ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:議論不可

 
  楽山の放屁3
 
 批判をスルーすることについて
 2020年07月26日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
批判に対して、高慢な姿勢から、放屁のように不快で臭い楽山からの言い訳がましい詭弁です。どういう精神の邪悪さを持つと、このような失礼な言い分を、推敲もせずに、公表できるのでしょう。独りで悦に入っている楽山の、気取りの気持ち悪さだけが臭ってきます。
 
 
ツイッターを見ていたら、HS信者のツイートが話題になっていて、それを掘ってみたら、楽山批判を書いている信者ブログに行き着いた。楽山を名指ししているわけではないので、「ちがう」といわれれば、「ああそうですか」と引っ込まざるを得ないのではあるが、文脈からすると、たぶん自分に対する批判なんだろうな。
 
まず、「信者ブログ」というのは私ではありません。ここでいう信者は、HS信者のことで、私は違います。私は、キリスト信仰者(クリスチャン、キリスト者)のつもりで書いています。
 
楽山は、HS信者からの批判のことを書いているつもりのようですが、この記事全体を読めばわかるように、批判者を分不相応の高みから見下ろしながら、中身のない、極めて失礼な、知識人気取りだけの稚拙な自己正当化を、身の程も弁えず、恥も知らずに、書いています。
 
 
それにしても、先日、「時は金なり、命なり」を書いて、あちこちのブログを見てまわることを止めることを書いた途端に、信者ブログから批判記事らしきものをいくつも発表されるとは奇妙な偶然であるし、なんだかおかしくてたまらない。
 
HSからも批判されてゆく楽山のようですが、こちらは、そのこととは関係なく、キリスト教とキリスト信仰の敵としての楽山に対する批判をやめることはないのです。
 
楽山は、批判者を「おかしくてたまらない」と書いています。このように、反省もなく自分の非を認めることのない楽山だから、いつも、あざ笑っているわけです。そういう楽山の出来の悪い記事に、一つ一つ批判記事をあててゆくしかありません。
 
批判が積み重なって、早く、楽山が、誰からも相手にされなくなる日が来てほしいと思いますが、どうなるか分かりません。しかし、個別の難を避けるために、楽山を相手にしないこと、直接の遣り取りをしないこと、これは、今からでも出来ることです。
 
遣り取りをしない、口を利かない、楽山に対しては、それしかないのです。楽山が、自己中のために他者を無視して自己顕示してくるものを、こちらも、批判しないのであれば、徹底して無視することが大事であり、唯一の楽山からの害を防ぐ手段なのです。
 
私は、キリスト者の立場から、批判を続けますが、精神衛生上の心構えがないと続かないでしょう。少なくとも、持続的に、楽山を相手にした人、楽山に反応した人は、みな、病的な疲労という耐えがたい災いを、楽山からもたらされることを忘れないでほしいと思います。
 
 
批判内容については、ざっと眺めただけではあるが、正直言って興味をひかれるものはなかった。ただ自分に都合の悪い批判は無視、スルーしているのはけしからんとかいう意見には、夏目漱石の文章を思い出させられた。
小生は日本の文芸雑誌をことごとく通読する余裕と勇気に乏しいものである。現に花袋君の主宰しておらるる「文章世界」のごときも拝見しておらん。向後花袋君及びその他の諸君の高説に対して、一々御答弁を致す機会を逸するかも知れない。その時漱石は花袋君及びその他の諸君の高説に御答弁ができかねるほど感服したなと誤解する疎忽そこつものがあると困る。ついでをもって、必ずしもしからざる旨むねをあらかじめ天下に広告しておく。
2020-07-26 (1)田山花袋君に答う
・夏目漱石 田山花袋君に答う
 」
自分は漱石ほど多忙ではないし、才能もないのではあるが、批判に対する姿勢については見習いたいと思う。失敬。
 
無視だけを見習うと楽山は言っています。批判というのは、「興味をひかれる」から読むものでしょうか。まず、身の程を弁えない自己中の大きな勘違いが、楽山にあることが分かります。
 
