ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の不幸宣伝2
 
 共感できるところ 1 
 2014年12月02日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
かなり前の楽山の記事ですが、訂正してはいないようだし、今も、良いほうには変わっていないようです。楽山は、アンチHSではありません。言ってきたことが、全部、嘘である可能性もあります。成長がなく、退化・変質・退行してゆくのも必然なのでしょう。
 
楽山には、思想や宗教の軸がありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、刹那的な快楽を求めて、それ以外の高次の動機がないために、刹那的で、場当たり的な、快楽、肯定、正当性の見かけに慢心する本能があるだけでしょう。
 
 
*共感できるところ
幸福の科学の本を読んで、共感できたところをまとめてみた。
 
楽山は、アンチHSを気取っていますが、退会後も、HSに共感できるところがあるということでしょうか。あるいは、教祖願望から言っているのでしょうか。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、何かに本気で「共感」するとか感動するということはないと思います。
 
 
*怒りに我を忘れると
人格を失ってしまって、天上も抜けるかというような怒りを発する人もいますが、ここまでやってしまうと、これはあと取り返しがつきません。人間関係が完全にくずれてしまって、以後その人も異常な人間、変人として扱われますし、言われた本人は、もう恐くて近寄れません。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.79)
 」
これはその通り。周囲の人々がギョッとするほど、突然、怒りを爆発させるタイプの人は、異常とされて敬遠されると思う。
 
楽山のように、無反省で無責任で、不都合なことを全部無視して、自分の言い分を書き続けるというのは、ただの誤解ではなく、故意に曲解しているわけですから、発言のたびに嘘と詭弁が表れてくる害毒として、批判対象としては、最も厳しい批判が向けられても仕方ないのです。
 
不感不応の楽山は、精神の鈍麻によって、よほど追いつめられないと、興奮するとかはないと思います。だからといって温もりもないので、ネチネチした鈍い否定が訂正不能に続いてく、じわじわと理性も感情も鈍くなり、深いダメージから、他者を婉曲的に痛めつける害毒となっています。
 
 
*自分の持ち場・役割 
神理の運動に値打ちがあると思われる方なら、ただそのなかだけに生きていてよいわけではありません。それ以外のところで足腰をしっかりと鍛えておく必要があるということです。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.97-98)
今の立場、今自分が置かれている立場、この世界のなかにおいて学ぶということを放棄して、それ以外のところだけでは自分は水を得た魚のように活動できると思ったら、これは甘いのであります。
(同上p.99)
 」
これには共感できた。宗教活動をするならば、それ以外の、家庭、職場、学校、地域などにおける自分の責務を、完全とはいわないまでも、せめて人並み程度には果たしてからにすべきではある。
今現在の自分の持ち場での責務を果たさずして、宗教活動ばかりに夢中になったとしても、それは底の抜けた柄杓で水をくもうとするようなもので徒労に終わり、後には空しさしか残らないだろう。
 
「自分の責務を、完全とはいわないまでも、せめて人並み程度には果たして」・・なんという白々しい嘘でしょう。楽山は、正反対で、自分の発言の責任を負うたことが全くありません。ここから、何らかの病質を疑うことになるわけです。楽山こそが、人並みに責務を果たしたことがない人です。
 
すなわち、楽山が、宗教について何を言っても、「底の抜けた柄杓で水をくもうとするようなもので徒労に終わり、後には空しさしか残らない」ということです。楽山は、自分で言って、自分で裏切って、自分が斬られていることに気づかないのです。
 
 
*言うは易し行うは難し 
学んだ神理を、学んだ知識を実生活で示せ。その悟りが本物であるならば実践せよ。実践されているかどうかは、まわりを見ればわかるはずだ。他の人の自分への接し方を見ればわかるはずだ。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.173)
 」
全くその通りだ。ただ言うは易し行うは難しというように、実践は難しいのも事実。
 
「全くその通りだ」と同意しておきながら「実践は難しい」と言っています。しかも、全然、出来ていないことを「言うは易し行うは難し」と、不可抗力みたいな言い訳を書いています。言葉をいじくって、何も出来ていない自分を良く見せようとする原始的な欲望からの嘘です。
 
楽山には、根底において、批判意識が薄弱であり、思想のベースというものが出来ていません。だから、体のよい言葉で、自分が与える害についても、ごまかそうとしてきました。それは、結局、成り立たないということが、楽山の発言を通して、明らかになっています。
 
 
*常識人と奇人変人 
どうしても私が言っておきたいことは、いくら神理を学んだとしても、実生活において奇人変人のように見られる態度だけは私は許さないということです。私たちがめざしているものは、どこでも通用する人材の育成です。
(大川隆法『真説・八正道』幸福の科学出版、平成元年、p.171)
 」
これは正論に思える。だからこれとは正反対に、へそ曲がりを目指そう、奇人変人は大歓迎というのは妙に感じる。
 
奇人変人の意味するところは、正常人の意味するところと同様に、微妙です。楽山の言葉についての認識の甘さ雑さが表れています。言葉の意味を100%か0%で気安く判断しているようなところが、しばしば見られてきたのです。それは、言論の未熟を自覚していないことを表しています。
 
 
*与えているという意識のない愛
「これだけのことを自分はした。」というふうに思ってはなりません。それを他の人に認められようと思ってもなりません。自分が愛の行為をしたときには、それを忘れてしまうことです。
[省略]
ごく自然に、そうしたいからする、自分はそういう行為をさせてもらうことがうれしいからしている、という気持ちが大事です。
(大川隆法『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』土屋書店、1990年、p.45)
 」
こういう「与える」という意識を持たない、ごく自然な親切はいいものだと思う。
 
「いいものだ」と言って、無償の愛を、それが自然だと言っているようですが、そういう自然なあり方を、全て裏切っているのが、楽山です。多幸症なのでしょうか、芝居なのでしょうか。楽山は、良きものを得たことも与えたこともないのです。自己正当化の詭弁だと思います。
 
 
*自然体の人生 
人には、それぞれ自然なる生き方というのがある。
自然体の人生というものがある。
(大川隆法『永遠の仏陀』幸福の科学出版、平成3年、p.57)
 」
他の人の人生に取って代わることはできないのだ。
自分は自分の人生を生きなければならないのだ。
(同上、p.65)
 」
人にはそれぞれ個性がある。自分の個性を知り、愛し、大切にできたら、それはきっと幸福な人生だろう。
 
そして、楽山は、結局、きれいごとに終始してゆくのです。多幸気分の浮かれ方で、言葉が、幼稚になっています。「個性を知り」「愛し」「幸福」・・などと言って、深みがあるでしょうか。宗教も信仰も思想も、そのような単純なものではないから、掘り下げる言論が必要なのです。
 
