宗教を裁く楽山
 
 宗教の組織化
 2014年03月31日
 
 
楽山の古い記事です。
 
宗教と信仰を、超常の辻褄と物品と組織化とかでしか考えていないのが、楽山です。欠けているのは、人間の心です。そこが信仰の受け皿なのですが、楽山に見られたことはありません。ならば黙っておればよいのです。
 
しかし、心を感受できない楽山は、悲劇が起こるから神はいないなどと、小学生でも考えそうな幼稚な理屈で否定してきました。楽山にだけは、宗教と信仰について何も言う資格はないと思っています。残りの一生を費やすことになりそうな批判記事、書き始めて、3年くらいにはなるでしょう。
 
楽山には、あざ笑いと不機嫌の感情だけ、即ち、快楽原則しかないと思います。後悔や罪悪感などの高等感情としての悲しみの心が欠如していると思います。だから、しんみり悲しんだり、深く考える姿勢が、楽山の文章を読んでも感じられません。
 
かつて
ある宗教の発展期に
関わったことがある
当時
新たな仲間が増えていくのは
うれしかった
ただ
教団が大きくなり
組織化されていくにつれて
人間的なあたたかみが
うすれて行ったのはさみしかった
 
楽山の言う温かみというのは、恐らく、調子のよさとか、ごきげん・・とかいうものだと思います。本当の温もりを知っている人は、白々しい詭弁や嘘を言いませんし、何より、反省できるでしょう。楽山は、それらが、一切、出来ていない人です。
 
また
神のためよりも
真理のためよりも
人のためよりも
組織の利益を優先するかのような
場面を見るのはつらかった
 
神のためも、真理のためも、人間としての真実のためも、楽山は、考えてこなかったのだろうと思います。だから、宗教を、ホラーと同じように書いている記事が見られ、一方で、取引のように、自分の利益として、考えているらしいところが、明らかになっています。信仰とは真逆です。
 
宗教は、神の論理だが
組織は、地上の論理(人の論理)であり
この二つを調和させるのは
とても難しいことなのかもしれない
 
平気で、宗教を「神の論理だが」などと書いてくるところが、楽山の安易さであります。神の論理、人に分かるわけはないのです。楽山は調和させれば認めるみたいな理屈を言っていますが、難しいのではなく、調和でもなく、全能の理解は不可能という認識から、信仰の敬虔が生まれてきます。
 
 
 
 宗教の組織化 2
 2014年04月01日
 
 
組織化は、あくまで便宜上のことに過ぎません。そこを論じて、宗教を論じたつもりの楽山は、何も宗教を知らないということです。"知らないという自覚" のほうが、よほど信仰に近くなりますが、そういうことが、楽山には、自己愛性人格障害のために出来ないのです。
 
本来
心は
各人のものである
しかし
宗教は組織化の過程で
各人の信仰(心)を一定の枠内におさめ
共有しようとする
 
「信仰(心)を一定の枠内におさめ」ることなど出来ません。楽山は、その時には曲解し、今は、妄想的に偏向してゆきます。自己愛性パーソナリティ障害NPDにおいては、自分以外の物事を、自分より下に扱うという特徴があるので、宗教と信仰の考え方そのものが、成立しません。
 
信仰(心)にしろ
財産にしろ
私有を否定し
共有とするなんて無理なのに……
宗教の組織化の難しさは
このあたりにあるのかもしれない
 
このような制度・政治的な問題で、宗教を語っても、それは、宗教と信仰の本質とは遠いところでしかありません。それに、楽山には、あらゆる真実について、話が成立することがありません。何故なら、反省せず、責任を負わないからです。
 
そうなると、何を書いても、言い放って終わりというだけになり、他者の意見を無視します。ゆえに、また、他者の意見を容易に忘れてもいるのでしょう。真実追求の糧にも意見にも議論にもならないのです。つまり言論にならないということです。
 
 
 
 宗教の正邪を見分ける方法
 2014年04月02日
 
 
楽山は、まず、自分の邪悪さを見るべきですが、それをしないのだから、他者や他の物事について、そして、宗教なら、なおさら、その正邪を見分けることなど出来るはずもありません。自らを見ない者が、他者だけをあげつらうことは、害毒でしかありません。
 
一目見ただけで
プラスチック成型の大量生産品で
原価はどうみてもせいぜい数百、数千円くらい
と推測される仏具、神具などを
霊的な価値があり、御利益も期待できるとして
異様なほどの高額で譲渡しようとする宗教
 
このように、物品を見て、安いからご利益がないみたいなことを言っている楽山です。高ければよいのかという問題にもなりますが、何よりも、楽山の思考の浅薄さが表れているのです。だから、他者のインチキを批判して、自らのインチキに気づかないペテン師でしかないのです。
 
仏具、神具などは
材料、品質などに応じて適正な価格をつけて
霊的な価値や御利益については軽口をたたくことなく
譲渡する宗教
 
軽口を叩かなければよいのでしょうか。むしろ、高くても安くても、霊験あらたかを歌うのがカルトではないでしょうか。譲渡するとしても、そこに込められた心に触れなければ、何の意味もないでしょう。そもそも、第一に、宗教は、物品や値段では決まりません。
 
