ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:詭弁

 
  虎馬生産的楽山2
 
 トラウマ反応!?
 2020年06月13日 楽山日記(LD)
 を改めて批判。
 
 
私には、トラウマがあるんだろうと思っています。そのトラウマに楽山は関係ありませんが、ずいぶん昔のことで、一部はブログに書いています。そして、楽山は、不感不応と無反省から、トラウマを与え続ける人だと思います。
 
楽山は説明していませんが、トラウマ反応とは、トラウマの後に起こってくる、むしろ症状のことで、再体験、苦痛、思考や会話などの回避、反応性の麻痺、一方で驚愕反応、意欲減退、睡眠障害、などがあるようです。
 
 
ツイッターを眺めていたら、トラウマ反応うんぬんという話があり、次のページに行き着いた。
自分自身のトラウマ反応にどう対応するか?
どうやら過剰な攻撃の裏には、トラウマがひそんでいることがあるということらしい。
 
楽山は、批判されていることを、過剰な攻撃と言っているようです。批判と攻撃の区別もつかない楽山です。前者には理由と根拠があり、楽山の場合、分かってもいないキリスト教と信仰を、幼稚な屁理屈で侮辱したことです。したがって楽山の反応こそが根拠のない攻撃なのです。
 
楽山については、トラウマを受けて感じる繊細さは無いと思っています。したがって、心に傷を負った人についても共感できないのです。カルトは、抜けた後でも、小さくないトラウマと後遺症を残す原因となりうるでしょう。楽山は、トラウマを受けやすい人ではなく、与えやすい~与える人なのです。
 
 
これを自分に当てはめるなら、認めるのは癪ではあるがHS批判がそれなのだろうな。大概の一般人はHSのことはさして気にせず、スルーしているわけで、自分にそれができないのはそこにトラウマがあるからなのだろう。
 
楽山は、HSを自己顕示に利用しているだけだと思います。そう思うのは、楽山自身の考え方が、カルトに似た訂正不能・無反省・無責任の典型だからです。楽山は、トラウマを受けたのではなく、トラウマを与える人です。
 
楽山の、不感不応の、他者無視の、無反省の訂正不能の、執拗なボンヤリ言語の、あくどい筆致は、誰の心にも消えないトラウマを残し得るものなので、以前から、そして、これからも、決して誰も関わらないように、批判を続ける必要があると感じています。
 
 
一般にはあまり知られていないHSの問題点を明らかにし、社会に知らしめ、注意喚起をするために批判をしているとも言えば言えるわけではあるが、
 
楽山については、全く言えないと思います。楽山の卑怯さは、自身の問題点をぼかし、注意喚起をよそに向ける雑言でしかありません。だまされないでください。楽山は、HSだけでなく、キリスト教も仏教も攻撃してきます。そして、適当に信じるのがいいと、いい加減な宗教を勧めています。
 
そうやって、楽山のような、無反省、無責任な、詭弁屋の、嘘吐きの、サイコパスの、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業として、自分の尊大さを誇示して、他者を隷属させるか、最低の人格のまま、保身を図っているのです。
 
 
それにしたってトラウマは皆無であり、それが批判の動機になっている可能性は微塵もないとは断言できないのだから仕方がない。
 
トラウマは、心の傷ですから忘れることなど出来ないものです。トラウマに気づいた人にとって、トラウマが「微塵もないとは断言できない」という曖昧な言い方は出来ないのです。また、白々しい嘘っぱちの楽山の、実感のない思想の捏造です。
 
つまり、ここでも、楽山は、トラウマを受けた人を、高みから見下ろして批評しているわけです。その結果、このような曖昧表現でトラウマを語る文章こそが、楽山に、トラウマに対する共感性が微塵もないことを表しています。
 
どこまで行っても、何を書いても、誰とも共感できない楽山が表れるだけです。自己愛の我執と我欲から、書けば書くほど、関われば関わるほど、他者に心配りが出来ない楽山は、反省だけは出来ないまま、他者の心にトラウマを与える続けるのでしょう。
 
 
考えてみれば、これは信者側でも同じかもしれない。ツイッター上の信者のなかにはアンチに対して過剰反応を示す人は少なくないが、これは過去にアンチと何かあり、それがトラウマになっているためかもしれない。
 
このように、楽山には、アンチという自覚が根無し草であり、釣り合いをとるかのように、信者側のトラウマを語って、バランス・中庸・中立を言ったつもりで得意になっています。このようなことは、元々、トラウマを受けた自覚などない部外者だから書けるのです。
 
 
信者ブログの中には、もう何年も前に終わった話を度々蒸し返し、既にブログは止めて消えてしまった人のことをとやかく言うブログ主もいるが、これもトラウマが関係してるかもしれない。
 
楽山は、批判に反応しないし、反省せず、自分が言ったことの責任も負わない人なので「もう何年も前に終わった話」と言っていますが、終わってなどいないのです。不都合を全て無視する陰険で白々しい奇声虫のような人です。爽やかさを微塵も持っていません。
 
自分が批判されていることを言っているのかもしれません。楽山には、悪意はあっても、トラウマはありません。そんな繊細は感性など持っていないと思います。だから、トラウマについて、他者のことばかり書いているわけです。
 
このように、他者のことばかり云々するというのが、自己愛性人格障害者の特徴です。自分を見る目を持っていないのです。自分のことを書くときに、自分は大丈夫という暗黙の前提で、軽々しい自尊過大から、他人のことばかり云々して、評論家を気取るということに結びついてゆきます。
 
楽山が残した嘘と偽善については、楽山が、反省もせず、修正もせず、無視している分、いつまでも無反省の自己中の厚顔無恥の楽山からの心的外傷(トラウマ)を生み出す病原性の遺残物として、その内容と言動を、資料として、参照できるようにしておかなければなりません。
 
 
ああそうだ。上とは別の信者ブログの中には以前、記事をパクられたとして騒いでいた人がいるが、この人は最近はまた別の人に向かって同じことを言っている。反省と爽快感、顔施(笑顔)、知ることと信じることなどは大川隆法の本に書いてあり、支部でも話題になることであろうし、信者または元信者であれば普通に話題にのぼることであるし、他者の文章を引用しその感想または意見を書き、長文になるときは分割するというのは一般に行われている常識であろうし、パクリ、パクられたという話にはならないと思うのだが、それにもかかわらず、パクられ妄想を持つということは、そこにはやはり何らかのピンがあるのだろう。
そういえば、大川隆法もわりとちょいちょいそういう話を繰り返しているのだった。自分の意見をパクられた、真似されたとか…。でも実際は次のようになってるんだけどね。
 
楽山のような自己中は、不祥事を、必ず、人のせいにする特徴があります。自分は弁明しているつもりですが、自分を斬ることだけは出来ないという成長不全の人格なのです。楽山が語ることは、ひやかし半分の世間話のように、どんなに人を傷つけても、終われば忘れてしまう軽口に過ぎません。
 
記事の引用は、批判するために必要ですが、まだ、ピンという言葉を使って、それを説明しないところに、楽山の高慢も表れているのです。HS関連など検索しても明確な答えが見つからないので分からないが、ping 応答(時間)、ピンハネのピン、・・?・・などを考えておきます。
 
パクられるということが、「パクられ妄想」とまで書いていますが、トラウマと、どう関係があって、楽山は言及しているのでしょう。楽山は、他者の記事をパクったことがあるのでしょうか。トラウマの話からは浮いているように思われます。こうして文脈が乱れて、悪口だけになってゆく楽山です。
 
それで、相手のことを、「パクられ妄想を持つ」などと言っているのでしょうか。真相が分かれば、重大なことのような気がします。いつも、本や発言などから、都合のよい文言だけを引用してくる生業の楽山だからです。それにしても、こういうのを、理路の散逸というのでしょう。
 
 
根本経典からしてこうであれば、あとは推して知るべしというべきか…。(画像など省略)
とりあえず今思いついたのはこれだけだが、詳しい人であればもっと具体例を挙げられるだろう。こうしてみると、激しいパクられ妄想の根っ子には、過去にパクリを批判されたトラウマがある可能性は低くはなさそうにも思えてくる。
なんだかいつのまにか自分のHSに対するトラウマ反応が発動されて、大分話がそれてしまった観がないでもないが、結局のところ、人は誰でも多かれ少なかれトラウマがあり、それに影響されているということなのだろう。
 
トラウマは、しばしば言われているけれど、そんなに「誰でも多かれ少なかれトラウマがあり」というほど一般化は出来ない心的外傷のことです。楽山は、恐らく、トラウマを与えるほうでしょう。それで、一般化して、徒に責任逃れをしていると思います。
 
"トラウマ反応" という題で、楽山が書いていることは、冒頭に書いてリンク付けているトラウマ反応とは言えないことのようです。自己愛者の特徴として、不祥事を他者のせいにする、というのがありますが、そのために、トラウマの話を持ってきて、ますます他者をおとしめているように思えます。
 
楽山の言う「自分のHSに対するトラウマ反応」は、信用できません。楽山は、トラウマを与えるほうであり、トラウマを受け、トラウマ反応を起こすような繊細さはないと思います。筆致にも表れたことはありません。いつも不感不応だから、トラウマを受けるような要素を持ち得ないのです。
 
トラウマというテーマは、体験からのもので症状を伴うものですから「話がそれてしまう」ことではありませんし、話を逸らすことでもありませんし、ありもしないトラウマの嘘を吐くことでもありませんし、他者を無視することでもありません。もちろん、他者を責める道具ではありません。
 
楽山の言っているのは、本当のトラウマではなく、楽山のような、面の皮の厚い、罪悪感も羞恥心もない、人をおとしめてよろぶ病質、いわば、虎と馬みたいな在り方に当てはまる悪意でしょう。自己愛者は、悪意で面白がって、他者のせいにするときに、都合のよい病因の理屈を当てはめてきます。
 
トラウマというのは、病気・病態であり、心的外傷後症候群PTSDとも呼ばれるわけですから、「誰でも多かれ少なかれトラウマがある」・・などという気安い見解で済ましてよいことではありません。楽山はトラウマとトラウマ反応という言葉を利用して遊んでいる虎の尻尾か馬の鼻です。
 
楽山は、何を言われても返せないのに、平気でいられる人です。つまり、病的人格からの故意の自己中なのです。トラウマを与える人であって受ける人ではないのです。根拠は、今までの総ての批判記事です。楽山の狡賢さは、卑しくて、虎、馬、というより、蛇、鼠、・・の類かもしれません。
 
 
もし、トラウマがない人はいない、一人もいないというのであれば、それについて人を責めても仕方がないし、それならまずは人のことをどうこう言うよりも、まずは自分のトラウマを解消することに努めるのがよさそうだ。うん。納得。
 
楽山は、生きてい関われば、必ず、人を傷つけてしまう人格なのでしょう。だから、今、必死に、唾を飛ばして、言い訳をしているのです。「トラウマがない人はいない、一人もいない」・・大嘘です。いつのまにか、この嘘を前提にして言い逃れている楽山の醜さを心に留めておいてください。
 
