ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:読書家気取り

 
  楽山の悪魔性2
 
 『對立を超えて 日本文化の將來』安倍能成著編代表者
 2021年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の言う道学が道楽であるように、楽山が積読を減らすというとき、妄想を積んで置くことになります。今回の、文章の質の悪さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。むしろ、楽山は、そのサイコパシーを、書いて表すことによって、逆説的に、明らかにしてゆくのです。
 
楽山は、茶色に変色した本のページを画像として出していますが、省略します。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ですから、また、実際に読んでみても、決して、対立を超えて日本文化の将来を考えられるような人ではありません。
 
 
*積読本を減らしたい
この間から積読本を減らそうと頑張っているのだが、残念ながらなかなかうまくゆかぬ。でも今回はとりあえずこの本にざっと目を通してみた。
本書は昭和23年の座談会をまとめたものであり、昭和25年に出版されたものである。座談会の参加者は表紙にある通り、和辻哲郎、渡辺慧、前田陽一、谷川徹三、竹山道雄、小宮豊隆、木村健康、安倍能成である。
 
このように学識経験者の名前を挙げるのは、自己顕示の強い者が、憧れ、そして、妄想的に同一性をいだいている症状として、それこそ、自らの傲慢と高慢を表している症状なのです。
 
 
座談会の話題は、冒頭から明治維新は上からの革命で本当の革命ではなかっただとか、世界国家の建設を目指すべきだという主張があって失笑させられるが、その後は日本文化について有意義な対話が為されていて勉強になる。
 
楽山の主張の特徴は、全ての発言において、その根拠が全く示されていないことをもって妄想だと判断できることです。有名人なのでしょうか、私は、よく知りませんが、楽山の決めつけであれば、意に介する必要もないということです。
 
 
一読したかぎりでは、この中ではやはり和辻哲郎がもっとも尊敬され、一目置かれているようだ。安倍能成も存在感がある。ただ個人的には竹山道雄の意見にもっとも共感できた。
以下には、この座談会において特に興味をひかれた話についてメモしておきたい。
 
楽山は、有名人や学者の名前一人では物足りないのか、座談会の本を持ち出してきました。人数を増やしても無駄なのは、具体的でない記事の質と、記事の短さに表れています。楽山は、面倒臭いのでしょう。でも、読んだことにしたいのでしょう。読んだとアピールして、むしろ無知と無理解を表す結果です。
 
そういう短絡が、記事の短さに表れます。読んだことにはならないことが、記事に表れるのです。「興味をひかれた話について」の記事がこの量と質でしょうか。名前だけは、たくさんあげて、興味と言い、積読を減らしたいそうです。楽山は、楽山の妄想を積んで置くことになります。
 
誰が尊敬されているかが重要でしょうか。「一目置かれて」「存在感」「共感」・・思った通り、これが感想か・・と呆れるほど中身の空っぽな自慢の、誰がどうこうと、単純な褒め言葉を並べているだけです。読んだことにしたいだけだと分かります。楽山のメモは、哀れなほど、ランダムでインチキです。
 
 
*内村鑑三
まず本書には、師としての内村鑑三について次の証言がある。
Scan0047 内村鑑三と武士道、儒者
これは人によっては、封建的でけしからんだとか、古臭く堅苦しいととる人もいるかもしれないが、自分には非常にさっぱりしていて愉快に思える。
 
画像を出してこれだけです。何が "けしからん" のでしょう。これで、書籍の案内にもなりません。推測するに、内村鑑三、武士道、儒者のうち、武士道のことでしょうか。どう、さっぱりしているのでしょう。どうして愉快なのでしょう。楽山は愉快犯ということになってゆくだけでしょうか。
 
 
*日本語
二つ目は、日本語には「信ずる」という言葉はないという話。
Scan0048 日本語に「信ずる」はない
これは意外だが、「信ずる」は訓読みでなく、音読みであることを思えば合点が行く。
日本に無宗教者が多いのも、これと関係があるのかもしれぬ。
 
信だけでなく、愛、介、感、禁、高、講、察、・・等々、音読み+『する(ずる)』で出来ている言葉は多いですが、既に使われているのに、それが、どうして、日本語にないと合点が行くのでしょう。メチャクチャ雑な話です。さらに無宗教と結び付けるとは、言葉の現実的な中身を失っています。
 
 
*祈り
三つ目は、祈りについてである。
Scan0050 祈りの効果。カレル著「祈り」より。
祈りについては、良い効果があるという話を聞いたこともあれば、そうとばかりもいえないという話も聞いたことはある。たとえば入院患者たちを自分の病気平癒を祈ってくれている人々がいることを知らされたグループと、知らされないグループに分けて、その後の患者の様態を調べると、前者は後者よりもよくなかったという結果が出たという話など。
祈りは効果があるのかないのか、一体どちらが本当なのだろうなと思う。
 
楽山は、祈りについて、治癒したかどうか、つまりご利益の有無で判断しています。祈りの心が無い証拠なのです。祈りは治療効果があるから祈るのでしょうか、薬じゃあるまいし、祈りというものを効果の有無で判断する楽山の甚だしい無理解です。
 
もはや楽山の知能を疑いたくなりますが、ひょっとしたら悪質な揶揄かもしれません。判断の基準について、一般教養としても稚拙すぎます。上と併せて、もはや、マンガでしょう。しかも、面白くもなく、中身が、悪意の無思慮の揶揄以外、皆無です。
 
 
*藤井武
最後に本書中で、もっとも興味をひかれた箇所について保存しておきたい。内村鑑三の弟子の藤井武という人物は、次の主張をしていたという。
神の計画的な導き、思想展開
堕落した日本はいったん滅ぼされたあとに新生される神の計画によって、各時代、各地域において新たな教えが説かれた
 
神の計画を、人間は完全に走りえない、という分別を持つべきです。軽口で、しかも決めつけて豪語するから、このように、楽山のような外道の企みに利用されるのです。新生される神の計画など、誰も知っているとはいえず、毛ほども知る由もない楽山が、勝手な豪語に至っています。
 
 
キリスト教において来世問題(霊界? 転生?)を明らかにする
これらは一見したところでは新規なものにも思えるが、よく考えてみれば必ずしもそういうわけでもないことがわかる。たとえば一つ目についてはその根っ子にはキリスト教的な世界観があるのだろう。
 
キリスト教に折れる来世問題は、推測と創造であって、決定事項ではありません。おとぎ話的なところもあるでしょう。キリスト教の世界観を、キリストの愛と共感を知らずに考えてしまう楽山のような、無節操こそが、あらゆる宗教と信仰の敵となります。
 
 
また戦前の日本では大本教が、近々、世の中が立て直されることを予言し、騒ぎになっていたというからその影響もあるのかもしれない。あとの二つについては、スピリチュアリズム方面で語られていることだろう。よってこれらの考え方には目新しいところは特にない。
 
「新生」も「転生」も、キリスト教の中心ではありません。大本教は神道の一派でしょう。神の業は、神に任せる、という重要なポイントを抜きにして、心の問題を語れない楽山が、知ったかぶりで語る座談会は、もはや、楽山流に歪曲されたチープな雑言短絡のゴミ箱になっています。
 
宗教やスピリチュアルを気取って、ここまで、説得力のない詭弁を吐く人も珍しいでしょう。楽山の記事には、陳腐だったり、詭弁だったり、曲解だったりしますが、目新しい卓見のようなものはあった例がないのです。
 
宗教を知らない、神を知らない、聖霊を知らない、そして、人間を知らない、さらに、読書できない、理解できない、分別がない、理路がない、深い情緒がない、節操がない、立小便のようにメモと言って垂れ流す・・ネタにされた古本も気の毒です。
 
 
>思うに、宗教思想というものは個別に見ればあっと驚かされることがあったとしても、<
 
「あっと驚かされる」という、どこかで聞いたようなセリフでしか表せないことが、先ず、感想になっていないということです。この記事が、本の言葉とは思えなくなります。楽山は、知的にも、成人男性とは思えない遅れを、今回、あらわにしています。
 
 
横断的に広く見渡してみれば相互に影響されており、それぞれ単独で発生しているわけではないということがわかるものだ。新たな宗教は、神の啓示によって突然に説かれるのではなく、人と人の間から生まれてくるものなのだろう。
 
来世問題や世界観が、どう相互に影響しているのでしょう。楽山の説明が拙劣なために、宗教が、人と人の間から生まれるというのは、無神論が前提になった暴論に過ぎなくなっています。来世問題を語りながら、人と人の間?・・寄せ集めて、語ろうとして、滅裂です。
 
信じないなら、信じなくていいが、その無理解で、人を惑わすような、知ったかぶりをされては、たまりません。楽山は、宗教について、神と人の関係について、何も分かっていない。来世どころか、この地上、そして、人間について、何も分かっていません。真善美に、いちばん邪魔になる自己中です。
 
これも、憎まれ口として、楽山が、故意に言っているなら、その質と量が、そのまま、楽山の体質的な悪魔性だということです。理解できず、理解しようとも思わないで、迷惑な雑言だけをまき散らす楽山には、一日も早く黙ってほしいとだけ、切に思います。
 
