ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:読書家気取り

 
  楽山の自己顕示欲
 
 『新約聖書入門』三浦綾子著
 2021年11月02日 楽山日記(LD)
 
 
自己愛性人格障害の強迫症状とも言えそうな記事を書いてきました。再読だそうですが、得るものがないのは、この記事から得るものがないことに表れています。書かずにはおれないのでしょう。他にすることがないのかもしれません。こうしている間に、残り時間は短くなってゆきます。
 
既に、楽山が、キリスト教を全く理解していないことは、今までの記事で、明らかになっています。なのに、性懲りもなく、聖書について書いてきます。勉強したいなら、読むだけにしておきべきであり、メモしても、キリスト教の信仰について、楽山が書くものは、空しいだけです。
 
文字にするのが面倒なのか、本のページを画像で出してきます。怠慢か、嫌がらせかの、どちらかでしょう。底意地が悪く、どうしても、自己主張したいのでしょうが、書いて責任を負わないのなら、批判をもって全否定するしかありません。問題は解釈ではなく楽山という人間にあります。
 
*再々読
先日、ひさしぶりに『新約聖書入門』を読み返してみた。気がついたことをメモしておきたい。
*修身
まず一つは、著者は聖書によって自らを省み、教訓を学び、人格を磨こうとしているということである。自分が著者の本がすきなのはこれが理由らしい。
 
「自らを省み、教訓を学び、人格を磨」くことを、一切しなかった楽山の醜さが、ここにあります。書き続ければ、こちらが、うんざりして批判しなくなるだろうとでも思っているのでしょうか。それとも、批判者のほうが先に死ぬだろうと、高を括っているのでしょうか。
 
*素直
二つ目は、著者は聖書をそのまま信じているようだということである。福音書ではパリサイ人はイエスを陥れようとしている悪役になっているが、著者はこれをそのままに受け取っている。現実のパリサイ人らは本当にそのような人々だったかという考察は見当たらない。
著者の立場であればこれが当然かもしれないが、著者のような人であっても聖典に○○人は悪いたくらみをしていたとあれば、それをそのまま信じるのだとすれば、信仰とは一体何なのだろうと考えてしまう。
 
画像の中の聖句ですが
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
12:19
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
12:20
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。 
12:21
悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
 (ローマ12:20-21、新約聖書)
 
信仰の敵である楽山は、敵を助けることが正しいとでも言いたいのでしょうか。この聖句では、敵は飢えており、無力であり、既に敵ではない状態です。敵が飢えていても楽山のように敵意があり、こちらが害されそうな状況で、食事を与えなさいということではありません。
 
楽山は、無理解から、嫌がらせとして、論(あげつら)って、キリスト教はおかしいと言いたいのでしょう。だまされてはいけません。楽山は、飢えていてもいなくても、人を傷つける自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)です。書けば詭弁にしかならない楽山です。
 
*引用の仕方
三つ目は、引用部分についてである。
「DSCN3271 三浦綾子『新約聖書入門』 ロマ書
(『新約聖書入門』三浦綾子著、光文社、1995年、pp.254-255)」
(画像省略します。)
どうやら著者はここで、ロマ書の12章19-20節のもっとも驚かされる表現のあるところを省略したらしい。
ちなみに、この部分は共同訳ではこうなっている。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
(新共同訳 ロマ12章19-20節)
ついでに、定方晟氏による三浦綾子批判を見てみると、こうなっている。
DSCN3274 定方晟『憎悪の宗教』 ロマ書 三浦綾子
(『憎悪の宗教』定方晟著、洋泉社、2005年、pp.80-81)
 
ここは、訳によって大して変わらないような気がします。楽山の指摘が、いい加減なために、キリスト教批判になっていないようです。いよいよ理路が発散して、悪意の欲望だけになっているのではないかと思います。
 
画像の本のページでは、新共同訳が、表現を穏やかにし過ぎていると言っています。前に書きましたが、新共同訳は、姦淫の戒めの「女」を「人の妻」と書き換え、神を恐れることを、畏れると書き換えていますから、私は信用していません。信仰を分かってない人が訳したのでしょう。
 
ここでは当然ながら、「燃える炭火」について省略はせず、解説までしている。
「燃える炭火」について、三浦綾子は、カッパ・ブックスでは省略せず文庫化にあたって省略したのか、もとから省略していたのかは分からない。しかしどちらにしてもこの省略は意図的なものであろうし、伝道のための苦心の現れなのだろうけれども、三浦綾子がこのような引用の仕方をしているというのは意外であった。
 
楽山は、理解も出来ない信仰のことで「意外であった」という言葉で、三浦綾子さんを、婉曲的に、侮辱しています。丁寧語の偽善者は、こういう言い方をするのだということを覚えてほしいです。悪意の底が、荒らしの罵詈雑言よりも、さらに深いのが特徴です。
 
楽山は、小説家が「燃える炭火」を省略したしないに、こだわっています。しかし、神の裁きの、燃え盛る炎の怒りを自らに積んでいるのは、楽山その人なのです。楽山は、勉強しても、聖句を見ても、自分の都合のよいようにしか解釈しません。そのような者には、聖書は、関係ないのです。
 
楽山の今までの記事から、楽山は、聖書を読む人ではなく、いつも自分の霊能者気取りと教祖願望からの、いちゃもんになりそうな字面を読んで拾ってくるだけであり、良きものを何も受け取っていないことが、文章に表れてきました。
 