人を傷つけて平気な人には、トラウマはないのでしょう。情緒が鈍麻して、傷つくという心の状態を知らないのです。そういう人に限って、人を責めても仕方がない、などと言ってきます。自己愛者の書いてくることは、大方、自己正当化に過ぎません。一人前の人間に成り損なっているためです。
 
そして、そういう人は、自分の無反省を棚に上げて、「自分のトラウマをを解消する」などと言って、三文芝居で「うん、納得。」などと平気で言ってきます。この作為は、被害者を残酷に無視できるような、あざ笑う者だけの特徴であり、殺人的に、あくどいです。
 
結果として、楽山には、トラウマとトラウマ反応について書いておきながら、人のせいにして、自分だけの独り納得で解決を装って満悦する、という、とても残酷な不感不応の人格の、継続する醜い性根だけが表れてしまいます。
 
楽山は、こういう人で、関わると、無反省と無責任で、こういう目に遭い、こういう返しが来る、ということは知っておいたほうがよいでしょう。楽山の与えるトラウマは、虎の放屁、馬の小便、いずれも、張り子に過ぎません。無視して、まともに受け取らないことが、さらに、近づかないことが肝要です。
 
 
トラウマを与え続ける輩

トラウマを与え続ける輩(やから)
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月17日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
カタコルネ@堕天使にアイム・バッド
@korettedounano
衝撃の真実!キリストは青森に来ていた!絵文字(大爆笑大爆笑嬉し泣き)
#幸福の科学 #イエス・キリストの霊言
午後8:59 · 2021年6月15日·Twitter for Android
 
楽山らしい引用です。キリストの御名によって神に祈り、その臨在を信じ仰ぐ信仰に対して、どこそこに「来ていた」「衝撃の真実!」「キリストの霊言」ということを面白がっています。そういうことにしか関心を持てないのです。楽山は、どこまでも安っぽさだけを引用して、はしゃいでいます。
 
心貧しさは先入観と偏見のないこと、精神の貧困は先入観と偏見しかないこと、という意味を学習するための、後者の悪い典型例に、楽山はなるでしょう。楽山の目には、魔法の空想が映って、真実が全く映らなくなるウロコが、へばりついているようです。
 
 
 
  汚れ
 
降りくる芥
明日の今
捨てられた油
を食む魚
跳ねて弱々しく
一時(いっとき)に泳ぐ
昨日の海
降りくる塵
波が熱く
眩しい距離
受けて呑む
肉体の空
晴れ時々曇り
一時の雨
薬のにおいがする
肉の肉
今の明日
 
 
  中へ
 
赤い水を呑み続ける
未だ見ぬ土地を知識だけで語るように
骨の中へ肉の中へ土の中へ
乾きに濃縮され続ける
未だ見ぬ外界を飢餓だけで知るように
乳飲み子の川の底へ
土の中へ肉の中へ骨の中へ
 
 
  魔・興
 
魔は隠れた所に差してくるものだ
興は見る見る醒(さ)めてゆくのに
 
 
  頂点を極める者
 
山頂は常に其処(そこ)から
上には登れないことを示しているのだが
登りつめた者は
まるで空までも征服したかのように
誇らしげに四方を見渡している
高い高い大気と吹き上げてくる風は
なかなか下りようとしない者たちの
有頂天の背後から少しずつ
密(ひそ)やかに帰り道を隠してゆく
 
 
  無償
 
祝福もなく夜に生まれ
墓石もなく野辺に朽ちよ
燃える血を竦(すく)み凍らせ
今は亡き人の影を踏め
臨終の霧を呼吸し
濁りの水泡を食らっては吐き
泡吹く毒の晩餐(ばんさん)を
肝胆に秘めて漏らさず
ただ自らの牙を脆く腐らせ
折ってゆけ最早
立てず座せず臥したまま
やがて唯一の薄い揮発の間として
体内を巡る全ての血が
しずかに止まる音を聞くだろう
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、感受性が壊れているので、自分があたえたトラウマも、迷惑も、害も、全部、相手のせいにして過ごしてきたのでしょう。こういう人は、決して、交流や話し合いに参加させてはいけない人です。自己愛・自己中によって、疲労を与え、他者の人格を破壊しても、平気で、人のせいにします。
 
 
 
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  詩篇88-再録+
 
 「わたしの親しき友は――暗闇のみ」(詩篇87)2020年05月09日
 旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)
 楽山日記(LD)を、改めて批判。
 
 
楽山のような、キリスト教が憎くて、偽善もバレてしまって、恨みと憎しみからの悪意しか持たない者は、こういう意地の悪いことをしてくるという例です。詩篇から不吉な文言を漁って、またキリスト教とキリスト信仰をおとしめたいようです。
 
ここにおいて、憂さ晴らしのために、"災いをもたらす"のは、楽山その人であります。楽山こそ不吉な男なのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者が、満悦気分で書いた醜い記事に過ぎません。
 
 
しばらく前から、聖書の詩編を少しずつ読んでいるのだが、「わたしの親しき友は――暗闇のみ」(詩篇87)という一節には、はっとさせられた。胸にズブリときた。訳者の解説を確認してから読み直すと、どうやら詩人は親しき友からも避けられる不治の病だったらしい。「全詩編中最も悲しい詩」といわれるのも頷ける。
 
ひどい形容です。楽山は「胸にズブリと来た」そうです。胸の中の悪意の沼にでも沈んでゆくのでしょうか。胸に突き刺さったのなら、こういう表現にはならないはずです。楽山は、作文の勉強が成っていないので、しばしば、見当外れの表現を使って、ボロを出しています。
 
私の使っているネットの口語訳聖書では、詩篇87は讃美であり、上のような一節はありません。たぶん詩篇88の「わたしの親しき友は――暗闇のみ」に似た一説は、18節「わたしの知り人を暗やみにおかれました。」とあります。訳による聖書の節の区分が違う可能性もあります。
 
(ネットより)
この詩篇の詩人は、「私は若い時から苦しんできました。今は死を待ちます。」(16節)と歌っています。この言葉に表されているように、この詩人は、若い時から病に苦しみ、その病が癒されることのないまま、死を待つ身となっている希望なき状況に立たされています。
この嘆きの言葉を述べる詩人には、慰めや希望の光は一条も差し込んできません。彼は、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(19節)とこの嘆きの祈りを結んでいます。ついに彼の深い嘆き、苦悩の問題は答えられないまま終わっています。この詩篇は答なき詩篇です。
 
まさに、命が終わろうとしているときの信仰の詩であり祈りなのです。何も良いことがなかったというときの、神に対しての告白に、信仰の凄まじい迫力が表れているのです。信仰を利益でしか考えず、何でもハッピーにならないと信仰ではないと思っている楽山には分からないでしょう。
 
この世の、どうしようもない苦難の中だからこそ信仰が必要なのです。まさに、そのような絶望的な境遇だからこそ、正直に告白し、神に救いを求めているのです。楽山のように利益と言葉面だけを追って神をけがすような浅ましい勘違いをしてはいけません。
 
信仰は、見た目の良い言葉だけを捧げている間は未熟です。叫びのような本音を捧げることによってのみ、苦悩と死に同伴する神を知ることになるのです。この聖句は旧約ですが、新約においては、同伴者が、他でもない、キリストになります。
 
信仰は命です。キリストは救い主です。安っぽいご利益の思い込みしかなく、深い意味を何も理解しないで信仰について書いているつもりの楽山は、実に、人間の正直な苦難に何の共感も持ち得ない、浅ましいクズだと思います。
 
 
また解説によると、「詩人の中心問題は「死」。死は詩篇において肉体の死よりも、神からの隔絶をいう」とのことである。とすると、「あなたは死者のために奇跡をなし給うや、亡霊は起き上がって、あなたをほめたたえようか」という一節は、墓の下の死者について言っているというだけではなく、信仰を失った者をも招いてくださるのかを問うているという解釈も無碍に却下されるとも限らないということだろうか。それともこれはいくらなんでも手前勝手でご都合主義に過ぎる考え方かな。
 
詩人の中心問題は、紛れもなく信仰です。だから、詩篇に載っているわけです。「あなたは死者のために奇跡をなし給うや、亡霊は起き上がって、あなたをほめたたえようか」に相当する口語訳は、私の聖書では10節になっています。未だこの世しか知らない人間の悲哀が表れています。
 
「信仰を失った者をも招いてくださるのかを問うている」・・ひどい曲解です。信仰のない者が、絶望だけになるなら、このように正直な感想を、神に向けて、救いを乞うたりはしないでしょう。楽山の白々しい嘘の信仰芝居とは違うのです。
 
 (詩篇、口語訳)
あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。
 (詩篇88:10、旧約聖書)
 
楽山は、根っからの反キリストなので、また、反省しないがために学習せず成長しない知恵足らずで深い理解が出来ないので、マイナスの文言が並んでいたら信仰の否定と思って悦に入る単純さです。まったくもって詩篇および聖書の逆説を理解できないわけです。
 
楽山は、詩篇88を読んで、大ごとだ、神否定の証拠だ、・・みたいに舞い上がってしまうような短絡だから、ボンヤリ言語でごまかしたつもりでも、キリスト教に対する悪意全開となって、滅裂で批判にもならないような、神否定の悪口を書いています。そういう文言を探していたのでしょう。
 
そういう、聖書も、あらゆる本も、虚心に読むということが出来ず、訂正不能の頭で、都合の良いところだけ受け取って自分を飾ることしか出来ない楽山は、まるで当然の成り行きのように反キリストになっているのです。真実の深みという深みに、楽山にだけは、縁がないのでしょう。
 
こういう、一見、現実に照らして、神に対して、嘆くような、否定のような文章は、聖書が扱っているテーマでもあり、私が読んだ範囲だけでも、ヨブ記や伝道の書などに、いっぱい書いてあります。それらを、ことごとく、我執で解釈して、神否定に結びつける楽山の安易さと怠慢が表れているだけです。
 
答えが謎解きや道徳みたいには、はっきり書いてないというだけで、これで、キリストを否定できると空想する楽山は、愚かであるだけでなく、極めて質(たち)の悪い、執拗にサディスティックに攻撃してくるだけのサイコパス人格であり、反キリストだと思います。
 
信仰者は、幸不幸、喜怒哀楽、絶望希望、全て正直に、本気で、本音で、祈るということです。聖書の詩人は、そういう祈りこそが、総てを統べられる神に届き、神によって受け取られることを、たとえ苦難から臨終に向かうときも、絶対孤独からの解放があることを、知って書いているのです。
 
楽山は、快か不快かだけの原始本能の人です。極めて迷惑です。悪意の原始反応だけで思い上がった学者気取りの、何もまともに考えていない人で、世辞と嘘と詭弁だけの楽山は、小学校の道徳でも学んだほうが、まだマシでしょう。楽山こそ、まさしく "手前勝手でご都合主義" の権化であります。
 
カルト的な思想というのは、有神無神を問わず、でっち上げの妄想から出発しているので、自分で文句を言って、それに自分が斬られる、というのは珍しくありません。そのことを、本人は、理解できないために気づかないという醜態です。聖書をけなす楽山は、実に、自らの醜さを体現しているのです。
 
