神と二項2
 
 少し修正して再録
 
 
嬉しいと思える恵みは
同時に試練だ
喜びのために思い上がらないようにと
 
試練としか思えない悲しみは
同時に恵みだ
立ち直って成長するために
人によっては
生死を超える神の民になるため
 
失望は新たな願いを生む
 
絶望は否応なく希望を生じる
その希望が次々に消えてゆくとき
絶望は強く迫ってくるので
人は成り行きを思い
運びを思わざるを得ないだろう
そのとき信仰は
少なくとも絶対孤独から人を救う。
 
恵みと試練
希望と絶望
 
相反するような二つはともに
神と人の間で
御心と人の心が奏でる調和とも言える
 
しかしその調和と一致を
人はごく一部しか理解できない
 
その調和は人が保つのではない
 
人は自分自身についてさえ
存在のバランスを保ち得ない
 
人は不変ではありえない
 
 
存在のバランスと調和は
常に神のもとにあり
人が完全な調和に到達するとしても
恐らく人の終末か世の終末においてのみであり
 
だから人は生きている間
自らの存在について
調和やバランスを保つことは出来ず
自らの意思によらなくても
変わってゆくしかないのだろう
 
反対に見えるものが
同時に存在して矛盾し対立し破壊することのないように
対立している二項は
神によってのみ調和するのだろう
 
だから、人は、しばしば矛盾している
 
ゆえに、人の言葉による固定的な見なしは空しくなるだろう
 
人は自ら調和を目指すことはあるが
人は自ら調和を完成することはない
 
人間の尊い言葉の一期一会と
神への正直な一所懸命の捧げものを通して
地上の命では見ることの出来ない憧れがあり
それは
人が地上では知りえない神の世界において
秩序と慈愛の一致として
対立する二項の調和した存在の
一つの表現形式に過ぎなくなるのだろう
 
恵みと試練
希望と絶望
 
神の世界においてのみ
人は存在の根源に帰って
神と人は一つの生命になるのだろう
 
 
(2016年01月05日、同日一部修正)
(2021年05月22日、一部修正)
 
 
私たちが、刺激を受けて動揺するのは、
私たちに常識と良心があるからです。
 
ある変な牧師の説教が
カルト妄想者によって引用されていました。
信仰を死体に喩えて、ビクともしないと。
まるで呪いのようです。
 
偽善カルトは何を言われてもビクともしません。
まさに、生きた人間の活性がどこにもなく、
死体のように、ビクともしないのです。
 
 
メモ的に:
 
ほぼ恒常的で、ほぼ秩序立っていて、ほぼ双方向の感覚であれば、
人間は、それを感覚に過ぎないとは思わず、幻想だとも思わず、
実在だと思い込む。
 
つまり、実世界は、そのような感覚世界と、つまり、ある意味、共同幻想と、同値である。にもかかわらず、その世界で、真実を求めて、一生懸命、感じ取り、考えようとするのは、人間だからである。自らを、空しさの餌食にしたくない人間だからである。
 
 
どこまでも生けるものとして

どこまでも生けるものとして
 
 
(2020年05月15日、加筆修正して再投稿、同日一部修正)
(2021年05月22日、加筆して再録)
 
奏でる(かなでる)
嬉しい(うれしい)
否応なく(いやおうなく)
一期一会(いちごいちえ)
憧れ(あこがれ)
 
 
 
  君ではない
 
痺れた手に持てと言う
折れた足に立てと言う
軟化した脳に思い出せと言う
忘却を描けと言う
色を無くした眼に彩れと言う
音を無くした耳に踊れと言う
泡を吹く動かぬ口に語れと命ずる
それは紛れもなく君自身だが
咄嗟(とっさ)
君ではない
 
(90年代か)
 
 
 
 ツイッターに書いたこと:
 
聖書を読むとは、
旧約聖書を読んで、神と人の違い、即ち、人が罪深く不完全であることを知り、
新約聖書を読んで、キリストと人々との関わりから、信仰の義、即ち、人間らしい正しさがどういうことであるか、人間の不義、即ち、神に背くとはどういうことかを学ぶことです。
 
自己愛者は、ベースが訂正不能の自己愛ですから、自身を、不完全だとか、部分的にも間違っているとかを、考えることが出来ません。したがって、人間には届かないような超常のことも、分かったつもりだけで得意になって、語りたがります。
 
したがって、どんどん、求道や成長から外れて、しまいに、誰にも通用しないような、危険な妄想の境地に至ります。よって、何かを行なえば罪か偽善、それを人に向ければ疲労~人格破壊をもたらします。犯罪に及ぶ可能性もあります。
 
自己愛者は、いかなる危機の場面でも、誰も救えません。いちばん先に逃げる人です。逃げてしまったとき、正常な人であれば、救えなかったという悔いが残り、場合によっては、共感になるでしょう。しかし、自己愛者は、非を認めないのです。
 
そのために、なぜ救わないんだと人に言っても返されるだけなので、結局、神のせいにするのです。そういう醜い自己正当化を平気でして、平気で納得し、自己満悦して、どこまでも、どこまでも、非を認めず、反省せず、責任を負わない厚顔無恥が特徴です。
 
(2021年05月21日、ツイート済み)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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