聖書を必要とする人は、分からないところは分からないと言い、保留します。楽山は、それを、あざけっているだけです。
 
聖書には、一定の解釈をすることが難しいところもあるようです。当該聖句の「燃える炭火」について、私も、よく分かっているわけではありません。
 
(ネットより)
「燃える炭火を積む目的は不純物を除くこと、つまり敵のよくない不純物を取り除く効果がある。ということです。」
「敵に親切をするなら、相手のよくない感情は取り除ける。ということを表す古代の金属精錬工の習慣から来ている例えなわけです。」
「燃え盛る炭火を敵である人の頭に積んで、敵の頭の中にある、貴方に対する敵意を、燃やし尽すようにしなさい。燃え盛る炭火とは敵が欲しがっているものの事です。」
「使徒パウロが敵に食べさせ飲み物を与える、食物と暖かさを与えるために 火の付いた炭火を積み上げることと同じと言っていたと思われる。」
「聖徒たちの中で生じている敵に対する強い復讐心、すなわち聖徒たちの「燃えさかる炭火」を彼らの敵の頭に善をなした行為として積むことで、神からの敵の裁きがさらに一層強められるということを強調しているのではないでしょうか。」
 
ざっと検索しても、これだけの解釈があります。キリスト信仰は、解釈が全部正しくて納得したから信じるのではありません。
 
上のような解釈例と解釈への努力の一切は、楽山には関係ありません。楽山は、けなしたいだけの反キリストです。楽山に説明しようなどと、決して思ってはいけません。
 
解釈が分かれているところはあると言えば、楽山は、ニヤッとするでしょう。それが楽山の生き甲斐なのでしょう。楽山には、生きることの一切が関係なく、信仰に必要なものは、楽山の目の前を通って、過ぎ去って、跡形もないのです。
 
楽山のキリスト教否定の記事を、その都度、唯一、一貫している不成立ということをもって、批判すること以外には、精神衛生のために、楽山みたいにならないために、楽山に関わってはいけません。悪意の意図だけで書いてくる楽山には、宗教も信仰も良心も、何の関係もないのです。
 
恐らく、楽山は、良いものを受け取るということが全然ないのではないかと思います。無反省で無責任の自己中では、成長につながる良いものなど分からないのでしょう。だから、受け取るということが出来ず、的外れに唾を飛ばして、笑うか怒るかしかないのでしょう。
 
丁寧語や芝居でごまかしても、意味はありませんから、このまま年取ったら、廃人になるのでしょうか。楽山が大きなテーマについて何を語っても、楽山は、そのテーマとは、何の関係もありません。悪影響を受けないためにも、楽山には関わらないでください。
 
 
無縁

無縁
 
 
(2021年11月04日)
 
 
 
私の祈り: 我が神、我が神、何ゆえ、我を造り給ひしか
 
 
 
 キーワード: 縁
 
  無の真実
 
独り思いは掌中に風化し
砂のように行方も知れず
毀(こぼ)れ落ちる
 
後には何も残らないか
と尋ねられれば独り思いは答える
毀れ落ちたという真実が残ると
 
それは意義や意味
といったものには縁のない
売れない虚無の踊り子だ
 
しかし売り出し中の
毳毳(けばけば)しいダンサーよりも
しばしば長く残る
 
拍手喝采のない舞台で踊り続け
舞台を選ばず外でも内でも
ホーホーラララ・・・♪
 
けれど耳に聞こえず目に見えず
掌中から去って久しく
ときに手のひらよりも胸に
遠い浜からの潮風を通す
 
 
  蓄えた死
 
蓄(たくわ)えたものの中から
奇麗なものを選び取る
ことさえできない
 
死屍累々(ししるいるい)の先祖も
未だ続く身の過ごした日々も
肉弾戦法と玉砕かと問えば
肉弾というより肉塊そのまま
戦法というより
避けがたく卑しき業(ごう)のよう
 
玉砕などではなく
自慰か慢性自殺行為に過ぎない
 
過ぎないというものが
好きだったつもりが
過ぎ去った弾(たま)も玉(たま)も
みな身を焦がして貫いた痕(あと)だけを残して
遠く通り過ぎていったものばかり
 
振り返れば漠々(ばくばく)として
天に連なる縁(えにし)さえ疑う無法の地に
血しぶきを浴びながら去ってゆく少年
血しぶきを浴びせながら倒れてゆく青年
 
幾たびか幻に立ち竦(すく)み
乾いた負の血痕の上に続く
吹きさらしの後ろ向きに蓄えられ
蓄えたことさえ忘れそうな
砕け散ることさえ忘れそうな
遠く近く既に身の脈管を離れ
夥(おびただ)しく累々と連なる
棘(とげ)とも毒とも付かぬ骨肉の
血縁の骸(むくろ)を曝(さら)し続けている
 
 
  眠りの音信
 
別れて久しく
音信も途絶えた人が
見知らぬ地にて永眠するとき
揮発のアンダーグラウンドに
泡沫(うたかた)の
嘗(かつ)ての縁(えにし)
は胸に巣くう鬼畜を眠らせ
血腥(ちなまぐさ)い流れを冷水に
冷水を雫(しずく)に
そして雫が形を失うとき
二つの問いを残すのです
「俺はそんなに悪かったか」
「水さえも永遠ではない」
契(ちぎ)りもなくて罪に濡れ
柵(しがらみ)を越えるよりも先に
冷たく遠く離れ去って
眠り続ける土塊(つちくれ)深く
失われゆく形骸は
永遠の水を求めて
地上からの吸引に逆らうでしょうか
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山は、また、成り立たない記事を書きました。これが、自己愛性人格障害の訂正不能の症状なのでしょう。嘘がバレて、他に何も出来ないときに、嘘と詭弁を積み重ねることしかできない楽山です。
 