 
信者にとっては自分の信じる宗教こそが絶対的なものに見えがちではあるが、実際のところはどの宗教も相対的ものにすぎないのである。
 
楽山が、そういう判断をするということは、自分は、絶対の立場に立っていると言っているようなものです。楽山は、絶対に絶対ではなく、人間としても、情けないほど、人間としての自立した思考を持っていない人です。偏見だけで、宗教をまとめたつもりでしょうか。・・病気です。
 
何が絶対ということなのか、全く分かっていないまま、軽口で絶対性を否定する楽山です。神の絶対性は、信じる前提ですが、絶対性自体を、人が理解することはありません。神に対しては、人は、絶対性ではなく、ただ、神と違う己の、人としての相対性を弁え、恐れ、正直に祈るべきなのです。
 
そういうことが全く理解できない楽山は、宗教を、ゆえに、神を、相対のオモチャ箱に入れようとするような、恐ろしい傲慢を表しています。やはり、この記事は、本の中の文章ではなく、楽山が歪曲した理解つまり曲解を書いているだけです。人間を見ないで宗教を語るとこうなります。
 
 
自分はこの辺りのことに気づくことができず、上の三つと同じようなことを説くとある宗教を絶対視し、のめり込んで失敗した過去があるのでひたすら反省である…。
 
それ以前に、このクズのような記事を反省してほしいと思います。こうやって、自己愛性人格障害の楽山は、宗教なんかクズだよ・・と、言いふらすつもりなのでしょうが、ここまで来ると、宗教と神に対する、楽山の病質からの、悪魔性に満ちた、あからさまで不細工な、自己破滅的な侮辱でしかありません。
 
よく、反省・・などと書けるものです。過去を反省した今の自分は正しいというニュアンスを読み取ってほしいと思います。楽山が、本当に悔いて反省することは、一度もなかったと思います。病質から言っても、記事を見ても、これからも、あるとは思えません。
 
自己愛性の病質とはこういうものなのか、進行すると、これほど人間離れして、人格が壊れてしまうものなのか、という感を新たにしています。澱(おり)のようなものになって、掬いようがなく、救いようがない、それほど、手の施しようのないものになっています。
 
 
干からびる無神教カルト

干からびる無神教カルト
 
 
(2021年06月29日)
(2022年07月01日、再録+加筆)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
最終2行は、そうでなければ、物や肉体の奇跡話だけでは長続きしないし、救われないと思うからです。現代、物や肉体の奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないわけだし・・、人間の心を疎かにするのは信仰ではないと思います。
 
超常の話が増えれば増えるほど、楽山のような、何も分かっていない部外者が、偽善者として蔓延り、霊能者気取りや学者気取りで、本来のキリスト信仰を、否定しようとするでしょう。それに対して、逐一、批判する以外に方法はないのです。
 
楽山の攻撃性は、罵詈雑言よりも、理路の散逸と、共感の欠如です。人間と遣り取りをしているとは思えないのです。自己愛性人格障害の怖いところは、罪悪感がなく、極めて諦めの悪い執拗さです。こちらの頭も心も、煙に巻かれたように、疲労しボンヤリしてきます。
 
 
あるカルトの人は、キリスト者であることを疑ったところ、ヒステリックになって、何やら書類のようなものを写真に撮って出してきました。それが信仰の証明になると思っているのです。役所の手続きか生命保険の契約のように信仰を考えているようです。
 
信仰の証しは、免許証でも保険証でもありません。信仰の救いは、神に向かって祈り、自分を見ていただく以外にありません。人が祈る時、既に、神によって全て見抜かれています。神は、人間からの正直な告白を待っておられます。人には、それ以上捧げるものは無いからです。
 
聖書において救われた人々を見ると、救われるためには、完全な正義ではなく、完全な善でもなく、神の前に、努めて正直であることだけが必要十分であります。正直以外、神には通用しません。神の前で人は生きていますから、常習的な神への嘘吐きは、救いから、最初に除外されます。
 
教条絶対を語る者は、言葉だけでなく心の底まで見抜かれる神の存在を信じていないと思います。私たち信仰者が地上を生きることは、神の前で生きることであり、神に向かって祈ることであり、人の体裁も善行も正義も誉れとはならず、正直な祈りだけが信仰の義となる生き方なのです。
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
  悪魔の臨終
 
軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
  自棄と慈悲
 
人と人との適正な距離を
維持するだけの平静な
路面さえも失いつつある
復讐の念に燃え狂い
のたうちまわる欲求不満に
無気力・無為が横たわる
そういう自閉の距離を取るだけで
今世界中の人が死んで
自分一人になっても
冷蔵庫があって食べ物があれば
普段と同じように食べるかもしれない
今世界中の人がいても
同じだから
いや少し違う
 
これ以上近づきませんから
何もしませんから
と昔ハンセン氏病の慈悲深く
心貧しき偉人が言ったのを
真似ようとするかのような
苦し紛れの距離の取り方
 
二十年あまり前に戻って
二十年後を見てきたと
ひとこと言って
胸を突いて果てたいのだが
それができる仕組みではないし
今できないことを
二十年前に戻ってできるはずもないから
神様でも悪魔でも
恥さらしと知って恥をさらす
この生ける屍の肉体の
後始末をお任せするしかないのだが
少し楽になったことがある
 
肉親の安否を前より気遣わなくなった
自分の安否はもっと気遣わなくなった
 
(※ 40歳頃の作)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の気楽さで宗教を考えていると、宗教も信仰も何の意味もないものになるでしょう。そういう刷り込みを楽山はしているのです。そうやって、楽山自身が、全く救いようのない前途を自ら表しています。楽山に期待するのは、とうに諦めています。楽山の影響を誰も受けることのないように願っています。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
 > 長期間「攻撃的プロフィール」の被害に遭っています。
棒氏は、自分は何もしてないのに、一方的に不当な攻撃を受けているかのように書いてるけど、そういう嘘はよくない。
しっかりと霊的人生観をもち、閻魔様と向き合うときのことを想像し、反省して下さい。
 
楽山は、数えきれない嘘を吐き、詭弁を弄してきました。楽山こそ「自分は何もしてないのに、一方的に不当な攻撃を受けている」つもりで、自らへの批判を無視しているわけで、その時点で、楽山の発言の信頼度は、ゼロなのです。
 
「嘘はよくない」・・ブーメランです。楽山が、楽山に言われています。自分の嘘を省みず、よくも、そんなことが言えるものだ・・と、ブーメランは帰ってくるわけです。自分が言えば言うだけ、自分が落とされてゆきます。楽山は地獄の憑き物です。
 
人生観に「霊的」を付けるのも教祖願望の表れでしょうか。「閻魔様」と向き合うことになるのは誰でしょう。超常趣味で、嘘吐きで、詭弁屋の、楽山は、焼きが回って、いずれ、焼き切れるのでしょうか。良きものを、一度も、しっかり持ったことのない楽山が、身の程を知らずに、吹いています。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
(省略)
自分は間違ったと気づいても、だんまりを決め込み、うやむやにする人が多いですから、これだけでも立派なことだと思います。
 
「自分は間違ったと」気づかず、あるいは、認めず、隠して、無視するのが、「うやむや」人生の楽山です。人に「立派なこと」を教える資格など、あるはずもありません。堕ちてゆく楽山は、落山でしかありません。このブーメランは、隠し事の報いでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
では、HSの場合はどうかと言えば、他の方が提示してくれた画像を使わせてもらうと、こうなってます。
伝道目標は、教祖が期限を設けて決めていることが明らかになった時点で議論終了です。
 
教組みたいになって目立ちたいだけのペテン師、楽山の、議論に見せかけた自己中妄想語りは、楽山の嘘と詭弁と無反省と無責任と自己愛性パーソナリティ障害が明らかになった時点で、邪悪な言論無資格であり「終了」というより、始まってもいなかったということです。
 
 
 
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  楽山の読書と詭弁
 
 『幸福なる人生 ウォレス伝』渡部昇一著
 2022年04月29日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
反対を書き、賛成を書いたから、責任問題は生じない、という、トンデモ無責任の楽山が、まだ分からないらしく、書いてきました。人格の病気で、罪悪感がないというのは、本当に不治なのだなと感じます。羞恥心もなく反省もしないので、お構いなしに、他者をおとしめてゆくのです。
 
 
*概要
本書は評伝とも、自伝ともいえず、何と言ったらいいかわからない本である。
 
だったら書くなと言いたいが、自分が何を言っているかが分からなくなったのでしょう。楽山の、おぞましい精神世界のようです。何伝であっても、楽山に読解力はありません。今まで、偏見だけを書いてきた履歴があるのに、自分を評論家だと思い込んでいるのです。
 
 
タイトルはウォレスの評伝のようだがそうではないし、本文はウォレス自身が語っているので自伝のようだがそうでもない。では何かといえば、「はしがき」で著者のご子息が語っておられることがもっとも近いだろう。
 
こういうゴシップ的な推理話から始めて、実質のある感想・意見は書けるんだと思い込むのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴なのでしょう。本の帯と表紙だけを見て書いているような思いつきを、評論家気取りで書いてきた楽山です。
 