温もりも潤いも感じさせることが出来ず、教えるためのインテリジェンスの欠片もない、自己愛性人格障害の楽山は、否定の文言を、詩人が、神に向かって叫んでいることを考えないのでしょう。信仰を捨てたのなら、神に向かって祈りません。楽山のように悪口を言うだけでしょう。
 
 
と、ここまで書いて思ったけれども、ここで語られている悲しみは、多分に激しさを秘めている感じがする。日本の古典にある悲しみは、激しいというよりも、静かで乾いている雰囲気があるので、この辺りはやはり異文化ということなのだろうか。自分は優劣を問題にしたいわけではないけれども、どうもこの質的な相違に無頓着ではいられないのだから我ながら面倒な性格だ。
 
「静かで乾いている雰囲気」などありません。信仰の叫びなのです。楽山は、面倒な性格なのではなく、人間らしい知性と感性の欠落です。信仰者が、いつも讃美だけを書いてくるとでも思うのでしょうか。信仰者は、本気で、神に対しているのです。
 
世辞だけを悦ぶ楽山は、日本の古典の静かで渇いている表現が、いっそう、深い悲しみを表すことも知りません。聖書を「異文化」で済ませる浅はかな楽山を相手にしないでください。
 
楽山は、義務を果たさず権利を主張し、責任を負わず自由を行使します。シャロームと同様の、全く文責というものを負う気のない、自己愛性人格障害の自己中が表れているのです。
 
既に、どこかで、身勝手な悪口を否定されたのではないかと思います。ひょっとして、キリスト教の教会にでも行って、未熟な自説を否定されまくったのではないかとさえ感じます。それで、恨みに燃えて、詭弁だけを学び、似たような偽善者シャロームと世辞のつきあいを始めたのでしょう。
 
しかし、そこは、仲間ぼめによって、怨念を培養し、自己中を貪食し、悪意と敵意を増幅して、良心を捨て去るところなのです。あるいは、シャロームと楽山は、同一人物の成りすましではないかとさえ思います。この世への怨念だけを潜熱のように深く抱えているところが一致しています。
 
 
楽山の記事は、ネットの口語訳聖書では、87章ではなく、次の88章と思われます。
11~12節は、むしろ、人間的共感のために、私のお気に入りです。
 
 (詩篇、口語訳)
第88篇 1-18
聖歌隊の指揮者によってマハラテ・レアノテのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌、さんび。エズラびとヘマンのマスキールの歌
88:1
わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、
夜、み前に叫び求めます。
88:2
わたしの祈をみ前にいたらせ、
わたしの叫びに耳を傾けてください。
88:3
わたしの魂は悩みに満ち、
わたしのいのちは陰府に近づきます。
88:4
わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力のない人のようになりました。
88:5
すなわち死人のうちに捨てられた者のように、
墓に横たわる殺された者のように、
あなたが再び心にとめられない者のように
なりました。
彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。
88:6
あなたはわたしを深い穴、
暗い所、深い淵に置かれました。
88:7
あなたの怒りはわたしの上に重く、
あなたはもろもろの波をもって
わたしを苦しめられました。
88:8
あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、
わたしを彼らの忌みきらう者とされました。
わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。
88:9
わたしの目は悲しみによって衰えました。
主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、
あなたにむかってわが両手を伸べました。
88:10
あなたは死んだ者のために
奇跡を行われるでしょうか。
なき人のたましいは起きあがって
あなたをほめたたえるでしょうか。
88:11
あなたのいつくしみは墓のなかに、
あなたのまことは滅びのなかに、
宣べ伝えられるでしょうか。
88:12
あなたの奇跡は暗やみに、
あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。
88:13
しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。
88:14
主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。
なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。
88:15
わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。
あなたの脅しにあって衰えはてました。
88:16
あなたの激しい怒りがわたしを襲い、
あなたの恐ろしい脅しがわたしを滅ぼしました。
88:17
これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、
わたしを全く取り巻きました。
88:18
あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、
わたしの知り人を暗やみにおかれました。
 (詩篇88:1-18、旧約聖書)
 
11~12節が、特に、逆説的に、正直な気持ちの発露として、好きです。つまり、いつくしみは・・、まことは・・、神の義は・・、そんなはずはない、主よ、どうか救い出してください、という、世辞の讃美では済まない、なりふり構っていられない本気の叫びであります。
 
迫害が迫っている状況なら、讃美も、迫力と勇気に満ちたものになるでしょう。しかしながら、そこそこ平穏なときに、讃美ばかりを勧めるのは、大仰な感じがして、信仰自慢に思えて仕方ないです。
 
人生において、私たちを信仰に向かわせるのは、讃美ではなく、どうしようもない悲しみだったはずです。この詩篇は、本音をそのまま叫んで、神に委ねようとしているから、好きなのです。
 
私たちは、いつも讃美したくなるほどの立派な信仰など持ってはいないのです。悔いること、改めること、望むこと、求めること、叫ぶこと、それらより、讃美が優先するとは、思えません。讃美するのが信仰・・ではありません。
 
讃美すれば、神様は、ごきげんよろしいのでしょうか、違うと思います。正直以外、神には、通用しないのです。祈るごとに、唱えるごとに、飾りは飾りだと、偽りは偽りだと、神様によって、すべて、見抜かれているのです。
 
こういう、逆説的だが、率直で正直な言葉が削除されずに聖書に載っているところが、私のお気に入りであり、共感であり、感動なのですが、嘘吐きの楽山には分からないのでしょう。正直な本音の告白こそが、共感に満ちた聖書の宝なのです。
 
人間の悩み苦しみの本音が表されていなければ、楽山やシャロームのような世辞付き合いしか出来ない偽善カルトの宗教に過ぎないのです。本音の告白があり、考えさせるところが、聖書の持つダイレクトでダイナミックな深みなのです。
 
いつも讃美で溢れているわけではないのが、生きる人間のための聖書です。それを上回るだけの共感と癒しと慰めと救いがあるからです。楽山やシャロームのような異常人格は、それが分からないものだから、ここぞとばかり、いちゃもんだけを吐き出してくるのです。実に不潔です。
 
本音もクソも分からなくなっている楽山と、その仲間の、白々しい嘘っぱちの讃美、讃美、讃美、そして酸味ばかりの、精神詐欺師で偽牧師シャロームの記事のようなものは、その吐物の臭気に、さらに吐き気を催すだけで、救いどころか、腐って漬物にもなりません。
 
楽山やシャロームなどの偽善者は、躓(つまず)いたら、石に、道に、道路作った人に、道路のある街に、文句を言う者たちです。そのくせ、彼らは、好きなだけ、道に唾を吐いて、人に嘘を吐いて、人を躓かせるのです。
 
分からないなら、分からないことについて偉そうに書くべきではない、ということを弁えず、文字通りに受け取って、洞察もなく、根拠もなく、キリスト教を否定してくるから、楽山の、単細胞の無理解は、迫害と言ってもよいほど、総てのキリスト者の敵となるのです。
 
次の詩篇の聖句を唱えることのできる人は、そんなに多くないと思います。
 
 (詩篇23:4、口語訳)
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
 (詩篇23:4、旧約聖書)
 
聖書と信仰によれば、神の戒めと懲らしめの、鞭(むち)は鞭だけではないことがあり、不幸は不幸だけではないことがある、杖の助けともなる、ということなのですが、その一番大事なところを、共感力と反省力が皆無の楽山やシャロームは理解していないのです。
 
どうしようもない悲劇があるからと神を否定するのではなく、どうしようもない悲劇があるからこそ、神を必要とするのです。人は、信仰によって、神と、正直な本音の付き合いをするのです。
 
楽山やシャロームの口車に乗ることの、決して、ないように、さらに、その前に、彼ら病原に、決して接近しないように、祈っています。拝。
 
 
 
楽山とシャロームなどの自己愛者は、いつも正しく、威勢の良いのが信仰だと思っているようです。その分、高慢になり、厚顔になり、傲慢になります。
 
例えば、精神的に健康で、謙譲の心を持っている人は、批判されると、しゅんとなって、書くことをやめて考えるでしょう。それ以前に、気の弱い人は、元々、楽山やシャロームのような厚かましい書き方はしません。
 
批判されて、どういうことかと尋ねてくるのは正常です。反論か弁明をするのも正常です。しかし、批判されても、何も答えないで、反論も弁明も出来ないまま、嫌がらせのように同じ否定の悪口を書いてくるだけなのが、楽山とシャロームです。
 
このような者たちは、決して、真面目に書こうなどとは思っていないと思います。遠回しであってもなくても、とても、いやらしい根性の持ち主です。だから、以前は説明もしましたが、受け取り方も主張も固定していて、まるで話にならないので、今は、直接の遣り取り~交流はしません。
 
そういう者たちが、知ったかぶりで、キリスト教とキリスト信仰を、説教~攻撃してくるならば、信仰者の務めとして、できる人が率先して、たとい悪と呼ばれても、こちらの言い分だけでなく、相手の外れ方も書かなければなりません。
 
 
信仰の叫び「

信仰の叫び
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月16日、再録+加筆)
 
 
 
  絆
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない想い
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  叫び
 
叫びがある
叫びになりたい
 
命ある人ではなく
命になりたい
夢見る人ではなく
夢になりたい
歌う人ではなく
歌になりたい
 
何を見つめたらいい
 
無意味な人ではなく
無意味になりたい
死ぬ人ではなく
死になりたい
 
叫びがある
叫びになりたい
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  椅子(いす)
 
他人(ひと)の作ってくれた椅子に
腰掛けていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
立ち上がり
椅子を打ち壊す
人は驚いていなくなり
誰もいなくなった
扉をあけ
扉を閉めた
長い廊下がつづいた
長い廊下が続いた
 
長い廊下の終わりには
錆びた扉がしまっていた
外では何やら
がやがやと音が聞こえた
戻ろうか と思っていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
あわてて扉をこじあけた
するとまたたく間に
彼をとらえた光の中に
彼はいなくなり
誰もいなくなった
 
彼のを行方を
たずねてはならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、詩篇も、聖書も、あらゆる本も、身勝手な自己愛からしか読んでいません。そこに、自尊過大からの他者無視という、お山の大将的な訂正不能の傲慢があります。ゆえに、平気で、大いなるものに対しても不平不満の果てに否定してしまうところの、無知と無恥の堕落した蟻地獄があるのです。
 
 
 
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  後悔しない楽山2
 
 後悔しない生き方(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』)
 2021年06月13日 楽山日記(LD)
 
 
楽山に見られるところの、わざとらしさ、うさんくささに気づいてほしいと思う記事です。
 
 
ザビエルの書簡集をつまみ読みしていたら、川で溺れて九死に一生を得た男の話が紹介されていた。この男は救けられたあとで、水中で死を覚悟したときをふりかえって「生きているあいだ中、自分が死ぬための準備を何もしていなかったこと」、修道院に入りたいと思いつつも「何も実行していないこと」の二つを後悔したといっていたという。ザビエルはこの話を次のようにまとめている。
私は友人や知人が、善い考えや主なる神に奉仕したいとの望みを抱きながら、実行に移す時を延ばしていると、いざ行おうとする時には、時間も機会もなくなってしまうのではないかと、気の毒に思っています。
(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』河野純徳訳、平凡社〈東洋文庫579〉、1994年、pp.62-63)
 」
これは出来すぎた話のようにも思えるが、この教訓はまったくその通りではあるし、それだけに耳に痛い言葉だ。自分は昔から怠け者の面倒くさがり屋で、何でも先延ばしにして、せっぱつまってから慌ててはじめるという風なので…。
 