楽山ブログに見つけたコメントの再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。ふつうのことが、出来ないのです。
 
また、軽口の出まかせを書いてきたようです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を自由に決めても、その責任を負わないならば、どうして人間であり続けられるというのでしょう。
 
 
 
 
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  楽山の反宗教2
 
 『アメリカの宗教右派』飯山雅史著
 2020年08月08日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の反宗教思想は、まず、宗教の本質を全く理解していないのに、宗教を客観的に見ている自分を気取ることから始まり、それが、楽山のスタンスになっています。そういう卑怯な立ち位置は、どこにも正当に存在しないのです。悪意の産物だからです。
 
この本は、アメリカの宗教事情に興味があったので、タイトルにひかれて読んでみたのだが、序盤ではアメリカの宗教史のような体裁で、長老派、バプチスト、メソジストなど各教派の成り立ちや社会的歴史的な立ち位置について語られている。
また過去の大きな出来事としては、20世紀初頭に進化論などの近代科学や高等批評という聖書分析とどう向き合うかという議論がなされ、それらを受け入れる主流派(多数派、近代主義者)と、あくまで聖書の言葉をそのまま読もうとする原理主義派、両者の中間に位置する福音派にわかれた(プロテスタントの大分裂)のだという。
 
宗教は、思想となり、教条主義となり、イデオロギーとなって、多くの弊害を生んできました。しかし、それは、人間の不完全性から生まれた罪の性質であり、宗教そのものの意義を損なうものではなく、むしろ信仰を受け取る人間の側の修正を促す必要を表しているのです。
 
楽山のような者が、手持ちの、半端で偏った、偏見と先入観に満ちた知識で決めつけて否定することこそが、信仰を最も損なう害悪です。楽山の知識は、宗教と信仰を語る上で、何の役にも立たず、ただ、楽山の攻撃性を満足させるだけのために積まれているものです。
 
人間には、不完全であるゆえに、罪の性質を常に持っています。そこから、様々な過ちを犯します。しかしながら、それゆえにこそ、逆に、赦しと救いにつながる宗教、そして、心と命を支える信仰が必要になるのです。
 
その罪の性質を、自らに少しも認めようとせず、ゆえに、何の共感もなく、悪い材料だけを持ってきて宗教をおとしめているのが、楽山であります。聖書においても、心無い者は、悪魔としての役割しか持ってはいなかったのであります。
 
そういう悪意だけの役割を、自己愛という魔物を原動力にして、実践しているのが、楽山であり、善に見せかけた悪意の存在であります。まさに、その類似は、聖書にあるところの偽善者であり、一見まともに見せかけていても、心を失った詭弁と戒律と教条の悪鬼なのです。
 
千年王国については、主流派や福音派はキリストの再臨は千年王国の後だとする後千年王国説の立場をとり、人々の努力によって千年王国は達成可能とするなど楽観的だが、原理主義派はキリストの再臨は千年王国より前だという前千年王国説の立場をとり、人々の努力によっては千年王国は実現できず、人々は「ただ、悔い改めてキリストの審判を待つしかない」(p.61)として悲観的傾向が強いという。
 
悪意だけの楽山が批判をしようとすると、人間的な欠陥が表れてきます。すなわち、人間離れと現実離れの話しか言えないということです。誰が、千年王国と再臨があるから信仰をもつ、などという幼稚な動機でキリスト者になるでしょう。
 
それぞれが、悲観的傾向ではなく、現実の悲しみから、救いと癒しを求めているのであって、楽山の空想話などは、たとえば、靴の端にゴミが付いているからお前は悪者だ、と言っているようなものです。誰が、千年王国の立場を待つというのでしょう。楽山の固陋(ころう)の嘘八百です。
 
楽山は、人の信仰を、ゴミも靴も人格も、いっしょにしている妄想患者なのです。そして、一方で、楽山は、何の努力もしないし、自らのゴミにも罪にも不完全性にも、全く気づかないという、すっとぼけの病的ナルシストなのです。
 
ねじけて腐った根性で、読書家と批評家を気取っている楽山は、理解力と共感力の欠如から、また、何をやってもうまくいかないという現実の当然の悲観的傾向から、怨念の固まりになっているだけのルサンチマン(負け犬根性)で、宗教と信仰を、訂正不能の我執から貶めているだけなのです。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
 
ルサンチマンは、多く、カルトのベースとなる心性です。そして、努力せずに、一気に、偉い人~悟った人~バランスのとれた人~ひとかどの人物のつもりで自慢したがる根性です。アンチを気取る楽山は、むしろ真逆の、そういうカルトの性質と、むしろ、符合しています。
 
中盤以降は宗教と政治のかかわりについての記述が増え、宗教右派は1960年代の行き過ぎたリベラル傾向に対する反発から活動を活発化させ、政治的影響力を強めたものの、近年はピークは過ぎてやや停滞気味になっているとしている。本書は2008年の出版なので、この部分は現在でもそのまま受け取ってよいかどうかは慎重であらねばならぬが、さて著者の見解は妥当だったというべきかどうか…。
 