 
この本は、そのウォレスがまるで今の日本人に、霊界から自分のことを語っているような形式をとっている。(『幸福なる人生 ウォレス伝』渡部昇一著、扶桑社、2020年、p.3)
 」
 
やはり「霊界から」が出てきます。楽山の興味は、大方、心霊と超常に向かいます。キリスト教についても、心理学の「心の理論」も、心霊の話として受け取って、幼稚な決めつけで書き得たと思い、その超常からの教祖願望によって、自己愛だけに生きているような、本当の人間関係を持ちえない楽山です。
 
 
端的にいえば、本書はウォレスの霊言という体裁のものなのである。ただし、いい加減なトンデモ本というわけではない。ウォレスの家系、幼少年期、青年期、当時の人々の暮らしぶり、社会情勢などが実に詳しく語られている。
 
トンデモは楽山なのです。批判に弁明できないのに、平気で、無視し続けながら、なおも、その文責を負わないまま、次を書いて、当たり前だと思っているのです。これは、精神病理でしかありません。こういう人は、言論から、まず、始めに追放するべき対象です。トンデモは楽山です。
 
 
時には、同時期の日本の状況についても触れていて、ウォレスの生涯と東西の歴史を立体的に把握できるように工夫がなされている。未完ではあるが、博学な著者による大作である。
 
「立体的」「博学な著者」「大作」・・これで中身が伝わるでしょうか。万事、こういう書き方です。ほめておけば、抵抗なく受け入れられるじゃろ・・という性根で書いているのです。醜いです。楽山の褒め言葉は、全て嘘ですから、真に受けないでください。自己愛者は、本気で人を褒めることはないのです。
 
 
ずいぶん前に著者が松下幸之助について書いた本を読んで感動した覚えがあるけれども、そのことも考え合わせると、もし著者が本腰をいれて、評伝、歴史小説などを書いていたら、いくつもの名作を仕上げていたに違いないと想像する。
 
楽山の「感動」は、例えば、あいまい検索の文字列の一致のようなものです。楽山には心がありません。情感や熱意をベースに読むことがないのです。だから、自説と似たようなことを書いておれば、褒めるのでしょう。おべっかを書かないといけないのは、何も受け取っていないからです。
 
 
*カトリックとスピリチュアリズム
ところで、前々から著者の発言から、スピリチュアリズムのことはよく承知しているとは思っていたが、本書を読むと相当に深く研究している気配が感じられた。貴重な文献も収集してそうでもある。
 
ここでも、そうです。「相当に深く研究している気配が感じられた」・・気配?、なんなのでしょう。褒めるには、それなりの、評価の実質を示さなければいけません。楽山にとっては、褒めておけばよいという判断なので、だんだん、形容が、霧散するような表現になります。
 
 
そこで疑問なのは、著者はカトリックの信仰とスピリチュアリズムとを、どのように整理していたのだろうかということである。スピリチュアリズムは教会に批判的なところはあるし、キリスト教とも矛盾するところもあるので、著者の理解に興味があるのだ。
 
いちばん矛盾してきたのは、楽山です。キリスト教を史実と超常奇跡の話にして、全く的外れで、理解などしておらず、しかも、平気で否定を書いてきました。だから、スピリチュアリズムと同列におけるのでしょう。スピリットは精神のことです。楽山は、人の精神を病気にするウイルスのような存在です。
 
 
たとえば、以前の記事でも触れたことであるが、著者は「私が知る限り、キリスト教で生まれ変わりを信じる人はいませんよ。これは絶対ない」と断言していた。これはつまりクリスチャンの著者は、生まれ変わりは信じていないということでもあるのだろう。
 
まさに、このことです。キリスト教について、生まれ変わりを問題にしています。楽山には、生きている間のことは、どうでもいいのでしょうか。信仰は、人が生きるためにあります。いくら考えても分からない超常や霊が中心ではありません。楽山は、まさに、ホラーです。
 
 
でもスピリチュアリズムでは基本的に生まれ変わりを真実だとしている。著者はこの矛盾をどのように解決していたのだろうか。この問題について触れた文章があるなら、ぜひ読みたいと思う。
 
生まれ変わりについて、こだわり、他の記事では、史実にこだわり、霊にこだわり、どちらも、キリスト教を否定するためのようです。一方で、楽山の精神は、無反省、無責任、嘘と詭弁、刷り込みと詭弁、幼稚な芝居心、努力せずに高みを誇るなど、最低の病質を表すばかりです。
 
楽山は、人をだます嘘と詭弁だけを性癖として身に着けてきました。楽山には、一般常識、良識、良心、共感力、冷静な理路、罪悪感、責任感羞恥心、など、いずれも欠けています。楽山の記事は害毒です。恥さらしになっていることに、楽山は、まるで気づかないのです。
 
 
 
もう一つ、楽山の無責任が表れている記事を再録しておきます。
 
 
 「幸福の科学」の自己責任論について
 2013年02月22日 楽山日記(LD)
 に対する私の批判記事↓
  ここで、改めて批判しておきます。
 
 
自己責任論は、私的な問題のみならず、
公的な問題にまで適用しようとするとおかしなことになりがち。なぜなら、公的な問題を、私的な責任問題としてしまうなら、公的な問題は解決されないままに放置されることになるから。
 
責任問題を、公的と私的に分けるのは、楽山の詭弁です。責任問題は、公私問わず、誰が責任者か、どういう責任かを、追及することです。楽山は、こう言う詭弁を、自己保身のために使ってきます。理路は滅裂に近いと思います。
 
 
たとえば、危険な道路で事故が多発しているとき、事故に遭うかどうかは、各人の運転技術の問題であり、自己責任だとすれば、危険な道路はいつまで経っても危険なまま放置されてしまう。 
 
事故が頻繁なら放置されることはないでしょう。そして、楽山の責任も、最後まで追及されなくてはいけません。それに責任の問題について、「公的な問題を、私的な責任問題としてしまう」・・おかしいです。責任は、公私問わず、責任者が負うべきものです。
 
こういう詭弁を吹き込んでくるのが、楽山という無責任です。追放しても、またどこかで、悪さをするでしょう。その都度、その場から追放されるべきです。楽山の発言こそが、放置してはいけない「危険な道路」なのです。早く、言論の場から、いなくなってほしいです。
 
 
 自己責任論は、
反省のための心構えではあっても、必ずしも事実とは限らない。何らかの問題が発生した場合、すべての責任は一方にあり、他方にはまったく責任がないという事例は少ない。その割合は、3:7、2:8などいろいろだろうが、大概は、当事者双方に責任がある。
 
それは、裁判が明らかにすることです。楽山が、いかに、責任を負う気がないかが表れています。事実とは限らないから、反論と論争になることはあるでしょう。気持悪いのは「双方に責任がある」と言っている楽山は、あらゆる発言において、一度も責任を負うたことがないのです。
 
 
自己責任論は、こういう現実を承知した上で、反省の動機づけとして、あえて、いったんはすべての責任を引き受けようとしているだけである。必ずしもすべての責任がその人にあるというわけではない。
 
責任問題は、当事者にとって、決して、そのまま、曖昧に済ませてはいけない問題です。「反省」という言葉を書きながら、その前後で何も変わらず、反省することのない病質者の楽山には、責任者として、追放以外にないのです。楽山が、いかに、自分の庭で正当化しても、通りはしないのです。
 
 
自己責任論はマインドコントロールに悪用され得る。たとえば、宗教教団において、自己責任論を徹底すれば、信者は自分を責めることはできても、教祖や教団の責任を追及することはできなくなる。
 
責任を問えばマインドコントロールになるというのでしょうか。裁判、あるいは、批判によって、楽山のようなアンチ気取りの病的な偽者を、正常人の罪から区別することは、どうしても必要です。楽山の理屈は詭弁であり、自己中の言い逃れであり、全く成り立ちません。
 
 
既にいろいろなところで指摘されているように、自己責任論は本来、自分に対して適用するものである。より詳しく言えば、自と他の関係において、自分に対して、「すべての責任は自分にある」というものであって、相手方に対して、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
決定的な発言ですが、楽山は、いかなる不祥事においても、一切、責任を取りません。こういうことが出来るのは、人間が腐っているからです。しかも、この記事だけでなく、詭弁付きです。人を批判しても自分の責任を負わない害毒には、決して近づかないようにしてください。
 
 
また、他と他の関係について、第三者の立場から、どちらか一方に向かって、「すべての責任はあなた自身にある」というものではない。
 
楽山の責任は、楽山だけの言動によるものですから、その責任の全てを負わねばなりません。軽口でキリスト教と良心をおとしめた責任です。さらに、言い逃れに、悪口と嘘と詭弁を弄してきた責任です。そして、今では、反省を全くしないというサイコパスの責任も加わります。
 
 
以上自己責任論というものはいつでも、どこでも、誰にでも適用できるわけでもなく、さらには使い方を間違えば、人を深く傷つけることにもなりかねず 毒性も強く、その扱いには細心の注意が必要なのではないかと思う。幸福の科学の界隈では自己責任論によって他者を責め、裁こうとする事例が少なくないようなので自分なりの考えを書いてみた次第である。
 
