召命2
 
  を再録+加筆
 
 
(ネットより)
召命:
1.「呼ぶ」「名をもって呼ぶ」こと。
2.聖書の中に多用されている、神の恵みによって神に呼び出されること。
召命と使命は常に対(つい)になっています。神に召された命は、人々のために使われる命なのです。そして、一人ひとりの顔だちが違うように、一人ひとりの召命と使命は違うのでしょう。
 
キリスト教には信条というものがあります。
教理のうち柱となるものを記したものです。
 
しかし、その教理を、思い込み信じ込むことが信仰ではありません。
キリスト者に誰でもなれるというわけではないということです。
 
かといって、キリスト者にならないと地獄に落ちるのかといえば、そういう軽々しい見なしをする人は、自省と自制が成っていない証拠になります。
 
また、歴史上、非信仰者や異教徒に偉人と呼べる人が輩出しているのだから、神が、信仰以外で召命し使命を与える可能性を否定できないということです。神の意志と行為を決めつけてはいけません。
 
キリスト信仰には、秘跡とも、魂の奇跡とも呼びたいことがあり、
それは、キリスト信仰者になる上で、必須であります。
 
しかし、奇跡や秘蹟は、楽山やシャロームの大好きな超常とは限りません。最も大切な奇跡は、人間としての生き方を目覚めさせるものです。
 
超常の奇跡は、神にお任せするしかありません。しかし、魂の奇跡、すなわち、心に起こる奇跡は、実感として体験し、人間らしい良心を育ててくれるものです。
 
したがって、私たちに必要なことは、口をアパ~ンと開けて奇跡を待つのではなく、人間としての知性と感性の成長を期して、学び、考える姿勢であります。特別の知能ではなく、一人一人に、人間らしい生き方を、神は、用意しておられると思います。
 
特別な才能など必要なく、特別な超常の神秘体験がなくても、努める人は、恵みを受ける人であります。努めない人は恵みを受けることを拒む人であります。決して戒律ではなく、不完全を自覚するゆえに、折に触れて、聖書と体験から、学習し、成長するのが、信仰の道であります。
 
そこから、聖書を通じて、信仰の神髄であるところの、キリストの同伴を信じるに至ります。
 
キリスト者は神に選ばれる、ということは、優劣を意味してはいません。
これが、キリスト者が、異教や無宗教を下に見てはいけない理由であります。
 
さらに言えば、神は、キリスト信仰者だけを救い、他は滅ぼす、あるいは、滅びるに任せるのか、という問題があります。そうではないと思います。
 
既に述べたように、神が、キリスト信仰以外の人を召命して、何らかの使命を与える可能性を否定できません。何故なら、キリスト者でなくても、優れた洞察をもって、人間と世界に貢献した人の存在を、少なからず、学んできたからです。
 
したがって、信仰者が、異教徒や非信仰者を、低く見て憐れむのは、異教や無宗教への、そして何より、個々の他者という人間への、いわれなき侮辱といってよいでしょう。
 
信仰者は、ひとのことばかりいうとるが、んなら、おのれは、なんぼのもんじゃ、というくらいの自虐を持っていていいでしょう。
 
批判されると、批判者を軽視してあざ笑い、皮肉を言い、当てつけや嫌がらせだけを当ててくる習性を持つ者がいます。
 
また、異教に対抗心をもって、キリスト教の優位性を書く者もいました。熱心な信仰を表したつもりのようだが、身の程を弁えていないために、知りもしない異教を侮ったのでは、依怙贔屓の優越自慢に過ぎないし、キリスト信仰者の恥です。自分が信仰に至ったことを振り返ってみるべきです。
 
信仰は、一種の縁であって、神の力で他の人々よりも偉くなることではありません。
 
弱い人が、弱さを認めて、弱さゆえに、神に寄る辺を求めるのが、信仰です。ある意味、以前より、強くなるという言い方も出来ますが、自慢したのでは台無しです。
 
信仰者には、多くの、思いこみや勘違いや誤解があります。私個人として実感があることです。したがって必要なのは、学習し成長することです。そのために、祈るのであります。
 