そういう楽山だから、愛も、善も、何も実践するどころか、企みの、作為の、騙し文句だけで、他者を、自分より低いものとして、世辞と軽口で、あしらってきたのでしょう。しかも、病質によって、無反省に続けているのは、偽善であり、悪よりも悪質です。
 
 
もうちょっと踏み込んでいうならば、自分の個性に合わない思想、宗教を無理に信じなくてもいいなら、それは幸福なことだと思う。
 
思想と宗教は、個性で判断するものでしょうか。善悪とか正邪とかは、どうなのでしょう。楽山は、自分の異常な人格を正当化しているだけです。自らの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの、無反省、無責任、高等感情鈍麻、・・考えなくていいのでしょうか、否です。
 
驚き呆れます。楽山は、実に白々しいことを平気で言っています。理想の実現でなくても、誰にとっても努力目標はあるというのに、それらに、ことごとく背いて平気でいられる病的ナルシストの姿であります。誰の「幸福」も考えていない態度だと思います。
 
責任や反省という当たり前のことが、楽山の「個性に合わない」のでしょうか。全く実践していません。最低限の反省も責任も、楽山の「個性には合わない」ようです。これが示しているのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDから、いろんなところで安易で病的に異常な書き方になっていることです。
 
 
災難を伝道

災難を伝道
 
 
(2021年)
(2022年11月22日、再録+加筆)
 
 
 
  虫と区別
 
いかなる好意にも
応えることができなかった
いかなる悪意にも
打ち勝つことができなかった
鈍く変質してゆく
寄生とはそういうものかもしれない
 
虫になったのに
這う虫ほどにも動こうとしない
這う虫ほどの目的もない
命をもてあそぶ
命をもてあます
 
気づかないことは災いであり
さらに深く悪を宿し孕(はら)み育むが
気づかれない間は隠されているので
しばしば仕合わせのまま過ぎてゆく
 
気づくことも災いであり
さらに深く罪を教えるが
まれには幸せのように
まるで唯一の幸いのように
独り苦悶のうちに過ぎてゆく
 
好意や悪意の結末にかかわりなく
虫は汚泥に塗(まみ)れ
ときに傾いた日差しを受けている
 
それが昇る日なのか沈む日なのか
区別できないまま
さらにどうしたら受けることが
浴びることになれるのかさえ
区別できないまま
区別
というものから
根こそぎ別れる時を待っている
 
 
  耐える
 
もちろん
聖書、キリスト教の聖典は
手を置いたり抱いたりして
お呪(まじな)いをするための
分厚い直方体ではない
生きている間に読むべき書物である
しかし
聖書の一行に縋(すが)って生きている人と
聖書の総てを諳(そら)んじている人の
信仰に優劣が付けられるだろうか
 
いかに聖句を用いたとしても
理を蓄え
学ならしめようとして
論を振りかざすことは
とても順調な耳鳴りのようなものだ
信仰は理でも学でも論でもない
 
あるニュース
人災か天災か忘れた
突然わが子を失った母親が
まるで感情をなくしたような顔で言う
「かなしいけれど神の計画だからしょうがない」
恐らくそう教え込まれてきたのだろうが
唖然!?…
それで本当に納得しているのか
 
ある映画
フランス映画だったと思うが題名は忘れた
妻子を殺された主人公が
礼拝堂のキリスト像を
壁に叩きつけて割ってしまう
そして復讐を果たし終えた主人公は呟く
「もう…何も…」
それは喪失感か
あるいは復讐の空しさか
 
耐える
という愛の行為は
耐えがたい状況における感情
を吐き出すことなしに始まるだろうか
(感情の発散は
 詩の持つ唯一の効用と言われるが
 もちろん詩だけではない)
書くこと・話すこと
何よりも神の前に総てを
背教の念も不信仰も
さらけ出して告白したいと思う
 
神の前で背教の念など以ての外?
背教の念を抱いたことなど全くない
と言えるならそれでよい
しかし少しでも覚えがあるのなら
告白しないことは自分を偽り
神を偽ろうとしていることになる
不義を喜び真理を喜ばないで
真実に蓋をすることになる
 
人前では隠したいこともある
繕(つくろ)わねばならないときもある
喋(しゃべ)りすぎて損をした気持ちにもなる
しかしクリスチャンにとって
人から神へ訴える唯一の手段
祈りの場においては正直でありたいと思う
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>
自己愛人間は「優しそうな人」・「利用価値の高そうな人」との距離を急速につめていきます。
共感・べた褒め・贈り物・共通点などの話から「こんなに気が合う人はじめて」「こんなに優しい人はじめて」「大好き」を示しながら一気に親友のような距離感になろうとしてきます。
<<
2022年11月19日
 
「自己愛人間は「優しそうな人」・「利用価値の高そうな人」との距離を急速につめていき」」・・まさに、楽山の優しさ芝居の丁寧語に当てはまるでしょう。つきあえる人と思わせるための柔和芝居でもあります。距離を縮めるどころではなく、関わらないことが大事です。
 
楽山が、このような引用をするのは、こういう引用をする自分は自己愛人間ではない、という印象操作なのです。あらゆる狡賢いやり方を、平気で、使ってきますから、注意・警戒してください。また、多くのHNに成りすましてくることも考えておく必要があります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無反省、無責任、無理解、無神経な、楽山は、動機も根拠もなく、もっともらしいことを書こうとしますが、その浅さのために、失敗し続ける自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)であります。方向もなく、努力もせずに、書き続けて、刹那的な自己満悦以外、何も求めてはいないのです。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を自由に決めても、その責任を負わないならば、どうして人間であり続けられるというのでしょう。
 
 
 
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  捏造の文脈3
 
 2020年03月23日
 教と幸福の関係について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
ウィキペディアには本の著者は哲学者・心理学者と書いてあるのに、楽山は、心霊主義と言って、著者 W・ジェイムズという人の本を多く引用する記事を書いて、こちらからの批判を無視して、連作のように、自己正当化に専念しているようです。
 
(ネットより)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
ウィキペディア
 
 
主張の対立:
 
(楽山)「著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。」
 
(私)「ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。」
 
 
少しでも自分に有利な言葉を見つけようとして、見つけたつもりの曲解の自己愛に基づいて、詭弁を重ねています。まさに、そういう欺瞞の態度こそが、楽山の本質的な魔性を証明することになります。楽山は、理路を整理することが出来ないので、もっともらしく見せかけるしかなくなっている人です。
 
カルトに警戒を呼びかける文脈を作りながら、こういうことを書いている自分は大丈夫ですよ、という印象を与えようとしています。訂正不能な根腐れと思っています。いちばん危ない人が、自分を除外して呼びかけている、という気色の悪い文脈です。
 