楽山は、宗教と信仰そのものの本質について、まるで語る言葉を持っていないために、超常のことゆえに誰も否定できない想像~空想話か、このような、政治との関係をもって、専門用語を使う評論家気取りで、現象だけを論(あげつら)って、宗教を批判しているつもりになるのでしょう。
 
本質を知らずに、ここでは政治の話をして、悪口だけを刷り込んで、広めようとしてくる楽山には、反宗教・反キリストの、悪意だけの、いちゃもん屋という評価しかありません。何度も、何度も、人の顔に、首筋に、鼻くそをなすりつけてくるような汚らしさは、嫌悪感と疲労をもたらします。
 
ひょっとしたら、それが目的かもしれません。もはや、人間としての、一人一人に大切な、好ましいプライドや、正常な尊厳など、楽山には欠片もなくて、ゆえに、他者にも認めなくなったのでしょうか。悪い噂だけを言いふらして、おとしめて自己満悦するサディストぶりが表れています。
 
宗教の政治への影響には、色濃く、人間の不完全であるゆえの罪性が表れてきます。しかも、それは一部の極端な例として明らかになるでしょう。楽山の言は、楽山の暇つぶしや、いちゃもんの材料にはなっても、宗教批判の根拠にはなりません。
 
楽山の言に、いつも欠けているのが、そういう、物事の、"本質への洞察" なのです。これがないところには、いかなる批判も成り立たず、ただただ、程度の低い悪口にしかなりません。的を著しく外しながら、宗教と信仰を語る楽山に、耳を貸さないでほしいと思います。
 
一部であり、極端な例ですから、全ての信仰が間違いということにはなりません。さらに、間違いは、いつも、人が犯すものです。その典型としては、偽善という最悪のものを、楽山その人が、今、次々に、表しているわけです。
 
アメリカの宗教事情というと、中絶反対のために婦人科医を殺害しただとか、レイプによる妊娠であっても中絶を禁ずる法律がつくられただとか、進化論を学校で教えるのに反対する人々がいるなど、驚かされるニュースが多いし、よく分からないところがあるのだが、本書を読んでその背景がいくらか見えてきたようでありがたい。引き続き同一テーマの書籍を読んでみたいと思う。
 
こういう人間とは思えない蛮行に走る事件が起こることはあります。人間らしい宗教と信仰ではなく、カルト化している場合です。そして、体質的に、批判されて返せないものだから、執念深く、いちゃもんだけを、的外れにつけてくる楽山は、カルト的煽動者と言えるでしょう。
 
どういうカルトなのか、いつまでも、失禁のように続く無反応の記事が、いずれ、それを表してゆくでしょう。楽山は、宗教にこだわると、こんなことになるんだよ、という、悪い例だけを挙げて、いかにも煽動家らしく、煽っています。
 
しかし、一方で、キリスト教をほめる話も書いてきました。この否定した、褒めたり、という相反する2つのことから、楽山の言は、信頼度ゼロとなり、どちらも嘘であり、残っているのは、過大な自尊からの我執の衝動的な発露でしかないと分かるのです。
 
信仰者の罪は、いつも、人が、教えの本質を曲解して、犯すものです。
 
一部の極端な例を、宗教の本質であるかのように、こわいですね、とばかり言いふらす下種の根性が、分別を欠いた、楽山の生業なのです。
 
宗教と信仰のもたらす良きものを、その本質を、楽山は、いっさい知りません。知りえないものだから、いわれなき復讐のように、汚物を投げては、これが宗教だとばかり、いい気になっています。この見苦しささえも、無反省で、高等感情のない、楽山本人だけは、感じないのでしょう。
 
楽山の言うことを、その一面においても、いっさい信頼してはいけません。楽山は、空っぽの本質の、醜い性根の炎症性の皮として、詭弁と誘導だけは卑怯な方法を知っているのです。決して、関わらないように、近づかないように、警戒してください。
 
 
反面、鬼

反面、鬼
 
 
(2020年08月09日)
(2021年09月29日、再録+)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  時間
 
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく
 
私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
(昔々・・)
 
 
 
 
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  だだもれ楽山
 
 『吉田松陰の留魂録』紀平正美著
 2021年07月07日 楽山日記(LD)
 
 
聖書もろくに読まないし、曲解しか出来ないのに、やはりいつものように、有名人の書いたことを、またいつものように、都合のよいところだけ引用して、こんな本も読んだんだぞ・・と自慢してくる読書家気取りしかなれず、ついに、大事なことだけは学ばずに、凝り固まってゆくのでしょう。
 
*積読本発掘
本書はいつどこで購入したのかは覚えてないのだが、我家の積読コーナーで見つけたので引っ張り出してみた。大きさは文庫サイズで、本文と巻末の付録を合わせても143頁の小さな本である。前半は松陰の生涯とその時代についての説明、後半は留魂録とその註釈という構成となっている。奥付によると、昭和18年第7刷(初版昭和15年)とある。
全体を通読してみたところ、自分は次の三点に強く興味をひかれた。
 
楽山の「興味をひかれた」というのは、都合がよかったということです。公平に中立に読み取っていないことは、本の記事の漁り方、その感想の書き方に、哀れなほど、滲み出てきたのです。それで、文章を書くことが面倒になっているのでしょうか。
 