「耳に痛い言葉」「昔から怠け者の面倒くさがり屋」という卑下が白々しいのです。「せっぱつまってから慌ててはじめる」・・何を始めるというのでしょう。知りもしないキリスト教と信仰を、浅知恵で決めつけて否定するだけです。何も始まっていません。
 
歴史的に有名な人物の書いた書簡を、「つまみ食い」するのだそうです。恐らく、聖書も、他の書籍も、いかなる有名人の名言も、同様だったのでしょう。だから、おつまみ程度に、いい加減な記事を、趣味的に書いてきたのでしょう。書くべき必然が、どこにもありません。
 
楽山は、「いざ行おうとする時には、時間も機会もなくなってしまう」というザビエルの言葉を受けて、同情を誘いたいのでしょうか。しかし、「耳に痛い言葉」「反省。」「自分は昔から怠け者の面倒くさがり屋」「せっぱつまってから慌ててはじめる」は、大嘘です。
 
楽山は、「反省、とほほ」と書いたことがありますが、その前後で、全く変わりなく、今に至るまで、ずっと、自己中の、偏向した記事でした。自分を見ることが出来ないのです。また、楽山は、他者の言うことを、世辞以外、すべてと言ってよいほど、無視してきました。何も変わっていないのです。
 
したがって、他者の言葉が、「耳に痛い」こともないのだろうと思います。平気で、無視して、平気で、同じようなことを繰り返し書いてくるのです。人間として大切な反省をせず、責任を負わないのですから、「面倒くさがり屋」ではなく、邪悪で、怠慢で、学習意欲がないのだと思います。
 
都合の悪いことを平気で無視するので「せっぱつまってから慌ててはじめる」のではありません。あわてて訂正や反省を書いた記事があるはずですが、全く見られません。前に、アドラー教の、気に入らないことは無視しましょう、という信条?を書いて宣伝して、そのまま実行しているのでしょう。
 
このように、楽山の軽々しい芝居は、うさんくさくて、嘘だと分かる人もいるでしょう。楽山というHNを見たら、あるいは、話に出てきたら、嘘吐きだと教えてあげてほしいと思います。この2年間、いいほうには何も変わっていません。
 
今になっても、こういう白々しいことを書いてくるところを見ると、やはり、原因は、元々訂正不能の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと思います。平気で、嘘を吐くのです。それに引っかかって、「やさしいお人柄ですね」というコメントが付いたこともあります。あくどい。
 
今でも、そういう嘘が通用すると思っているのです。知性・感性・洞察力・共感力は、自己中によって鈍麻しています。だから、また同じことを言えるのでしょう。ふつうなら、察しが付くところを、気づかない哀れな人です。それにしても、よくも、また、白々しいことを書いてくるものです。
 
 
こういうところは本気でなおさなければならないなと思う。
 
ですから、これも、嘘です。この2年余り、楽山の本気は、自分を改善する方向に向いたことはありません。楽山に、本気はないと思います。「なおさなければならないと思う」も嘘です。前から書いてきた自己愛性人格障害によって、楽山は、自分を直す必要を感じないからです。
 
直す気があるなら、とっくに、反省して、この記事のような言葉面だけでなく、記事の内容に、はっとさせる何らかの変化があるはずです。何もないとしか言いようがありません。はっきり言って、こういうことを言うときの楽山は、笑っていると思います。嘘が上手いつもりでいるのです。
 
ただ、だんだん、白々しさが増しているようです。人格破壊が、また、進んだのかもしれません。少しずつ、内面に比例した、下手くそを、否応なしに出してしまう、という傾向はあるでしょう。嘘の理路、自己中の辻褄合わせは、いずれ、無理を生じることが考えられるからです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ナタリー・ポートマン守護霊の霊言では、その美しさを強調しているが、
本人は、見た目で判断することに思い切りダメ出ししとるじゃないかい。
・ナタリー・ポートマン、女性を見た目で評価する軽薄な価値観を批判
午前7:07 · 2021年6月13日·Twitter Web App
心機一転★こも楽山
@komo266
「宗教者よりも、あの世を信じない唯物論者の方が倫理的なことが多い」という話があるが、これもその例か。
午前7:11 · 2021年6月13日·Twitter Web App
 
何も信じておらず、人を惑わし傷つけるだけで、無反省・無責任の、反倫理・反キリストが、楽山です。今日も、霊言とばかり、知ったかぶりで、女優のことを言っています。こういうゴシップと、宗教・信仰とを、同じオモチャ扱いで、雑に、批評する軽々しさが、楽山の特徴です。
 
「宗教者よりも、あの世を信じない唯物論者の方が倫理的なことが多い」などという決めつけは、反キリストならではの暴言です。キリスト教の悪口だけは忘れないようです。好きなだけ、ゴミをばらまいて、自己満悦の散歩でしょう。日課のように公共を荒らしています。それしか出来ない人です。
 
今まで、理路は好きなように捻じ曲げ、知識は小学生レベルの拙劣な理解、共感の深みは皆無であり、我執だけが強く、芸能・作家・宗教家・学者など、遠慮もなく勝手に引用して、同じ悪口を、繰り返し言ってきます。真面目な態度が皆無で、様々に言っても、結局、偏向した揶揄の域を出ません。
 
楽山は、何気なく書いているつもりでも、揶揄しか出来ない体質は表れてしまいます。自己愛性人格障害の因業だと思います。それを隠そうとする欲動と、自慢しようという欲動によって、楽山は、だんだん、曇りガラスのような、正直も本音も見えない人になってきたのでしょう。
 
楽山は、今まで、我執と怨念によって、同じことを繰り返し書いたり、思いつきを書いたり、安定しない、いい加減さを、表してきました。それもこれも、一切、責任を負わないし、負えるだけの芯を持っていないことを如実に物語っているのです。
 
※ 
 
こういう楽山のような人は、書いてくる文章を観察し、筆致を、つまり、書き癖のようなものを、できるだけ読み取ってゆくしかありません。したがって、継続的に、経時的に、今まで3年間余り、そして、これからも、楽山の記事を、読み続け、批判してゆく必要があるのです。
 
楽山の体質は、人の言うことを無視して平気でいることです。それを利用して、鈍麻した警戒心と散漫な注意力のために平気で書いてくる記事が、資料となりうるのです。楽山には、バレるから書かないでおこう、という選択肢が想起されないのだろうと思います。白々しさに気づかないからです。
 
 
偽善者は笑う

偽善者は笑う
 
 
(2021年06月14日)
(2022年06月15日、再録+加筆)
 
 
 
  惑いの台詞
 
わかっているさ
 が
 繙(ひもと)こうとしているのは
解けない帙(ちつ)の夥(おびただ)しい中味
 
勝手だろ
 が
 映し出す姿は
儘(まま)ならぬこの世の物事に
圧倒されている詰めの甘い自分
 
ほっといてくれ
 が
 教えることは
ほっとかれて為し得る事の乏しさ
 
詰まるところの惑い
 
まだ団居(まどい)を求めているか
中身のある談笑を信じたいか
 
 
ちつ【×帙】 の解説
[名]書物の損傷を防ぐために包む覆い。厚紙を芯 (しん) とし、表に布をはって作る。文巻 (ふまき) 。文包 (ふみづつみ) 。
[接尾]助数詞。帙入りの本を数えるのに用いる。「和本三―」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B8%99/
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
 
わからないと
なぜ言えない
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
食道も塞がってしまうのだ
 
わからないと
なぜ言えない
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  すごい団欒
 
「じゃあ」と手を上げて
別れたあとも門の前で
頭をかきながら、うろうろしている
恋人を置き去りにして
 
娘は茶の間に飛び込んできた
「すっごい面白かったよ」
「すごい」を連発している
娘の一日の話に
「すごい」を連発している
息子たちを見ながら
 
母さんは終始
微笑んでお茶を飲んでいた
父さんは
すごさがわからなくて当惑した
じいさんは、この家が
荒れ果てていくように思えて悲しんだ
 
隣の部屋に寝ていた
ひいじいさんは
ひ孫は外国語が上手になったのだと
安心して昇天していった
四世代にわたる
すごい夜の団欒である
 
 
 
 楽山のツイッター追加ですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HSの場合、
「神に従順であれ」というのは、
「大川隆法に従順であれ」という意味になってしまうからね。
大川隆法の教えに、異論を述べたり、従わなかったりすると、
「従順でない」「自己中だ」と叱られてしまう…これはもう話にならん(笑)
午後7:20 · 2021年6月13日·Twitter Web App
 
楽山は、いかなる不正も批判する資格はありません。楽山はアンチではありません。楽山は、自己愛性人格障害です。他者を揶揄して遊んでいるだけです。だから今日も「((笑))」と書いて結んでいるのです。軽薄で、表面的であり、真摯さ、真剣味が、何もない人です。
 
自己中の楽山を鵜呑みにすると、人格を破壊されます。人を誘導して、だますような、楽山に従順であってはいけません。自分の害悪に気づけない病気の体質なのです。悔いることも改めることも反省することも責任を負うことも出来ない人ですから、近づかないでください。
 
楽山は、いつも正しく中立な自分に従えと言いたいのです。サイコパスでサディストで、他者を下に見て、学者気取りで教えたがるのは、カルト教祖気取りの人格です。ゆえに、双方向が成り立ちません。一見、まともなことを言っているように見せかけている分、いちばん悪性度が高いのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
罪悪感がなければ、悔いることがなく、ならば、学んで成長することもないのでしょう。上から眺めては、善悪や正邪の判断を、自分で決めつけてきますが、自分については、決して非を認めることがないのです。上に、反省は難しいと書いていますが、ふざけて「反省。とほほ」と、何度も書いてきました。
 
反省と書けば、反省したことになるのでしょうか、否です。反省したならば、その前と後で、違ってきて当然です。実際は、何の変化もありません。さらに「とほほ」は、反省するときに書かないでしょう。反省と書いたから、ええじゃろ・・と嘲笑っているのです。ふざけているのです。
 
 
 
 
無神教カルトにけしかけられて、神の存在の証拠を巡って論争するのは愚の骨頂です。証拠があれば、信じる必要はないのです。さらに分かりやすい証拠をもって存在する神は、キリストが表し、信仰者が信じる神ではありません。
 
全知全能・絶対完全・永遠不変の神は、不完全な人間に、ご自身を容易く表し理解させるような安い神ではないからです。
 
 
 
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  楽山ただ長 2
 
 『君よ、涙の谷を渡れ。』とは正反対の考え方
   (自分で考え、判断することのすすめ)
 2021年06月10日 
 幸福の科学とは何だろう(楽山ブログ)
   を改めて批判。
 