こういう捏造の文脈に対しては、もし説明し、カルトに警鐘を鳴らせる心の持ち主なら今までの詭弁と嘘などは無かったはず、という根拠において否定するべきです。今まで楽山の書いてきたことが、この記事のインチキを証明しているのです。意地で連作している感じが、気持ち悪いと感じます。
 
 
たしかに、こういう考え方をしている宗教信者は多いと思う。もっとも私が知っている宗教信者というのは大方は幸福の科学の信者のことだけど。
宗教と幸福とがこのような関係にあるとすれば、人々が宗教的信仰の与える幸福をばその宗教的信仰の真理であることの証拠と見なすに至るのも、驚くにあたらないであろう。もしある信条がある人に幸福感を与えるものであれば、その人がその信条を奉ぜざるをえなくなるのは当然であるといっていい。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.122)
 」
 
ここでは、まず、"幸福感"という言葉を用いて、楽山は、騙す・騙されるということを読者の意識から除外したいようです。しかし、カルトについては、刷り込み、イメージ操作、やさしい言葉、夢物語、おとぎ話、詭弁、脅迫、によって、"騙(だま)す"ということを除外しては語れないものです。
 
 
たとえば、信者からこういう話を聞かされるのは珍しいことではない。「自分はこの宗教を信じてから幸福になった。この宗教は本物だ」「この教えを実践したら幸福になった。この教えは本物だ」
でも本当なら、宗教の正邪と幸不幸とは別問題であり、正しい宗教を信じたら幸福になり、間違った宗教を信じたら不幸になるとはかぎらず、正しい宗教を信じていてもよくないことが起きたり、間違った宗教を信じていても幸福感に包まれることはありえるだろうし、
 
宗教的に間違っておれば、幸福をもたらすことはないのです。それに、宗教・信仰がもたらす幸福について説明もしないで論じること自体が間違っています。幸福感という言葉で、正しい宗教を信じていても、間違った宗教を信じていても、幸福感がありえる?と言っています。このような幸福感は御免です。
 
楽山は、幸福感という言葉も、正邪の言葉の使い方も、ぞんざいであり、浅い固定観念で気安く使っているだけです。楽山は、このように、思想・宗教を語る素地を持っていないのです。楽山は、いわゆる先入観しか持っておらず、先入観と偏見しかありません。
 
楽山の語るキリスト信仰自体が、概念遊びであり、生きた本物の信仰ではありません。楽山は、キリスト信仰を全く知りません。なのに、知っているかのように語っている楽山は、偽物のキリスト教を語って、悦に入るペテン師でしかないのです。
 
そのことを無視して、正しくなくても幸福になればいい、というような感覚を植え付けようとする詭弁です。要は、楽山は、いい加減に信じるのが良いと言っているようなものです。幸福感は主観ですから、楽山が幸福だと言うことに従って、地獄を見ることもあるでしょう。
 
幸福感は主観であり、さらっと言葉で表せるほど簡単なものではありません。騙されているときの異常な気分からも生じ得るもの、そして、経過によっては大いに揺らぎ得るものです。楽山に騙されて、聞き入れても、それはデタラメに過ぎず、決して幸福にはなれないと思います。
 
 
また人が何を幸福と感じるかは人それぞれ異なっているのだから、自分がA教で幸福感を得たとしても、他の人もA教で同じだけの幸福感を得られるとは必ずしもいえないことだ。
 
これは、信仰は "人それぞれ"、ということを悪用して、幸福になるのだったら、いいじゃないか、という自己正当化の詭弁です。カルトは、幸福感のまま、人を犯罪に誘導する、ということは、危惧として、また、事件として、明らかになっているのです。
 
「A」などと記号で論理を表したつもりの楽山ですが、その説明は、極めて幼稚な理屈遊びに過ぎません。いかなる言い訳も無駄となった事態に、さらに、悪あがきをしている楽山の底が見えてきます。宗教と信仰の知識も感受性も持っていない楽山に、決して惑わされないでください。寒気がします。
 
中身に斬りこむことのできない楽山が、一般論的に、「幸福感」「A教」「必ずしも言えない」というボンヤリ言語の概念遊びという詭弁で、正当に見せかけて、ごまかしているという醜態です。しかも、ずっと変わらず、成り立つと思っているのです。とても低劣な文章です。
 
 
人は宗教に凝ってしまうとそんな簡単な理屈も分からなくなってしまうことがあるから困る。
 
これを、一般則のように言って「困る」と結んでいる時点で、楽山の嫌らしい詭弁はアウトなのです。困るという楽山の印象を宗教一般に適用するという詭弁なのです。論理を全く気にしない刷り込み屋だから出来ることです。
 
楽山は、前に何度も書いたことですが、無神教カルトの宣伝者です。被害者面と傍観者面と批評家面と丁寧語とボンヤリ言語が、楽山の騙しのテクニックなのです。うっかり受け入れてしまいそうな文章も、よく見れば、意味の範囲など、全く理路にも共感にも結び付いてはいないのです。
 
宗教も、信仰も、理屈も、情緒も、人間について言葉に相応しい深い理解を全く持っていない楽山の、詭弁による自己正当化とインテリ気取りの自慢に過ぎません。今、この記事で、誰よりも読者を困らせているのは、楽山その人です。
 
楽山こそ、体質的欠陥によって「簡単な理屈も分からなくなって」いるのです。楽山の自己中・自己愛性人格障害によるもので、まことに、常識的な判断すらできていません。偏見で語り、浅い思慮を理屈のように見せかけるのは、ペテン師ならではの作為によるものでしょう。
 
 
実を言えば自分も宗教にはまり込んでしまっていた時期はそんな風になっていたのだから恥ずかしい。
 
何も変わっていません。今もカルト宣伝者です。宗教にはまり込んだからではなく、楽山は、知識もなく、共感もなく、何も分かっていないのに、宗教に、余計な、ちょっかいを出してしまう自己顕示欲と自己愛の奴隷なのです。
 
証拠は、楽山が自らの破たんした理路に気づかない不感不応の退屈な文章に、今まで、ずっと、表れてきました。そして、ここでも詭弁を武器としていることで、いっそう、明らかです。宗教と信仰についての安い見なしと詭弁にだまされないでください。
 
どこまでも、批評するかのような芝居で、どこまでも、自己正当化を謀っていますが、もはや、総て無駄なのです。汚い本性が、ずっと、表れているのです。本人だけが気づかない、あるいは、知らぬふりをしている。身の毛が弥立ちます。
 
