが作動していたのが不思議です。
 
楽山という人物についてですが、約4年の間、批判しています。いつか、何か、やらかしてくるだろうという思いがあったため、先入観が働いたのだろうと思います。それに、下記のように、変なポップアップが出てくるということもありました。思えば、すごい年明けを迎えたものです。
 
 
1月1日の記事より:
 
昨日スクショした荒らしのウイルスによる広告は、今も並んでいます。×印を押すと順繰りに別のが並んできます。画面表示および作業を邪魔しています。こういうことをする者は、良心も思いやりもないサイコパスでしょう。楽山の特徴に合致します。楽山が、仲間に頼んでやっている可能性があります。
 
マカフィーとセブンイレブンの広告が、同じポップアップで出るでしょうか。sossiotron.com と書いてあります。誰なんでしょう。広告をどうしても削除できません。消すと、また大きな広告が出てきます。いずれにしても、楽山が関わっている可能性が大です。偽計業務妨害に当たるでしょうか。
 
人の迷惑など全く気にしないで衝動的に凶行に及ぶわけですから、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の病的ナルシストは、サイコパスへ、そして、いよいよ犯罪者に成り下がってきたのでしょう。犯罪者楽山の可能性が大です。人間の成長と尊厳とは逆の経過です。
 
 」
 
 
その日のコメント欄:
 
1.
とある場所に書き込みした後、大晦日からsossiotron.comとセブンイレブン
でてきました。
画面右下の吹きだしをクリックして右上の「通知の管理」を
クリックしたら「通知とアクション」のウインドウが表示されますので
下のほうの「送信元ごとの通知の受信設定」のsossiotron.comの
ボタンをオンからオフにしてみてください。
謹賀新年2023-01-01 12:53:27
 
2.
>謹賀新年さん
謹賀新年さんへ。なぜ、HNを隠すのでしょう。
記事をアップしてから、何を押したのか覚えていませんが、消すことが出来ました。恐らく、コメントにあるようなことをしたのでしょう。
あなたは sossiotron.comさんですが。楽山ですか。それ以外の人ですが。楽山を知っていますか。
このようないたずらは違法です。あなたがなさったのなら、二度としないでください。
st5402jp2023-01-01 14:11:25
 
 」
 
謹賀新年さんは、楽山かもしれないと、今も疑っています。
 
 
 
記事の本題に入ります。
 
 
人それぞれ・・前にも楽山は書いたことがありますが、サイコパスでネット犯罪者の楽山が、自己中の正当化に使った言葉です。大人でなければ、成り立たないことを、楽山は、人を傷つける自分の自己正当化に悪用しています。楽山は、何か、悪口をたくさん書いて、私を疲れさせたいようです。
 
愚かな間違いと無理解と詭弁と嘘が、ちりばめられています。楽山の知能そのものが低下してきたのでしょうか。書いていることの次元が、地獄に落ちてゆくようです。決して、巻き込まれないようにしてください。楽山は、病質の定めのように、良心の欠片もないことを、自ら表してゆくのです。
 
楽山は、自分が言われそうなことを、相手にぶつけてきます。この記事でも、しばしば見られることです。恐らく、楽山の処世術なのでしょう。つまり、きわめて次元の低いところで、楽山は、黒く黒く世渡りをして、とても醜いインテリ評論家?の面(つら)だけを向けてきます。毎度、吐き気します。
 
 
*st氏の信仰観
st氏のツイッターを見たら信仰について書いてあったので、ここに保存し、個人的な感想も書いてみたい。
 
ということで、私の記事を引用するのですが、引用だけのようです。
 
 
 私の意見の引用
 
人の人格や尊厳をおとしめる発言を公開した場合は、「個人的な感想」では済まないことさえ、楽山は、自覚できない哀れな病質者なのです。
 
信仰は、論理や事実によるのではなく、キリストを好きになることであり、神とキリストを矛盾なく正しいと証明することではありません。信仰以外に、人間として生きるために必要な、心に響く言葉を提示できないなら黙っているべきです。
 
聖書からは、絶望を希望に変えるような、心を生かす言葉を見つけて共感することであります。それは聖書がなければありえなかったこととして記憶され、聖書と、生きることの間を、何度も往復する動機となります。
 
信仰は、聖書の一つの言葉で生まれることもあり、人によっても、状況によっても、違うことがあり、それは、教理や理屈を大きく超えて、救いと癒しというテーマに関わることです。だから、その経験のない人が、通念的な理屈で語る神は、読むに耐えないほど、拙劣なものになるのです。
 
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという傲慢が明らかです。また、信仰は、神を判定することではありません。キリストの教えに、生きた言葉を見つけた人は、それが、生きる縁(よすが)になるのです。不躾に神聖を並べて、自分の屁理屈で判定する、・・楽山に似てる雑言です。
 
神と神の言葉を、自分で決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。
 
このブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。偏見をもって、既に救われ癒されて生きている信仰者の信じる神とキリストに向けることは、即、侮辱となります。
 
 」
 
*st氏とHS信者との共通点
st氏のツイートを読んで、まず思ったのは幸福の科学(HS)と同じことを言ってるということだった。
HSではよくこんな事が言われている。
「大川隆法総裁の言葉に、心を癒やされ、救われた。これは神でなければ説けない教えだ。総裁は神だ」
「凡人の小さな頭で、総裁の本心が分かるはずもない。にもかかわらず、総裁を疑い、信者を惑わすのは罪だ。それよりは黙って自らの未熟さを反省すべきだ」
「信仰は尊いことだ。信仰を汚すことは許されないことだ」
こうしてみると、st氏とHSとでは信仰対象に違いはあるものの、思考回路は同じだと言っていいだろう。以前、st氏の信仰観を支持していたHS信者がいたが、さもありなんである。
 
キリストに「癒され」「救われ」、神の「本心が分かるはずもない」・・何がおかしいのでしょう。HSではなく、キリスト信仰です。当然のことを言っているのですが、言葉が似ているから、おかしいと言いたいようです。信仰対象が違います。楽山は、そんなことも分からないのでしょうか。
 
信仰対象が違うということは別の宗教だということです。どうして思考回路が同じという話になるのでしょう。楽山に、知能はあるのでしょうか。信仰を云々する思考回路がない人のようです。
 
「st氏の信仰観を支持していたHS信者がいた」・・違います。信仰観ではなく、楽山はとんでもない奴だということが一致しているのです。自己中楽山の恐ろしい詭弁です。
 
楽山は狂いだしたようです。なりふり構わず、理路も情緒もお構いなしに、嘘吐き楽山がディスってきます。ふつうは、こういうやり方は恥ずかしくてしないのですが、羞恥心がなく、混乱している楽山だからでしょう。凶暴な楽山です。
 
 
*st氏と楽山との相違点(判断)
次に改めて思ったのは、st氏と私との相違点である。たとえば、この部分だ。
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという罪が明らかです。また、信仰は、神を判定することではありません。
 」
神と神の言葉を、自分で決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。
 」
前の記事でも触れたことではあるが、st氏は、人には神のことは分からず、決めつけてはいけないとしつつ、自分自身はイエスと聖書とを神と神の言葉であると断定しているようだ。
 
断定ではなく、救いと癒しは、個人として否定できないということです。そういう体験のない人に向かって決めつけているわけではありません。「イエスと聖書とを神と神の言葉である」・・救いと受け取った人にはそうなるということです。我執の断定と、信仰の区別のつかない楽山です。
 