楽山が、いかに責任を逃れたいかが表れています。楽山は、今まで、いかなる責任も負う気がないということが明らかになってきました。他の人はともかくとしても、一度も責任を負う気のない楽山は、書けば醜い自己正当化の刷り込みにしかなりません。
 
 
ウソッピ物語 嘘っ屁の言い逃れ

ウソッピ物語 嘘っ屁の言い逃れ
 
 
(2022年04月29日、一部再録+加筆)
 
 
 
  うしなったよる
 
みそこなった このみちは
たれのみち どこへ つづく
みうしなった このよるは
たれのよる なにを つつむ
みすてられた このときは
たれのとき いつを かくす
みな ねむるころ
めさめる いまを さかいに
みとどけたい あしたを
くらやみの くさむらの
むしたちの こえと
むねにおちる しずくの おとが
なくしたものを ひろげながら
とおくへ くぎってゆく
 
 
  かえらないもの
 
もう そこには ないのですね
うつむいた ときから
もう そこには いないのですね
なぐさめようもなく
うなだれた ところから
ひとは みな かえってゆきます
たずねびとが みちに まよい
たびびとが よわきになった そのみちを
ふたたび あう やくそくも できないまま
みつからない ひみつを のこして
いいつたえと なぞの あけくれに
ひとは みな いってしまいます
ないものと いないもの もう
たれも さがしは しないのですか
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
本も読めていない。理路も組み立てられず、詭弁の悪用しかない。信仰も宗教も、まるで理解していないのに、書くことに慢心して、内省できず、ろくでもない記事だけ書いてきます。嘘と詭弁が明らかになった今では、意味など無く、否定するしかない楽山の老廃物です。
 
思慮と高等感情、楽山においては、さらに劣化してきました。楽山が、大きなテーマ、つまり、宗教、信仰、真実、などについて書いてくることは、まるで、楽山のハラワタに溜まった汚い老廃物を垂れ流してくるようなものです。楽山の汚らしさを、その都度、味わうことになります。こうはなりたくない。
 
私はキリスト者のつもりなので、信仰の記事やポエム的なものを書きます。絶対の正しさはないので、修正や加筆することも多いです。
 
楽山は、批判に全く答えることなく、悪口を衝動的に多量に書くか、無視するだけの訂正不能です。どう生きたら、こういう人間になってしまうのでしょう。
 
 
 
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  うそのまま3
 
 ありのままの自分でいること
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2021-03-27
 楽山日記(LD)・・を改めて批判。
 
 
反省・修正をする気がない者は、びくともしないと言いたげに、びくともしないことこそが不自然極まりないところでも、いっそう、我を張ってくるものです。不感不応の症状が、ありのままなら、どれほど現実において有害かということです。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、のぼせ上がります。今までの3年にわたる経過から、いくら飾っても、いくら謙虚や中庸を装っても、既に、数々の嘘や詭弁がバレているのに、楽山は恥ずかしさを感じないのだろうか・・ということに驚くのです。
 
仏様の心が分かるっぽい?と言ったり、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、愚かさを積み上げてゆく自己中心の醜態、楽山は、見た目の文章より、はるかに汚辱の作為に満ちています。
 
楽山は、アンチカルトではありません。霊が分かるっぽい?自覚の、楽山こそが、カルト教祖願望を持っていると判断しています。カルト被害者のふりをしていますが、楽山の言は、嘘と詭弁で出来ていて、どう見ても害毒でしかありません。
 
 
最近は、ありのままの自分でいることをよしとする考え方に共感するようになっているのだが、どうやらこの考え方は随分古くからあるらしい。
このように本能的に自然のままに反応すること、このようにあらゆる道徳的な詭弁や強弁から解放されていること、これが古代の異教徒的感情に一種の威厳を与えて人を感動させるのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.135)
 」
 
嘘吐きが、ありのままでいるのだそうです。楽山は、意地の悪い快楽刺激にしか反応できない人です。そして、人を傷つけても、疲れさせても、迷惑をかけても、悔いることがありません。罪悪感がないからです。楽山のありのままは、詐欺師のそれでしかないのです。
 
嘘吐きをやめない楽山です。飾ることを止めない楽山です。ありのままを善しとすることが、真実に生きることなら、上にあげたような今までの経過は無かったはずです。反省しない楽山の、ありのままは、偽善であり、三文芝居であり、狂気であり、犯罪であり、極悪非道であります。
 
また、嘘を吐いています。「道徳的な詭弁や強弁」というのは、古い形式的な道徳を皮肉った言葉なのでしょう。楽山は、非道徳的で詭弁屋であり偽善者です。詭弁は、嘘の一種であり、道徳に反することです。うっかり受け入れたりしないでください。どこまでも姑息的で無責任な楽山の引用なのです。
 
楽山にとっては、自然のままであることは、道徳から解放され、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念して、人をだますことのようです。楽山の本能だから、良しとするのでしょう。このような「解放」?は、他者を犠牲にする凶悪につながります。罪悪感の無い楽山だから悦ぶのです。
 
偽牧師シャロームにおいてそうであったように、理路の崩壊が、さらに進んでいるようです。だんだん、言い張りから、ケダモノの遠吠えになってゆくでしょう。その分、楽山の偽善の証拠が資料としてそろって、批判はシンプルになってゆくでしょう。
 
 
ちなみに、これと似た考えは、佐々木丸美の小説『雪の断章』においてもっと踏み込んだ形で詩的に表現されている。
私は雪の言葉を聞いた。
裏切りがあるから信じ、崩れるから積むのでしょう、溶けるから降るように。
降ることも溶けることも自然の意思で行為は同じ。なぜ積むのが大切で崩れるのが哀しいの? 信じることよりも裏切ることの方がなぜいけないの? 同じ心から生まれたものに正しいとか正しくないとかってそれはどういう意味なの? 
(『雪の断章』佐々木丸美著、講談社、昭和56年、p.120)
 」
 
楽山の、小説を悪用した悪意の逆説です。現実の実態がそうだと言っているのに、既に、ケダモノなのでしょうか、思考も情緒も意志もない雪という自然現象をお伽噺の因果に喩えている小説のセリフを、逆というだけで気持ちがいいのでしょうか、経過と結果の逆説に単純反応しています。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいのでしょうか。楽山は、人間としての基本的な節操・分別さえも持っていないので、他者の良心を、壊して、傷つけてゆきます。それが楽しいと言うのでしょうか。
 
楽山は、信じることは裏切りだ、積むことは崩れることだ、降るのは溶けることだ、だから、自分が悪を働くのは善だ、正しいとか正しくないとか無いんだ、裏切りがなぜいけないんだ・・とでも言いたいのでしょうか。逆説の悪用です。表現というものを全く知らない楽山の臭い臭い詭弁です。
 
思考と情緒と意志を常識として持っている人ならば、小説の文学的逆説の価値を認めても、こういう楽山のような、小説の文言を悪用して、善悪の判断を拒否して自己正当化を謀(はか)るような、愚かで乱暴で、かつ、人間としての無思慮を証明するような詭弁には、同意しないはずです。
 
 
恥ずかしながら自分は元々は堅苦しい主義や封建的道徳よりは、情緒で判断する傾向が強い方であったが、
 
楽山は、情緒ではなく、快楽原則で判断しているだけです。なんでもかんでも、自分に都合がよければ拾ってくる作業を読書と呼んでいるのです。楽山は、思考だけでなく、情緒的感性も壊れているということが、随所に表れてきました。
 
情緒的判断の対比に、「堅苦しい主義や封建的道徳」としか書けないところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。堅苦しくない自分、反封建という前提で、婉曲的に、見苦しい自己正当化を謀ろうとしています。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山には、それがないから、詭弁で自己正当化するしかなくなっているのです。楽山日記は悪意の産物であり、善意の知性に見せかける悪魔性の罠(わな)であります。
 
 
宗教に凝るようになってからは何事もその宗教の規定する是非善悪によって判断し、実際の行動はもちろん、ものの見方や考え方、喜怒哀楽などの感情さえもコントロールしようとするようになっていったのだった。しかも自分のそれだけでなく、周囲の人に対してもそうしようとしていた。いってみれば典型的なマインドコントロールというやつである。
 
楽山が「宗教に凝る」というのは、オカルト趣味や超常心霊オタクになったということです。人を操りたいという支配欲です。しかも、努力や学習をせずに偉くなりたいという怠惰な欲望であります。人間の真実追求を考える宗教と信仰とは、真逆であります。
 
楽山の基準は、自己中心で、他者を省みないところにあります。楽山を、間違っても、HSというカルトを克服した人などとは、思わないでください。楽山が、ずっとしてきていることこそ、カルト宣伝と質的に何も変わらないことなのです。むしろ、教祖願望でマインドコントロールしてゆくのです。
 
 
でも近頃は、その反動のせいか、それとも元々の性質に戻ったせいか、宗教の価値観に自分を合わせようと躍起になるよりも、生来の情緒を取り戻し、その情緒に素直でありたいと思うようになってきている。
 
反省みたいに言っていますが、何ごとも自分の規定する是非善悪によって判断し、人に対しても、ボンヤリ言語で暗示して、無神教カルト宣伝者として、マインドコントロールしようとしている経過が、楽山の生業(なりわい)です。
 