 
これも一種のマインドコントロールなのだろうけれども、宗教を信じてしまったがために思考力、判断力が低下してしまうこともあるし、ここはよくよく気をつけたい。
 
楽山は、自分も前にカルト信者だったが、今は、大丈夫だから、気をつけてください、みたいなことを言いたいのでしょうか。否であります。誰よりも、カルト体質の自己愛性パーソナリティ障害である楽山の言うことを利かないでください。関わらないでください。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、反省力も罪悪感も責任感も持っていないことが明らかになってきました。拙劣な文章を、まともに見せかける詭弁の刷り込みの筆致が、楽山の全てであります。
 
今の楽山こそ、詭弁、印象操作、刷り込み、嘘のでっち上げ、などによって、他者一般をマインドコントロールしているところです。とんでもない策士で、精神の詐欺師なのです。楽山から得た宗教の説明と情報は、話にならないほど雑で、かつ、宗教と信仰の真実とは、全く異なる安物です。
 
病的な体質のために、楽山は、今も、思考力・判断力と、さらに、情緒的感性も著しく低いので、詭弁に頼っているのです。だますことが人生になっているような人です。楽山に影響を受けないように「よくよく気をつけ」てください。
 
ヤケクソ状態に近くなれば、さらに危険です。決して交流しないでください。平静を装っても、楽山は、カンシャク玉か、ネズミ花火のような状態です。ますます人間性を失って、見境がなくなり、パニックとなってゆくプロセスかもしれません。
 
私が楽山について言ってきたところの、訂正不能のカルト思想によって思考力判断力が低下する、ということを、逆手にとっていますが、マインドコントロールを仕掛けているのは楽山の法です。この楽山にこそ、近づかないように「よくよく気をつけ」る、というより、近づいてはいけない人です。
 
「気をつけたい」なら、楽山は、背筋の寒くなるような騙しの詭弁など書かなかったはずなのです。楽山は、根っから、カルトの素、という体質です。被害者であるかのように「気をつけたい」などと言っても、騙し続けてきたのは、今までに、楽山であることが、既に明らかになっているのです。
 
楽山という、詭弁で刷り込んでくる変質者は、断末魔でしょうか、バーゲンでしょうか、嘘吐きパリピでしょうか、何も応えることなく突っ走って、まっすぐ物を見る目を失って、反省もせずに、似たようなことを繰り返して、同じところをくるくる這いまわって堂々巡りしているネズミのようです。
 
腐った根性が、ずうっと、無実を装う素知らぬ顔のままだから、平気を装う醜い姿で芝居がかって、結局、結果として、ますます深い悪意を表してしまうことになります。人の言うことを聞かず無視して、思慮深い人を気取る者は、結局、真実の欠片も得ることはありません。
 
楽山の書く文章を読んで意味を汲み取ろうとしてはいけません。伝えようとしているのは、意味ではなく、支配欲からの無節操な誘導ですから、まともな理路も情緒も表れてはいません。理路を組み立てることが出来ず、共感につながる説得力も皆無で、楽山は、大人の言論者としての成長していません。
 
騙(だま)しの悪だくみだけが、隙(すき)あらば、袖(そで)からも、裾(すそ)からも、ずけずけと無遠慮に入り込もうとする貪欲の病原が、くさく息荒く流涎しているだけの様相です。
 
楽山は、嘘と詭弁で、他者が悩み、混乱し、壊れてゆくのを、陰で嬉しそうに眺めて悦に入るような外道であります。楽山のように、正直という人間の真実を失った者は、やがて、自分自身をも隠すようになります。そしてついには自分自身をも破壊して失ってしまうでしょう。
 
 
混乱への罠(わな)

混乱への罠(わな)
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月12日、再録+加筆)
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない共感
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  祈りと叫び・共感の主
 
恵みの神様に感謝しますという賛美の祈りより
神も仏もあるものか!という本音の叫びのほうを
神様は熱心に聞いておられるような気がします。
 
神の意志に背く地上の偽善者に笑われながら
その血まみれの蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を遣わされた神様だから
 
 
  信じて信じて
 
一見あの世を信じ
この世を諦めているように見える信仰も
あの世の天国に望みを託しているのは
あの世の幸いのためだけではなく何よりも
今のこの世を生きるためにそう信じている
 
したがって
いかなる知恵と知識に満ちた信仰も
例えば山上の垂訓から
死ねば天国へ行けると単純に信じて
信じて信じてそれだけを
望みとしている信仰に優るものではない
 
神の立場を決めつけない限り
この世のことも
あの世のことも
望むのは信仰に反しない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人格障害の症状として、後悔もせず、反省もせず、傷つけることを楽しみとしている楽山の、気安さや、気取り屋、嘘が、関わる人を、人間としての真実からも、救いからも、読者を遠ざけてゆきます。責任をいっさい負わない不感不応の病質は、いずれ自身の人格破壊をもたらすのでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
   表示制限がかかったようです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
相変わらず、詭弁、詭弁…と言ってるけど、私の書き方は、事実を提示して、その感想を書くというようなシンプルなものです。
上の例で言えば、事実を時系列に並べて、その感想を、多少の実体験をまじえて書いてるだけ。
塩氏には、これが屁理屈・詭弁に見えるのかな?
https://twitter.com/A2_1nnt/status/1513042866230095872
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午後7:59 · 2022年4月10日·Twitter Web App
 
どうして理解力のない楽山が、宗教や信仰について事実~真実を提示できるのでしょう。また、感想ならば何を書いてもいいのでしょうか。キリスト教と信仰を、曲解で語って、好きなだけ、おとしめておきながら、事実と感想という言い方で、言い逃れられると思っていることが異常です。
 
事実と感想というより、妄想的先入観をもって否定の印象を吹き込むのが楽山です。中立を装う欺瞞の筆致に気づかない人に、悪しき先入観を植え付けてきたのが楽山です。しかも、暗示するやり方で「実体験をまじえて書いてるだけ」という言い訳で済むと思っているとは呆れた人です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
裏でコソコソ印象操作とか、ブログで欠席裁判とかは意味が分からんですね。私はツイッターもブログも公開で書いてて、誰でも反論コメントができるようにしてるので。
ていうか、ブロックしていながら、コソコソしないで堂々と意見を言いなさいとか、よく言えるなあ(笑
https://twitter.com/A2_1nnt/status/1513043507459416064
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午後8:05 · 2022年4月10日·Twitter Web App
 
楽山は、嘘と詭弁の婉曲的な暗示で、反宗教を刷り込んできます。また、楽山は、アンチではありません。霊が分かるっぽい?という妄想があり、幼稚な宗教観をもって、教祖願望が見え隠れしています。しらばくれても、楽山は、いつも企みの嘘と詭弁で、印象操作して、刷り込んでくるのです。
 
 
 
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  楽山の我執2
 
 「死について」西尾幹二著
 2021年03月15日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
 
西尾寛治は、右翼の思想家です。別の右翼の人を介してサイトなどを見ただけですが。この人だけでなく、楽山は、右翼としての記事も書いています。おべっかでしょうか。体質的に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、一貫した思想はありません。
 