 
殆ど、引用だけなのですが、楽山は、たくさん書けば気が済むのでしょうか。こうやって、読む人に、無駄な時間を費やさせて、疲れさせてゆくのが、楽山のやり方か意地のようです。自らを省みない人は、鬱陶しいだけです。
 
 
*君よ、涙の谷を渡れ。
先日、ツイッター上にて、『君よ、涙の谷を渡れ。』が話題になっていた。
その画を借りて貼るとこうなる。これを読み上げている動画はここにある。
「20210609 君よ、涙の谷を渡れ。」(省略)
改めて読むと、自分のことを仏陀であり、神だと信じ、その証明は求めず、判断もせず、ただひたすらついて来ることを求めるというのは随分と破天荒な説法だ。弟子が師に「ついて行かせてください」とお願いするのであれはわかるが、師が弟子にこれだけ強く無条件に信じることを求めるのは珍しいのではなかろうか。
 
楽山は、自分のことを学者か宗教家とでも思っているのでしょうか。実際は、その実はなく、判断は先入観によっており、批判に対して、応答はなく、弁明もなく、ただ、書いてくるだけに終始しています。単方向に言い張ることだけで、満足できる病質者なのです。
 
楽山は、読者に、これだけ無条件に単方向に見せながら、読んでどうこう、読まれてどういう・・ということを何も考えていないのです。しかも、その大方が、引用から成っており、受け取れる言葉かどうかについても、楽山には、ちゃんとした意見などないということです。
 
 
*シルバー・バーチの霊訓
ちなみに他の思想宗教では、これとは正反対の考え方が説かれている例は少なくない。
まず、シルバー・バーチはこう言っている。
「いつも申し上げているように、もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.126)」
 
信じる信じないは自由です。しかし、楽山は、神はいないと言って、否定してきました。その根拠として、神がいるなら悲劇が起きるのはおかしいとか、神がいるなら証明しろ、といった類のことを言い、また、引用したのです。証明できるなら、信じる必要はないのです。楽山の言は、全くの筋違いです。
 
楽山の言うことは、全く双方向の意見交換や交流を前提としていないので、批判しても、社交の世辞を返すか、批判に対しては無視するか、嫌がらせを書いてくるかです。しかも、反省せず、責任を全く感じないのです。楽山の言うことは、真に受けると、異常な疲労か、深い傷になるだけです。
 
 
「私たちは盲目的な信仰、理性が同意できない信仰、不可能なことを要求し奇跡を期待するような信仰をお持ちなさいと言うつもりはありません。
(同上、p.126)」
 
キリスト信仰は、超常の奇跡を思い込み信じ込むことではありません。それら超常の奇跡ついては、地上の私たちは、信仰者でも、分からないと言うのが正直であり、良心というものです。分かったつもりになるのは、楽山のように、一気に、超常に、関わり、なりたがる者たちであります。
 
楽山は、先ず、理性が整っておらず、反キリストとしての先入観や偏見だけで、書いてきます。しかも、楽山自身は、霊能者気取り、学者気取りですから、その語るところ、学習意欲がないことの表れとして、大部分、他者の口を借りており、かつ、一定の主張になっていないという特徴があります。
 
キリスト信仰において、整えるべき理性は、神とキリストの超常奇跡などから、私たち人間は神聖とは違うこと、つまり、人間の不完全を知ることであり、感性においては、キリストが、罪や病の人たちに、命を犠牲にするほどの共感を示したことであります。
 
 
「「交霊会に出席している人が一瞬たりとも理性的判断をおろそかにしてよいと言っているのではありません。これは神からの贈物です。支配霊が誰であろうと、通信霊が誰であろうと、もし言っていることが自分の理性に反発を感じさせたら、それはきっぱりと拒絶するのが絶対的義務です。
(同上、p.135)」
 
楽山は、理性的判断というものが、殆ど成り立っていない人です。だから、言ったら言いっぱなしであり、責任を持ってフォローする気が全くありません。理性ではなく、我執の子供のような妄想的固定観念によって是非を語ってくるので、話にならず、とても迷惑です。
 
 
「「私が ぜひとも指摘しておきたいことは、霊的知識の恩恵を受けた者はあくまでも理性の光に従わねばならないということです。他界した霊がこうして再び戻って来るそもそもの目的は、父なる神が子等に授けた全才能を発揮するように地上人類を促すことです。知識の探求、叡知と真理の追及において理性を無視したり、道義の鏡を曇らせたり、良識を踏みにじるようなことがあってはなりません。
(同上、pp.56-57)」
 
キリスト信仰は、理性や感性という人間の良心を無視する信仰ではありません。人間として、精いっぱい考えなければいけません。そして、できることをして、神に、正直に祈る信仰です。つまり、楽山のような病質者が最も嫌うことであります。
 
キリスト者(クリスチャン)は、共感の主イエス・キリストに、共感する人たちです。
 
楽山は、ガラクタのような屁理屈で、いるとかいないとか、クレームをつける人です。しかも、否定しながら、信仰に代わる別の良きものを、何も用意してはいないのです。
 
なお、上にも述べたように、楽山には、理性からの節操がなく、結論と言い張りだけで出来ているような思想ですが、それを、ボンヤリ言語という婉曲表現で、刷り込んできます。今回も、強迫性の自己顕示欲から、文章を書いているだけで、整えていないから、文章に締まりがなく、無駄に長いのです。
 
 
「いかに立派な霊であっても、いかに高級な霊であっても、いかに博学な霊であっても、その説くところがあなたの性分に合わない時、不合理あるいは不条理と思える時は、遠慮なく拒否するがよろしい。あなたには自由意志があり、自分で自分の生活を律していく責務があるのです。
(同上、p.58)」
 
人間には、信仰者であっても、自由意志があります。それは、神によって与えられたもので、自由意志を持たないのが宗教という先入観を植え付けようとしている楽山の刷り込みは、すべて、妄想的偏見であります。楽山には、自由意志の代わりに、病理の強迫~衝動だけがあるのでしょう。
 
楽山には、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために自由意志がなく、加えて、他者の自由意志を、思考、感性とともに、うんざりするような疲労の迷路に誘導して、鈍麻させ、腐らせ、破壊してゆきます。
 
 
「あなたも自由意志を持った一個の霊であり、簡単に自分の考えを譲るようなことをしてはいけません。(同上、p.60)」
 
自由意志を持った一人の人間である限り、自己愛性人格障害という病魔に従っている楽山に譲るようなことをしてはいけません。楽山に社交の世辞を言ってはいけません。それは楽山の大好物であり、罠の入り口であります。気遣いの出来ない人に対して、気遣いは禁忌であります。
 
 
*釈尊の言葉
仏典には、こうある。
(省略)
この問答からは、釈尊は「疑問は持ってはならない。何も判断せず、ただ信じてついてきなさい」とは正反対の考え方をしていたことがうかがえる。
 
楽山は、真っ当な議論をしたことがありません。議論の動機が自己顕示欲とサディズムですから、相手が疲れるのを見て、喜ぶだけです。楽山とは、議論しようなんて思わないでください。何か言ってきたら、楽山の意見は捨ててください。
 
疑問は、湧いてくるものであり、持ってはならないなら持たなくなるというものではありません。思い込み信仰や、楽山のような無神教カルト&教祖願望的妄想者においては、持っている疑問を押し殺すために、学習と成長がなくなります。自己愛に凝り固まり訂正不能の楽山においては顕著なのです。
 
議論や交流の可能な人は、責任感があり、罪悪感があり、自分で反省や修正の出来る人です。楽山は、全くそういう意志も能力も持っていません。そして、ただ、病魔は、企み、印象を植え付け、刷り込んで、病原を伝染します。
 
 
*神を試す?
聖書はどうかといえば、神に対して「本当の神であることを証明してほしい」と求め、それが叶えられる場面がある。
主は彼に言われた。「わたしはあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われた。
ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。
(士師記 6.16-22)
 」
 
大昔の、預言者と御使いの話で、かつ、現代ではほとんど起こっていない超常の神のわざが示された話です。これを信じ込んで、念力が身につくでしょうか、生きている喜びが深くなるでしょうか。否です。信仰は、人が超常的に高められるためではなく、超常に近づくためでもありません。
 
超常ではないところの、心の奇跡については、人間を癒やし救う大いなる恵みとなります。それを受けると、祈る時と所を与えられ、絶対孤独からの解放を得て、温もりと潤いに満ちた生き方へと成長するでしょう。それを愛と呼ぶのだろうと思います。
 
楽山は、聖書の話を、神が、焼き尽くすかのような、何でもやってしまう身勝手な独裁者的存在という印象を吹き込もうとしています。全能と、身勝手を、混同した詭弁として都合のよさそうに見えるところを引用してくる汚いやり方を平気でやってくるので、参考にしないでください。
 
この部分は、書いてある通り、「この方が主の御使いであることを悟った」という話です。それ以上のことは、信仰者なら、何のための命令形、何のための謙譲語であるか、ある程度は、分かるでしょう。神話と言ってもよい個所です。楽山は、神否定のために悪用しているだけです。
 
楽山は、神?というと、超常なんだから何でも奇跡で解決して、悲劇も苦しみも取り去って、便利な万能薬的存在という幼稚な味方です。楽山に都合のよい存在として考え、そうではない現実から存在しないと言い張っている人です。だから書くたびに、自身の、信仰からの無縁を証明しています。
 
 
ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」
すると、そのようになった。翌朝早く起き、彼が羊の毛を押さえて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。ギデオンはまた神に言った。「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」その夜、神はそのようにされた。羊の毛だけは乾いており、土には一面露が置かれていた。
(士師記 6.36-40)
 」
この他には、「ヨブ記」では、神に強く異議申し立てをしたことで、神から返答があり救われた話が書いてある。まさに「求めよ、さらば与えられん」である。これも、「判断せず、ただついていく」とは正反対の考え方だろう。
 
嘘です。ヨブ記では、「神に強く異議申し立てをした」からではなく、神が、直接、ヨブを叱って、ヨブは悔い改めたから、救われたということです。悔い改めない楽山は、このように暴力的な歪曲を平気でしてくる人ですから、楽山の意見は、その場で捨ててください。正しさは微塵もありません。
 
 
*仏陀とイエス
仏典にも聖書にも、仏陀、イエスが自らを証しする場面がある。
セーラ・バラモンは師の身に三十二の〈偉人の相〉があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆ど具わっているのを見た。ただ二つの〈偉人の相〉に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(〈目ざめた人(ブッダ)〉であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相である。
 そのとき師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたしてわたくしの身にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰していない」と。
そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両鼻孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。
(『ブッダのことば -スッタニパータ-』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1985年、pp.122-123)
 
ここは、私には、よく分かりません。それにしても、楽山は、聖書については妄想的曲解を語り、ここでは、全く解説をしないようです。分かりもせずに、恥知らずに、よく出してくるものだ・・という楽山についての感想だけしかありません。
 