いつもいつもお布施を募っておきながら
お金はいくら集まり、何に使ったかは
少しも明らかにしない宗教
 
お金と物品に、どこまでこだわっても、宗教を語ったことにはなりません。収支を明らかにするのは当たり前で、それで宗教になるわけではありません。それに、楽山は、多くの不祥事、不都合、嘘、詭弁を、認めもせずに、反省もせずに、平気でいます。宗教を批判し語る資格はありません。
 
自らの罪と偽善を隠しながら、他者のことを言っている楽山の醜さを忘れないでください。楽山の意見は、どこにも通じることなく、隠蔽と偽装によって、無明の沼に沈んでゆくだけの雑言に過ぎません。かなり前の記事にもかかわらず、楽山の思想の破れ具合が表れています。
 
寄付を募るときには
その目的を明示した上で行い
事後には、集まった寄付金の総額、使用状況等を明らかにする
透明性の高い宗教
 
透明性も、当たり前のことです。宗教に限ったことではありません。人間でいうなら正直さということになりますが、嘘吐きの楽山に、最も欠けているものです。楽山は、時々、透明人間になって、逃げたり、人の言うことを無視したりしますから、人間としての透明性は皆無です。
 
こうしていろいろな宗教を見ると
その正邪を判断するには
信仰対象、教義、奇跡、歴史、信者などよりも
お金に対する態度を見るのが
もっとも簡単な方法かもしれない
 
お金に対する態度を見るのがよい・・というのは短絡です。必要条件に過ぎません。貧乏な暴力の集団は、正しいのでしょうか。楽山は、そういう目しか持っていないわけです。ゆえに、心の問題について何も語れない安っぽい軽口の楽山が、とりとめもなく何か言っただけになります。
 
分かってないのに言ってくる、楽山のような者が、いちばん宗教を駄目にするのです。信頼できないと、どういうことになるでしょう。信頼できないのだから、楽山が、肯定しても肯定とは受け取れず、否定しても否定とは受け取れない、ということです。そういう人との交流は無意味です。
 
このように、何を言っても無駄という扱いになる人は、稀です。楽山のような自己愛性パーソナリティ障害などの、身勝手で、平気で、だましたり、嘘を吐く人が、そうなってゆくでしょう。楽山批判は、人間性を守るために、非人間性を排除しようとする当然の成り行きなのです。
 
 
永遠を測ろうとするイカサマ

永遠を測ろうとするイカサマ
 
 
(2021年10月20日)
 
 
 
  かたすみ
 
滅びゆく家の片隅に
うずくまってじっと耐えているか
去りゆく人の残していく
滅びゆく影を追って
北風に唇をふるわせて野辺に立つか
滅びゆく世界の
残された片隅に
あてがう呼び名もなく
呼ばれることもなく
吹きすさぶ嵐に傾いて
ひび割れた古い柱に
さらに寄り掛かる冬の重さに
耐えるときの命の中に
命に似て
少しく潤んで
しのぶもの
滅びゆく希望の
片隅に凍えて
小さく開かれた永遠を信じて
小さく開いた眼だけになって
やがて白く
広く
 
 
  友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
人は到底それらすべてを知り得ない
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
  聖書
 
一般に紙は薄く、頁はめくりにくく、ボールペンで線でも引くと裏から透けて見えること多く、にじんでくることさえある。一般に分厚く、途方もないと思えて、なおかつすべての一行一行に涙流れるわけでもない。メモでもしておかないとすぐどこだったか忘れてしまう。これに一生を費やす人がいるわけだ、と他人ごとのように思う。
 
聖書、バイブル。旧約聖書、新約聖書。文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書、共同訳聖書、リビングバイブル。
 
永遠のベストセラー、というより永く買わされてきたこの書物を全部読みこなせた人がどれだけいるのだろう。たとえそらんじたとしても信仰に保証はないのだ。
 
開こうとするたび、無数の異国の怪人が現れ、白髪の老人であったり、真黒な眉毛と髭の間にこわそうな目がにらみつけたりする。
 
こりかたまりの戦争の話であったり、道に伏した栄養失調の嘆きであったり、熱くなって爆発しそうな顔であったり、こちらが爆発しそうになったりする。
 
ただときどき、ふだん嫌いな憐れみが命がけで迫ってきて、荒野や砂漠が潤ったりするので、海が割れたり死人が生き返ったりしてこんな頭持ってないと破り捨てたくなるのを、笑えなくする。
 
 
 
前にも載せた楽山日記のコメントです。誰のコメントかは知りません。
コメント欄
 
 
隆くんへ
 
・・・
 
間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
自分 正さなくちゃいけない
 
それが出来て 初めて人間だと
それ出来ないなら 人ではないと
 
・・・
 
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
 
・・・
 
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 
人間で在り続けるのなら
人で在り続けるのなら
 
 」
 
このコメントは、毎回載せようかと思っています。
 
楽山は、インチキ占いか、詐欺でも、やっていたのでしょうか。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク、最近コピペ)
 
 
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