ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:議論不能

 
  不毛な楽山2
 
 不毛な議論からの卒業
 (マグマリのブログを見て思ったこと)
 2021年07月08日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
何処に助けを求めているのでしょう。嘘は嘘を呼んでいるようです。楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの嘘吐きと詭弁が増長してゆきます。
 
 
*愛と平和
 マリア氏のブログを見たら、こんな記事があった。
・人間だけが|マグマリのブログ
人間だけが、信じてる宗教宗派の違いで
排他して血を流す。
神様は、そんなこと願っていないのに。
 」
 
誰か血を流したのでしょうか。歴史のことを言っているのでしょうか。楽山という、神も信仰も知らない人が、嘘を吐いて、今日も、人をだまそうとしています。宗教と信仰を学びたい人は、先ず、楽山から、完全に離れてください。
 
 
・人が、幸せになるには、、|マグマリのブログ
人が、幸せになるには、、、
家族や、周りとの愛と調和が必要です、、。 」
 」
 
反キリスト・反宗教の詭弁屋と、調和は存在しません。楽山は、どこまでも、追及され、神とも、宗教とも、信仰とも、人間とも、縁のない孤独な偽善者です。病質の、異常人格です。百害あって一利なしと言っていい人です。
 
愛と調和、当たり前だがそうはいかないという類です。こういうきれいごとを言う人には、気をつけたほうがよいという教訓になるでしょう。つまり、きれいごとの詭弁でごまかすのが、楽山の体質であり、習性であり、それだけしか出来ないで、満悦するような低劣な人格なのです。
 
 
これは、人を裁くより、愛と平和をとるということかな。
自分の場合は、議論に熱心でなくなったのは、一言で言えば面倒くさいということなのだが、それと比べたらマリア氏はずっと宗教的な考え方をしてるようだ。
 
マグマリとは、自称マグダラマリアのことだろうか。だとすれば、キリスト信仰者ではなく、逆らうと豹変して「プププ」とか「けろっ」とか、変な擬音語か擬態語のようなことを書いてくる怒りんぼカルトだと判断しています。楽山の味方をして、ますます愚かになりたいのだろうか。
 
宗教について話すのを面倒臭いと言っている時点で、楽山はアウトなのです。興味がなくなったからやめるのは、宗教も信仰も持っていないことを表しています。ならば、書かなければいいのに、いちゃもんばかり言っているのだから、信仰を舐め続けてきた責任は、どこまでも追及されるでしょう。
 
 
*不毛な議論からの卒業
「議論は面倒くさい」では格好がつかないので、一応、自分が議論に冷めてしまった理由を書いておくと、それは次の通りだ。
有意義な議論は、数度のやり取りで終わることがほとんどだ。
 
数度の遣り取りで終わるなどということはありません。真実の追求に終わりはないのです。また、都合のよい、見た目、良さそうなことを書いて、己の罪業を、正当化しようとしている楽山です。興が冷めたら止めて掘り下げない軽薄さなら、議論など、最初からするなということです。
 
 
もし議論が長引くなら(批判・反論が止められないなら)…それは相手に腹を立て、感情的になっている証拠である。これではまともな対話が成立するわけもない。早々に切り上げるのが吉。
 
楽山が、こちらを怒らせていることを、あっさり除外している楽山。これが、楽山の詭弁です。自分に向けられそうなことを相手に向けてきます。まともな対話など、楽山相手に成り立つことはないのです。楽山は、社会の敵、自己愛性人格障害、サイコパスだから。
 
 
思想宗教の正しさは客観的に事実確認することはできない。だから議論をいくら続けても決着がつくこともない。
 
著しく、人道を外れている者には、死ぬまで、批判が続いても、おかしくはないのです。宗教の正しさを事実をもって客観的に確認することは出来ないと言う前に、楽山は、まともな議論をしたことなどないのです。詭弁で、信仰をおとしめてくるだけです。ゆえに、楽山は、どこまでも外道。
 
 
人にはそれぞれ個性があり環境も違う。必要とする思想宗教もそれぞれ異なる。自分からみて間違った思想宗教にみえても、それによって救われる人もいる。
 
個性の違いと、宗教の違いを、混同する詭弁です。神に対する最低限の節操というものがあります。楽山には、それが無いのに、キリスト教と信仰を否定して、改めないのだから、宗教者・信仰者からも、全否定されるべきであり、救われる云々ではないです。そもそも救いが何か分かっていない。
 