楽山の 「生来の情緒」は恐ろしいものがあると感じています。曲がった知性の総てを自己正当化だけに費やして、反省も学習もせず、都合のよい文言を漁っては、著者の名前で、自らの正当性を刷り込むなどは、「素直」などではなく、鬼畜に近いものを感じます。
 
また、ネットでは、きれいごとしか書けないのも、楽山の特徴です。超常の心霊好みで、教祖願望の詭弁屋で人間離れしたことばかり書いている楽山の、どこに取り戻せる「生来の情緒」があると言うのでしょう。楽山は、嘘っぱちの霊感の優越意識を満足させたいだけです。
 
楽山の変わらぬ性質として表れてきたのが、過去の間違いを決して認めないことです。反省しているなら、もはや、嘘を吐いたりも詭弁を弄することも出来ないでしょうし、さらに、だらだらと書いてくることさえ、しないはずだからです。
 
楽山の反省の弁は、自身を低くする謙虚とは逆であって、むしろ対極にあるもので、真っ向から、何の罪悪感もなく、自分はこんなに謙虚だ・・と見せかけるための、白々しい芝居なのです。楽山は、邪悪な衝動に素直に支配されている病魔なのです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っているのは、またしても、自分は整った人間だと自慢したいだけなのです。謙虚さとは対極にある詭弁です。
 
楽山は、ずっと、不感不応の情緒のままに、反省せず、整わない詭弁を弄しているだけです。楽山は、宗教と信仰の価値を、全く知りません。そういう、自我の欲望しか持っていない心性ですから、正常な情緒ではないと思います。あるのは、イド的欲求だけでしょう。
 
 
こういう態度はかつての自分のようにすべてを宗教的規範に合致させないではいられない熱心な宗教信者からは毛嫌いされ、時には退転者、落伍者の烙印を押されてしまうものではあるけれども、自分はこの過程において、信仰を捨てることで真の信仰を得るとか、修行を放擲することで修業目的が達成されるということを経験できたのはよかった。
 
「信仰を捨てることで真の信仰を得る」・・楽山は何も得ていません。ますます、悪くなってゆきます。それに、楽山は、信仰を得たこともないのです。理路がデタラメなので、息をするように嘘を吐く因業または生業(なりわい)となっているのでしょう。
 
楽山は、我執だけの妄想家で、自身を宗教的規範に合致させることなど、恐らく、一度も無かったと思います。楽山の記事は、ずっと、自己中精神、自身の霊感自慢でした。楽山が信じて、訂正不能なのは、自己顕示欲による心霊が分かるっぽい?という自慢からの自己顕示欲に過ぎません。
 
それに、キリスト信仰は、規範や道徳に合致させる教条主義を行為義認と呼んで否定して生まれてきたものです。そのことを、旧勢力に殺される路程で、明らかにしたのはキリストご自身であります。いつものように、楽山の、宗教に対する無知が表れています。
 
楽山の宗教理解・信仰理解は、超常ホラーアニメを見た子供の感想のように、極めて幼稚であることが表れてきました。楽山は、娯楽の視野と、真実の追求を、区別できない人です。しかも、もはや、訂正不能のようです。学ぶことなく、言い張り続けるのは、とても醜い自己中カルト~オカルトです。
 
 
自分を向上させようとするときは、「~ねばならぬ」という理想にこだわり、努力することも必要な場合もあるのだろうけれども、これとは別にありのままの自分に正直になり、自然体でいることも大事なのだと思う。
 
むしろ、逆に、人間から、当為、即ち「ねばならぬ」や「するべき」の追求を全て除いてしまったら、楽山のような、極めて我儘で傍迷惑なケダモノになるということです。「ありのまま」の悪用の詭弁です。楽山において、ありのままは、自然体ではなく、我欲のみ、すなわち、嘘吐きのままです。
 
「ねばならぬ」という当為は、理想ではなく、人間が節操を保つために現実に必要なものです。そのために、人間は、真実を追求し、当為を考え、反省し、修正し、成長するのです。楽山は、自分勝手に生きて、真実を否定しています。努力したくない怠け者が結果だけを求めています。
 
楽山は「ねばならぬ」が宗教・信仰だと言いたいようです。型にはまるような印象を吹き込もうとしています。楽山は、別の大切な「でありたい」という希望のほうに感受性がないからでしょうか。宗教は、枠ではなく、根本的な存在を問うものです。
 
楽山においては、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」は、良心も感性も思慮も捨てて、ケダモノになることを意味しています。大嘘です。欲望と衝動のままに生きて、節操も弁えもありません。
 
「ありのまま」「人それぞれ」「自分を貫く」などは、楽山が、自己中正当化のために、しばしば使う詭弁です。他者を気にしたりなど、余計な心配事からのストレスを避けることであり、自分勝手を肯定する言葉ではありません。楽山は、こういう詭弁を何度も使ってくるので警戒してください。
 
警戒してください。楽山は、ちょうど「狼と少年」という童話と逆の、狼は来ないから、自身はまともだから、今のままで安心と言っているようなものです。楽山自身が狼だからです。小説というフィクションにおける反発~逆説という表現を、読み取れず、逆に、真に受けて悦ぶ楽山のトンデモ詭弁です。
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山が、自分では何も言えないものだから、またしても、他者のツイートを引用して、拡大解釈で曲解して、自己正当化に励んでいるようです。誰が何と言おうと好きなことをしておればよいと自分に言い聞かせ念じる暮らしなのでしょうか。人の口を、どこまでも、悪用する楽山です。
 
楽山にとって、人生とは、嫌なことを無視して、どんなに人が思おうとと、好きにやっていることが一人前に過ごしたことになると思っているのでしょう。楽山は、今までの自己中を続けるぞ・・とばかり、これからも自分だけを愛し続けるために字面だけ都合のよいツイートを引用しています。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
·7時間
幸せになる1番簡単な方法は時間の使い方を見直す事だ。嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ。例えば、無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する。ウジウジ悩む代わりに運動して心身共にリフレッシュする。これだけで超幸せになれる。
午後7:10 · 2021年3月25日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1375027275628830723
 
「嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ」・・楽山は、自分の好きなことだけしていようと思っているようです。しかし、そこに、他者を巻き込んで、平気で、迷惑や傷をもたらすならば、とうてい許されるはずはありません。
 
楽山のような病的ナルシストは、こういう発言を、自分の好きなようにしてよい、それが自由だからと、自己中から妄想的に曲解して、そういう言を探しては悪用します。人間ならば持っているはずの深い思考・理解・共感がないからです。
 
何となく読んで、ふつうのつもりで同意してしまうと、じわじわと自己中が、楽山から、伝染することになります。楽山は、ふつうではありません。自己中で曲解して引用したものを、なぜ、何度も何度も、手を変え品を変え、読ませようとするのでしょう。病質によって訂正不能だからです。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の見方で、他者の口を使って、これ、もっともでしょう、当たり前に正しいじゃないですかぁ・・という感じで、自己満悦して、ときに柔和に、丁寧語で、妄想を刷り込もうとしてくる人です。
 
それにしても、詭弁が成り立たないと、別の詭弁を出してくる、しかも、他者の言を勝手に解釈してのことだから、どこまでも、精神の低劣と貧困と狡猾さだけが伝わることになります。
 
「無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する」・・この言が、成り立つのは、大人として、責任を弁えて行動する人の場合です。節操のない楽山のような病質者では、無反省・無責任の体質によって、趣味、読書、創作、いずれも著しく偏ってゆきます。
 
趣味に独りで没頭して、誰にも迷惑をかけないなら、自由です。しかし、もしそうなら、何も書かず、公開せず、自己中が表れるリツイートもしないはずです。今までの、自己顕示欲で、恣意的に、他者を引用して書いて、公開する必要など、全くないはずです。
 
どうしても楽山は自己正当化しないと気が済まないから、都合のよい文言を、他者の言に求めて、出してくるのです。リフレッシュによる気分転換と、逃避は違います。不必要に逃避することは、無視と同じです。その結果に、目をつぶれば、悪意と病質が沈殿して蓄積されてゆくだけです。
 
人の言うことは聞かず、自分の言いたいことだけを言う、これが、楽山の生き方です。今まで、楽山が、ずっと、やってきたことです。リフレッシュではなく、楽山という自己中が、無視を続けて、後は門を閉ざした自閉から、他者無視から、書いたことを、わざわざ公開してくるのは、我執の害毒です。
 
過去の問題を反省しないまま、無視して、自己愛によって、ふつうに過ごしているつもりでいると、結局、また、活動するたびに同じ経過を辿り、同じ害を与え、地獄だけが深くなってゆきます。それが、いつの日か、具現化して報いとなるのでしょう。
 
人間は、学習することで成長します。学習するために、不完全な自分を意識し、自分に非があれば反省すして、改めて、成長するのです。その姿勢が、楽山には全く見られません。リフレッシュどころか、自己中再固定反復、それが、楽山の、繰り返される閉鎖エコーの世界なのです。
 
問題を無視して自閉することで、リフレッシュされるものは何もありません。フレッシュなものは何も生まれません。自己中→自閉→無視・・ここには、また同じように、自己愛で物を言う楽山が表れるだけなのです。どんどん醜くなり、衝動的に多量の中傷記事を書くに至っています。
 