そして、写真を出すということは、読んで自分で感想文を書くのが面倒くさいからでしょう。ほれ、証拠の写真じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。見たという写真と、読んだという文章が、まるで、一致してこなかった楽山の怠慢と欠陥が、同時に表れています。
 
*松陰とイエス
まず一つ目は松陰とイエスとを並べて論じているくだりである。これは意外な組み合わせにも思えるが、一読してみるとたしかにこういう見方も可能かもしれぬ。
DSCN2974 松陰とイエス
 
「たしかにこういう見方も可能かもしれぬ」・・楽山の、いい加減な心性がむき出しになります。「たしかに」で、どうして、「かもしれぬ」なのでしょう。写真を出して、証拠あるから嘘じゃないと言うつもりなら、写真だけ出して済ませるという無理解と作文嫌いが出てしまいます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 
 (マタイ27:46、新約聖書)
 
神と人の関係において、人は、神に見捨てられたかのように死んでゆく、という預言かもしれず、また、それ以上に、苦難と悲しみの、これ以上ない共感を、キリストが、自らの心と体で、示している聖句であります。
 
*天皇
二つ目は天皇に随順することについての記述である。自分にはよく分からぬ論理ではあるが、考え方の筋道はどうにかして理解したいとは思う。
DSCN2975 天皇
 
「よく分からぬ論理」と書きながら「どうにかして理解したいとは思う」と書いて、どう理解したのでしょう。また、再度、熟読するつもりでしょうか、積読処理だから、違うと思います。できない・しないことを、まともに見せかける体質が、ガス漏れしているのです。だから、臭い。
 
*至誠と言葉
三つ目は「至誠而不動者未之有也(至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり)」という言葉である。松陰はこの言葉に突き動かされてあのような生涯を送ったのだとすると、言葉というものはやはり非常に大きな力を持っているということだろう。
 
「言葉というものはやはり非常に大きな力を持っている」ということが要旨でしょうか?・・違うと思います。言うだけではなく、行動することの大切さを述べているのではないでしょうか。なのに、言葉のほうを取るのでしょうか。ズレまくってはいないでしょうか。
 
残念なことに、自分の言葉はどうしようもないほど軽いのではあるが、今後はもっと言葉を大切にしたいと思う。また前に読書を中断したままになっている『講孟箚記』ももう一度はじめから読み返してみたい。
 
「自分の言葉はどうしようもないほど軽い」「もっと言葉を大切にしたい」・・おかしなところを、きれいごとでごまかす、という楽山の、いい加減な筆致と体質と人生が、だだ漏れしています。楽山の自己愛性・自己中体質では、何度読んでも一緒だろうと思います。
 
このように、本から、都合のよい文言を引っ張り出して、自分に都合のよいように、利用~悪用する体質であることは今までに明らかになっていますから、今後も、嘘八百の詭弁と自分飾りが続くだろうと思います。
 
書いて、批判されて、また書いて、また滑る楽山です。こういう生業を、恐らく、一生続けることになるのでしょう。しかも、それを、丁寧語で、言いふらして、ある程度、受け入れられてきたようですから、体質的な災いの恐ろしさを思います。
 
自分で書いて自分で矛盾を深める、言い訳しようとして失言を重ねる、こういうことは、ある程度、経験している人もいるだろうとは思います。私もそうです。問題なのは、楽山において、それが常態で、矛盾や失言を気にする心が無いのです。どうか、楽山に近づかないでください。
 
 
だだ漏れ

だだ漏れ
 
 
(2021年07月08日)
 
 
 本当のことは言われたくない?(信者が逆ギレする理由)
 2021年07月07日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
楽山はこの記事をツイッターで宣伝していますが・・
https://twitter.com/komo266/status/1412525692760125443
どこまで嘘が通用すると思っているのでしょう。
批判されることを、相手の逆切れだと罵りたいのでしょうか。
 
 
楽山は、都合のいいこと以外、何も思い出さない人です。楽山は、例えば信仰など、本当のこと、即ち、真実を、何一つ理解できず、ごまかすために、嘘を吐き、詭弁で通そうとする人です。世辞と空想が大好きで、本当のことを、いちばん、言われたくないのが、楽山です。
 
*思い出した
前記事を書きながら、思い出したことがあるのでメモしとく。
*一つ目
もう大分前のことになるが、宏洋氏が「HSでは何でも大川隆法と同じに考えなければならない」という主旨の批判をしたときに、HSはそんなことはないと猛反論していたのだった。「HSは自由な団体だから、そういう全体主義のようなことはしない」云々と。
HSは常日頃から、大川隆法の考えに自らを合わせるべきことを繰り返し説いているのに、それをそのまま言われたら激しい拒否反応を起こしたわけである。
 
楽山とは、決して自由な議論は成り立ちません。徹底した利己主義・自己中心です。人のことを言えば、同じことを、自分が言われることを、全く理解しない体質的欠陥者です。霊能者気取りの、のぼせ感覚で、独裁を夢想~妄想しているのかもしれません。丁寧語にだまされないでください。
 
*二つ目
また先日はツイッター上にて、アンチ側が「信者は大川隆法を絶対視している」と指摘した際に、信者側からそんなことはないという猛抗議があり、プチ炎上したのだった。
いつもいつも、「大川隆法は正しい、異論は認めない」という類の発言を繰り返しているにもかかわらず、大川隆法を絶対視していると言われたら感情的になる信者が続出したのだ。
 