楽山の、意見に対する評価の前提となる理路の判断を、やみくもに断定しているのは楽山のほうであります。刀を振り回しているだけで、既に、落城しています。知能そのものが低下しています。理解も謙虚もないなら、キリスト信仰については黙っていろ・・ということです。
 
 
信仰者というものは、人には神のことは分からないと言いつつも、「これこそ真の神だ」「これが神の言葉だ」「神の御心はこのようなものだ」などと、さも自分は神のことを分かっているかのように断言しがちなものであるが、st氏も例外ではないということなのだろう。
 
楽山は、仕返しのように信仰を否定しています。「神のことを分かっているかのように」・・私は、何度も、神を完全に理解することは人には出来ないと書いてきましたが、楽山が読み取っていないことは明らかです。知りもせずに文句ばかり言ってくるのは、楽山のほうです。あまりに拙劣です。
 
信仰について・・聖書は神の言葉でありますが、私たち人間は、人の言葉しか持っていないことを自覚するべきです。つまり、人の理解は不完全だということを書いてきました。楽山が、それを、今さら「分かっている」と「断言」していると言うのは、人の話をまるで理解できていない証拠です。
 
 
ちなみに私はと言えば、人には神のことは分からないと考えているので、「これは神でない」とも、「これは神である」とも断言するつもりはない。個人的な感想を述べることはあっても、その判断を他人に押しつけようとは思わない。
 
「人には神のことは分からないと考えている」・・嘘です。仏様の心が分かるっぽいと書いていたのは楽山です。楽山は自分が神仏同等のように思い上がって、訂正不能になっているのです。信仰がないことを、視野が広くて正しいかのように思い込んで自慢しています。悍ましいかぎりです。
 
「感想を述べることはあっても、その判断を他人に押しつけようとは思わない」・・感想が、否定であれば、さらに、嘘と詭弁であれば、感想ではなく、悪口そして偽善です。楽山に、罪悪感が全然ないことが表れています。楽山は意見と悪口の区別もつかないほど、知能が低下しているようです。
 
 
*st氏と楽山との相違点(聖書)
個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。
 」
このブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。
 」
ここを読むと、st氏の考え方は、人が決めつけた理屈である教義教理は批判すべきものであるが、聖書については批判は許さぬということであるらしい。
 
違います。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、こんなに的を外してしまうのです。分からないのでしょうか。聖書を読んで受け取るプロセスで、必ず、解釈しています。それが、教理に結びつきますが、人の言葉が、信仰としては、絶対ではないということです。
 
つまり、楽山のように、聖書を読んでも、我欲と自己愛性の障害のために何も受け取れないものだから、理屈にならないことを、屁理屈で、いちゃもんを書いてくるのでしょう。理路も感性も拙劣です。こういう人に頼ると、人格を破壊される可能性がありmす、
 
楽山の、聖書とキリスト教に対する批判が、常識に非常識を、良心に悪意を、塗りたくるように、あまりに的を外し過ぎているので、批判対象となっています。ここまで、訂正不能の曲解は、妄想とでも言うべきもので、つまり、楽山は正常人ではないということです。楽山は、病識のない病人です。
 
 
私はどうかといえば、人が決めた理屈…教義教理には聖書も含まれると考えている。
 
聖書は、解釈されるのは当然のことです。しかし、楽山が言っているのは、聖書とキリスト教と信仰の否定を広めようという嘘と詭弁教の宣伝であり、ゆえに楽山は、屁理屈で聖書を捏ねまわして、何の収穫もない徒労を繰り返しています。それは、楽山に正常な理路がないからなのです。
 
 
*st氏と楽山との相違点
とはいえ私は、他人の信仰や行動をコントロールしたいとは思わぬので、他人に向かって「聖書について自分と同じ見方をしないのはけしからん」とは考えない。上の見方に反対して、「聖書は神の霊感によるもので、人によるものではなく、一つも間違いはない。批判することは許されない」と信じたい人は信じればいいし、言いたい人は言えばいい。
 
楽山が、間違いに気づかず、誰も救えないボンヤリ言語を発して、キリスト教と信仰を揶揄してくることは、常に、批判対象となります。同じ見方でないどころではなく、あまりにも、理路も感性もお粗末なまま、いちゃもんを言うので、批判しています。
 
 
もし私が、神について正しい判断をくだせるなら、他人の信仰について、ああしろこうしろと口出しするかもしれないが、そうではないのだから自分は自分の判断をしつつも、他人には他人の判断があることを尊重しないわけにはいかないのである。
 
楽山は、キリスト教について、既に、さんざん悪口を言い、否定してきたのです。洟(はな)を垂らして泣き止まない子供のように、楽山の判断は、すべて、炎症性の、だまし文句の詭弁に過ぎません。議論にも交流にもならず、疲労と徒労を与えるだけです。人に自分の病気を移さないでほしいです。
 
 
st氏は自分の意見を述べ、かつ他者もそれに従わなければ承知しないようだが、
 
違います。楽山の言っていることが、この記事もそうだが、理路も感性も成り立っていない侮辱だからです。妄想的な思い込みで、被害的で、他罰的で、結論しかないのが、楽山です。楽山は、同情も共感もなく、他者を傷つけてゆきます。そして、罪悪感がなく後悔することもない変質者なのです。
 
 
私は自分の意見を述べはするが、他者の思想や行動までも指図する気はないのである。他者に向かって「信じろ」「信じるな」「意見を言え」「意見を言うな」などと求めるつもりはないのである。また他人からそんな命令をされたところで、自らの自由を放棄する気はないのである。
 
指図どころか、人格を、おとしめ、疲労させています。楽山が、無反省で無責任だからです。言ってるだけだから・・は、言い訳にならないのです。公開しているわけですから、否定すれば否定した責任が、肯定すれば肯定した責任が生じます。その責任を、一切負わないから批判します。バカなのか?
 
キリスト教について、否定して、別の記事で、肯定めいた記事を書いて、両方言ったから、責任問題は生じない・・などということないのです。大人なら分かることです。言論の自由には、言論の責任が伴います。楽山は、この当たり前のことが、分からない人です。
 
 
前々から分かっていたことだけど、やっぱりこの辺りの考え方は、st氏と私とではまるきり違うようだ。
 
「まるきり違う」のは「ようだ」ではなく決定的で、こちらの意見を踏まえず、無理解のまま繰り返し言い張ってくる自己愛と自己中は、反社会性の病質だと思います。批判にも意見にもならない幼稚なことを言い、責任を負わない楽山との意見交換は成り立ちません。
 
 
*st氏と楽山との相違点(信仰)
上のツイートによると、st氏は信仰については批判すべきであるとしつつ、批判ではなく沈黙すべきであるとして矛盾したことを書いている。
 
批判するなら、批判として成り立つ文章を書くべきであり、責任も負うべきだということです。そういう当然のことが出来ていないから、書くなと言っています。やはり、人格崩壊による知能低下が進んだのか、楽山は、何を聞いても無駄で、何を書いても成り立たなくなっています。
 
 
これはどのような意図で書いているのかは判然としないが、信仰には、人によるものと、神の恵みによるものとがあるという見方があるので、前者については批判すべきだが、後者については批判はできないということは言えば言えるだろう。
 
ボンヤリ言語です。詳細をぼかして婉曲的に、否定しています。卑しいことです。人による信仰が、人が作ったものということなら、それは信仰ではありません。恵みを受けたことのない楽山は、人によるとか、神によるとか、書くことが、いかに無意味であるかも分からないのです。
 