 
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
(ルカによる福音書24.38-43) 
 」
 
キリストの復活の話です。聖書は肉体をもって復活したことを聖書は伝えています。現代の私たちは、それ以上に、キリストが不滅であり、聖書を通して、二千年を超えて、キリストの言行録という福音が伝わっていて、私たちが読んでいる、ということを思うべきであります。
 
今の時代に、肉体の復活だけにこだわるのは、楽山のような、宗教を、超常の魔法のように見なしている者の因業だと思います。なお、楽山は、聖書を、本当には読んではいないと思います。いちゃもんの材料にしているだけでしょう。いたるところで無理解が表れてきたからです。
 
 
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネによる福音書20.24-29)
 」
見たから信じるよりは、見ないで信じる方がよいらしいが、釈迦もイエスも、見たら信じることができる者にはそのようにしてくれることもあるようだ。
 
トマスが、復活を疑い、キリストが、その証拠を見せる聖句です。「見たら信じることができる者にはそのようにしてくれることもあるようだ」と書いて、楽山は、何が言いたいのでしょう。否定したり、肯定したり、そして、一切、責任を負わない楽山らしい、いい加減さです。
 
現代の私たちは、殆ど、見て信じることはないのだから、信仰は、見ないで信じることになります。見ないけれど、聖書と体験から、感じて、受け取り、否定できないのは、共感があるからです。それが、絶望を、希望によって、癒してくれるからです。
 
 
*個人主義と自由
話は飛ぶようであるが、夏目漱石の「私の個人主義」でも、「自己に忠実であれ」という趣旨の話がされている。これは文学のみならず、思想宗教その他なんにでも応用可能な考え方だろう。
たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具そなえていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
(「私の個人主義」夏目漱石著)
 」
 
ここで、「自己に忠実であれ」という主旨のことを、なぜ、言ってくるのでしょう。文脈がバラバラになっています。「意見を曲げてはならない」ということで、いつもの自己の悪事と病質を無視した正当化でしょうか。悪が自己に忠実で意見を曲げないなら、救いなど、あるはずもないのです。
 
整った意見を持つことのできない楽山は、バラバラな思い付きを、真っ当に見せかけることに一生を費やすのでしょう。だますことだけの人生の虚しさを思わずにはいられません。癒されることがなく、自慰行為しかない、楽山の人生です。
 
 
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。
 自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。
(同上)
 」
 
「自己本位」「自我本位」と続きます。他者によって動揺しないことであって、楽山のように、反省もせず、責任も負わず、勝手な意見を、だらだら言い続けることとは全然違うということです。
 
楽山は、このように、自分の悪と罪を無視して、当てはまる場合の状況と条件があるような曖昧な言葉を、無条件で書いて悪用するのです。
 
 
個人の自由は先刻お話した個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展がまたあなたがたの幸福に非常な関係を及ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも把持し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます。それがとりも直さず私のいう個人主義なのです。
(同上)
 」
 
個人の自由と、楽山のような身勝手な自己中心とは、全然違うということを強調しておきます。まるで、偉人の言葉尻に縋りついて噛みついているような楽山です。引用された人にとっても、一般にとっても、甚だ迷惑です。
 
 
もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。
(同上)
 」
 
楽山は、自己正当化のために「我は我の行くべき道を勝手に行く」という言葉に反応していますが、楽山は、自身の虚言で出来ている記事を公開することで、読んだ人の、道を妨げ、重大な疲労を与えています。楽山の言うことは、逆に、個人の自由を妨げているのですが、気づかないようです。
 
自己愛性の悪と偽善のペテン師である楽山が「我は我の行くべき道を勝手に行く」ことほど、迷惑で有害な経過はないでしょう。楽山は、病質のために、格言や良い言葉を腐らせている自分に、まだ、気づかないようです。
 
 
*正反対の考え方
以上、上の例を参考にしつつ、『君よ、涙の谷を渡れ。』とは正反対の考え方をまとめると、次のように言えるのではないかと思う(ツイート)。
「2021-06-06 (3)自分で考え、判断することが大切」(省略)
*結論
HS信者のなかには、『君よ、涙の谷を渡れ。』の考え方を絶対視し、誰もが認めるべきものであるとして、それに同意しない者は普遍の真理を理解できない愚か者だとして見下す人がいる。
でもこのように他の思想宗教を調べてみれば、『君よ、涙の谷を渡れ。』のように、大川隆法を神だと信じて、ただひたすらについて行くという考え方は、非常に特異なものであり、誰もが共感できるものとはいえないことがわかるはずだ。HS信者の一部…大川隆法に疑問を提示し、異論を述べる者を下根だの、悪霊憑きだのと言う輩には、この点を承知しておいてほしいと思う。
 
楽山のようなペテン師が、カルト批判をしたつもりで、個人の自由を語ることは、その実、楽山は、吐き気のするような卑怯で汚い詭弁と嘘を並べてきたのですから、むしろ、自由のために闘っている総ての言論者や運動家を侮辱することにしかなりません。
 
楽山こそ、状況や条件を無視することで、普遍性のある言葉を悪用して、腐った己の目的に悪用しています。あらゆるテーマについて、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者は、自己愛のために、反省・学習・成長がなく、批判に適性がないことを、楽山自身が証明してゆくのです。
 
 
◇◆ 追記 2021.6.10 ◆◇
*先哲を乗り越える
哲学入門を読んでいたら、本記事のテーマに関連している箇所があったのでメモしてみる。
後世の人間たちは、偉大な先人の哲学を崇めることなく、疑って疑って疑いつくし、徹底的に破壊する。なぜなら、先人の哲学に満足してそこで終わってしまったら、何の進展もないからだ。子供がいつかは強大な力を誇っていた父親を乗り越えなければならないのと同様、目の前にどれだけ偉大な史上最強の哲学があろうと、後世の人間はそれを乗り越えて、一歩先に進まなくてはならない。先人の哲学に反逆し、それを打ち砕く「より強い哲学」を生み出さなくてはならない。
 なお、これは西洋哲学だけの話ではなく、すべての学問に共通することである。
(『史上最強の哲学入門 東洋の鉄人たち』飲茶著、河出書房新社〈河出文庫〉、1018年、pp.14-15)
 」
東洋哲学の場合は、先人の哲学を真理と崇め、それについてさまざまな解釈をするという方向にすすむが、西洋哲学…学問全体では上のように考えるとのことである。
 
楽山のやっていることは、決して「乗り越えて、一歩先に進」むことではありません。処遇に不満ばかりいだいている者が、陰気臭いクレームを執拗に並べているだけです。楽山は、決して「より強い哲学」を生み出してなどいません。引用だらけの駄文は、うっとうしいだけです。
 
楽山は、やはり、何らかの不遇に対して、自己愛性の、ねじ曲がった根性で、いつも、復讐のような仕返しを企んでいるルサンチマン(弱者に募る怨念、負け犬の遠吠え、いじけた妬み根性など)だと思います。笑うことと怒ることはあっても、しんみり悲しむ情感がないと思います。
 
東洋や西洋の哲学や、学問の名前や、学者の名前を長々と並べても無駄なのです。品位のなさが、書いた文章の文脈や、滅裂な引用や、相変わらずの手前勝手な解釈と詭弁と嘘にまみれて、いっそう、悲惨な表れ方をしているだけなのです。
 
 
※ 
 
私は、前には偽牧師シャロームを、今は病的ナルシストの楽山を、資料化することを目指しています。資料を見るような視線を育てるようにすると、大方の悪口も、また言ってる・・という感じで眺めて、ある程度の分析のようなものが出来るだろうと思って努めています。
 
私たちは、ときに~しばしば、罪を犯します。不可避であることもあるでしょう。しかし、故意に、悪意によって、犯した罪、あるいは、犯し続けている罪は、隠せば善を装う偽善であり、許されることも赦されることもありません。社会を見れば、大きな罪は、ほとんど皆、偽善です。
 
何よりも偽善は、ゆるしを求めてなどいない罪であり、放置すれば、いつまでも、いい気になって、悔い改めることなく続く罪であり、そして害に結びつくものです。バレないだろうと、分かりはしないさと、他者と公共を見くびっている悪意の大罪なのです。
 
 
ただ長いだけ

ただ長いだけ
 
 
(2021年06月12日)
(2022年06月13日、再録+加筆)
 
 
 
  知らない夏
 
浮きながら一歩一歩
歩いている道に陽射しは鈍く
数え切れない苦悩の胞子をはらんで
夏はやってくるのです
 
汗ばむ肩に首筋に
測りきれない表情を見せて
おどけた無為がにじんできます
 
折れるようにふらついて
やっと座った椅子の上に
とぼけた砂の顔
計り知れない徒労を乗せて
季節はめぐってくるのです
 
涙する代わりにあくびをして
鈍麻した肉体さえ
居続けること
座りつづけることを嫌っている
 
倦怠を支えてきたもの
その来歴も忘れたかのように
古びた自画像の
ひびのまわりにゆっくり
ゆっくり乾いた記憶を
もろい煉瓦のように積み重ねながら
何を塗って固めたらよいのか
夏に冬の寒さはわからないよと
残った隙間が笑っています
得体の知れない寂しさに
 
 
  長椅子の部屋
 
この長椅子に腰を下ろして
鳥が切り裂く短い空を聞く
切り刻んでいる私のまわりだけ
ブックカバーの折り込みを
はぎ取るために本棚があり
なくした本のためにビニールの
決意の窓には徒労
と君とも私とも呼べない名が
ふうっと浮かぶ一つの川面を
撫でるような風の向こうに遠ざかる
 
 
  家の階段
 
数えきれない
数えることもない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
 
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
 
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
個人的な感想ですけど
身内が亡くなった時、医療関係者は丁寧に清め、心を込めて手を合わせて下さいました。葬儀屋さんも同様です。
でも宗教者は横柄な態度で、死者を悼む気持ちは皆無でした。
このことからすると、慰霊や祈りは宗教かどうかより、真摯かどうかで決まるのではないかと思います。
午前9:49 · 2022年6月11日·Twitter Web App
 
宗教者という言い方で「横柄な態度で、死者を悼む気持ちは皆無でした」と言えば、宗教一般になるわけで、楽山は、自らに対して無反省、公共に対して無責任、言葉遣いについて無遠慮かつ無思慮ということです。実際は、特定の個人が宗教人ではないという話です。楽山が当てはまるでしょう。
 
一方、態度も物言いも、ずっと横柄なのは、楽山です。ゆえに、楽山に、宗教について語る資格はありません。前から言っていることですが、楽山には理解力がないので、一向に変わりません。自らを省みず、悪口だけを宗教に向けてきます。つまり、「真摯」さが、楽山には皆無なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、過ちに過ちを、罪に罪を、偽善に偽善を、重ねてきました。しかも、改善する意志はないようです。ネットにおいて、投稿が少なくなっても、油断はできません。楽山の、心からの言葉を、まだ一度も聞いたことはないのです。楽山との交流は、人生の邪魔にしかならないものです。
 
楽山は、無反省で無責任のために、知性と感性ともに、学習と成長が見られません。ゆえに、言葉の適用範囲や応用条件を弁えることが出来ません。だから、発言が雑で、むしろ、わざと雑に言って、自分の都合に合わせようとします。つまり、楽山は、人間でなくなる方向へ堕ちつつあるのです。
 