結局、楽山が言いたいのは、批判なんか "知らないよ"・・ってことです。勝手な発言や虚偽や妄想を書いて公開しておいて、知らないよ・・で、ことが済むなら、道徳も法律も警察も不要です。そんな世界に住んではいないと気づかない楽山のことを、記事に書いてゆくしかありません。
 
漱石の言を出してきて、「多忙ではない」「才能もない」「失敬」などと書いておきながら、批判に対する姿勢だけ、「見習いたい」と書いて、批判に対して返したつもりになるのが、文士気取りだけの、漱石気取りだけの、意地悪で傲慢な病的体質だということに気づかない楽山です。
 
個別の批判に対して、漱石の姿勢を言葉の表面だけから真似れば正しい、と満悦してしまう楽山の、今までの勘違い読書と同様の、どうしようもない思慮と分別の欠落が、あらわになっています。「失敬」・・どういう意味でしょう。本当に、総ての読者に対して失敬極まりないです。
 
遠い遠い有名人の、ある批判に対しての弁明を、楽山自身という個別に当てはめて、自分だけ納得してしまう楽山の思い上がりと利己のための腐った詭弁が、鼻に突くだけなのです。
 
身の程知らずの勘違いと慢心の程度が、楽山において、病的な色彩と臭気を濃くしています。そして、漱石のような高名な文士を、軽々しく引用~利用~悪用し、放屁の材料にしてしまう楽山です。学者気取りの筆致にゴマされてはいけないし、許してはいけないと判断しています。
 
有名でも多忙でもない楽山が、「一々御答弁を致す機会を逸するかも知れない」のではなく、返せないものだから無視しているのは明らかであり、こちらは「御答弁ができかねるほど感服したなと誤解する」のではなく、嘘と詭弁だらけの変質者楽山に対して、批判精神を新たにするだけになります。
 
このように、楽山は、どんな有名人の言も自分のために悪用する無礼について、恥を知らないだけの下種と思うしかないでしょう。とても人間とは思えないですし、これからも、楽山の恥部が、次から次に明らかになってゆくでしょう。
 
 
ぶっちゃけていえば、「霊言は真実であり、大川隆法総裁は地球神であり、主エルカンターレである。この大川隆法総裁こそが、イエスが父と呼んだ存在である」というHS信者が、「信仰とはこういうものだ。人はこのように生きるべきだ。キリスト教徒に失礼があってはならん」などと説教したとしても、HS信者以外には真面目に耳を傾ける人はいないだろうし、しつこいネットストーカーとの議論に応じる人もいないだろう。自分もこの例外ではないということである。
 
散々批判されて、全く返せない楽山が、執拗に、自己満足の記事を書いてくることこそ、ネットストーカーなのです。こういう存在は、言論の世界にいてはならないと思います。ネット以外に自己顕示する場所を持たない哀れな変質者だろうと思います。
 
楽山は、耳を傾けることをしないのではなく、誰の意見にも傾ける耳を持っていないのです。これが、悪性で病的な人格の特徴です。こういう人は、直接でなく、婉曲的に、当てつけめいた悪態しか返せないのです。それが生き方になっている楽山です。
 
楽山は、有名無名を問わず、誰かを褒めれば、褒め殺しになり、自らへの批判には、無視以外、すべを持ちません。弁明する理路も感性も無いからでしょう。楽山の常套手段として丁寧語で書くならば、嫌らしい当てつけだけの文章になるでしょう。
 
HSに対してだけではないのです。キリスト教も机上のオモチャのような屁理屈で否定してきました。そして、ときに、逆のお祈り芝居をして、両方言ったからプラマイゼロ・・などと狂った理路しか持っていないのが楽山であり、真実追求の言論の場には、決して、いてはならない人物だと思います。
 
楽山に対しては、対等に議論しようなどとは、決して思わないほうがいいですし、結局は、誰にとっても、相手にしてはいけない危険人物です。失礼を理解していない人に、失礼を指摘することは無意味なのです。こういう人は、全否定で臨むしかないと思います。
 
失礼が分からなければ、正しく生きることも分からないわけですから、楽山には、誰からも相手にされないようになる必然だけが、永遠の闇への入り口として待っているのです。そういう楽山の道連れにだけはならないように、楽山が関わって来ても、決して相手にしないでください。
 