 
ただ私はこれはあくまで理屈であって、実践はできなかろうと考えている。「この信仰は人によるものである」とする場合も、「この信仰は神の恵みによるものである」とする場合も、結局、どちらの判断も人が行うものである。人には神のことは分からないのだとすれば、「この信仰は神の恵みによるものである」という人の判断は必ずしも正しいとは言えないからである。
 
こういうふうに、ややこしく語るのは、楽山は自慢したいようだが、言葉遊びに過ぎません。楽山の詭弁の理路には、付き合うだけ、無駄な疲労がたまります。信じ仰ぐ、ということが、まるで分かっていません。百害あって一利なし、これが、楽山の言であり、楽山と付き合うことです。
 
信仰の成り立ちは、聖書を読むことから始まります。しかし、楽山が、神と言うときには、神を、恐ろしく幼稚な概念として、楽山が、既に、分かったことにして、訂正不能となっています。恐らく、楽山は、これからも、自分の思い込みにないことは、何も理解しないでしょう。
 
そして、楽山は、安っぽい理屈をこねて、人を悩ませ、苦しめ続けるでしょう。理解力も感受性もないのに、背伸びした楽山の自己愛がもたらす害は、相対する人に心の傷を負わせます。楽山を、決して相手にしてはいけません。幹が悪いのに、葉っぱがどうのというような屁理屈が、楽山の自慢です。
 
 
それだから人には「この信仰は人によるものだから批判すべきである」とも、「この信仰は神の恵みによるものだから批判すべきではなく、沈黙すべきである」とも、断言することはできないのだ。
 
「できないの」は、楽山です。神と人の区別なら、思い込み、訂正不能、先入観を排除するべきでしょう。しかし、楽山こそは、偏見に固定されて、自己中のために訂正不能になっている典型なのです。悪意は、批判にはなりません。救いの代わりに疲労を、平安の代わりに苛立ちをもたらすのが楽山です。
 
 
せいぜい、どちらの信仰についても、「自分はこのように判断しています」と言えるくらいであって、それを他人に押し付けることは無責任な行為でしかないのだ。
 
楽山を信用しないでください。楽山は、何も理解していないのに、成り立たない言い分を、繰り返し言ってきます。自己愛のために、理解することも理解させることも出来ない人です。楽山に関わることは時間の無駄です。関わらないでください。近づかないでください。
 
私は、楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと判断します。症状として、身勝手で、自己中で、無反省で、無責任で、妄想的確信があり、訂正不能で、温もりと潤いの高等感情と共感のない、羞恥心のない、そして、罪悪感のないサイコパス(精神病質)だと判断しています。
 
 
st氏は自己の信仰についての判断を他人に押し付けることに何らの疑問も感じていないようであるが、私はこのような考え方なので絶対にそんな風にはなりたくないと考えている。
 
こちらを無視して勝手に押しつけだと決めつけるのは、傷つけ疲れさせるのが目的です。根拠のない結論です。これが、他者を害して得意になるサイコパスです。一日も早くネットからいなくなってほしい存在ですが、信仰者としては批判できるだけ批判して、神の裁きを待つことにします。
 
良心のある人は、信仰者でなくても、宗教と信仰については寛容です。楽山には、良心がないので、自説を錆びた刀を何度も振り回して顰蹙(ひんしゅく)を買い続ける運命です。楽山は、宗教の代わりとなる救いを何も語れません。楽山は、無関係のホラーをネタにして、救いを邪魔する悪魔性です。
 
楽山は、聖書に書いてある、崖に突進して自滅する豚よりも醜い存在だと思います。豚は笑いませんが、楽山は、この世で一番見苦しいあざ笑いがベースにあり、そこから書いてきます。崖に向かいながら、笑っているのです。このような類人は、近づく者を崖に誘うでしょう。
 
 (マタイによる福音書、新約聖書、口語訳)8:32
そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
 
楽山は、キリスト信仰者を、奇跡を信じ込んでいる愚か者という解釈に短絡して、そこから一歩も出ることのない思い込みを見苦しく語り続け、人間の心の問題を何一つ語れません。楽山には、自分を見る目がないからです。そこで結論を吹聴する楽山は、欠陥人格を代表する恥さらしでしかありません。
 
楽山は、いずれ自暴自棄となって錯乱し何らかの犯罪を犯すでしょう。人間に起こるパニックは必ず周囲を巻き込もうとするので、人々が自分の人生を守るためには、楽山からは一斉に離れるしかないのです。楽山というHNとその性根を知って崖っぷちでガハガハァと叫ぶ楽山から離れてください。
 
 
偏見と妄想

偏見と妄想
 
 
(2022年)
(2023年01月21日、再録+加筆)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
しかも区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
 
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ることもできるが
迷うことも飢えることもある不自由
 
つまるところ
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
その両価性を循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる楽山は、人間であることをやめて、我欲から神を決めつけて、ゆえに魅力の欠片もないのに、人に迷惑をかけるだけの生業で、誰のためにも存在せず、それで、嘘と詭弁で人を騙すことに終始して、自分が、どれだけ醜くなって迷惑をかけているかも気づかないのです。
 
 
 
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  楽山の無神論漁り2
 
  「新無神論bot」を見てみた(1)無神論を支持する有名人
   2022年01月03日 楽山日記(LD)
    を改めて批判。
 
 
壊しておいて、後始末をせずに、知らぬふりをしている犯罪者によって、スクリーンキーボードとマウスによる遅々たるブログ編集の日々でありました。結局、Q&Aサイト閲覧、セキュリティによるフルスキャン、再起動などを繰り返して、よく分からないけど正常に戻りました。
 
正常に機能するということの幸いを味わっています。
 
 
自分の言葉が破たんして、何も言えなくなっている犯罪者楽山の常套手段は、有名人の言葉を引用して、こんな人も言っているよ・・みたいに、無神論を、論ではなく、印象として擦り込んでゆくことです。引用部分は、大方、楽山が妄想的に決めつけて快感を得ているだけなのです。
 
楽山の言説は、正当なキリスト教と信仰の本質に触れるものが一つもない曲解だけで出来ています。キリスト教と信仰は、堕落しても、立ち直りを喜ぶ神の寛容によって、いつでも改めることが出来ます。楽山は、無反省に詭弁と嘘と悪用だけを続けている亡者であります。
 
宗教と科学が同じ土俵に立つことはありません。楽山のようなインテリ気取りの反キリストのペテン師の企みに過ぎません。そういう者は、いつの時代にもいたということです。姑息をつないで、ごまかして生きているのが楽山です。
 
 
*まえおき
「新無神論bot」を見てみた。その感想を書いてみたい。
*ハリー・ポッター
僕は信仰は持たない。僕は無神論者だ。そして、宗教が立法に影響を与えようとしたときは、戦闘的な無神論者にもなるよ。―ダニエル・ラドクリフ
 」
これは意外だ。役柄と俳優本人は違うと承知してはいても、ハリー・ポッター役の俳優が無神論者だというのは意表を突かれた思いがする。
 
間違って権威主義になっている偽キリスト教はあるでしょう。戦闘は穏やかではありませんが、それに対する無神論者の闘いは、むしろ、人間らしいものだと思います。宗教が堕落し変質すると、人間離れ、現実離れして、サイコパス的恐怖になるのです。その典型のような楽山を批判しています。
 
サイコパス人格の楽山は、有名人とは全く違って、人を苦しめて快感を得るサディストとして、有名人を、安っぽいブログの小手先で悪用して我欲を満たしてだけです。だから追いつめられると犯罪行為に及んだのです。本質を見抜けず、字面の浅いところだけを舐めてきた破綻が表れています。
 