それこそ、嘘を、嘘のままを保存し、嘘のままにして、そのうち、また、書き始めたら、嘘を吐き始めて、今までと同じように、迷惑をかけ、呆れさせ、誰かを害するだけなのです。楽山自身の心のエコードームでは、好きよ、好きよ、・・と、全方向から、聞こえているのでしょうか・・
 
 
詭弁の醜態

詭弁の醜態
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月13日、再録+加筆)
 
 
 
  傷つけて
 
古びてゆく
時間がたてば置かれているものはみな
命があることを
いや命がないことさえ
考えずに触っていた
道端や公園や街並みに
並んでいる遊びのような
色と形をもちながら
触れてゆく手は多くても
注がれる目は逸れていたから
 
人の手に触れたものは
かつて雨や風に耐えてきたもの
しかし人の手には耐えられない
敏感で弱いものたちだったかもしれない
今そこここに
相変わらずの姿で立っているけど
眼に見えない傷にいたみつづける
傷を見ない目に見られて
 
 
  あのよのはな
 
きのうは まんかい
きょうは あめ
あめのなかで
どんな ちりかたをしている
まだ しがみついているか
 
あしたの そらのしたで
あうことがあっても
はなびらを くべつできない
 
いろんな ひとが
いろんな あのよを
おしえようとするけれど
たしかなことは
この ちまたは
いちど で
この ちまたでは
もう あえない ひとがいる
 
はなは らいねんも さく
ひとは あやまちを くりかえす
いつでも あえる みぢかさ
みじかすぎて
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘の人生を、嘘のまま過ごしている楽山です。それは、いつでも避けることが出来たのですが、楽山は、嘘が大好きなのでしょう。いつまでも、いつまでも、嘘を抱きしめているようです。「人間の性」ではなく、楽山の業(ごう)なのです。それを、まだ、見せ続けるつもりなのでしょうか。
 
楽山は、いつも笑っていると思います。根底には、他者を見下し、蔑視と、インテリ気取りだけの人です。時々文章に表れます。真摯な言論など、全くする気がなく、する能力も視野も、自己愛のために、持てない人なのです。楽山は、自己顕示のためだけに、真っ当な言論を、歪曲し邪魔します。
 
 
 
 2022年04月10日
 霊能力を語る(2)棒氏の場合
  抜粋して批判。
 
引用コピペが多い記事ですが、
 
ははは。「わたしは、あなたと違って、天使を知り、霊界の仲間も知り、ただの真理知識だけでなく、智慧も持っています」という自負がすごく伝わってくる。
まあ小さくまとまるよりは、傲慢なくらいがいいのかもしれないな、若いうちなら。 
 
これは、楽山の意見なのでしょうか。とうとう「ははは」と笑って、天使、霊界、真理知識、智慧、などと超常のことを言っています。常軌を逸した豪語です。発狂、あるいは、パニックと言ってもいいくらい、ボロボロの、人をバカにする態度が全開です。
 
楽山の発言なら、無節操にパニクった有頂天の絶叫であり狂気ですが、楽山が、相手の発言を、うっかり誰のものとも区別せずに書いている可能性もあります。その場合、楽山が取り乱しているということです。「天使を知り、霊界の仲間も知り」・・とうとう、全能者?になっている楽山です
 
霊にのめり込むほど、現実に生きている人の話を聞けなくなるというのはよくあることではあるが、棒氏は大丈夫だろうか。
棒氏は自分は霊能力信仰ではないと思っているようであるが、傍から見ると、けっこうな霊能マニアになっているといえるだろう。ご注意を。
 
楽山は、他者の心配をするより、自分の心配をするべきです。「霊にのめり込」んでいるのは、楽山なのです。ゆえに、「現実」の話を「聞けなく」なっているのも楽山であります。まさしく霊能マニアになっているのは、ずうっと、楽山なのです。「ははは」は、狂人の雄たけびでしょう。
 
霊能マニアの楽山に「ご注意を」。常識人を気取っていることも出来なくなり、今度は、霊能の極みに立って豪語しています。そういう立場に立とうとしても、楽山には、ふさわしい能力など何もなく、「ははは」は、楽山が、破裂する音でしょうか。楽山は、無節操雑言の末路を表しています。
 
 
 
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  汚い読書3
 
 2020年02月11日
 理想の世界の存在と現象世界との関係について
 (『宗教的経験の諸相』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 
 
読書という行為にも、ある種の人間においては、汚い、と言わざるを得ないことがあるようです。楽山において、それは明らかであります。
 
 
しばらく積読にしたまま放置していた『宗教的経験の諸相(上)』を開いてみたら、冒頭の原著序に著者の結論は論考の最後にあるといかにももっともな助言があったので、根がどこまでもせっかちかつ単純にできている自分としてはさっそく著者の言う通りにしないわけにはいられず、下巻の後記を確認してみた。なかなかに難解な文章ではあるけれども、三歩進んで二歩下がるようにして文字を追うならば、幸いなことにおぼろげながらではありつつも著者の思想は理解できなくもない。有体に言えば著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。
 
(ネット検索)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
ウィキペディア
 
ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。それは、宗教でも信仰でもなく、そのまま、スピリチュアルであり、心理よりも心霊という超常や魔法とかを意味しています。
 
「著者の思想は理解できなくもない」というのは、楽山が、自分の霊能力を誇示するのに、都合の良い文章が見つかったということに過ぎません。楽山は、自己顕示欲という偏りによって、冷静な読書が出来なくなっているようです。楽山の解釈は理解ではなく、何かの狙い、または、妄想なのです。
 
 
まず著者は、思想家を自然主義者と超自然主義者とに分け、次に超自然主義者を洗練された超自然主義と愚かしい超自然主義とに分け、前者は理想の世界とこの世界とを交わることのないものとし、
 
こういう分け方は、その学者の説であって、本当に分けられるかどうかは、別であります。評価というものは、多くのことを説明しうるか、また、その説明が新しい理解を促すかによって評価されるものです。楽山の言は、いかなる理解でもなく、楽山の満悦のためにあるだけです。
 
(ネットより)
【超自然主義】 の解説
《supernaturalism》哲学・宗教学などで、理性では説明のつかない事象の存在を認め、これを超自然的な力や神の啓示・奇跡などによって説明しようとする立場。
 
上のような言い方で、現実離れした超自然の世界を夢想して、そこから、他者を愚かしいと言うことが、楽山には快感なのでしょうか。楽山は、スーパーナチュラルになりたいのでしょうか、既に、なっていると言いたいのでしょうか。実に、アンナチュラルで、愚かしいことです。
 
 
後者は理想の世界とこの世界とは交わることのないものではなく、理想の世界からの何らかの影響をこの世界が受ける可能性は否定しないというものであるらしい。そして著者は自らを愚かしい方の超自然主義に属するであろうとしている。
 
「ないものではなく」「あるらしい」「であろうとしている」・・楽山の筆致は、いつものように、曖昧な語尾の、ボンヤリ言語で、はっきり言っていませんが、理想の世界というのは、上に書いてあるように、超自然の世界のことなのでしょう。
 
つまり、読んだ本が、楽山の大好きな心霊の世界を言っていると楽山は思い込んでいるようです。そして、現実の世界が何らかの影響を受ける、というのは、霊が分かるっぽい?自覚の楽山自身を正当化しして、自分は特別な存在だと思いこみたいからなのでしょう。
 
"心の理論"でも、似たような、超常を自分に引き寄せる?かのような解釈をして、実に幼稚な空想と言うべき誤謬にしてしまいました。つまり、子供の発達心理学の話を捻じ曲げて、心霊の話として読むという酷い誤読であります。楽山は無理解ということの根拠であります。
 
また、奇跡の話においては、とんでもない理路の詭弁があり、楽山の理路の検証能力と常識的な理路の組み立てが破壊されていることを指摘しました。楽山の、無神経で、成り立たない屁理屈遊びです。
 
そのようなことがあって、楽山が人に自説を信じさせるためには、詭弁などの騙しのテクニックを使うしかないし、使ってきたし、これからも使うだろう、という判断になっているのです。
 
超自然は、現実に影響しても、超自然つまり超常なのだから、その影響の仕方など、人間に分かることはない、ということを考えないで、楽山は、自分を、超常の影響を受けて驚くべきわざを知り、かつ、行なう人だと思い込みたいのでしょう。
 
しかし、影響を受けるということは、この世界に影響するような超常世界が存在する可能性という考え方ですから、一般的な可能性の話であって、我欲と我執のナルシシスト楽山の霊能や超能力を指示も支持もしてなどいないのです。邪悪な楽山が超自然の者なら、地上は既に滅びているはずです。
 
こういうところにでも、楽山は、自己愛によって本の話を、理路も根拠もなく自分に引き寄せ、自分を高めようとしてくるのです。何も実のあることを語れない楽山です。信仰は、信じこみや思い込みや妄想であってはいけません。
 