偽牧師シャロームもやっていたことですが、楽山も、批判者を、ネットストーカーと決めつけています。楽山は、このように、根拠もなく決めつけます。批判に対しては、反論も弁明も出来ず、当てつけと悪口以外何も言えない人なのです。楽山とシャロームについては、同一人物の可能性も考えています。
 
楽山の仲良しである悪性人格シャロームは、病識がないために、ヤフー終了後、揶揄コメントを入れてきたことがあります。楽山は、シャロームに、実に、姿勢と態度が、よく似ています。楽山も、負けず劣らず、嘘と詭弁の煽動者であり、悪性人格の例外ではないということであります。
 
 
ペテンの道は無視の道 虫の道

ペテンの道は無視の道 虫の道
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月14日、再録+加筆)
 
 
 
  知らない夏
 
浮きながら一歩一歩
歩いている道に陽射しは鈍く
数え切れない苦悩の胞子をはらんで
夏はやってくるのです
 
汗ばむ肩に首筋に
測りきれない表情を見せて
おどけた無為がにじんできます
 
折れるようにふらついて
やっと座った椅子の上に
とぼけた砂の顔
計り知れない徒労を乗せて
季節はめぐってくるのです
 
涙する代わりにあくびをして
鈍麻した肉体さえ
居続けること
座りつづけることを嫌っている
 
倦怠を支えてきたもの
その来歴も忘れたかのように
古びた自画像の
ひびのまわりにゆっくり
ゆっくり乾いた記憶を
もろい煉瓦のように積み重ねながら
何を塗って固めたらよいのか
 
夏に冬の寒さはわからないよと
残った隙間が笑っています
得体の知れない寂しさに
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
  それぞれの無視
 
老人は今日も水の漏れる公園に来て
折れかけたベンチに腰掛けて
どちらを望んだわけでもないのだが
自らの足二本を加えて
ベンチを支えるわけではなく
自らの重さを加えて
さらに折れやすくしながら
衝突する車から昇ってゆく燐光や
砂場に溺れ沈んでいったり
攫(さら)われてゆく子供らや
残された自転車が走る様子
などを黙って眺めている
 
立ち上がり「ついに私は神を見た」
と家畜よりは大声で叫びたいのだが
気にも留められず変なじいさん
と笑われるだけだと分かっているから
座ったまま「それでも神は私を見た」
と呟いた声を架空に殺したのち
立ち上がり帰ってゆくのである
 
老人は今日も色の漏れる交差点に来て
赤い光の道をのんびり渡って
帰ってゆくのである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
サイコパスは、以前は精神病質と呼ばれていました。精神病と紛らわしいからでしょうか、今は、反社会性パーソナリティ障害と呼ばれているようです。反社会性では、犯罪を犯してから・・みたいになるので、私は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と呼んでいます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山ツイートの害
 
 
楽山は、ちょこちょこ刺してくる蚊のようなものです。針でつつくようなポイントは、大方、的外れです。相手を困らせればよいという目的なので、真実の追求などする気はありません。議論の本来の目的から甚だしく逸脱して、議論の焦点を、煙のように、周辺に拡散させ混乱をもたらします。
 
楽山は、難癖をつけてくるだけの人です。文脈を追うことが出来ないので、相手の文章の一部に、不適切だと思う箇所を見つけて指摘して満悦したいのです。全体の流れを把握できないので、書いた人の心も、込められた意図も、理解できません。楽山は何も伝わらない別の世界から見下ろしているだけです。
 
ちなみに、楽山がいだいている神?の概念は、あらゆる不幸から都合よく守ってくれて、楽山を満足させてくれる神?です。つまり、楽山に分かりやすく味方となる神?です。楽山は、神に条件を付けて、満足したら信じてやるぞと言っているのです。・・そういう神?は、永遠に、どこにもいません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、キリスト教信者とやりとりすると、聖書の引用を「聖句」とは言っても、「枝葉」なんて言うことはないです。少なくとも私はそんな人に出くわしたことはない。
このことからも、HS信者であるといいながら、総裁の言葉の引用を「枝葉」と言って恥じることのない棒氏の不信仰がよく分かります。
午後10:00 · 2022年7月20日·Twitter Web App
 