いつもいつも、物わかりのよさそうな言い方をしながら、疑問・批判を向けたら、途端に、被害者面をして、さらに無視してくるのが楽山です。批判者に対しては、悪口を返すか、無視してきます。どちらにしても、対話が全く成り立ちません。わがままと怨念だけで出来ているような人です。
 
反対を言い、賛成を言って、断定していないから責任はない、という言い分でした。反対したら反対した責任が、賛成したら賛成した責任が付いてくることさえ分かっていないのです。駄々をこねる小学生レベルですから、話し合おうなどとは思わないでください。精神衛生を害されます。
 
*逆ギレの理由
このあたりをみると、HSとその信者は鏡を見ないのかなと疑問に思うし、もしかしたら内心では自分たちの信仰のあり方はどこかおかしいと薄々気づきつつもそれを認められず抑圧しようとしているから、そのことを明確な言葉で指摘されるのが嫌なのかもしれないとも思えてくる。的外れな批判には失笑するだけで腹を立てることはなくとも、的確な批判で図星を指されたときは大きく動揺させられ激怒するのはよくあることなので…。
 
楽山が、いかなる批判にも反応しないのは、高等感情がないのだろうと思います。つまり、罪悪感や羞恥心などがないのでしょう。だから、何か言っても、聞かなかったことに出来るのです。自己愛性人格障害だと思います。真面目に言ったこと、楽山は笑ってると思ったほうがよいです。
 
賛同意見は、中身ではなく、賛同だから歓迎します。人間としての深みがなく、自己顕示欲に忠実で、そこからの、無反省・無責任が、密着・固着しています。この男、何を言っても無駄、何を聞いても無駄、ということを少しでも周知するために批判を続けています。
 
お節介で申し訳ないが、上の批判にキーッとなる信者さんは、この点についてよく考えてみても損はあるまいと思う。
 
このように、アドバイスをしたがります。自分は、心配ない人で、分かっている人で、君らの上にいるのですアピールをしてきます。同じ地平に立つことのできない、思い上がりがとても醜い、哀れな、病的ナルシストなのです。よく読めば、文章は拙劣で、言い放って終わりとなります。
 
上から忠告することが、楽山にとって唯一の快感なので、「お節介で申し訳ない」などとは、全く思っていません。中身の伴わない世辞を、真に受けないでください。学者気取り、評論家気取り、インテリ気取り、霊能者気取り、など、すべて、気取りだけで出来ている人です。
 
こういう楽山に対しては、楽山が人の言うことを無視するように、こちらも、批判者以外は、楽山を徹底して否定し無視するしかないのです。中身のあることは、いっさい言えない人ですから、一人前以上だと独り思い込んでいる孤独で哀れな人が、また言ってる・・と思ってください。
 
楽山は、迷惑極まりない、一つの、口と悪意周辺の、現象に過ぎません。双方向で成長可能な人格として成り立っていません。楽山は、他者の言を平気で捨てますから、こちらも、楽山の言を捨てる以外ないと思います。
 
楽山にとっては、ヒューマニズムによって同情されることが、何よりの好物なのです。婉曲ボンヤリ言語と、嘘の謙虚芝居トホホ言語に、だまされないでください。いかなる知性と情性をもって生まれてきたとしても、生まれ育って、責任と反省力を捨てた人は、人間を捨てた人なのです。
 
 
(2021年07月08日)
 
 
 
  挫折
 
捻(ねじ)れた火の玉である
守ろうとすればするほど
疼(うず)いて返される炎である
誰からとも知れず無作為に
ばらまかれる如何(いかが)わしいメールを
送られてくるたびに削除する程度の
勇気があればよいのだ
 
飛ぶこともできず枝の上で
跳ねているだけの手負いか病の小鳥の
指で抓(つま)んでも折れてしまいそうな
脚(あし)よりも細く
垂れて弛(たる)んでいる脂肪の中に
隠れている細い筋に
頼るほどに倒れそうな歩みのうちに
まるで罪滅ぼしでもするかのように
罪を滅ぼすことなどできない
と分かっているのに
今は自らの踝(くるぶし)を
挫(くじ)けるだけ挫いている
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。
 
 
 
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  駄々と児戯2
 
 事実と価値判断について
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 楽山批判を加筆して再録
 
 
他者の意見や批判を平気で無視する楽山の、また知ったかぶりの批評家気取りの、独り舞台の独り芝居が始まったようです。全く学習する気のない楽山は、自分と同じと思った意見のことを、関心、愉快、という言葉で表します。そして、誤読と曲解によって、内実の全く違う事柄について、同感し、賛同し、学者と同じレベルであるかのように、自分を高めようとするのです。
 
最近、『宗教的経験の諸相』を少しずつ読んでいるけれども、なかなかに難しい本だ。でも自分が関心を持っている問題に触れている箇所もあるので、そんなときは、実に愉快な心持ちがする。例えばこの部分など。
提出された事実についての結論は同じであっても、価値の根拠についてはめいめいの精神的判断が異なっているのであるから、それに応じて、啓示としての聖書の価値についても、人それぞれが見解を異にすることになるわけである。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.18)
 」
 
聖書は、人間のあるべき姿をテーマとしています。そのテーマについて、「人それぞれ」を当てはめるのが、楽山という偽善者です。ある人は善人、ある人は悪人、ある人は偽善者、ある人は人殺し、人それぞれでいいのでしょうか。
 