 
自分は完全ではない。間違うこともある。だから自分の意見を他に強要することはできない。自分は自分の意見を述べるだけだ。それに賛同するかしないかは各人の自由である。
 
不完全を、誰よりも、知らないのが、楽山です。そして、訂正不能に、宗教と信仰への侮辱をしてきたのです。意見を述べるなら責任を持つべきです。楽山は、好きなように言って、責任を負わず、反省もしない非常識の、人でなしです。つまり、人格も能力も劣悪、あるいは、非人間です。
 
「賛同するかしないかは各人の自由」・・当たり前のことです。おかしいことばかり言う人、楽山を、批判しているわけです。こっちの当たり前を、楽山は、分かっていないで自由云々と言っていること自体が、楽山が欠陥人間である証拠なのです。言うだけ言って、後は聞かない・・子供か。
 
 
人が人を導こうなんておこがましい。それは神様の御心によるものだ。
人生は短い。不毛な議論をしている暇はない。
 
楽山は、人を導くのではなく、嘘と詭弁を、人に刷り込み、破壊しようとする者です。今さらの嘘っぱちの言い逃れにだまされてはいけません。楽山を、決して、許してはなりません。今さら、神の御心などと、体のいいことを言っても無駄です。他者の人生を不毛に導いているのが楽山です。
 
実に、長い間、成り立たない悪口を、繰り言のように、繰り返した楽山ですから、完全に黙るまで、批判は続くでしょう。なお、楽山は、すごい暇人だと思います。楽山のような人に成り立つ仕事は、殆どないでしょう。だから、人を欺いて、退屈な時間を過ごしているのです。
 
 
もし重要な異論反論をもっており、そのこたえを欲しているなら、相手に直接言わないではいられないものだ。もしそうしないならそれはさほど重要な話ではないか、相手に面と向かってはいえない悪口にすぎないのだろう。それならいちいちとりあう必要もあるまい。
 
楽山が言論の責任を負わないのは、重要だという認識がないからであるなら、まず、楽山が、何も言うべきではないのです。気色悪い悪口を言っておきながら、批判されると、このような逃げ口上で言い返したつもりになる・・人間として成り立っていません。
 
何が重要かどうか、信仰者でもなく言論者でもない、心なきペテン師の楽山に、分かりはしません。また、楽山の自己愛からの思い上がりの発言が出ています。こちらは、楽山と話し合いたいわけではありません。徒労と侮辱だけを与えてくる無責任男の楽山に、言論する資格はないと言っています。
 
決して、楽山と、直接の遣り取りをしてはいけません。人格と精神を破壊されるからです。楽山の悪魔性を、人間扱いしてはいけないのです。楽山からは、永遠に、縁を切ってください。楽山は、根腐れの、すでに破壊された異常人格です。
 
 
その他いろいろ。
こういう考え方は、「人を裁くより、愛を選べ」という思想からすると、あまりにも現世的にすぎるようではあるが、自分はこれによって思想宗教に関する議論に熱中することはなくなった次第である。
 
真っ赤な嘘です。楽山には、高等感情、即ち、愛、共感、罪悪感、羞恥心、謙虚さ、などが微塵もないことが、今まで表れてきました。楽山は、いつも、ニヤニヤ笑って、口先三寸で、どうとでもなると、高を括っているような、とても傲慢なペテン師です。決して楽山に近づいてはいけません。
 
既に3年以上批判しています。楽山は、批判に何も答えられないのに、言うことだけは止めない。こういう症状は、現実検討能力が欠如していると言います。だから、楽山は、何事も、はっきり言えなくて、それを、柔和みたいに飾ってくるだけの偽善者です。主張にも人格にも軸がないのです。
 
楽山の、あたかも、議論できるかのような、インテリ芝居、今日も全開です。「思想宗教に関する議論に熱中することはなく」なって、「愛を選」ぶなら、とうに反省しているはずです。高等感情の中に、愛があります、共感があります。楽山には、まるで無いものです。
 