 
*アミダラ女王
私はあの世なんて信じない。この人生こそがすべてだと思ってるし、それが最も賢明な生き方だと信じてる。―ナタリー・ポートマン
 」
こちらも意表を突かれた。シャーリー・マクレーンや美輪明宏などの影響のせいか、芸能人にはスピリチュアルなことを信じている人が多いイメージがあるけれども、当然ながら必ずしも皆がそうだというわけではなく、結局は人それぞれということなのだろうな。
 
皆がスピリチュアルではない、❔❔当たり前です。引用部分は、自然に受け取れる意見です。生きている間が全て、・・当然です。何故なら、あの世があっても、地上を生きている私たちには、信ずるべき具体は確定できないのであって、今できることをして祈る姿勢に、何の変わりもないのです。
 
 
*ザッパ
キリスト教の神髄はエデンの物語に表れてる。あなたのあらゆる苦しみの根源は物事を知ろうとしたことだ。黙って問いを発することなく大人しくしてれば良かったと。賢くなったら痛い目に合わせるぞなどと主が語る宗教はなんと反知性的だろう?―ザッパ
 」
 
例えば、神は、カインを殺しませんでした。カインが、弱みを見せたからです。神は、冷たい超常の存在ではありません。「物事を知ろうとしたこと」「黙って問いを発することなく大人しくして」・・これは神髄ではありません。人が受け取るべきは、キリストの洞察と共感であります。
 
「問いを発することなく大人しくしてれば良かった」「賢くなったら痛い目に合わせるぞ」・・これは楽山の姿勢であって、似たようなキリスト教を自認する偽物は、日本も外国も、ひどいことを言ってる人がいると感じます。神への服従は、人への服従ではありません。
 
恐らく、従属を強いる教派の長は、楽山に似ていると思います。誰も楽山のような者の従者にならないように、楽山にだまされることのないように、楽山批判を書いています。議論も意見交換も全くできない訂正不能の楽山がいるのと同様に、狂った病質的教派がキリスト教を名乗っているということです。
 
 
ザッパには前衛的なイメージがあるので、この発言に驚きはないし、共感できる。
自分には、人が知性を磨くことを喜ぶ神様は想像できても、それを禁ずる神様は想像できない。また女性を学校に通わせない、勉強させないという考え方も分からない。
今どき、宗教について疑問を述べたり、意見を述べただけで、「そんなことは言ってはいけない、黙っていなさい」と怒る人がいることもよく分からぬ。  
 
知性を禁ずる神というのは、楽山の悪質な偏見への誘導です。ここに書いてあることは、あってはならない人権問題でしょう。そういうのは、キリスト教でも信仰でもないのです。これがキリスト教だよ悪い奴らだね・・という印象操作を企む楽山が最悪です。キリスト教でも信仰でもないのです。
 
引用された人間の叫びと反キリストを区別でないのは、楽山が、冷血の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。楽山は、貧困な偏見の塊で、偽キリスト教系カルトと、キリスト教を、区別できないのです。何でもかんでもエゴのために悪用する楽山に関わらないでください。
 
 
*科学と宗教
権威に基づく宗教と、観測と理性に基づく科学との間には根本的な違いがある。そして科学が勝利をおさめる、なぜならそれは機能するから。―スティーブン・ホーキング
 」
スティーブン・ホーキングは無神論者だという話は聞いたことがあるので、この発言に驚きはない。
「権威に基づく宗教」というのは、その通りだと思う。大概の宗教は、「教祖様(神様)のおっしゃることに間違いはない」「教祖様(神様)を疑うのは傲慢だ。己の分を知れ」という考え方をするものなので。
 
科学は物質と人体に機能しますが、物質だけで、人体だけで、人は生きられません。また、科学と宗教と、どちらが勝利するかなどという問題こそ、サイコパスの所産であります。物質は勝利を目指さず、信仰は勝つことを求めず、神は既に勝っているからです。
 
 
*連戦連勝
ここにいるみなさんにお伺いしたいが、かつて我々が科学的解答を持っていながら、それが誤りだと判明し、今ではその最善の答えが宗教的なものであるようなことを、一つでも思い浮かべることができるだろうか?―サム・ハリス
 」
こんな事は考えたこともなかったが、言われてみればその通りだ。たとえば、「この病気の原因は、××菌だとしていましたが、それは間違いで神の怒りによることが証明されました」なんて話は聞いたことはない。
 おそらくは、これまでも、これからも科学によって宗教はどんどん隅の方へ追いやられていくことになるのだろう。「科学が発達して、神様は貧しくなった」という話があるけれども、これは本当だと思う。
 
「言われてみればその通りだ」というのが楽山のボンヤリ言語の誘導です。科学的問題を、宗教的なものが答えることはありません。また、宗教的問題を、科学が解決することもありません。科学は宗教を語れず、宗教は科学を語れません。そこを外れたら、科学も、宗教も、成り立たなくなるでしょう。
 
さらに、楽山は、自然科学と人文科学の区別も出来ていないようです。理路も弁えず、あらゆることを混同して、話を混乱させてゆきます。最も批判され、まず最初に追放されるべきは、我欲だけのサイコパス、楽山であります。
 
 
*新無神論とは?
当該アカウントのプロフィールでは、新無神論について次のように説明している。
新無神論とは自身が無神論者であることを積極的に公表し公に宗教批判を行う人々によって発展させられている新たな無神論の流れであり、組織宗教に限らず、あらゆる不合理な信念が批判の対象とされる。
 」
自分は宗教に批判的なところはあるが、無神論者ではないし、不合理な信念のすべてを否定しようとは思わないので、どうやらこの定義には当てはまらないようだ。
 けれども当該アカウントのツイートには共感できるものが多々あるので、これからもフォローを続けたいと思う。
 
「宗教に批判的なところはあるが、無神論者ではない」・・楽山特有の、断定してないから責任はない、という言い逃れです。詭弁は、断定より、悪質な悪そして偽善であります。サイコパス性を発揮し続ける楽山は、決して許してはいけない人~ヒト型動物です。無知の詭弁屋に過ぎません。
 
今まで楽山の引用で見てきたかぎりでは、新無神論は、「新」ではないと思います。「論」は、宗教と信仰を語れないと思います。楽山は、人間ではないと思います。人格障害は、しばしば、人間ではなくなり、ケダモノ以上に冷酷になります。近づかないでください。
 
楽山は、信じることの切実な欲求もなく、また、神を否定しても、別の救いを何も表せず、無神論の論の欠片も書けないでいて、何を引用で語りたかったのでしょう。引用された言葉は、人間性として理解できる範囲です。楽山の文章は、人間に理解できる何ものも含まない、悪魔性の企みに過ぎません。
 
楽山は、人格障害のために、最低限の正常な人格形成が出来ていません。楽山は自分が裸でタコ踊りしていることに気づけないのです。ずいぶん長く続けて、何の学習も成長もないのが、証拠でしょう。これからも、ケツ丸出しの、みっともなさを、出してくるのでしょうか。吐き気がします。
 
 
発情する偽善

発情する偽善
 
 
(2022年)
(2023年01月20日、再録+加筆)
 
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
結局、誰にも相手にされなくなるであろう訂正不能の嫌な奴、楽山は、ペテンを止めません。私は、こういう人間が一番嫌いです。ずっと前にも、少し前にも、丁寧語で、人を平気で傷つける者がいました。サディストと言っていいような、こういう人は、隔離された場所で生存するべきだと思っています。
 