楽山の妄想的な訂正不能の宗教と信仰についての決めつけは、到底、見解の相違で済まされるものではなく、明らかに、無理解+悪意の産物であり、極めて、程度の低い詭弁なのです。
 
人それぞれは、本質ではなく、現象であります。やむを得ない必然としてあることだから、大きく、軸ごと、外れる、ということがあってはなりません。楽山は、宗教の本質から全く無縁のことに執着して邪魔をしているだけです。
 
例えば、偽善を、ちょうどよいとか、善ほどではないが似ているなどと、言うことはないのと同様です。偽善は、悪を隠す分、悪より、はるかに悪であり、最悪と言ってよいのです。そのことを、最も厳しく批判したのが、他でもないイエス・キリストであります。
 
楽山は、個人の精神的判断、という言葉に、都合がよいと悦ぶのでしょう。不可避的にそうならざるを得ない人間一般の知性の限界を示しているのですが、それを、それでいいのだから、自分も正しいという方向で書いてゆくのでしょう。・・何とでも自分の都合で解釈を曲げるのが楽山です。
 
楽山は、こういうのに、幼稚な短絡で出来た自説のお伽噺を結び付けて、高名な学者に賛同した体を装い、自分もそのレベルの識者だと、婉曲的な印象操作や刷り込みや暗示的表現によって、自慢、自己満してゆく習性のようです。
 
既に、心の理論においては関係ない霊感の話をぶち込み、奇跡についての考え方においては詭弁が循環論法に陥る、などという、小中学生でも恥ずかしくて書かないような幼稚な初歩的な誤謬~詭弁を露呈してきました。
 
にもかかわらず、なおも、同じことを続けて、高い自分を執拗にアピールしたがる悪癖が、インテリ気取りのナルシシストの楽山の汚い筆致として表れてくるのです。
 
思い起こしてみれば、自分がこういうことをはじめて意識したのは渡部昇一の本を読んだときだった。タイトルは失念したが、聖書について学問的に研究している神父がおり、どのような歴史的事実が明らかになろうと、それによって信仰は揺らぐことはない云々というような話で、キリスト教とはすごいものだと感動したのだった。
 
楽山には、「感動した」と書いているだけで、真の感動はないと思います。今まで、楽山が書いてきた文章に、文脈として、真面目な感動がなかったからです。自分のお伽噺に一致した文言や言葉があれば、実に気安く賛同の言葉を書き、感動芝居をしてきます。分かるんだと言いたいだけなのです。
 
それに、楽山は、キリスト教を侮辱し、神を否定する反キリストです。その企みの延長しか表していません。ここで、「キリスト教とはすごい」などと書いても、狼と少年でしかありません。楽山には、自己中の偽善のの履歴が、いつも、楽山を否定するように出来てしまっているのです。
 
楽山の、言葉の一致だけの"分かる"は、聖書とキリスト教およびキリスト信仰の理解にはありません。前から言っているのですが、同じようなことを書いてくるのは、カルトの特徴です。学習機能のなさが、ここでも表れています。
 
恐らく、この部分は、キリスト教を揶揄するために書いているのでしょう。だから、私は、こういうのを白々しい芝居と言っています。"キリスト教とはすごい"とは心にもないことで、キリスト教を論じている自分を、根拠もなく、自慢したいだけなのです。だから、すごい、としか書けない。
 
またこの手のことは中村元の本にもあったと思う。歴史上の人物としての仏陀と、信仰対象としての仏陀を分けて考えるというように。
 
例えば、歴史上のキリストは、人の解釈では、完全に明らかになることはないでしょう。人が分けて考えるのではありません。人には分からないことであり、決めつけてはいけないということです。
 
歴史上の人物については、確からしさを、ある程度、明らかにするのが学問ですが、決定的にはなりません。根拠が覆り、新しい説が出てくる可能性は、残り続けるのです。そして、いくら明らかにしたつもりでも、信仰対象となると、話は、別のものになりうるのです。
 
楽山は、キリスト教についても、史実上のキリストと神の表れのほうについてだけ、いちゃもんをつけて、それで、キリスト信仰をも批判した気でいる自己満なのです。読むたびに、楽山の中立を装う態度には吐き気がします。
 
史実としてのキリストには諸説あります。楽山のような反キリストのデタラメで何の役にも立たない解釈もあります。しかし、そのことは、信仰対象であることを少しも揺るがすことはないのです。共感によって結ばれることは、楽山が言うような悪意ある事実の有無や理屈の話とは全く違うのです。
 
キリストについての史実は二千年前、キリストから受ける恩恵は今のことだからです。
 
似た考えとしては夏目漱石の『文学論』にもある。観念とそれによって起きる情緒とを分ける考え方だ。自分はこれによって、小説の文章は、事と心とを分けて書いてあり、その二つがよく整理されている文章ほど読みやすいと知ったのだった。
 
今までの記事とコメントから、情緒を持たない楽山が表れています。それだけでなく、理路は臭い詭弁のペンキまみれであることが表れてきました。今回も、そうだから、これからも、そうでしょう。こういうのを、因業というのだろうと思います。だから、いくら言葉だけ見栄を張っても、楽山に、文学は分かりません。
 
誤謬と詭弁しか知らない楽山ですから、事と心を分けて整理することなど、とても出来ないと思います。自己愛によって、反省をしない楽山には、ベースにある精神、すなわち、スピリット(エスプリ)が育っていないのです。読書においても、楽山は、自分の言葉と同じ言葉を見つけると、満悦するものだから、読みやすいなどと言っています。
 
すべて、今までの記事とコメントに表れてきたことです。アドラー教の影響が残り続けていて、都合の悪いことを無視してきたから、知性も感性も、宗教と信仰の理解も、子供レベルの先入観を超えるものではありません。それを、ごまかすために、学者の名前を利用しているだけなのです。
 
たとえば、「彼は走った。どうか、まにあってくれと祈らないではいられなかった」とか、「彼女は振り返った。そこに彼が立っていた。なぜ? 心にそんな疑問が浮かんだ瞬間、自分が泣いていることに気が付いた」というように。
 
楽山の稚拙な勘違いが表れています。行為と心を分けていると指摘したいようですが、行為を表し、当然のごとく、心を表しているだけです。同じ人間、または、その共感を表しています。主題は分かれてなどいません。
 
というより、表現を分けて書くことがあるのは、普通に見られるということです。言葉の組み合わせに心が必要で、それによって、心を表します。心無い楽山は、観念、事実、行為、情緒、心、などの理解が出来ていないので、解説しても言葉を並べて得意になるだけです。
 
また、曲解、また、詭弁、楽山が書けば書くほど、楽山の外れ方は、甚だしく、呆れるばかりです。
 
純文学は型を崩すことを目指している面があるし、作家または作品によってさまざまな文体があるので全部が全部このようではあるまいが、少なくともこの傾向はあるだろうとは思う。
 
純文学と来ました。常に新しい表現世界を目指すことは、文学、芸術、などにおいて、当然のことです。型崩れの楽山が、批評の体をなしていない楽山が、型を崩す、などと、ありふれて擦り切れた型に嵌った言い方をしても、何も指摘したことにはなりません。
 
楽山は、独自の発想ができないために、手持ちの、広がらない通念的な言葉の世界から、ありふれた書き方を、卓見に見せかけて、書くしかないのでしょう。
 
そこに、謙虚さが、欠片ほども見られないので、いくら執拗に繰り返し書いてきても、丁寧な言い方をしても、底の浅さと、因業の深さと、訂正不能の硬さと、高慢の高さだけが、表れてきます。そこが、有能無能を問わず、心の正常健康人と、決定的に異なる点です。
 
楽山は、霊が分かるっぽいと思ったときから、思い込み信じ込みに至って、カルトの安い夢物語に嵌り、中立と中庸を気取るために、はっきりしないボンヤリ言語という安易さで、作文において、語尾を中心に、曖昧表現と、子供のような駄々を繰り返して、自己修正が出来ず、よくこんなことを公共にアップして人に見せることができるもんだと言いたくなるような、無責任の荒野をうろついているわけです。こういうのを、恥知らずと言います。
 
ちなみに自分は恥ずかしながら、宗教に凝っていたことがあるせいか、こういう区別がいまだ曖昧なところが無くもないことを告白せざるを得ない。宗教には、事実と信仰を同一視するところがあって、「私はこのことを信じているのではありません。これが事実なんです」という風に〈信仰=事実〉とする信仰告白が大歓迎されることさえある。どうも自分は宗教を止めた今でも、この癖が多少残っているらしい。この点よくよく気をつけたいと思う。
 
ボンヤリ言語とは、例えば、「無くもない」「せざるを得ない」のような言い方です。これを、丁寧、柔和、などと受け取らないでください。言いたいことがハッキリしない者の筆致です。
 
楽山は、本当の宗教も信仰も知りません。信仰は、心の問題であり生き方なのです。事実が信仰ではなく、信仰が事実でもないのです。何を言っているんだろう。楽山は、本当の宗教も信仰も知りません。心が無いからです。
 
「〈信仰=事実〉とする信仰告白が大歓迎されることさえある」・・間違っている例です。一部の間違っている例をもって、宗教と信仰を全否定したつもりになるのが、楽山の破綻した理路であります。
 
自分のことを言っているふうを装いながら、丁寧に教えを垂れるかのように見せかけて、楽山が言っていることは、宗教に凝っていたから区別が曖昧になるとか、自分を省みず宗教のせいにして、わけのわからないことを思い込み信じ込むのが宗教、という宗教への偏見を広めようとしています。
 
いわゆる、下等な責任逃れの台詞、無理解という自分の失敗を他者のせいにする、ということでしかありません。「宗教には、事実と信仰を同一視するところがあって」・・楽山の宗教観においてだけです。
 
分からないだけでなく、分からないのに分かっている態度、しかも、それで、教えようとする姿勢、これは、信仰とも真実とも全く無縁の自慢であり、信仰と宗教について、甚だ迷惑な、刷り込みであり、印象操作であり、詭弁なのです。
 
楽山のような種類の人間が、歴史においても、固着した妄想的な高慢~傲慢によって、宗教についての様々な偏見と先入観のイメージをまき散らして、宗教をおとしめてきたのだろうと思います。
 
何の意味もなく存在して、意味を求めようともせず、何の意味もない言葉を吐き出して、善を装いながら、嘘の決めつけだけを伝染する偽善者は、どこまでも救いに対する害毒です。人の迷惑を全く考えないのに、善人のつもりで物を言ってくるので、相手にしないでください。
 
 
なんでも人のせい?

何でも人のせい?
 
 
(2020年03月02日、同日一部修正)
(2020年03月03日、一部修正)
(2020年03月04日、一部修正)
(2021年03月05日、再録+)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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