人に「愛を選べ」と言いながら、愛を知らず、愛を行わず、鬱陶しい雑言だけを、自己顕示欲でばらまいてくる楽山には、言論の自由はありません。言論の責任を負わないのなら、誰にも見せず、自分の排泄物と付き合って、独りでニヤニヤしておればよいのです。
 
前に、楽山は、殴られるだろうと書いたことがあります。楽山は、どこにも通用しない人です。エスカレートすると、結局、楽山は、殺すか殺されるか、犯罪者か、同情されない被害者になるでしょう。世の中には、乱暴でキレやすい人が、いっぱい、いますから。
 
ゆえに、誰も、楽山に近づいてはいけません。精神衛生を考えて、身を守りましょう。楽山の味方などと思われてはいけません。人間らしい節操と情感を、まるで持っていない楽山、下手に議論仲間などと思ってはいけません。とばっちりは避けてください。今回は、以上、アンチ楽山でした。
 
 
不毛を植えつける者

不毛を植えつける者
 
 
(2021年)
(2022年07月14日、再録+加筆)
 
 
 
  消滅のベクトル
 
味方も仲間もいないことが
自分というものなのだと
細くなり薄くなり掠(かす)れるように
座標から消え失(う)せるベクトルの先を
何によって見ようとしている
 
贅沢病だと言われれば
そうでないことを証明するには
死んでみせなければならないだろうか
 
遠ざかるものが
遠ざかることによって
殺しにかかるなら
黙って殺されてあげようか
 
しかし何の土産(みやげ)もない
天に
何の宝も
未だ積んではいないというに
 
荒廃から崩壊へ
喪失から消滅への
方向しか持たないベクトルに
長さを問う儚(はかな)さよ
 
 
  離人
 
自分の生活の味を忘れ
どこにもいない
他人の生活の味と感じるときから
疑いは始まる
他人の夢を見、
他人の汗をかき
他人の冷汗をかき
足踏みと徘徊を繰り返す
ペンを持って自分を探す
果てしないウソの国を旅する
知らない人になって遊ぶ
そして挨拶する
誰もいない砂漠のはてに向かって
自分という友人に向かって
 
 
  一所懸命
 
森が町になって
町が焼かれて
火事が荒野をつくって
荒野が砂漠と呼ばれて
砂漠が山になって
固まっている
その上に黄色い人がいる
のが見えるくらいの小さい山だ
 
耕して種を蒔(ま)いている
穀物や野菜
果物まで植えている
のが見えるくらいの山だ
 
平地は誰かが持っていった
山をどうしようと持ち主の勝手だ
一所懸命とはこのことだ
山に家を立てる
道をつくる
車が走る衝突する
電気を通す感電する
水道を通す
プールができる
水があふれる溺れる
その上にビルが建って
コンピューターが置かれる
ゲームができる
町ができる
店が並ぶ
次々にビルが並ぶ
 
結局その中で温室栽培している
穀物や野菜や果物を
植えたり埋めたり掘ったり捨てたりしている
 
試験管を扱った手で
酒を掛けて祈っている
アルコールがガソリンに変わる
石油をまき散らす
余ったからだという
ここはどこだ
元々どこだ
黄色い人
 
ここは誰もいない
のが見えないくらいの山だ
 
 
  聖書
 
一般に紙は薄く、頁はめくりにくく、ボールペンで線でも引くと裏から透けて見えること多く、にじんでくることさえある。一般に分厚く、途方もないと思えて、なおかつすべての一行一行に涙流れるわけでもない。メモでもしておかないとすぐどこだったか忘れてしまう。これに一生を費やす人がいるわけだ、と他人ごとのように思う。
 
聖書、バイブル。旧約聖書、新約聖書。文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書、共同訳聖書、リビングバイブル。少なくとも、新共同訳は、キリストの教えを安い道徳におとしめる邪悪な訳です。
 
永遠のベストセラー、というより永く買わされてきたこの書物を全部読みこなせた人がどれだけいるのだろう。たとえそらんじたとしても信仰に保証はないのだ。
開こうとするたび、無数の異国の怪人が現れ、白髪の老人であったり、真黒な眉毛と髭の間にこわそうな目がにらみつけたりする。
 