どうして楽山のような者が、生まれて、生きているのでしょう。いかなる生産活動もできず、いかなる知性的または感性的な糧(かて)も産みだせず、参考となる経験談も、何も持っていない人格です。原因は、学習せず、反省しないからです。そして、怒りと笑いだけで、弱そうな他者を侮辱して楽しむ人です。
 
 
人類の敵は、国家でも民族でもありません。人類の敵は、サイコパスです。大きな災いの降りかかる時と所、必ずサイコパスが暗躍~支配しています。サイコパスは、自分の物質的または精神的利益を求めますが、それを与えることは遂にありません。他者は、利用する対象に過ぎません。
 
楽山は、理路を理解できず、組み立てることも出来ません。また、共感性もないので、私の批判記事を読んでほしいのは、当ブログを訪問してくださった楽山以外の人たちです。異常者についての一種の警鐘として書いています。時々書いている厳しい比喩表現だけが、楽山に向けて書いたものです。
 
 
 
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  楽山の詭弁明2
 
 通知があったので見てみたけれど…
 (st問題を振り返る)
 2022年01月02日 楽山日記
  を改めて批判。
 
犯罪者楽山の被害は継続中です。相変わらずキーボードは打っても何も反応しません。スクリーンキーボ-ドで書いています。画面上の絵のキーをマウスでクリックします。片手操作なので遅くなります。画面の作業エリアは狭くなります。その分、楽山を赦さない気持ちが強くなります。
 
楽山は、人が困るのを見て、ニヤニヤ笑っているような筆致で書いてきます。その印象は、浮いてくる軽さであり、それは実感の無さでもあります。言葉だけ専門用語を好むようです。評論家気取り、丁寧語、世辞とか、論理に見せかけった迷路という罠もあります。得るものは何もありません。
 
それにしても楽山はどうするのでしょう。人のPC壊しておいて、逃げ続けるつもりでしょうか。いつまでも壊したままなら、私は、ことあるごとに犯罪者楽山の名前を出して、恨みを込めて、ことの次第を何度も話すでしょう。そうすると楽山の罪は、未解決の永遠の放屁になります。
 
 
楽山は時々やることですが、ブログ記事は長ければよいということではないという典型です。それと、私に問題があると固定しているので、st問題と言っていますが、私は、犯罪者楽山問題として、楽山を批判し否定し続け、楽山に近づかないように、読者に訴えてゆくわけです。
 
キリスト信仰は、論理で語れるものではありません。ああだこうだの辻褄合わせは醜いだけです。聖書を読んで、神とキリストを主と仰ぐ気になるかどうかです。しかも、完成するのではなく、信仰者として、人間として、学び、成長する道を知ることなのです。その深みを、楽山は全く知りません。
 
ブログとツイッターなど、楽山のネット活動は、誰にとっても、益はないのに、丁寧語や詭弁や謙虚芝居によって刷り込んで誘導してきます。真面目な人が読んで理解しようとして、楽山と遣り取りなどすると、トラウマになりそうなくらい病的な疲労を与えられるでしょう。関わらないでください。
 
 
*通知
ツイッターを見ていると、時々、st氏から通知が入る。
どうやら、コピペする時に「@komo266」の文字までしてるせいらしい。
 
「文字までしてる」・・意味不明。私からの「通知が入る」と勘違いしているのか。メールやコメントは書いていないし、楽山との双方向など、とうに禁忌です。楽山から直接のメールやコメントや、通知?が来ても、私は記事に書いて返すでしょう。悪い風評でも流したいのでしょうか。
 
楽山は、だんだん現実検討能力も低下しているようです。実感がなくなって離人症になりつつあるのでしょうか。それにしては、楽山の悪意は、嘘と詭弁とともに、治まることがありません。成り立たないのに、深みも成長もないことを書いてきます。ハッとすることのない、だらけた文章です。
 
通知?・・私は書いているだけで、通知?とか、するやり方を知りません。書いて公開しているだけです。ツイート自体を言っているのでしょうか、それは、ブログと同じく、私が気遣うことではありません。私の批判は、ブログが先で、メインです。ツイッターは、ほぼブログのコピペです。
 
ブログやツイッターの「@komo266」については、楽山のツイッターからコピペして書くこともあり、ツイートの文字数の関係で省略することもあります。楽山には、サーバーから通知でも来るのでしょうか。こちらからサーバーに何か要請はしていません。
 
理由を知りませんが、楽山は、3つの中のツイッターの一つをブロックされているようです。注意・警告・ブロックなのでしょうか。もし、サーバーからの警告であるならば、私は、「@komo266」を、できるだけ、入れるようにしたいと思います。
 
 
*st問題を振り返る
通知が入ったので、ひさしぶりにこの問題の発端を思い出した。
st氏から楽山日記にコメントがあり、話をするようになった
 
およそ3~4年前の、数か月の遣り取りがあったという話です。楽山は、相手の意見を考えて反論弁明するのではなく、無視して、嘘と詭弁を弄する人です。しかも、理解者を装う書き方をしてくるので騙されないように、関わらないようにしてください。数か月、私は騙されていたのです。
 
楽山の、分かっているような言い方と態度を真に受けないでください。上からの雑言なので、以前、とても異常な言い知れぬ疲労を覚えました。病質と直接の遣り取りをすると、異常な疲労を受け取ることになります。楽山には本気も誠意もありません。
 
楽山は、双方向の、議論、遣り取り、意見交換の出来ない人です。宗教についても、意見交換するのではなく、神不在の結論から組み立ててくるので、議論は成り立たず、疲労だけが積み重なります。それより悪いのは、信仰を全く知らないのに、神と信仰について知ったかぶりをする自己中であります。
 
 
st氏のシャローム批判を読んで、シャロームは悪い人だと思った
この後、シャローム氏とも話をするようになり、st氏がいうほど悪い人ではないと分かった
私がシャローム氏と仲良くしていたら、st氏は、シャロームと話をするな、話をするならシャロームの仲間として批判すると言い出した
こうしてみると、つくづくst氏は気の毒な人だと思う。
 
シャロームshalomは、楽山と同じ自己中であり、偽牧師です。の立場に立ち、同じような丁寧語を使って、上から決めつけてきます。ゆえに、今も、楽山の成りすましではないかと疑っているわけです。楽山は、三文芝居好きの大根役者です。
 
相手を、さんざん、おとしめて、「気の毒」と哀れみ言葉を書いてくるのは、傲慢からの軽蔑の常套手段であろうと思います。まだ通用すると思ってる・・。学習と成長がない者は、同じことを繰り返して自らの堕落と怠慢を表します。・・バレてるのに、よく書いてくるものです。
 
 
*同一人物?
 通知ついでにツイートを見てみると、どうやら最近は佐倉哲氏と楽山は同一人物だと疑っているらしい。<
 
ブログ記事に書いて、それをツイッターにコピペしています。シャロームについても同様ですが、佐倉哲と楽山は筆致と理路の欠陥が、よく似ているので、同一人物の成りすましをを疑っています。狂ったネットマニアの楽山は、他にも成りすましが多いのではないかと思います。
 
 
なぜそんなことを考えるのだろうか。佐倉哲氏の知力も人物も、楽山より遥かに上なのは誰の目にも明らかだろうに。
 
佐倉哲を褒めていますが、都合のよい人をベタ褒めするのは楽山の常套手段です。成りすましなら自分を褒めていることになります。佐倉氏が言っているのは、楽山とほぼ同じの幼稚な屁理屈です。佐倉氏のプロフィールは、どこにあるのでしょう。あっても、あの文章では、全く信用は出来ませんが。
 