楽山は、キリスト者と、まともに遣り取りなどしていません。出来ないのです。キリスト者と言っても、正誤も主張もいろいろですが、そもそも楽山は、キリスト教を理解していませんし、信仰のいちばん大事なところを何も知りません。空想や妄想をを見るのと同じ視線です。
 
楽山は、枝葉末節でも、利用して、詰(なじ)ってきます。相手のフォーカスを外してゆきます。その先には混乱しか待っていないことを利用しているのです。殆ど、本能的に、そういう操作をしてくるので、一見まともに見えても、楽山との議論は禁忌なのです。精神の健康を守るためです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
またか…。相変わらず、棒氏は不信仰な人だね。
まともな信者なら、「総裁の言葉は、すべて珠玉の真理だ。一言半句も聞き漏らすまい」とは言っても、「枝葉」なんて言うはずがあるまい。
ましてや『仏陀再誕』『永遠の仏陀』の言葉について、そんなことを言うわけもない。
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。詳細はこちら
午後9:56 · 2022年7月20日·Twitter Web App
 
楽山の、批判や攻撃の口調は、しつこくて嫌らしいのが特徴です。同じことを繰り返すしかないようですから、楽山を相手にしないでください。楽山と遣り取りを続けると、感情的になって、精神が疲労し、混乱し、疲労のために弱く鈍感になります。それが狙い、そして生業(なりわい)なのです。
 
楽山は、議論の文脈を把握することが出来ません。細かいところを指摘したつもりのようですが、そこは本筋ではないので、いちゃもんを付けたいだけです。そういう進め方の悪癖は、議論の出来ない者が、まともに見せかける、卑怯な、そして無理解な策略だということも分かってきます。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
あと、この議論は、アンチの楽山が「HSでは大川隆法への信仰を説いてる」とし、信者がそれに反対するという笑える状況になってます。
このねじれ現象に気づいてないらしい棒氏は、枝葉にとらわれ、議論の本質が見えてないってことです。
信者なのに、不信仰を主張してどうすんの?(笑
午前7:13 · 2022年7月21日·Twitter Web App
 
楽山は、アンチでも、HSでもないと思います。自己満足のために関わって、かき乱して悦んでいるサディストだろうと思っています。信者でもないのに、宗教や信仰を語ってどうすんの?・・楽山は、何の福音にもならない迷惑媒体です。楽山に関わっている人は、直ちに逃げてください。
 
病的ナルシストは、はてしなく議論してきますが、実際には、はてしなく、いじって、意地悪な的外れの指摘をまともに見せかけて、得意になっているだけなのです。そして、しばしば笑います。あざ笑いです。オレのほうが上・・とでも言いたいのでしょう。自己満足の権化であります。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
いいえ。現在、私は反論待ちの状態です。
楽山「HSでは、総裁への帰依が説かれてる」(根拠提示あり)
田中「帰依の必要なし」
棒「『仏陀再誕』『永遠の仏陀』の信仰論は枝葉にすぎない」
田中、棒氏の言葉は、根拠提示なく、ただの感想にすぎず、反論になってません。
午前7:10 · 2022年7月21日·Twitter Web App
 
楽山と議論してはいけません。楽山は議論などしていません。反論など待っていません。楽山が用意するのは嘘と詭弁だけです。精神衛生上の危険人物であり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、有害無益であり、論者として成立しない人です。
 
楽山の意見のベースは、根拠ではなく、妄想です。オレは分かってる妄想です。実際には、キリスト教批判にならない、いちゃもんだけを書いてきた履歴があります。楽山は、相手が興奮して、感情的になって、乱れてくるのを、嬉しそうに眺め、勝ったと満悦する悪趣味のサイコパスです。
 
楽山の議論めいたコメントの目的は、相手を焦らせ、怒らせ、慌てさせて、勝ったと思い込むことで、極めて原始的な自己満足を求めてやっていることだから、遣り取りをしても、結実することが何もありません。糧(かて)にも参考にもなりません。気取りだけがあり、良心も共感もないからです。
 