こりかたまりの戦争の話であったり、道に伏した栄養失調の嘆きであったり、熱くなって爆発しそうな顔であったり、こちらが爆発しそうになったりする。
 
ただときどき、ふだん嫌いな憐れみが命がけで迫ってきて、荒野や砂漠が潤ったりするので、海が割れたり死人が生き返ったりしてこんな頭持ってないと破り捨てたくなるのを、笑えなくする。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「難しいんだよなあ」で、何もかも自己中心の欲望で生きてゆけるなら、楽な分、生きている意味も意義もない時間を過ごしているだけだと分からない楽山です。心が砂漠のように不毛となっても、まだ、一人前のつもりで、言いたいことだけ言いに来る、そして、何も聞かない、とても迷惑な非人間。
 
 
 
楽山の害毒:今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となったパリサイ人や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
 自己愛が強く自己中である。
 自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
 平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
 深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
 後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
 罪悪感、羞恥心が見られない。
 アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
 中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
議論:
 議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
 相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
 理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
 自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
 読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
 様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
 分かっているという我執から離れられない。
 非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
 人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
 真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
 ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
 トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
 しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
 「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
宗教:
 反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
 キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
 HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山のツイッターですが、
 
楽山は、インテリらしい人に意見しています。自分も同じレベルだと言いたいのでしょうか。それ以上の不遜な態度でもあります。楽山は、真の宗教と信仰について、まるで無知で無理解なので、信用しないでください。真剣に学ぶ姿勢も持っていません。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ご存じなかったのですか?
幸福の科学では、大川隆法総裁は、主エル・カンターレという神だとされてます。
それと同時に、仏陀であり、救世主であり、創造主であり、イエスが「我が父」と呼んだ存在でもあるとされてます。とにかく一番偉い神様です。
信者は、これを冗談でなく、本気で信じてます。
午後9:26 · 2022年7月12日·Twitter Web App
 
「ご存じなかったのですか?」・・慇懃無礼に相手を低く見ることと、相手と同じ学識経験者であるかのように教えてあげる姿勢と態度です。こういうところに、高慢は表れます。神と仏を説明していますが、楽山は、神も仏も知らず、冗談半分で揶揄することしか出来ない人です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
幸福の科学では、
・神→高級霊
・預言者→高級霊
という設定になってます。どちらも高度な霊的存在ということ。
ちなみに、人は、主エル・カンターレに創造されたと同時に、仏神の子となってます。つまり被造物と神の子を区別しないです。
2022年7月13日
 
HSについて、知らないようだから教えてあげましょう、という楽山の態度です。いつも、人より上から教えたがる態度です。実際は気取りだけなのです。おだてりゃ木に登る・・いや、どこにも登れません。大方、山の頂上を眺めていただけでしょう。自己満悦を生き甲斐とし、人の迷惑を考えません。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
彼らにとって
基本方針は、祭政一致だから、幸福実現党も幸福の科学も一体でしょう。
また組織の論理は、エル・カンターレ信仰であり、総裁に帰依することが根本です。
有権者は、声を聞く存在というより、教え導く救済対象です。
そして彼らにとっての事実というのは、彼らの信じる霊的真実ですよ。
2022年7月13日
 
楽山は、インテリ気取りでアドバイスをするという独り芝居でしょうか。楽山は、超常現象に興味があり、霊能者気取りで、教祖願望があるようです。アンチなのに、宗教の考え方は、カルト的なことばかり言ってきて、宗教と信仰の真実をまるで知らない似非宗教家です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、間違っても素直に詫びることはなく、自分を正そうともしない。反省しないのは、人間としての良心と知性を持っていないのだろう。自己顕示欲だけが旺盛で、発言は殆どそのためである。罪悪感がなく、批判を無視して、発信せずにはおれない性根は、自己愛性人格障害から来ていると思われる。
 
 
 
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  批判と悪口2
 
 
私は、カルト的な思想を、訂正不能に自己中に一方的に、批判を無視して、妄想的に書いてくる者たちを、以前はコメントで、その後は記事で、批判してきました。
 
彼らは、こちらの言うことを無視して、一方的に、自慢したり、おとしめたりしてくるだけです。はっきり言って、攻撃だけを目的とする記事やコメントには、罵り言葉だけで、汲み取るべき内容も根拠も全くないという特徴があります。
 
私などは、だいたい、結論だけのコメントには、記事で、結論だけだと指摘しますし、それに対して、正当な反論が来たためしがないのが、彼らの、カルト的、自己満足的、妄想的な、一方的主張であります。しかし、大方、訂正不能です。彼らは、真似だけで、本当の議論が出来ないのです。
 
誹謗中傷してくるだけの悪意と自己中の者の根っこには、自己愛性人格障害、などの、人格の病気の可能性があります。生まれて大人になるまでの、遺伝と成長の過程で、出来上がった人格が原因であるならば、医療によって治る可能性も、なかなか、期待できないのでしょう。
 
なお、私の批判記事一つだけを見れば、言い過ぎと思われるところがあるかもしれません。批判対象について、最初から批判だったわけではありません。
 
批判対象シャロームとの付き合いは、だまされて聖書の先生だと思っていた数年と、批判してきた約10年の経過があります。罪は悔い改めなくとも許されるから気にしなくていい、という、とんでもないことを言い出したことで、偽牧師だと判明しました。
 
批判対象の楽山については、数か月のつ遣り取りの後、批判対象となり、約3年以上の批判の経過があります。その流れで批判を書いているので、一つの記事だけで云々されるのは、的外れであります。
 
楽山は、否定を言い、肯定を言って、断定していないから、責任問題は生じない、という発言から、全く議論を理解していない幼稚な病的ナルシストぶりが明らかになっています。
 
いずれも、あるときから、とんでもない理不尽なことを書いていることに気づいて、批判が始まっています。元々知らない人であり、理解も、そして結局、批判も、気づきから始まります。最初から批判で始まるということはないのです。
 
彼ら自己中の者たち、楽山やシャロームは、自分は被害者です、酷い攻撃にさらされました、とか言って、記事を書いてきます。彼らは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そして精神病質サイコパスであるために、罪悪感がないのです。
 
さらに、あくどいのは、一度に、たくさんの記事を書いて、相手が批判して疲れるのを期待する場合もなります。このような企みから、病質者の、根深い病的な性根を見ることもあります。他者のことなど、何とも思っていないのです。その分、彼らの文章も、何の役にも立ちません。
 
 
私のスタンスとして、今では、基本的に、記事は、批判対象が病質者の場合には、反省や罪悪感に期待するのは不可能と思われるので、よりも、むしろ一般読者に向けて、彼らカルト的な宣伝サイトについて、警戒を呼びかけて、近づかないようにしてほしいという目的になっています。
 
彼らの文章は、うわべの言葉や見かけで、受け入れを誘ってくる丁寧語であり、そこに、嘘と詭弁を刷り込んで誘導してきます。関わるだけでも、無駄に疲労し、結局は、人格を破壊される恐れがあるので、こちらは、決して近づかないでください、というアピールをするのが目的になっています。
 
ただ、そういう主旨はもちろん、私の記事の理路についても、自己中で理解力のない批判対象によって無視されるでしょう。いつも、被害者面して、ときに、多量の嫌がらせの記事を書いてきます。しかし、批判と悪口を混同している彼らには、根拠が何もないのです。
 
批判も、罵詈雑言を使うことがあります。その理由は、相手が、全く批判を理解できず、受け取ってもいないからです。私の批判記事は、大方、読者が読むことを意識して書いていますが、加えて、厳しい言い方を批判対象に向けて書いています。辛辣な比喩表現などです。
 
もし批判対象が見ることがあれば、批判対象はお前だ、ということを明確にするために、罵詈雑言≒全否定を書いておく必要があります。このように、罵詈雑言は、根拠を十分に示したのち、コントロールしながら、使うことがあります。
 
相手が、一般的な議論など、全く成り立たない者である場合です。上の二人は、理路を、理解できず、組み立てられず、詭弁と嘘で引っ掛けて、印象を吹き込んできます。さらに、感性的享受ができないので共感が成り立ちません。月並みで平板な文章を書いてきます。正常人とは、全然、違うと思います。
 
 
繰り返しになりますが、私がこの記事を書く理由は、そのように、批判を受け取らず、無視して、好き勝手に書いてくるような者たちが、反論も弁明も出来ないのに、いろいろな事件をネタに、被害者面して、読者に安易に同情を誘うために、何か書いてくる可能性が危惧されるからです。
 
もっともらしい批評家気取りの筆致には、十分、注意してください。結論として、私が思うのは、悪口だけの言と、批判とは全く別だということです。私が批判してきた対象は、記事やコメントで、結論だけを繰り返して書いてくるような、不感不応のカルト的思想の異常人格なのです。
 
彼らの記事自体が、既に、回りくどい雑言と言ってよいような、無益で無意味で、こちらを疲労させるだけの、とても迷惑で、反社会につながるものだから、引き続き、批判対象になっています。
 
 
一般に、罵詈雑言だけの発言というのは、否定の結論だけを繰り返し言い張るだけのような、価値の無いものですから、そんなことのために、めげたり、最悪の場合、死を思ったりなんて、しないでほしいということです。
 
批判というのは、相手を否定する言葉だけでなく、相手の不正について根拠を示してゆくことです。場合によっては、和解が可能です。
悪口というのは、根拠もなく、相手をおとしめる言葉だけを書くことです。和解は不可能であることが殆どでしょう。
 
実質のある批判の中身があれば受け取り、必要があれば反論や弁明も出来るでしょうが、
実質のない悪口だけのコメントに対しては、気にしないでいられる気持ちの強さが必要です。
前者の批判に対して、後者の悪口だけを言ってくる者、サイコパスを疑います。
 
 
批判と悪口

批判と悪口
 
 
(2020年)
(2022年05月29日、再録+加筆)
 
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
 
 サイコパスについて
 
人間は、やってはいけないこと、言ってはいけないこと、などについて、分別を持っているものです。人間に、そうさせているのは、良心です。良心によって、他者と共感することで、悪の道を避けるようになるのです。しかし、中には、良心を持たない者がいます。
 
生まれ育ったときに既にそうなっているのがサイコパスです。他にも、洗脳や、刷り込みや、偏った教育によって、マインドコントロールされて、後転的に良心を失うことがあります。後者は、良心を回復することが可能であるかもしれませんが、難治であることに変わりありません。
 
前から、何度も言っていることですが、人類の敵は、国家でも民族でも集団でもありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
サイコパスは、人口の1~2%いると言われています。それが正しければ、日本には、100万~200万人のサイコパスがいることになります。1クラスに一人となると、少なくはないです。
 
サイコパスには、良心がなく、情緒面では、しんみりとした悲しみの情がありません。サイコパスには、笑いと怒りしかありません。そこからの嘲笑と憎しみ~怨念があります。議論中に、しばしば、笑う人や、あざ笑う人や、怒鳴って返してくる人には、注意が必要です。
 
サイコパスは、理屈を言うことがありますが、整った論理性を持ちません。自分を客観的に見ることが出来ないからです。偏向した屁理屈を言い張ることがあります。感受性については、理性的にも情緒的にも劣っています。自己の発想が、優位性の絶対となっているからです。
 
サイコパスは、反社会性人格障害と呼ばれますが、反社会性は、犯罪傾向が明らかになってから分かることです。サイコパスは、元々は、精神病質の訳で、人格的そして体質的な病態です。自己中心が特徴なので、広く自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害、NPD)と呼ぶべきだろうと思います。
 
サイコパス、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、人を相手にする職業についてはいけない人です。表面的には丁寧でも、付き合ってゆくうちに、疲労と破壊をもたらすでしょう。その段階で気づいても、なかなか手遅れなのです。体質ですから完全治癒は困難だと思います。
 
サイコパスは、思いやりがあるような言い方や態度を見せることがあります。それで要職についている場合もあるようです。しかし、それらは、見せかけの言葉や態度であって、付き合い続ければ、結局は、破壊的、自滅的な、経過と結果をもたらすでしょう。関わらないことが大事です。
 
前にも書きましたが、サイコパスは、単に、自慢好きや、怒りっぽい人、押しの強い人とは、違います。そういう見かけサイコパスの人は、のっぴきならない事態では、途端に、慌てるように、真面目になって、自省し、考えることが出来るからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の書いてくる文章は、なんとなく正しいような気のしやすい文章ですが、よく読むと、根拠がないことや、嘘や、曖昧な言葉を個別のことに当てはめるとか、特殊な言葉を全体に当てはめるとかの、詭弁が含まれています。個人の安全のためには、相手にしないことだけが対策となります。
 
 
 
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