 
*的外れ
st氏は相変わらず的外れなことばかり書いてる。
佐倉哲氏は事実と論理によって意見を述べている。だからこれを批判するには、まず事実誤認や論理破綻を指摘することが肝要である。
これをせずに事実や論理を脇にどけて、自らの信仰観を開陳したところで的外れで、独りよがりなものにしかならない。事実と論理による議論と、好き嫌い、信じる信じないということは別の話なのだ。
 
「事実と論理によって」・・二千年前の宗教的事実は、確定できず、永遠に不明です。それは、話として、人の生ける糧(かて)になるか、その説得力があるか、という判断の理路になります。楽山も佐倉哲も、キリスト教を理解しているとは思えず、説得力は皆無です。子供の屁理屈遊びのようです。
 
楽山は何を言っているのでしょう。信仰は、キリストを好きにならないと成り立ちません。事実や論理だけでは決して表せません。「事実誤認や論理破綻を指摘する」だけでは信仰の肯定にも否定にもなりません。そういう主張は、有害無益かつ甚だ迷惑です。何にも分かっていない人の言です。
 
 
*分からないということ
st氏は、人には神や聖書のことは分からないと言いつつ、佐倉哲氏の神や聖書に関する判断は間違っていると言うことに何の矛盾も感じないようだ。
 
佐倉氏と楽山は似ていて、聖書の入り口で、既に大きく間違っているからです。楽山には、心の真実を受け取る器がありません。成長が止まっているために、小学生のような辻褄合わせしか考えられず、人間ならば持っている共感性も罪悪感もないのです。だから人間の言葉として成り立ちません。
 
信仰は、神を希望として、キリストの共感に支えられて生きることです。事実や論理で語れるものではありません。事実や論理を必須とするのは、大方、カルト的な思考しか持たず、感性の鈍い人か妄想家に過ぎません。楽山と佐倉哲は、教条だけ知ってるつもり?の人です。関わってはいけません。
 
普通に考えれば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、st氏にも神や聖書のことは分からないことになり、佐倉哲氏が神や聖書について何を書いたところで、その正誤は判断できないという結論になるだろう。
 
私が、分からないといったのを、何も分からない全否定だと決めつける詭弁です。聖書は、神の関わる書として、人が全てを理解するのではなく、そこから生きる糧を見つけるために読むのです。楽山は、心が無いゆえに何も受け取ることがないので、神と宗教について何も書くべきではありません。
 
こういうところを見ても、楽山は、読書が出来ない人だと思います。だから、これも、あれも、読んだ読んだと、都合のよい字面を漁っては引用して箔をつけたいのでしょう。そして、ますます、学習も成長も出来ない自分を表してゆきます。
 
 
またさらに踏み込んで言えば、人には神や聖書のことは分からないのであれば、「人には神や聖書のことは分からない」ということさえも分かるはずがないことになる。つまり「人には神や聖書のことは分からない」ということは、それ自体が矛盾しているのだ。
 
楽山のような、全と部分を混同する気取りだけの詭弁屋は、命題として表層を取り上げて得意になりますが、聖書理解は、人間として、良き訪れ(福音)受け取ることです。したがって、ここで、楽山の辻褄理解と、聖書の命の理解が、全く別物だということです。楽山の悲惨な屁理屈です。
 
 
st氏はこういうことをすっ飛ばして、神や聖書のことは分からないものだとしつつ、佐倉哲氏など他人の神や聖書についての判断は間違っていると批判するのだからおかしい。
 
私がすっ飛ばしているのではなく、楽山が大事なことを、楽山の我執に従って、間違った受け取り方で、間違った否定を、間違った妄想として書いているに過ぎません。こういう屁理屈を相手にしていると、病的な人格破壊へ向かう疲労を味わうことになります。どこまで執拗な害毒なのでしょう。
 
 
*心象風景
st氏には、この世には良心のない人がいっぱいいるように見えているらしい。こういう考え方をしているのであれば、被害妄想が強いのも仕方ないのかもしれないなと思う。
 
「良心のない人」は人格障害からの少数の悪です。楽山は、良心未発達の自覚がないことが表れています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。「この世には良心のない人がいっぱいいる」のではなく楽山に良心がないのです。一般化の詭弁で理路が破綻しています。
 
 
*願望
これは、st氏がどういう願望を持っているかが、よく分かるツイートだ。
st氏は自身のことを「単一の信仰者」としていることからすると、これは願望だけでなく、独りぼっちで孤立している自身の投影もあるのだろう。
 
こういう侮辱で傷つけようとする楽山の悪意です。私は「独りぼっちで孤立してい」ます。しかし、楽山の、この発言は、孤独に生きる人への侮辱です。しかも、私の言論が、その投影だと言っています。心理学の用語を、気安く使って、人を見下しながら、楽山は、自らの墓穴を掘ってゆきます。
 
 
また、st氏は上の文章のように、ちょいちょいおかしな文章を書いている。以前は、意図的に詩的に凝った書き方をしているのだろうと善意に解釈していたけれども、改めてこの手の文章を見てみるとどうもそんな単純なことではないかもしれないな。
 
例示できないですね。詩は好きだから書きます。楽山は、感傷的な詩を書いていましたが、感性を鍛える学習をしていないので読めたものではなかったです。なのに、身の程を弁えず、思いやりもないために、他者すなわち私の詩をけなしています。楽山は、書けば、ほぼ全部、おかしな文脈になります。
 
 
*現実
st氏はまた的外れなことを書いている。正解はこうだ。
×「長期に渡って批判されても平気なのはおかしい」
○「長期に渡って誹謗中傷され続けたら、その異常性には誰だって気付くし、無視するようになるのは当たり前だ」
 
批判と誹謗中傷を同一視する詭弁です。批判を無視するのが当たり前だと言っています。楽山は、自分の言う通りでないと、誹謗中傷と見なして、無視が当たり前、と思って生きてきたのでしょう。ならば、従わない人を、ことごとく悪と見なすわけだから、もはや頭がおかしいとしか思えません。
 
箇条書きと、○×で、理屈を並べて、私からの批判を、誹謗中傷と印象付けたい楽山です。こういう自己愛からの無理解だから、私の批判は、楽山を変えるためではありません。
 
楽山という変質者に、誰も近づかないように、楽山の偽善と詭弁の有り様を、ずっと書いています。
 
 
ところで、マリア氏はこの間こんなことを書いていた。
相手にすると、だめなのよね。
一人相撲させるしかない。
 
楽山は、対立すると、他者の言を借りてでも、おとしめてきます。私は、楽山に相手にされることなど、とうに諦めています。楽山の独り相撲に、決して付き合わないように、一般に、また特に、クリスチャンに、呼びかけたいのです。けっして、楽山を、相手にしてはいけないと言うためです。
 
 
(まだ追いかけて批判してた - マグダラのマリアの部屋)
ヤフーブログ時代を振り返れば、とあるクリスチャン氏やmine氏のようにコメントにはすべて返信する人であっても、st氏のことはスルーしていただろう。易坊氏、こうさん氏、ヨシュア氏など、st氏と議論した人たちであっても、みんな去って行っただろう。
st氏はもういい加減、現実に気付いてもいい頃ではなかろうか。
 
自称マグダラマリアと自称ヨシュアは、キリスト教に似せた偽クリスチャンのカルトです。神の教えを守って完全になるという真逆の勘違いがありました。呪いをかけたつもりで、あと何日..とか言う人です。易坊は荒らしです。こうさんも荒らしです。私のヤフーブログを荒らしてきました。
 