カルトには、多くの、思いこみや曲解や妄想があります。その誤りは、訂正する学習意識がなくて、ゆえに、放置すると、自己中に凝り固まり、反社会的になる可能性をはらんでいます。
 
 
さて、主を誇れという聖句があり、やたら、神を讃美する者がいます。讃美することは、無条件によいことでしょうか。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
1:26
兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28
有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29
それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31
それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
 (1コリント1:26-31、新約聖書)
 
その出典は旧約の次の聖句のようです。
 
 (エレミヤ書、口語訳)
9:23
主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。
9:24
誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。
 (エレミヤ9:23-24、旧約聖書)
 
2つの聖句より、いつくしみと公平と正義を行っている主を知ることを讃えるのが讃美です。では、私たちは、主なる神を意志と行為を確定的に知っているでしょうか、否です。よくは知らないのですが、知りたいと思って信仰の道を歩んでいるのが、私たち信仰者なのです。
 
その存在を知ることは、それだけでも人間にとっては救いとなりますが、それは、主なる神そのものを知っていることにはなりません。知っていると言うには、恐れ多い御方であります。
 
そして、人の知恵や、人の世界の強さを、神の前に誇ることのないように、聖句は語っているのです。全く聖書の言葉を理解せずに、自分を高めるために、神を讃美する者は、神と信仰を嘲笑って、自らを高めているに過ぎないのです。
 
神が、愚かな私たちを選んだのは、私たちが賢くなったからではなく、偉くなったわけでもなく、どんな人間でも、神の前に誇ることがないためなのです。それは、自分は神を知っているとばかり、やたら讃美して、自らの信仰を誇ることのないためであります。
 
自ら、神の前に誇ることのない者は、人の前に誇るでしょうか、否です。神の前に誇らない者は、自らの弱さ、愚かさ、罪深さを知っているので、人の前でも誇ることはありません。そして、神を誇って信仰自慢をすることもありません。それが敬虔です。
 
つまり、聖句は、やたら神を讃美することを是としてはいません。讃美すれば、厚い信仰などと思ってはいけません。それは、暑苦しい信仰自慢に過ぎません。
 
もし、讃美だから、いくらしてもいいだろうと思って、讃美しまくっている者がいたら、戒められるべきであります。
 
聖句の中の「誇る者は主を誇れ」とは、自分を誇ってはいけないという意味であり、地上での自らの高さ、強さ、賢さを誇るのではなく、信仰を自慢するという意味でもなく、ただ、総てのことについて、誇りを主に帰せよ、という意味に他ならないということです。
 
 
召命

召命
 
祈り「主よ、いつのまにか、崖っぷちにおるのですが、・・どうすればよろしいでしょう・・」とか
 
ときには「命の沙汰など、もう、いいです。早く終わらせてください」と祈ったこともあります。それが、その時は、本音でした。祈りを飾ることだけは、しません。
 
 
 
批判記事を追加します。
 
 アンチのHS批判は、ただの悪口に過ぎないのだろうか?
 幸福の科学とは何だろう?ブログ2021年01月28日
 抜粋して批判。
 
 
2年分の偽善者の資料となっている楽山が、既にバレているのに、また記事を書いてきました。まさに、不治の病質による盲目の執着というべきでしょう。もう、だまさない限り褒められることもないでしょうに、弁明できないのに書き続ける、正常人では考えられないことです。こちらは、資料に、引用と批判を追加するだけです。
 
*正当な批判
この動画ではどうも、アンチは悪口しか言わないような扱いになっている。これはいただけない。
実際には、アンチのHS批判には、次のように正当な批判もある。
 