 
 
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  不感不応=無知3
 
 心に思ったことは現実になる?(詩篇108[109])
 2020年05月11日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、自業自得ということが分からないようです。また、訳の違いで検索しても一致しにくい聖句について、本任せで、解釈の根拠を示しません。そんなに、独りで、言いたいこと言って、引用して満悦したのなら、人に見せずにやってくれと言いたいのです。
 
書くことで満悦したいだけの楽山の自己顕示欲という我欲の産物なので、私は、訳を気にせずに、楽山の聖句引用として批判してゆきます。それでも、楽山が書けば、積み重なった悪意と自慢と自己中の醜さは表れていますから、詭弁の資料となってゆくでしょう。
 
 
スピリチュアル精神世界の方面では、心に思ったことは現実になるとか、その思いに相応しいものが寄ってくるとかいうけれども、それと似た考え方が詩篇でも語られている。
彼は呪うことを好んだので呪いが彼にかかり、
祝福することをきらったので祝福は彼から遠ざかった。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.273)
 」
 
楽山は、とうとう、結論だけを投げてきます。聖句についても、また、楽山のことも、ただの自業自得でしかありません。「心に思ったことは現実になる」とか・・ひどい解釈です。
 
 (詩篇、口語訳)109:17
彼はのろうことを好んだ。
のろいを彼に臨ませてください。
彼は恵むことを喜ばなかった。
恵みを彼から遠ざけてください。
 (詩篇109:17、旧約聖書)
 
これは、例えば、不正をする者に対して、復讐を神に祈り願い、かつ、神に任せる態度です。そうでなくても、例えば、楽山の不正に対する報いは、最終的には、神に任されます。人は、できることをして、神に祈るしかありません。
 
常識的には、訂正不能の悪の自業自得、ということだと思いますが、またしても、楽山は、心に思うと現実になるぞ・・というような、ホラー話として魔界の解釈をしているようです。人間的な見方が出来ない者は、そういう理路をでっちあげてきます。何でも超常的に見るのは、カルトには、よくあることです。
 
ごまかしに次ぐごまかしで、デタラメに次ぐデタラメの解釈で、聖書を恣意的に曲げて、自らへの批判をしにくくしたいようですが、批評として幼稚すぎて何の意味もありません。このようなズルをしているのに、幼稚だと気づかず、何の罪悪感も感じないのが楽山の程度の低さです。
 
楽山の言は、とうとう、誰とも議論などしたくない、例えば「オレは自分の書きたいことを書く、聞け。」・・とでも言ってるようなものです。こういう人の学者気取りの自己満足の話こそ、単方向の寝言に等しいのです。出会うことが災いとは、このことです。
 
一般には、祝福することを嫌う者は、祝福しないのだから、あとは、無視するか、呪うだけになり、ゆえに、祝福されることもなくなるのは、当然のことであり、自業自得であり、それは、まさに、今の楽山に起こっていることなのです。
 
 
こういう法則性が現実にあり得るかどうかは、万人を納得させるべき形で証明するのは難しいことではあろうけれども、ただそれでも自分は根が迷信深くできているせいか、こういうことを信じてしまう方ではある。
 
何の法則なのでしょうか。聖書を読んで、どこかで起こっている現象と見なしているのでしょうか、そう信じてしまうのだそうです。ただの的外れの間違った思い込みです。楽山が聖書から何も良いものを見いだせないのは、当然のことです。
 
楽山は「根が迷信深くできている」・・根深い病理と病原性ですが、ふつう、反省の対象になることを、できているから仕方ない、とでも言い訳しているのでしょうか。そのまま、宗教の批評~批判をする資格などないということを自分で表しているのです。
 
 
それだから、悲観的なことを口に出したり、思ったりすれば、それが現実になってしまうかもしれないので、そういうことは言ったり思ったりしないようにしよう、できるだけ良いことを言ったり思ったりするようにしようと心掛けたりする。
 
心に思うと現実になることを恐れるらしい楽山は、今まで、嘘と詭弁ばかりで、良いことを言ったことなどありません。楽山は、心から良いことを言うことを、心にもないことを良さそうな言葉を見つくろって言うことに、すり替えています。そして、読者に、混同させようとしています。
 
悪意による婉曲の、ボンヤリ言語の悪口と詭弁で、キリスト信仰に、嫌がらせをしているだけです。ナルシストは悲観的なことを考えることがないという無反省と自己満足の狭い部屋で、悪意と嘲笑いだけを育てている楽山の異常さがうかがえます。
 
 
井沢元彦は、日本では言葉に出したことは現実になるという言霊信仰があるために、危機について具体的に言葉に出して議論し、その対策を講ずることが難しく、したがって危機管理が疎かになりがちだとしていたし、これは一理ある意見ではある。
 
楽山個人のことにとどめておけばよいものを、大言壮語に結び付けてゆく自尊過大の誇大化を避けられない楽山です。かっこつけないと気が済まないようです。そして、批評家気取りで、引用した他者の発言を、一理もない楽山が、上から、一理ある、などと言っています。
 
曖昧な書き方しかできない楽山は、どう一理あると言うのでしょう。言霊信仰のほうでしょうか。言霊信仰によって危機管理が疎かになることでしょうか。楽山は、何の役にも立たないくせに、詭弁という邪悪な言霊をまき散らしてきました。
 
 
ただ自分はこれを承知しつつも、それでもやっぱり悪いことを考え、口に出すことには若干の躊躇があるのだから、我がごとながら呆れてしまう。もうちょっとでも頭を近代化して、合理的思考のできる現代人になりたいものだ(笑)。
 
いつも悪意の企みしか考えていないという経過と結果しか表れていない楽山が言っています。合理的思考が出来る現代人になれるのは、反省と学習機能を持っている人だけです。本を読みましたという自慢からは何も生まれてはこないのです。
 
そして、また、冗談を言う文脈ではないのに、ズレた感性からの、真剣味のない「((笑))」です。楽山の、おふざけは、楽山の文脈と理路を、壊して、楽山を、孤独なピエロに変えてゆきます。
 
楽山は、他者の意見を無視する分、思慮が驚くほど浅く幼稚になり、エネルギーのない泥の飾りまみれになって、感動のない隙間を徘徊しているだけなのです。よく「(笑)」などと書ける。これは、偽善カルトのシャロームと同じ症状です。
 
 
 
 聖書と多神教(詩篇95-3)
 2020年05月11日
 楽山日記(LD)
 
 
タイトルは失念したが、何かの本で聖書は一神教だと思われがちだが、実際には多神教であるという指摘を読んだ記憶がある。先日、詩篇を読んでいて、ふとそれを思い出した。
まことにヤㇵウェは大いにして、いとほめらるべく
すべての神々の上に恐るべきもの。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.232)
 」
これは字面だけを見ると、神は複数存在して、ヤハウェはその上に立っているといっているようだ。自分には一神教の世界を想像するのは困難だが、こういう多くの神々と、その上に立つ神という形であれば大分想像しやすくなっていい。天照大神とその他の神々だとか、毘盧遮那仏とその他の如来菩薩という世界観と似てくるので。
 
字面を見るだけで、思いつきで書いています。信仰の実感もない楽山には、神さえも、上から眺めるという傲慢のために、神々と書いているから複数だと言い張ります。否定的か肯定的かという文脈を全く読み取れない楽山です。自分の都合のよいように、読めば曲解しかしないのでしょう。
 
軽々しく好都合だからと思い付きで言ってくる、これは、まさに、自分を最上とする自分信仰の傍若無人の為せるわざであります。異教の神々のことでしょうか、厳密な解釈について、私はよく知らないということを知っています。私の信じる神は御一方なので、こだわる必要は感じません。
 
しれっと「神は複数存在して」と言うのが、情けない短絡による楽山の詭弁です。聖書での神々というのは、異教の偶像の神々のことだと思いますが、楽山は、この情ない話で、神が複数いるという話にして、おとしめてきます。この理解不足は、哀れです。なのに書いてくる楽山は、暗く硬く、陰湿です。
 
 
ずいぶん前のことだが、さる匿名掲示板でHSを退会してキリスト教の洗礼を受けたという人が、神社に神はいない、何もいないというようなことを書いていて、びっくりしたことがあった。
自分はどうも根っからの多神教世界の住人のようで、神社仏閣、祠、山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ、畏れてしまう性質だ。唯物論や無神論に傾いているときであれば、その感覚は薄れるが、それでもまるっきり消失してしまうことはない。
 
「根っからの多神教世界の住人」とは、楽山の、いい加減宗教観の告白です。「山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ」と、まるで真剣味のない楽山の言う宗教観は、楽山に干渉しない人生観的な飾りのようです。自らの崖っぷちに気づかないからでしょう。
 
あらゆる自然や人工の物に、この世ならざる存在を感じると言っている楽山は、霊能者を気取りながら、人間にだけは共感を持つことが出来ないようです。芝居でなく本気で、祈ることも考えることも出来ない理由は、ここにあるのでしょう。楽山の駄弁は、いつも、そこから生まれてくるのです。
 
他者の、そして、人間の存在について何も感じられない楽山は、それを人のせいにして、代償行為的に、自然や物をあがめる、というより、上から "あわれんであげる" 方向に、人間離れして、さらに、霊が分かるっぽいなどと思い込み信じ込むようになったのでしょう。
 
自分は特別だと思い込んで人間離れしてゆく者には、キリスト信仰が芽生えることはないと言ってよいと思います。それは、ただ、人間として人格として異常だということを、霊能者気取りで自己正当化するという幼稚な成り行きを宿命とした堕落に過ぎません。
 
ちなみに、楽山は、自己愛が過剰なので、何も恐れてはいませんし、何を信じてもいないし、何をまともに感じてもいない、ということだけが、書くものに表れてきました。ゆえに、結果として、原始反応だけになって、知性も感性も働かないのでしょう。
 
人間の理路が組み立てられない楽山は、「唯物論や無神論に傾いている」でしょうか、否です。楽山の頭で扱うものが、物しかなく、神はいない、ということであって、「論」にはなっていないと思います。また、どこまでも、見栄を張って、分かっているふうの非現実の偉そうな物言いをしています。
 
 
だからキリスト教の神のみが実在し、その他の神は存在しない、神社には何もいない、空っぽだと信じ、それをリアルに感じることはできないし、それが可能だという人には驚いたのだった。
 
何を言っているのか不明です。神社には歴史と何があるのか、誰も知りません。だから、恐れをいだくのでしょう。説としては、散らされたユダヤ人が、中国、そして、日本に渡って、日本の宗教に影響したという説がありますが、信憑性は不明ですし、個人の信仰に影響するわけでもありません。
 
楽山が唯一感じるのは、なんでも感じているつもりの自我の満悦感でしょう。実際は、感じているのではなく、感じているつもりで思い上がる唯我独尊の慢心だけとなり、感じないことへの恐れがなくなり、情性の鈍麻と、修正不能の傲慢から、主張がことごとく的外れになってしまう定めなのです。
 