 
また著者は数多の宗教的経験が証明していることはただ一つであって、それは人は自己よりも大きいあるものと合一し、それによって平安を得ることが可能だということであるという。あるものとは自己の内の自己を超えたもののことを言っているのか、自己の内とも自己の外ともいえる理想的ですべてを受容しうるもののことを言っているのかどうも判然としないところもなくもないが、心霊主義的な解釈によればそれがなにを指しているか、そう悩むことなくおおよその意味は了解できそうではある。
 
楽山は、「判然としない」と言いながら、心霊主義的に「おおよその意味は了解できそう」と言っています。この2つの言を並列してしまうところに、楽山の無分別が表れています。つまり、楽山が理解と言うとき、理解は、心霊のように、判然としていないことになります。
 
人文科学の学者の主張というのは、自然科学の法則や定理と違って、大方、決定的な結論に至ることはありません。説として、説得力と信頼度が評価されて、一定の位置を占めるだけなのです。すでに書いたのですが、楽山には、説得力がなく、信頼度はゼロです。
 
にもかかわらず、楽山は、自分に都合の良い主張を、自分に当てはめて、しかも、暗示的な表現で、実は、決めつけているのです。これが、カルト的な偽霊能者の自覚と自尊に囚われた病的ナルシシスト楽山の書物アサリの目的なのでしょう。
 
このような目的で、本を、冷静に読んだとは全く言えませんし、ますます、楽山のカルト精神に、学者の名前まで利用しているだけです。まるで、超能力者とか高名な学者とかを気取る子どもが、実際は、九九を覚えられず、掛け算を何度も間違えているようなものです。
 
人間としての身の程を弁えないということは、本当に人格を偏らせ、破壊してゆきます。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、霊能者気取り、など、楽山には、いろいろな、よくない霊が取りついているようです。
 
 
とはいえ当然ながらそれを体現し、実感として知ることは誰にでも即日可能というわけではないだろうが、一応の知識として記憶にとどめるだけであればその意欲さえ保持しているならば誰にでも可能のはずではある。
 
「即日可能というわけではないだろうが」「誰にでも可能のはず」と言って、いつかは自分も出来る、誰でもできる、と言っています。超自然を知ることは、楽山には、自然を失うことのように思われてなりません。空約束を語って恥ずかしくないのでしょうか。
 
すぐには無理だが、いつの日か、超常からの影響を悟ることができるだろうという可能性を自分に当てはめているのです。自分が霊が分かるっぽい霊能者で超能力者であることを、やんわり、ボンヤリと、しかも、強調しているのです。これが、楽山の企みの印象操作です。
 
同時に、楽山が、ボンヤリ言語で、今まで、いかなる狡い詭弁や、婉曲表現で、キリスト教とキリスト信仰をおとしめてきたかを考えれば、この人だけは、霊の力など身につけてほしくないと願わざるを得ません。ひどい悪霊になるからです。それに、今でも、酷い悪と偽善です。
 
楽山は、自分はちゃんとしていて、柔和で、超常の霊の恵みに値する能力と、客観性を併せ持ちうるということを暗示したいようですが、今まで、ずっと、鋭く深い洞察や共感の欠片も見られない楽山の文章から、すべて思い込みの無意味な作り話だと分かる記事になっています。
 
何故なら、楽山の、霊の話、"心の理論"の理解、聖書理解、奇跡についての話、いずれも、あきれるほど、幼稚な誤謬に過ぎなかったからです。学問までも平気で捻じ曲げて悪用する楽山の病質と悪意が表れているだけです。
 
 
最近はどうももっぱら超のつかない自然の世界のことに興味は限定されがちであり、実在界とも呼ばれることがあるだろう理想世界の方面の事柄については以前ほどの関心は持ち得ぬようになり、さらにはそういう課題が存在することさえも忘れていることも増えてきていたのではあるが、
 
実在界・理想世界に興味と関心と思い込みが薄いならば、厚かましく超常を語る記事は書かないはずなのです。つまり、真っ赤な嘘とは、このことです。この記事も、それまでの記事も、自分を正当化し飾るためだけに書いてきたのです。心霊に全く値しない楽山の実態だけが浮き彫りになっています。
 
 
やはりこういう文章を読むとなんとなしに懐かしい心持がしないではいられないのだからおかしなものだ。やはり自分では意識することもない心のどこかではそれを欲し続けているということなのかもしれぬ。
 
文脈から、超自然主義の超常の理想世界を「欲し続けている」のだそうです。昔そこに自分はいた、という、今度は、昔話でも捏造したいのでしょうか。霊が分かるっぽい?楽山の正体です。薄っぺらな動機で、存在しない霊能力を自我に結びつけるとこのように壊れるのですという例です。
 
楽山の霊が分かるっぽい?自覚を指示する材料は何もないにもかかわらず、楽山は、自分は悟って教える立場なんだ、特別なんだ、特別なんだと、藁をつかもうとして、いつも失敗してきました。今も変わらないのは、それだけ、我執が訂正不能に無反省に執拗に粘着していることだけなのです。
 
 
結局のところ、理想は外にあるとは限らず、もしそれが中にあるというならばそれがふさわしい時にいずれは浮上し影響力を行使するようなるであろうし、
 
このように、理想が中にあることを自分で言っています。狡猾なのは、自分の霊力と言わず、理想を主語として、「中にあるというならば」と言って、一般的な事柄に見せかけて、自分の将来を高めようとする哀れな醜態をさらしていることです。
 
今までのことを知らない人なら、うっかり受け入れてしまいそうな表現を使う詭弁が、楽山のボンヤリ言語です。ここは、楽山自身のことを書いているのですから、実際に言いたいのは、心霊の力が自分の中にあって、いずれ浮上し影響力を行使するようになると、妄想的な予言?をしているわけです。
 
いつの日か、自己中しか持たない楽山が、霊能者として脚光を浴びることを夢見ているなら、寒気のすることです。霊とか霊能とかいうものが存在するとしても、楽山なんぞの手に負えるような安っぽいものではないでしょうから。
 
 
それならそれを信頼して無理に力むことなく、自然体で寛ぎつつ待つというのが自分には合っているということなのだろう。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、自然体を全く知りません。楽山が自然体と言っているのは、周りが何と言おうと無視して平気でいることでしょう。つまり、無反応で一方的で、楽に、力を発揮するだろうと、反省も学習もせずに、労せずに、ご馳走を食べたがる低劣さなのです。
 
彼らが書いてくる文章は、よく読めば、いつも不自然であり、文脈がつながらず、無根拠で一方的であったり、詭弁であったり、印象操作であったり、おとぎ話か空想か妄想であったり、世辞であったり、わざとらしく芝居がかっていたり、奇奇怪怪なものだらけです。
 
自然というより、不自然さらに不全か憮然あるいは悲惨と言うべきでしょう。しかも、本人は、まともなつもりで、いい文章を書いているつもりでも、今まで、あらゆる詭弁を弄して、婉曲的に、ボンヤリ言語で、キリスト教には、負の、心霊と超常には、正の、印象の刷り込みをしてきました。
 
それらは、全部、どこにも通用しないような無理を通そうとしたものです。"自然体で寛ぎつつ"などと、よく言えたものです。体質的な、精神の異常であり、病質であり、虚妄の泥風呂に浸かって、のぼせているようなものです。楽山は、不自然であり、さらに、病的だと思います。
 
中身がないのに、ぼうっとしたまま、空を見上げて、口を開けて、奇跡の霊力が降ってくるのを、待っている姿勢です。これは、もともと、恵みばかりを欲しがる信仰の誤った姿勢に当てる喩えだったのですが、ここで、楽山にぴったり当てはまるとは、むしろ驚きです。
 
ここまで執拗に、詭弁を弄して印象操作で自己顕示してくる楽山に対しては、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という見方をせざるを得ず、シャロームの場合と極めて近い判断になり、同一の成りすましか、悪意の企みか、ともかくも、決して近づいてはいけない人格です。
 
楽山に似合っていること、楽山がするべきことを言うなら、だましの細工をしないこと、自らの置かれている立場を弁えること、今までのことを悔いて反省すること、これらは人間として当然のことですが、それができないならば、公開文書を書く資格はないと思います。
 
しかし、高等感情のない楽山は、既に3年以上、平気で続けていますから、私のブログでは、批判を貼り続けるしかないのです。余計なお世話ではなく、楽山のネット活動は、害毒であるという情報の敷衍(ふえん)が必要です。
 
 
暗い

暗い
 
 
(2020年02月20日)
(2022年02月26日、再録+)
 
 
 
  一つの嘘
 
お前(私)は祈りの中で嘘をついたな
御心ならばわが命に代えて、などと
お前は確かに嘘をついた
もしお前が健康で有能で仕事がうまくいっていたら
わが命に代えて、などと祈れたか
仕事がうまくいかずに
やけを起こしていたからだろう
命と引き換えに奇跡が起こって
聖人にでもなるつもりだったか
お前のやけに彼女を引き合いに出すなんて
知らないうちに、一週間も前に
もう死んでしまった人を引き合いに出していたなんて
 