こういう人たちも、楽山の成りすましの可能性があるのです。根拠は、みな自己中発言~暴言しか言えないからです。保身のために、神もキリストも利用して、命懸けみたいな白々しい筆致で大仰なことを書くこともあります。
 
いくら、返しても、返す文章に、書くたびに、自己中が表れていること、楽山は、気づかないのでしょう。他者のことを言っても、自分を振り返ることのない病質者の特徴です。こういう筆致、そして、この現実、楽山だけは、気づかないのです。人格障害というのは悲惨です。
 
 
*自己愛
ところでst氏の自己愛の強さは、ツイッターをチラ見しただけですぐ分かる。
ブログ更新のお知らせをツイッターで流すだけならまだしも、st氏は自己のブログ記事をツイッターにコピペして、拡散、保存している。一回だけならまだしも、記事更新のたびにそんなことを繰り返しているようだ。しかも長文記事をそうしてる。よほど自分が大好きなのだろう。
 
邪悪で哀れな自己中である楽山の情報を敷衍(ふえん)したいのだから、ブログからツイッターにコピペしています。拡散したいのです。楽山に何を責める正当性があるというのでしょう。ここにも、全ての規範を自己愛性人格障害の視野からしか判断できない楽山が表れています。
 
 
そういえば、st氏はシャローム氏からコメント削除されたことを、何年にもわたって怒り続けていたのだった。論争中にコメント削除されたら怒るのも無理はないけれども、何年にもわたって怒り続けるとしたらそれは病的にすぎるだろう。
 
大事な発言について、応答せず、承認せず、削除するのは、大いに、信頼を失わせることになります。論争中ならよくて、長期にわたるのは悪い、という性質の違いはありません。楽山は、こちらを「病的」だと言っています。自分が言われそうなことを相手に向けるのは、楽山とシャロームの常套手段です。
 
 
st氏の自己愛はこんな風に屈折したところがあるし、それだからいつものように自己の問題を他に投影して、楽山は自己愛性人格障害だと強弁することになっているのだろう。気の毒な人である。
 
これも同様に、自分が言われている自己愛を、こちらに向けています。違いは何でしょう。楽山は、全く根拠を示せないのです。結論で、悪口の言い張りだけだから、説得力など、あるはずもないのです。ゆえに、楽山が、こちらに向ける悪口は、楽山に返ってゆくブーメランとなってゆきます。
 
 
こう言っては何だけど、st氏は他人のことをとやかく言うより先に、まずは自分の問題と向き合った方がいいと思う。
 
これもそうです。何が「何だけど」なのでしょう。他人の中の、特に異常な楽山や所在不明のシャロームを批判しています。被害の自覚だけしかない楽山に、病識も罪悪感もないことが分かります。だんだん高慢の地獄が酷くなるようです。あわれです。
 
楽山は、キリスト信仰について、とんでもない詭弁でデマと偏見を宣伝しています。ゆえに、批判対象として、私が生きて書ける間は、批判が止むことはないでしょう。直接コメントなどで遣り取りなどは、病原である楽山に対して、私の精神衛生のために、しないのです。
 
 
◇◆ 追記 2022.1.2 ◆◇
*理由
ついでだから、st氏から長きにわたって誹謗中傷されても平気な理由も書いておこう。
まず一つは、何度も書いているようにst氏の書くことは的外れなことばかりだからだ。人は図星を指されると過剰反応してしまいがちだが、的外れな悪口は無視しやすいものだ。はじめは怒ったとしても、それが続けば相手にするのも馬鹿らしい心境になる。
 
自慢と高慢だけでの楽山は、お世辞のコメント以外は、的外れと感じるのでしょう。批判と悪口の区別もつかない人です。楽山には、反応できる「図星」はないです。楽山には、真実も図星も真摯な見解も、何もないから、無反省、無責任、無視、無理解でいられるのです。
 
 
もう一つは慣れの問題だ。議論慣れしていない人であれば、st氏の口撃にたじたじになる場合もあるかもしれない。でも自分の場合はそれなりの議論経験があるので、くだらぬ悪口には慣れてるのだ。
 
楽山は議論したつもりだけです。詭弁慣れ、嘘吐き慣れしているだけで、議論の、理路も、経験も、能力も、分別も節操もありません。無視だけを返してきます。楽山本人の欲望から、インテリ気取りで、独り芝居で、嘘と詭弁を今日も並べているのです。その高慢が臭いです。
 
「馬鹿らしい」「的外れ」「くだらぬ悪口」と進めています。中身はないが、楽山は、気持ちよいのでしょうか。楽山の言い分は、品のなさによって、マイナス言葉に置き換えられてゆくようです。楽山は、一切、根拠を示せないまま、偏狭な感情と結論だけの貧弱な文脈になってゆくようです。
 
「議論経験があるので」・・思い込みです。楽山の議論が成り立ったことはないと思います。「くだらぬ悪口には慣れてるのだ」と言うが、だったらどうして、こんな長くて、根拠のない嘘と詭弁の悪口を書いてくるのでしょう。人格崩壊が近づいているのでしょうか。だとすれば、ますます危険です。
 
その危険は、ウイルス攻撃となって、今年、新年早々、表れてきました。
 
 
あとは信頼というのもある。私はリアルの世界で高い評価を得ているわけではないけれども、幸いにある程度の評価はしてもらっている。
 
いったい、誰が、評価するというのでしょう。関わっている人がいたら、目を覚ましてほしいです。あり得ないと思います。だまされている人が今もいるのでしょうか。仲間褒めか、成りすましのことか。今も、世辞の丁寧語で、だまそうとしているのかもしれません。身の毛がよだちます。
 
 
だから社会に対して、見る人は見てる、分かる人には分かるという信頼感があり、たとえ誹謗中傷されても、世間の人たちがそれを信じてしまうのではないかと心配することもないのだ。
 
訂正不能の高慢が表れています。好意的に評価されることを自慢する楽山ですが、騙されている人が今もいるということです。誰からも信頼されなくなりつつあり、文章が、誇大で過剰で妄想的です。騙される対象がいなければ、騙すことは出来なくなります。まさにそれがこちらの目標なのです。
 
 
それから…承認欲求が希薄だということもあるかもしれない。自分はぜひとも人から好かれたい、そのために何かをしなければいけないという気持ちはさほど強くない。自分を評価しない人がいても、それは仕方がないと思える。たぶん親から十分に愛情をもって育ててもらったお陰なのだろう。
 
また、嘘を吐いています。魅力もなく権力もなく、だますことで満悦してきた楽山は、まるで、悪い政治家の語るリップサービスみたいです。目的もなく中身もなく、うわべの刹那的な承認欲求しかないのです。楽山は、こういう嫌がらせをしてくるほどに、我欲の権化です。
 
 
もっと考えれば、誹謗中傷されても平気な理由はもっと思いつきそうではあるが、とりあえずはこんなところである。
 
楽山が、批判に対して平気なのは、羞恥心、罪悪感、自責の念、共感、・・などの、受け取って反省するための高等な感性が欠如しているからだろうと思います。楽山は平気なのでしょう。何らかの公の強制力か、被害者の暴力的な復讐の対象にならないあいだは。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
嘘と詭弁の興奮

嘘と詭弁の興奮
 
 
(2022年)
(2023年01月17日、再録、加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いかに実態が暴かれても、これだけ白々しい嘘が吐ける楽山です。人間で在りたくないもかもしれません。楽山は、超常の預言者か教祖になりたいのでしょうか。私は、楽山の言が、全ての人によって、否定されることを祈り願いながら、日々、キリスト者として、できることをしているだけであります。
 