楽山は、感情・情緒の鈍麻によって、感じなくなった精神から、死と死後を恐れていないかのようなことを言っています。信仰による平安ではなく、詭弁の妄想的捏造と、老化による鈍麻に縋りつくしかなくなるのではないでしょうか。
 
 
*死後、人の意識は存続するのか?
『西尾幹二の思想と行動③』に収録されている「死について」というエセーを読んでみた。著者はまず冒頭において、死をテーマにした文章は多々あれども、「死は振り返って回顧できない」ものであるから、「死の経験は誰にも書けない」としつつ、次のような自身の考えを表明している。
私は、私の体が亡びると共に個体としての私も消滅し、「自分の意識」もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えをもつことがどうしても出来ない。
(『西尾幹二の思想と行動③ 論争の精神』「死について」西尾幹二著、扶桑社、2000年、p.131)
 」
この後、著者は上田三四二の『この世この生』、岸本英夫の『死を見つめる心』の文章を紹介しているが、どちらも基本的には著者と同じ死生観であり、死んだら無になるのだから、一度だけの人生を悔いのないように生きようと考えているようだ。
 
一度だけの人生を、悔いることなく、改めることなく、反省することなく、責任を負うことなく、言葉の垂れ流しで、生きているのが、楽山であります。そりゃ、楽山に悔いはないでしょう。楽山には罪悪感がないからです。
 
 
*輪廻転生の可能性
著者は上の結論に至る理由の一つとして次のように述べている。
もし来世というものが存在し、今のこの現世というものに生を得ている「自分の意識」が来世にひきつがれるというのであるなら、われわれは現世に生きながら、それに先立つ前世からひきつがれている「自分の意識」を、なにほどか記憶していなくてはならないはずだからである。記憶がなければ意識は存続していないのと同じである。
(同上、p.131)
 」
 
この手の議論には、さほど重要な意味はありません。人生はリアルですが、死後は想像~空想に過ぎないからです。それを信じ込むのが信仰というのは、全くの誤謬であります。信仰はリアルの人生を生きるためにあります。
 
 
スピリチュアリズム方面の書物を読めば、前世の記憶が失われている理由だとか、死後の生が存在する〝証拠〟とされるものはいくつも提示されてはいるのではあるが、現実を先入観なしにみるならば、熟睡しているときは意識がなくなるように死は永遠の眠りであろうとか、前世の記憶がないことをもって生まれ変わりはないだろうとするのは当然の結論ではある。
 
空想的死生観は、簡単な理路で、上に書いたように、真理の理解としては単純に否定されるということです。キリスト者は、神を恐れるので、空想としてではなく、リアルとして、不完全なる自分を、完全なる神の前に、正直に差し出すことを信条とするべきでしょう。
 
それ以上の、特に超常についての断定は、神を恐れるなら、するべきではありません。超常ではない人間としての身の程を弁えるのが信仰であり、神を恐れることであります。人間は、与えられた知性と感性を生かして生きるべきです。それ以上の神秘や超常は、神のみのものです。
 
楽山は、永遠という時間が把握できるのでしょうか。楽山は、やたら、宗教といえば、超常を語りたがりますが、現実の、嘘も詭弁も、何も気にしないで、永遠を分かって、過ごせるのでしょうか。とんでもない曲解です。何が、当然の結論でしょう。この問題に、この地上で、結論などないのです。
 
 
*死んだら無になるという怖ろしさ
このエセーにおいて、著者は死に対する考察とともに恐怖についても書いている。死後、自己の意識は消え失せ、無になることを想像するのは怖ろしくてならないと。
 
当然のことです。無になる自分を、想像だに出来ないのが、人間です。
 
思い返してみれば、自分も同じような怖ろしさを感じていたのだった。理屈としては、死んだら無になるなら、恐怖や苦痛を感じる自分も無くなるわけで、それなら何も心配する必要はないのではあるが、それでもやっぱり怖いと思わないではいられなかったのだ。
 
楽山の感じる恐ろしさは、引用とは違うと思います。そういう実感のある共感が成立しないのが楽山です。何も分からないのが怖いわけですが、楽山は、その怖さを感じることが出来ません。だから、何も分からなくても平気でいるのでしょう。
 
何も心配する必要がないの、というより、心配することが無意味だということです。特に、楽山のように、我執で悪行を重ねている者は、あの世を心配すればするほど、恐怖するしかないでしょう。現在形~未来形~永遠形です。有名人の言葉を引用しても、楽山は、乖離しており、違うのです。
 
 
でもどういうわけが最近はそんな感覚は薄れて、「死んだら無になるのでも、霊になってあの世に行くのでも、どっちでもいい」という気分になってきている。死後の状態について、こうであるはずだ、こうならなければ嫌だという強い願望はなくなってしまったのである。
 
どっちでもいい、と思うことを、分からないから、ではなく、願望がないという言い方をしています。願望があってもなくても、恐怖してもしなくても、謙虚な懐のない楽山には分からないし、今の無駄は、ずっと無駄なのです。死んでからのお苦しみということでしょうか。
 
 
こういう変化は大方は年を取ったせいだろうし、人は毎晩眠りに落ちるたびに無になっていること、自分の意識は過去から連続しているようでも実際には過去の自分は既に消え去っており、現在の自分もやがて消え去ることに合点が行ったことなどもその理由ではある。
 
合点が行くはずのない、自らが無となることに、合点が行くと言っている時点で、作為的で、かつ、嘘であることがバレています。実際には、楽山には、横暴を極めている現実も、嘘吐きの幻想も、実感などというものはないだろうと思います。楽山の人生が幻想だから、酷いことが言えるのです。
 
現在の自分は、明日には、もういません。年を取って、ボケてくると、恐怖が薄れるというものでもないでしょう。楽山が「合点が行った」と思っているのとは、楽山が大好きな、ホラーに登場するようなものかもしれません。楽山自身が、ホラーです。
 
こうであるはずだという願望が薄れるのは、できるだけの真実を追求してきた人でしょう。楽山は、できることをせず、してはいけないことをしてきたのだから、死が迫るほどに、恐怖は増大すると思います。それを、今、感じないのは、意志が強いからではなく、ますます鈍感になったからでしょう。
 
 
このあたりの感覚は人それぞれではあろうが、自分の場合はこのような思考を経て、死後に無になることはさほど気にならなくなった次第である。釈尊は執着を去れば平安が得られると説いたというけれども、上の経験からするとこれは本当にその通りだと思う。
 