さっきから煙草を吸ったり握ったり
煙草の箱をくるくる回したり
パソコン周りの空き缶や書類やごみ
下の方を見回したり何をやっている
 
馬鹿野郎・・
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  夢に出てきた
 
初恋の人が夢に出てきた
若い頃はよく出てきた
近年お久しぶり
夢に出てくる彼女
後ろ姿だけのこともある
似ても似つかぬ人だったりする
頭に二~三個、円形脱毛症だったこともある
思い出せば全く別の人
夢の中ではしっかり彼女になっている
今日のは割とまともだったな
勝手に批評している
若い彼女
年とった彼女
ご丁寧に二人も登場した
年とった彼女など知るはずもない
もう二十年以上経つ
どう形成したのか
若い彼女より硬くて冷たい顔だった
どこか寂しげ
そこまでいくと嘘になる
目覚めのとき忘れてしまった
思い出せない彼女
もっとたくさん見たのだろうな
夢見る間だけで消えた人
本物は何処の空の下やら
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
過ちの記録も記憶も自覚も、楽山にはないのでしょう。だから、平気でいられるのです。ふつうは、慙愧(ざんき)の心があり、深く恥じて、そこから反省と成長が始まるのですが、始まるところが、楽山にはないのです。何をやらかしても気にしないでいて、成長より先に、老化が始まっているのです。
 
楽山は、また「st問題資料集」を、ほぼコピペでしょうか、6記事ほど書いています。反省もせず、責任も負わず、それでも自分が正しいと言いたいのでしょうか。異常者の心理は、病理ですから、理解できません。制御不能なので相手にしません。こうはなりたくない。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山の読書家気取り?
 
 『読書有朋』渡部昇一、谷沢永一著
 2021年11月06日 楽山日記(LD)
 
 
お題の本の読後感想文を、また書いてきたかと思ったら、読みたい本のリストをあげて読書家アピールして終わっている記事です。不十分で、インチキで、楽山の自己愛の自己中の体質だけが、無理に、分かるところが増えたと書かせているようです。
 
本書は、渡部昇一と谷沢永一による対談をまとめたものである。随分前に読んだときはお二人が話題にしているのは自分が知らないものばかりで全くといっていいほど話についていけなかったのだが、今回再読してみると前よりは分かるところが増えていてうれしい。
 
「分かるところが増えていてうれしい」・・どのように分かったのか、書けない楽山です。楽山の感想については、いい加減な筆致で短絡し妄想化して、殆ど読めていないことが明らかになってきた履歴があります。それでも、書いてくるところが、浅ましい性根なのです。
 
すごい厚顔無恥だと思います。書いても中身がないのに、書くことだけは止められず、書くことだけで気持ちよく慢心できる楽山の体質的人格異常を表しています。書くことに、心無い人格が表れ、見栄だけが、潰れた店の旗のように、埃っぽく風に揺れているイメージになります。
 
ちなみに本書中、自分が特に興味をひかれた本は次の通り。
『タイトル不明』幸田露伴著(「自殺は大なる権利なり」として乃木大将の殉死を弁護したものがあるらしい)
『実験論語』渋沢栄一著(中身は明治維新回顧録となっているらしい)
『新訳論語』穂積重遠著(著者は渋沢栄一の孫)
『近世畸人伝』伴蒿蹊著
『文芸の社会的基礎』『社会史的思想史』『歴史の暮方』『共産主義的人間』林達夫著
『スウィフト考』『エリザベス朝演劇講話』中野好夫著
『信仰の遺産』『カトリックの信仰』岩下壮一著
『近世日本国民史』徳富蘇峰著
 
本の名前だけ並べるブログ記事というのは、まあ、有名人の読書歴なら分からないこともないが、楽山が並べて、そうか、読んでみよう、・・なんて思う人はいないでしょう。私は、読書好きでもないので、こういう書き方はしません。楽山は、虚栄心を並べているのです。
 
読書家気取りの楽山は、精いっぱい、見栄を張っていますが。実際は、本から、都合のいい文言を拾ってきては、宗教をおとしめたり、自己中を正当化したりする材料にするだけなので、信頼してはいけないと思います。
 
自己愛によって理路が大きく偏っている楽山は、今まで、真っ当な本の感想を書いたことがありません。自分の妄想を正当化し、曖昧な言葉で断定し、偏見で宗教を否定するためだけに書いてきます。楽山には、深い情緒がなく、また、理路を組み立てることが出来ないのです。
 
これらの本は自分に読みこなせるかどうかは別として、一体どのようなものなのかいずれ中身を覗いてみることはしてみたい。『信仰の遺産』『近世日本国民史』は少し見たことがあって、自分には難しすぎたり、長すぎたりしたのだが、また近いうちに再チャレンジしてみよう。
 
楽山が「読みこなせる」とは思えません。あ、読んでないわけですね・・「いずれ中身を覗いてみる」・・つまり、覗いてみるだけなのでしょう。しかも、これからの話、いったい、どういう意図で、この記事、書いたのでしょうか。なんて、いい加減なのでしょう。呆れます。
 
根が怠慢で、いろいろな本についても、読むというより読んだことにしてきたわけですから、楽山は、それも面倒になったのでしょうか。ブログの文章を見ても、読者の気持ちなど、お構いなしに書いてくるので、何の糧にもなりません。こういう人とは、付き合わないほうがいいと思います。
 
楽山の読書障害は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から来ています。自己愛で都合のよいことしか注目しないので、客観性が全くない読み方で、人に勧めることも、解説めいたことを書くことも、できないし、してはいけない人です。
 
「近いうちに再チャレンジしてみよう」・・などという、いい加減な気持ちを言うより、読んでから、ひとつずつ、より詳細に書くべきですが、それも、雑で、短絡してしまう楽山ですから、読書について、人に語る資格はないと思います。
 
 
虚栄の残渣

虚栄の残渣
 
 
(2021年11月08日)
 
 
 
  送り・過ごし
 
いったい幾度の別れを
幾人の死を
送別・告別の礼を見過ごしながら
見送るのだろう
名も無き送り
名も無き過ごし
尊い人々
 
私の死を見送る者はいない
私は死にながら
生きながらにして見過ごされるのだ
無名と無礼とウソに
日々を年月を送り過ごして
過ちという過ちに送り出されて
 
 
  列
 
いつか加わるであろう
同じ列に
とりとめのない思いを抱き
通じない言葉を話し
散乱したベクトルを持ち
悪しき者には
容易に切り捨てられ
しかし団結することのない
ひとつの群れ
やがて口を閉ざし
あきらめて並んでいる
長い長い列
 
いつか加わるであろう
同じ列に
曲がった背中と
突き出た口唇の影に
疲れを残しながら
ゆっくり歩いてゆく
列の先には
さびしげに横たわる
聖者が居るだろうか
青い霧の中に
道は向かっている
 
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
·2時間
二人だけの問題なら二人で話し合えばいい。でもミニ教祖問題なら複数の人々が関わるので、どうしたって話が大きくならざるを得ない。
T氏はこの問題を後者と考え、注意喚起のつもりもあって公開で書いてるのだろう。
ていうか、これがミニ教祖問題だと気づいてない信者さんって案外多いのかな。
午前10:17 · 2021年11月7日
 
楽山は、話し合うということが出来ない人です。自分の言いたいことだけを言って終わりです。それが、いちばん、楽山の気持ちのいいことなのでしょう。しかし、そういうやり方は、自由と平等と高等感情からの思いやりなどに照らして、決して成り立ちません。
 
そして、楽山は、身近なことから、大きな話になるにつれて、自己愛の霊能者気取りの超常的な誇大妄想が表れてきます。教祖願望があり、他者を、丁寧語で刷り込んで、印象を植え付け、困惑だけを与えて、疲労させ、まいらせて、壊して、隷属させて、満悦したいのです。
 
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
確かに、A氏はものを言う時に「私見」であることを強調するので、自らの分を知り、謙虚と感じられる。
でもA氏は、HS職員の名前をよく出すので、その意見は私見でなく、HSのお墨付きがあると思わせるとこもあるんだよね。
ここは問題だと思う。
午前9:54 · 2021年11月7日
 
楽山は、人の悪口、キリスト教の悪口を言って、反省せず、責任を負わない人です。「意見を言ってはいけないのでしょうか」など引用して、言論の自由を主張しても、無反省、無責任では、成り立ちません。楽山は、言論の敵です。
 
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
コウさんが、アンチのなりすましにされとる。
他所では、魔のせいにしてる。
HSでは、「他の人のせいにしてはいけない」というけれども、魔やアンチのせいにするのは平気な信者さんは多いね。
午前10:08 · 2021年11月7日
 
楽山は、アンチと言ってきましたが、違うと思います。HSでもアンチでもなく、楽山は、教祖願望で、上から批評してくる人です。様々の「成りすまし」をしていると思います。ブログが少なくとも3つ、ツイッターが少なくとも3つあるようです。HNは、もっとありそうです。
 
そして、楽山は、間違ったことを刷り込んできます。さらに、不祥事を、すべて「他の人のせいに」する人です。関わらないでください。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ゆえに、決して反省しません。代わりに「反省」「とほほ」とか書いて済ませる人です。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な根深さが表れています。「だよなあ」で済む話ではなく、「人間の性」などでもなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。ふつう、楽山のようにはなりません。異常です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかないのでしょう。
 
 
 
 
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