 
この辺りのことからすると、一神教と多神教世界の住民の自分との間にある溝は、想像以上に深くて、そう簡単に埋められるものではないらしい。
 
一神教と多神教をまとめてしまうことは元々されていないわけです。楽山が、宗教について何も知らないことを表しているだけなのです。結局、楽山の、自他未分化、神聖と自分未分化、ということです。そのことは「心の理論」の誤解~曲解に表れていました。
 
さらに、楽山は、恐れをいだくべき対象を考えられず、全部、自分の世界の持ち物扱いになっています。自分の貧困な枠の中で、あたかも、世界の真理を語っているかのように装い、その報いとして、自己愛だけの崩壊した精神となっているのです。
 
腹いせのためだけにキリスト教を攻撃し、嫌がらせする悪意だから理路も共感もなく書ける、ということに、楽山は、満悦できる人物のようです。書けば書くほど、楽山という病魔の根深さを感じます。壊れた人、楽山に、決して近づかないでください。
 
 
人の信仰は、悪魔性に勝てるでしょうか。単独で勝てはしません。できることをして、結果を神に委ねるだけです。そうして、積み重ねられてゆくものが、必然的に、信仰においては神への捧げものとなり、人が受け取るものは、いつも、与える神に任されています。
 
 
魔性は、信仰に勝てるでしょうか。勝てるでしょう。人間的なエネルギーを、少しも使わず、消費しないのですから。しかし、そういうエネルギーは、神の前では、泡沫以下になることを知っています。
 
楽山は、自分あての独り言の手紙でしかないものを、他者への悪口で満たして、公共の場に貼りつけ、かつ、何も受け取らず、自己満足の砂場に、怒気だけを積み重ねて、破壊の鉱毒を自らに満たしてゆくのでしょう。
 
シャロームと同様に、宗教についての偏見を訂正不能にして、否定の先入観を、公共の場に垂れ流しているから、楽山の言は、文責を負わない分、理路も共感もなく、短絡的に乱暴で、侵襲性のある誘導となり、とても有害なのです。
 
 
無知の増殖

無知の増殖
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月11日、再録+加筆)
 
 
 
  無知の人
 
信仰についてならば
私の体験を少しばかり
乏しい記憶に基づいて
出会いのように語れるかもしれない
しかし神様の話となると
全知全能には耐え難く
話は乾いた土壁のように
ぽろぽろぼろぼろと崩れてゆく
遺書も残さず無縁の墓へ独り
素っ裸で逃げ出したくなる
 
万物の創造主について語ろうとすれば
例えば時に科学者が
宇宙の摂理の代名詞として
神の名を口にするように
話は宗教に向かおうとせず
むしろ進むほどに無機質に近い
 
道端の石ころが
それを拾う者
ならべて数えて遊ぶ者
投げ捨てる者
見向きもせぬ者を数えるかのようだ
石ころが万物の
空と陸と海とを測るかのようだ
 
その口の端に神を呼び
祈り求めることがあったとしても
私は無能の者・無知の人
神を理解しなければ救われぬのなら
私は遠ざかる永遠の転落である
 
 
  保証のない契約
 
改めて保証のない契約について
私は語れたらと思う
生まれて初めて他者に気づき
生死の是非を自らに問うたときから
いかに私が裏切りを重ねてきたかを
しかし私は語れない
そのことばかりは
 
私は遊んで暮らすのです
転がるプライドを箱に納め
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
今日も春風に震えながら出掛けるのだ
行きて帰らず
それでもいいのです
目的地は着いてから探す
ああ埒(らち)もない
 
この春に芽吹き過ぎた
草木たちにでも聞いて下さい
私は知り得ないでしょう
なぜ見送ってしまったのか
この春までに散っていったものたちを
 
私が何度
馬鹿野郎と呟いたかを
 
 
  聴診器の幻想
 
悔いながら懐かしみ
死にそうで生きていけそうで
ここまでは大した心臓で
逆流の雑音を奏でる聴診器
は既に昔の熱(ほとぼり)のように
胸を叩く幻想を傍らに
後ろ向きの赤子と
笑う喀痰の老人を同時に記帳して
費え去る収支のページをめくり
破れた扇子を広げ
無知なる未知に語り続ける
 
初めて字を書いたときの
初めて言葉を失ったときの
初めて忘れたと言ったときの
肉体と精神の継続が
幻想でも現実でもなくなるまで
内緒話の途切れ間を
管のカルテに送り続ける
 
 
  雑草と無知
 
飾っておくほど綺麗じゃないとか
どこにでも生えて邪魔になるとか
で呼ばれているけど
雑草
じゃないんだよ
みんな名前ついてるんだ
知らないだけなんだ
無知が括(くく)ってしまう不覚
 
名を呼んでもらえなくても
次の世代の種を残し
綺麗じゃなくても
邪魔になっても
雑草は生き続ける
 
無知はこれからも括るだろう
次の世代の種を残すとは限らないが
無知は無知で生きてゆく
名を呼ばれながら
しかし無知は括られた名で
普通と呼ばれている不覚を
しばしば忘れる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「反省、謝罪は大事なことだと」まるで分っていない楽山です。求められてもいないのに、同じように誘導の詭弁を書いてきます。何か言われたら、論理の迷路を当ててきます。何も分かっていないのに、理解者を気取ります。根腐れ、そして、厚顔無恥が、また、活動を始めています。
 
「恥ずかしながら」が嘘であることは、恥ずかしさに、他者を巻き込んで、「自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね」という一般化に表れています。こういう、痒くなるような詭弁で、自己正当化が成り立つと思っている楽山の闇は、恐ろしく深いと、いつも感じます。
 
 
 
 楽山の最近のツイッターですが
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
一方、退会者がよく言う台詞に「ありのままの自分を認めることができた」というものがあります。シンプルな自己肯定です。
短絡的に決めつけることはできませんが、精神的に不安定な人は退会者より、信者に多いのは、このことと関連してそうに思います
午前6:10 · 2022年6月9日·Twitter Web App
 
「ありのままの自分を認めることができた」という退会者の発言は、退会したときなのでしょうが、楽山は、またしても、まともアピールのために、「精神的に不安定な人は退会者より、信者に多い」と論評しているつもりです。他者のことばかり言って、自らの惨状を見ません。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、ずっと精神的に不安定どころか、症状を露呈しています。しかも、人の意見は聞かずに無視して、それで批評できると思っている病質なので、同情するべきところが何もありません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、信者も総裁と同じく、自己実現を求めている人が多いです。
光の天使になりたい、理想的信者になりたいとか…。
HSではこれを自己変革と表現しますが、実際は自己実現です。
言い換えれば、自己肯定ができていない、今の自分以外のものになりたがってるということです→
午前6:04 · 2022年6月9日·Twitter Web App
 
楽山には、教祖願望があるようです。そして、既に、批評家気取りです。楽山の自己肯定も自己実現も、自己についての誇大妄想です。楽山は、反省をしないのだから、自己肯定も自己実現も、今のままでは、してはいけない人です。自分というものに妄想的自己愛で絶対肯定するのが楽山の病気です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
HSは、総裁の自己実現なのだと思います。
総裁は仏陀、救世主、至高神、国師、ワールド・ティーチャー、大金持ち、大霊能者になりたがっているから、霊言をしたり、指導者として他者を叱ったり、富を自慢するのでしょう。
金儲けは一要素にすぎないので、それで全てを説明するのは無理だと思います。
午前5:54 · 2022年6月9日·Twitter Web App
 
楽山の自己実現は、成り立ちません。正常な人格が成立していないからです。楽山も、霊能者気取りがあり、霊が分かるっぽいという自覚を記事に書いています。そこからの誇大妄想と異常な自己愛が、関わる人の人格を破壊する恐れがあります。楽山の自己実現は、恐ろしい妄想なのです。
 
「金儲けは一要素にすぎない」「全てを説明するのは無理」・・どういう意味でしょう。HS・ORに対して、肯定でしょうか、否定でしょうか。楽山は、時に、HSの用語を自論に用いたりすることがありますが、本当にアンチなのか、疑問です。否定していない可能性があります。
 
というのは、いちばん問題なのは無神教カルトの楽山その人だからです。底意地の悪い策士なので、どうか、真に受けないようにしてください。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、丁寧語を使って、人を惑わします。どうか関わらないでください。
 
 
 
 楽山の過去のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
·15時間
やっぱり、こうしてツイッターをやる上で
・情報は漏らさない
・秘密は守る
・他人のプライベート等を詮索しない
って大事だよね。お互い、身バレのリスクとかもある訳だし。
とにかく信用第一!
午前9:49 · 2021年5月23日·Twitter Web App
https://twitter.com/asasfjgg/status/1396266952536952832
 
ツイートに対しての反論ではなく、楽山を批判しています。なぜ、楽山が、このツイートを引用しているかということです。「情報は漏らさない」「秘密は守る」「他人のプライベート等を詮索しない」・・楽山の秘密は、罪悪の秘密だからでしょうか。何か悪いことに誘導する意図があるのでしょうか。
 
知らせなければ、だまされる人が増えるでしょう。いわゆる、悪の隠し事ですから、プライベートではなく、詮索ではなく、隠そうとする者を放置してはいけないから、公開して敷衍すること、即ち、批判して、広く知らせることが必要だということになります。
 
他者の口を、詭弁に変える楽山のリツイートです。楽山が隠しているのは、尊厳にかかわる個人情報や秘密ではなく、無視と無反省と無責任の、反道徳の罪悪です。どんどん暴露して明らかにして、楽山を裸にするしかありません。楽山は、決して信用してはいけない人です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
幸福の科学における二世問題は、(略)幸福の科学学園や「ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ」という、無認可の”大学もどき”に2世の多くが通い、
そこで社会性や常識が身につかないまま「宇宙人」や「霊言」などの荒唐無稽な教義を刷り込まれ、反発する者は悪霊扱い、などの点が問題。
午前0:40 · 2021年5月23日·Twitter Web App
https://twitter.com/asasfjgg/status/1396128780683563014
 
ツイートした人ではなく、リツイートした楽山を批判しています。楽山は、また、他者の言を、恣意的に、悪用しています。「社会性や常識が身につかない」典型は、楽山です。反省しないですし、発言の責任を負いません。大人なら弁えることを、楽山は、必要を感じないし、考えない人です。
 
楽山ブログは、霊の問題に執着して、ふつう、なくてもいいし、結論が出るわけでもないような、霊の関連の記事が多いわけです。霊能があって霊が分かるつもりでいるのでしょう。ゆえに、霊言についても記事にしています。楽山にとって、他者は人間ではなく、霊か、お化けなのかもしれません。
 
つまり、楽山は、常識人ではなく、HSを批判しても、本当の批判になっていないのです。宗教と信仰についても、霊とかの超常の問題としてしか考えていません。現実の生き方に必要だとは思っていない、というより、楽山には、現実に向かう視線がないと思います。
 
つまり、楽山の考え方は、空想的なカルトに近いということです。超常の辻褄合わせに、執拗に、こだわって、日常の考え方と感じ方が、習得されておらず、したがって、現実の宗教と信仰について、何も、まとまった意見を書けません。お伽噺のヒーロー願望ではないかとも思われます。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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