面倒臭くなったときの「人それぞれ」がまた出てきました。有名人の言葉にも使っています。執着だらけの楽山が、何かを書く技量などない証拠でしょう。楽山は、今まで書いてきたことからは、自己顕示欲という欲への執着だけしか見せていません。
 
楽山は、死ぬまで、執着を去ることはないでしょう。一生涯、我執だけに生きて、我執だけに、ニヤニヤする快感と、煤のような悪意をもって生きてきたから、我執に追われることになるでしょう。それこそ、認知症になったほうが楽ではないかと思います。
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
草@kusaweod
·19時間
青天を衝けで渋沢栄一が祈祷師のインチキを見破って追い払ったエピソードは実話のようでここで読める。
500社育てた渋沢栄一、商才は10代から凄かった | 日本資本主義の父 渋沢栄一とは何者か | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
午後9:23 · 2021年3月14日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/kusaweod/status/1371074629582741514
<<
https://twitter.com/komo266
 
楽山と、明治の実業家である渋沢栄一とは、当たり前ですが、何の関係もありません。渋沢栄一は、大河ドラマで、旬であり、一般の人からも注目されているところでしょう。いつもの楽山の宗教への悪口とは何の関係もないのです。
 
しかし、楽山という反宗教が、今まで、いかに、宗教、特にキリスト教を、詭弁で、おとしめる投稿をしてきたかを思うとき、この他者のツイート引用を、見逃すことは出来ません。引用元の様々な有名人を自己顕示欲のために利用~悪用してきたのです。まともに受け取ることは出来ません。
 
キーワードは、"祈祷"師であります。真面目に宗教を考えることのないの楽山は、いつも宗教をおとしめることばかり考えているのでしょう。恐らく合理的な考え方の渋沢栄一が、インチキ祈祷師の嘘を見破った、ということが、楽山には、えも言われぬ痛快事なのでしょう。
 
祈祷と宗教を同一視すると、楽山の詭弁になります。一般とは違って、楽山の真意は、素直ではなく、捻じ曲がったものです。宗教は皆インチキと思っている楽山にとっては、宗教をおとしめる格好の材料に思えたのでしょう。
 
つまり、わざわざ、このエピソードを引用した楽山の意図は、偉い人が、宗教のインチキを見破った話として、受け取っているのだろうと思います。インチキ祈祷師と宗教を一緒に見ている楽山の、いかにも、あざとい宗教攻撃なのです。
 
楽山は、何を言っても理路も共感も成り立たなず、誰にとっても益とならない文章になります。気安いところで、偉人の言動を出してきて、気慰みにするのです。偉人は懐の大きさで図太い肝を持って見抜き、楽山のようなインチキな小者は、ネズミのような小心で動いて、的を外しているのです。
 
 
ちなみに楽山日記に
2017年05月11日
HS関連ブログを読む 18
という気の遠くなりそうな長い記事がありますが、渋沢栄一のことを書いています。
 
一部抜粋。
 
「書痴の楽園」を見てたら、渡部昇一は渋沢栄一を評して、常に道徳的に正しかったと語ってた。道徳と成功を両立させていたと…。
考えてみれば、論語と算盤と、あの世とこの世を貫く幸福は、似たところがあるかもしれない。真理(倫理)にかなった生活をしつつ、本当の幸福(成功)を得ようというところとか。
 
真理を知らず、倫理に全然かなっていない嘘吐きの楽山が言っています。「この世」に適っていないで、「あの世」を貫く幸福が、楽山には分かるのでしょうか。「真理(倫理)」に適うことが、楽山に分かるのでしょうか。真理と倫理は同義語でしょうか。表れるのは、分かるっぽい?自認~妄想だけです。
 
 
とはいえ、後者の方がより宗教的であるという相違点もあるけれど…。
近頃のHS本は、さっぱり読んでないけれど、ひょっとしたらこういうことは既に語られているのかなあ。どうだろう。
 
どの後者なのでしょう。道徳と成功でしょうか、あの世とこの世でしょうか、真理と幸福でしょうか、倫理と成功でしょうか。楽山の考える宗教が、さっぱり不明なのは、何も考えていないからではないでしょうか。楽山は、気が遠くなっているのでしょうか。
 
右翼思想家に、経済人にと、生死にかかわらず、有名人の名前と言葉面だけを、宗教をけなすために、我執と我執で利用~悪用する楽山です。
 
 
引きずる我執の醜い素顔

引きずる我執の醜い素顔
 
 
(2021年03月16日、同日一部修正)
(2022年03月17日、再録+加筆)
 
 
 
  懐かしき訪問者
 
四角い静物の部屋に
タバコ一本の煙
上っていく
 
友と呼んでいいのか
珍客と呼んだらいいのか
どんな縁かもよくわからない人
ともかくも久々に我が家に迎えた
懐かしき訪問者は
二泊三日で忙しそうに帰っていった
 
何てシャバダバな人生なんだ
ぐらいの話はしたかったのだが
 
 
※ (ネットより)
シャバダバとは、意味のない音でメロディーを即興的につないでいくスキャットという歌い方で、おもにジャズで使われ、楽器を弾けなくても表現できる方法のひとつです。
 
 
 
  問いと問い
 
昨日があるから今日がある
そう でも
今日があるから昨日がある
でも どこか
では明日は
明日は?
 
 
  家の階段
 
数えることもないから
数えきれない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
 
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
 
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
 
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
 
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
  祝福
 
この あかりの もれいづる
この いえに すまう ものは
つとめを はたして いこう もの
いこいを もとめて つとめる もの
ひとごとながら いのりを こめて
きぼうの くいを うちこめば
やみは またたいて ほしを かくす
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山が、自らの嘘と無反省と無責任など、とんでもない偽善の最悪について「これも一種の、人間の性」と言った時点で、「人で在り続ける」ことをやめている証拠です。ブログやツイッターで好きなように、他者を、だまし、誘導してきたわけですから、「開いた出店を畳むしかない」ということです。
 
 
 
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  楽山の嘘の世界
 
 絶対に、生まれ変わりたくないもの
 2013年03月02日 楽山日記(LD)
 
 
古い記事ですが、嘘吐きと詭弁屋が治っていないのは、ずっと、今も、記事に表れてきました。何も変わっていません。したがって、この記事は、相変わらず、作為~悪意の、自己正当化です。無反省と無責任で訂正不能になると、こういう嘘もついてくるという例です。
 
生まれ変わりとカルマについて自問自答してみました。
Q「絶対に、生まれ変わりたくないものとは何か」
A「バキュームカーだ。バキュームカーにはなりたくない」
Q「では、どうしたら、そうならずに済むのか」
A「汚い言葉を吐いたならば、汚いものを吸い込まなくてはならない。バキュームカーに生まれ変わりたくなければ、汚い言葉は吐かないことだ」
 