「正当な批判もある」という言い方になっています。うっかり、楽山のように不当な批判者もいるという自白でしょうか。無反省・無責任の、ボンヤリ言語で、人をおとしめる楽山には、いかなる他者も集団も批判する資格はないと思います。
 
言論と批判の節操を守らない楽山の不当な批判に対しては、正当な扱いを受ける権利はなく、私のように批判を貼りつけるか、無視するしかないでしょう。批判という名目で、自己顕示欲を満たそうとするだけの楽山です。
 
道徳的な見地からの批判。きょう子夫人に対する悪口は酷すぎるなど。
知性、理性による批判。教義の矛盾、整合性の問題。
現実に基づく批判。卒論盗用、HSU不認可、国政選挙全敗など。
 
嘘と詭弁で、自己保身を図ってきた楽山には、同様な問題点が、自分に跳ね返ってくるだけです。作為的な刷り込みによる婉曲的な貶(おとし)めと悪口、節操という理性がない、教義の深みを全く知らないし理解していない、共感もなく自分の都合だけであり、整合性がない、現実に基づいていない、有名人の言葉を悪用、など、我執によって好きなように勝手に言ってきたのが楽山です。
 
これらはアンチばかりではなく、信者であっても心に浮かぶ疑問であろうし、正しき心の探究を本気で実践しようとする信者には、これらの疑問からは決して逃げることなく、正面から立ち向かい、乗り越え、信仰を磨いてほしいものだと思う。
 
アンチや信者と言う前に、誰よりも楽山に当てはまります。「正しき心の探求を本気で実践」することも考えることも、楽山はしていません。この疑問から逃げまくって、嘘と詭弁で見下して、「正面から立ち向か」うことだけはせず、あらゆる克服を妨げる偽善的発言を繰り返しています。
 
「信仰を磨いてほしい」・・楽山に言う資格はありません。楽山は何も信じてなどいません。かつ、あらゆる学習を怠けている人です。何より、自らを省みることがありません。磨くどころではなく、疲労させ、変質させ、破壊してゆくだけの楽山の本性です。誰を激励する資格もありません。
 
無反省・無責任・そして無理解、という、体質的欠損人格の言うことが、まだ通用すると思っている。愚かすぎるのです。人間として必要なこと、何も感じることができないのでしょう。
 
楽山の文章に、一度触れただけでは、人格破壊は起こらないでしょう。ただし、それを考え込んだり、何度も読まされているうちに、楽山と同じような知性と感性の鈍麻が起こってくると思われます。つまり、自己中・無反省が起こってくるでしょう。・・それは、一時的には、楽だからです。長期的には、病識さえもなくしてしまうような魔物の蛇口が、楽山であります。
 
楽山のように、低劣な理屈に、のめりこんでしまうと、もはや、後戻りすることが出来なくなるでしょう。楽山を見れば、よく分かります。楽山は、自らの災いを考えることができなくなり、たらたら、ゆるゆると、知らないうちに、廃油を漏らすように、人をけがしてゆく公害です。
 
楽山が、偽の人間味を武器にしているだけに、粘性の廃液のように、じわじわ染み込んで、時が経てば経つほど離脱が難しくなる、という、カルトと同じような人格の変質が起こってくるでしょう。
 
言ってることは正しそうだから・・ということなら、考えてください。殺すなかれと言っているのが、人殺しだったら、その発言、信じますか。盗むなと言っているのが、盗人だったら、その発言を信じますか。だますなと言っているのが詐欺師だったら、その発言を信じますか。楽山の場合、総てが、嘘なのです。まともな人格ではないのです。
 
私も最初は好意的に書いていて、どうもおかしいと思って問うと、はぐらかす繰り返しで、結局、このまま続けると壊れそう・・というところまで経験したから、批判に転じています。
 
手遅れにならないために、どうか、無反省・無責任の楽山を、相手にしないでください。けっして関わらないでください。近づかないでください。お願いします。
 
 
(2020年01月28日)
(2021年01月29日、加筆して再録)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング