楽山という汚染
 
 神を批判してはいけないのか?
 2014年12月06日
 楽山日記(LD)を改めて批判
 
 
「楽山日記」で検索したところ、上の記事が見つかりました。私が楽山を批判する前の記事だと思います。恐らく、ずっと前から、キリスト教を侮辱してきたのでしょう。そうしながら、クリスチャン芝居もしてきたのです。見逃してはならないところがあるので、書いておきます。
 
*神を批判してはいけないのか?
宗教を信じている人の中には、「神を批判してはいけない!」という人がいる。本当にそうだろうか。この点について、自分の思うところを書いてみたい。
 
批判は自由です。しかし、楽山は批判をしたことはありません。楽山は、こちらの言い分を全く受け取ることなく、勝手に自分で定義した神に文句を言っているだけなので、これは、批判ではなく、嫌がらせか悪口です。そういうことを書く者には、批判は、成り立ちようがないのです。
 
*あるクリスチャンの言葉
このテーマについて考えるとき、いつも思い出すのは、あるクリスチャンの言葉だ。彼(クリスチャン)は、キリスト教批判に対して、次のような趣旨の話をしていた。
「批判者だった人が、熱心な信仰者に変わることは珍しくありません。批判というのは、見方を変えれば、それだけ関心があるということなのでしょう。これは無関心よりはずっといいことです」
これはなかなか含蓄ある言葉だと思う。
 
楽山が批判者であれば、信仰者に変わる可能性はあるのでしょう。しかし、楽山は、上に述べたように、きわめて卑怯な誹謗中傷をしてきて、かつ、人の言うことを受け取りません。2014年のこの記事に書いた "含蓄" ?、楽山は、全く生かせておらず、全然、違うスタンスなのです。
 
*批判してはいけない神とは?
「神を批判してはいけない」というときの神とは、どのような神のことだろうか? それには次の三種があるように思う。
A.宗教教義(神の教え?)
B.教祖(生き神様)
C.宗教教義で定められているわけでもなく、教祖でもない神(各人が持っている神のイメージ)
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。ただし、批判しても、神は反論はしないでしょう。つまり、批判することに、あまり意味はないと言うことです。批判を含めた議論は有意義ですが、楽山は、反省と学習をしないで、いつまでも同じ否定を向けてくるので、意味がありません。
 
また、批判の節操を守らない者に、批判する資格はないと言っています。つまり、楽山は、人間として疑問を呈し批判するのではなく、全能者を上回る全能の評論家気取りとして、訂正不能の自我を持っています。こういう自我は、信仰に邪魔な我執になるだけで、何の糧にもならないのです。
 
また、批判されたときには、当然、批判された側は、批判返し、すなわち、反論または弁明の権利を有し、責任を負います。神を信じる者からの批判は、当然、返ってくるが、楽山は、自分に向けられた批判に対して、同じ悪口を繰り返すだけで、全く返答の出来ない人です。
 
*Aについて
宗教教義というものは、人による神解釈ではあっても、神そのものではないだろう。神の意思を、人に分かる形に翻訳、解釈したものが宗教教義なのではないか。
そうであれば、「神(宗教教義)を批判してはいけない」というのは、ようするに「自分の信じる神解釈を批判してはいけない」ということにすぎないように思える。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。自分の神解釈における神に文句を言っているだけですから、話になりません。そして、何といっても、楽山は、私の批判に対して、一度も、真っ当な批判も反論も弁明も返したことがありません。
 
全く、ネズミのように、したいようにして、言いたいように言って、あとは、無視してきます。つまり、こそこそと逃げるだけです。批判対象が、人でも、神でも、楽山だけは、許せない男なのです。
 
*Bについて
これも上と同じだろう。「神(教祖)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じる教祖を批判してはいけない」といっているだけだろう。
*Cについて
これも上と同じ。「神(自分のイメージする神)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じている神のイメージを批判してはいけない」ということだろう。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。楽山は、自身の、極めて狭小で、成長のない先入観の視野の中にだけあるものをキリスト教と呼び、神と呼んでいることが明らかになっています。つまり、そこで、字面を追っただけの悪口に過ぎないのです。
 
そういう批判は、批判として成り立たず、悪口に過ぎません。それが、ずっと、続いています。楽山は、キリスト教もキリスト信仰も全く理解しておらず、幼稚すぎるから、批判になっていない、という判断です。そういう相手に対しては、その相手の欠陥を、指摘し続けるしかありません。
 
*信仰を傷つけないでほしい
以上をまとめると、「神を批判してはいけない」というのは、ようするに「私の信じる神(教義、教祖等)を批判してはいけない」ということのようである。もっと直截的な言い方をすれば、「自分の信仰を傷つけないでほしい」とも、「俺の信じる神に文句いうな!」とも言えるかもしれない。
 
まさしく、楽山こそ、俺の言うことに文句言うな!、という動機から、今まで、一見、丁寧に見せかけるところの「と言えなくもない」「否定できない」前には「かなあ」「というか」といったボンヤリ言語による、誘導、印象操作、刷り込み、などと言う詭弁を弄してきたのです。
 
楽山は、話が煮詰まれば煮詰まるほど、相手にとって、こういう奴だけは相手したくない、という人物であり、あらゆる正常な理路を、詭弁によって破壊しようとするサディストです。
 
*他人の信仰に対する配慮
他人の信仰に配慮することは、とても大切なことではある。
ただ人はそれぞれ異なる信仰を持っているものだ。そのために自分の信仰に正直になることが、他人の信仰を批判することに通じることもありえる。
この場合は、どうすればよいか。自分の信仰を率直に表明してもいいのか。それとも他人の信仰を傷つけないために、自分の信仰を抑えるべきか。
これについては、万人が納得できる答えを出すのはなかなか難しそうだ。
 
全くの勘違いです。自分の信仰を語るのに、正直でないことは、偽りを言うことですから、してはならないという当たり前のことです。楽山の信仰は、自らへの我執でしかないので、そういう欲望相手に、話が通じることはありません。
 
せいぜい、感情的な表現をできるだけ控えることが出来るかどうかでしょう。根拠があれば、それを理解しない相手に対して、厳しくもなるわけです。楽山は、控えるのではなく、抑えるでもなく、考えていないのです。
 
字面だけを追っているから、正直であることを、利便性や社交と同じように扱って、上のような、抑えるべきか、難しい、などという、的外れの理路になる楽山です。「人はそれぞれ異なる信仰」という言い方は、楽山が逃げるときの、詭弁の常套句で、最後っ屁みたいなものです。
 
楽山の、こういう醜態は、自己愛性人格障害のために、いかなる問題についても、"分からないと言えない" ことの宿命でしょう。だから、楽山が、言論モドキを続ける限り、自己正当化の醜さとして、表れてくるでしょう。
 
楽山は、困ったときには、「人それぞれ」を出してきます。それによって、個人によって違ってくることと、一般的なこととを、混同して、「万人が納得できる答えを出すのはなかなか難しそうだ」などと言って、一般的なことまで、即ち、神が存在する可能性まで否定してくるのです。
 
*動機
次に、「神を批判してはいけない」という言葉を発する動機を考えてみると、次の三つがありそうだ。
1.天罰をおそれて
2.神の使いをおそれて
3.反作用をおそれて
*1について
神を批判する人に天罰がくだることを心配して、「神を批判してはいけない」というのは親切なことではある。
ただこれは、「神は慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力は持たないだろう。
 
神は、愛の神であると同時に、戒め懲らしめる神でもあることが、聖書には書かれています。批判と悪口を混同している楽山は「神を批判してはいけない」という書き方をしていますが、祈りにおいては正直であることが必要であります。楽山の言い分は、一面的~幼稚です。
 
楽山は、慈悲深い神も、天罰を下す神も、場合分けして語れると思っているようです。します。楽山は、客観的な立場のつもりでも、信じたことなど一度もなく、ゆえに、何も語れないのに、語ろうとする自己顕示欲という動機を表す結果になっています。
 
つまり、楽山は、生きるための切実な欲求から神を語るのではなく、あくまで、趣味か遊びごととして、机と紙の上で、面白がっているだけであります。神ではなく、"紙" を語っているだけなのです。
 
楽山は、先ず神を決めつけるのが信仰?という見なしで決めつけて、そこにおいてのみ、文句を言ってきます。基本的に逆であり、キリスト信仰において、いちばん意味のない言論を、さも大事そうに、得意げに語る高慢だけの、目立ちたがり屋に過ぎません。
 
祈りは、批判ではなく、ましてや、悪口でもなく、疑っているなら、疑っていると、疑問を訴えることは、正直な気持ちの祈りとしてありうることです。キリスト者は、神と、社交のお友達になるわけではないからです。
 
ただ、その時、信仰者なら、神を恐れて、ふるえることはあるでしょう。それは反省を促すかもしれません。少なくとも、信仰は信じることで完全になることではないので、知ったかぶりで上から批評を語る楽山の手に負えるものではないということです。
 
*2について
神は天罰をくださなくても、その下にいるものたちが罰をあてることを心配して、「神を批判してはいけない」というのも親切なことだ。
ただこれも、「神はもちろん、高級霊も慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力を持たないだろう。
また、このように神や高級霊はどこまでも慈悲深い存在だと信じている人からすれば、「天罰」云々と言う人たちは、「慈悲深い神や高級霊と、祟り神や地獄霊との違いが解らない人たちだ」と見えるかもしれない。
 
このような先入観と偏見での場合分けは、信仰にとって、何の意味もなく、何の役にも立ちません。何もかも一面的です。その表面的な見方で、神の種類とか人間の種類とかを気安く分けてしまうから、実感など含まれるわけもなく、誰と語らうにも、真っ当な話にはなりません。
 
運転免許がなく、運転したこともない人が、運転マナーと車の良し悪しを語るようなものです。さらに、喩えるならば、山の向こうを知らない人が、山の向こうの様子を、想像と空想で、得々と語るようなものです。深海も宇宙も知らない人が、知りもしない深さと広さを語るようなものです。
 
楽山は、いったい、何を言っているのでしょう。的を外し過ぎるというより、的そのものがない楽山の言であります。こういう人と、まともに付き合うことは出来ませんし、それで神を否定したつもりなのだから、人それぞれで済む話ではないのです。
 
*3について
神や高級霊が天罰を下さなくても、神や高級霊を悪しざまにいえば心の法則によって反作用があることを心配して、「神を批判してはいけない」という人もいるかもしれない。
これは一理あるように思えるけれども、批判者の心を動かすのは難しそうである。批判者は神を批判しているつもりはなく、「神ではないものを神ではないといい、おかしいことをおかしいといっているだけだ」という考えを持っているだろうから。
 
そういう心の法則を信仰に通用させてしまうのも幼稚だと思います。さらに、心の無い楽山は、最低限の心の法則すら知っているとは思えません。
 
楽山は「神ではないものを神ではないといい、おかしいことをおかしいといっている」のではなく、神を全く知らないのに、否定しているのです。楽山は、勉強が大嫌いで、聖書も読まず、幼稚な先入観だけで、都合のよい文言を漁って書いてきただけなのでしょう。
 
私は、批判ではないものを批判ではないと言い、理解ではないものを理解ではないと言い、おかしい楽山の頭と心を、文章に表れてきた分について、おかしいと言っているだけです。
 
楽山の語る神が、神ではないというのは、聖書の伝えていることを楽山が何も受け取っていないからです。楽山が、自己愛によって、人間らしい心を捨ててしまったために、受け取るだけの器を持っていないということです。
 
*もう一つの動機
以上、利他的動機について書いてみたけれども、もしかすると利己的動機についても考えられるかもしれない。たとえば、「神を批判してはいけない」という言葉の裏には、神の権威を利用して批判を封じて、自分の信仰を守ろうとする利己心がある可能性も考えられる。
 
楽山の、自分は分かるんだという強迫性だと思います。邪推とも言えるでしょう。つついてもしょうのないところを、楽山は、執拗に、つついているだけです。心ない者が言葉の字面だけにこだわると、いかに本質から逸れてしまうかという例でしょう。
 
「神の権威を利用して批判を封じて、自分の信仰を守ろうとする利己心」ではなく、楽山は、神の権威より、自分の権威が上という立場から言っているわけです。神さえも見下して文句を言う、それが、病質的な自己愛なのです。
 
ゆえに、楽山は、人も、神も、机上の紙上の軽い概念に過ず、そこに向かって言っていることを、まともに見せかけるインチキなのです。しかも、無反省、無責任、無神経で、鈍麻しているから、恐れることがありません。どちらも、楽山の中では、紙だからです。
 
「信仰を守る」といえば聞こえはいいが、実際は「自分の宗教選択はまちがっていない。自分には宗教の正邪、真贋を見抜く眼力がある」というプライドにしがみついているにすぎないこともあるものだ。また「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されているだけのこともある。
このようにプライドや恐怖心から、「神を批判してはいけない」と言うこともあるかもしれない。
 
「自分の宗教選択はまちがっていない。自分には宗教の正邪、真贋を見抜く眼力がある」というプライドは、まさに、楽山の自我の空想=固定観念について言えることであります。楽山は、恐れも知らず、自尊だけから、神を批判しているつもりだけの人です。丁寧語にだまされないでください。
 
キリスト信仰においては、悔い改めと祈りが生活になります。楽山は、自己愛のプライドにしがみつくことが信仰とでも思っているのでしょうか。楽山という、勘違いして、恥ずかしいだけの文章を、何度も書いてくる、話にならない愚か者がいるという、それだけのことです。
 
楽山の、誰も楽山自身を批判してはいけない、という前提が、無視と無反応と無責任の実績によって、露骨に表れています。つまり、楽山は、楽山の自我の権威への偶像崇拝者であり自分信仰者なのです。
 
話が通じないのは、理解力がないからです。理解力がないのは、学習していないからです。学習していないのは、自己愛の慢心からです。・・という循環の中にいるのが、楽山です。
 
楽山は、観念の奴隷だと思います。だから、字面にしがみついているのです。"「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されている" のは、信仰ではないのです。つまり、楽山の思想は、間違った信仰を論って、キリスト教とキリスト信仰を貶めたいだけの強迫観念でしょう。
 
自我を絶対としている楽山のような自己愛性人格障害者は、決して、自分以外の全能者を認めることはなく、感受することも、その存在に気づくことも、可能性を考えることも、出来ないのです。楽山が、神について言っているすべてのことは、迷惑な的外れの虚言にしかなりません。
 
*動機の見分け方
「神を批判してはいけない」という発言の根底に、思いやりがあるか、利己心があるかは、その発言者の態度を見ればおおよその見当はつきそうではある。
 
楽山が、記事を書く根底には、心の利己心、つまり、自己愛と自己中心しかないということは、思いやりがない、利己心だけ、という筆致に表れており、上から見下ろす視線で書いている限り、神も信仰も理解することはないのです。
 
学者気取りの柔和そうな書き方は、ちょろまかしに過ぎません。少し、じっくり読めば、誰でも書けるような先入観だけで、独創性がどこにもありません。それを、ごまかすために、多数意見の代表みたいな、柔和を装うという芝居を続けてきたのでしょう。
 
ただ人というものは、心中が愛だけの人も、利己心だけの人もいないだろうし、激怒の裏に深い愛情があったり、穏やかさの下に冷酷さがあったりすることもあり、ややこしいところもあるから注意が必要だけど。
 
愛、利己心、激怒、愛情、穏やかさ、冷酷さ、などということについて書いた後で、ややこしい、注意が必要と、書くだけで済ませられるのが、動機が皆無の楽山の自己愛と自己中の自己満足です。誰よりも自分に対して不注意で、柔和を気取る態度からは、生きる糧(かて)は生まれません。
 
*神を批判することは可能なのか?
ちなみに私は、神とは超越した存在であると思っている。人には人知を超えた神を認識することはできず、したがって神を賛美することも、批判することもできないのだろうと。
 
またまた、超越という難しい言葉を、存在に付けて、言い得たつもりの楽山です。人は神を賛美することが出来ないのでしょうか、祈り願うことは出来ないのでしょうか、否です。人知を超えた計り知れない神だからこそ、讃美も願いも含めて、祈る以外にないわけです。
 
楽山は全く逆のことを言っています。どこまで外して、人を惑わせるつもりなのでしょう。何も理解できない者が、言葉だけは執拗、・・これは、何にも増して、誰にとっても、害毒となります。
 
おそらく、人にできるのは、真実の神についてでなく、自分または他人がこしらえた神像についてああだ、こうだと論評することくらいなのだろう。
 
驚きました。まさに、楽山がしていることです。
 
人が、神についてできるのは、聖書の話と、信仰者の考え方と、人が信仰によってどう変わったか、祈ること、願うこと、という、あくまで人の側の話です。
 
どうか、楽山のような、偽の神の捏造話を、それが肯定でも否定でも、真に受けることのないように、また、感情を乱されることのないように、決して、楽山に近づかないでください。
 
*信仰と自由
ところで、「神を批判してはいけない」という人たちを見ていて思ったのだが、人はどのような神を信じるかによって、自由が広がったり、狭まったりするようである。
 
楽山は、神を知らないのに語るという習癖をもって、全く自由ではなく、全く広くもなく、安楽のお山に、ふんぞり返って、下を眺めては、何ごとか独り言を言い、ニヤニヤあざ笑っている類人の有り様に過ぎません。そのことが、楽山の人格を破壊して、モンスターに成り上がらせたのでしょう。
 
考えてみれば、人格を持ち、感情に突き動かされながら裁きを下す神(生き神様、人格神等)を信じるよりも、人格を持たず、感情もない自然法則のようなものを神と信じた方が、神の機嫌を損ねることをおそれる必要はなくなり、自由になるのは当たり前なのだけれど……。
 
生ける神は、全能者でありながら、人格を包含し、人格に共感する神であることが、聖書には書かれています。聖書を、ろくに読んでいない楽山の無知が明らかであります。
 
恐ろしいことです。楽山は、感情のない自然のような神を信じたほうがよいと言っています。そのような神?が、どうして、生きる縁(よすが)となるでしょう。神は、人に共感する神であります。
 
楽山は、自分が、情緒の乏しい人格のために、巻き添えを欲しがっているようです。ゆえに、聖書を、超常または無機質としてしか受け取らず、そこに書かれている人間性を無視している楽山が、明らかになっています。何も読み取っていない楽山です。
 
楽山は、ここで、自らの気分的に気晴らしにしかならないような、自然への信仰?を、勧めてきます。自然の機嫌を損ねることはないそうです。津波や雪崩のことをどう考えているのでしょう、それでも、偉大だと仰いでいられるのでしょうか。楽山の、いい加減な字面の工作が壊れてゆきます。
 
*信仰それぞれ
世の中には、狭いところがすきな人もいれば、広いところがすきな人もいるものだ。他人から束縛されることを喜ぶ人もいれば、喜ばない人もいる。そうであれば、人に干渉する神を信じる人もいれば、人に干渉しない神を信じる人もいるのが当然だ。
これはどちらが優れていて、どちらが劣っているというわけではなく、個性のちがいということだろうし、そうであれば、人はそれぞれ自分に合った信仰を持てばそれでいいのだろうと思う。
 
狭い、広い、束縛、悦ぶ、人それぞれと同じように、人に干渉する神、干渉しない神、を並べて語るのは、いずれも通念的観念だけを追った字面の図画工作に過ぎません。そのことの、優劣があるとかないとか、どうして、いつも自家製の飴玉を舐めて、よだれを垂らしてくる楽山に分かるでしょう。
 
このように、いろいろ言った後で、自分に合った信仰を持てばいいと、趣味の話の次元に貶めてくるのが、楽山の迷惑極まりないボンヤリ言語なのです。腐っているのに、生鮮のつもりになって、書くことだけは止めない楽山の、さらなる腐敗が続いています。
 
気をつけてください。楽山は、考えが浅い、そして、情緒が鈍い、という自分の精神と思想に、読む人を巻き込もうとしています。これが、楽山の他者の人格破壊という恐ろしい害毒なのです。決して関わらないでください。
 
*人によって、神のイメージが異なる理由
結局、人は自分の姿を神に見ているのかもしれない。もしそうだとすると、「神を批判してはいけない」というのも、「神を批判してもいい」というのも、自分の姿を神に投影しているにすぎないのだろう。
 
そして、楽山は、自身の欠陥を棚に上げて、自分の姿を神に見ているのかもしれない、自分の姿を神に投影している、などと勝手な空想を結論みたいに言ってきます。色々書いた後で、これが、楽山の軽蔑と悪意の企みであり、ゆえに、破局点であり、楽山自身の人格の崩壊なのです。
 
信仰には、自分に、うんざりした人が、救いを求めてくることが多いのです。自己愛性人格障害者である楽山には、全く理解できないことなのでしょう。神そして信仰は、自分を絶対視して、神を概念の紙片のように自分の視野に置いている者には、決して理解できないことです。
 
*最後に
こう考えると、人に人格や個性がある限り、自他が同じ神のイメージを共有することは不可能であり、また無益であるように思えてくる。
真実の神が存在するかどうかはわからない。けれども少なくとも、人が語る神、または人が認識する神は、人から独立した客観的な存在ではなさそうではある。
こういったことを了解する人が増えれば、信仰の押し付けのようなことは減り、人々はより自由になることができるだろうなあと思う。
 
そうして、楽山の結びは、人によって勝手に信じる信仰、という、聞いても、何の役にも立たない結論のようです。恥ずかしげもなく、こういうことを書けるのは、楽山に、羞恥心と罪悪感がないからでしょう。
 
まわりくどく、まわりくどく、勝手にしたらいい、という結論に至ります。楽山を聞いて、蓄積するのは、徒労と疲労というゴミに過ぎないのです。
 
しかも、神を、人から独立した存在ではないと言っています。これは、ある種の、偶像崇拝のことであり、いと高き存在を恐れる心の無い楽山にとっては、偶像は自分自身、つまり自分信仰なのです。
 
神のイメージと、神は、明らかに違います。前者は、人がいだくものですから、神への恐れによって、決めつけないことが必要です。それを、混同して、幼稚に決めつけて、神を否定するのが楽山です。
 
決めつけない、という一点において、信仰は成立します。神を決めつけないことを、神を恐れる、という言い方をします。楽山は決めつけで出来ているために、分からないのです。
 
人は、神の意志と行為を決めつけることが出来ません。しかし、通念的観念を字面に当てはめているだけの低劣な楽山は、神について、否定についても肯定についても、一言も信頼に足る言葉を語ることはないでしょう。
 
2014年の、この記事と、最近言っていることと、楽山は、全く変わりがないように思えます。訂正不能の幼稚さを、ずっと続けて、学習と成長をしない無駄口が、楽山です。
 
信仰の押し付けはカルトがやっていることです。信仰の貶めは楽山がやっていることです。信仰を持たなければ自由なのでしょうか。それで自由だったら、聖書も、宗教も、信仰も、生まれる必要はなかったのです。現実には逆であって、本末転倒の、戒められることが何よりも嫌いな楽山です。
 
宗教について信仰について、その起源も必要性も理解していない怠慢な楽山は、今も、同じような、安物のイメージで宗教と信仰を語っています。無反省の訂正不能の、言論と頭のボンヤリ言語の弊害は、まるで、蜘蛛の巣が首に絡み付いたときのような不快感をもたらします。
 
信仰が、楽山の言うような、飾りのような信仰?なら、それは、楽山の信仰であり、楽山の言うように、いい加減に理解して、いい加減に信じてもいいのでしょう。何も良い方向に変える力のない信仰?だからです。
 
真の信仰は、現象としても、人が、それを必要としたから、伝えられて、広まっているのです。
 
宗教には、曲解やカルト化という弊害はありますが、今も、真の恐れを知り、信仰による癒しと救いを必要とする人々がいるのです。楽山やシャロームなどの易坊類に共通した典型的なこととして、信仰を語る資格のない自己愛の、思慮の足らない者に惑わされることのないように願っています。
 
楽山は、いかにも柔和な評論家か知識人であるかのよう装って、丁寧語で書いてきますが、実際は、無反省・無責任などを特徴とする自己愛性人格障害者であり、正義と善に見せかけて、無理解と悪意から、侮辱の言いがかりを、笑いながら平気で言って、訂正不能に、今も続けているサディストです。
 
 
(2020年05月22日、同日一部修正)
 
字面(じづら)
論う(あげつらう)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
雪崩(なだれ)
 
 
汚染の道

汚染の道
 
 
(2021年05月29日、加筆して再録)
 
 
 
  なれの果て
 
またも果てである
いつか果てである
目処(めど)が立っても立たなくても
耐えても進んでも
黙っていても
必ず果てである
止まれば土か
流れれば海か
飛べば空か
だから一つの
忘れやすい夢である
夢の属性に救われて
来るという保証のない
明日の目覚めを
願うことなく信じていた間
同じように忘れていた
見えない闇の果て
 
いつか手に
ショッピングバッグをぶら下げて
街頭に立ち
錆びた街灯に触れて
すりきれた外套の
衰えた視力の
細い明かりと
冷たい引っかかりと
見えない剥離と
輪郭の縁(へり)と
影をゆっくりなぞっている
見えない光の果てである
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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