全能と言われる神は人に対して、できるだけの正直を求めておられます。正直ということを一切持たない楽山の異常な有り様は、反キリストそして偽善者の典型として検証されるべき大事な問題です。楽山の嘘と詭弁と偽善の有り様を知って、決して近づかないようにしてほしいです。
 
嘘を吐いて人をあざむき、詭弁で人をだまし、幼稚な屁理屈で自己正当化の言い逃れをしてくる楽山は、最低の男です。いちいち理路が捏造されています。ある意味、暴力を振るう乱暴者よりも酷いのです。暴力は、大方、その時その場ものですが、詭弁は人生の正道を歪めてゆくからです。
 
恐らく、楽山の周りの人も、そばにいる人も、楽山を、説得も、制止も、出来なかったのでしょう。約4年近く批判されて、ろくに返せないのに、まだ平気でいられるわけだから、いったいどれだけ、羞恥心と罪悪感が欠如しているのだろうと思います。
 
 
 
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  今更あざとい
 
 『人生に悩んだから「聖書」に相談してみた』MARO(マロ)著
 2023年01月12日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
楽山には、ウイルスを使った疑いがあります。楽山に作れるとは思えないが、怪しいサイトから仕入れることは可能でしょう。もしそうだとすれば犯罪者ということになります。そこまでやってしまうというのは意外でした。根っからの悪ということでしょうか。
 
ウイルス攻撃が続いています。恥ずかしいという感情を持たないようです。楽山は、約4年も、批判に不感不応で、かつ、罪悪感がないようです。さらに、批判されながら弁明も説明もせずに無視して、なおも騙せると高を括って、平気で書き続けるのも異常です。
 
今まで、散々キリスト教を貶しておいて、ここで褒めればプラスマイナス=ゼロが成り立つと思っているのが大人になり損なった楽山です。謝罪も訂正もないまま、キリスト教を褒めてやった、これでチャラだとでも言いたいのでしょうか。むしろ、批判を続ける動機になります。嘘だからです。
 
 
*はじめに
 聖書の分かりやすい解説本はないかと探していたら、本書を見つけたので読んでみた。マロ氏の著作なら、面白くて、ためになるに違いないと思ったので。
 
「面白くて、ためになる」ことを全く書いたことのない楽山です。楽山は、聖書の解説を読んでも何も分からないと思います。聖書は、謙虚な良心に響く書物です。自己愛性パーソナリティ障害NPDが受け取れるようなことは何も書かれていません。ためになることを全て捨ててきたのが楽山です。
 
 
*教会
結果はと言うと、期待通り…いや期待以上だった。くすっと笑えるところ、心がほんのり温かくなるところ、聖書について「なるほど」と思える話が多々あった。
 
「くすっと笑える」「ほんのり温かくなる」「なるほど」・・全部、嘘です。何を笑ったのでしょう。なぜ暖かくなったのでしょう。何を理解したと言うのでしょう。何も書けない楽山です。自己愛しか持たない者が真善美を気取ると、こういう醜態になります。
 
 
二、三の例を挙げるとすると、まず一つは教会に関する記述である。教会は「すべての人に開かれている場所」であり、「クリスチャンではない人でも、つらいときは逃げ込んでいい」(p.22)のだという。また教会は行く場所というより、「「帰る」場所、すなわちホーム」(p.32)であるという。こういう話を聞くと、教会を身近に感じるし、その優しさは心にしみるものがある。
 
偽善者もサイコパスも、教会に逃げ込むことはないでしょう。こう書けばええじゃろと思って書いても、悪の本性が、それを裏切るのです。三文芝居は浮いてしまいます。本性は表れてしまい、隠すことは出来ないのです。なんて白々しい、そして、わざとらしいのでしょう。表現の心がありません。
 
 
*「いいこと図鑑」と「良書の証」
もう一つは、「いいこと図鑑」のすすめである。どうしても悪いことにばかりに注意が向いてしまう場合は、意識的にいいことを見つけ、日記に書き留め、自分だけのいいこと図鑑をつくろうというのである。いいこと図鑑、または、いいこと日記というのは想像するだけで気分が明るくなるし、いいアイディアだと思う。
 
楽山は、いいことを理解したことも書いたこともあません。この記事も悪だくみしか表れていません。浅く、白々しくて、軽すぎる筆致は、読むに耐えず、痒くなりそうです。楽山にあるのは、欺きの手引きだけでしょう。文脈を無視した飾りは言葉は浮いてきます。まともに書いた文章ではありません。
 
 
三つ目は、眠くなる本は良書の証だという話である。その理由はといえば…悪い演奏では寝ていられないが、良い演奏ではうとうとすることができる。同様に、おかしなことが書いてある本は不快でとても眠ることはできず、むしろ目が冴えてしまうことさえあろうが、いい本を読めば心は安らぎ、すやすやと眠ることになる。
 
楽山は、眠くなった状態で何を読み取ったというのでしょう。うとうとしながら何を理解したというのでしょう。楽山は、うとうとするのが理解だと言っています。楽山に無視を教えたのは読書だったようです。読めば読むほど集中するのが良書です。楽山は読書してないと思います。異常性の証拠になります。
 
 
したがって「有史以来、おそらく世界でもっとも多くの人を眠りに落とし込んでいる本であろう聖書は、世界でもっとも良い本である」(p.49)のだそうな。こういう風が吹けば桶屋が儲かる式の理屈は、実に愉快である。
 
正気でしょうか。楽山の悪意と無教養が漏れ出しています。しかも「風が吹けば桶屋が儲かる」という喩えを読書に当てはめています。楽山は、本を読むことを、眠くなることに喩えて、かつ、よく眠れるから良いと言っているのです。愉快だそうです。人格障害の、すごいズレ方です。
 
 
*「試練」と「誘惑」
四つ目は、聖書の言葉についての話であるが、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」(コリントⅠ 10:13)の「試練」は、ギリシア語では「誘惑」という意味もある言葉であり、本来は「越えられない困難はない」ではなく、「越えられない誘惑はない」と訳すのが本当であるという。だから越えられない試練は現実にありえるのだから、そういうときは、自分だけで苦しまずに神様を頼っていいのだと…。
 
どこの誰の説なのでしょうか、楽山は、書いていません。神の与える試練は、悪魔の誘惑を伴うこともあるのでしょう。「自分だけで苦しまずに神様を頼っていい」・・今さら、どの口が言わせるのでしょう?楽山は無神教カルトです。好きなようにキリスト教を貶めてきました。
 
 
この部分は長年、違和感があったところなのだが、この説明を読んで真夏に水浴した後のようなさっぱりした気分になることができて有り難い。やっぱりマロ氏の著作は面白くて、ためになる本である。
 
今さらのきれいごと、「真夏に水浴した後のような」・・鈍い比喩ですが、「越えられない試練は現実にありえる」・・信仰のない楽山は、できることもしないで言っています。また、信仰者の忍耐を甘く見ている楽山です。「面白くて、ためになる本」・・べた褒めの世辞しか言えない。
 
 
嘘の世辞の卑怯

嘘の世辞の卑怯
 
 
(2023年01月14日)
 
 
 
  創造
 
今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している
 
ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する
 
存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、ウイルスを使った疑いがあります。楽山に作れるとは思えないが、怪しいサイトから仕入れることは可能でしょう。もしそうだとすれば、犯罪者ということになります。そこまでやってしまうというのはい意外でした。根っからの悪ということでしょうか。
 
 
 
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