節操も知識も分別もない楽山が何か言ってきたら、つきあって、なんだか難しいこと言われた・・という記憶にならないように、明確に、楽山との議論は拒否してください。言い返そうなどと思わないで、ただ、あっちに行け・・と言えばよいと思います。楽山は有害なバグに過ぎないのです。
 
 
 楽山のツイッター紹介文
 
幸福の科学の元会員です。幸福の科学を批判することもありますが、歪曲捏造はせず、公平でまっとうな批判を心掛けているつもりです。よろしくお願いします。無言フォロー失礼。
 
元HS会員も、HS批判も、本当だろうかと疑っています。楽山は、批判者ではなく、いちゃもん屋です。真実の追求という目的を持っておらず、難癖をつけて、相手が困るのを見て満悦するために、批判めいたことを書いてきます。慇懃な言葉遣いも、柔和~謙虚芝居も、そのためです。
 
 
崩壊する理路

崩壊する理路
 
 
(2022年07月22日)
 
 
 
 キーワード:虫
 
 
  オートバイ
 
ドアも屋根もない
回ることしか知らない
不思議な乗り物にまたがって
命を吹き込む
荒々しい響きに身を任せると
すぐに人も景色も
流れ過ぎる風となる
虫や葉やわらくずが
突然に現れては消える
長い直線の向こうに
道は曲がって消える
それから先はわからない
その疑問に向かって
早くもたどり着いた風は
心細い私を乗せたまま
今大地を
傾斜する刃物に変える
 
 
  ひっこし
 
破れて失われた
日記の頁には
何が書かれてあったのか
読めない字
意味のない落書き
詩のようなもの?
 
どこを捜しても見つからない本
ふとこぼれ落ちた小銭
買った覚えのない週刊誌
紐を取ろうとして
けつまずいて倒れた
お腹の上に文庫本落ちる
ほこりが鼻をくすぐる
ボール箱には奇怪な傷
いつのまにか壁にはしみ
窓の外では風が止み
くすんだ青空
虫が横切る
 
はて
どこかで同じような?
 
破れて失われた日記の頁に
何が書かれてあったのか
 
 
  びしょ濡れ
 
ぶらりと歩いて
コンビニでお買い物
空っぽを下さい
 
銀行に入ると
通るべき空間がすでに用意されている
レールよりも複雑だ
時間と音さえ狭い通路
べらんめえ口調ってのはどうだろう
 
映画館でみている
閉じたまぶたの裏を
病のようにギラギラと波打つ闇を
 
公園に座っている
近くの草をむしりながら
意外と落ち着かないものだな
目的がないということは
目的があるということは
どれくらい本当のことかしら
 
君も遠くなったな
太古の昔のことのよう
思い出すというより
まるで想像している
君と僕に接点があったなんて
 
ライトをつける
ポンコツのバイクの音が
夜に響く
 
それよりもチクチクと
無数の虫がライトに飛び込んでくる
 
夏の夜の田舎道
田んぼが見えない
 
ライトが照らす前景だけが
浮き上がって過ぎ去る
 
自分が見えない
虫が当たる痛みを感じる
虫の死を感じない
 
この角は知っている
ふいに曲がるから
 
まだ西の空に
少し夕方が残っていた
夕暮れに連なる道
いつか消えて
 
ライトを消して
エンジンを止めると
沈黙と暗闇の中で
焼かれているものがある
 
ぶらりと歩いて
ドアを開けてふらついた
今日は濡れずにすんだね
実はびしょ濡れなんだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の言うことが一見整っているように見えて、実際は最初から、まとまってもいないのは、相手の言うことを貶すことばかりに専念してきたマイナスの学習結果でしょう。相手が、まともに答えようとして、理路を乱してしまうのが、楽山の狙いです。精神衛生上、楽山との議論は、禁忌なのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  インチキがインチキを語る
 
 2022年05月22日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 イカサマ霊能者とインチキ占い師、それから宗教勧誘の手口
   を批判。
 