バキュームカーは、し尿汲み取りの車として、子供の頃には何度も見たことがありますが(1954生まれ)、今もあるのでしょうか。楽山は、バキュームカーではありません。嘘と詭弁という糞尿を撒き散らす失禁のほうです。汚いものは、汚いと言うべきです。
 
汚い嘘を吐き、汚い詭弁を弄している楽山ですが、発した言葉は、吸い込むことは出来ません。後で、根拠と理由をもって、取り消すか修正するかしかありません。しかし、楽山は、2021年になっても、ブログとツイッターなどで、相変わらず、嘘と詭弁を、公共に撒き散らしています。
 
Q「他に、絶対に生まれ変わりたくないものはあるか」
A「宿り蜂に寄生されるイモムシにはなりたくない。体を内側から食い破られるのはおぞまし過ぎる」
Q「では、どうしたら、そういう目に遭わずに済むのか」
A「自分のために他人を食い物にした者は、来世では、自分が食い物にされることになる。宿り蜂に寄生されるイモムシになりたくないなら、他人を食い物にしないことだ」
 
ネットに寄生し、ブログやツイッターの読者を、丁寧ボンヤリ言語で、食い荒らしています。信仰もないのに「来世」とか言っていますが、楽山に来世があるなら、恐ろしいものになるでしょう。楽山は、他者を食い物にして、それで、満悦する自己愛性パーソナリティ障害NPDです。
 
Q「他には、生まれ変わりたくないものはあるか」
A「妄信者にとりまかれ、依存されるカルト教祖にはなりたくない」
 
嘘と詭弁で、賛同者を惑わし、反対者に疲労を与えて破壊してきた楽山です。そういう企みから、既に、教祖願望が表れてきたと言ってよいでしょう。決してアンチではありません。私たちは、盲信者にも妄信者にもならないために、楽山を相手にしてはいけません。
 
Q「では、どうしたら、それを避けられるのか」
A「人々の好意と信頼を裏切るならば、来世でも同じ過ちを繰り返すかどうか試されることになる。カルト教祖にならないためには、誠実に生きることが大切だ」
 
この記事を書いた2013年に、こう言っておきながら、今までも、今も、これからも、自己愛性人格障害から、他者の行為と信頼を裏切り、教祖的インテリに見せかけようとする楽山に、何を教えられるというのでしょう。不誠実の最悪の見本として見ていくしかないのです。
 
(云々)
以上の問答は、あるいは皮肉を感じる人もあるかもしれませんが、これはあくまで自戒を込めた問答であり、そのような意図はありません。ご了承ください。
 
皮肉ではなく、楽山の真っ赤な嘘です。今の、楽山の存在の有り様が証拠です。自己愛性人格障害は、自戒できないということを示している症例報告になります。この記事の後、約8年、何の自戒も自省も表れていません。言葉だけです。決して近づかないでください。
 
 
蒼ざめる真っ赤な嘘

蒼ざめる真っ赤な嘘
 
 
(2021年10月23日)
 
 
 
キーワード: ウソ
 
 
  パワーオフ
 
失敗は許されない
という雰囲気に満たされている
清潔なオフィス
 
お決まりの言葉と
礼儀にのっとって
損をしないように
レールのように敷かれたサービス
踏み外さない限り
ことはないのだ
少しは恩恵にもあずかれる
 
そんなところでナアナアはいけない
大きすぎる声もいけない
戸惑うことさえ許されない
顔色が変わるから
よく見渡せばどこかに
テンポラリなブラックリストがあるから
そこに自分がのせられていないか
気をつけながら
速やかにジョブを済ませなさい
 
ここにも働いている人がいる
レールの上を当たり前のように
上手にわたっていく
彼らもまぎれもなく
人間なのだから
失礼じゃないか
手続きを間違えるなんて
 
でも心配はない
そういうときのレールもある
それがサービスというものだ
迷わなくてすむように
いろんなレールがあって
迷ってしまう
思わず緊張して
オフィスというオフィス
レールというレールで
黙ってしまう
 
気がついたら
レールのわきにうずくまる
ウソつきになって
自分の声も言葉も
育て損なっていた
今それを探しているんだ
今それが欲しいんだ!
・・・off
 
 
  冷たい風
 
冷たい風
動かぬ山
火の国の 火の山
ときに山肌の色を変えて
煙と雲の向こうに
命を生む太陽
命を奪う太陽
 
冷たい風
動かぬビル
人の国の 人の山
ときに人々の顔色を変えて
雑踏と騒音の向こうに
命を生むシステム
命を奪うシステム
 
冷たい風
ふらつく私
私の国の ウソの山
ときに人々の顔色におびえて
心と体の中に
明日を生む命
明日を奪う命
 
 
 
 楽山のツイッターですが
  リツイートに楽山の主張が現れます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン
@PositiveSalon
どれだけ親切にしてあげても、恩を仇で返してくる人は必ずいる。他人から優しくしてもらえることを当たり前だと思っている人は、こうやって信頼を失って人から優しさをもらえなくなっていく。他人に優しくしてもらえることは、感謝に値することであり、当たり前だと思った時点であなたは堕落します。
午前8:23 · 2021年10月20日·Twitter for iPhone 
 
自分のことしか考えていない楽山が、親切とか恩とかを言うのは、笑止です。楽山は、自己愛性人格障害からの自己中なので、他者のことなど考えていません。だから感謝もしていません。当たり前だと思っている典型です。この引用自体が、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状なのです。
 
こういうことを平気で書ける無反省と無責任が、面の皮の厚さを表しています。だまされないでください。楽山は、誰にも感謝などしていません。当たり前に、自分のほうが上だという自覚でいるから、いつもインテリ評論家気取りで教える立場にいるのです。全部、楽山の症状なのです。
 
当たり前のように同じことを続けている、無反省の、訂正不能の、楽山が、親切でもなく、誠実でもなく、信頼を失って、感謝も口だけで、やさしさをもらえなくなって、堕落するだけでなく、迷惑をかけた分、嫌悪され、相手にされなくなるのは、当然のことです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
共依存克服・夫婦問題カウンセラー 大村祐輔
@takeheart_d
共依存やアダルトチルドレンの特徴を持つ人は、相手の事情を考慮し過ぎてしまうことが多い。それでどんなことも許してしまう。どんなにモラハラやDVや不倫をされても、何か理由を言われればそれがどんなに無茶苦茶な理由であっても「それは仕方ないな」としてしまう。自分の傷を後回しにしてしまう。
午後1:57 · 2021年10月21日
 
嘘と詭弁の誘導で、そういうことをさせてきたのが、楽山です。どんなことでも無反省・無責任で、不都合を無視して、自分の主張だけを、だらだらと書き続けてきたのです。自己愛性人格障害は、相手の事情を全く考慮しません。リツイートして理解を装う楽山に、だまされないでください。
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
このコメントは、毎回載せることにします。
 