 
楽山の嘘がイヌのように盛っています。楽山のインチキが膨らんで破裂しそうです。どこにも、生きる縁のない詭弁や人生が、我を忘れているようです。自分を見ないで、人のことばかり言っていると、こうなります。生きることが、全部、芝居になるのです。楽山の正義面は、ひょっとこです。嘘なのです。
 
 
*裏事情
 ツイッターにて、次のブログ記事が話題になっていた。
・イカサマ霊能師やインチキ占い師の手口まとめ - A Successful Failure
 」
 これが、霊視、占いの現実なのだろうな。
 
インチキは、楽山の現実として、批判記事が3年余り続いています。嘘と詭弁を弄して、痛めつけてくるので、決して、楽山に関わらないようにしてください。
 
 
*可能性
当該記事のコメント欄では、可能性の話が出ていた。
半信半疑
世の中の「自称」霊能者の大半がインチキだろうなというのは推測がつきます。
だからといって、霊や死後の世界など存在しない。
そういうものを知覚できる能力がある人間も居るはずがない。
霊能者など漏れなく100%インチキである。
と、そう断定するのも、盲目的に超常現象を信じ込むのと同じぐらい客観的な態度ではないと思うのです。 ~省略~
 」
 
インチキ霊能者は、楽山です。楽山は、仏様が喜んでいると言って親族に笑われました。嘘と詭弁で、心理学を心霊の話に見せかけました。批判したら、オモチャの理屈で混乱させてきます。長く付き合うと、人格を破壊される恐れがあります。そのような、害毒だけの伝染性病原が楽山です。
 
 
LM-7
天と地ほどの違いがあると思いますが。
たとえば、コインを投げて100回連続して表が出る可能性は確かに存在します。
それを「100回連続して表が出ることなどあり得ない」と主張することが
問題を引き起こすことがあるでしょうか。
単に可能性が小さい事象を無視しただけのことで、これは理に適ったやり方です。
 」
 
楽山は、宗教と信仰についても、このような辻褄の話をして、ときには、印象操作という詭弁を弄して、自分の恣意の方向に誘導してきます。「100回連続して表が出ることなどあり得ない」という命題は、厳密には間違っていることによって、問題を引き起こすかどうかは、場合によって違うはずです。
 
「問題を引き起こすことがあるでしょうか」と言い、数学なのか、賭け事なのか、遊びなのかについて、考慮していないので、「単に可能性が小さい事象を無視しただけのこと」と軽く言って、これは「理に適ったやり方」と言っています。楽山は、この引用をペテンの手口にするのでしょうか。
 
厳密性が、どの程度、問われているかを考慮せず、「理にかなった」とは、ぞんざいな判断です。こういう意見に賛同する楽山は、恐らく、小さい可能性を無視しやすいだろうと思います。これが、楽山の短絡しやすい理路なのです。厳密性を飛ばして、概念の玩具遊びで結論を出しています。
 
実際には、楽山は、大きな可能性だけでなく、実際に、起こり続けている自らの短絡理路の欠陥や、嘘と詭弁で人を迷路に誘導した害悪について、反省せず、全てを無視してきました。言い訳に出してきたこの記事によって、逆に、過去から続いている悪意の不祥事が、楽山の尻に貼りついてゆくのです。
 
このコインの場合は、100回続けて表が出る、という極端な事象ですが、こういう極端な例を挙げて、あり得ない・・を理にかなったと判断したとして、この、おおまかに成り立つ命題を個別のことに当てはめるのは、楽山の詭弁で、しばしば見られてきた特徴です。
 
以前「人それぞれ」だからと自己正当化し、「自分を貫く」のだから悪くないとか、詭弁を書いていました。曖昧な一般則を個別に当てはめたり、限られた個別を一般則のように言う詭弁には、良識が欠けています。楽山は、自らの無責任を無視し、反応も成長もない永久凍土にいるのです。
 
 
「たとえば
「さっきやってみたら100回連続して表が出た」と主張する者がいたとして、
-そんなことは確率上ほぼ起こりえないから嘘に違いないと判断することと、
-確率上は確かに存在するから本当かも知れないと判断すること、
-おお、すばらしい超能力者に違いないと盲目的に信じ込むこと、
一つ目と三つ目が同レベルとはとても思えません。  ~省略~ 
 」
これは、LM-7氏に理がある。超能力者がいるかいないかの可能性は半々ではなくて、いない可能性の方が圧倒的に高いので。
 
判断の正確さのレベルを、嘘吐きで詭弁屋の楽山が決めるのは、我が身を振り返ることの出来ない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業でしょう。こういうところから、楽山の詭弁が始まっていると思います。
 
「同レベルとは思えません」・・嘘、本当かも、超能力、という3つの判断、・・楽山の詭弁には、こういう罠が含まれています。「ほぼ起こりえない」と「嘘に違いない」は、人間関係においては微妙になるのですが、嘘吐きの楽山は、間違いない・・という意識から、決めつけてきます。
 
 
*詭弁
ちなみに、こういう間違いは、他の議論でもある。たとえば、こんな風に。
神はいるかいないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
霊界はあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
生まれ変わりはあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
 
神は、確率の問題にはなりません。信仰は、関係の問題であり、有るか無いかなのです。楽山のような、良心の欠片もない者が、神の存在を、可能性が半々という自体が暴論そのものです。楽山のような反キリストには神はいないのです。信仰者には神が必要だから信じているのです。
 
 
冷静に考えてみれば、これらについては歴史上その存在が証明されたことはなく、事実ではない可能性の方が圧倒的に高いのだけれども、
 
「事実ではない可能性の方が圧倒的に高い」・・楽山の悪意の誘導です。何度も、神は信仰の対象であり、神を事実では証明できないことや、神がいないことの何の根拠にもならないことを書いてきましたが、全て無視する楽山のサイコパス性が表れています。良心がないのです。イカサマだけなのです。
 
 
「あるかないか、答えは二つに一つ」と前置きされると、つい「あるかないか、可能性は半々だ」と錯覚してしまいがちである。
宗教勧誘では、こういう詭弁が使われることがあるので注意が必要である。
 
こういう詭弁で、楽山は、神を否定して優位に立ったつもりの反キリストです。出会わないのが何よりの幸いで、出会ってしまったら、できるだけ早く逃げるしかないです。サディストであり、良心の欠片もないのでしょう。楽山には、門口に待っているものがいるようです。
 
 (創世記、口語訳)
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:7、旧約聖書)
 
 
神は、確率で存在の可能性を論じられる対象ではありません。よいものを何も示せないのに、神に恨みでもあるのか、神否定を書き続ける楽山は、確信犯で凶悪犯です。この先、救いとは何の関係もなく凶悪に相応しい経過を辿るのでしょう。信仰者と求道者を、どこまでも傷つける悪魔性です。
 
信仰者にとって信仰は命です。楽山の遊び半分の心霊趣味で語れることは何もありません。楽山の霊能者気取りや評論家気取りや、心霊や超常は、著しい的外れです。楽山は、一生、詭弁臭とペテン臭が取れないのではないかと思います。
 
神とキリスト教のことを、楽山が書くたびに、学習機能のないことが明らかになります。相変わらず、貧相な概念しか持っておらず、楽山の辻褄が合っても合わなくても、信仰とは何の関係もないことだけを確認することになります。楽山の、無知と無理解と、書き続ける無恥とに、うんざりするだけです。
 
楽山の気持ちが、超常~空想に行って、扱う次元が曖昧になり、言葉だけの引用をすることで、思考自体が迷路化して混乱し、前提も根拠もなく、思いついたままに書いています。楽山を読んで、楽山とともに、精神と文脈が弛緩してゆくのは、錯乱に陥る危険があり、非常に危険です。
 
 
悪意のインチキ

悪意のインチキ
 
 
(2022年05月23日)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
生きてゆくと、学んだものが身に着いてきます。学ばなかった者は、ごまかしが身に貼りついて剥がせなくなります。楽山の嘘と詭弁は、一生続くのでしょう。臨終のときに、楽山は何を言うでしょう。「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」でしょうか。人間の性ではなく、楽山の性なのです。
 
 
 
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