 
 
 
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  楽山のねっとり右翼
 
 『餓死した英霊たち』藤原彰著
 2021年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
楽山がネトウヨぶりを発揮して、戦争を不可抗力と主張し誘導したいようです。楽山は、そこでアウトです。既に、あちこちでアウトですが。自己顕示欲だけの自己愛性パーソナリティ障害者が縋りつく右翼思想に付き合わないでください。
 
*きっかけ
もう随分前のことになるのだが、ひょんなことから知り合ったお年寄りと雑談するうちに、いつのまにか戦争の話になり、南方に行った兵隊の大半が餓死または病死したと聞いたことがあり、そのことについて書いた本はないかと探していたところ本書を見つけたので読んでみた。
 
戦争の話というのはトラウマを語ることにもなり得る重いテーマですが、「ひょんなことから」知り合って出てくるようなものでしょうか。そもそも、楽山のような軽薄な人が、深い経験を持つ人と語り合う・・などということが、まず、信用しかねるわけです。
 
しかも、結局、記事の中身は、本を読んだ、という、体験者とは別の話なのです。面談したというのは、また、楽山の、インテリ気取りの作り話の自慢話ではないでしょうか。
 
*概要
まず本書は前半において、ガダルカナル、ポートモレスビー攻略戦、ニューギニア、インパール作戦、フィリピン戦、さらには中国戦線でも餓死、病死が多かったとしている。太平洋での戦いだけでなく、中国での戦いでも食糧難、栄養失調に起因する死が多かったというのは意外である。
後半ではこのような悲劇の原因は、日本軍の補給・人権の軽視、精神主義の偏重、作戦参謀らの能力、人格的欠陥などが原因であったと指摘されている。これらはすべて著者の言う通りであり、もっともな理由なのだろう。
 
楽山の意図は、次に、明らかになります。「著者の言う通りであり、もっともな理由」と言いながら、全然、逆の方向に誘導してゆく、気持ちの悪さが表れています。
 
これから、もっと、ボロを出してゆくのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害の宿命でしょうか。柔和を装い、婉曲と詭弁と嘘を表してゆく楽山は、むしろ、自慢したいらしい思想モドキによって、滅びつつある自らの姿を表してゆきます。
 
*賭け?
ただ、日本軍が兵たちに降伏を禁じることなく、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたのである」(p.265)というのはどうであろうか。
『人種偏見』(ジョン・W. ダワー著)の内容が真実だとすると、日本兵が降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか。この辺りのことはやはり大きな賭けにならざるを得なかったのではないかと思う。
 
降伏を禁じることはない、降伏すれば助かったとは限らない、と言って当時の日本の軍部の戦争犯罪を、不可抗力として、免責したいという、ネトウヨらしい意図です。事実関係について、私は、よく知りません。しかし、情報操作の臭いがプンプンしてきます。
 
それは、楽山が、今まで、嘘を吐き、詭弁を弄し、他者の意見を無視し、言うには言うが聞かないという成り立たない身勝手に偏重した態度で、反キリストの考えや、右翼の賞賛や、自己正当化の言を、重ねてきたという負の実績があり、その時点で、信頼度ゼロだからです。
 
楽山が何か書けば、決して鵜呑みには出来ず、その裏の意図があるということが、2年半にわたって、積み重なってきたのです。ここで、また、このようなインテリ気取りの発言を、平気でしてくることが、失敗や悪に不感不応で、何も感じないでいられる病質の表れだということです。
 
戦争は、決して是とはされません。その惨禍が、歴史として明らかになっていることを、ねじ曲げて正当化してゆく姿勢は、戦争正当化から戦争讃美へ向かう姿勢であります。それをしているのが、楽山というペテン師の反キリストのネトウヨとなれば、ますます、信用してはいけないと思います。
 
楽山は、反キリストのネトウヨから、本格的な右翼思想家として出世したいのでしょうか。今さら真面目に書いた姿勢を見せても、その根底にある腐った自己顕示欲と自己愛性パーソナリティ障害は、否むべくもなく、楽山がどこにも立場のないことを示しているのです。
 
 
立場など無い者

立場など無い者
 
 
(2021年08月23日)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
みんなの動画(動画省略)
@minnano_dougaww
·22時間
お母さんのいじめに対する教育が素晴らしすぎる…
午後10:10 · 2021年8月21日
 
いじめは、謝っても、傷は残り、完全に元には戻らない、謝ったからいいじゃろ・・という言い訳は成り立たない、という話です。あとで謝るような、悪いことはしないようにしましょう、という話でもあります。
 
決して、謝っても無駄だから謝らなくていいという話にはなりません。
 
世の中には、謝りもしない人もいます。訂正すらしない人もいます。この話は、一方で、そういう人の悪意を際立たせてもいて、そういう人は、さらに、救いがたいということを忘れてはいけません。
 
楽山は、また、勘違いして、あるいは、故意に、都合がよいと思ったのか、自分の罪が軽くなりそうだ、いっしょだろ、みたいな印象を吹き込もうとしています。楽山は、そういう印象操作をする人です。だまされないでください。
 
楽山のように、自分で語らなくても、暗示で詭弁を仕掛けてくる人がいるという例です。楽山は、このように、自己の正当を暗示するために、言い訳みたいに、今までも本などから、都合のよい文言を漁っては引用して、自己正当化を試み、己の醜さを増幅させてきたのです。
 
 
 
  動物気分
 
人は鳴かない
時鳥(ホトトギス)が鳴いている
部屋の中までよく響く声だ
確かに「てっぺんかけたか」
とも聞こえるが
それより「ほととぎす・・・ほととぎす」
と自分の名を頻(しき)りに唱えている
 
人は飛ばない
 
蠅(ハエ)が一匹
部屋の中を飛び回る
死んだ誰かの生まれ変わり
 
まだお恨みですか
 
でもまさに五月蠅(うるさ)い
スプレーで狙い撃(う)ち
二度外れ
三度目に命中
鳥の声は聞きながら無視
何の生まれ変わりだろうと
虫は殺して
せいぜい黙(もだ)すこと数分
 
またどこからか飛んでくる蠅
隙間だらけの家の外では
犬があちこちで吠えている
 
この町にどれだけの猫の眼差し
動物は何でも知っていて
知らない振りをする
 
ふと鶯(ウグイス)はまだ鳴いているだろうか
と徐(おもむろ)に出かける支度を始める
 
山に向かって
人は鳴けない
人は飛べない
・・・
から
 
 
  忸怩
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
 
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
さいわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
 
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
だからたとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
(二千年代か)
 
 
 
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